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TOUR CLIMAX 2003.5.9 [DVD] (タワーレコード限定販売) 2003.8.6/bounce records/ mochiv-001/¥3675(税込) ■すべて、2003.05.09 東京SHIBUYA-AX収録 オフショット映像も収録 LIVE 2003.5-6.7.9[CD]
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#14
特集 :MOJO CLUB
三宅伸治、谷崎浩章、杉山章二丸の3人による伝説のバンド「MOJO CLUB」
3月に「復活?ライブツアー」を行うMOJO CLUBの特集です。
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#14 LIVE : 04.02.27/大阪城ホール/ 続ナニワサリバンショー(http://www.funky802.com/naniwa2/) LIVE : 04.02.29/下北沢LADY JANE/斎藤ネコ・カルテット DISC : 04.03.03/Dr.StrangeLove NewAlbum「The river of blue blood」& 緊急ライブ知! LIVE EVENT : 04.03.06「moment jam session #2」開催のお知らせ Web site : 「radiofish」(http://www.moto.co.jp/radiofish/) 連載 TERA'S SOUNDTRACK REVIEW/KIKUCHI'S BOOK REVIEW |
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momentに関連したミュージシャン、バンド等を紹介します。
門 秀彦
/ Hidehiko
Kado
門秀彦さんの過去から現在までを辿ったロングインタビューです。
(2004年1月16日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)
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僕が『AOP』というので、前やってたんだけど「命」っていう意味なんです。何か1人でつくり出すものではなくて「誰かと交流する事で生まれてくるもの」というか、個人からじゃなくて誰かと誰かの間に生まれる子供みたいな。子供って僕だけじゃないじゃないですか。相手と半々入ってて、それ独自の個性が生まれるみたいな。 TERA:(以下、T:)それでは、よろしくお願いします。生まれと場所を教えてください。 門:(以下、K:)場所は、長崎県長崎市内ですね。 T:兄弟とかは? K:兄が1人います、4つ上の。 T:小さい頃は、どんなお子さんだったんですか。 K:小さい頃は、あんまりしゃべらない。しゃべるのが苦手でしたね。すごく小さい頃は、ほんとに家の中で遊んでて、うちの両親が洋服の仕立てをやる職人なんですけど、二人とも。家でやってて、その近くに足元で遊んでるって感じで。 T:兄弟は仲は良かったですか? K:うーん、普通ですね。そんなによくもないのかな。まあ、普通です。 T:小学校、中学校と何か好きな遊びとか趣味とかは? K:僕は、両親がろうあ者なんですけど、小さい頃は両親の友達とか遊びに、ろうあ者のおじさんおばさんが。兄貴は外にばっかり遊びにいく子だったんですけど、僕は家にいて、お父さん、お母さんは仕事を忙しくやってるんで、相手してもらいにいって、その中に絵を描くのがすごく上手なおじさんがいて、そのおじさんと絵を描いて遊んでたんですよ。それがあって、保育園とかに行って友達つくろうとかってなるじゃないですか。でも、一緒にサッカーしたり野球したりっていうのがなんか苦手で、絵描いてあげてたんですね。それで、「僕も欲しい」とか来ると、「じゃあきょう夜描いて、明日あげるから」っていうのをずっとやってて。それがもう癖になっちゃって、小学校に入っても、大体自分の描いた絵を朝からみんなに。漫画ですけどね、そういうのを描いてやってましたね。 T:どんな漫画を描いていたのですか。 K:漫画は、テレビの。仮面ライダーとかウルトラマンとか。僕の絵は、大体原っぱとか森の中とか、家があってその庭とかっていう風景があって、そこにいっぱい出てくるんですよ、仮面ライダーがいっぱいいたり。そういう1枚の中に物語をつくるような絵を描いてて、そういうのをあげてましたね。 T:じゃあ、図画とか美術とかの点はよかったんですか。 K:いや、駄目でした(笑)。描くのがやっぱり早いんですよ。それで大体、友達の似顔絵を描きましょうとかって、大体2週に分けて4時間ぐらいで描くって感じなんですけど、僕は大体最初の日の1時間目に終わっちゃうんで、その後遊んでるとそれで怒られて、態度が悪いって。僕だけ普通みんなが1枚描くところを、僕は3枚、4枚描かされてましたね。 T:中学校の時ですか? K:小学校ですね。中学校もそうですね。美術の成績悪かったですよ。3ぐらいじゃないですかね、最高で。 T:中学の時は何か部活とか、趣味とかは。 K:やってないですね。部活はやってなくて、ほかに遊んでたのは、自分たちでラジオ番組とか作って、結構やってた人いるかもしれないんですけど、実際電波を飛ばすんじゃなくて、2時間テープとかに取るんですけど、僕は放送作家でしたね。台本書いて。 T:ラジオ聞くのが好きで? K:そうですね。深夜放送とかも聞いたし、FMとか、中学ぐらいになると音楽番組とか聞いてましたね。 T:中学時代はどういう音楽を聴いてたんですか。 K:中学は、佐野(元春)さんとか大澤(誉志幸)さんとか、日本人だとそうですね。最初はやっぱり日本の歌謡曲から、そういう日本のその当時のロック系のミュージシャンを聞き初めて、それからビートルズですね。ジョン・レノンがすごい好きで。 T:ライブに行ったりしました? K:してましたよ。徹夜で並んでチケット取って。佐野さんはよく行きましたね。あとは何に行ったかな。大澤さんとか。 T:それは高校の時? K:そうですね。中高ぐらいですね。中学の終わりぐらいから高校ですかね。 T:高校はどこだったんですか。長崎ですか。 K:長崎です。 T:高校出ると? K:高校出ると、横浜のパン工場で働いてました。ヤマザキパンで。 T:なぜ、いきなり横浜に? K:高校の時に、「高校美術展」というのがあって、「それに出せ」って言われて出したんですよ。そしたら、それが賞とか取って、長崎県最優秀賞みたいなのを取ったんですよ。それがあって、美術の先生の紹介で、最初は東京のデザイン事務所のアシスタントを探してる先生の知り合いがいて、そこの「アシスタントを探してるから、おまえやるか」とかって言われて、「やります」って言ってたんですよね。そしたら、高校3年生の最後ぐらいに、「専門学校の生徒を採るから、やっぱり要らない」とかって急に言われて、「何だよ」って感じで。もう最後だったんで、そこから就職活動っていっても何もなくて。だからそのときに、求人が学校に来るじゃないですか、求人案内みたいなのが。その中で一番簡単に入れそうで、あんまりやる気がなかったんですね、それで落ち込んでて。何もやる気がないんだけど、だれも友達がいないところに行こうみたいな。知り合いも友達も何にもないところに行こうかなみたいなのがあって、それでそこにしました。あんまり何をやりたいかというのは全く何もなかったですね。 T:横浜に来た時は、別に違和感なく生活してました? K:ただでさえ、僕、あんまりしゃべるのがそんなに得意じゃなかったんですけど、方言で、全然言葉が通じなくて。東京の人だけじゃないんですよ、そこって。いろんな地方から来てるじゃないですか。だから、よほどきれいな標準語を話さない限り、みんなに伝わらないんですよ。ほんと、さらに口下手になっちゃって、まずいなみたいに思ってたんですね。 で、僕が最初に入ったときは寮に住んでて、同室のやつが大阪の子だったんですよ。そいつに怒られまして、「もっとしゃべれよ」みたいな。それで、毎晩関西弁のレッスンを受けて、関西弁ってちょっと話してもすごい、何というんですかね、人込みを押し分けて入っていくようなパワーがあるじゃないですか。覚えたての関西弁でしゃべってたら、結構関西弁ってすごい伝わるんですね、東北の人#でも。これはいいと思って、関西人だと思われてましたね。 T:実際、パン屋での仕事っていうのは、どういう仕事だったんですか。 K:僕は毎日夜勤で、パンができ上がってくるじゃないですか。