駿東宏 / Hiroshi Sunto


CDジャケット、雑誌等のデザインからイベント開催と幅広く活動を続けているアートデザイナー、駿東宏氏の過去から現在までを辿ったインタビューです。

(2003年11月16日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)





駿東宏
(Hiroshi Sunto)


1977年、日本デザインセンター入社。1985年にスントー事務所を設立。音楽、ファッション、雑誌などのアートディレクションを行う。他に自らの総合レーベル“Module”を打ち出し、雑誌や書籍、Live活動などを行ってきた。アートディレクターだけでなく、多岐にわたる分野にて活躍を続けている。


  総合っていうか「次」かなって思いますよね。いつもそういう意味では総合ですよ。最良の方法でやりたいわけで出し切りたいですね。うん、出し切った後の、次のことなんて考えなくてもいいと思うんですよ。そしたらまた次の人はもうまた何かあると思うんで、できるじゃないですか。


T:まず、生まれと場所を教えて下さい。


S:東京品川の中延ですね。1955年生まれです。

T:小さい時から中延に?

S:もう小さい時からです。おふくろ方がね、地主だったんです。僕がいわゆる23代目です。おやじがそこに養子じゃないんだけど入っていて、うちのおじいちゃんまでは本家だったっていう風な家なんですよ。凄い旧家で、4家族がいっぺんに住んでたような家なんですね。学校の前の文房具屋で。そういう家ですよ。おやじはどちらかっていうとフリーターで未だにちゃんとした仕事にもつかずっていうような人なんだけど。おやじの影響も受けながらそういう、こう土地にどっかりといるようなものも引き継いじゃったかな?って感じですね。おじいさんは、まあ農家なんだけども。文房具屋をどっかでやりだして、おじいさんの兄弟とうちのおふくろの兄弟も絵描く人がいて。僕もちょっと体を壊した2年間があって。そこで絵を習わされたっていうのか。日本画の先生だったんですよね。おやじもカメラマン志望で、英語しゃべってカメラマンやって、車乗り回すっていうのが夢で。戦争から帰って来たクチなんで。そういう自由人の影響も受けたかもしれないですよね。

T:小さい頃の文房具屋って結構周りからうらやましがられなかったですか?

S:ある程度はね。僕自身にとっては生まれた時から家に画材がある程度の話で。最初から紙と鉛筆と画材も全部あるじゃないですか。そうすると最初にやったのが、その日本画を習っていたり、灯籠画っていうのを描かされたんですよ。家にお稲荷さんあったんでお彼岸になると灯籠がでるんですけど。それの絵を描かされましたね。

T:どんな絵を描いていたのですか?

S:いや、漫画ですよ。鉄人28号とか(笑)。後は東映アニメの漫画とかじゃないですかね、アニメが好きでしたからね。だから連載で漫画とか描いてましたよ。

T:学校に持ってって見せたり?

S:持ってて見せたり。休むと家にまで見にきたりとか。

T:では、外で遊んだりとかはあまり?

S:病気だった頃があるんですよ。小学校1年と2年。外に出た印象がない時期があるんですよ。3年からは治って普通にやってたんだけども。塾に行っちゃいけない、スポーツもやってはいけないっていう時期に、日本画を習わされたんですよね。普通、お習字とかそろばんを習わされたりするじゃないですか。そういうものと近い感覚で。うちの近所に90歳位の日本画の先生がいて、普通の小学生だと不透明水彩でしょ。透明水彩なんですよ。塗り重ねをして、乾いたら塗ってくっていうのをやってたんですよね。もうずっと重ねていた印象がありますよ。

T:水墨画みたいなものとか?

S:透明水彩は、いわゆる鉛筆で下絵を描いたらその上にこう塗り重ねていってやるやつで。不透明水彩っていうのは「ガッシュ」っていうやつでね。いわゆるこう塗り絵みたいなものなんですよね。ポスターカラーと同じように。それを透明水彩で根気良く描くんですよ。美術大学でやるような事を小学校1年でやらされてたんですよ。

T:学校の図工の時間の成績は良かったんですか?

S:いや、あんまりよくなかったですよ。漫画は好きだったけど、ああいう学校の中の枠にはめられたものに関してはあんまり得意じゃなかったかもしれないですね。

T:では、自分の好んだものをという感じだったんですか?

S:うん。だから自分がやりたいようにしかできないタイプだと思うんですよね。それは小さい頃からで。遠足とか途中で1人で帰っちゃう子でしたから。修学旅行も卒業式もでてないし。別に反逆児ではないんだけど、みんなで行進してると1人だけスーッて違う方向に行く子供だったですね。

T:なるほど。じゃあもう小学校の時から、絵を描く事っていうのを将来的にやっていきたいっていうのは?


S:それはなかったですね、あんまり。

T:それはなぜですか?

S:いや、花好きだったんで。栽培部にいたんですよ。小学校の時。一緒に住んでいた叔母がね、お花の先生だったので、うちのおやじとかおふくろのやってることにあんまり興味なくて。叔母がお花の先生で植物を育てたんですよね。それに興味があって、お花の教室に出入りしてましたよ。お花屋さんになりたいって言ったら先生に「男がそんな小さいことでどうするんだ!」って怒られたことありますね。

T:それは今は夢に?

S:いや、今でもやっぱり植物って好きですよ。去年もきゅうりとジャガイモとかやりましたし。美味しかったですよ。今年はちょっとリンゴの苗もらってきたんでリンゴを育てて。あれは接ぎ木するんですけど、それやりたいなと思って。

T:ほう。

S:何かこう育っていくのが好きなんですよ。ちゃんと土をきれいにしていかなきゃいけないとか。非常に科学的なもんで、今でも好きですよ。

T:中学校になるとどういう風な活動を?

S:中学校の時の美術の先生が、僕の事をいじめたんですよね。それですっかり美術が嫌になっちゃって。ただ自分では成績は良くなかったんだけども、好きだったんですよ。絵を描く事が。それで、四六時中絵描いてる子だったんですよ。漫画ですけど。中学校の時に先生が嫌いだったんですけど「デザイナーになる」って言ったんですよ。その先生の前で。そしたらその先生が大笑いして「お前なんかになれる訳がない」って言ったんですよね。逆に先生に「デザイナーになるって」言ってたらしいですよ。

T:中学の頃は他にどういうものを描いてたんですか?

S:何か線。三角定規とかコンパスとか使って、線を描いたり、塗り絵みたいにやるんですよ。要は平面構成ですよね。レコードジャケットのロゴタイプとかやってましたよ。レッドツェッペリンとかね。ビートルズとかのロゴタイプを自分で作ったりとかして。ロゴタイプとか模様とかね、図案とか。何となくそれがデザインなんだっていうのに気が付き始めたのが中学校の時なんですよ。とにかくそれが楽しいと。何にも考えなくてどんどん出来ちゃうんですよ。頭使ってんのか使ってないのかわかんないんだけども、そのパターンとか描くのが大好きで毎日のように描いてましたよね。

T:高校は?

S:中学校の時に美術高校受けたんですよ。結局その試験がめちゃくちゃ簡単だったんですよね。それで失望したんですよ。今はレベルが高くなったって聞いたんだけど、当時は「日大鶴が丘」に美術科があって、そこを受けたんだけど、テストが凄い簡単だったんで、凄いショックだったんですよ。何かバカにされた感じがして。全部100点だったような気がするんですよ。それを失望して都立いっちゃったんですよね、

T:それは普通校?

S:都立の普通科ですね。

T:高校では何を?

S:高校は、ズッーっと外部のデッサン教室ですね。学校の美術科クラブに入らないで、中学校時代先生が嫌いだったんだけども、高校の美術の先生は凄くいい先生で。デッサン教室を紹介してくれて。学校終わったら、終電までずっとデッサン教室って感じですね。

T:木炭ですか?

S:僕は鉛筆です。油絵じゃなくてデザイン科だったんで。

T:高校3年間はずっとそういう生活だったんですか?

S:うん、まあそうですね。真面目に行ってたとは思うんだけど、毎日ちゃんと行き出したのは2年からですかね。

T:中学校、高校は洋楽を聴いていたんですか?

S:もう洋楽ばっかりですよね。

T:初めて買ったレコードは?

S:ローリングストーンズですね。「Jumpin' Jack Flash」ていうシングル盤ですね。

T:なぜそれを選んだんですか?

S:ようやく買えるようになった時期だからじゃないですか。10、11才ぐらいの時ですかね。それ迄のレコードっていうのは「朝日ソノラマ」とか、車のクラクションのレコードとか、音楽っぽいものじゃなくて。音楽っぽいものは一緒に住んでいた従兄弟が全部持ってたんで。ロックンロールのレコードは、従兄弟にもらってたんですよね。自分では買ってはいないです。ゴミ箱に入ってるのもらってきたりとか。

T:ストーンズの他には?

S:ストーンズが1番好きだったですかね。あとはね、ウェストコーストの音楽ですかね。「ダンヒル・レーベル」っていうレーベルがあって、「グラスルーツ」とか「ステッペンウルフ」とかそういう音楽を聴いてましたね。

T:「リチャード・ハリス」とかもですね。

S:そうですね。ダンヒルですね。

T:楽器やってみようみたいなのは、なかったんですか?


S:なかったですね。エレキギターは買いましたけど。弾いてはいないですね。ずっと絵を描いてるんで、弾かないですね。音楽を聴きながら絵を描いたりするのが好きだったですね、ミュージシャンになろうとかって別に思わなかったですからね。周りにそういう人はいっぱいいましたけどね。

T:映画は?

S:映画は小学校の時、岩波映画は良く観てましたね。あとはパペットアニメ。あと僕が1番好きだったのは東映動画ですね。もうあれには狂ってました。今でもそのコレクションずっとやってんですよ。宮崎駿さんも東映動画出身ですよね。

T:「ホルス」とか?

S:そうですね。宮崎さんは「白蛇伝」「ガリバーの宇宙旅行」「わんわん忠臣蔵」とかそういうのですよ。それは音楽以上にヒューマニズムの基盤になってるかもしれないですね。

T:洋画とかでなくて、日本アニメが?

S:それは小学校くらいの時で、中学校ではロック気違いでしたからね。もうレッドツェッペリンとかCCRとかダンヒルレーベルとかばっかり聴いてたんで映画はそんなに印象残ってないですね。ヘッドフォンがないからスピーカーで聴いてましたよ(両耳に寄せるそぶり)。あの時で多少難聴になってたかもしんない。

T:高校終わる頃はどういうものに?

S:高校では外タレライブ三昧なんですよ。来る外タレは、多分ほとんど見てると思いますね。

T:1番印象に残ってるアーティストは?

S:やっぱりレッドツェッペリンですね。で2日間行くんですけど、「広島である」っていう噂を聞いた時に広島行きたかったですもん。他にはジェームズ・ブラウンとか。ツアーパンフは、外タレのその頃行ったやつは大体残ってますよ。高校の時はお金ない訳で、半分は忍び込むんですよ。もう時効だから言っちゃうけど。当時?2時までは武道館開いてるんですよね。2時前に行って隠れてるんですよ。トイレとか打ち上げの会場とか。で、何度も見つかりましたよ。

T:追い出されるのですか?

