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momentと交流のある方々へのインタビュー
#59
Talk&Interview
AOI
SHAZNAのギタリストとしてデビュー。
現在はソロ活動と共に監督として映画制作も行なっている、
AOI さんのロングインタビュー。
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momentに関連したミュージシャン、バンド等を紹介します。
#59
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特集:「moment Xmas SESSION 2007」
の特集です。
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#59 CLIP:杉 真理 30周年記念 特別企画 「月刊:杉 真理 Vol.7」 LIVE:「MONTHLY AOP SESSIONS FINAL 門秀彦+渡辺太朗×山口洋」 DVD:「ZABADAK:"ZABADAK 2006〜2007@CLUB CITTA'"」 連載コラム:TERA'S SOUNDTRACK REVIEW #59/ 「栄光のル・マン」 |
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AOI
SHAZNAのギタリストとしてデビュー。現在、ソロ活動等も行ない、映画製作団体「AMLABO
FILM MAKERS」を立ち上げ、
自ら監督として映画制作も行なっている、AOI さんのロングインタビュー。
(2007年11月2日/momentにて/インタビュアー:TERA@moment)
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AOI
(AOI) Talk&Interview
#59 |
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AOI ロングインタビュー |
TERA(以下:T):では、宜しくお願いします。
AOI (以下:A):宜しくお願いします。
T:まず、生まれた場所を教えていただけますか?
A:はい。北海道の小樽という所で生まれました。
T:御兄弟とかは?
A:兄弟は、3つ下の弟が1人います。
T:御兄弟仲良く?
A:実はすごく仲良くって。彼は役者をやっていましてコンスタントに頑張っていますね。TVでもちらほら見かけたりとか。
T:なるほど。小さい頃はよく一緒に遊んだりしたんですか?
A:してましたね、はい。連れて歩いて。
T:どんな遊びをしていたとか、記憶に残っていますか?
A:えーっと、サッカーとかよくしましたね。弟3つ下なんで、弟は、こう2人、その友達と。で、僕が1人で、1対2でサッカーをやるというのを、よく家の前の公園でやっていましたね。
T:あ、なるほど(笑)
A:(笑)あ、でもそれは、北海道じゃなくって、その後千葉の方に引っ越したんですけど、それからで。両親は北海道で生まれは僕も弟も北海道なんですけども、自分が幼稚園の時に、千葉の方に。最初、松戸の方だったかな・・・に越したんで、生まれだけ北海道なんです。
T:小学校も松戸の方?
A:小学校は3年生の2学期まで松戸で、3学期から千葉の市原っていうちょっと田舎に引っ越しまして。で、しばらくちょっとイジメられるという。事件があると。(笑)
T:小学校の時はどんな感じだったんですか?
A:んー、小学校の時はですね。まぁ、すごく元気で。毎日先生に怒られる。で、背は子供の頃からすごく高くって。なんですけども、よく怒られるんで席替えしても必ず1番前の席。そういうタイプでしたね。
T:部活とかは?
A:部活はサッカー部でしたね。小学校の時サッカー部で、でもそんなに上手じゃなかったんで。2軍でキャプテンをやるという。結構しきったりするのが大好きだったんで、体育祭とかでは応援団長をやりたい人で。で、部活もしきりたかったんですけども、どうしても1軍はしきらせてもらえず。(笑)
T:他には?
A:で、ブラスバンド、ラッパを始めたのが小学校の時ですね。
T:きっかけは何だったんですか?
A:きっかけは、体育祭。小学校の運動会あるじゃないですか。運動会で最初と最後行進とかしますよね。その時にファンファーレを吹く役をクラスから代表で2人出すことになって。で、体が大きかったもんでおそらくその肺活量を期待されて
。じゃあ、やってみな、みたいなことになって。やりたくて始めた訳じゃなかったんだけども、まぁやってみたら面白かったんで。それがずるずるとブラスバンドをその後やるようになっていった。
T:では、一通り吹いてって感じですか?
A:そうですね。でもやっぱりトランペット。トランペットから始めて、中学校の時はトランペットとコルネットで。まず中学校に行っても体育祭になるとやっぱり管楽器、トランペットがたくさん必要になったりするんですよね。マーチとかやるのに、編成で。で、自分はユーフォニュームという楽器、バリトンの楽器なんですけど、をやりたかったんですけど、やっぱりそっち(トランペット)をやることが多かったりもしながらも、トランペットやりながらもコンクールとかではユーフォニュームっていう、トロンボーンとホルンのもう少し低音の楽器をやってましたね。
T:その頃、聴いていた音楽っていうのは、それ系の?
