大谷令文 (レイブン)


伝説の「MARINO」でデビュー以降、日本のみならずドイツでのレコーディング等、幅広い交流、フィールドで活動を続け、
自らのバンド以外でも様々なアーティストとコラボレーションを展開。ギタリスト大谷令文さんのロングインタビューです。

(2006年7月26日/momentにて/インタビュアー:TERA@moment



 大谷令文・ロングインタビュー

1960年3月27日生/大阪出身
11才の時に音楽に目覚め、初めてクラシック・ギターを手にする。その後ラジオから流れるレッドツェッペリン、ジェフベックなどに影響されロック・ギターに浸る少年時代を過す。1981年「MARINO」に加入、イングウェイ・マルムスティーンのサポート・アクトとして全国ツアーを回るなど伝説的なライヴを行いアースシェイカー、ラウドネスなどと共に当時のハードロック・ムーヴメントを作り上げた。1984年には、第2期ジェフベックグループのメンバーであるマックス・ミドルトン、クライヴ・チャーマンらとレコーディングしたソロ・アルバム「RAVEN EYES」を発表。「MARINO」解散後、元UFOのポール・レイモンド、元ANGELのフランク・デミノらと「SHANGHAI」を結成。その後、白浜 久(ex.ARB)、岡村靖幸、難波弘之(ex.バックスバニー、S.O.W.)、鈴木彩子、人見元基(ex.VOW WOW)、桑名晴子、BAKI(ex.ガスタンク)らとツアー、レコーディングするなど幅広いジャンルのアーティストとセッションを行っている。また、女性ロックバンド「BETTY BLUE」のプロデュースも担当。現在「大谷令文グループ」で活躍中。


ドイツでレコーディングするバンドっていうと、ニューウェイプ系とかだけだったんですけど。僕らはスコーピオンズっていうドイツのハード・ロック・バンドが使ってるスタジオでやらしてもらったんですけど。まだ無我夢中な時期とはいえ、ドイツのスタジオではエンジニアは、何十年もロックばっかりずっと録ってた人で。作業の手順的には、スムーズにできて、よかったですね。


TERA(以下:T)::まず、生まれた場所を教えていただけますか?

大谷令文(以下:R):僕は大阪生まれですね。大阪市内の長居というところなんですけど。長居競技場、サッカーの前回のワールド・カップのトルコ戦だったかな、日本とトルコ戦があった、長居競技場の近くです。

T:御兄弟は?

R:弟がひとりいますけど、ふたつ下で、普通のサラリーマンです。

T:小さい頃、よくいっしょに遊んだりとかは?

R:もちろん。まあ普通のその当時の遊びですけどね。かくれんぼ、鬼ごっこ、探偵ごっこ。

T:小さい頃、音楽に触れた記憶ってありますか?

R:うちの親父がへたなりに楽器をいじるのが好きだったんで、マンドリンやってみたり、バイオリンやってみたり、いつも雑音出してたのを、横で聴いてましたけど。でも僕自身は、ちょっとオルガンを習いに行ったぐらいで。それもすぐやめちゃいましたけど。そんなに特に何かをやってたというほどではないです。

T:小学校の時って、音楽以外に、クラブとか活動は?

R:小学校の時は、何もしなかったですね。下校部でしたね。漫画が大好きだったけど、少年マガジンとか、ちょうど「巨人の星」とか「明日のジョー」とかを、毎週楽しみにしてたですね。

T:中学入ると、なんか始めた事はありますか?

R:小学校から中学校に上がる時にギターを始めて、それで最初クラシック・ギターを習いに行ってたんですけど。部活としてはバスケット・ボールをやってました。


T:ギターを始めるきっかけは?

R:実は小学校の6年生あたりで音楽の成績がすごく悪くてですね、小学校の通信簿が確か1がついたからですね。音楽を聴くのは好きだったし、全然嫌いじゃなかったんだけど、要するに当時、音楽の成績をつけるのは、だいたい縦笛と歌じゃないですか。縦笛が全然好きじゃなかったので、あんまり真面目にやらなかったんです(笑)。それで親父が「何か楽器を習いに行ったほうがいいんじゃないか」という事で、クラシック・ギターを無理矢理習いに行かされたという感じですよ。でももちろんやってるうちに好きになって、だんだんのめり込んだっていう感じですね。中学校の途中から、ラジオで洋楽を知るようになって、最初はもちろんポップスだったんだけど、だんだんハード・ロックが好きになって。で、このギターの音は僕の持ってるギターの音と違うぞと気がつくようになって、雑誌とか見ると、どうもこの人達の持ってるギターは僕のと違うと。それで、いろいろ調べて、「これはエレキギターというものだ」と。で、高校入ってからエレキをやり出したんですけどね。

T:最初はどういう曲を? 