S:追い出されて、階段から落っことされて怪我した事もありますよ。でもその日も入ったりしたりして。

T:じゃあもう武道館で隠れる場所とかは大体(笑)?

S:うん、大体分かってますよ。ロッカーの中に隠れていた友達に会った事ある!

T:(笑)で、それは?

S:ユーライア・ヒープのライブの時。あとディープ・パープルの時とか。高校の時イコール「外タレライブ武道館時代」って自分の中で思ってますよね。

T:その後は?

S:高校3年の時に芸大を受けて簡単に落っこっちゃう訳ですよ。受かるもんだと思ってたんで、もう他の学校受けてなかったので。1年目に。それで具体的に初めてその「受験」っていうのを知ったんですよ。それまで全然考えていなかったんですよね。受験の為の勉強とかし始めて1年浪人して、ムサ美大に行くんですけど。今まで適当にやってたんですよね。きっとね。

T:挫折感みたいなのは?

S:いや、別になくて楽しかったったですよ。ただどっかで不安だったのかもしれないなあと思う。当時の絵を見るとそういうふうに思う。それに不眠症になったんですよ。その時に。

T:浪人時代?

S:不眠症っていうのかな?朝方まで寝れないんですよね。結局ラジオ聴いてレコード聴いて、デザイン画描いてっていう毎日。

T:勉強ばかりしてたんじゃなくて?

S:勉強っていうかね、自分の中ではデザインとか絵とかはね勉強だっていうやらされてる感がまるでないんですよ。自分が好きでやってただけで、たまたま受かんなかっただけで。合格した時も別にそんな感激もしなかったし、早く就職したいなぐらいだったんですよ。ムサ美大時代ってのは学校もちゃんと行ってましたけど、デザインの仕事いっぱいやってましたよ。プレゼンテーションとかイラストのバイトとか。

T:1番最初にデザインのバイトっていうか、お金を稼いだは?

S:商店街のポスターですね(笑)。バーゲンセールの。

T:それは浪人時代?

S:いやいや、ムサ美大の時ですね。バイトは浪人時代もやってましたよ。友達で今でも付き合いのある村山君っていう高校時代一緒にデッサン教室行ってた人間が、僕が浪人時代には彼はもうプロになってやってて。彼とは未だに同じような関係なんですが。酒屋の包装紙とか。そういう仕事やってました。

T:じゃあもうその時からデザインの仕事を?

S:自分が好きなデザインをやるには学生とかアマチュアじゃダメなんで、そういうとこに早く入りたいっていうのは凄くありましたね。だからプロ指向なんですよ。

T:すぐにはそのプロにはなれない訳ですよね?

S:でも運良く大学在学中に「日本デザインセンター」入っちゃうんですよ。3年の時ですけどね。その村山君がもう3年目で新人賞って華々しくやってたんですよ。彼の紹介で、「デザインセンター」に入ったんですよ。

T:「デザインセンター」最初の仕事って何ですか?

S:東芝のビデオの広告でしたね。でもアシスタントですよ。まだ21才かで。バイトで入ったんですよ。バイトは全部で50人位いたんですよ。それが1年目で試験受けさせられて、僕以外49人落っこちるんですよ。で、1人僕だけ残ったっていう。運が良かったんですよね。

T:その時やっぱり自分の実力みたいなの感じたんですか?

S:実力っていうか、見りゃ分かるだろうって感じですかね(笑)だって、あまりにもみんな下手だったんで。ただバイトでやってた経験あったし。それに、その間に海外コンペとか自分で作品作ったりするようなやる気のあるヤツはいなかったんですよね。よく海外コンペとか出していましたよ。そのデザインセンターのアルバイト時代に。

T:プロとしてやるからには、そういう勉強というかスタンスというか、学ばなきゃいけないですよね?

S:それはデザイナーとして初めてプロの現場についたアートディレクターがサイトウマコトさんって人なんですよ。その人がその業界の超やり手だった訳で、その人に4年間ついていたんで、いっぱい仕事しましたよね。だからバイトの身なのに仕事は東芝のビデオの広告なんだけど、サイトウさんのアルバイトは、もうパルコのキャンペーンなんで、もう22才ぐらいでパルコのキャンペーンやってましたからね。

T:もうちゃんとした仕事ですよね。

S:会社からの給料と残業代もらっているんで。早めに会社のタイムカード押して、朝7時まで会議室でバイトやってるんですよ。お金もちゃんとくれたし。

T:でも学校は?

S:学校は3年からは行ってないですよ。学校から「お前、いい加減戻ってこい!」みたいな。「でも僕就職しちゃったんで」って言って。僕、奨学金もらって行ってたんですよ。自分でバイトもしてたし、自分でこういういわゆる自立してたというか。自宅にいるというのもあるんだけど、お金もらって行くのが嫌だったんで、基本的に自分が働いて大学行ってた方だし、早く独立したかったんですよね。

T:好きな事をやって仕事して?何か他に欲しいものとかは?

S:全部レコードですよ。自宅にいるんでね。「こっからここまで下さい」って感じの買い方です。例えば新譜とかLPだし。とにかくレコード屋にいるのが好きだったんで。仕事は毎日遅いんですけどね、たまに休みの日にまとめ買いする訳ですよ。ちょうどその頃はニューウェーブ、パンク以降な訳ですよね。買うレコードの多かった時期だと思うんですよ。そこで買えなかったものは多分ないくらい買っちゃったんですよね。だから、今買い漁ってるのは、お金のない時期に買い損なったレコードな訳ですよ。それを今漁ってますよね。

T:その頃プロとしてデザインをやる先に、その目標みたいなのっていうのはあったんですか?

S:目標っていうんじゃないんだけど、デザイナーっていうのはネクタイ締めて、トラッドなスーツを着て、ちゃんと会社のトップと渡りあえるもんだと思ってたんですよ。ところがそのサイトウさんは仕事の仕方は、トップと一緒にやるタイプなんですけど、ルックス的に言うとジャージ来てるタイプなんですよ。仕事してサラリーマンなのに。ジャージ着て会社くるんですよ。そのジャージを黒人系だとか自分で言ってましたけど(笑)。ただ僕のイメージだと、ちゃんとこうボタンダウンのシャツ着て、ネクタイしてやってる人がかっこいいと思ってたんですよね。その代表がプッシュピンのスタイルでプッシュピンスタジオってニューヨークにあったんですけど、それのミルトン・グレイザーとかシーモア・クワストっていう人がかっこいいと思ってたの。サイトウさんも仕事ぶりはすごい素晴らしいんだけど、ジャージじゃないだろうと(笑)。だから、いわゆる今で言えば建築のデザイナーがそれに近いかもしれないですけど。グラフィックデザイナーもニューヨークではそうだったというのは一種目標というよりは、なんていうかな、イラストとかそういうの描いてきましたけど。その企業の指針に合わせたクリエイターにはなりたいなって思ってましたね。単純にこういうただ好きな絵を描いてるんじゃなくて、その会社の組織に入って、デザインセンターっていうのは大きな会社なんでね。いわゆるオリンピックとかその、いわゆる大企業の仕事しかしてないので。それがどっぷり漬かって洗脳されたというか、教育、学んだとこですね。ただ問題はそっから先なんですよね。デザインセンター時期はそんな事考えてましたよね。そこで僕はブレックファーストっていう事務所の仕事をそのデザインセンター3年目に見て「目からウロコ」だったんですよね。やっぱり東京にはすごいやつがいると。あのそういうクリエイター集団で、かなり緊張感のあるいい仕事してる集団が石岡さんのシスターズと杉本英介さんとかそういう人たちの集団で「ブレックファースト」っていう事務所だったんですよ。それがとにかく憧れで。僕がデザインセンター3年目位からそこに行きたくて、サイトウさんも一応業界通だから「紹介して」といって面接受けたんですよ。50人くらい受けて僕が2番で入れなくて、1年間ね。石岡さんに電話して「僕を採らなかった事はブレックファースト最大の失敗ですよ」とかそんなことばっかり1年間ずっと電話して。そしたら急に欠員が出て、1年後に入社できたんですよ。でもその時にサイトウさんにね、一緒にくれば給料はブレックファーストの倍やるし、ちゃんとチーフデザイナーとして優遇するからって言われたんだけど。初めて岐路に立ったんですよ(笑)。安定会社の役員、まだ24才くらいの時ですよ。会社の役員的なもう給料が保障された中での。サイトウさんと仲良かったんで、そういう世界と、こっち行ったらもう何されるか分かんない世界と。基本的に独立心が強かったからもう自宅だったし「別に金なんていらねえからこっち行きたい」ってどっかで思ってて。行ったらとんでもない目に合ったっていう(笑)。もう入ったその日から1週間帰してもらえなかったですからね。

T:何が待ち受けてたんですか?

S:それまではサイトウさんが考えたものを僕がただ作るだけだったんですよ。指示を受けてデザインやってるだけだったんです。技術的に文字書くのは結構得意だったんで、主に文字書いてサイトウさんがアート・ディレクターとして写真撮って、仕上げて、そういうのやってたんだけど。でも、ブレックファーストっていうのはもう何から何ま全部やるんですよ。自分で企画出して、プレゼンして通ったものを撮影して、それをこう構成して、届けて、請求書まで書いた事ありますから、全部やる訳ですよ。何も出来ないからもうすごい大変でしたね。っていうか鍛えられましたね。基本的に1日3部構成で、10時から夕方まで残務整理っていうか、そういうこう色んな撮影の段取りを組む。それから夕方から夜11時までが色々なデザイン作業。あとオブジェ作ったり撮影したりするのが大体夜中やったりするんですよ。そうすると3年間僕はブレックファーストにいたんだけども、2時間寝れればいいって時代でしたね。その3年間っていうのは入る前に3年で辞めるって約束してたんですよ。だから26の時に入って、29までいたんですけど。29の時に独立しちゃうんですよ、いきなり。それがスントー事務所なんですよ。もうだからブレックファースト在籍中に事務所作っちゃったみたいな。

T:なんで3年で辞めるって断言したんですか?

S:ミルトン・グレイザーは20代で独立しているし、みんな。僕の周りも大体できる人は26、27で独立してるっていうのがなんとなくあったんで。絶対20代では独立しなきゃマズイだろうと思ってたんですよ。それは仮説だったけども、その3年間にブレックファーストが、解散しちゃうんですよ実質的に。なのでタイミングとしても独立するチャンスだったんですよね。なので、そこまでは小学校、中学校からずーっと駆け足できたんですよ。自分もそう思いますね。なんか立ち止まる事さえ出来ない。だから、唯一不眠症になった浪人時代がモンモンとしてた、体の持て余した時期で。あとはずっと走りっぱなしっていうか、なんかもうちょっと落ち着いてやらなきゃだめかなっていう風に思った時期でもありましたよ。ただその、独立してからが何にも仕事ないんですよ。29で独立したもののまあ僕の先輩達は大体仕事もらって、中堅で仕事してたんだけど、無理矢理独立しちゃったんで、仕事何もないんで、「grey」っていう本をね。仕事暇だったんで、こんなのばっかりつくってたんですよ。

T:「grey」はどこに置いてたんですか?

