古田たかし / Takashi Furuta


今年の7/30「moment jam session#1」に参加していただいた日本屈指のロックドラマーである古田たかし氏の過去から現在までを辿ったロングインタビューです。

(2003年10月16日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)




古田たかし (Takashi Furuta)



東京生まれ。
小学校3年の頃に兄の影響と、兄の友人宅で触れたドラムセットで音楽に目覚め、小学校5年で兄の友人のバンドに入り演奏しはじめる。
中学3年で「カルメン・マキ&OZ」に加入。プロとしてデビュー。
その後ディスコ・バンドで活躍。
またCHARらと共に 「NSP」「チューインガム」などのバックもつとめる。
高校3年の時に原田真二と出会い、 彼のバンド「クライシス」のメンバーとなる。
81年春、ザ・ハートランドのメンバーとして正式加入。
ザ・ハートランドの活動のかたわら渡辺美里、吉川晃司らのライブやレコーディング、またUNICORNのサポートメンバーとしてコンサートツアーに参加。
89年、ギターリスト長田進、ベーシスト根岸孝旨と共にDr.StrangeLoveを結成。
92年にHoppy神山、岡野ハジメらで結成された「PUGS」の初代ドラマーでもある。
97年Dr.StrangeLoveを脱退。
その後も奥田民生のバックバンドにDr.StrangeLoveの2人と共に参加。
Puffyのバックバンドのバンマスとしても活躍。


 夕方6時くらいに店に入って深夜1時までやるんですよ。5回くらいステージを。その生活で、しまいには高校に行かなくなって「やばい!」と思ってて。そんな頃にCHARが「たかし、お前これでいいのか?」って。「NSP」っていうフォークグループのバックをやってたんですよね。そこで「ドラマーが辞めちゃうので探してんだけどやらない?」って。「じゃあやる!」って。もう転がるようにどんどんそっちに。


TERA(以下 T):それでは宜しくお願いします。まず生まれから教えて下さい。

古田たかし(以下 F):1958年7月6日。昭和33年ですね。東京の元麻布で生まれまして、それからずっと24才ぐらいまでかな?麻布で育って。

T:じゃぁ、もう都会っ子?

F:(笑)そうなんですよね。一応お金持ちが住んでる辺なんだけど、商店の息子で(笑)。

T:実家は、何をやられてたんですか?

F:菓子パン屋ですね。

T:へぇ。

F:そうなんですよ。

T:小さい頃はどんな子供だったんですか?

F:もう次男坊だったので、毎日兄貴を追っかけて、兄貴のやる事は何でもかっこいい事だって思って、ずっと尻追っかけてましたね(笑)。兄貴もやっぱりだんだん音楽が好きになってったので、そういうのでドラムって事になってったのかな?

T:兄弟は2人ですか?

F:2人です。兄が6つ離れてるので。兄貴がビートルズとかそういうのの世代で、ちょうどグループサウンズがぐわーっと流行ってた頃で、兄が聴いてたのを僕も聴いて「グループサウンズかっこいい」って思ってたんだけど、その元ネタはやっぱり外国だな(笑)って事で外国の音楽に惹かれていったというか。

T:小学生の頃はどういう音楽を聴いてたんですか?

F:はじめはタイガース、シャープ・ホークス…なぜかそこに飛ぶ(笑)。あとゴールデン・カップスとかモップスとか、その辺は大好きでしたね。「彼らがどういうとこから、こんな事やってんのかな?」っていうのを、カバーしてる曲とかを聴いたら「あぁ!かっこいい!」とか思って、オリジナルを聴いたら更に「かっこいい」と思ったので。

T:はじめて買ったレコードは覚えてますか?

F:ちょっと覚えてないんですけど、多分グループサウンズのものだと思いますねぇ。『シーサイド・バウンド』かな?タイガースの。何かその辺。その前は、ソノシートで漫画の主題歌とかは買ってたんですけど、そういういわゆる音楽ものでいうと、タイガースが初めてじゃないですかね。

T:音楽以外に娯楽って、小学校の時は?

F:特にスポーツやったりとかしてないので、やっぱり音楽でしたねぇ。凄く好きなのはね。

T:楽器とかは?

F:なぜか兄貴はギターとかウクレレとかやってたので(笑)。若大将(加山雄三)のあれでウクレレを買ったりとかしてたので。「あ〜ウクレレ僕もやりたい!」って買ってもらって、兄貴と2人でジャンジャカジャンジャカやってたんですけど。それからグループサウンズブームがきて、その時にタイガースを見て、ドラムの瞳 みのるさんが、一段高い所で髪振り乱して叩いてるのを見て「うぉ!かっこいい」とか思って、それからはもうドラムにばっかり目がいってましたね。小学校の3年生位の時ですかね、それが。

T:実際叩き始めるのは、どのくらいからですか?

F:そのすぐ後で、兄貴の友達の家がお金持ちのボンボンで(笑)。ドラムセットがあったんですよね。そこに連れてってもらって、ドカドカドカドカってやったら「気持ちイイ〜〜」みたいな(笑)。何かこう、来たんですよね、グッと。うん。「もうこれだな!」って思って。それで少しずつ親に「スネア買って」って言って買ってもらって、もう毎日スネアを「タカ!タカ!タカ!タカ!タカ!タカ!タカ!タカ!」ってやってて。次にハイハット買ってもらって「チッ!チッター!チッ!チッター!」ってずっとやってて(笑)。そんな感じでちょっとずつ増やして。

T:それで、フルセット揃うのは?

F:それはもう、小学校の6年ぐらいには揃った感じですね。それで兄貴の友達たちがやってたバンドに。兄貴の友達たちは高校2年生とかなんですけど。そこに入れてもらって「ま、子供だから下手でもしょうがないけど、面白いから入れよう」って。高校は明学だったんですけど、明学の学園祭に出してもらったりとかして。

T:その時はどういう曲を?

F:その辺はもう様々な曲をやってましたけど、ジェファーソン・エアプレインの「♪あなただけを」とか、アニマルズの曲とか。あと何やってたかな?あ、あとなぜかアイアン・バタフライの「♪イン・ア・ガダ・ダ・ビダ」っていうドラムソロがある曲とか、ブルース・プロジェクト「♪泣かずにいられない」とか(笑)。もう様々な曲を。

T:バンド名って覚えてますか?