A:そう、バリバリですね。バリバリって言ってもそんなにマニアックな感じではなく、学校で教えてもらうやつに毛が生えたぐらいで。自分たちが演奏するブラスバンドの曲と、あとはビバルディとかフォルストとかそういうのを家で聴いていました。その頃は全然ロックとか聴いていなくて、ビバルディの『冬』が泣けるとか。最初に買ったCDとかもそんな感じですよ。(笑)
T:(笑)なるほど。
A:で、お金ないからそれしかないじゃないですか。今はもちろんCDをいっぱい持っているけど、その頃はそれしかなかったんで、もうそれをずっと聴いてるんですよね。今思うと本当にね、親が心配するのもわかる。(笑)もう帰って来たらそれを永遠にずっと聴いてるみたいな。
T:中学まではそういう感じの生活が続いて?
A:そうですね。部活に関してはずっとそうでしたね。
T:高校に入ると、何か変化はあるんですか?
A:高校に入っても迷わず同じくブラスバンド部に入ったんですけど。でもそのブラスバンド部、うちの高校は、僕らが入って男女共学が成立したんです。その前はずっと女子高だったみたいで。なので男女でやるブラスバンド部とかはすごく弱くって、みんな集中力が散漫というか。そういった中で自分はテナーサックスやってたんですけど、アルトを吹いているやつが中学校の時からエレキベースをやっているやつで。BOOWYをコピーしたりとか。彼の影響で自分もギターを始めたみたいな。だから例えばギターヒーローに憧れて始めたというよりは、ブラスバンドをやるようなニュアンスで、そのアルトをやってるやつがベースやってるからそいつとセッションやるためにギターを始めて。一生懸命練習してましたね。
T:最初はどういう曲をやっていたんですか?
A:最初はですね。僕はその彼がビートロッカーだったんで、BOOWYとかPERSONSとかをやりたかったんだけど、その高校が、すごくジャパンメタル高校だったんですよ。EARTHSHAKER、44MAGUNUM、LOUDNESS、そこらへんが主流で。なのでそこらへんが弾けないと仲間に入れない(笑)わかります?
T:ええ。
A:バンドで例えばみんなでリハーサルスタジオに入ろうと言って、さあなんかやってみようってなった時に、その曲が弾けないとできなかったもので。自分はあんまりそういう曲とか聴いたことなかったんですね。ほとんどビバルディな男だったんで。(笑)
T:(笑)
A:なのでそういう曲を一生懸命練習して、そういった中で仲間が増えて来て、それからそれこそBOOWY、REBECCA、PERSONS
、BARBEE BOYSとか、そこらへんのビートロックをやるようになって、結構コピーバンドたくさん組んでいましたね。
T:それが高校2年ぐらいですか?
A:高2からですね。なのですごい遅いんですよ、ギター始めたのが。その自分のバンド仲間の中でも1番最後のギタリストみたいな感じでしたね。
T:新たに触れた音楽の中で何か好きなものって出てきたんですか?
A:あぁ、やっぱり、布袋さんですかね。今でも好きですけど、実際何でそんなにハマったかっていうと、ライブビデオ『GIGS
CASE OF BOOWY』というのがあるんですけど、それをベースをやっていた彼に借りて見たのがきっかけで。音楽って、音を合わせるっていう作業はブラスバンドでもずっとやってる作業だし、やっぱりピッタリ決まると気持ちいいんだけど、そのライブ映像を初めて見て、「これはすごくカッコイイぞ」と。で、それをやりたいなと思ってから意識が変わって、みんなで合わせるだけじゃなくて自分たちでライブハウスを借りて。今思うと本当にチープな発表会なんだけど、そこでライブパフォーマンスの初めの快感を知ったりとか。そのきっかけっていうのがBOOWYのやってたビデオ。
T:なるほど。
A:やっぱりそしたらLIVE行ってみたいと思うじゃないですか。ただ悲しいことに自分はギター始めるのが遅かったので、自分がギター始めた時にはもう『LAST
GIGS』が出てて、すでに解散してたから行けなかったんだけど(笑)なんか、そこらへんは大きかったかなぁ。
T:高校出る頃、将来の事を考え始めたりすると思うんですけど、その辺はどういう感じだったんですか?