S:自分で作って、最初ニューヨークに売り込みに行きました。少しだけ買ってもらえましたよ。これがその暇だった時に作ったやつなんですよ。デザイン詩集っていうもので英語で書いてみたんですよ。

T:コンセプトは?

S:コンセプトはないんだけど、僕の日常の断片を詩集にしたかったんですよ。デザインっていうと大体、絵柄写真なんか組み合わせっていうことだったんだけど、僕はまず言葉をデザインしたかったんですよ。自分でなんか知らないけど、英語が出て来て。でも外人に見せたら、ニューヨークに売り込みにいったんだけど、これで。デタラメな英語で。笑ってましたけど。

T:何部くらい?

S:これ500部。うん。当時僕の周りにもこういう本作る傾向があって、いわゆる、小ロット印刷で、アート本っていうか、まあこういうのを出すのがちょっと流行りはじめてた方向があって。それでなんとなくそういうのに先駆けて作ったのがこれでやっぱ500部ですよね。

T:日本でも?

S:うん、オンサンデーズとかストア・デイズとか。結局、佐野元春さんはこれ(grey)を見て声をかけてもらったですよね。

T:佐野さんに直接これを?

S:Switchの編集部がこれを買って、その人が佐野さんに見せて。その後佐野さんから直接電話もらったんですよ。「『grey』っていうデザイン詩集見ましたって。『素晴らしいですね』」って。「僕は今自分の言葉をデザインしてくれる人を探してるんです。会ってくれませんか?」言って。これができて僕があっちこっち売りに行ってる頃だったんですね。80年独立して、夏位だったかな?

T:最初に出会った印象は?


S:直接佐野さんから電話もらって、僕、佐野さんの事あんまりよく知らなかったんですよ。今考えると「Visitors」のツアーの最中ですよね。85年に関してですからね。最初に電話あって、お昼くらいだったですかね。それから1時間後にマネージャーから電話があって、事務所にすぐ来たんですよね。このぐらい(5センチくらいの厚さ)コピー何百枚ってとった佐野さんのいわゆる雑誌の掲載されて、いかに佐野元春が話題の人かっていうコピーを持ってきたんですよ。僕はツラツラ見てる時に、佐野さんが夕方来たんですよ。「それはいらないです!」って言ってゴミ箱捨てて。「ところで10年間お願いしたいんですけど」って言い出したんですよ。10年間の計画をアタマから言う訳ですよ。雑誌プロジェクト「THIS」の復刊いわゆる「CBSソニー出版」で出してたTHISを「Switch」が出すっていう計画と。マンスリーライブを定期的に月1回やって、く。シングル盤を毎月出して。アルバム「Cafe Bohemia」とそのツアーを1年半やる。それにラジオとかがあって。これから向こう10年お願いしたいっていう訳ですよ。僕もそういうもんかなと思ってたんで、自然に聞いてましたよ。実質的にはそれから15年くらいやっちゃうんですけど。いわゆる佐野さんっていうレーベル自体の立ち上げと、そういうもので、やるっていうのは何となくこう僕がそのデザイナーがジャケットをやる場合に、今考えたら理想的な自分がやりたかった事に近かったかもしんないですね。エムズファクトリーレーベルが立ち上げの時で。レーベル作ったりとかで1番最初に作ったのがこれだったんですよ。「ELECTRIC GARDEN2」。デザインの雰囲気はほぼ「grey」と同じなんですけど。カセットブックで。最初はインディーレーベルが出す予定だったんですよね。それで、こういうカタチにしたところ、エピックから出したいという話になって。そのいわゆる街の印刷所でやってた形をそのままエピックが買い取ったていう仕様なんですよ。ええ。なので、その印刷所も結構困ったんですけどね。

T:で、これは何部くらい作ったんですか?

S:いやわかりません。最初は限定何千部とかで考えてたものなんで、佐野さんの音楽がその時ブレイクしていたようなんだけど。あんまり良く知らなくて。実際に「ELECTRIC GARDEN」っていうアート本があったんですよ。ポエトリーの。それに関してはね、結構ショックだったんですよね。

T:あの横長の?

S:横長の3冊が一緒になった形。日本のミュージシャンで、こんだけ結構世界のトレンドとシンクロしてるミュージシャンがいるのかってのが初めて知ったんですよ。だから、それまでは海外のを日本でパクるって図だったのが、その世界と同じ波長で、歩調でやってる人がいるんだなあと思って。そのVol.2を手始めにやるっていうのは光栄でしたよね。

T:この時まだCDはなかったですね。

S:まだないです。アナログですね。ただこの後に「Cafe Bohemia」っていうアルバムを最初にやるんですけど、佐野さんの中では1番最初のCDだったんですよね。当時はLP、CD、カセットっていう時代で。なのであくまで、LP主体で。CDはメインではなかった。ええ。だからジャケットに関しても、CDはあくまでもLPを縮小する作りだったんですよね。

T:「Cafe Bohemia」でイメージが変わりましたね。

S:僕はその前の「Visitors」からハッキリ変わったと思います。佐野さん自身がディレクションしてなかったので、NYにいて。なので「Cafe Bohemia」から正式に、全般のプロデュースをするようになったんですよね。正式に。そのエムズファクトリーの立ち上げと同時に。でいうところがデカイんじゃないすかね。とにかくね、好きなようにやらしてくれたんですよ。メーカーを入れないで、佐野さんと僕だけで仕様とか全部決めちゃうんですからね。いわゆるそういう時代ですよね。

T:「Cafe Bohemia」の中の僕が当時面白いなと思ったのが、歌詞の言葉が区切ってあるじゃないですか?

S:歌詞がでしょ?流し組ではなくってね。

T:これ面白いなあって思ったんですよ。

S:これ、佐野さんと一緒に作ったアイディアですね。歌詞カードは普通流し組ですけど。その詞を機械的に扱うっていう。だけど僕は別に不思議でもなんでもないのかもしれないけど、とにかくこういう事やったのは佐野さんが初めてだし。自分でも初めてなんで。

T:駿東さん自身の?

S:いやいや、これはイラストレーターの人に描いてもらったんですよ。これはもう1ヶ月くらいかかりましたね。この頃はもうCDしかなかったですね。LP作ってないっすもんね。

T:「Cafe Bohemia」以降のアートワーク、CDジャケットまわりは全て?

S:CDだけじゃなくて、いわゆるツアーグッズもそうだし、あと雑誌「THIS」もやったし、それに外でも色々やった訳ですよね。全部で100タイトル以上は作ったんじゃないですかね。

T:その頃は佐野さんの仕事だけでもう?

S:手一杯って感じですね。

T:ですよね。

S:だから佐野さんからも自分の仕事やる時はスケジュール空かしといてくれと。音楽家だったらそういう事できるかもしれないけどデザイナーってそういう訳いかないんですよ。長くこう、1年かかる仕事もあったりするので。特に「03」とかっていう雑誌もやってたので。

T:ああ、やってましたね。ありましたね。あれは何年くらい?

S:あれは2年しかやってないですね。でもその間に佐野さんのライブの協賛を「03」にやってもらいましたよ。

T:「0」と「3」がこう四角く赤と黒で。

S:ああそうですね。音楽の仕事だけじゃなくて雑誌の仕事。それにグラフィックの仕事っていうのが僕の3本柱で。音楽の仕事っていうのは最初はあんまり考えてなかった仕事なんで、何かそれこそね僕のボスがね、海外のミュージシャンとかやってたんですよ。ストーンズとかU2とかから頼まれるもんだと思ってたんですよ。だけどちょうどJ-POPが出始めた頃で、いわゆるその音楽の仕事自体がデザイナーのそういう専門職を作り始めた頃なんで、前に会社にいた時はレコードジャケットっていうのはデザイナーにとってみんあ専門にやっている人はほとんどいなかったんで、そういう専門になりかけたときに周りからずいぶん反対されましたよ。エディトリアルと、レコードジャケットはB級のデザイナーがやることだって。

T:85年くらい?

S:80年代前半の話ですね。B級っていいうか、いわゆるそのデザイナーがアートディレクションをして、その企業と対等にできる大きな目指すべき仕事ってのは広告であり、その建築であり、なんかデザインオリエンテッドでできる仕事で、エディトリアルっていうのは、編集がいて、それに受け身になる仕事だから良くないって多分言うんだけど。まさか要にデザイナーが立つっていう仕事ではなかったんですよ。ただ僕がこの佐野さんをやり始めた頃に初めてそのADが中心にいるっていう仕事ができたんですよね。これがラッキーだったですよね。

T:そうですよね。佐野さん自身の活動が割と革新的な動きでもあったから、それに付随する表現するもの全てに関しても。

S:ちょうどその85年からデザイナーになった時に、デザイナーがアートディレクションをする花形の仕事でもあったので、佐野さんの仕事に関わらず、割とこう、仕事でアートディレクター中心でやることが多かったんですよ。「03」っていう雑誌も要はその「THIS」を見てくれたあの編集の人が僕を引っ張ってくれた訳で、アートディレクターっていうのは編集長と対等であるというつくりをしていた雑誌なんですよ。だから僕が最後の台割れ作ってたし、あとカメラマンのキャスティングが僕の仕事で、その打ち合わせとかで、デザインはほとんどやってないです。デザインはうちのあの事務所がその時11人位いたんですけど、それの工場みたいなのがあって、そこにどんどん流していくだけで。そこでコンペやるんですよ。それで結局できたものから採用していくやり方なんですよね。

T:場所は?

S:新潮社の空地にプレハブ作ってもらったんです。スントー事務所別館みたいな感じです。30坪くらいですかね。その当時は青山に事務所があったんですけど。エピックの近くにね。だからそこは2年間行ってないですね。そっちの新潮社のプレハブに2年間。準備が2年かかってるんですよ。佐野さんの仕事やりながら、準備してて。89年から91年ですね。ええ。いわゆるバブルのときですよ。バブル直後なんですけど、まだ雑誌とかジャケットに関してはこれからって時ですね。だから「03」はね、ほんと好きなようにやってましたね。もうお金のこと一切考えないでやってましたね。もう予算なんか立てないですよ。「今からベルリン行こう!」って感じで。そういうレベルですから。1番最初のニューヨークロケだとかは20人位つれていきました。

T:結構インタビューも面白かったですね。

S:ええ、もう何かみんなイメージだけでやってたんで。とりあえずカメラマン3人連れて行くと。それと僕とで打ち合わせしながらその場で作るんですよ。だからなんかこうちょうど僕も30前半だったしだから頭から湯気だして作ってた感じしますね。金もあったし。2年で終わっちゃったのは、結局1年ちょっと経ったらこの雑誌は3億までが借金の限界だってのが知らされたんですよ。2年目でそれを使いきったので、終わったんですよね。その頃ちょうど売れ始めた時だったんですよ。まあ残念ですよね。そういうのはちゃんと(会社員の)君達がやってくんなくちゃっていう感じはありましたからね。

T:読みごたえありましたよね。

S:今でもなんか「03」を学生時代の頃に読んだ人が今編集長やってる人多いですよ。

T:そのころは音楽ものは佐野さん以外にも?