食パンとかあんパンとかクリームパンとか。あれが、夜中の3時、4時ぐらいからでき上がってくるんですよ。朝、僕らがパン屋さんとかに行くと、パンが並んでるじゃないですか。あの辺のやつが、その頃に出来て来るんですよ、夜中の3時、4時ぐらいに。それを伝票を見ながら、あんパン3個、食パンが何個みたいなのを箱に仕分けていく、そういう仕事をしてましたね。だから、夜会社に行って朝帰ってくるみたいな。 T:その時も絵は描いてたのですか。 K:落書きですね。落書きは描いてましたね。 T:その時の絵は、今の絵とは違う感じの絵なんですか。 K:どうですかね。あんま覚えてないですけど、前もそんなに変わらないかなっていう。 T:もう残ってないんですか。 K:残ってないですね。ノートに書きなぐるみたいな。 T:それで、パン屋さんは何年ぐらいですか。 K:パン屋さんは3、4か月でやめて(笑)。 T:その後は? K:その後は、僕が高校の時に付き合ってた女の子がいるんですけど、その子と別れもせず遠距離恋愛をしてたんですけど、その子の親の紹介で、福岡のお好み焼き屋さんに入りなさいみたいな。社長と知り合いだったらしくて。それで、何日に行くようにしたからみたいな話があって、今月中にパン屋さんはやめなさいみたいな話で。そんなに大きな夢も希望も別に、パンの仕分けにかけてませんでしたから、わかりましたって言って行って。お好み焼きを焼いてましたね。得意です、今でも。 T:福岡で、それがどのぐらい続いたんですか。 K:それは1年ぐらいですね。お好み焼き屋で働いてるときに、僕のすごく仲のいい、小学校から友達のやつがいるんですけど、その子が福岡のデザイン学校に通ってたんですよ。たまにお好み焼きを食べに来てくれてて。その子は、僕が描く絵がすごく小さいころ好きで、僕の家に来てはこの絵をちょうだいって持って帰るやつだったんですけど、その子が建築科に通ってたのかな。で、デザイン学校の文化祭みたいなのがあって、デザイン科の人たちの展覧会みたいなのがあって、それを見た帰りに来てくれたらしく、僕が焼いてあげながらしゃべってて。そのときに、門君の絵のほうがいいよみたいな、全然いいみたいな感じで。うちの学校に来なよみたいな。それから、またふつふつとそういう学校に行けば、卒業すれば、そういう仕事につけるのかもしれないみたいな、軽いやる気がわいてきて、それでまた絵を描き始めたんですよね、さらにたくさん。そのときも寮に入ってたんですけど、寮でずっと描いてて、店長に見せたり。そのお好み焼き屋のアルバイトの子とかに見せたりとかはしてたんですね。それで、いよいよ学校に行きたいって思い出して、店長に相談したんですよ。絵の学校に行きたいんで、お金をためてから行こうと思ってたんで、「お金ためたいんで、お好み焼き屋を辞めたいんですけど」みたいな。 T:それは20歳ぐらいですか? K:19ぐらいですかね。そしたら、快く「頑張れよ」みたいな。で、そのとき、うちの兄貴が名古屋で#鳶をやってたんですよ。兄貴に相談したら、おれが親方に言っとくから来いみたいな話で、すぐ行きまして。 T:名古屋に? K:はい。それはね、1週間ぐらいでやめたんですよ。兄貴と大げんかして。仕事は全然よかったんですけど、ちょっと兄貴と大げんかしまして、殴り合いの。お互い血まみれの。 T:壮絶で。 K:壮絶なけんかをしまして、それで長崎に帰ったんですよ。 T:出てって? K:そこ出ると住む所ないですから。お金もなかったんで、そのまま長崎帰って。それで、求人を探して、今度は長崎の佐世保のハウステンボスって今もありますけど、当時建設途中だったんですよ。そこのアルバイトがあって、住み込みで。そこに行って、電気工事をやってましたね。ホテルヨーロッパっていう、真ん中にあるシンボル的なホテルがあるんですけど、あそこの地上何十メートルぐらいのところの、ビルをライトアップする街灯があるんですよ。そこの工事とかやってましたね。 T:すごいですね。 K:それやってましたよ。 T:高いところとか大丈夫なんですか。 K:大丈夫です。恐いですけどね。すごい揺れるんですよ。 T:それで、そこでの仕事はどのぐらい。 K:それは半年ちょっとやってたら、工事が終わっちゃったんですよ。それで、どうしようかなとかって思ってて、今度はそこをやめて清掃のバイトをしました。長崎の三菱造船所っていう、日本で一番大きい造船所があるんですけど、そこで飛鳥っていう客船をつくってたんですけど、そこの工事中なんですけど、その中の掃除っていう仕事があったんですよ。それをしばらくやってましたね。 T:そこで、絵は。 K:その頃は、そんなにいつものように落書き程度で。落書き程度かな。そうですね、落書きしてましたね。それで、兄貴が名古屋から帰ってきて、洋服屋を長崎に出したんですよ。小さい、5坪ぐらいの。 T:いきなり。 K:はい。 T:お兄さんは、そもそもそういう目標があった。 K:そうみたいですね。最初、バンタンのデザイン学校、あそこを卒業していろいろやってたんですけど、お金ためるとかあったのかもしれないですけど、1、2年鳶やったりいろいろやったりしてたんですけど、帰ってきて友達のお店をやりながら、そこを買い取って自分の店にしたんですよ。そこをオープンするんで、そこの看板を描いてくれって言われて、僕もバイトだけなんで、いいよって言って看板を描いたんですよ。それを見た兄貴の友達の、友達というか知り合いのアパレルの別の店の方がいて、この絵を描いたのはおまえなのみたいな話になって、うちの弟が描いてるんですって。弟、何やってるのって言うから、清掃のバイトやってますって。ぜひうちに来てくれみたいな話になって。それで、そこに入ったんですよね。その前の話があって、その前に、兄貴の知り合いとかの、長崎のデザイン事務所の人とかに自分の絵を描いたやつを送ったりとかしてたんですよ、持ってって。今、デザイン学校に行くためにお金ためてますって言ったら、3、4人のデザイナーの人に見せたんですけど、全員口をそろえて「学校に行ったらだめだよ」って言われて。「門君の絵は、学校に行ったら絶対だめだよ」って言われて、結構強く言われたんですよ。断言されて、「えーっ」て。それで、また目標を見失って、で、清掃のバイトをしてたんですよ。その時にその話が来て。まあ、いいかって思って、洋服も好きだし。で、そこに入ってやってたんですけど。 T:具体的にどういう事を。 K:販売です。洋服屋の方は、その方も絵描きなんですよ。絵を描いて、Tシャツのデザインとかやってるような。いつか一緒に大きい絵でもかこうよみたいな感じで。まあ、そんな感じで入ったんですけど、実際には「しばらくはちょっと販売やっててくれ」とかって言われて、ずっと販売をしてましたね。 T:そこは結構長く。 K:そうですね。それは2年くらい。長くないですか(笑)。まだ、絵に近づかないでしょ。 T:そうですね。 K:その時に、そこのお店って、洋服だけじゃなくて、ハリウッドランチマーケットのフランチャイズとかやってるようなお店だったんで、雑貨みたいなものを置いてるんですよ。フォトフレームとかそういうのを売ってて、フォトフレームを売るときに、何もないのもあれだからって言って、買ってきたようなポストカードとか入れてたんですけど、ちょっと僕に描かせてくれないですかねって、直筆のポストカードですよね、それを入れてたんですよ。それでお客さんに見せたりとか。自分で描いた落書きの絵とかは、ファイルに入れて店に置いてて、ちょっと仲よくなったお客さんとかに見せてたんですよ。そしたら、いろいろちょこちょこイベントで描いてくれとか、ポスター描いてくれとか、そういう話があって、たまにそういう何かをやるようにはなったんですけど。ちょっと近づいたでしょ。 T:そうですね。その頃の絵は今に近い感じに? K:ほぼ変わらないですね。 T:それからどういう? K:それから、ずっとそういうのをやってたら、長崎の老舗百貨店みたいなところがあって、そこが外装工事を半年後にやるから、その間、今あるやつを撤去して、半年間ぐらいはそのままなんだけど、半年後に大幅な改装をやるから、その半年間ぐらいの間撤去したところが何もない状態の壁のところがあったんですね。ここにだれか絵を描いてくれないかっていう話がありまして、やりますって言って描いたんですよ。それが横20メートルぐらいあるんですよね。縦は3、4メートルぐらいありましたかね。形がビルの側面なんで、でかいところは7、8メートル、大体3、4メートルぐらいなんですけど、それを描いたんですよ、2か月間ぐらいかけて。そしたら、新聞の取材とかタウン誌の取材とかいろいろ来まして。長崎のテレビ番組とかは、そこから中継とかってよくやってましたよ。