F:それバンド名なしなんですよね。伊勢屋っていう友達のうちの、酒屋さんの2階でやってから、まぁ『伊勢屋バンド』みたいな(笑) 。練習してた所がそこなので。

T:(笑)では、中学に上がると、すぐにバンド活動を?

F:えぇ。そのバンドが発展的に、だんだんセミプロ志向になっていって、メンバーが何人か変わって『GETHSEMANE (ゲッセマネ)』っていうのになったんですよ。

T:なるほど。ではそのGETHSEMANEの前身は「伊勢屋バンド」という?(笑)。

F:(笑)そういう感じですねぇ。

T:GETHSEMANEの活動っていうのはどういう感じだったんですか?

F:はじめに「ライトミュージックコンテスト」っていうヤマハのコンテストに出ようっていう事になって、決勝まではいかなかったんですけど、銀座店のと、関東甲信越大会というのがあって、そこまでいって。まぁそこで落ちちゃったんですけど。何か子供だったおかげで(笑)。「審査員特別賞」とかいうのをもらって(笑)。その辺からちょっとセミプロ的な感じで。渋谷の「ジァンジァン」に2ヶ月に1回くらいのペースで出してもらったりとか。で、「日本語のフォークとロックコンサート」っていう、はっぴぃえんどとか吉田拓郎さんとか、錚々たるメンバーが出てるコンサートに出させてもらったり。日比谷野音ではその頃、自由に出れる感じだったんですよね。「10円コンサート」っていうのとかあって、そういうのにもがんがん出してもらって。当時はまだアマチュアもセミプロも含めて、コピーバンドっていうのがほとんどで。みんな「Led Zeppelin」だったんですよね(笑) 。全員がツェッペリンのコピーバンドみたいな(笑) 。その中、僕らは「Jethro Tull」のコピーバンドだったのが功を奏して。周りに誰もいないので。それで必ずそういうのに出してもらえるようになって、何かそうこうしている内に、カルメンマキさんと対バンになって知り合ったりとか。それでそのバンドが解散した時に、マキさんが「うち、今ドラムいないんだけど来る?」なんて言って誘ってくれて。それが中学3年の時だったんですけどね。

T:それは、学校に行きつつですか?

F:行きつつでしたね。あ!GETHSEMANEで一番凄かったのはあれですね。「成田闘争の幻野祭」っていう、あの三里塚でやったライブですね。あれは子供心にも凄いものがあって。あの周りでは『空 港 粉 砕 闘 争 勝 利』ってやってて、そこの掘っ立て小屋みたいなとこに寝泊まりして、2日ぐらい?かな?3日ぐらいライブやってたのかな?それに出させてもらって。

T:その頃、「三里塚」の意味というか主旨みたいなものはわかってたんですか?

F:わかんなかったですね、全然。まぁほとんど、ただ演奏できるって事で行ったみたいな。でも、凄いなんか「恐い」っていう感じがありましたね。エネルギーが強力で。

T:中学校の時に同級生にそういう活動をしてる友達はいないですよね?どういう風に見られてたんですか?

F:いないですね。でも先生にも「僕はドラムで食っていきます!」みたいな事を言ってたので(笑)。家の両親にも言ってて。もう殆ど「それ以外はもう勉強はしなくていい」みたいに自分で決めちゃったので(笑)。ほんとに「中学まででいいや」なんて思ってたんですよね。「高校は取りあえず行けるとこに行って、中退すればいいや」ぐらいの感じで思ってて(笑)。

T:実質、中学生でプロになってるって感じですかね。

F:そうですね。えぇ。

T:カルメンマキさんの「Oz」に入る頃は「GETHSEMANE」と並行してたんですか?

F:いや、もう完全にGETHSEMANEの他のメンバーが2人ほど大学卒業にあたるので「就職だ」って事になって、音楽活動は趣味ならいいけど本腰入れてやりたくないって事を言い出したので(笑)。これは辞めたほうがいいだろうって事で解散になって。それで僕は「どうしようかな」って。もう1人残ったサックスとフルートを吹いてた斎藤くんと「メンバー足してやる?」とか言ってたんだけど「でも、もういいね」って事に
して解散という事に。

T:それが中学?

F:中3ですね。中3の終わり頃に「Oz」に入れてもらって。

T:高校はどうなったんですか?

F:一応、親は「行け」というので(笑)。「高校までは出なさい」って言われてたので受けて、希望のところに受かったのでそこに行くことにして、Ozをやりつつ学校に行ったんですけどね。

T:高校時代はOzの活動以外、他には?

F:Ozはレコードが発売される頃にはもう辞めちゃってて、それは何故かというとOzの音楽は凄いヘビーなロックだったので。その頃ちょうどディスコブームみたいな波が押し寄せててきてて、それで「16ビートが出来ないとドラマーとしてダメだ」というような事を周りに言われるようになって、自分でも「そうだな、もうちょっと細かい事もできなきゃダメだろ」って思って。なぜかディスコバンドをやる事にしたんですよ(笑)。それで、ディスコでやってると、もう毎日やる事になるから「凄い修行になるな」と。まぁそれをやれば16ビートが、体に入るだろうと思って、その時、GETHSEMANEで一緒だった人と、あとOzで一緒だったキーボードとベースの人と僕と3人辞めちゃったんですけど、その人たちと合体して、ディスコバンドを作って。

T:ディスコはどの辺りを?

F:もう色んなとこに行ったんですけど、渋谷とか新宿とか錦糸町とか。意外といいディスコには出てないんですよね(笑)。『ムゲン』に出たかったんですけど。『ムゲン』でYellowが、ジョニー(吉長)さんがやってて、それをみんな憧れの目で見に行ってて、そこまで頑張ろうって言ってたんだけど。まぁ夕方6時くらいに店に入って深夜1時までやるんですよ。5回くらいステージを。その生活で高校も行ってたし、しまいにはだんだん高校に行かなくなって、やばいとか思ってて。そんな頃にCHARが「たかし、お前これでいいのか?」って言うことで、CHARがその頃、「NSP」っていうフォークグループのバックをやってたんですよね。そこで「ドラマーやんない?今いるドラマーが今度辞めちゃうので探してんだけどやらない?」って。「じゃあやる!」って(笑)。だから、もう転がるようにどんどんそっちに行き、みたいな。もうそっから旅人生、みたいな(笑)。CHARと佐藤準と僕だったんですけど。ベーシストNSPにはいたので、他のセッションやる時はベーシスト呼んで。あおい輝彦さんやったりとか、チューインガムっていうヤマハのアーティストとか。ヤマハ関係の仕事が多かったかな。そういうバックやるようになったのが、高校2年ですね。高校1年の間は、Ozからディスコバンドに移ったってって感じでした。

T:実質この時には、プロとして仕事していたって事になるんですか?