S:うん、そうですね、まあ、それはうちのサイトに全部書いてあったりするんだけど、「03」を終わったのを境に僕は音楽の仕事ばっかりになっちゃうんですよ。海外のミュージシャン等をやり始めて、中国とかね、シンガポールとかすごいやったんですよ。その頃にやったのがタワーレコード行った時にジャケットと音がいいベスト20っていうのがあって、その20枚のうち17枚が僕のだったんですよね。だからそれくらいやってましたよ。

T:90年代中盤くらいですよね?

S:93年から99年くらいまでですかね。

T:多分その頃ですかね、nanacoの「Fear and Loving」で初めて会って。

S:そうですね。これが94、95年じゃないですかね。

T:94、95年ですね。

S:だから年間100枚やってましたからね。ええ。だからなんかもう息付く暇ないっていうか、1日3本くらい撮影やってましたから。

T:スントー事務所は人数どのくらいだったんですか?

S:「03」やってるときは1番多くて11人ですが、その頃は6人ですかね。

T:でも、どんどん育って行く。

S:そうですよね、もう30人独立しましたからね。みんなちゃんとやってるかは別としてまあ30人が育っちゃった。巣立っていたていう事ですよね。

T:早い人っていうのはすぐ辞めちゃう訳ですか?

S:独立しちゃうっていうか勝手に辞めてっちゃいますよね。でも、ちゃんと事務所でやってんのは4、5人じゃないすかね。

T:で作品を全部聞いてくと大変な事になるんですね。

S:3日くらいかかる。

T:その作品を見れるとこはあるんですか?

S:前Webで見せたんですけどね。しつこいんで辞めました(笑)。ちょっと簡単にして、今のWebで近作的なものだけをやったりはしてるんですよね。

T:それから、「Module」という活動はどこからきてるんですか?

S:これね、考えてみると、こういう自費出版ものっていわゆるそういう小学校の時にやってた連載漫画からずっと繋がってるんですよ。その次にやったのが、学生の時に「PIN-NUPS」っていう自費出版をやってたんですよ。それは色んなデザイナー集めて、1人2ページずつで自分の作品を発表するっていう自分が編集長で、いわゆるコミューン的に色々こう人が出入りしてたそういう雑誌の編集長やってたんですけどね。その前に高校生の時にキングクリムゾンのファンクラブやったりもあったし、あとプロになってからは「grey」を作って、それから先は、忙しいから作ってなかったんですよ。10冊くらい作ったんですよ。佐野さんと一緒に作ったのもありますよ。

T:えっ、これは(水色の本を差し出されて)?

S:これはねえ佐野さんがジャンジャンでのライブをやるんですよ。そのためのツアーパンフ作ったんですよ。一晩だけのパンフ。

T:これ何部くらい作りました?

S:これは10部。

T:10部?

S:10部(笑)。佐野さんの分と僕と、作ってくれた吉谷さんっていう人と、矢野顕子さんと、そういうお祝い。その日を記念するためののだけの。

T:これが「module3」になるわけですね。

S:そうですね。「grey」は10冊くらい作ったの。でね、独立してからこれは時々作ってたんだけど、うんとね、最後10号目はね87年くらいで終わってんですよ。
何年かずっと作ってなかったんで、時間できたら作ろうなんて思ってたんですよ。頭の中でコンテンツなやりたいことはいっぱい溜まってたんですよ。YMOの映像の仕事を僕が企画制作を全部まかされてて 、予算もあったんですけど、最後の制作を自分がやんない事になったんですよ。で、2ヶ月空いちゃったんですよ。それでmoduleを作ったんですよ。1年に2冊か3冊くらいのペースで出したんですよね。

T:自費出版?

S:自費出版で、1号目はね、2千冊くらい売れましたよ。2号目は佐野さんが表紙のイラストを描いたんですよ。

T:「Module2」ってありましたよね。

S:「Module2」っていうのは書籍ですね。「Module3」っていうのがライブで「Module4」がWebで、なんかそういう風にね色んなメディアを使ってやる自費出版のシリーズなんですよ。神戸の震災のためのイベントもやったんですよ。ライブは15アーティスト。グラフィックのオークションをやって、黒字は100万くらいでたんですよ。

T:すごいですね。

S:ええ。そのグラフィックの作家が色んな人が出してくれたんですよ。で、結局、セックスピストルズの「GOD SAVE THE QUEEN」の校正刷りとか8万円位で売れました。佐野さんは募金袋を作ってくれたんですよ。クラフトの封筒に詩を書いて。それがね、オークションで、4万円で落札。

T:それもすごいですね。

S:15バンドが出て、ライブは全部で9時間半ぐらいのライブなんですよ。

T:場所はどこでやったんですか?

S:オンエアイーストで、オークションを幕間にやって。そのお金、現金は僕が1人で神戸行ったっていうことがありました。

T:そのライブは何年?

S:95年の3月5日かな?疲れましたね。

T:スタッフとかは?

S:イベンターは、ディスクガレージが入って、舞台監督もPAもいるんだけど、段取りも僕がキュー出しをして、ミュージシャンってのはこんなにわがままか、っていうくらい順番が変わるんですよ。オークションも管理して、それで最後のお金まで持って、弁当の手配までして。全部やったんですよ。それで、その「Module」が終わって「PoST」になった時に共同作業になって「こんなに楽しかな」って思いました。だから「Module」は僕がまあ、割と仕事で忙しい稼いだお金をそこで注ぎ込んでやったのかもしれない。だから、お金はかかりましたね。

T:でも、楽しいですよね。

S:雑誌の場合1番大変なのは作る事よりも配本ですね。これを3千冊売るために色んなところに持っていくのになんていうかな、こういう自費出版の先駆けにもなっちゃったんですけど、その3千冊売れたって言うんで、パルコのところでね千冊くらい売れたんですよ。それがなんか自費出版がいっぱい来ちゃって、結局3号目から売れなくなっちゃったんですよ、パルコでは。締出しがあって。なので、それ以降は自分達が色んなところで直談判してやると。

T:「Module」は何号まで?

S: 6号かな?今度全冊送りますよ。今やもう貴重なものになっちゃったですね。

T:ライブは?

S:ライブは7回やりましたね。

T:今は「Module」は?

S:それが「PoST」に成長したんですよ。「Module」っていうのはあくまで僕が全て発注して、僕がどっかの王様的な位置で、皆にお願いしてやってもらったっていう感じで、あくまでも僕1人なんですよ。で、事務所の人間もほとんど感知しないくらいでやってたんで。でもそれには限界があるなと思ったんですよ。「Module」はお金はかかるし、大変だしで、面白いんだけども、と、考えているうちにその山口洋と松本さんと3人組という形が生まれたんですね。で、対等に運営していくようなカタチに自然となってったんですよね。だから僕だけじゃなくてバンドを組んだようなもんなんですよ。「PoST」に関しては。この間1回のイベントで燃焼しきったっていうのもあるんですよね。

T:大変でしたよね。

S:大変でした。仕込みは1年以上かかりましたしね。でも面白かったですよ。それからWebで作品公募して、展覧会やって。地平線の写真。凄い集まったんですよ。10月にギャラリーで展覧会場一周する会場で、細海魚(ほそみさかな)さんがライブやってくれたんですけど。良かったですよ。

T:「PoST」の始まりは何年になるんですか?

S:ええと、厳密にいうと2000年くらなんですが、その前に松本さんと、山口洋さんと僕とで1997年に一緒に中国行ってるんですよ。そのときにちょっと短編作ったんですよ。それがきっかけなんですよね。映画。中国で。パッセージっていう30分位の映画作ってたんですよ。だらだら撮ってただけだったんだけど、それに山口さんが素晴らしい音楽を付けてくれたんですよ。それが始まりです。短編映画。向こうで大げんかをしたんですよ。で、なんかそいうのがあって、なんとなくね、久しぶりにこう、吐き出すもの全部吐き出した感じがその3人の中にあって、なんかどんどんものが出来てく感じがあったんですよね。それが自然とこうなんか、ユニット化してきたっていうもので。僕の中ではその3人から4人っていうのは今まで3回、4回経験があるんですよね。中学時代に4人組で活動してた時期があって、それが大学時代に。「スーパー4」っていうチーム。「グレイト3」じゃなくて「スーパー4」なんですけど。4人で住んでて、一軒家借りて絵を描いて展覧会やったり、さっき言ってた仕事も、その4人でやってたんですよ。で、僕が仕切り人。が、こともあろうに、僕が先にその在学中に就職しちゃったもんで、自然消滅しちゃったんですけど。ていうのは残りの3人があんまりプロ意識がなかったんで、うん。僕だけ先にプロになって、まあ解散しちゃって。それ以来会ってないんですけど。それから、中学校時代の友達4人組とは30年ぶりに去年会いましたよ。ええ。4人組が。美術同好会4人組が。

T:みんなは?

S:みんなもう企業のお偉いさんですよ。ええ。でもその大学時代のは会ってないんで全然分かんないんですけど。「スーパー4」。それであとは「Module」やったりなんとかって、まあ1人でやってきたんで。「スーパー4」以来25年ぶりか30年ぶりにチーム組んだっていう感じですね。

T:中国から戻って来て、映像はどこかで発表されたんですか?

S:それはポリド−ルで発表してくれました。売りもんじゃないですけど、なかなか面白いですよ。ええ。今度見せましょうか?

T:是非見たいですね。それ以降3人の活動ってのは?

S:その中国のパッセージと、「中田島」ってシリーズがあって「中田島」で山口洋のギターを録音したいって僕が言い出したんです。それで砂漠の中で演奏してもらったのがあって、シングルに入ってるんですけど、それを2回やりましたかね。それが導火線になって、あの「PoST」のイベントになったんですよ。ええ。

T:松本さんはどういう風に絡んだんですか?

S:もう最初から全部松本さんですから。そういう撮影全部が。その中国も「中田島」も全部。

T:映像も全部そうなんですか?

S:ええ、そうです。

T:編集は?

S:は僕です。

T:なるほど。

S:だからディレクションと編集が僕で、撮影、カメラワークが松本さんで、音楽が山口さんなんだけども。これがユニットの場合、逆になる場合もありますね。今はCFとかやっていたいんですけどね。3人ともプロ意識が強いもんでね。なんかダラダラやるのがあんま向いてない。締め切りとかお金が発生しないと動かないタイプの人みたいですよね。

T:そうですね。1つ作品みたいなものを。

S:うん、まあでも僕だけじゃないんで、あんまり僕も独裁者と今回は言われたくないのでね(笑)。

T:あえて動かずに?