門さんの絵がうまいから中継ですみたいな。僕もそういうのがあったんで、会社に「Tシャツのデザインとかちょっとやらせてくれないですかね」みたいな、「そろそろ僕に絵を描かせてくれないですかね」っていうことを言ってたら、ちょっとうちのイメージに合わないって言われて、話が違うじゃんっていう事ですよね。それで大げんかしまして、社長と。社長、その時、どこだっけな、南米のほうに出張で言ってたんですよ。国際電話を店からかけて、大げんかして2時間ぐらいしゃべってて。それで、もういいですと。で、やめて、ちょうど兄貴の店をずっと兄貴が1人でやってたんで、そこの名簿とか全部持って、「ちょっとおれは兄貴の店に行きます」っていってやめました。けんかしてやめましたけど。 T:それでお兄さんのところに? K:はい。兄貴の所でしばらく働いて、地元のタウン誌の連載とかやったり、エッセイと、エッセイじゃないな、地元のバンドをやってる子とか、DJとか知り合いの、そういう人たちを取材して、僕の絵があってみたいな見開き2ページぐらいのコーナーをやったり、個展をやったりとか、そのころかな。 T:初めての個展。それはどういう感じだったんですか。 K:それは、僕が壁画とかを、たまにちょこちょこ描いてたんですけど、それを見た人がいて、僕の知り合いの知り合いが飲み屋さんをやってたんですけど、そこのお客さんでおじさんミュージシャンみたいなのが集まるような、セミプロみたいな、そういうミュージシャンが集まるお店があって、そこで話題に上ったらしくて。僕の女の子の友達がそこでアルバイトしてたんですよ。「あそこにある絵はいいよね」みたいな話をしてたらしくて、「あそこの絵を描いたのは私の知り合いです」みたいな。個展とかやりたいらしいんですけど、そういうどうしたらいいかわからないらしくてみたいな事をその子が言ったら、おれの知り合いに言っとくよみたいな。それで、とんとん拍子に全部話がセッティングされて、いつからやるみたいな話もできて、それでやりましたね。 T:そこにはどういう絵を飾ったんですか。 K:そのときの個展は、絵と絵を20点ぐらいと、詩をプリントアウトしたやつを10個ぐらいと、あとは詩の朗読を、音楽やってる友達とつくりまして、それをカセットデッキで聞くみたいな。そういう感じでやってましたね。 T:結果はどうだったですか、最初の個展は? K:結構来てくれて、どうなんですかね。よかったんじゃないでしょうか。面白かったですね、やってる僕は。 T:じゃあ、1回では終わらず。 K:そうですね。そこはまたやったのかな。2回ぐらいやりましたね。翌年か翌々年ぐらいに1回やって。 T:個展と並行してやってた事って? K:個展と並行してやってたのは、洋服屋で働きながら。で、僕は兄貴とまたけんかしてやめて、また再び血まみれのけんかをしまして(笑) T:(笑)第二弾。 K:で、やめてたんですよね。それで、焼鳥屋さんとかでバイト、いろいろあって、焼鳥屋さんにたどり着いて、焼鳥屋で焼き鳥焼いてたんですよ。それで、それをやりながら、壁画を描いてたんですよね、また別で。「今度、パチンコ屋さんが改装工事をするんで、その間のやつを描いてくれ」みたいな。で、描いてる時に、焼き鳥屋さんのお客さんで、飲み屋のお姉さんたちがよく来るところなんですけど、飲み屋のお姉さんが、僕が壁画を描いてる向かいのビルの飲み屋さんで働いてたんですよ。そこのお客さんで、「自分の息子が東京でスニーカーの何かを買いつけみたいなことをやってるんだけど、長崎にお店を出そうと思ってるんだけども、お金はあるんだけどどうやっていいかわからないから、そういうのわかる人だれかいないかな」みたいな話があったらしくて、「私の知り合いで今そこの向かいで壁画描いてる男の子が、昔洋服屋で、あの子いいんじゃない」みたいな。で、電話来て、「ちょっとプロデュースをしてくれ」とかって言われて。買いつけでロンドンに行ったりとか。お店の内装デザイン、内装工事も半分手伝ったんですけど、そういう事をやってたんですよ。それで、その#人いわく、自分はお金があるけど、以前事業で1回失敗してるから、ブラックリストに載っててお金が借りれないんだよって。確かにすごい大盤振る舞いで、毎回何かごちそうしてくれたりするんですよ。なんで、ちょっと一時的に家族の名前貸してよみたいな。それで借金をしまして、200万近く。僕の友達が店長だったんですけど、友達も200万ぐらい、僕も200万ぐらい。やっててですね、スニーカー屋が当時のスニーカーブームで、ナイキとかの、大当たりしまして、それでもう、ウハウハだったんですよ。そしたら、ある日行ったらレジのお金がないんですよ。銀行のお金も全部ないんですよ。オーナーの家に行くと、オーナーがいないんですよ。 T:逃げたんだ。 K:はい。で、借金だけ残りまして、在庫と。そしたら、僕は借金したときの連帯保証人っていう人がいまして、その人が飲み屋をやってる見た目の恐いおじさんだったんですけど、その人からおまえら逃げんじゃねえぞみたいな、そんな感じで。でも、僕らもお金ないし、その時にある、在庫しかない訳ですよね、僕らに残されたものは。それで、その連帯保証人は僕らに逃げられちゃ困るっていうのがあって、だれかに、この店を売ろうと。売れてるお店ではあったんで。企画書とかも書いて、その連帯保証人の方の知り合いの不動産屋さんが協力してくれて、「一緒に探してあげるから、企画書とか書きなさい」って言われて一生懸命書いたんですよ。その不動産屋さんとミーティングしてる内に、「君たちはしっかりしてるから、僕が買い取ってあげよう」みたいな話になって。「すぐ現金で下さい」って言って現金でもらって、その足でお金を返しに行って。事なきを得たんですけどね。そこの娘さんを店長に育て上げてくれみたいな。そのときの、娘さんは二十歳ぐらいの女の子で。その子にやらせたいからって。1年ぐらいいろいろ教え込んで、僕はやめるんですけど。波乱でしたね、その時は。 T:それが、90年後半? K:そうですね。その時に、僕は洋服屋で働いてた、兄貴の店の前に最初に洋服屋に入ったときの会社にいた人が独立して、福岡にアパレルメーカーをつくってたんですよ。たまたま再会して、「そういえば門君、まだ絵描いてるの?」みたいな話で。「描いてますよ」とかって。「今度ショップを、直営店をオープンするから、そこに壁画描いてくれない?」みたいな話で、「ぜひぜひ」とかって言ってて。それとは別に、「Tシャツのデザインやってみない?」みたいな話があったんですよ。当時は、僕もパソコンとか持ってないし、手書きですよね。手書きのデザインを考えまして、それが『RING BELLS』の最初の手話のやつなんですけど。福岡のそのお店の壁画を描いて、手話のTシャツを4型ぐらいあったのかな、4型ぐらい出したら、それがすごい売れたんですよ、九州で。そうやってちょこちょこ。「これからもやってくれよ」みたいな話になって、「わかりました」って。僕、福岡にそれで引っ越すんですよね。バイトしながら、そういうTシャツデザインとかできたらいいなとか思ってて行ったんですけど、そのときにAOPっていうTシャツブランドをつくったんですよ。それが、これもすごくラッキーなんですけど、そこの福岡のお店は、アパレルメーカーは、東京のブランドを仲卸みたいな感じで、代理店をやってたんですよ、九州代理店みたいな。東京のアパレルメーカーと大阪のアパレルメーカーの2つの九州代理店をやってたんですよ。その代理店をやってた大阪と東京のメーカーの方たちが、たまたま福岡に来てて、そのときに僕のTシャツを見て、「これ東京の展示会で出したいから貸してくれよ」みたいなあれで、大阪と東京に貸し出したんですよ。そしたら、東京のほうで、大手のSHIPSがやりたいって言って、大阪のほうではBEAMSがやりたいって話になって、そうなると、すごい数がつくじゃないですか。そしたら、福岡のメーカーも、これはいいって話になって、ちょっと正式に一緒にやろうみたいになって。僕、結局バイトはほとんどやってないんですけど、そこの会社に入って1部屋くれたんですよ、マンションを改造して。そこにパソコンと、僕だけの部屋ですよね。そこでこもってつくってましたね。つくり始めて。 T:それが、『AOP』? K:『AOP』と『RING BELLS』と『092』っていうブランドでしたね。福岡の市外局番ですけど、『092』っていうのと3つやってましたね。 T:そもそも『AOP』っていうのはどこから出てきたんですか。 K:『AOP』っていうのは、僕は絵の中に描いてたんですよ、『AOP』で漢字の命になるんですけど、それを描いてて。