F:そうですね。Ozの時は一応プロだったけれど、そんなにお金はもらえず(笑)。

T:CHARさんとその3人のバンドが初めて?

F:そうですね。ちゃんとお金をもらってやる仕事としては。

T:その後はどういう流れになっていくんですか?

F:ジョン山崎さんから電話があって。「おぉ!『ティン・パン・アレー』でやってる人から電話だ」みたいな(笑)。「今バンドやってるんだけど、ドラムがもう1人いるんだけどツインドラムでやってみない?」って言われて。「はい、いいです」って言って。もうそこに行って。そこはもう大人の世界でしたね。ヒッピーみたいな(笑)。そういう感じで。

T:そのバンド名は?

F:『スクール・バンド』。『ジョン山崎&スクール・バンド』。アルバムを2枚出して。

T:70年代中盤ですかね?

F:そうですね。75、6年に、スクール・バンドですね。

T:その頃は、それ一本ですか?

F:いや、NSPやりながらですね。NSPではお金になるので(笑)。「それはとっておこう」みたいな。スクール・バンドはいわゆる趣味というか「これで上手くいけばいいな」と思いつつ。でも「ちょっと早すぎたかな」みたいな。クロスオーバーとロックの間みたいな感じの事をやってました。

T:そこで初めてレコーディングを、みたいな感じですか?

F:Ozがレコーディングは初めてですね。Ozのファーストアルバムが初めてで。

T:その後の展開は?

F:その2つをやりつつ。そしたらフォーライフのディレクターから「同じ歳の若い歌い手が広島から出てくる」って。それが原田真二くんで。「デビューするんだけどやらない?」って言われて一緒にやる事になって。

T:レコーディングもライブもですか?

F:えぇ。レコーディングはやったんですけどボツになりまして(笑)。次利(後藤)さんとか林立夫さんがやったバージョンが、デビューシングル『てぃーんずぶるーす』になって。セカンドの『キャンディ』は僕らのバージョンでやって。3枚目は次利さんがアレンジしたものを、みたいな。まぁあの洗練された音と、やっぱり僕らはまだ未熟だったし。

T:その作業が何年くらい続くんですか?

F:真二くんをやったのは23歳くらいまでだから、6〜7年はやってるんですよね。それから『クライシス』っていうバンドに変わっていくんですけど。その間も色々と他の事もやりつつ、スクール・バンドも続けてたんですけど。途中で「これは金にならないしダメだね」って事で解散になっちゃったんですけど。

T:『クライシス』はどういう感じだったんですか?

F:原田真二くんがその頃、アイドル路線がちょっとイヤになって「もっとロックっぽい事をやろうよ」って言って、トッド・ラングレンの『ユートピア』みたいな「あんなバンドができたらいいね」っていうような感覚で。ちょっとプログレ感も入ってるポップ、みたいなものをやろうとしたんですけどね。

T:それが70年代後半まで?

F:そうですねぇ。23歳くらいまでだからそれくらいだと思います。真二くんをやってる途中で、小野田(清文)くんから電話がかかって「俺の友達で今度デビューする奴がいてドラマーを探してるんだけど」って。オーディションとは言われなかったんだけど「今度セッションしに来ない?」って言われて。行ったらオーディションだったんですけど(笑)。佐野(元春)くんが気に入ってくれて、それからずっと『ハートランド』っていう感じですね。

T:小野田さんとは、もともとどういう繋がりなんですか?

F:えーっとね。まず知り合ったのが、スクール・バンドでのもう1人のドラマーの三島さんという人が小野田くんと仲が良くて、仕事で声がかかって、なぜか岡田奈々とかそういうバックをやったりとか。あと何やったかなぁ?小野田くんは、ふきのとうとかやってたんですよね、その頃。あ!スクール・バンドでも、ふきのとうのバックをやった事があるだけど、もう台無しで(笑)。

T:それは?(笑)。

F:バンド演奏タイムみたいなのを「5分くらいお願いします」って、やってたらもう止まんなくなっちゃって、10分以上やっちゃったのかな?(笑)。横にいるスタッフとかにも「もう止めてください」のサイン出されて(笑)結局2〜3回でクビになって。三島くんも、ふきのとうをやってたので、その繋がりで誘われたんですね、多分。

T:なるほど。ハートランドの最初の活動って何だったんですか?ライブ?レコーディング?

F:ライブですね。毎月のルイードですね。後は学祭とか。一番始めは、横浜のサンドイッチ屋さんかな?(笑)何か佐野くんがよく言ってるサンドイッチ屋さんで、二階が産婦人科かなんかで。逸話になっている所かも知れないですね。

T:最初のライブはどんな感じでしたか?

F:静かな曲とロックンロールとの差が激しいバンドで。多分、その静かな、Billy Joelみたいな感じとかを期待して、そういうサンドイッチ屋とかブッキングされたんだと思うんだけど、途中からは激しい事になっちゃうので(笑)。苦情が来たりもしたんだけどまぁやるだけやるって感じで。始めはルイードでやってもガラガラだったんですよね。全然お客さんいなくて「え?大丈夫かな?」っていう感じもあったんだけど、やがてだんだんお客さんが増えていって。僕が一番感激したのは、大阪で小さいライブハウスだったんですけど、3日間あったんですよね。そこで、はじめの日は、ほとんどガラガラ。次の日は、昨日のお客さんが友達をライブに連れて来たらしく、ちょっと埋まってきた感じで。それで3日目。超満杯!!そういう事があってもう「凄い!」と思って。やっぱりこの人は凄いって思ったんですよね、その頃に。

T:その頃のメンバーは?

