special issue :「Ms.NO TONE」特集


 special issue : 特集1 Ms.No Toneについて/主宰者の平松れい子インタビュー

その1:Ms.NO TONEについて
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演劇ユニット : Ms. NO TONE (ミズノオト)
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Ms. NO TONEのコトバの意味は、「音痴」。
これは、視覚中心に細分化されてしまった現代に生きる私たちのことです。
これからは、聴覚中心による全体感覚の世界へ。
聴覚は、視覚よりもっと個人的なもの。
音は、昔からさまざまな感情や記憶をかきたてる力をもっていました。
原始的なメディア「演劇」を通して、音を聞き、気配を感じてもらう。
そんなことができたらとたちあげた演劇ユニットです。


作品暦

1999The Maze inside Telephone Line
「電話の迷宮」1999年シアタートラム

2000 Music Is Not A Music
「音の地図〜三島由紀夫「音楽」より〜」2000年クラブエイジア、
  京都大谷 ホール(東京都千年文化芸術祭参加作品)

2001 Brecht Bertolt's The Decision
「処置」2001年利賀芸術村

2002 Buried Alive in the Blues
「生きながらブルースに葬られ」2001年セッションハウス

2002 サウンド・ウイーク・オペラ 芭蕉
2002年 11月2日〜11月4日 台原森林公園・仙台文学館



1999 The Maze inside Telephone Line 2000 Music Is Not A Music 2002 Buried Alive in the Blues


2002 サウンド・ウイーク・オペラ 芭蕉
2002年 11月2日〜11月4日 台原森林公園・仙台文学館
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その2:主宰者の平松れい子インタビュー
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Ms. NO TONE主宰/平松れい子(役者・演出家)

1985年より劇団SET作品に参加。
1999年 Ms. NO TONE(ミズノオト)プロデュース第1回公演。
2001年 利賀芸術村 優秀演出家賞受賞。

 雑誌「演劇人」2001年8月号
第2回利賀演出家コンクールでの
優秀演出家賞受賞の記事。



TERA(以下:T):まず、平松さんが演劇をする事になるキッカケを教えて下さい?


平松(以下:H):当時『YMO』の坂本龍一が好きで『高橋ユキヒロのオールナイトニッポン』に『S.E.T(スーパーエキセントリックシアター)』の人達が出てラジオ劇をやってたんですね。「面白い人達だな」と思って。『YMO』と一緒にレコードとか出してたんですよ。『YMO』が音楽を作って『S.E.T』がコントを作ってっていうレコードで。それが面白くて、お芝居なんて全然興味なかったんだけど観に行って、舞台にそっから引き込まれてしまったって感じですね。

T:実際『S.E.T』に参加するのは、それからどのぐらい経ってから?

H:それを観て、この人達と一緒に「ものを作りたい」と思って。別に女優になりたいとかじゃなかったんですよ。その年にオーディションがあったんで、その年に受けて、入りました。

T:それが1985年。

H:そうですね。

T:入って、まずやった事って何ですか?

H:えっと、転換ですね。芝居の「し」の字も知らなかったんで、暗転中に道具を動かしたりって事をしながらレッスン。バレエとか歌とか演技のレッスンとかっていうのは規則的にあったので、それをやってました。

T:実際に舞台に上がるのは、少し経ってからですか?

H:「若手公演」っていうのが必ずあったので、入った年ぐらいにはもう上がってましたね、初めて。

T:それはどういう劇だったんですか?

H:『マリー ただ愛のために』というですね、オリジナルの。港の女の役でした。

T:最初、舞台に上がった時は、どうだったんですか?

H:やっぱり照明が気持ちよかったですね。一緒にやってる人達が面白い人達だったんで。すごい楽しい芝居作りでした。

T:公演は、どのくらいの期間で。

H:もう1年に3、4回ずつ。コンスタントにやってました。

T:若手じゃなくなる時期って?

H:『S.E.T』は男性劇団なんで、女性は良い子は若手でも使うので、たまに抜てきされて本公演でも良い役やったりしてましたけど。それも作品によりけりですね。あと音楽好きなので、結構そういう面では重宝がられてましたね。

T:というのは?

H:小さい頃からピアノをやっていたので。他の人はあんまり楽器とかは得意じゃなかったので、そういうリズム楽器とかを担当したりしてました。舞台上で、バンドのお話の時とかは役に付いたりしてました。

T:結構、その時期は好きな事が出来てた?