Tシャツをつくるときに、ブランド名何にしようかみたいな話になってて、ブランド名はよくわからないですけどとかって、僕は背中に『AOP』っていう字を入れたいんですっていう話をしてて、そしたらこれにしようよ、ブランド、カッコいいじゃんみたいな話になって、何て呼べばいい。漢字の命ってわけにもいかないんで、何にしようか、呼び名はみたいな。そのまま『AOP』でいいんじゃないですかって。それで『AOP』になったんですね。 T:それで会社入って。それは福岡? K:そうです。福岡ですね。 T:それは結構続いたんですか。 K:それも2年ぐらいですかね。 T:『RING BELLS』は、どういう感じなんですか、企画的には。 K:企画的には、手話なんですけど、手話をモチーフにしてるんですけど、僕がスニーカー屋やってるときに、ロンドンに行くじゃないですか。そのときに、どっかのTシャツを着てたんですよ、僕が。ちょうど行ったときにカーニバルがあって、カーニバルに友達と行ってたんですよ。そしたら、英語で書かれた何とかかんとかって背中に書いてあるTシャツだったんですけど、それを着てカーニバルに行ってたら、ちょうど「ジャミロクワイ」がやってたんですよ、すぐ近所で。それを見に行こうって行ってたんですけど、すごい人込みで、ぎゅうぎゅう詰めで聞いてたんですね。 そしたら、後ろから白人と黒人の兄ちゃんたちに呼び止められまして、何か言ってるんですよ。「おまえはおもしろいやつだ」みたいな事を、何か言ってて、何人かに言われたんですよね。何でこんな呼び止められるんだろうって言ってたら、背中にこれこれって書いてるからだよみたいに言われて。僕、日本人だから、自分で着てるTシャツの背中に何て書いてあるかわからないじゃないですか。リアクションがあるのがびっくりして、着てるTシャツ、これはファッションで着てるだけと思ってたから、ちゃんと読んで、それにリアクションを実際にされるっていうのが面白くて、そういうものをつくりたいなっていうのがあったんですね、Tシャツを作る時に。そしたら、じゃあ、英語は僕よくわからないんで、英語じゃなくておれがわかる言葉にしようと思って、『AOP』のほうでは、自分が書いた詩とかがあるんですけど、全部ローマ字で書いたんですよ。で、『RING BELLS』、もう1つ僕が使う言葉というのは手話なので、じゃあ、手話でメッセージのものにしようと思って、言葉として、ここにハローって書いてるTシャツがあっていいのと同じで、ここに手話でハローっていうのが入ってるみたいな感じで、そういう感じでつくり始めたんですよね。 T:しばらく福岡にいて、どのぐらいのデザインをされてるんですか? K:どのぐらいですかね。デザイン自体は相当やったと思います。年間100以上はやってたんじゃないですかね。100ぐらいかな。 T:『RING BELLS』とか『092』というのはまだ残っているんですか。 K:ブランドですか。残ってないです。会社が分裂しまして、2年後ぐらいに。僕が入って2年ぐらいたった頃に、会社が内部分裂したんですよ。それで僕の居場所が急になくなりまして、「じゃあ、やめます」っていう話で。あと半年って感じだったんですけど、半年、次の展示会までいてくれみたいな。わかりましたって。その頃から、「次何やろうかな」と思ってたんですよね。半年間ぐらい時間あったんで、ま、ゆっくり考えようかなと思ってて、「何となく東京に出ようかな」って。田舎を離れて、最終地点的な感覚があったんですよ、一番離れた所みたいな。地理的には違うんですけど、気持ち的には、「絵を描いたり何かする上で、一番遠い所は東京かな」というのが何かあって、そこに行ってだめだったら、長崎に帰って何か洋服屋か何かで働いたり、何か違う事をやろうみたいな。それで言ってたんですよね。そしたら、僕もやめる事になったんですけど、営業をやってた女の子がいて、その子もやめるっていう話になって。その人が、その人のおじさんっていう方がいて、そのおじさんが出資するんで、その女の子にメーカーなりショップなり何かやりなさいみたいなのがあったらしく、その女の子から相談を受けて、「自分は門さんのTシャツを今後もやりたいんだけど、どうするの、門さんは?」オレ、「東京行って、自分のTシャツのデザインとか、どこか売り込んでやろうか何か、そうやっていこうと思ってるよ」みたいな話をしたら、「じゃあ、会社一緒につくってやりましょうよ」っていう話があって。それはいい話だと思って、「やろう、やろう」っていう話になって。で、2人で出てきて、世田谷に事務所つくって『AOP』と『RING BELLS』っていうのを、2つそこでやったと。その前の会社にも、自分のブランド名を持っていっていいですかみたいな話で。一応その話は通してたんですけど、やることになったんですね。 T:それが2000年になるんですか。 K:そうですかね。そのあたりですかね。 T:そこでは主にTシャツを。ほかにも何かやってらしたんですか。 K:ほかには洋服のデザインとかやってましたね。シャツとか、ジーパンとかつくってました。 T:会社名は。 K:会社名は『フライングフィッシュ』っていって、それも僕の絵によく出てくるんですけど、飛び魚が飛んでる、それを会社のロゴマークにして、会社名も『フライングフィッシュ』にしようっていって。飛び魚という会社にしましたけど。 T:社長みたいな感じなんですか。 K:僕は社長じゃないんですよ、全然。ただ、僕の作ったものしか作ってなかったんですよ、そこは。 T:じゃあ、しばらくそのフライングフィッシュで活動してる感じで。何か新たな展開があったんですか、その後Tシャツ以外に。 K:それで、小林健樹っていうシンガーソングライターの方がいまして、その方が雑誌の取材で僕の『RING BELLS』を着てくれてたんですよ。それで、ロックを感じるTシャツみたいな特集だったような気がするんですけど、10人ぐらい、ことし活躍しそうな新人アーティストみたいな、その中の1人に選ばれてて。小林健樹さんがRING BELLSのTシャツを着てくれてたんですね。それで、このTシャツはロックだみたいなコメントつきで紹介してくれてて。それを見た友達が、雑誌載ってたよとかって言って連絡くれて、コンビニ行って見たら着てて、すごいうれしくて。で、事務所の社長と一緒にお礼の手紙と新作のスウエットとカタログを、事務所のほうに送らせてもらったんですよ。そうしたら、事務所の方から連絡をもらいまして、ライブに来てくださいみたいな。小林さんとも会ったりとかしてたんですけど。そこでマネジメントされてた方がいまして、その人とすごい仲よくなったんですね。すごい僕のデザインとか、絵とか、詩とかそういうものにすごい興味を持ってくれてて。その方が、小林健樹さんのマネジメントから担当が変わって、小谷美紗子さんっていう、この方もシンガーソングライターなんですけど、その方を紹介してくれまして、その彼女も僕の絵を気に入ってくれてたみたいで、僕もCDを何枚か聞かせてもらったんですけど、すごくリアルな詞を書く方で。ちょうど僕のBEAMSでの個展があったんで、そのときに来てくれてたんですね。それで話したりとかして。それで、すごく素朴なにこにこした方で、ライブに招待してくれてたんで、小さいライブハウスだったんですけど、そこに招待されて行ったんですね。その話はいいのか。 T:僕も実は、自分が担当してた音楽番組で、1度ゲストに小谷さんにインタビューしてお話を聞かせていただいて。 K:今でも個展とか来てくれて、仲いいですよ。 T:いいですよね。詞がぐっと入ってくる感じで。 K:ただ、僕、最初にライブで見たときに、その当時の彼女の精神状態が多分すごく不安定だったんだと思うんですよ、プライベートか何かで。そういうのがあって、何かすごくつらそうな感じを、ものすごく感じたんですよ。それで、もっと楽しい歌を歌えるようになるといいなと思って、詩と絵を、小谷さんが楽しげに歌ってる絵を自分は描こうと思うっていうような詩を送ったんですね。詩というか、メールを送ったんですね。そしたら、小谷さんがすごくそのメールを気に入ってくれて、これに自分の詩をつけ加えて歌にしますみたいな。じゃあ、僕も今、絵描いてるから、ちょうど同じぐらいにでき上がるといいねみたいな話をしてて。で、できたんですよ。僕の絵という歌なんですけど、それには君の歌っていう絵があるんですけど、それと対になってるような感じで。 T:じゃあ、ジャケットとかそういうのに。 K:ジャケットにはなってないですけど、そのときの、その当時やってたライブでは、その絵を飾ってくれてたりしたんですね、ライブ会場に。 T:面白いコラボレーションですね。 K:そうですね。ものすごく。何か周りがつくったコラボレーションではなくて、実際に作家同士が、ほんとうに普通のメールみたいなそういうやりとりから生まれたやつなんで、自分としても思い出深いですね。 