F:初期メンバーです。(伊藤) 銀次さんがいて、阿部 (吉剛)ちゃんがいて、小野田くんがいて、ダディ (柴田)さんがいて、それで僕ですね。それと佐野くんで6人でしたね。

T:『ハートランド』っていう名前は付いてたんですか?

F:付いてました。えぇ。

T:最初のレコーディングはいつですか?

F:はじめは、スタジオミュージシャンの人とかでやってたので『ダウンタウン・ボーイ』とかを録った辺りですね。『ダウンタウン・ボーイ』のシングルバージョンとアルバムと違うじゃないですか。それのシングルバージョンの方が、僕たちがやったやつだったかな?

T:それから『サムデイ』やって。ツアーに出るんですよね。

F:そうですね。『Welcome to the Heartland』っていうのと、次に『Rock & Roll Night Tour』かな?2回目のツアーあたりにはもうほんと細かい街まで、全国行けるようになってて、それでだんだんにこう「火がついてきてるな」っていうのを体感して「凄いなぁ」って思ったんですよね。

T:『ハートランド』のメンバー同士は、結構仲が良かったんですか?

F:仲良かったですね。みんなお酒飲んじゃ、ドンチャン騒ぎの好きな人間ばっかりで(笑)。

T:ダディさんが一番上で?

F:えぇ、上ですね。ダディさんと銀次さんがいろいろ場を盛り上げてくれて。毎日パーティ、パーティっていうんでもないけど、ドンチャン騒ぎはやってましたねぇ。若さゆえの。えぇ。何か凄かったですよ。

T:ハートランドやってる頃は、他の活動は?

F:入ってくる仕事は色々とこなしてたんですけど。

T:佐野さんがN.Y.に行かれますよね?

F:その間もまだクライシスをやっていたので、その間はクライシスと銀次さんのバックに専念したって感じですかね。

T:その頃のメインは、ハートランドとクライシスみたいな感じですかね?

F:そうですね。その時代はそうでしたね。『Visitors Tour』になった頃に佐野くんの本数が多くなって、クライシスと並行して出来ないぐらいな事になってきたんで「脱退させてください」って辞めたんですけど。

T:ハートランドは『Visitors Tour』でギターが変わって、ブラスが入って。

F:そうですね。『Visitors Tour』で。銀次さんがその前の『Rock & Roll Night Tour』で辞めちゃったので、誰か探そうっていうんでオーディションして横内タケが来て、あとホーンセクション、里村(美和)くんが来て。そこからだんだんビックサウンドになっていったんですけどね。明(西本)くんは『Welcome to the Heartland』にはいなくて、『Rock & Roll Night Tour』から入ってきたんですね。

T:アルバム『Visitors』をライブでやる事で、他のメンバーにインタビューした時に、やっぱりアルバム『Visitors』は特別視されてるような感じでしたけど。

F:えぇ(笑)。はじめ頭の中が「ハテナ???」っていうか、謎でしたね。
「これ、どうやるの?」「何これ?」みたいな。はじめ聴いた時の印象は。ラップとかいう概念が日本にはあまり
なくて。早かったですよね。

T:実際にライブテイクにするというか、ライブアレンジする上で大変だった事は?

F:やっぱり佐野くんの頭の中にしか完成形がないんですよ。だから譜面で持ってきたりとかはしないし。「ここはこういうフレーズだ」とか口伝えで言う訳ですよ。「♪ズンズズタン!ズタ!ドドドッパーン!ドゥパ!ドッズ!ドパーン!」とか言う訳ですよ(笑)。それで口伝えで聴いたフレーズを、一生懸命自分なりに解釈してやってみるんですけど、なかなか出来なくて。「DMX」っていう、佐野くんが向こうで「Visitors」を録る時に使ったドラムマシーンを使って。それがバスドラをやって、僕が上半身をやるとか色々と試行錯誤したりして。時には全部DMXって事もライブではあって。それまでドラマーとしてやってきてた事と全く違うから、理解に苦しんだんだけど。でもライブの後半にはロックンロールな部分もあって、自分の中では「これもあり」って事で消化してましたね。うん。

T:80年の後半、まずハートランドで『Cafe Bohemia Meeting』ですね?

F:えぇ。その頃、タケが辞めちゃったんだけど『東京マンスリー』という月いちのライブをやり始めて。その時は佐野くんだけがギタリストだったんですよね。だからサウンド的にはちょっと変化して、やっぱりでもライブを何本かやるうちに、ギタリスト必要だよねって話になってきて、また「オーディションしようよ」っていう事で、長田になったんですよね。


T:最初の印象はどうでしたか?

F:(笑)それが(笑)あの〜、まぁ本人にも言ってるからいいと思うんだけど(笑)。「やな奴」っていうか。ほんとぶっきらぼうで、オーディションのスタジオにみんなで行った時に、長田はナゼか、もう来てて。そこの1階が喫茶店だったんですけど、長田はそこで珈琲飲みながら腕組んで、鋭い目つきで見てるんですよ。みんなが来るのを。

T:(笑)!

F:「あいつ、今回のオーディションの人じゃなきゃいいなぁ」 とか思ってたら、オーディションの人で(笑)。それでやってみたら、佐野くんが「長田くんは、こういう事はできるかい?」とか聞いたら、「出来る!」「OK!わかった!」とか、もうそれくらいしか言わないから(笑)。もうほんとに「なんだコイツ?!」とか思って(笑)。それ以外の人は「はい、わかりました。やってみます」とか「ボリュームはこれくらいでいいですか?」とかなのに、長田は「ジャーーーーン」ってやって「OK!わかった!」ってそれしか言わないんで(笑)。あと「サンキュー!OK!」とかしか言わなかったので「なんだコイツ?!」って、ほんとに思って。それで2人ぐらいに最終選考でしぼられた時に「あの『OK!わかった!』はやめようよ」って。バンドのほとんどの意見だったんですけどね(笑)。

T:(笑)!

F:だけど、佐野くんが直感的に「長田でいこう!」っていう事になって。

T:正式に決まった時、メンバーみんなはどんな感じだったんですか?