H:ホント楽しかったですね。やっぱり『S.E.T』に入って5年目ぐらいまでが、ほんとに楽しかったですね。一番、団体として組織として、力のある時期だったんじゃないかな?と思うんですけど。その時期に吸収した事が今でも、役に立ってる感じですね。

T:5年経って、90年代に入って変化みたいなものは?

H:そうですね、90年代に入ってから、『S.E.T』の中でも、本公演以外に自分達で集まって好きなものを作る『オフセット』っていうのがあったんですけども、それで自分でも演出し始めたりしてましたね。アトリエ公演とか。短い作品なんですけども。

T:最初に手掛けた作品は?

H:最初は短い作品で『リズムヘキ』っていう作品があって。要するに何でもリズムを取り入れて、その内、自分の心臓の鼓動にさいなまれて死んでしまうというマニアックな作品で。全然『S.E.T』っぽくはないんですけど。まあ、それやってて楽しかったですね。それをタップでやったんですよ。

T:その他に、自分でやったものは。

H:他には、マンガ家のフクヤマヨウジさんっていう人がいて、その人が以前マンガで描きおろした作品を戯曲に書き直してやりましたね。『アデイ』という作品で、新宿の『シアタートップス』でやりました。

T:自分の『オフセット』を続けて、自分の中での変化はあった?


H:そうですね。やっぱり自分で作り始めてから『S.E.T』の良さも取り入れながらも方向的に、人が観ても全然違うものに出来上がっていったので。やっぱり5年過ぎて『S.E.T』が、年齢差が激しくなってきちゃって。若い子は18才、三宅さんとかはもう50才近くになっちゃってて、方向性が定まらなくなってきちゃって、組織全体のエネルギーが下がってきてしまってたので。自分の人生を犠牲にしてまで、これ以上ここにいても、どうだろうかな?って事で、95年に辞めました。

T:すんなり?

H:そうですね。すんなりって言うか考えていたんですけれど、やっぱり辞める機会って言うのは10年も居ちゃうとなくて。ある時公演の稽古をやっている時に、「あ!今、言おう!」と思って座長に言いましたね「辞めます」と。

T:そこからの生活って言うのは、どういう風になって行くんですか? 

H:『S.E.T』を辞めて始めは、座付作家の大沢さんという人が居て、その人が所属している事務所で制作のお手伝いとか。後はミュージカルの演助とかやってましたね。

T:それで、自らの主宰する団体、演劇ユニットを立ち上げるまでは、どれくらい?

H:ずっと「何かやりたい」と思っていたんですけれど、やっぱり自分で、自分独りで1から立ち上げるやり方が分からなくて悶々としてたんですけど。「何か、やらなきゃな」ってきっかけみたいなのは「トミートランティーノ」だったんですけど。ぶらぶら、NYとか遊びに行って、たまたま機会を得て、トミーに会いに行って、ちょっとショックを受けて「何かやらなきゃな」って言うキッカケみたいなのを貰って、それから2年後に初めてのプロデュース公演をやりました。

T:作るにあたって、何か考えた事って言うのは?コンセプトとか?

H:1回目のですか?

T:そうそう。

H:1回目の公演は、実は『S.E.T』の座付作家に書いて貰ったんですね。どこかやっぱり『S.E.T』を引きずった作品になってしまっていたと言う感じですね。終わった後に考えてみると、その中でやっぱり自分なりのフレッシュな表現方法とかを模索しながらやりましたね。だから、その時は自分自身が何を表現したいのかという事よりも『SET』から、いかに自分を切り離して新しい物、新しい物をやろうかっていうそっちの方にばっかりエネルギーが行ってたと言う気はしますけれど。

T:この演劇ユニット名『Ms. NO TONE/ミズノオト』って言うのは、どこから来てるんですか?

H:やっぱりですね、演劇よりも実は音楽が好きで、でも演劇の持っているそのドラマ性みたいのが切り離せないんですけれども、そんな切り離せないながらも、今の演劇スタイルの射程を超えたもっと音楽的な演劇って言うのが出来ないかなって模索していて。「音楽って言ってもどうなんだろう」って事で、トーンのない人で音痴って意味なんですけれど『Ms. NO TONE ミズノオト』と書いて、「そうゆうコンセプトのお芝居を作っていこうかな」という所でそういう名前にしました。

T:1回目の公演の『電話の迷宮』なんですが、内容的には?