A:実は高校に入る前の中学2年の時に将来のことを考えまして。
T:そうなんですか。
A:はい。プラモデルとか物を作ったりするのが自分は好きだったので建築家になろうと思って。建築家になるためには建築免許2級や1級が必要なのでやっぱり大学に行かなきゃいけない。なので付属高校に入ったんですよ。でそのまま建築の勉強ができる大学にも行ったんですよね。なので一応高校に入る前に自分の進路は決めていたんですけども、高校2年でエレキギターにハマり、その後大学で建築を勉強するどころか曲を作り始め、ちょっと路頭に迷って行くという。(笑)いわゆる絵に描いたような。
T:では、大学へ行ってもバンドはいくつか?
A:やってましたね。ちょうどその付属高校で、自分がギターを始めるきっかけになった彼も大学に上がり、学科は違ったんですけども同じ音楽サークルに入って。親からは「音楽は趣味でやるように。」と釘を刺されていたんですけど、まぁそうはいかず。そこで高校の延長でサークルの中でコピーバンドみたいなものをを組んで学祭で演奏したりとか、2年まではそんな感じでやっていましたね。
T:オリジナルというのはいつの段階から?
A:大学の2年生なんで18歳ぐらいだと思うんですけど。サークルの中ではオリジナルとかもやっているんですけどやっぱりコピーバンドが主流で。自分は神奈川の学校だったんですけど、東京のライブハウスにいわゆる通常ブッキングという形で出演するバンドが出始めたんですよ。で、そのためにはやっぱりオリジナルが必要だし、自分もみんなと合わせるまではいかないにしても作っている曲とかがあって。それをやるためにはどうしたらいいかってところでオリジナルメンバーを探すことになると。
T:それで、どういった流れになっていくんですか?
A:で、これまた自分がギターを始めるきっかけになった彼が始めたバンドが・・・あっ、本当は彼とバンドをやるつもりだったんですが,その彼残念なことにそこのサークルにいた先輩たちのバンドに引き抜かれて、オリジナルバンドを始めたわけです。だけど、その彼の知り合いの紹介でいくつかバンドを紹介してもらったんですよね。その中の1つに後にSHAZNAとなるIZAM君とNIY君がやっているバンドがあって。彼らと出会い、彼らが当初やっていた曲があったんですけどそれを1回自分が全部クビにして、自分の曲にすり替えて、SHAZNAとして活動を開始した。なのでSHAZNA以外のオリジナルバンドってやってないんですよね。けっこう皆さんバンドを点々としたりとか、自分の周りでも1つ解散すればそれがまたいろいろくっついて新しいバンドになったりとかしてたんだけど、まぁ、運良くか悪くかわからないですけど最初のオリジナルバンドがSHAZNAで、そのまま活動していった。
T:バンド名も最初からSHAZNA?
A:最初からSHAZNAですね。その頃はIZAM君とかもライブハウスのオーディションに出るぐらいのレベルでやっていて、SHAZNAっていう名前があって、自分が入って曲を作ることになりました。で、バンド名どうしようかって話になったんだけども「SHAZNAってどういう意味?」って聞いたら「意味ない。」って言うんですね。あ、それは良いかなって思って。それじゃあバンド名は残して、とりあえずやることを変えようと。まだ自分は大学に行きながらだったんですけど、学校との両立ってやつですね。上手くいかなかったけど(笑)全然上手くいかなくてビックリしちゃった。
T:で、曲作りとライブ活動が始まるんですか?
A:そうですね。当時自分は大学生やりながら週に3回リハーサルして毎週末ライブをやっていたんですよ。で、合間に曲も作るじゃないですか。その頃はなんかライブやるたびに新曲がなきゃだめだみたいな。お客さんも最初は2人とか3人とかから始まるわけだし。そういう生活をしていると大学に行く時間がなく、でもバイトはしなきゃいけないし。で、留年はするし、休学はするし、ですけども曲は常に作り続けて・・・みたいな。
T:結成から1年ぐらいの間、どんな感じだったんですか?