F:はじめは「えぇぇ〜!」とか言ってたんだけど(笑)。でもツアー始まって、だんだんに仲良くなってって。

T:ツアーが寸前に迫ってて、合宿でスピードで覚えたとか。

F:そうなんですよ。ギリギリにオーディションやったと思うので、ほんと練習期間はなく、でも曲数はめちゃくちゃ多く覚えなきゃなんなかったと思うんだけど、それでもやってくれたので。ツアーは支障なく出来て。うん。

T:『Cafe Bohemia』の中で僕的にドラムが印象的な曲があって『♪99ブルース』ありますよね?あのドラムって変則的で変わってますよね?

F:打ち込みドラムと生ドラムとパーカッションで「まずどんな感じができるか」っていうので、作ってったんですよね。言わばブルースじゃないですか、スリーコードで。たったそれだけのコードなんだけど、もっと面白いのを作りたいっていう事で、やっていって。あれはリハーサルせずにスタジオでいきなりやったと思うんです。スタジオで「ドラムのパターンはこうなんだ」ってまた口伝えで(笑)。でも、そのキックはDMXだったと思うんですけど、それを合わせつつやるのがすごい難しくて。4分打ちとか2分音符でやってくれるとやり易いんだけど、なかなか難しかったですね。でもハマるところがきたら、いい感じのグルーブになってって。やっぱあれとか佐野くんは凄い好きみたいで、今でもやる時は「もうちょい跳ねられないかな?」とか、凄いこだわってますよ。最近のバージョンはドラムは跳ねないんだけど、ギターとかベースとかが跳ねてやる、っていう、ちょっとニューオリンズとかあの辺の感じを入れてるんですけどね。好きだと思いますよ、佐野くんは凄い。

T:後は『ナポレオンフィッシュ・ツアー』とか、80年代後半のハートランド以外の活動っていうのは?

F:いろいろやってましたね。吉川(晃司)くんとか美里(渡辺)ちゃんとか、桑田さんのソロっていうのを1回ツアーやったりとか。

T:そこで根岸さんに会ってるんですか?

F:その時はねぎ坊(根岸孝旨)はやってなくて、小林武史くんが集めたメンバーの中に入ってて。ねぎ坊は、長田くんと一緒に岡村靖幸をやってて。チャーティーボーイズっていう女の子3人のやつのバックでやった時にねぎ坊とはじめて一緒になって。

T:チャーティーボーイズって、古田さんのジュゴンの曲も入ってる『mf VARIOUS ARTISTS Vol.1』に曲が収録されてますよね?

F:えぇ。あれに1曲入ってます。

T:ジュゴンに関してなんですけども、窪田(晴男)さんとか横山(英規)さんとか、これはどういう形で結成されたんですか?

F:これは佐野くんが、「ラジオの番組で毎月1曲作ってOn Airするためにいろんな人に『やってみないかい』って、声かけてるんだけど、たかしくんもやってみない?」って。で「ぜひともやらしてください」って。「メンバーとかも、たかしくんがやりたい人でいいよ」っていう感じで言われました。で、その頃興味があったパール兄弟をやってた窪田晴男くんとはその前にチャーティーボーイズでも一緒だったチーボー(今井チカ)っていう女の人のバックを一緒にやったりしてたんですよね。彼はあの「シャキーン」っていう音が「かっこいいな」と思って。すごい80年代的っていう風に思って是非とも一緒にやりたいと。それでベースの横山英規さんとは、その頃CIOCCOLATAってバンドも手伝ってたので、その時一緒だったベースシストで、フレットレスでウネウネやる感じが「かっこいいな」って思ってて。あと近田春夫さんのビブラトーンズをやってたので、やりやすいだろうと思って、お願いしました。僕が思い描いたあの当時の80年代的な音になったんじゃないかなと思っています。

T:『ジュゴン』っていうバンド名はどこから来てるんですか?

F:ジュゴンを昔の人が人魚に見間違えたとか、そういう何か面白いエピソードもあって伝説的というか、そういうのもあって「不思議だな」というか謎めいた感じがいいかなと思って。でも、実際ジュゴンを見ると「ぬぼっ」として、可愛いっていうタイプになっちゃうんだろうけれど、その響きのイメージが神秘的な感じがしたので。で、短いし、いいなと思って。

T:曲は、全てオリジナルですね。

F:はい。

T:曲は皆、この時に書いた曲なんですか?

F:そうですね。その頃、宅録でいろいろやってたので、その中の何曲かを佐野くんに聴いてもらったら、「この曲いいね、これでいこう」って。それでやったんですけどね。

T:『♪眠りの海のダイバー』と『♪恋の引力』ですよね。

F:はい。1曲目がその『♪眠りの海のダイバー』で、その時僕は他の曲をちょっとやりたかったんだけど(笑)。佐野くんがどうしてもこの曲がいいって事だったので。そしたら佐野くんはすごいアイデアが膨らんでたみたいで、いろいろ面白い事になっていって。楽しかったですねぇ。

T:このままバンドとして活動する事はなかったんですか?

F:えぇ、やりたかったんですけど(笑)。なかなかこれまた腰が重くて自分の事になると率先してやるタイプじゃなくて(笑)何か、レコーディングのみのユニットだったけど、それはそれで良かったかなと。

T:『CIOCCOLATA』っていうのはどういう活動だったんですか?

F:『CIOCCOLATA』は1枚アルバムが出てて、2枚目の時にドラマーが辞めちゃってて、それで探してたので、僕に声がかかって。聴いてみたら「おもしろい、不思議なサウンドだな」って思って「やってみます」って。それでやってたんですけどね。何か当時の音をしてますよね。Kate Bushの初期のああいう感じとかなのかな?
ほんと80年代中盤ぐらいの感じの音楽ですね。

T:その頃は『Dr.StrangeLove』は、まだ存在してないですか?

F:「89年にやろうよ」っていう話になったんですよ。

T:どういうキッカケだったんですか?

F:チャーティーボーイズでねぎ坊と知り合って。ねぎ坊は「すごい面白いベースだな」と思ってて。ねぎ坊は気に入るとすぐ「バンドやろうよ!」っていうらしく(笑)。僕に「バンドやんない?」っていう話になって「じゃぁいいよ、やろうっか」って。ジュゴンではライブが結局できなかったから、自分が思い描いてたサウンドを、今度のバンドでは出来るかな?と。ジュゴンでやった形をもうちょい肉体化した音になればいいなと思ってねぎ坊とやろうという話になって。「ギター誰がいい?」と言って「俺が今やってる長田っていうのいいよ」ってねぎ坊が言うから「え?!僕も一緒だよ『ハートランド』で!」って話になって、それで長田に声かけたら「面白いね〜 OK!いいよ!」って。そういう感じで。

T:最初に3人集まった時は、どういう風な話をされたんですか?