H:『電話の迷宮』はですね。主人公の家にある時、1本の電話がかかってきて、その電話の主は分からないんですけど、その声に主人公が翻弄されていって、最後、その電話の声に殺されてしまうというお話で、だから何か一種のその生声とか肉声とかの意味合い、本当の肉声とは何だろうか?電話の声、要するにテクノロジーを通した声が、何処まで人の心に届いているのかといったような事がテーマでやりました。

T:最初の公演『電話の迷宮』で苦労した点は?


H:全てですね。はい。一から分からなかったんですけど。S.E.Tの時に、結構、いい劇場でいいスタッフでやったんで。「いい」というのはお金のかかるという、スタッフとやっていたので。その同じような感覚で人を雇い、劇場を借りやっていたら、物凄い借金をかかえて、その後、一年間は芝居は出来なかったですね。あとは、だから、一人なんで、劇団じゃない分、全部、制作から演出まで全部やらなきゃいけないというのが大変でした。

T:翌年2000年の『音の地図』というのが、第2弾としてありますね。

H:『音の地図』に関しては、三島由紀夫の「音楽」という作品に私が惚れ込んでいて、そこに出て来る主人公の人の役を私がやりたくて、作ったような作品なんですよ。難しい観念的な作品ではあるんですけど。凄い心を打たれる所があって、どういう所に心を打たれたかというと、主人公の女の人が音楽が聞こえないというお話なんです。それで精神科医の所に訪れて、普通にしゃべれる声は聞こえるんだけど、音楽だけが聞こえないって言って。まあ実はそれは不感症の比喩だったんですけども、それをもうちょっと音楽的に考えて、実際に音楽が聞こえない人っていう事で作れないかなあと思って作った作品です。

T:『音の地図』を製作する点で、苦労した点はありますか?


H:1回目に借金を作ったので、何となく自分が続けられる為には、やっぱりお金は節約しなくちゃいけないっていうのが、分かっていたので、そういう人達を新たに集めましたね。でも、別にお金をかけないっていうか、お金を払わなくていいと言ってくれる人でも、やっぱり物凄い情熱を持って参加してくれたりしていたので、実質は、その公演が第一回といってもいいのかもしれないですね。

T:この第2弾『音の地図』により、次が見えてきたような事は?

H:あの、エンタテイメント。まあ、お客さんが、観に来てくれたお客さんを楽しませなきゃいけないって事はあるんですけど、でも、人に別に頼まれて、何かを頼まれてやっているわけではないので。それじゃあ何の為に表現しているのか?って考えた時に自分の中に表現したいものがあるから、表現しているので、それを模索した上で、作品を作っていこうっていう風なスタイルですね。はい。そういう作品作りをしていこうという風な発見ですね。

T:それで2001年は、ブレヒトの『処置』を取り上げる訳ですが?

H:これはですね。ブレヒトは、凄い私の感覚的には、古い演劇界の人達が好きな作家だなあという感じで、あんまり手つかずだったんですけど、ふとしたキッカケで本屋さんのブレヒトの教育劇集という戯曲集があって、それをパラパラめくった時に、「この人、何て新しいんだろう、何て新しい事をやっていたんだろう?」っていうのがあって。要するに観客を舞台の垣根を取り払うっていう、今もさんざんやってますけど、寺山修司とかもやってますけど、それを100年前のベルリンで、この人が、あらゆる手法でやっていたって事を本屋さんで知って、「これを題材に、何か自分の表現方法でできないかなあ?」と思っていた所に、利賀村の演出家コンクールというのがあって、そこの題材戯曲の中に、ブレヒトの『処置』というのが、入っていたので、これは、機会をもらったという事で、手を付けてみようかなあと思って、やったんですけど。その時もやっぱり、一ヶ月くらいの稽古で稽古していく中で。あの難しい話なんですよね。政治劇で、共産党党員が、一生懸命、その自分達の理想を貫く中で、同じ党員の仲間が、少しでもはずした行動をした為に、粛正を、だから、殺してしまう。それが、善なのか悪なのかというのを、お客さんに問う。っていう作品なんですけど、その時の私の最終的な方向の考えとして、やっぱり声だったんですね。その人の声を、共産党党員の若いがゆえに、行き過ぎた行動をとって、それが党員にとっては、良くないという事で、それを殺してしまうんですけども。結局、声を殺してしまったという演出をしまして。スピーカーとかを持込んで、音の演出とかもやって、結構評判を得て、運良く、賞とかもいただいたんですけど。

T:この賞。利賀芸術村の賞を取った事によって、何か変化はありましたか?