A:結成から1年は。まずデモテープを作ることから始めたのかな。何曲かオリジナルを作って、その内の3曲を録音して、それを持って都内近郊のライブハウスを週に1回ブッキングしてもらって。それをやって行く中でお客さんが増えていったんですよね。最初は通常ブッキングで4番手5番手と一緒にやっていくんですけど。その中でお客さんが増えてきて、だいたい100人ぐらいが見えてくるとワンマンライブっていうのができると。そこで新宿のLOFTでワンマンライブをやったというところが1つのピークというか。そうなってくるとライブハウス業界の中でも「SHAZNAというバンドがあるらしい」というところまでいって。そうなるとじゃあ今度はCD作ろうみたいな話になってくる。それで僕らCD作ったんですけども、当時は今みたいなインディーズの全国流通というかメジャーが絡んでるインディーズ版みたいなものがなくて、いろんな形で上手くいかなかったですね。やればやるほどお金がなくなるじゃないけど、ぶっちゃけ騙されちゃったりなんかもしたし。そんなことをずっと続けていて、それでもかろうじて動員を増やすことには成功したのかな。
T:2年目ぐらいからは、お客さんも?
A:うん、2年目ぐらいからですね。でもけっこう大変でしたよ。とんでもない修羅場がね、毎週のように待ってるんですよね。
T:デビューっていうのはいつの段階なんですか?
A:そういった中で僕らはインディーズでCDを4枚出してるんですけども、その1枚目は僕らもまだ知恵もなかったし協力してくれたところと上手くいかなくって。でその次に、これじゃ駄目だ、これじゃお金もないしこれ以上続けられないということで、今ではあまりないことかもしれないけど自分たちでお金を出し合って全部作ると。それで納得いくものを作って、それで駄目だったら解散だぐらいのつもりでみんなで借金背負ってミニアルバムを作ったんですよ。で、自分たちとしては良いものができた。今聴くとずっこけるぐらい音が軽いんですけど。それをアポ無しであらゆるプロダクションとかに撒いたんですよね。その撒いたのがきっかけで今のバップていうレコード会社といくつかのプロダクションから声をかけていただいて、その中でそのバップというところが、その頃は業界初インディーズの全国流通を雑誌と連動してやると。これは乗るしかないなと思って。そこでレコードを作るために5曲また新しい曲を作っていたんですけど、それを動かしているうちに、いくつかのプロダクションの中からその後所属することになったLUNA
SEAのいるスイートチャイルドから声がかかって、バップのレコーディングをやりながらもスイートチャイルドとの話も固まってきて。でバップからのCDも出したんですけど、その後再度スイートチャイルドという会社ともう1枚ミニアルバムを別に作って、それがBMGから出たんですね。で、それを持って僕ら全国のライブハウスをバシバシ回ったんですよ。それをやっている間にTVからも声がかかって、そこからIZAM君のルックスと『Melty
Love』という曲が世に出るようになって、そのままBMGからデビュー。だからかなりインディーズでライブの本数と作品作りはかなりやって、僕らとしては満を持して『Melty
Love』でデビューだったんですけども、デビューしてまたごろっと変わっちゃったんですよね。
T:デビュー後、変わったっていうのは?
A:デビュー後。これはメンバー間でもいろいろ思うことが違うだろうし、見ている側とやっている側でも意識が違うと思うんですけど・・・『Melty
Love』が思いのほかに売れたんですね、正直言って。それは事務所もレコード会社も想定外ぐらい。その時は自分たちもそれがそれだけ売れるっていうのがイメージとしてわかってないですよね。いくら売れたらどうなるかっていうのもわかってなかったし。しかもレコードが出た日には自分たちはその後出すアルバムの制作を終えていて、そのアルバムのプロモーションビデオを撮影するためにアメリカへ行ってたんですよ。アメリカに行っている間に『Melty
Love』が出て、毎日のようにセールスがFAXとかでロスに入って。すごい売れてすごいことになってると。でも自分たちはこっちで仕事してるから全然わかんない。で全部仕込んで行ったんで、『すみれSeptember
Love』も出る予定になっていて、帰国したら『すみれSeptember Love』もリリースされて、それもまた皆がわいわい言っていると。なのでその時は、今思えば若干舞い上がっていましたね。ただ自分たちは音楽でのし上がろう!と自分はすごくそう思っていたんですが、それがなんか確実にキャラクターで売れてるな・・・と。
T:なるほど。
A:うん。当時たまごっちが廃れてきてた時代だったんですよ。で自分がよく言っていたのは「たまごっちの代わりにIZAMってことになってる。これ良くない!」みたいな。なんだけどその流れは全然止められなくて。
T:うん。
A:その後1stアルバムが出てミリオン売ったんですけども、その後いろいろありまして、そこで失速してしまったのを力で持ち上げられなかった。というのは、デビューしたタイミングでの売れ方を自分たちがコントロールできなかったからだなって。それは自分の反省材料でもあるけども、レコード会社と事務所の方もそういう準備が全くないところでどんどんオファーが来て、レコードが売れて・・・で、やるべきことをやる前にやらなきゃいけないことが増えちゃって、かなりバランス崩壊していたんだなと今では思いますけど。その頃はね、やっぱりね。まぁ24歳は大人だと思うんですけど、できなかったですね。・・・こんなことを話していいのかわからないけど。昼間っから。(笑)
T:次の展開はどういう感じになるんですか?