F:特には「どういう音を作ろうよ」とかそういう話はなくまぁブリティッシュロックが好きで「なんかそういうちょっとひん曲がったポップロックをやろうか」っていうような感じで始まったと思うんですよね。

T:具体的に89年に集まって結成した時に、すぐにライブとか、レコーディングとかはあったんですか?

F:リハーサルを定期的にやるようになって、曲をためていこうって。で、ある程度たまったので「ライブやろうか」っていう話になったんですよね。

T:最初、ライブやったのは?

F:90年だと思うんですけどね。はじめはegg-manかな?たぶん。

T:対バンですか?

F:えぇ。2つ出る感じでやったと思うんですけど。

T:その時、曲は結構あったんですか?

F:結構ありましたよね。20曲くらいあったのかな?

T:3人がそれぞれ作りますよね?

F:えぇ。それぞれ作って「こんな感じでやろう」ってセッションしてって。かたまったのに僕が詞を付けてきて。やってましたね。詞はその当時は、僕が主に作ってましたね。

T:90年に入ってハートランドがあり、Dr.StrangeLoveもありますよね。更に色々サポートで。

F:そうですね。COMPLEXが90年だったのかな?COMPLEXが終わって、次の年が吉川(晃司)くんだったのかな?それから次が藤井フミヤくんだったりとか。結構コンスタントに毎年なんか、佐野くんはやりつつも他の事もやらしてもらって。いろいろ栄養をもらってたんですけどね。

T:自分のバンドはDr.StrangeLoveで、その合間に他の活動をやってるという感じですか?

F:でも、Dr.StrangeLoveはお金になるものじゃないので、お仕事をやりつつ、それの空いてる時間で3人のスケジュールがあう時に練習やって曲を溜めていこうっていう。レコーディングも「出来ればやろうよ」っていう感じで。知り合いの人のスタジオで若いミキサーの研修をやるから、研修って事でやらない?って言われてそういう感じで何度かレコーディングしたりとか。その後に、僕がUNICORNのツアーに。ドラムの川西(幸一)くんが抜けちゃって、それで誘われてUNICORNでやる事になって、その時に僕がやってるバンドをイベントとかに出してくれるという事になって、それでDSLとして、富士急コニファーフォレストと福岡海の中道海浜公園野外劇場に出してもらってやったりして。そういう事もあったので、民生(奥田)くんがソロになった時に、何かDSLがすぐ側に居たっていうか(笑)。声かけやすかったみたいですね。

T:90年代に入ってですが『PUGS』はどういう活動だったんですか?

F:吉川くんのツアーのメンバーが殆どだったんですけど。その時は次利さんがベースだったんだけど、次利さん以外のそのツアーのメンバー、ホッピー(神山)がいて、スティーブ(衛藤)がいて、光(吉田)くんがいて。そこに岡野ハジメさんと横山くんが入って、ボーカルのHONEY☆Kが入って始めたんですけど。それは取りあえず「お騒がせのバンドにしよう」っていう(笑)「うるさ〜い!!」っていうのをやってて、ベースが2人いるなんて普通じゃないし、もう轟音の中でドラムもスネア、カンカンにしたりして。東京では定期的にライブやってたんですけど、地方では出来なかったですね。はじめて東京以外でやったのが、なぜかニューヨークだったんですよね(笑)。『CMJミュージックフェスティバル』っていうのに呼んでもらって。それとかもけっこうウケたので、「あぁ、外国でもできるんだ」っていう感じが凄いありましたね。だからその後も、僕が抜けてからも『SXSW』とか出てたみたいですね。

T:今も続いてるんですか?

F:実質的にはちょっと解散状態みたいです。何か一応『小PUGS』とかいって、HONEY☆Kとギターの光くんとやってるとは言ってましたね。

T:そうしてる内に、ハートランドが解散になるんですよね?

F:1994年ぐらいかな?その頃、コンスタントに毎年のように別の仕事が入ってくるようになってて、ハートランドは、やっぱり居やすい場所だったんですけどね、佐野くんもまぁマンネリというのを打破したかったのか、どうしても13〜4年やってたので、同じメンバーで。それでちょっと馴れ合い的な感じになっちゃったんじゃないか?と。時々まぁ離れて、でもそれでもハートランドは「いつでも戻れる家」って思ってたんですけどね、まぁ「家が一瞬なくなっちゃったな」と(笑)。その頃はDSLが家じゃないかなっていう風に思ってましたね。

T:そのDSLですけど、最初はカセットテープみたいな形で。

F:えぇ。最初はインディーズでリリースして「メジャーデビュー目指して頑張ろう!」とか言ってたんですよね。インディーズで2枚出して、インディーズなのに大胆にもロンドンレコーディング(笑)。バカじゃないかというような事をやりまして。好評なのかどうなのかわかりませんが、自分たちでは納得いく作品を作り続けてきたので。

T:なぜ?ロンドンレコーディングだったんですか?

F:その時のプロデューサーとミキサーをやってた藤井さんって人が「ロンドンで安くレコーディング出来るよ」って(笑)僕たちがイギリス好きなのも知ってたから「行こうよ、行こうよ」ってなって。結局当初の予定よりはだいぶお金がかかったんですけど、行って良かったと思います。何かXTCのデイヴ・ グレゴリーさんとかルイ・フィリップさんとか凄い人を迎えてセッション出来たりしたのは自分たちにとってもプラスになったんじゃないかな?って思いまして。だから投資かな(笑)って思ってて。

T:たまたま僕、その時にロンドンのスタジオに顔出して。オアシスが隣かなんかでやってた時で(笑)。根岸さんが「サインもらった」って言ってた、あの日ですね。

F:あ〜はいはい(笑)。何かとても充実してた1ヶ月でしたね。楽しかったです。非常に。

T:それでインディーズを経てメジャーデビューになりますよね。そのキッカケは?