S:あえて自分から怒ったりするのはやめようと思って(笑)。

T:2003年1/30に開催されたイベント「LAND」の内容についてですけど。

S:「LAND」は結局3人が動き出して。ライブで何かやりたいっていうことを僕が言い出して、そのための映像作ってリハーサルは数時間だけやっただけで、ほとんどぶっつけ本番ですよ。なんかそういうわけも分からずくるイベントにするには、やっぱエンタテーメント性っていうのかな、やっぱなんかこうその周辺をそううまく取り込みたいと思ってて、僕から全て声掛けたんですよね。で、まずカメラマン2人、緒方秀美さんと、小松陽祐さんにまず編集を作ってもらって、これを上映する。それからミュージシャンを映像つきで2組。そのまあオープニングなり、セカンドアクトでやると。という事を決めて、最後のトリでっていうか、ファイナルのカタチでやるのがまあ山口洋とその「PoST」だったんだけど、最初にこえかけたのが渡辺太朗さんなんですよ。渡辺さんは考えてくれて、渡辺さんの「Restricted.」が逆に後からできたと。ええ。渡辺さんがnanacoさんチームからちょっと独立して考える、ユニットとして音楽と映像を考えてくれて。それで、ほぼそこで大枠ができたんですよね。あのハーモニカトリオに関してはあれから1ヶ月くらい前で僕の大学時代、1、2年の近鉄デパートのディスプレイのバイトしている時の友達なんですよ。よく彼がハーモニカ吹いてたなあと思って。バイトの最中に。それで、新聞配達のバイトやってて、ハーモニカ吹いて「1ヶ月とってくれ」とか言ってなんかやってるのを僕が隣で見てたりしたんですよ。で、ネットで調べたらハーモニカ1997年世界チャンピオンだったんですよ。1998年かな?それですぐ電話したんですよ。そしたらすぐ電話かかってきて、ジャケットやってくれて言って、やった事あるんですよね。それからしばらく付き合うようになってて、実はちょっと彼が作った曲に僕が勝手に映像作ったものがあって、それを見せたら、ライブ出てくれることになって、っていう付き合いなんですよね。だから20年ぶりに会って、っていうイベントなんですよね。ハーモニカをずーっとやってきた人間を僕はああいう場でちょっとみせたいなあって思ったんですよね。ええ。だから合わないのはもう覚悟で。別に合うものをやるっていうよりはなんかイベント自体の僕の考え方なんですよ。だから「Module」でもそういうことをやってきたんで、ある種ちょっと強引にやっちゃったんで、あとの2人からはま色々言われましたけど。まあ結果オーライって感じですかね。ええ。

T:なんかカーニバル的っていうか面白かったですよ。何かこうフェリーニの映画あるじゃないですか、ああいうなんか。

S:そうそう、あの僕の中にあるのはね、予想付いたものは面白くないだろうと。「Module」のライブでもね、田島貴男さんって、オリジナル・ラブとイベントやったのが1番面白かったんですよね。夜中で、時間がまず余っちゃってるんですよ。9時から明け方の6時までですから、9時間あるんですよ。で、田島貴男が9時間もライブできるわけないし、出来るのは4曲だけだっていうんですよ。じゃあバンドで2曲、ソロで2曲っていうことで、じゃあどうやって繋げようかつって、まあピチカートファイブの小西さんにDJやってもらう、あと二見さんにDJやってもらう、LKOにDJやってもらうって言って、DJイベントにしようと。で、その間に田島貴男が出ると。バンドとオリジナルラブと田島貴男と。でも、これだと田島一派のイベントになっちゃうなと思ったんで、2組違うの入れたんですよ。それがスティーヴ・エトウさん、エレクトリックパーカッションのデビューライブ。それと坂本サトル。スティーヴ・エトウはデビューライブなんですよね。で、坂本サトルは当時はバンドマンで1人でやったことのない人で、それがきっかけでソロデビューになっちゃったんですよね。未だに付き合いがあるんですよ。だから未だに弾き語りをやらしたのは僕だっていうことになっていて、そのイエローっていう曲で。あれが入ってることによってイベント自体の不可思議さ、あの神秘性っていうのはついたと思うんですよ(笑)。せっかく小西さんがつくってくれたグルーヴが坂本さんが出て引くんですよ。だけど、坂本さんに言ったのは「30分任せるからなんかモノにしたら面白いじゃない?」とか無責任なこと言ったと思うんだけど、それを彼は初めて弾き語りのライブやって。話によると3日間スタジオで練習したっていうんですよ。それで、その客を見事に引き寄せたんですよ。それで、ソロでやってく自信が付いたっていうんですよ。ヒットしたし、ポップジャムにもそれで出ちゃったりとかしたんですよ。なんかそういうなんかね、あのライブに来た人も、単一のなんか趣味人の集まりのイベントじゃなくて、なんかあそこには魔法があったっていうか、面白かったよねって今頃になって、やっぱ言いますよ。

T:またこの次にやる「PoST」でも?

S:僕は、舞踏をやりたいんですよね。ええ。できれば、前から言ってるんだけど、ダンサーをプロジェクターのスクリーンがわりにしたイベントをやりたいんですよね。だから、踊る人っていう次元と、踊る人が、スクリーンになって違う映像を作るとやっぱ「1+1=2」ではないというイベントができるんじゃないかなと思うんですよね。だけど、同時にここでの現場とは別のところで弾き語りのライブがあると、なんかこう合体の波長を生むんじゃないかと思うんですよ。だからなんかこう凝視しない空間っていうのが興味あるんですよね。そういうのは逆に言うとグラフィックデザインっていうのは1つのこう、なんていうのかな、二次元的なものを凝視するところから始まるでしょ。だからなんかね、ライブハウスとかクラブのああいう不思議な空間に対するなんていうかな、憧れがあるんだとおもうんですよ。えー、なんかグラフィックデザインには本当はこう多重にこう平面っていうのは存在するはずなんだけど、それいっぺんで分かるにはそういう、面白い空間があればいいわけですよ。そういうのやりたいですね。だから、みんながそう思ってくれてやるのが「PoST」なんで。まあ、それまではちょっと温めますけどね。

T:(ホライゾンを刺して)地平線が繋がっていくっていうのもなんとなく、そういう動きに変わっていきますよね。空想なのかもしれないですけどね。

S:あれもそうですね、近いって言えば近いですね。あれもだから、最初から1人でやる発想ではなくて色んな人と同時にやるには何ができるかなあって考えたんですよ。で、あれも「PoST」の一環でサハリンに撮影しに行って、ずっと船で帰って来たんですよ。水平線ずっと撮ってたんですよ。僕がね。で、「これは行けるな」と思ってたのが、「水平線って実はボーダーがあるな」って思ったんですよ。ええ。で、それはねサハリンから稚内に着くまでにドラマチックにその水平線自体が変わっていくんですよ。で、「これは絵になるなあ」って。それで始めたことなんですよね。だから皆から募集してもらった水平線をつないだら面白いんじゃないっていうところから始まったので、それがああいうカタチになっていくのはね、1回、2回じゃなくて、割とこうライフワークっていうか、割とこう恒久的に続いていくなんか、方法論みたいなもんだよね。で、今2曲「ホライズン」っていう曲があるんだけど、山口洋バージョンと細海魚バージョンがあるんだけど、色んな人が同じタイトルで作ってのしいなと思ってるんですよ。ええ。

T:そのCDは?

S:この間リリースしたんですよ。その展覧会場で。正式には12月にあのWebだけで販売するんですけどね。

T:内容的には?


S:こないだの「PoST」のライブですね。主に。それと「Restricted.」が新曲作ってくれて。それが入ったりとかですね。うん。

T:なぜCDを?

S:やっぱりライブ会場はたった何百人しか来ないじゃないですか。だからあれをプロモーションツールにしたいんですよね。やっぱライブでしか出来ない音ってのがあってそれが凝縮された音なんでね、うーん。今でもなんか自分が好きなようにやるには方向をずっと考えていて、やりたいことをやっている時の方が自分楽しいですよね。そういう時にエネルギーやっぱ使っちゃいますもん。だからね、広告とかやってても、もう型決まってるから、誰か違う人がやった方が面白いんじゃないすかみたいな感じですよ。ええ。それより、なんか、今新人で来年デビューする女の子で18歳で、こういうことやりたいんだよねって全面的にまかしてくれる方がもうやる気のアドレナリン全開ですよね。ええ。

T:わかりますね。

S:あとはだから、ビジネスとしてやってくセンスっていうのは多分別にあって、そういうセンスのない人はこういう仕事はできないんでしょうね。結局そこがポイントではありますよね。だから鉄則としては忙しいことが必要なんですよ、まず。忙しければ何とかなるだろうと、で、体の管理と精神的な管理をちゃんとしとけばいいと。だから僕ちゃんとストレッチとか、水泳とかちゃんとやってるし、ずっと。それとあと、なんていうかな、人が見てないところで結構のびのびと実は映画観てたりとかとかするタイプなんですよ(笑)。ちゃんと自分のことはちゃんとやろうっていう。だって人は誰も救ってくれないすからね。「キルビル」とか、映画観たりするのは仕事の役には全く立たないけど世の中の人ってこういうとこで笑うんだなあとかっていう勉強にはなりますね。

T:映画のお仕事に関しては?

S:僕ね、映画はねえ、浪人時代映画ばっかり観てた時期があるんですよ。これは多分1年間に400本くらい観たかなあ。未だにあれだけ映画観るってことはないくらい観ましたよ。5本立て観た後、8本立ていくとか。まあ安い映画で、名画座ばっかりですよ。あと高田馬場にいわゆる夜の9時から朝の5時までっていう映画館があるんですよ。うーん、ATC劇場とかっていう名前だと思うんだけど。あの枕くれるんですよ(笑)。だから半分以上寝てるんだけど、まあフリッツラングの全集やるようなとこなんですよ。

T:あと、どの辺で観てました?池袋とか?


S:池袋が多いですね。ATGとかよく観てました。よく観ました。文芸座とかテアトル新宿。テアトルですね。映画ってやっぱり暗闇じゃないですか?あれがいいんですよね。だからなんかね、ビデオもあんまり普及してなかたっていうのもあるけど、映画って手っ取り早くその、1対1になれるとこではありますよね。安かったし。

T:そうですね。映画のポスター、ちらしとか色々販促物やられてますよね。これはどういう?

S:やり始めたのが97年くらいからなんですよ。結局どういうことかっていうと、すごく単純明快で、映画の業界のポスターっていうのは、映画の業界のなかでしか作ってなかったんですよ。今まで。で、アスミックエースっていう会社が音楽側のグラフィックがすごい好きな人がいて。僕がさっき言っていた音楽のよくデザイナーの取材をデザイン雑誌で見てて。僕がこれよく出てるということで引っ張られたんですよ。音楽の仕事のように楽しくやってほしいんですよねって言われたんですよ。今までの映画のポスターっていのはもう大体映画があると、オリジナルポスターがあって、それと同じで、日本語にやってるだけなんだけど。それをなんかね、こう今の日本のマーケットに合わせた自由さで作ってほしいって言われたんですよね。で、僕以外もいわゆるジャケットを作ってるっていう人たちがいわゆる総出演で。いわゆるだからそういう業界の人達が引っ張られたんですよ。大体が音楽ジャケット作ってる人達が入ってたんだけど、翻訳本での限界ってのがあって、なかなか難しかったんだけど、僕が元々映画好きだったこともちょっとあったりするんで、映画の観る側に立ってっていうかな、映画観る側に立てば、ここは全く同じでもっていう割り切りは割と結構はっきりしてるんですよ。そのかわり、独自の制作物がすごい受けたんですよね。

T:そのきっかけになった映画って?