R:ディープ・パープル、ツェッペリンでしたけど。あと当時、はやってたのが、ツイストとかチャーとか。その辺もコピーしたことあったな(笑)。

T:なるほど。で、初めてバンドを組んだのはいつですか?

R:高校年生ですね。最初は学校の軽音楽部、最初にやったのはビートルズの「バースデー」だった。

T:発表の場っていうのは?

R:文化祭でしたね。4月に入学して、軽音楽部に入って、だいたい10月くらいに文化祭があるから、まあ半年練習して、初ステージ。

T:当時、ライヴを見に行った事は?

R:もちろん、いっぱい見に行きましたね。当時、来日したアーティスト、特に外タレとかはほとんど全部行ったかもしれない。いろいろいいアーティストを見れたので、それがすごく今の自分にかなりな影響を及ぼしてますね。もちろんリッチー・ブラックモアとかジェフ・ベックとか、そういう超一流のギタリストを何度か見たし、あとは、そんな有名じゃない、ナザレスとかステイタス・クォーとかというシブ目のバンドとか、あと当時よく来日してたのが、プログレッシヴのPFMとか、フォーカスとか、そういう音楽も好きだったし、ちょうど高校2年生くらいになると、フュージョン、クロス・オーバー・ブームというのになってきて、それでこれは面白そうな音楽だっていうんで、ジャズも見に行ったりしましたね。若かかったから、そんな大好きになったわけじゃないけど、でもやっぱりキース・ジャレットとかチック・コリアとか、一流のジャズ・ミュージシャンの生の演奏を若い時に見て、なんかわかんないけど、「これはすごく素晴らしい音楽だ」っていうのは、わかったんで、よかったと思いますね。とにかくいっぱいライヴ見に行きましたね。



T:学校以外のバンド活動っていうのは?

R:高校3年ぐらいから、だんだん外でやるようになって、それで大阪市内で、いろいろミュージシャンのつながりができて、後々にアースシェーカー組んだヤツだったり、ラウドネスのメンバーになるヤツだったりとか。まあ、いまだに交流は続いてますけど。

T:最初の頃のライヴは、どの辺りで?

R:いわゆるライヴハウスに出るようになったのは、大阪のバハマ(バサマ?)ていうとこ、ちっちゃいとこなんですけどね。それ以外は自分達で、公民館を借りて コンサートしたりとか、そういうこともやってましたね。当時は大阪では、ハード・ロックはそんなに認められてなかったというか、しいたげられてたっていうか(笑)。やっぱりフュージョンが人気あったり、サザンロックやAORが人気あったりしたので、なかなかライヴハウスでも大きな店には出してもらえないという状況がハタチくらいまでずっと続きましたね。

T:高校後半のバンドっていうのは長続きを?

R:いや、10代の時にやってるバンドというのは、全然長続きしなくて、けっこう解散しては次またもっといいメンバーとやりたいっていうんで、メンバーを引き抜いたりとか、それで、しょっちゅう、変わってましたね。

T:高校出る頃、将来のこと考え出すと思いますが。

R:そうですね、高3くらいから何となく、「プロになりたいなあ」とは思ってましたね。どうすればなれるのかって、皆目、見当がつかなかったから、本当ライヴやるしかなかったです。今から考えると、多分東京の人だったらいろいろ身近に、プロ・ミュージシャンがいるから、業界のシステムとか、そういうの知識としてわかるんだろうけど、大阪にいてると、当時は何もわからなかったから、よくライヴハウスの楽屋に押しかけていっては、東京から来たミュージシャンに、質問攻めしたりとかしたけど(笑)。

T:高校出た頃は?

R:アルバイトしながらバンド活動っていう、典型的なパターンです。


T:東京に出るっていうことは特に?

R:いや、当時は考えつかなかったですね。今から考えると同世代のミュージシャンで、東京の音楽学校に行っていたヤツとか、意外といてたらしいんだけど、音楽学校に行くていうのはもう、ちょっと自分の性に合わなかったし。ひたすらライヴ活動やってたって感じですね。

T:何か転機っていうか、節目みたいなものは?