F:その頃にやり始めてた、ニール・ヤンギー(笑)な路線を、何かレコード会社のディレクターとかが「いいね、この感じ」って事になって「やってみる?」っていう風に言われてメジャーデビューに至ったんですけどね。

T:レコーディングはどんな感じで進んだんですか?

F:ほとんどいつもやってるのと同じ感じで進んで。ディレクターはいても、そんなに口は出さず、もう僕らの3人のペースで(笑)ほとんどやってましたね。

T:詞、曲は、それぞれが?

F:えぇ。それぞれが作ってきて。

T:上がりはどんな感じでしたか?

F:「渾身の自信作」っていうつもりだったんですけどね。世間的にはそんなにでしたけど(笑)。思い描いていた通りになりましたね。

T:その頃、DSLは古田さんにとって、どういう存在だったんですか?

F:さっきも言ったんですけど、いつでも戻ってくる、他の仕事をやっても、ここに戻ってくれば自分たちの音が出せるっていう。そのまんま自分たちの音をいろんなとこで表現できれば、それもやると。自分たちが、ちょっと「プロデューサー集団」じゃないけど、そんなような感じになっていければな?みたいな。ねぎ坊も長田もはその後、すごい大プロデューサーに育っていく訳で。サウンド的には最初3人ともブリティッシュロックが好きだったんですけど、だんだんちょっとアメリカンロック方向に、その頃からいきはじめたというか。そんなきっぱり分かれた訳じゃないんですけどね。そうこうしている内に、僕はやっぱり、もともとブリティッシュロックぽい方をやりたいと思っていたので、だんだん方向が違ってきたかなぁと。で、音楽的見解の違いで辞めるという事になったんですけどね。

T:なるほど。その話を2人に伝えた時の事って覚えてますか?

F:うん。これは長田が言ってたんですけど「今はこう3人が引っ張り合って、三角の形になってて、それがたまたま今はある方向に向かってるから細長い三角形みたいになってるけど、またその三角形の形が戻るかもしれないし、今度は別の方向が伸びてくるかもしれないし」って。「だから今、結論を急がなくてもいいんじゃないの」って言われたんですけどね。なんか。なんかわかんないですけど、僕が頑固になってたのか「辞めなきゃだめなんだ」みたいになっちゃって。でもその後も民生くんのバックで一緒に続いているので、特にケンカとかじゃないので(笑)。

T:90年代の後半の活動として、古田さん的に一番楽しい活動は、その頃は何だったんですか?

F:その頃からPuffyとかもやり始めたので、最初はレコーディングだけだと思ってたんですけど、ツアーもお願いって事になって、それがバンマスって言われたもので、じゃぁ結構責任感持ってやらなきゃなって事で。まぁ、あの2人も可愛いので。って言っても陰で何を言われてるかわかんないんですけど(笑)。「はいはい」言う事を聞いてくれるので、かなり思い入れてやってましたねぇ。

T:なるほど。他にはどういうアーティストの方とお仕事されたんですか?

F:なんか色々やりつつでしたね。入ってくる仕事は拒まずでしたね(笑)。

T:2000年にソロ「MOSSY BLUE -霧のさなかゆえ-」を出されてますね。
それはどういうキッカケだったんですか?

F:前に佐野くんのマネージャーをやってた渡辺(宏)さんが事務所でインディーズレーベルもやってるので、その中で「出してみない?」っていう話があって。アルバムとまではいかないけど、シングル扱いの規模だったらすぐ出来ますよって事だったので。それでやらせてもらって。

T:曲・詞とも、この時に新しく作られたんですか?

F:そうですね。その頃いろいろ作ってて。片方のカップリング扱いになっている「恋の自然渋滞」はDSLでもやってた曲なんですけど。それを、ちょっと変えてやりました。

T:上がり的には、どんな印象ですか?

F:納得いくものが出来たんじゃないかと思います。

T:書き溜めている曲は、沢山あるんですか?

F:そうですね。なんか、途中までっていうのも、いっぱいあるんだけど、DSLの初期の時に作って、発表してない曲っていうのもありましたからね。

T:今後、出してみたい形にしたいものはあるんですか?

F:えぇ。出来れば、そんなにしょっちゅうは無理だと思うんだけど、ゆっくりしたペースで出来る時に、無理なくできればいいかな?と思ってますね。

T:2000年以降の活動を教えていただけますか?

F:2000年からは、民生くんとPuffyがメインでしたね。あと、佐野くんに呼ばれて『Hobo King Band』で復帰というのもあって。

T:『Hobo King Band』は、初めはどんな感じでしたか?

F:ハートランドの解散以降、『Hobo King Band』のツアーを1回、札幌で見たんですよね。その時に「大人だ!」って思ったんですよね。年齢的にはハートランドの方が多分、上なんですけどね、ハートランドは何か、やんちゃ小僧っていう感じで。『Hobo King Band』は、大人の音だなっていう。凄いびっくりしましたね。

T:それはいつ頃の事ですか?

F:えっと、初めのツアーだったから、96年ぐらいでしたね。

T:まさか、そこに入る事になるっていうのは、その時は?

F:いや、もう全然。その頃は思ってなかったですね。

T:実際、一緒に演奏するようになった時、どんな印象だったんですか?

F:やっぱり全然違うんですよね。今まで演った曲の同じアレンジでも、何か違うんですよね、不思議なもんで。

T:バンドの雰囲気はどうですか?ライブ以外の部分では。

F:ハートランドの頃は譜面がなかったんですよね(笑)。「譜面作っちゃダメだ」っていう佐野くんがいたから(笑)。それがHobo King Bandは、ちゃんと譜面が出来てるから「凄い」と思って、まず(笑)。「おぉ!譜面がある!」みたいな。びっくりしたんですよね。佐野くんの現場で譜面があるっていうのは凄い驚きで(笑)。そうは言いつつもちゃんと音楽の有機的なところはちゃんと持ってるから、やっぱりそれはすごい素晴らしい、両面持ってるなっていう。何かハートランドは、もう少し「勢い優先」みたいな(笑)。勢いっていうか佐野くんが初期の頃に言ってた『がんばれ!ベアーズ』だから、そんな感じで、妙な「一丸となった」という感じがあったんですよね。それは何か口ではうまく説明しにくいんですけど、佐野くんの口伝えで、全部が佐野くんの頭の中にあって、それを体現するっていうか、音にする集まりだったっていう感じがあるんですよね。Hobo King Bandの場合は、もうちょっとそれが、それぞれのミュージシャンの目を通してアレンジされてるっていうか、佐野くんのファクターだけじゃない所があるなっていう。そこが大人だと思ったのかな?よくあるんですけど、佐野くんが「ここのフレーズはこうなんだ」って言うと、その通りにやってても、3回くらいやってると「そこのフレーズは違うんだよ」ってなって(笑)。今だったら譜面があるから「この通りにやってます」って言えるんですよ(笑)。