A:その後は、デビューした翌年にアルバムが出るんですけども、その後レコード会社を移籍するんですよね、BMGから東EMIってところに。それはすごく良い形で移籍できて、『恋人』っていうシングルを作って。それが半年ぶりとか言ってたんですけど、それでも今で考えるとすごくタイトですよね。で、アルバムまで東芝EMIで頑張っていって、その後、僕らはあまり望んでいなかったんですけどもベストアルバムを作ることになり、作って、そこで、活動休止へのシナリオが動き出す。
T:なるほど。
A:単純にそれっていうのは、さっき話したようにデビューからの経緯で会社とコミュニケーション不足になってしまったということもあるし、常にベストを尽くしてきたつもりなんだけども、今思えばその中で自分たちもSHAZNAの曲はどういうものをやるべきかとか、やっぱり見失ってしまったものってたくさんあって。メンバー間で言いたいことも言えないようま部分もきっとあっただろうし、そういったところで行き詰まっちゃったんですよね。で、そこに居たら上手くいかない、打開するために会社も変えた方がいいだろうし、で、メンバーの中でソロ活動したいって人間も現れる。それはそれでいいんだろうけど、そういった中で自然とやっぱり活動休止せざるを得なかった。
T:で、ソロ活動になるわけですけども、その間、ソロ準備期間みたいなものはあったんですか?
A:そうですね、自分は歌をやりたいと思って。実際自分が曲を作る時も最初は全部自分が歌って、それをIZAM君が歌い直してという感じで作ってるんですけど、ちょっと自分で歌ってみたくって。でも自分はやっぱりギタリストだし、ヴォーカリストとしては1年生じゃないですか。そこで度胸試しを兼ねて、アコースティックでアコギ1本でイベントで歌うみたいなところから始めようかなと。あとは、自分の弟が所属している事務所の先輩が監督をやってショートムービーを作るということで、「兄貴ちょっとよかったら曲つけてくんないかな?」という話になって、「いいよ。」みたいな。で、やり始めたんですよ。そしたら役者界隈の仲間も増えてきて。で、音楽作って当て込んだりしてたんですけど、「あぁもうちょっとこうだったらいいな。」って欲が出てくるじゃないですか。もの作りが好きだし。じゃあ、ちょっと試しに本を書いてみようということで自分が脚本と音楽を担当してその監督さんが撮ってやってみた。で、その作ったものを見て「あぁ、俺だったらこうするな。」っていうのがあるじゃないですか。仕様がないから1回監督やってみようって。それで『ガラクタノココロ』というものを作った。
T:これは脚本も?
A:もう全部ですね・・・照明も全部です。(笑)
T:へえー。
A:そうなんですよ。8万円とかで作った。でも作ってみて、もっとこうしたいって欲が出るっていうことは良いなって思いました。やっぱり楽しいですよね。
T:この監督名は本名なんですか?
A:それも実は違うんです。
T:そう、A O I っていう名はどこから出てきた名前なんですか?