S:ええと「ヒューマンネイチャー」とか「スクリーム」とかだと思うんですよ。で、いわゆるポスターだけだと分かんないんですけど、「スクリーム」だとモアレパターンを使って文字を解読するDMとか作ったんですよ。だから例えば、何が書いてあるか分かんないんだけど、1枚こう、スクリーンがあって、それを乗っけると文字がボーッと浮き出るDMとかね。いわゆるジャケットで使ってたものを応用したようなものなんですけど。

T:「マルコビッチの穴」は?

S:これオリジナルですよ。それ日本語版にしただけなんだけど、ただそれで作ったプロモーションツールっていうのはすごい面白いものいっぱいありますよ。マルコビッチのお面とか(笑)。すぐあなたもマルコビッチになれますとか。そういうのあのね、作ると本国も欲しいって言うんですよ。そういうのだと結構デザイナー側としては面白いですよ。それとね、すごく重要なのはデザイナーは、不特定多数を相手にしている仕事なんですよ、本来。音楽の仕事でのポスターが少なくなってきてるんですけど、いわゆるファンとか内輪うけに段々こう輪が小さくなっていくのに、映画っていうのは、あくまでも不特定多数を相手にしている仕事なんですよ。だからポスターいっぱい作るんですよ。だから、スクリームだけで何10枚も作りましたよ。うちの子供とかに「お父さんの仕事は?」って言って友達同士で話してると、スクリームのポスターやったって言うと、「えー、すごいじゃん」とか言われて、なんか音楽の仕事なんか別に何も言われないんだけど、映画のポスターのほうが目立つっていうわけ。でも、スクリームはなんか、あれはもう翻訳だからって言っても、子供には「スクリーム」のポスター作ったっていうだけで、子供はほら、アメリカの学校行ってるから、そういうことだけで尊敬されちゃったりするんですよ。

T:邦画の「ピンポン」。これはどういう?

S:それもアスミックエースが3作目かな?「雨上がる」「阿弥陀堂だより」「ピンポン」かな?3作目ですね。で、初めて制作をやるっていう映画で僕がかりだされて、プロモーション、デザイン、アートアートディレクション全般を任されたんですよ。なので、これは2年程かかったんですけど、キャスティングしてるところからやりましたから。で、映画のプロセス自体に入ってくれって言われて、入ったんだけども、現状ちょっと違ったんですけどね。ええ。やっぱり、そのある程度できちゃったら、余計なこと言わなくてもいい的なところもちょっとあったりするので。いいとこもあれば悪いとこもあったって感じです。ただ面白いものはいっぱい作ったと思いますよ。

T:このメモリアルボックスの中身も面白い。

S:中身よりもね、インジェクション(プラスティック箱)に90%の力つぎ込んだんです。ええ。

T:ああ、なるほど。

S:予約で完売って言われました。つまり結局、箱からなんか中身がかもしだされるだろうっていうものを作りたかったんですよ。中身は今までよくいいって言われてたんだけど、外見ははもうちょっとインパクトがあった方がいいんじゃないっていうことに対して、なんか外見っていうのは中身をこう出るものだったとおもったんだけど、完全に外見から作ったんです、これ。つまり、文字のでっぱりが2ミリ以上あるっていう。ピンポンのロゴが。初めてキャドで作ったんですよ。キャドっていうのは、アプリケーション、立体のものですね。

T:どの辺が大変なんですか?

S:やっぱり素材ですね。繰り返し開けられる。パチンと音がする。素材がかわいらしい。あと、色がいい。それとCDを繰り返し収納できる。とかね。そういう構造上で、その箱自体が持ってて楽しい、なんかこう一緒に寝たくなるような感じくらい。うーん。で、そういう箱を作りたかったんです。で、その箱をこう、イメージすれば中身は自然とこう、出てくるんですよ。不思議なことに。これに入ってるものはこういうものに違いないよなって、そういうものですね。で、結局見積もりもやったんで、大変でしたよ、これ。うーん。で、印刷会社も友達のとこにやってもらったし。だから映画の関係のことじゃできないんですよ。フィルムを入れるとか、回転盤…キャスト表を回転盤にしたんですよ。回転盤ってね、これ見たら面白いんですけど、「窪塚」っていうと回転、いわゆるレッドツェッペリンの3枚目みたいなやつ。回転すると、配役とかオンミョウとかが出てくるような。で、裏開けると、その回転盤が映画のコマになってたりとかするんですよ。

T:昔あった星座の。

S:そうそう、星座の羅針盤と同じですよ。ええ、あれです。

T:お道具箱みたいですね。

S:そうそう、なんかね、そうそう。ジャック・イン・ザ・ボックス(びっくり箱)ですよ。あとロゴがかけるステンシルとか、ゼッケンも入ってたりとか。写真集もはいってるし。で、これに入れたいものは本当はもっと倍くらいあったんですよ。見積もりで半分くらいになっちゃったですよね。1万円だから、いくら以内で作んなきゃいけないっていうことがでてくるでしょ。それがかなり後になるんですよ。最初にでてりゃ、問題ないんですけど、だから、僕の中ではもう、中身がもう3万円くらいになってたんですよ。ええ。「3万円だって買うよ」とかって言ってたもん。

T:そうですよね。今なんかありますよね。プレミアムボックスみたいなの。ピンポンのマークは?

S:それは松本大洋さんが作ったやつです。まんまですよ。そういうのは。そういうのはやっぱ変えちゃいけないと思うんですよね。だから、映画の仕事って結構独特な仕事で、やっぱり原作ありき、やっぱ映画ありきで作って、ユーザーに対して、ちゃんと痒いところに手が届くようなことをちょっと考えてないとやっぱできない仕事ですね。やっぱなんか、デザイナーの作った作品集が欲しくて買うわけじゃない訳で。だから途中で作り直すこともありますよ。「OK」で、っても。で、「スティール」っていう映画なんて全然全く作りかえちゃって、このブック作ったあとに、全く変えちゃいましたよ。ええ。

T:やっぱり映画を観てから?

S:うーん。映画を観てから始めるんですけど、やっぱちょっとその、「スティール」なんて、公開が1年も延びちゃったんで、もう時代はそれじゃないって思っちゃいますよね。

T:なるほど。なるほど。

S:あと最近は僕がやり始めてるのは、自分で写真撮り始めたんですよ。これがその、最近カメラマン使う予算がなかったりするので、自分で撮っちゃったりするんですよ。最近ジャケットも撮っちゃいますよ。今度の佐野さんのやつも半分僕ですよ。いや、一応こうページものになってたりするんですけどね。まあ、同じなんですけど。だから、ずーっと追っかけてるバンドとかもあるし。一時期オリジナルラブは、さっきのイベントの縁もあって、僕がずっと撮ってたし。

T:全部、駿東さんが?

S:ええ、僕ですよ。ただ自分で決めてるのは自然光で、スナップっていうことだけなんですよ。だからそれ以外は撮らないですね。うーん。

T:フィルムですか?

S:ええ、フィルムで撮ります。ええ。

T:35mmですか?

S:35mmです。昔はシャッタースピード優先だったんだけど、最近、露出優先にしました。最近はなんかこういうデザインと写真と一緒に頼まれることが多いですね。だから松本さんとかに頼めなくて。やっぱディレクターとしてよりは、最近デザイナーとしての仕事の方が多いってことですね。だからデザイナーとして丸ごと頼まれる。だから、ディレクションっていう価値観がやっぱ変わってきたんですよね。ええ。だから「03」っていうのはアートディレクターとしての仕事なんですよ。僕がアートディレクターとしてある種まあ暴れたといか、こうなんだろうな、まあ、やってた時期で。だからってここ10年は逆に言うと、今どの位かわかんないけども、デザインっていうか、アートディレクション以降の作業をやってる感じがしますよ。すごい専門的なアレですけど。やっぱアートディレクションっていのがどっかで、、仕事の中で言うとグラフィックのプロデュースをしていた魔法を持った位置にいたんですよね。で、まあこれはミュージシャンがやっても、デザイナーがやっても、A&Rがやっても、全然問題ないんだけれども、ディレクションするっていうやり方がグラフィックの中ではちょっとこう、変わってきたっていうことだと思うんですよね。「ディレクションとは?」「人間をどう見るか?」「表現とは何か?」っていうのを永遠に話し合うんですよ。で、やっぱり石岡怜子さんって人はすごい人で、それのスーパースターだったんですからね。日本ではね。今もう日本じゃなくてアメリカで、ハリウッドで「セル」はアートディレクションとして映画の中で石岡さんが夢のパートをディレクションしてますよね。すごい映画ですよ。だから映画行っちゃったんだと思いますよ。だって、あんな1トンもある衣装つくれないすからね、広告じゃ。

T:今、手がけているものっていのはどういうものなんですか?

S:今はグラフィックデザイン事態の規模がまあ底だと思うんですよ。だから今手がけているものっていうのは、昔と全然何も変わんないんですけど、不動の自分っていうのをちゃんとみつけるべき時代で、その仕事に対して、じゃあ予算が少ないから、じゃあ、その仕事の仕方の密度が少なくていいかっていうとそんなことないわけじゃないですか。そうするとやっぱり今の仕事の仕方ができるかっていうことにかかってると思うんですよ。それでいうとね、例えば今、不動だと思われているものがどんどん崩れていくかもしれない。例えばCDなんてなくなるかもしれないんですよ。ぼくはもう1回アナログになっていいなと思うんですよ。ええ。アナログっていうのは例えばビニールの30センチかっていったらそんなことないと思うんですよ。例えば、じゃあ、メディアでもいいんだけど、なんていかな、アナログっていってるのはもっとキャパシティーの広いっていう意味での、例えば、熱意、愛情、雰囲気?そういうこう、形而上的っていう、わかりますよね?いわゆる、そういうこう、形而上的ていうのは、結局これはいくらとかそういう感覚じゃない、カタチになりにくいものっていうのを今までやってきて、デジタルになっちゃった訳で、デジタルが最終では全然ないんですよね。ある意味で、デジタルとアナログっていのを経由して出るものをちゃんとこう自分の中で表現としてできるかどうかってことだと思うんですよ。そう考えるとね、やっぱりね、もう、もうちょっとね、ベーシックなカタチにやっぱり考えるべきだと思いますね。だから例えば、なんていうか、例えば、水墨画とか、日本画に戻るかもしれないって言ったのはそういう意味で、もうちょっとこう、何ていうのかな、日本の文化に照らし合わせたものをもうちょっとやるようなカタチになるんじゃないかなと思うんですよね。うん。写真ではね、僕は別にあの、お互いの関係性とかを自然にとるだけを努めてるんですよ。だから、それでしかないんだけど、結局それでデジタルで加工するのが面白いんじゃなくて、デジタルっていう出力しかできないから対応するだけで、ひょっとしたら、そこにペインティングしたり、えー、クシャクシャにしたり、風化させたり、なんかそういったことで、なんかやる、いわゆるポストプロダクションもあれば、もっとプリプロの段階で面白くなることもあるわけじゃないですか・ねえ。例えばストーリーを作るとか、あのー、なんつうかな、雰囲気を作るとか、っていうこともすごく重要なこになると思うんですよね。なんか同じことをずっと言い続けるのは好きじゃないですね。なんか2年前と違うことをやりたいすね。

T:今、仕事の中でね、変わってきてるものって何か?如実になんか表れてる?