T:譜面があるから(笑)。

F:ハートランドの時はそれがなかったから(笑)。その辺の合理性っていうか。

T:でも本質的には、そういうところが本物のアーティストというか、真の芸術家の部分ですよね。

F:そうですね。佐野くんが思い描いてる事をまんまやらなきゃいけなかったのがハートランドで。でも、それぞれのミュージャンにある程度まかせてるっていうか、自分が中心なんだけど「他のミュージャンありき」って感じで。「Hobo King Bandがある」っていう。

T:ツアー回ってみて、どうでしたか?

F:もう楽しかったですね。やっぱり自分になかった感じの、みんなもう凄い上手くて落ち着いた演奏ができて、僕が 「いってしまえ!ドラマー」だったから(笑)ずっと。そういう所の勉強もさせてもらってるかな?って感じですね。

T:レコーディングも?

F:はい。2年ぐらいに渡ってニューアルバムのためのレコーディングをやってますよ(笑)。

T:あと最近、仙台のイベントに出演されたんですよね?

F:『ARABAKI ROCK FEST』ですね。

T:変則的なバンドだったんですよね。

F:それは、Hobo King Bandのメンバーがみんなスケジュールが合わず出来なかったので。僕は空いてたので僕と、あとハートランドのメンバーから、長田くんと明くんが参加して、それでもう1人ギターにTHE GROOVERSの藤井一彦くんと、ベースがGREAT3の圭(高桑)くんとそういうメンバーでやったんですけど。これがまた、Hobo King Bandともハートランドとも違う音で。

T:どんな感じなんですか?

F:もうギタリスト2人が「ジャキーーン!」っていう感じのギタリストだから(笑)。両側で「ジャキーーーン!」ってのと「ギャオォーーー!」っていう音の壁ができてて(笑)。その真ん中に佐野くんが立ってるっていう。何か「これもありだな」って思いましたね。うん。「凄いロックな佐野くん」だったんじゃないかな?と思うんですけどね。

T:最後に今後の活動予定は?

F:来年どうなるかわかんないんですけど、奥田くんも佐野くんもツアーやるって言ってて、何かPuffyも動くかも知れないとか言ってて、その3つが動いてしまったらどうすればいいんだ(笑)と。まぁわかんないんですけど(笑)。上手くスケジュール合わせて下さいっていう感じですね。

T:まずは、11/14のライブ、楽しみにしています!どうもありがとうございました!

F:楽しみにしていて下さい!

-end-



古田たかしさんのインフォメーションは
アンオフィシャルサイトHP「Dr.StrangeLove×net」
http://dr-strangelove.under.jp/

11/14のライブイベント『cajun moon night Vol.3』にて共演する井上富雄さんとの映像&メッセージは、#10magazine内にて、配信中です。
また、 インフォメーションは、
オフィシャルサイトHP「cajun moon」→http://www.cajun-moon.com/

【Discography】


「古田たかし名義作品」



カルメンマキ&Oz
カルメンマキ&Oz
1975.1.21/MR-5053


「Our Best Songs Now」
ジョン山崎&スクール・バンド
1976年/COCA-13394



セミ・ファイナル
ジョン山崎&スクール・バンド
1977年/COCA-13395


「MOSSY BLUE-霧のさなかゆえ-」
古田たかし
2000.07.21/SBCD-2002



「THE HEARTLAND」



「Heart Beat」
佐野元春
1981.02.25/ ESCB-1321


「Cafe Bohemia」
佐野元春
1986.12.01/ESCB-1325


「ナポレオンフィッシュと泳ぐ日」
佐野元春
1989.06.01/ESCB-1326


「Time Out!」
佐野元春
1990.11.09/ESCB-1111


「Sweet16」
佐野元春
1992.07.22/ESCB-1308


「The Circle」
佐野元春
1993.11.10/ESCB-1456


「The Golden Ring」
佐野元春
1994.08.26/ESCB-1516-8




「ジュゴン」



「mf VARIOUS ARTISTS Vol.1」
VARIOUS
1989.08.21/32-8H-5115



「PUGS」



PUGS
1989.08.21/32-8H-5115


「Bambie Boo!」
1994.04.10/WDCD-001



Sports?
1994.12.20/WDCD-002


「THE MEMORIESWITH PUGS」
1997.02.10/GMCD-025

「主な参加作品」



「LUNATIC LION」
吉川晃司
1991.5.17/TOCT-6100


「amiyumi」
Puffy
1996.7.22/ESCB-1722



「ショッピング」
井上陽水奥田民生
1997.3.19/SRCL-3769


「30」
奥田民生
1993.12.01/SRCL-3354



「股旅」
奥田民生
1998.3.18/SRCL-4204


「GOLDBLEND」
奥田民生
2000.3.23/SRCL-4790


「LIVE SONGS OF THE YEARS/CD」
奥田民生
2003.11.6/SECL-39〜SECL-40



「空想ゲーム」
エスカーゴ
2002.4.24/KICM-1051


「遠幻郷」
白鳥マイカ
2003.7.16/PCCA-01917

『moment jam session#1』を終えて映像メッセージ&古田たかしさんにとってドラムとは?

Message Movie

『moment jam session #1 』を終えて


メッセージムービーを見る
| Mac | Win |

-------------------------------------------
(BB環境のある場所にて、お楽しみ下さい)







Message Movie

『古田たかしさんにとってドラムとは?』


メッセージムービーを見る
| Mac | Win |

-------------------------------------------
(BB環境のある場所にて、お楽しみ下さい)






by ken-G