T:すごいいい感じですね。 K:去年はカレンダーか何かになったんですよ、小谷さんと。 T:SERFACEは? K:SERFACEは、たしか小林健樹さんのマネジメントやってた方がいまして、その方が会社変わられて担当したのがSAFACEだったんですよ。小谷さんのマネジメントをやられてた遠藤さんっていう方がいまして、その方が事務所やめられて独立されたんですよ。独立というか、個人でフリーでやるようになって。それで、門君と一緒に何かやりたいよねみたいな話をしてくれてて、それで一緒にチーム組んでやろうみたいな。その第一弾で、SERFACEの話がありまして、それでそれはコーリングっていうデザインがあるんですけど、そこのコウズさんっていうデザイナーの方がいまして、その人と3人でやろうという事になって。それはデザイナーみたいな、フリーとしての最初の仕事ですかね。ライブのパンフレットをやったんですけど。Tシャツとカレンダーみたいなグッズ関連を全部やったんですけど。 T:これだけ沢山担当したのは初めてでしたか。 K:そうですね。でも、Tシャツとかリストバンドとか、その辺は得意って言ったらあれですけど。 T:そうですよね、着るものですからね。 K:でも、そのコウズさんがすごく百戦錬磨の方だったんで、いろいろ教えてもらいながら、結構伸び伸びとやらせてもらいましたね。 T:でも、これだけ手にかけたものが会場に並んでたりすると、楽しいんじゃないですか。 K:はい。ちょうどライブがZeppTokyoだったんですけど、ZeppTokyoに行きまして、スタッフの方たちがずらっと着てるじゃないですか。それは結構感動しましたね。洋服屋で売られるのもうれしいんですけど、自分のTシャツを、同じTシャツを何十人も着てるわけじゃないですか。そういうのを初めて見たんで、何か感動しました。SAFACEの2人もすごく気さくなナイスガイで、打ち合わせのときからすごくいい感じで仕事できたんで、よかったですね。楽しかったです。 T:続けて、BEAMS関連で何か。 K:そうですね。そういうのをやってたら、2001年ですかね、BEAMSがちょうど25周年ということで、5人ぐらいアーティストをピックアップして記念TシャツをBEAMSとコラボレーションみたいな感じで考えてますっていう話があって、そこに「3型ぐらい門さんやってくれないですかね」みたいな話があって、それで引き受けたんですね。僕、6型ぐらい出したんですよ。「この中から3つ選んでください」みたいな感じで。そしたら、全部採用になって、6型ぐらい出たんですよ、たしか。評判がよかったらしくて、その後に長袖のTシャツ、秋冬の長袖のTシャツでも第二弾でやりたいみたいな話になりまして、それもやったんですね。同じ時期にBEAMSの新潟店が10周年で、BEAMSの新潟店のほうから、うちのもやってくださいみたいな話で。BEAMS絡みが続いたんですけど。 T:それで、また新たな展開ってあるんですか?2002年に入って。 K:2002年は、今度はまた別のデザイナーの方と一緒に、今度はコウズさんではなくて、別のデザイナーの方とまた組んで、ちょこっとミュージシャンの、After meっていうバンドなんですけど、それのジャケをやろうとかっていう話で、僕はレーベルをやったんですけど、そのときに撮影とかも一緒に行って、僕が撮影する訳じゃないですけど、いろいろスタジオで車を使ったロケとかもやったりして、おもしろかったですね。 T:ジャケに関して、撮影から全て関わるのは、はじめてだったのですか? K:そうですね。見たのは。僕はジャケをやってないですけど、いろいろゼロからでき上がるまでみたいなのを見させてもらったっていう感じで。すごい勉強になりましたね。 T:その後は。 K:その後は、また遠藤さんなんですけど、遠藤さんが大澤誉志幸さんと古くからの友人でもあったり、実際マネジメントとかもやってたから、そういうのがありまして、大澤さんに僕の絵を個人的に見せてくれてたりはしたみたいなんですよ。で、すごい気に入ってくれてたよみたいな話は聞いてたんですけど、当時大澤さんは、もうマイクを置かれてて、ライブもやってないし、プロデュースだけやってたんですね。何か一緒にいつかできたらいいねぐらいな話はあったんですけど、そのときは何もなくだったんですけど、ちょうど2002年、2001年の終わりぐらいですかね、大澤さんが動き出すっていうのがありまして、ちょうどSAFACEで一緒にやったコーリングのコウズさんが、大澤さんのラストライブのパンフをやったんですよ。それもあって、コウズさんと門君と一緒に何か本みたいなCDを、ブックレットCDというのをつくりたいみたいな企画が上がりまして、大澤さんの大ファンだったんで、ぜひやらせてくださいって。それで、やることになったんですよね。 T:上がり的には。 K:コウズさんもすごく僕の絵を生かした感じにしようみたいな、打ち合わせの中でちょっと絵本じゃないですけど、写真はあんまり使わずに、イラストメインのものにしようみたいなことになりまして、ほぼ全編にわたって僕のグラフィックを。 T:何ページぐらいなんですか。 K:何ページぐらいなんですかね。十何ページぐらいの小冊子みたいな感じなんですけど、大澤さんがそのときのコンセプトで、リビングミュージックっていうコンセプトがあって、そういう何だろう、リビングでくつろいでゆったりしたところで聞くみたいな、ボサノバなんですけど、曲は。そういう柔らかい感じのものにしようというのがあって、ジャケも結構自分でも気に入ってるんですけど、コーヒーに音符を入れてみたいな、そういう感じのやつで、何かいい感じに上がりましたね。 T:Tシャツもやってっていう感じで。 K:そのジャケットのやつをTシャツにして。それを当初大澤さんのオフィシャルのウエブサイトでの発売だったのかな、コンサート会場と。僕はそのときにBEAMS個展をやってたんで、そこでちょっとBEAMS別注でやろうっていって、結構見た人少ないかもしれないですけど、大澤さんファンでも。大澤さんのオフィシャルのTシャツは白地に赤のプリントなんですよ。BEAMS別注のやつは、白地に青のやつで、青版のやつは、あんまり見たことないかもしれないですね。150枚ぐらい限定でつくったんですね。僕も見てないっていう。 T:なるほど。続けてマキシ? K:そうですね。その後に大澤さんのほうから、また連絡がありまして、気に入ってくれてたんだと思うんですけど、マキシシングルを出すんで、ジャケットをやってくれっていう話で。インディーズで出したんですけど、今回は僕そのときはコウズさんじゃなくて、僕が1人でやりましたね、初めて。全部お任せで。打ち合わせはなしでしたね。こういう感じでつくってるっていう話だけ聞いて、イメージ的に何かありますみたいな話をしてたら、全部お任せでって。 T:それが、『Summer Breeze』。 K:はい。 T:初めて自分だけで。 K:そうですね。 T:つくりましたと。で、佐野さん。 K:佐野さんと。これがですね、佐野さんのホームページがあるじゃないですか。オフィシャルのMWS。MWS、昔、クロスロードっていうコンテンツがあって、ホームページをやってる人はそこに登録するみたいなのがあったんですよ。そこに僕、自分のやつを登録してたんですね。そしたら、最初、メールが来まして、僕のホームページを見ました、これこれこうでみたいな感想のメールだったんですよ。何かえらく詳しく事細かに全ページ見てコメントくれてるなとかって思ってたら、そのメールの最後のほうに、実は私は佐野元春の関係の者ですみたいな。で、佐野さんの誕生日を記念したTシャツか何かのデザインをお願いしたいと思ってますみたいなメールが来たんですよ。2000年末ぐらいですかね。2001年の暮れぐらいですかね。で、いたずらだと思って、おれの友達が。 T:佐野さんが好きだから。 K:佐野さんのファンだから、だましてやれとかって思って。 T:普通そう思いますよね。 K:門さんの絵は佐野自身も見てますみたいな。そんなばかなって感じじゃないですか。信じられなくて、電話番号が書いてたんですよ。おそるおそる電話してみたんですよ。おれの友達だろうと思ってかけたら、そのスタッフの方で、電話したところ、どうやら本当っぽい。ちょっと1度お会いしてから、門さんも信じられないでしょうからみたいな感じで、1度実際お会いしてみたいな感じで、そのときに会ったんですね。恵比寿で待ち合わせて。佐野さんはいませんでしたけど。いろいろ話してて、佐野さんのお誕生日を記念してTシャツみたいなのをサイトで企画してるんで、佐野さんのほうから彼がいいみたいなのがあって、で、会ったんですよ。