R:やっぱり東京にライヴに来るようになった21才ぐらいの時かな。東京で最初にライヴで来たのが、新宿ロフトっていう、まあ大きなところで、大きいていうか、老舗の所だったんで、いろんな評論家の人とか雑誌の人とか、見に来てくれて、それがきっかけですね。

T:それはバンド?

R:ええ、「MARINO」ってバンドの時ですけど。うまいぐあいに、ちょうどその頃から、ハード・ロックバンドがいっぱいデビューするようになって、一応、ヘビメタ・ブームといわれてましたけど。でもこっちとしてはもうずっと、何年も何年もやってたから、ブームといわれてもピンとこなかったんだけど。

T:具体的にそうゆう話になったのは。

R:具体的にデビュー、アルバム作らないかという話をレコード会社からいただいたのは、83年だったから、23の時。東京に行き出してから、1年ちょい、2年弱くらいかな。その間もずっとライヴばっかりでしたけど。

T:最初のレコーディングは、どんな感じだったんですか?


R:最初のレコーディング、ファースト・アルバムは、関西のスタジオで録って、宝塚で。宝塚歌劇団のスタジオで録音することになって。で、実はアルバムのバック・コーラスには、元宝塚のお姉さん達の、コーラスが入ってたりするんです(笑)。でもそのスタジオも震災でなくなっちゃった。ファースト・アルバムは本当に無我夢中で、本当訳わからずに作ってしまったけど、エンジニアも関西の人で、やっぱり宝塚の音楽をずっと録音してた人だから、ロックを録るのは初めてで、苦労しましたけど、ずっとライヴやってたエネルギーっていうのは、うまく録ってくれてたのかな。今でもファーストが好きっていう人は多いから。今聴くと、自分としてはそんなに満足してないけど、お客さんが好きなのは、すごく理解できますけどね。


T:初めて音源を出した中で、回りの変化とかはあったんですか?

R:そうですね、いや、やる事は、実際にライヴしてツアーしてっていうのは、その前から全く変わりなかったですね。もちろんレコードの売り上げとか、そういうので、音楽でメシを食えるようにようやくなったっていう実感は、ちょっと経ってからありましたけど。それはやっぱりうれしかったけど。

T:プロとしての意識、みたいなものはその辺から?

R:当時はそうでもなかったかもしんないな。もう無我夢中だったから。毎回いい演奏をする、いい演奏というか、まあお客さんが熱狂的だったから、本当に満足して帰ってもらうためにこっちは一生懸命汗流して演奏するっていう、プロレスみたいなもんですね。

T:次のアルバムはどういう感じで?


R:MARINOのセカンド・アルバム。ドイツ・レコーディングをしたんですけど、当時ドイツでレコーディングするバンドっていうと、ニューウェイプ系とかだけだったんですけど、ベルリンとか。僕らはスコーピオンズっていうドイツのハード・ロック・バンドが使ってるスタジオでやらしてもらったんですけど。まだ無我夢中な時期とはいえ、でもドイツのスタジオではエンジニアは、ロックばっかりずっと録ってた人で、何十年も。だから作業の手順的には、もうスムーズにできて、よかったですね。

T:ドイツはレコーディングだけを?


R:そのセカンドの時は、レコーディングだけだったかな。それで、結局3枚目もそのスタジオ気に入ったので、3枚目のアルバムも同じドイツのスタジオでやることになって、その時は2本、ライヴもやってましたけどね。 


T:そのライヴっていうのは?

R:いや、楽しかったですよ。別にそんなにきっちりブッキングしたわけじゃなくて、たまたまオフの日にイベントがあったから「出ないか」って通訳の人にいわれたのかな。通訳の方が日本人なんですけど、ドイツに住んでて、ずっと20年ぐらい住んではったのかな、ダモ鈴木っていう人なんですけど、知ってる人は知ってる、CANっていうドイツのバンドでヴォーカルやってた人で、その人がたまたま通訳で、それでいろいろ、ドイツは国がそういう音楽にすごく力を入れてるとこなんで、大学の中でのフリーコンサートとか、そういうことをやってる場所が多くて、よく連れてってもらったんです。で、「来週ここで演奏してみない?」みたいな、本当軽いノリで。まあ、楽しかったです。

T:2〜3枚出す中で、日本での活動の変化とかは?