H:やっぱり、誰にも頼まれずにやっていると、段々と指針がなくなってくるんですよ。まあ自分で確信は持って、やってはいるんですけど。やっぱり何かしらの評判とか人の意見とかっていうのは、貴重なんで、利賀村っていう所もある種、特種なところで、もう本当にコアな演劇人の人達が集まる所なので、そういう所から評価をもらったっていう事が嬉しかったですね。だから、私みたいにSETという非常にポップというかマスコミ受けする劇団に10年もいた人間が、そのコアな演劇人村で賞をもらったっていう事が、物凄く嬉しかったし、その面白いというか、人の心を打つものは、垣根とかはないんだな?って感じましたね。

T:1999年から3本やって、年に1本のペースは、少ないという事はないんでしょうか?もっとやりたい欲求はありますか?


H:それは、もっとやりたいですね。もっとずーとやっていたいですね。だから、1回やる度に、分かる事があるので、自分の到達点、本当にやりたい事みたいなものに、どんどん近づいていくっていうのは、分かるんですけども、でもやっぱり、1回やるとへとへとなんですよ。自分で1人でやらなきゃいけないいんで、1回やって、それがまた、自分の中で完成形ではないし。自分の到達点に達する為の過程でしかないので、それは、機会があれば、ずーとやっていたいですね。でも、1回につき必ず赤字なので、それは、難しいですね。今の事情では。演劇事情では。

T:という事は、1本やる為に、お金を溜めて。


H:そうですね。あとは、人を集めたりする時も、人の時間を1ヶ月拘束するという事なので、なかなかそうそう軽い気持ちで、一緒にやるって言ってくれる人はいないので、そういう期間とかは、必要なんですね。そこが劇団じゃない分、面倒な部分ではありますけど。ただ劇団にしてしまうと、別の嫌なしがらみとか、後は、その、この役を与えなければいけないっていう変な作品以外の所で、変な気を使わなければいけないので、重たくなってくるんですよね、作品自体が。もっとこう、軽やかに作品は作っていきたいなあっていうのがあるので。劇団にはしないですね。

T:そして、2001年の『処置』の後、暮れに1本やってますね。『生きながらブルースに葬られ』これが4本目?

H:やりましたね。これはもう、やるかどうか迷っていたんですけど、せっかく賞を取ったんだから、やれる時にやっとけみたいな事を周りの人に言われて。背中を押されてひーひー言いながらやった感じで。でも私の中ではやりたい役があって、その為にしたためていつかやりたいと思っていた作品なんですけど。

T:『生きながらブルースに葬られ』は、内容的には?

H:これは、その音楽の意味みたいなのを自分の中で追求したかったという事で、あのロックスターの話なんですけど。要するに世界中で売れた、元ロックスターが落ちぶれて、どっかの島に自分の家を築いて、そこで暮していくという話なんですけど。その、レコードを大量生産されたレコードとか、その意味とかで、その人自身が最終的に狂ってしまうんですけど。その人は、やっぱり狂っていて「自分が宇宙から来た」という風に言っていて、面白いんですけど、はい。まあいわゆる、大量生産される音楽の意味みたいな事を問う作品でしたね。はい。

T:本は?

H:もとになっているのは、村上龍の『悲しき熱帯』という短編の一部を大幅に書き換えた作品です。

T:基本的にはオリジナル?

H:そうですね。

T:その1年後の2002年は、仙台の芭蕉ですね。タイトルは『サウンド・ウイーク・オペラ 芭蕉』。

H:そうですね。これは大変でしたね。仙台ですからね。交通費もかかるし、後は、もともと私に声をかけてくれた美術家の人がいるんですけど、途中で病気になってしまって、その人が来れなくなってしまったんですね。ニューヨークのアーティストなんですけど、もう60過ぎの人なので、ニューヨークと仙台の往復するのは、かなり辛かったようで。最終的には私に託されて、やる事になったんですけど。まず仙台で制作を集めて、あと前々から一緒にやりたかったダンサーの3名は東京から一緒に連れていく事にして、仙台の目の見えない語りの人と、後はミュージシャンと現地の劇団員の方を何名か誘って、現地入りして、2日目で作り上げたっていう作品ですね。これも「芭蕉」をテーマにといいだしたのは、その前田さんという美術家の方だったんですけれど、最終的に私に託されてからの解釈としては、やはり音を詠んだ俳句が非常に多いという所に目を付けて、自然の音をどういう風に江戸時代の人達は、聴いていたかのかっていう所で作品を作ってみましたね。その目の見えない方に、俳句を詠んでもらったというのも、そういう耳の使い方していたんじゃないかなあって思って。それで、皆もそういう耳の使い方を出来るのかなあ?という所で、公園の中でやりました。

T:実際やってみたものと、想像していたものとは?