しばらくして、僕はすごいうれしくて、しばらく待ってたんですけど、どうやらその話自体がいろいろあったのか、企画が変更したのか知らないですけど、その企画自体なくなっちゃったんですよ。佐野さんにも会えず、あれみたいな。そのマーチャンダイジングやってた方、So−netの方なんですけど、その方とはたまに自分の近況報告みたいなのはしてたんですね。僕の個展とかも来てくれて、門さんと何かの機会にやりたいんですけどねみたいな話は受けてたんですね。それで、しばらくしてまたメールが来たんですよ。門さんと佐野さんを会わせるいいアイデアが浮かびましたとかって。それが、サンデーの20周年のイベントで、Tシャツデザインコンテストみたいな。その審査員をやってくれって言われて。それで行って、そのとき初めて佐野さんと。やっと初対面できましたね。 T:実際手がけることになるというか。 K:審査員やってから、いつぐらいだったかな、春ぐらいだと思うんですけど、それから夏、8月ぐらいかな、に佐野さんからメールが来たんですよ。今度、ファンクラブ限定のライブをやるんだけど、それのTシャツデザインをやってくれないかみたいな話があって、やりますよね。ぜひやらせてくださいって。それでTシャツをつくることになったのが、『Plug&Play』っていう。 T:アコースティックライブ。 K:そうです。そうなんですよね。 T:で、その後、『KING&BARD』っていうのは。 K:『KING&BARD』っていうのは、佐野さんのサイトでやって。そのチャリティーのTシャツをつくるっていうのがあって、やりました。Patagoniaとのコラボレーションで、PatagoniaのオーガニックのTシャツにプリントするっていうやつで。それはあれなんですよ。『Plug&Play』のときは、佐野さんに『Plug&Play』っていうタイトルなんだよみたいなお話で、ファンクラブ限定なんで、佐野さんとファンがつながるものがいいなみたいので、エフェクターにしたんですね、デザインを。そうそう、この間、ちょっと話変わるんですけど、ベースのトミーさん。 T:井上富雄さん。 K:インタビューがあったでしょう。あのとき着てませんでした? Plug&PlayのTシャツ。 T:着てたかもしれない。 K:すごくうれしくて。あれを僕がやりまして、佐野さんもすごい気に入ってくれて、ライブのDVDとかにも出てますけど、セットで使われたんですよ。後ろにでっかく。それはうれしかったですね。何だかんだ一番うれしいのって、DVDの最後、クレジットが流れるじゃないですか。自分の名前がやっぱり。あれはうれしかったですね#。それがありまして、その後にまた佐野さんから、Tシャツをやってくれないかみたいな。 T:続きますね。 K:はい。あって、今度は打ち合わせしながらっていう感じだったんですけど、どんなのがいいですか、佐野さんとかって言ってたら、魚をイメージしたものなんてどうだろうみたいな。何で魚ですかって言ったら、僕魚座なんだよねみたいな話で。今度ラジオをやるんだけど、『radio fish』っていうんだよねっていう話で。fishで魚座、それも、多分『radio fish』のfishも佐野さんの魚座から来てるんだと思うんですけど、魚っていうのがあって、最初、佐野さんのTシャツでもろに魚っていうのも、何かいまひとつなんで、何かいいアイデアがないかなと思ってて。魚の缶詰にしようかとかって。で、オイルサーディンの缶詰がうちにちょうどあって、これいいと思って、缶詰をあけるっていう。缶詰を、前のフロントプリントとバックプリントと2つあるんですけど、フロントプリントは佐野さんの「モト」って書いたオイルサーディン。背中はそれがぱかっと開いてるんですよ。そこに、佐野さんからファンの人に何かメッセージを書いてんのがいいなと思ってて、佐野さんにデザインをあげて、ここに佐野さんから何か言葉を入れてほしいんですけどみたいな話をしてたら、佐野さんが、あれ何て書いてただろうな。「listen to my sardin lock」か何か書いてきて、細かくこの文体でこのフォントで、こんぐらいのバランスで入れてくれみたいなのがあって、そのまま入れたんですけど、これはどういう意味なんだろうと思ってたんですけどね(笑)。佐野さんに、いいですね、sardin lockって、僕がメールを入れて、sardin lockって何かおもしろいですよとかって、クロコダイルロックみたいな感じでおもしろいんじゃないですかねとかって、響きもいいしって言ってたら、sardin lockっていう曲をつくろうかなみたいな(笑)。それいいですねって。そういう笑い話があるんですけど。 T:ユニークな方ですからね。 K:密かにいつかやってくれないかなと思ってるんですけどね。サーディンロック。 T:あるんじゃないですか、そのうち。忘れかけたときに。 で、そこからso−netの企画とか。 K:佐野さんの企画で知り合ったso−netの方がいまして、ナカノさんっていう方なんですけど、ナカノさんと結構熱く語りまして、たまに飯食いながら。『03』っていうタイトルなんですけど、最初、僕の『RING BELLS』とかを気に入ってくれてたり、Tシャツ全般、あと個展とかも全部来てくれてて、何か門君のTシャツ屋をso−netでやろうよみたいな話が最初ありまして、いいっすねっていう話で。いろいろこうやっていくうちに、「じゃあファッションサイトにしよう」みたいな、話がちょっと大きくなりまして、じゃあどういうテーマで、コンセプトでいきましょうかみたいな話をしていて、「ネガティブなものをポジティブに変えるメッセージがあるサイトにしたい」みたいな話になりまして。で、Tシャツのデザインと、僕はメンズのほうの商品企画もやってるんですけど、そこでオリジナルのTシャツをつくろうという事になりまして、『03』Tシャツというのがso−netプラス門のコラボレーションTシャツっていうことで、オンラインのみの発売で売ってます。 T:それは現在も発売中? K:そうですね。中身的には、最初僕がやってた『AOP』というTシャツみたいな、その辺の流れでつくってるんですけど、着た人、見た人はわかると思うんですけどね。「何か生活の中でありふれたものをちょっと楽しくしよう」みたいな、ユーモアのある生活にみたいな感じで、リラックスみたいなのと、気持ち的な、精神的なぜいたくさというか、#そういう感じで、そういうメッセージなんですけど、そういうテーマでつくってますね。 T:で、大澤さんのアルバムを新たに手がけられて。 K:そうですね。突然連絡がありまして、大澤さんのマネジャーの方から。アルバムを今つくってるんだけど、ジャケットを門君やってくれっていうことなんですけどね、大澤からのリクエストでみたいな感じで。で、1度お会いしたいみたいな感じで。スタジオに行きまして、まだ全然できてないときだったんですよ。大澤さんとしばらくぶりに会って、久しぶりですみたいな話をしてて、今アルバムをつくってるんだけど、ニューアルバムなんだけども20周年的なものでもあるみたいな感じで、そういうイメージがあって、門君にお願いしたいみたいなのがありまして、アルバムコンセプトとかの話をずっと聞いてたんですね。すごく映画的なドラマティックな感じのがありまして、大澤さんからイメージした写真とか、いろいろ見せてもらったりとか、いろいろしゃべったり書いたりとかしながら、いろいろ聞いてたんですけど、僕の中では絵がすごく浮かんでて、それでそのとき3、4曲できてたんですけど、大澤さんも多分グラフィックデザインのイメージをしてたと思うんですよね。僕は独断でジャケットは絵でいこうと思って、絵を描いたんですよ。それで十数曲入ってるのかな、一応一通り全部のイメージとかも聞いたんで、それが1個1個に絵をつけて、ジャケットはそれを集合させたものにしようみたいなのがあったんです。多分ごちゃまぜでよくわからないですよね、ジャケットだけ見ると。で、ブックレットを見ていくと、部分的に出てるんで。それでつながるみたいな、そういうものにしようというのがありまして、それでつくりました。だから、絵を一般的な自分の絵をそういうものに使ったのは初めてだったんで。 T:あと、パンフレットとかそういうのにも。 K:そうなんですよ。大澤さんが20周年のライブをやるんで、パンフをつくるっていうのは聞いてたんですけど、それは最初僕じゃなかったんですよ。僕もそうだろうなと思ってたのは、過去のこういうのがあって、こういうのがあってみたいなデビューからの写真を交えながらのやつなんだろうから、僕がつくるものではないなみたいなのもあったんですけど、大澤さんがそれとは別のパンフレットをつくりたいというのがありまして、厳密に言うとライブパンフレットじゃないんですよ。