R:そうですね、3枚目を出したあとに、イングヴェイ・マルムスティーンていう、ギタリストのオープニング・アクトで、ずっとツアーを回れたり、まあちょっとずつは状況はよくなってった感じかな。

T:イングヴェイのツアーのオープニング・アクトはどんな感じだったのですか?

R:いや、楽しかったですよ。イングヴェイのギターは本当に好きだったし、間近でずっと毎週見れて、まあ話することもできたし、面白かったですね。いわゆる、天才肌の人っていうか、本当刺激になりましたね。ギター・プレイヤーとして。みんなメンバーもすごく純粋に音楽好きなヤツばっかりで、楽しかったです。


T:その後の活動になんか影響はありました?

R:どうでしょうね、あまり意識はしてないですけど、多分影響は受けてるんでしょうね。ステージングとかライヴの作り方とか。

T:そのツアー後は?

R:ちょうど聖飢魔がデビューした頃かな。聖飢魔がデビューして、モトリー・クルーとかそのテのバンドがぐーっと人気が出てきて、その世の中がいわゆる純粋なハード・ロックっていうよりは、もうちょっとバッド・ボーイズ・メタルとか、バッド・ボーイズ・ロックンロールかなんか、とかもう一個は本当に派手な衣装、派手な髪型、モトリーみたいなLAメタル、そういうふうになってきて、それで僕達としては、純粋に音楽をやりたかったんだけど、どうもこの時代とずれてきたなみたいな判断があったので、1回活動をやめたのが85年、86年ぐらいだったかな。

T:それで、その後、どういう流れに?

R:実はその頃までずっとMARINOっていうバンド全員が大阪に住んでたので、僕はバンドが1回お休みになったから、「東京に住みたいな、東京に出て行って、なんか自分の活動ができればな」と思って、それで一人で東京に出て来たんですけどね。で、東京に来て、メンバーを探しつつ、バンドを組もうと。いってみればまた1からバンドを作る作業をやってたんですけど、その間にスタジオの仕事とかもやらしてもらえるようになって、そこで知り合ったキーボードの難波弘之さんとか、いろんなミュージシャンからまた改めていろんな音楽のことを勉強さしてもらいましたね。

T:違うバンドを組むとかそういうことではなく、ソロ活動みたいな感じですか?

R:いや、バンドを作ろうとしてたんですけど、ちょっとその辺の時期がビジネス上で、いろいろややこしいこともあったんです。レコード会社が僕のソロ・アルバムを作ろうとしてたんですが、僕自身はバンドを作りたくて。で、ごちゃごちゃしてるうちにそのレコード会社が倒産しちゃったってこともあって(笑)。

T:じゃあその音源は発表されず?

R:デモ・テープを録っただけでしたね。それは本来だったらアメリカのギタリストのロニー・モントローズっていう人がプロデュースしてくれるはずで、1回ロスにも会いに行ったんだけど、それは結果的には、話は途中で終わっちゃったけど。

T:メーカーがなくなった段階で、新たなメーカーっていう感じ、、。

R:でもなくて、当時はレコード会社も終わったけど、マネジメントみたいな、僕の個人のマネージャーもいなかったから、ちょっと身動きが一番とれない時期でしたね。だからそれ以降はしばらくスタジオの仕事やったり、バック・ミュージシャンでツアーやったりとか、そういうことがしばらく続いたかな。

T:じゃあ逆に今まで交流しなかった外のつながりみたいなのっていうのは、、。


R:そうですね、一気に東京に出てきてから増えたっていう感じですね。


T:どういうミュージシャンとの交流が主だったんですか?

R:やっぱり難波さん関係。センス・オブ・ワンダーとか、あとツアーをやらしてもらったのは岡村靖幸、ピンクとか。岡村靖幸のツアーはすごく音楽的にも面白くて、MARINOっていうのはやっぱりリフ主体のヘビー・メタルだったけど、岡村靖幸はカッティングがメインになるから、家では好きで聴いてきたけど、実際人前では演奏したことのないタイプのギター・プレイが多かったんで、面白かったですね。

T:それは何年間かずっと?

R: いや、1年ぐらいかな。

T:それは80年後半?

R:そうですね。

T:自分の音楽活動的には次は?