A:僕か生まれる時に両親が男の子用、女の子用、どちらでも大丈夫用で3つ名前を考えていて、その1つが葵で。それを小学校3年の時に聞かされて「何でそれにしなかったの?葵ってかっこいいじゃん。」って思ってて。で、バンドを始める時にステージネームというか芸名みたいなものを考えようと。で、AOIっていいなぁと思い両親に話をして。「俺AOIでいくんで。」って軽い感じで始まって今に至る。
T:映像団体も作ったという。
A:そうなんですよ。弟も制作とかやるんで、あとは編集手伝ってくれる人とかと何人かで。次やる時のためにって感じですね。実際、映画祭に出品してグランプリをいただいて、その援助作品とか作る権利をいただいているんですけど・・・。
T:次の構想は?
A:いろいろ考えてはいるんですけどね、固まったら動き出したいと思います。
T:去年あたりからまた、ソロ活動に加えてバンド活動が。
A:はい、そうなんです。去年の9月になるんですけど、SHAZNAでライブを始めて、6年ぶりということで。今もやっていますね。
T:再開するきっかけみたいなものはあったんですか?
A:活動休止の間も年に1度ぐらいは忘年会と題してメンバーで集まったりしていたんですよ。そこで「活動休止している以上、再開のタイミングは考えておかないとね。」という話をしていて。休止期間が長いんだけど一応今年はデビュー10周年の年にあたるんですね。だったらそのタイミングで動かなきゃって。で、2006年から始めて2007年にはアルバムを作れるように活動しようという話になり、今年シングルとアルバムを出して、to
be continue・・・って感じ。
T:改めてバンドを始めて、どんな感じですか?
A:LIVE自体はすごく良いですね。活動休止前に比べたら音もシンプルになっているんです。当時は女性コーラスや生キーボード、同期のシンセサイザーなどを取り入れてやっていたんですけど、活動再開後はそういうのは一切やめようと。アレンジもギターアレンジに全部作り直してやっています。シンプルでストレートなLIVEができているのでその点はすごく良いかな。あとはそれをよりコンスタントに活動して行ける様に頑張っていきたいです。
T:ソロの方もワンマンが?
A:そうなんです。ソロでは去年からワンマンでやり始めて。大阪と京都にもツアーで行かせてもらったりしたんですけど、今年の3月にBlues
Alley JAPANという場所でやった後しばらくお休みをしていて。やっとSHAZNAの方も活動が見えてきたんで、来年はもう少しコンスタントに。でもアコースティックだけじゃなくてもう少し違う形でのソロ活動もやっていきたいなと思っていて・・・準備中です。
T:年末に「晴れたら空に豆まいて」でライブが。どういう内容になりそうですか?
A:基本的にAOI UNPLUGGEDというのは、自分がギターヴォーカルのアコースッティクなんですけど、もう1人サポートでアコ
ースティックギターが入っているので、ギター2本にヴォーカル1本のすごくシンプルな編成なんですよね。そこにゲストを呼び込んで、2部構成にしています。今回はSHAZNAのアルバムで『Film』という曲のピアノをお願いした、Coccoの作曲等をやっているシンガーソングライターの柴草玲さんと3人で何曲かやってみようかなと思っています。曲は全部書き下ろしのオリジナルをやっています。
T:ソロの音源は作るんですか?
A:会場限定で1度ライブテイクを販売したことはあるんですけど、レコーディングはまだしていません。
T:曲はいくつかそろっているんですか?
A:かなりそろっています。ライブハウスの方にも「CD作った方がいいよ。」と言っていただいたりもしてるんですが、まだ、もう少し温めたいなって。
T:来年はどういう感じになりそうですか?
A:来年はまずSHAZNAで2月に大阪と東京は2DAYSでライブをやります。レコーディングもしていきたいんですけど、まずはラ
イブの本数を増やすことに重心をおいていきたいなと。あとSHAZNAのメンバーで、SHAZNA以外の別ユニットの音楽を立ち上げようと思っています。自分のソロの方はAOI
UNPLUGGEDの活動を再開するので、できれば3〜4ヶ月に1回ぐらいのペースでワンマンをやって、レコーディングもできたらいいな。あとは映像の方もチャレンジしたいですね。映像に関してはもとは楽曲提供から入ったんで、また良い出会いがあればインストルメンタルでも映像への楽曲提供や音楽プロデューサーとして関わっていきたい。1つ作品を作れればまた新しい仲間も増えるので、そういうことも積極的にやっていければと思っています。
T:わかりました。今日はありがとうございました。
A:ありがとうございました。まさか生い立ちから話すとはね。(笑)
end>>>
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