「Y」っていうアルバムなんですけど、Yのパンフレットみたいな感じなんですよね。 T:「Y」っていうのは、大澤さんの名前のY?パンフレットの名前が『Y20』。 K:はい。『Y20』でしたね。 T:20周年だから? K:大澤さんがすごくファンに感謝した何かにしたいみたいなのもあって、大澤さんからファンの人たちに向けたメッセージとかアルバムの解説、本人がした解説みたいなのが載ってる本ですけど、それをつくりまして。 T:なるほど。で、それが去年の夏? K:もう暮れですね。ライブは11月ぐらいだったんで。 T:六本木ヒルズの美術館のお話は? K:これは、僕が去年の2月ぐらいでしたか、代官山のHeMっていうバッグ屋さんがあるんですけど、そこの1階で個展をやったんですよ。そのときに、僕の知り合いの絵描きがいるんですけど、その人が森美術館の方と知り合いで、その人に僕の『RING BELLS』を送ったりとかしてくれてたんですよ。すごい興味を持ってくれてて。 T:『RING BELLS』は本の方の。 K:そうです。僕が2002年、おととしに出した手話の、アートブックのつもりなんですけど、手話の本ですね。それを見てくれてて、それを気に入ってくれて、個展に来てくれたんですよ。何か一緒にできたらいいですねみたいな話はしてたんですね。当時は、まだ森美術館がオープンしてなくて、ずっと準備をしてたんですよ。それで何かあったらみたいな感じで言われてたんで、その話は置いといたんですけど、また連絡がありまして、ギャラリートークっていうのがあるんですけど、海外のギャラリーに行くと、地元のアーティストの人とかと一緒に絵を見て回るみたいなツアーがよくあるんですけど、だからそれを描いた人ではないけれども、一般の人と描く側の人とが一緒に見て回るみたいな、そういうのがあって、それを六本木ヒルズの森美術館で、そういうツアーをやろうと思ってるみたいなことがありまして、じゃあせっかく門さんだから、ろうあ者の人たちが参加できるようなツアーにしましょうよみたいな感じがあって、いいですねっていう話でやることになったんですね。それは月1で、一応ハピネスっていうのが最初のオープニング展覧会だったんですけど、それをやることになりまして、3か月間ぐらいの展覧会だったんですけど、それで月1、計3回、この間最後だったんですけど、それをやりまして…… T:第二弾が、『六本木クロッシング』。 K:そうです。これは、そのハピネスが公表だったんで、ちょっと継続してやりましょうみたいな感じで、次にやるのが来月から『六本木クロッシング』っていう現代アートの作家たちの作品を集めた展覧会と、あとは草間さんの個展の、『クサマトリックス』っていう草間彌生さんの個展と同時開催なんですよ。それが3か月間ぐらいなんですけど、それのツアーをやることになりまして、3か月のうち最初の2回は『六本木クロッシング』で、最後の月は『クサマトリックス』のツアーを。 T:2つの違いというのは、現代アートの中では? K:どっちも現代アートなんですけど、草間さんのやつは、草間さんだけなんで、結構部屋全体を使ったような大きい作品なんですよ。でっかいオブジェみたいな。『六本木クロッシング』のやつは、僕はまだ作品を見てないんですけど、来月の頭ぐらいに一応打ち合わせが始まるので、そのときに見てこようと思ってるんですけど、草間さんのほうが、結構有名なので、見た人も結構いると思うんですよ。『六本木クロッシング』は1人のアーティストじゃなくて60人ぐらいのアーティストの作品を、すごい。 T:大規模ですね。 K:はい。集めるみたいなんで、僕も1個1個はまだわからないんですけど。かなり面白いことになってそうなんで、話を聞くと。 T:具体的にサインツアーガイドというのは、門さんはどういう事をやられるんですか、現場では。 K:僕は手話と声とでみんなを先導して、一応キュレーターの方とかがつくんで、詳しいこととか質問があれば、それを答えるんですけど、僕が通訳する感じですけど、基本的にはあんまり手話とか考えなくてもいいんですけど、みんなで見て僕はこの作品はこう思うよみたいなところを、僕が話して、ツアーに参加してる人たちも、私はこう思うとか、そんな感じで勉強会ではなくて、ほんとにみんなでわいわい。1人で見るという見方もあるんですけど、何人かで回ることで一緒に見た人が違うふうに思ってる、感じたことを聞くことで、結構違う見方ができるじゃないですか。その辺がおもしろいです。それで、参加は、最初ハピネスのときも、一番最初はろうあ者の人たちだけみたいな感じでやってたんですけど、アート作品を言葉で説明するのって難しいじゃないですか。それと一緒で手話で事細かにやるのも難しいんですね、非常に。そうすると、ジェスチャーみたいになってくるんですよ。もう体でしゃべるみたいな。 T:実にパフォーマンスに近い。 K:そうですね。それを見てた、周りのツアーに参加してない人たちとかも、あれは何なんだろうみたいな。あれには参加できないんですかみたいな問い合わせがあったらしくて、じゃあ、そういう方たちも一緒に入って、手話の1つ2つ覚えて帰るっていうのもおもしろいし、言葉ではなく体で話すみたいなのも結構おもしろいんじゃないかなと思って、一般的に手話に興味があって、アートに興味がある方だったらだれでもどうぞみたいな。 T:それは今年も継続して、参加してみる事も出来る? K:そうですね。だから、結構ろうあ者じゃない人たち、手話をほんのちょっとしか知らないとか、あるいは全然知らないみたいな。興味あるんだけど、勉強したことなくてほとんど知らないみたいな人が参加するんですけど、そういう人たちは作品もそうなんですすけど、体を使って表現するとか、表情とか体の動きじゃないですか、それでそこに一瞬でも自分が入って感じたことに感動する方が多いですね。 T:で、今年また、『KADO-T』というブランドが出る。 K:そうですね。今度はスタイルスペックというメーカーがあるんですけど、そこから『KADO-T』っていうTシャツを出します。で、『KADO-T』なんで何でもいいんですけど、とりあえず第一弾はRING BELLSを復活させようと思ってて、『RING BELLS』Tシャツが5、6型あるんですけど、BEAMSからそのうち3型ぐらいが発売されると思います。それ以外のやつは僕のサイトかどっかで、so−netかどっかで、ネットでも買えるようにしたいなと思ってるんですけど、ちょっとまだわからないんですけどね。 T:門さんのサイトをチェックしてもらって。 K:そうですね。あとはちょこちょこ近くのセレクトショップのぞいたら、もしかしたらやってるところがあるみたいな感じで。細かくわからないです。(笑) T:ここから例の『AOP』イベントの話に移りたいんですけど、渡辺太郎さん、nanacoさんとのコラボレーションなんですか。 K:そうですね。 T:そもそもその『AOP』イベントをやることになったキッカケを教えてください。 K:『AOP』は、BEAMSで以前から個展をやってるんですけど、3回目というのもあって、今までの個展、絵を飾ってるっていう個展ではないものを何かやりたいなというのがありまして、何やろうかなと思ってたんですよ、最初は。場所だけ押さえてて。いつからやるというのも決まってたんですね。内容だけ決まってなくて、最初は粘土細工でつくったやつをどばーっと100体ぐらい並べようかみたいに、最初は思ってたんですよ。それで、実験的に前回、去年の代官山でやった個展で粘土作品とかを一応出してみたんですね。そしたら評判がよくておもしろいっていう感じで好評だったので、これをやろうとかって思ってて、その中に僕が個人的に渡辺太郎さんに向けてつくった粘土作品があるんですよ。それは、個展が終わったら太郎さんにあげるからねって言ってて、終わったからあげたんですよ。太郎さんが、それを写真に撮ってくれたんですね。普通にただ撮ったんじゃなくて、公園とか行って芝生とか、芝生なのかよくわからないですけど、植え込みみたいなところに入っていって、粘土作品を置いて、いろいろ写真を撮って、それをくれたんですよ。それがすごくおもしろくて、何か太郎さんと一緒にやりたいですねっていうのがあって、僕がAOPというので前やってたんだけど、命っていう意味なんですけどとかって。何か1人でつくり出すものではなくて、だれかと交流することで生まれてくるものというか、個人からじゃなくてだれかとだれかの間に生まれる子供みたいな。子供って僕だけじゃないじゃないですか。相手と半々入ってて、それ独自の#個性が生まれるみたいな。そういうものを太郎さん、やりましょうよみたいな話をしてて。