R:ちょうどその頃は、たまたまイギリスから日本にやってきた元UFOのキーボードのポール・レイモンドていうヤツがいて、彼が日本でバンドを組みたがってるという話を人づてに聞いて、それで会ってみて、意気投合して、「シャンハイ」って名前で、結局日本人でヴォーカルが見つからなくて、ポール・レイモンドが、じゃあ俺の知り合いのアメリカ人で、それも元がつくけど、元エンジェルのフランク・ディミノていうヤツがいるから、そいつを日本に呼ぼうっていって、それでデモ・テープ作って。レコードにはならなかったんですけど。その後も1回そのバンドが解散してからも、ポール・レイモンドとは今度は別の名前で、やっと日本人のいいヴォーカルが見つかったので、MI-5っていう、MI-6っていうのはジェームス・ボンドがいるところで、MI-5っていうのはイギリス国内の諜報部だったっけな、そういう部署があって、MI-5っていうバンド名でしばらく活動してましたけど。

T:それは、ライヴ主体で?

R:そうですね。ライヴばっかりでしたね。

T:それは何年ぐらい続いたんですか。

R:それは意外と長かったんですけどね。


T:90年代?

R:90年代入ってからですね。3〜4年だったかな。その時もちょうどタイミング悪く、イカ天ブームだったりしたので、バンド・ブーム。僕達がやろうとしていたのはブリティッシュのたとえばフェイセスとか、ハンブルパイとか、そういう感じのロックだったので、ちょっとタイミングが悪かったのかな。でもそのポール・レイモンドっていう人は、60年代からイギリスでずっと活動していて、UFOの前にはサヴォイ・ブラウンとかチキン・シャックとか、いわゆるブリティッシュ・ブルースのいいバンド、地味だけどいいバンドにずっといたヤツだから、彼にやっぱりすごくいろんなこと教えてもらいましたけどね。いい音楽も教えてもらったし、プレイのコツみたいなものかな、それはすごく今でも思ってます。

T:その他のバンド活動としては?

R:僕自身としては、その後は、もういわゆるバンド名を考えるのは面倒くさいなていうことになって、「大谷レイブン・グループ」っていう、自分の名前で活動を始めて。それが92〜93年くらいかな。90年代前半。それで、トリオのギター主体の音楽をやりたくて。今でも一緒にやってくれてるドラムのロジャー高橋とか、ずっとその頃から一緒なんですけどね。

T:それは事務所とかメーカーとかは介在せずに。

R:いや、全くなしで。

T:自分達で自由にという感じ?

R:そうですね。

T:主にライヴ主体の活動。

R:ええ。


T:その辺りの時期をサポートした印象的なアーティストは?

R:えとね、桑名正博さんの妹で桑名晴子っていう女性シンガーがいて、彼女とは大谷レイブン・グループのメンバーが全員そのまま参加して、『ドラゴン・ネーム』っていうアルバムを作りましたけど。それでその後も一緒にツアーやったり、ほとんど桑名晴子のバンドみたいな感じで、しばらくずっとツアーしてましたけど。ついこの間、僕のツアーの大阪で、晴子がゲストで出てくれて、そのアルバムの曲やったんですけど、盛り上がりました。『ドラゴン・ネーム』っていうアルバムですね。

T:バンドのメンバーとかはそのままで?

R:いえ、ちょこちょこ変わったりしてましたね。ロジャー高橋とかは、1度脱退して、それからしばらくは別のメンバーでやってた時期があって、そのあたりからアコースティック・ギターが好きになって、アコースティックでライヴやったりしてましたね。誰かとデュオでやったり。

T:デュオの相手とかいうのは、どういうジャンルの人なんですか?

R:えとね、ジョージ・パイっていう、ブルースロック・バンドのギタリストの原マサシ君とか、あとは高橋リョウくんていう、彼は大槻ケンヂの特撮っていうバンドのメンバーでもあるし、スージークリームチーズていうキーボード・トリオのメンバーでもあるし。その高橋リョウ君とやる時は"りょうぶん"ていう名前で(笑)、今でもたまにやってますけど。

T:音楽的には、どんな音楽に?

R:アコースティックだけど、やっぱりロックですよ(笑)。でもカヴァー曲も入れたりして、オリジナルとカヴァーと、両方やってますけどね。あとは元 子供バンドの湯川トーベンさんともアコースティックでよくやってたし、あとはそう、思い出した、トーベン・ロック・バンドっていう、これはトーベンのバンドだけど、トーベンのアルバムの曲をやったりするバンドで、それはトーベンと僕とドラムのロジャー高橋と、それもトリオですけどね。なんかトリオばっかりだな(笑)。


T:90年代後半の音源で残ってる音源は?