S:僕以外に関わってる人間が変わりすぎてるんで、なんか自分がそれに合わせてあげつつ、怒んなくなりましたね、まず。ほんとに。もう馬鹿らしくて、怒るのが。だから、自分が今やりたいのはその、デジタルを包括した、例えば編集とかっていうのがやりやすくなってきてるんでグラフィックデザインの担っているところからすると、ひょっとしたらもっと違う面白さがあるんじゃないかと思ってますよ。例えば、編集ってことからすると、デザイナーの方がうまかったりしますね。例えば、雑誌の編集の人があくまで編集がうまいかっていったら、そんなことなくて、その専門の中でしか終わってない場合が多いですから。そうね、今何やりたいかっていったら、総合的にやりたいですね。例えば、プロモーションがあって、それにまつわるグラフィックと映像があって、そのプロモーション自体を任されるようなカタチを例えばミュージシャンと組んだり、レコード会社と組んで創造するっていうのかな。だからあくまで、受身の仕事じゃなくて、やっぱりこう、攻めのスタッフの中に入るっていうカタチをやりたいですね。それこそ、ネーミングから、ミュージシャンっていうか、バンドのネーミングから、ある種戦略的にやってって、面白いことをなんかやる、やってみたいですよね。ちょっとしたミュージカルみたいなもんかもしんないし、映画みたいなもんかもしんないし。

T:やっぱり、これまでやってきたものの総合みたいなことになってくるんですか?

S:うん、総合っていうか「次」かなって思いますよね。いつもそういう意味では総合ですよ。最良の方法でやりたいわけで出し切りたいですね。うん、出し切った後の、次のことなんて考えなくてもいいと思うんですよ。そしたらまた次の人はもうまた何かあると思うんで、できるじゃないですか。ミュージシャンがやっぱサラリーマン化しすぎですよね。なんかもう、協賛金かなんかしらないすけど、なんかミュージシャンがやっぱりなんか幼稚になりすぎちゃって、やっぱ僕が今、最近読んでる本で、レッドツェッペリンのデビューまでのやつがあるんですよ。その伝記がね。あれ見るとなんか、格闘技みたいでおもしろいですよね。なんかこう、最近デビューする人は、アー写とか、プロモーションとか、コンペンションとかって、何かこうパッケージされたもので、ある種縛られちゃって、かわいそうだな、僕より自由じゃないなって思うことあるんですよ。

T:そうですよね。外出るとね、もっとね、やりようがいっぱいあると思うんですよね。

S:海外の人達見てると、やっぱりそうね、スポーツでもなんでもそうだけど、もっと「粋」だったりしますよね。最近みんなが心底感動するのってスポーツぐらいじゃないですかね。やっぱ、体張ってるからじゃないかなと思うんだよなあ。だから、自分もね、そういう意味ではあの、アシスタントに体の張ったところがいつまで見せさせられるかっていうとこだとおもうんですよね。だから、写真をとったり、もうひょっとしたら、汗かいちゃったりとか、もう人前で、なんかそういうことをやったりしても全然格好悪いとは思わないですよね。

T:じゃあまあ、来年にかけてそういう動きになっていく?

S:まあ、来年っていうか、来年以降ですね。うーん。やっぱり、自分もだから、デザイナーとしてのビジョンっていうのをどうやって作ろうかってのはいつも必死で考えたりしてるんですよ。だから、自分で日記かいたりするのもなんか、これ見よがしにデザイナーのブランドを出すっていうことじゃなくて、自分っていうのを客観的に見るっていう意味で、指針にはなるんですよね。自分ってこういうやつで、つまんないやつだなと思ったりすることもあるし、こんなことやってるんだったら、違うことに行くっていう意味でのバランスを量るには、自分を客観視するためにはいいかなと思って書いてたりするんですよね。なんかまだまだデザイナーとして完成しているわけでもないし、終わった訳でも何でもなくて、できれば60くらいまでには「やったな」って思いたいですね。ただ、肌つやだけはいかんともし難いなって自分で思いますね。うーん。やっぱね、10代の女の子の肌見るとすごいなと思う。うん。自分もああだったなあと思うし、なんか美しいものはそこかもしんないなと思う。うん。だから逆に、元気のない10代を見ると歯がゆいですね。僕でさえこんなに元気なのに、みたいなね感じはありますよ。まだやりたいこといっぱいあるし。

-end-


駿東宏さんのインフォメーションは
http://www.sg-tokyo.com/


 駿東(SG)近作
音楽 ○佐野元春(1986〜2003年)/THE BOOM/坂本サトル/GLAY/Dick Lee+中国ミュージシャン(黒豹等)/ドリカム(撮影=アントン・コービン)/ミッシェルガン・エレファント/のっこ等
○In the city2003/J-STANDARD
雑誌

○THIS(扶桑社・スイッチ)1986-1997/Newsweek(TBSブリタニカ)1991-1992/ゼロサン(新潮社)1989-1991/横尾忠則マガジン(平凡社)1998-2000/ゾラ(祥伝社)1998/フォーリリー(ワニブックス)2003/季刊雑誌クレアシオン(音楽専科社)1998-2001

写真集 ○アントニオ猪木・GLAY・TMリボリューション(ソニーマガジンズ)/松坂祥子(朝日出版)/前田愛(ワニブックス)
映画仕事

○ピンポン/マルコヴィッチの穴(アスミック・エース)/ザ・セル(ギャガ)/リードマイリップス(シネマパリジャン)/ふたりの人魚(アップリンク)

映像
(PV)

○矢沢永吉(Oh!ラヴシック)2000/槙原敬之(雨ニモ負ケズ)2002/The Youth(青春時代)2002/YMO(ライブ映像企画)1993/テレビタイトル制作(「ワーズワースの庭」1991「世界陸上広島大会」等)

創作

○アートワークス〜リサイクルアートtypography(ロゴ制作)

広告

○三菱電気「ナガランド」「ホンダ」「パルコ」/建築&ショップFront/Eatium

写真

○オリジナル・ラブ(ポスター)1995-1999/篠原美也子(写真集)1997-2001/石川知亜紀(ウエブサイト)2003/佐野元春(シングル)2003/浜崎貴司(アルバム)2003
(カメラマンとして)

ウエブサイト制作

○資生堂「Walker」1997-2000/石川知亜紀2003/坂本サトル2002

イベントオーガナイズ

○MODULE/ポスト(ホライゾン展)

ミニコミ制作

○ピンナップ/GRAY/MODULE














初めて買ったレコード
「Jumpin' Jack Flash」


































ツアーパンフレット
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駿東氏所有のツアーパンフレットとその解説 。

1971
Shocking Blue(B4)
当時「ヴィーナス」が大ヒットして話題の来日。
オランダのバンドなのに、シタールを使っていたのはやはりビートルズの影響か。
「マイティージョー」のシングルのB面は、インストでインド風のシタールがカッコイイ「アッカラー」という曲で最近リミックスをラジオか何かで聴いた。ロックというよりポップスのコンサートという趣だった。

Led Zeppelin(B4)
初来日の公演パンフレット。「ロックカーニバル#7」と銘打ったシリーズ。イギリスからやって来た、というより「濃くて大人の世界から」という印象だった。ステージはシンプルそのもの。飾りっけなし。服もお金かけていない。全てそのまんま。このパンフも全く同レベル。 4枚目のアルバム発売直前の頃だったので「ブラックドッグ」を新曲として披露した。

Grand funk Railroad(B4)
これは、伝説となった後楽園での公演パンフ。雨の中必至に持ち帰った逸品。デザインも写真も、どうしたらこんなになるのか、と言うくらいお粗末。この時代の作りは素材が今ほど潤沢にないので表紙に力入れて後は、1色刷りでB4サイズを持て余らす。

Elton John(B4)
ツエッペリンに続く「ロックカーニバル#8」。
この頃のエルトンは、服が地味な頃でアクションだけ派手だった。日本だけでヒットした「イエス・イッツ・ミー」に泣いた覚えがある。高校1年の時代。「マッドマン・アウロス・ザ・ウオーター」に感動。ピアノ・ベース・ドラムという編成であったが、音は太かった。パンフはこれまたどうでもイイ作り。ただのお土産

Chicago(B4)
初来日。同型のバンドBLOOD,SWEAT&TEARSの後を受けたせいで学生バンド並みの評価だったように覚えている。実際大学の友達主体の編成で23-4才だから仕方ないと言うよりそのまま。「長い夜」の大ヒットや、反体制の曲でかなりの話題になっていたので武道館は超満員だった。ライブ行く度にパンフを買っていたわけではないので、この日のパンフを何故持っていたかが謎。不明。

1972
Three Dog Night(B4)
白人黒人混合バンドでカバー曲選曲のセンスが良くってしかもボーカルが全くタイプの違う3人がいるというとてもユニークなバンド。しかもオリジナルで大ヒットも多い。ベースはリズム&ブルーズ。曲は渋いが、活動は派手だった。リーダーのチャック・ネグロンは、未だ健在。

Led Zeppelin(B4)
2年連続来日。新曲多し。この頃隠密でカセットを武道館に持ち込み録音していた。僕などは行動が一人だったので、少年マガジンの中身をくりぬきテレコを中に入れ中に持ち込んだが、中には5人組み(僕より年上の大学生か?坂本龍一さん達の世代か?)は、大きなテープレコーダーを持ち込み会場内で録音状態をちゃんと確認しながら盗み撮りをしているグループもよく見かけた。これは多分海賊版用でしょう。

Emerson, Lake and Palmer
(B4)
テレビの生中継もやったELP初来日ライブ。前座はフリー。ベースは山内テツ。これも雨の中の後楽園球場もので、僕は電車の帰り道なくしてしまい、ライブから数ヶ月かけて、雑誌の募集欄で探し当てた品。高くふっかけられた。当時はB4パンフの相場は500円だったが、1000円出した。

Deep Purple(B4)
歴史的名演と言われる武道館公演の初来日ライブ。時速500キロのスポーツカーがリッチー・ブラックモアで、後の4人は大型ダンプ。この頃にしては珍しくデザインのいいパンフ。ちゃんとデザイナーが手をつけている感があった。この頃もう僕はデザイナー志望だったので、これには特別な思いがあった。

CREEDENCE CREARWATER REVIVAL(B4)
この年は超大物の来日が多かった。武道館で行われたCCRもチケットが即完売した(らしい)。
ライブは、当時2時間位(ツエッペリンは3時間半)が通常だったが、CCRは1時間位だった。これが、当時人気絶頂だったバンドにケチが付いた。

1973
YES(B4)
アルバム「Close to the Edge」直後のライブは、非常にテンションが高く、ライブの評価も高く。この頃のプログレ人気を一歩リードした感じがある。
こういうライブをやった後というのは影響力がある。デザイン指向の若者(僕の事)はロジャー・ディーンの作ったロゴを真似たりした。表紙はそのロゴの立体版。

Uriah Heep(B4)
この表紙もロジャーディーンのイラスト。パンフレットもこの頃になると当然デザインのイイモノが出てくる。このライブは武道館に忍び込んで入ったが、しっかりパンフだけは買った。