H:えーと、公園が結構広い公園で、森林公園なんですが、その公園自体を舞台にして、案内板を立てて、お客さんに地図を渡して、それが、音の地図になっているんですけど。それで、音の方向を辿って、パフォーマンスを観れたり、語り部に出逢ったりっていうお話だったので、それは物凄い効果的で面白かったなあと。例えば、足型をどっかに置いて、3時の方向に「水の音」とかって、書いてあると、「水の音」の方向に進んでいくとか、っていうテーマパーク的な感じでしたね。だから来てくれたお客さんは、少なかったんですけど、凄い不思議な時間を過ごしたという風な感想が多かったですね。

T:それで、この頃から、あの映画の話が浮上してきましたね。


H:そうですね、2002年。はい。

T:SETを辞めて、トミートランティーノに逢いに行って、舞台をやるキッカケを貰って。そのトミーとの再会。という事で、映像作品として、自らの旅を取り上げる事になって。最初に思った事は?

H:映画。そうですね。その時には、もう自分をいくらさらけだしてもいいなって気にはなっていたので。どこまで、その生な部分が撮れるのかなっていう、出発点はそんな感じでしたね。あとは、トミー自身に逢うのも、もの凄く楽しみだったし。被写体としてのトミーも物凄い存在感あるから、その事で観てくれた人に絶対何かを訴えてくれるだろうな?っていう確信はありましたね。だから私が、その芝居を始めるキッカケになったようなエネルギーみたいなのを映像からも発せられるんではないかな?という思いはありました。

T:今後、映像作品に関しては、何か構想はありますか?

H:そうですね。楽しかったですしね。舞台だといろんな人の感性が集結する面白さがあるんですけど、映像はやはり集中した人間のセンスが表れやすいものじゃかな?というのがあったので、このツールで何か作ってみたいというのはあって。トミーのはドキュメンタリーだったんですけど、別の形の作品も作りたいなと思いますね。

T:でも、平松さんの舞台は、割と映像的なものが多いですね。音と映像と。


H:そうですね。良く言われるんですよ。映像っぽい作品だったって。舞台がね。それに関しては、ほめ言葉とは思っていないんですけど。舞台は舞台なんだから、それなりの舞台の良さを出さなければいけないと思っているので。元々でも、自分が観るものも、実は舞台はあまり観ていないですね。正直言って映画の方が好きですしね。


平松れい子さんのの詳しいインフォメーションは、HPをチェックしてみて下さい。
オフィシャルホームページ→http://www.notone.org/


 special issue : 特集2 『UBU7』(2003.9.5 法政大学学生会館大ホール)


『ユビュ王』原作ストーリー
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 舞台はポーランド。ポーランド王位を略奪したユビュは、妻のユバと共に金にとりつかれて人殺しを重ね、ついにはユバがユビュを戦争へとかりたてる。今度はロシア王位を略奪しようというのだ。
 だが戦いに敗れて、逃走。国を追われ、あてのない旅に乗り出すユビュたちに悲愴感は全くない。行く手には、「美食の国フランス」があるからだ。
 この話が書かれた当時、ポーランドという国はロシアに併合されていて、当時地図上には存在しない国だった。国家として消滅していて、実際には存在しない、コトバとしてだけある国だった。
 1896年パリ初演の時、ジャリは前置きの演説で行っている。「これから始まる芝居の舞台はポーランド、すなわち『どこにもない』ところであります」。
※この作品は同じ戯曲を7つのカンパニーが交互に上演するUBU7演劇祭の参加作品です。



その1:『UBU7』映像コメント/平松れい子
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Message Movie


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「UBU7」official HP

http://www.ubu7.info/



その2:『ユビュ王』映像コメント/出演者の皆様
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その3:『ユビュ王』ダイジェスト映像 (2003.9.5 法政大学学生会館大ホール)
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