R:90年代後半、元ガスタンクのヴォーカルのBAKIの「インナー・ゲイト」
アルバムにロジャーとかと参加した時のが90年代半ばかな、あとはS・O・Nていうユニットがあって、それは元ARBの白浜 久と難波弘之さんと、僕との3人の頭文字、エス・オー・エヌ、そのままなんですけど(笑)。それが『光の街』ていうアルバムが出てますね。

T:2000年入って?

R:2000年入ったあたりから、ちょうど再結成ブームじゃないけど、とあるハードロックのイベントがあって、「MARINOをもう一回やってみないか」という話がきて、ずっと断り続けてきたんですけど、2002年だったか、「一回、まあやってみようか」という事で、昔のメンバーで一回ライヴやったんですけど、それが思ってた以上に評判がよくて、「アルバムも作ってみないか?」というところまで話が発展して、それで1枚『ハイブリッド』っていう、MARINOの再結成アルバムを作ったんですよね。

T:時代が変わって、何か変化は?

R:そうですね、基本的には一緒だと思います。やっぱりギター主体のいいメロディーがあって、いいリフがあって、いいグルーヴがあるハード・ロック。もちろんメンバーそれぞれ音楽ずっとやってたから、昔よりうまくなってるし、レコーディングはスムーズに楽しくできましたけどね。それをプロデュースしてくれたのが、元アクションの高橋ヨシロウさんという人で、ヨシロウさんのアドバイスは、やっぱりMARINOの4人の良さをうまく引き出すだけじゃなくて、今までになかった新しい要素をインプットしてくれたかな。コーラスの付け方とか、そういう部分はすごく勉強になりましたね。

T:再結成後は活動は続くんですか?

R:ええ。今でもまた解散したわけじゃなくて、年に何回かは、MARINOでやってますけど。


T:新しいアルバム『RAVEN EYES ll』の話ですけど、今回のアルバムのコンセプトとかはあるのですか?

R:コンセプトというのは特になかったんですけど、とにかく自分の好きなギター・プレイを表現したいっていうことで。だから結果的にすごい幅広い楽曲がそろいましたね。もちろんハードなのもいまだに大好きだし、でもソフトなバラードも好きだし、アコースティックも好きだし、ブルージーなのも好きだし。でも決してそれがバラバラになってない仕上がりになったと思います。自分のギター・プレイを核にうまく統一感が出せたと思いますけど。あとは今まで知り合った、本当に素晴らしいミュージシャンの仲間と一緒に音源を残したかった。それで、いっぱいいろいろゲストが参加してくれてるんですけどね。

T:今、ツアー真っ最中ですもんね。

R:いやもう、盛り上がってます。久々の長いツアーなので、けっこう体疲れますけど、でも本当日々日々、演奏の内容がよくなっていって、本当楽しいですね。ツアーのいいとこは、毎日、毎日、演奏できるっていう所ですね。僕らはやっぱり演奏できるのが一番楽しいから、移動とかそういうのが辛くても、1日24時間の中の一番ピークがその演奏してる、1時間ちょっとかな、本当にそこに1日のエネルギーが集約されるって感じで、本当楽しくできてます。

T:今後の予定とかを教えて下さい。


R:願わくば次のソロ・アルバムを、年内には作り始めたいんですけど。近いうちにまた出したいと思ってます。それで、今回のアルバムのツアーっていうのも、また年内にもう一回やろうとしてるんですけど、10月か11月ぐらいに。今回のツアーの北が、仙台までだったんで、今度は北海道あたりまで行きたいなとか、南は博多までだったので、鹿児島、沖縄まで行きたいなとか、いろいろ考えています。

T:楽しみですね。今回のアルバムを一言でいうと?

R:いやもう、大満足してます。なかなか自分で作って、自分で何度も聴けるアルバムっていうのは、今まで過去なかったんですけど、でもけっこう今回のはずっと聴けますね。

T:そうですね。次回のアルバムも楽しみにしています。今日は、ありがとうございました。

R:ありがとうございます。お疲れさまでした。


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大谷令文インフォメーション

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詳しくは http://www.dangercrue.com/まで

大谷令文さんの詳しいインフォメーションに関しましては、
大谷令文 オフィシャルHP(http://homepage3.nifty.com/wishingwell/ohtani.htm)まで。