Supremes
ダイアナ・ロスのいないシュープリームなんて、エリック・クラプトンのいないクリーム程度位の期待感ではあったが、コンサート自体は素晴しかった。流石に実力派。今でもハッキリ覚えているのだけど、場所は横浜、体育館。開場してすぐに入るファンが走りだす。下にベニヤが引き詰められていた。黒人が多かった。

Santana(B4)
去年のテン・イヤーズ・アフターに続くウッドストック成功組の来日。しかも話題になったアルバム「キャラバンサライ」を引っ下げて(当時の常套句)の来日。ボーカルはレオン・トーマス。ジャズでヨーデルの人。メンツも一番凄い時。こういうのを見逃すというのは、馬鹿だと思う、って思うくらいの「事件」だった。

Mahavishunu Orchestra
(B4)
ギター/ジョン・マクラフリン、ドラム/ビリー・コブハム、キーボード/ヤン・ハマー、バイオリン/ジェリー・グッドマン、ベース/リック・レアードというメンツを想像するだけでこのバンドの高い緊張感を語れる。金がなく、チケット買っていなかったので会場(武道館)の入り口を走り抜けて場内に入った。どうしても観たかった。ジャズのライブというより、ロックのイベント的な意味合いが強かった様に思う。

Leon Russell(B4)
映画及びレコードで「Mad Dogs and Englishmen」が大成功し、作曲家としても「マスカレード」「スーパースター」等がヒットし、時代の顔役的な存在であった。

James Taylor(B4)
今行ったのかどうかもはっきり覚えていない。当時の日記にはハッキリ書いてあったので確かなんだろうけれども、覚えていない。パンフもあるが本当に行ったのか?不明。

James Brown(B4)
同じJamesでも、これは覚えているとか、どうとかのレベルではなく、身体の中を物凄い勢いで通過していったエネルギーの塊は今も身体に残っている。武道館は黒人だらけ。興奮して最前列付近まで突進した。何処かへ連れていかれてもいいと思っていたくらい、恐かった。降参していた。

Deep Purple(B4)
前年のライブが2枚組アルバム「Live in Japan」として世界発売され武道館を一気に有名にした。表紙の写真も同じフィン・コステロの武道館真俯瞰写真。この中に僕も写っている。初来日ライブに比べて、もうこのバンドは落ち着いてしまっている感があった。


Beck, Bogerd, Appice(B4)
最初はジェフ・ベック・グループとして告知された。実際チケットにはそう書いてあった。凄いものを観た、と思わせる何かがあった。この頃はロックは事件だった。

1975
PFM(B4)
中野サンプラザで観る。凄くいいライブだった感触が昨日のことのようにハッキリ身体に染みている。ある種このバンドが持っている雰囲気が世間的に言うプログレなのはわかるが、 これは決してプログレなんかじゃない。ヨーロッパ・ロックと言いたい。

1979
ROXY MUSIC(B4)
やっと来た。やっと実現した。このライブのちょっと前にブライアン・フェリーのバンドも観たが、その時のギターは、クリス・スペディングだった。それはロキシーではなかった。ブライアン・フェリーの声に、フィル・マンザネラのギターが入るといきなりロキシーになるから不思議だ。ロキシー史上最悪のジャケット「マニフェスト」と同じパンフなので、ロキシー史上最悪のパンフの表紙。

1980
Gary Numan(12inch)
テクノはクラフトワークに始まりYMOがそれを真似し、フォロワーが一斉に出てくる。本家より先に来日を果たしたのは、このゲイリー・ニューマン。人気絶頂時。

Fred Frith(A4)
即興音楽のミュージシャンのパンフは珍しい筈。この頃はブライアン・イーノのアルバムに参加したり、アンダーグランドギタリスト界初のカリスマの位置を獲得していた。この来日をきっかけに以降、怒涛の日本攻撃を始める。ビル・ラズウエルやマサカー、ゴールデン・パルミノス、数え上げたらきりがなし。

 

THE SPECIALS(B4)
このライブの印象はこうだ。先ず会場に入る。パンフを買う。ライブが定刻を予定通り遅れて始まる。客かスタッフとメンバーがケンカしているのを発見。30分ほどでライブ中止。それで終了。あの当時のことを考えたら、よく暴動にならなかったものだと思う。

JAPAN(12inch)
何故か、化粧系がこのスタイルが多いのに今気づいた。元祖ビジュアル系の武道館ライブも今から20年前の話。ミック・カーンの動きは電動人形。でもこの頃はまだまだ未完成であった。一番ビックリしたのは、武道館全体の95%が女の子だったのと、皆マントしていたこと。中はコスプレ。初めて観たしゅうだんコスプレ大会。

1981
TALKING HAEDS(12inch)1981
プロのデザイナーになってから雑誌などで取材したことはあっても実際に仕事した人は殆どいない。
デイヴィッド・バーンの写真家としての時にポスターをデザインしただけですけど。それを気に入ってくれた。でもこのパンフは誉められたモンじゃない。
第一にこの来日ミュージシャンを受け入れる業界に、プロがいない、プロのデザイナーがやりたがらない。理由は色々あるだろうが、音楽&デザイン好きを馬鹿にしている。僕が音楽の仕事をやりだそうと思い始めたのは、ごく自然な成り行きと今思える。

KIng Crimson(B4)1981
僕はクリムゾンfan club会長の経歴を持つ。18才から21才迄4年間会報を作ったり、集会やったりした。来日署名運動もしたこともあった。一番熱心だったのは、「アイランド」というアルバムの頃で、この1981年には殆どこのバンドには関心がなくなっていた。でも、行く。これが嵯峨。会社の有給休暇貰って1週間かけて日本中追っかけた。


1982
ULTRAVOX(B4)1982
ジョン・フォックスが抜けて皮肉にも、大ヒットが出て、一躍人気が出ての来日。リーダーは、ジョンの後釜のミッジ・ユーア。この人は「」Dピーター・サヴィル(デザイナー)が出てきたのもこの頃。ロンドンの同じ年のデザイナーの活躍に大いに刺激される。

TALKING HAEDS(12inch)
何故か正方形パンフ。しかもいい加減&下手なデザイン。この頃やっている人は本当に下手な人が多い。名前は見るが、愛情があればイインダ的な感覚で作っているか、知合いというだけで作っているかの、どちらか。2年連続来日を盛り上げるためにも、僕のやらせて欲しかった。

JAPAN(12inch)1982
解散ライブの時のパンフ。土屋マサミさんが加入して盛り上がった時期。野茂が大リーグで活躍すると同じくらいの感激があった。でも、このバンドでさえこの程度のパンフであった。

1983
ROXY MUSIC(B4)1983
超名盤「マニフェスト」のツアー。1970年代にデビューしたあの半端者集団が、こんなにも完成度の高いアルバルを作って解散するなんて誰が予想しただろう。しかも、日本に来てライブをやってくれる。たった10年の来日ロックの歴史がここまで大きくさせた。パンフもこの頃になると大分格好がついてきた感じがある。

DAVID BOWIE(A4)1983
久々にヒットした「レッツ・ダンス」のツアー。僕は好きじゃなかったが、この頃の僕のボスの石岡さんが行きたいというので武道館に一緒に行く。ただし、パンフ状況に異変。デザイナーが外人なのだ。このパンフはミック・ハガティー作。今は友達の友達だが、当時は憧れの人。自分たちがやる前に外人に持っていかれた感じがした。当時の話ですが。

1984
KIng Crimson(B4)1984
エイドリアン・ブリュー、トニー・レヴィン、ビル・ブラフォード&フリップの編成になってから、やたら来日が多くなる。緊張感が希薄になってファンにとっては複雑だ。この頃から一気にライブに行く気がしなくなってきた。


1985
U2
これは、海外のツアーパンフを買ったもの。実際に行ったわけではないです。とにかく音楽の仕事が出来るようになったので、自分の好きな音楽を漁り続けた時期です。実際に海外にライブ見に行きだしたりもした時期です。 やっと29才でフリーになって、正真正銘の自由になったわけです。余談ですが、1年目にやった仕事がウドーの来日ミュージシャンのポスターの仕事。1週間に1枚作る。大変なんだけど、漸くパンフに近づけたっていう嬉しさがあった。

1986
LAURIE ANDERSON(10inch)1984
この頃になって初めて恰好良いパンフが登場する。音楽というだけでなく、アートに近づいて僕にとっては理想的な作品。ライブも画期的だった。これを見て僕らの世代は初めてコンピューターが自分たちでも扱えるモノだと知ったわけです。


1993
U2
Budokanではなく、Tokyo Dome。僕の大好きな武道館ではなく、大嫌いな東京ドーム。プリンスのライブで初めて行って、30分も持たなかった。すぐ会場を出た。あそこでは音楽は聴けない。聴く気がしない。しばらくそう思っていた。しかし、このU2のライブは会場の広さを全く感じさせなかった。素晴しかった。これからの大きな会場は、映像だ、と思った。僕がこの年YMOのライブのドーム映像の企画が始まったのはこれからまもなくだった。

1995
KIng Crimson(1/2*B4)1995
時代も変ったことを痛感した。マニアが多いとは言え、外タレのパンフが2種類。通常版が3000円で特別限定版が10000円。で、限定の方はすぐ完売。これも時代。このパンフも外人デザイナー。ビル・スミス作。これに関して言えば、一見見た目よさそうですが、 20年前の下手さ&いい加減さに通ずる何かがある。

1998
beck
パンフはこの位いい加減でいいんだ!というポリシーまで感じてしまう。
外国は遠くていいんだ、その方が有り難みがあるんだ、という考え方と同じで納得できない。
外国には映画のパンフレットがない、それと同じような気がする。早い話、日本人はパンフが好き














ミニコミ





「PIN-UPS」




「GRAY」


















































駿東氏制作の「佐野元春」ツアーパンフレット



Cafe Bobemiaの時に 貰ったプラチナディスク





















「ゼロサンtokyo Calling」























駿東氏制作パンフレット





「ブルガリアンボイス表紙」
1988






「the boom 極東サンバ」
1994






「GLAY-takuro」
1997





ORIGINAL LOVE
1998





矢沢99
1999
























【MODULE】


MAGAZINES



「No.1」




「No.2」




「No.3」




「No.4」





「No.5」





「No.6」



LIVE


















































TYPO GRAPHICS




「VIRUS/for MaxiSingle"Crazy Doll"」



「雑誌「ゾラ」祥伝社*1998」

























Music Works





「Honey Flesh」
ORIGINAL LOVE




「コーヒールンバ」
井上陽水




「沖縄に降る雪」
宮沢和史




「ポスター」
THEE MICHELLE GUN ELEPHANT




「アニメーション・PV 雨ニモ負ケズ」
槙原敬之



「COCOON」
PIERROT



「サムデイ」
白鳥マイカ

























PING PONG





「ビジュアル・シネブック」





「ビジュアル・シネブック」


「DVD BOX」

(クリックすると拡大します。)


























Message Movie

『デザイナーを目指す人たちへ』


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(BB環境のある場所にて、お楽しみ下さい.)