あとは、『AOP』ってカッコいいねみたいな。おもしろいねって、その名前が。いろいろイメージもしてくれたらしくて、コンセプトも共感できたので、じゃあ、何かやりましょうって言って。じゃあ、太郎さんは映像作品やりましょうよとかって。最初は、粘土を動かそうって言ってたんですよ。クレイアニメとかやろうかみたいな感じで。あとは、ぱらぱら漫画みたいなのをつくって、ほんとうにアニメーションで家族の絵を動かそうかみたいな。そのぐらいのあれだったんですよね。絵があって、モニターがあって、粘土があってっていうそういう感じに、僕の個展に毛が生えたようなものだったんですよ。その程度だったんですよね。そしたら、2人でいろいろ考えるうちに、いろいろそれこそ僕と太郎さんの間でいろいろアイデアが生まれまして、どうしましょうみたいなことになりまして、期間も結構、それを話し出したのが去年の夏ぐらいだったんで、まだ期間もあるし、たっぷり、ちょうどお互い忙しかったんで、ゆっくり考えてそのうちいいアイデアが浮かぶよみたいなことだったんですけど。で、nanacoさん家に、みんなで飯食いに行ったんですよ。いろいろ話してて、『AOP』の話とかも、こういうのを太郎さんと一緒にやろうと思ってるんですよみたいなことを言ってたんですね。で、nanacoさんもそれおもしろそうだねみたいな話をしてて。で、nanacoさんは、そうそうって言って、この間秋田に行ってきて撮ってきた写真があるんだけど、見るみたいな。それがすごいいい写真で、ブナの木の写真なんですけど、普通のブナの木じゃないんですよ。普通、大地に根を下ろしてっていうブナの木じゃないですか。nanacoさんの撮ってきた写真というのが、ほんとうに山奥なんですよね。人の手がいかにも入っていない、うっそうとしたところなんですよ。 T:道があるかないか。 K:そうそう。多分行けないだろう、一般の人はみたいなところで撮られた写真で、そのブナの木が、大きい岩の上に立ってるんですよ。だから、どうやって養分を吸収してるのかよくわからないですけど。 T:完全に岩の上に。でも、根は岩の周りにこう。 K:多分、こういってるんでしょうけど、でも何でこんな岩の上に育って、そんなでかくまで育ってるんだろうみたいな。で、ブナの木っていうのは落葉樹で、葉っぱを落として、それが腐って養分になっていくじゃないですか。そのブナの木というのが、岩の上に立ってるんで、多分大地に立ってるよりはすごい過酷な条件で生きているわけじゃないですか。それなのに、やっとできた葉っぱを周りに落としてっていうのが、すごくイメージがわいて、その絵を描こうと思ったんですね。おれ、ブナの木の絵を描きますよみたいなことを言ってたんですけど、そのとき僕はあんまり精神状態がよろしくなくて、スランプ状態だったんですよ。描くとは言ってみたものの。ラフスケッチにブナの木の感じを描いてたんですけど、いまひとつそこから進まなくて、置いてたんですね。埼玉のジョンレノンミュージアムってあるじゃないですか。僕は行ったことあるところなんですけど、むしょうに行きたくなって、何かを求めて行ったんですよ。いろいろやっぱカッコいいなとか、いろいろ、昔から好きなんで、見てて、真ん中ぐらいのフロアにいくとオノヨーコさんのフロアがあるんですけど、そこに呼吸しなさいっていうのがあるんですよ。壁に。呼吸しなさいっていう言葉に何かやたらと反応しちゃって、どかーんと来たんですよ。で、呼吸してないんだろうな、今、おれはみたいな感じで、何とか生活してるけど、気持ちの部分で酸素が足りない状態みたいな感じがして、それがすごくあったんですね。どーんとあって。それから、2、3日後だと思うんですけど、その話は別にしてないんですよ、だれにも。そしたら、nanacoさんからメールが来まして、メールのタイトルがBless deeplyって書いてるんですよ。メールの内容は、私たちに今必要なのは、深く深く呼吸することだと思いますみたいなっていうので、ダブルで呼吸というのがすごくあって、そこでひらめいたんですね。呼吸するっていうのと、ブナの木っていうのがぴたって一瞬なって、そこからがーって描き出したんですけど、呼吸っていうのとブナの木っていう2つのあれで、今回ポストカードになってますけど、この絵ができまして。ここから太郎さんとかnanacoさんも、この絵から何か発想するものとか、この絵を一応シンボル的なテーマが象徴されたものとして、何か考えようみたいになりまして、一挙に粘土とかアニメーションとか全部飛んじゃいまして。 T:何か「素敵な音楽も生まれた」という話を聞いてますが。 K:そうです。nanacoさんがこれに「音楽をつけたら面白いね」みたいなことを言ってたんですけど、実際にDSLの長田さんとパーカッションの山北さんとnanacoさん家に集まりまして、僕と太郎さんとそのメンツが集まりまして、僕の絵をみんなに見せて、これこれこうでみたいな、長田さんはnanacoさん家で既に見てたらしくて、こういうふうに音楽やろうと思ってるんだけどとかって、nanacoさんが話してたら共感してくれて、自分も参加するよみたいな感じで言ってくれてて。でも、僕実現すると思ってなかったんですよ。それは実現したらすごいねみたいなことを言ってたんですけど、実際にほんとうにやるっていう話になりまして、たまたまスケジュールが合って、ほんとに即興的に山北さんもパーカッション持ってきてくれて、この絵を囲んでみんなでいろいろ話してたんですけど、そしたら山北さんがパーカッションをたたき始めて、そしたら長田さんがギターもって弾き始めて、そしたら太郎さんとnanacoさんがカメラを持ってそれを撮り始めて。そしたら、nanacoさんがそのうち、5分、10分ぐらいしてからですかね、歌い始めて。30分間ぐらいのセッションだったと思うんですけど、何かすごい音楽が。結構感動しましたね。ほんとうにでき上がる瞬間というか、完成されたものとかではないんですけど、生まれたての赤ちゃんみたいな、そういう音楽が生まれてくるのを、子宮から出てくるみたいな感じで。 T:自然と生まれてきた。 K:すごく面白かったですね。 T:言うなれば、『AOPセッション』みたいな感じ。 K:そうですね。『AOPセッション』ですね。 T:それが会場で聞けるという。 K:それは今企画してて、2月19日から始まるんですけど、3月16日まで。その真ん中ぐらいの3月の頭ぐらいにそれをライブでやろうって話してて、会場で。そんな広いところじゃないって、二、三十人入るとぎゅうぎゅうかなっていう感じなんですけどそれでもいいやっていう感じで、アコースティックだけで。僕はそのとき後ろで絵を描こうかなと思ってるんですけど、そういうのをやって、来た人も体感して、音楽が子宮から出てくるところを体感してもらおうかなと思ってます。まさにAOP命ですよね。命が出てくるところというのを見せれたらなと思ってるんですけど。 T:その感じの中で、どういうものが見えるかっていうのは楽しみにしてていいですよね。 K:僕らもわからない。というか、全部を決めないことにしてるんです。だから、やっぱり直前とか、極端に言うとやってる時に出来上がって、こんなもんが生まれて、こんなことやりたかったのかなみたいなのが、下手したら、後から僕らもわかるみたいな感じで。ぎりぎり客観的に自分たちも楽しめるように、あんまり決め決めにしないようにします。僕も、僕の絵は実はないんですよ、会場には。描きます、そこで。大きい絵を。なので、来る機会がある方は、オープニングあたりと、初日1週間あたりと、真ん中1週間あたりのどれかと、最後あたりに来ると、描き始めの絵と途中の絵と完成の絵というのを見れる感じに。まさに、それもそこで生み出そうと思ってるんですね。どんな絵を描くのかも全然考えてないんですけど、そこで生まれるものを絵にしようかなと思ってます。 T:それも面白いですね。期間中にだんだんとね。 K:そうですね。あとは渡辺さんの作品と、nanacoさんの作品が、写真とかだと思うんですけど、それがあります。あと、モニターでAOPセッションの模様を随時見れるように、モニターで見れるのかプロジェクターで写し出すか何かして、それは映像作品として、今、太郎さんがつくってると思いますけど、僕まだ見てないんで、どんな感じになるか。すごくいいって言ってましたよ。 T:ぜひ沢山の人に来て欲しいですね。本日はどうもありがとうございました。 -end- 門秀彦さんの詳しいインフォメーション http://www.vidro.ne.jp/users/kado/ |
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by ken-G