種 ともこ / Tomoko Tane


3月6日の「moment jam session #2」」に参加していただいて素晴らしい歌を披露してくれた、シンガーソングライター、種ともこさんの過去から現在までを辿ったロングインタビューです。

(2004年2月28日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)




種 ともこ (Tomoko Tane)


種ともこ/シンガーソングライター
大阪生まれ。
京都府出身。'85年デビュー。
シングル19枚、アルバム13枚をコンスタンスに発表。
2001年からは「VISION&PIANO」と題した、ピアノと
映像のコラボレイトライブをシリーズ化し、四季折々に
展開。枠にとらわれないライブスタイルと常に新しい
音楽表現の形を追究し続ける姿は、デビュー当時から
一貫して変わってないと言える。また「力の強さ」と
「透明感」という、相反する魅力を合わせ持ち、
溢れるような生命力が感じられるその歌声は多くの人を
魅了してやまない。2003年にアルバム「in」「out」
そして初のベスト盤「11 YEAT'S WORKS」が
リリースされた。


思い付いた曲を、MDに入れておいたりとかする時もありますけどね、メモとして。余り意味はないですね。意味はないというか、メモを残すということには、余り意味はないと思うんですね。録音したりとか、書き出すとか。例えばノートに何か書いておいたりしても、後で見ても何だっけと思う時もあるし、自分が覚えていられない曲というのは、いい曲ではないという事なので、忘れないように書いておくぐらいのものだったら、忘れてもいいんじゃないかな。


TERA:(以下T:)まず、生まれと場所を教えてください。

種:大阪です。

T:大阪のどの辺ですか。

種:大阪のどこだろう。すごい転々としていたんで、わからないんですけど。大阪の豊中に住んでて、それから京都に引っ越して、それからずっと京都ですね。

T:京都は幼稚園からとか、小学校から?


種:学校からですね。

T:小学校?

種:小学校2年から。

T:いつ頃までですか?

種:デビューする事が決まるまでですね。

T:小学校の時は、どういう遊びを?

種:うーん、すごい辺鄙なところに住んでたので、一番近くの友達のところに行くのとかにも、すごい遠かったんですよね。学校からもすごく遠かったんで。家の周りで子供が、私を含めて4人しかいなかったんですけど、その人たちだけで遊んでる感じでしたね。だから、周りは全部田んぼか倉庫か建築資材置き場みたいな感じだったんで、全然住宅地じゃなかったんで、そんなところでいろいろ遊んでた感じですね。

T:環境的には、いい環境でしたか?

種:どうなんだろう?結構閉鎖された環境でしたよね。そこしか知らなかったし、他の友達が家でどんな事して遊んでるかとか全然わからなかったから、資材置き場とかで組んである木材を崩して遊んでたりとかしてて。

T:音楽は?まだその頃は?

種:音楽は、ずっと小さい時から好きで、私から言うとおじさんに当たる人が同居してた事とかがあって、その人が良くアナログレコードとかを聞いたりしてたんで、その影響で洋楽は好きというか、聴いてたりはしてましたけどね。

T:一番最初に印象的に残ってるレコードとかってありますか。

種:そうだな?そのおじさんがいっぱいレコードを買っていたので、いわゆるサイモンとガーファンクルだったりとか、70年代ポップスみたいなやつだったりとか、サントラだったりとかしたので、いわゆる70年代のヒットチャートものとかを聞いてましたね。アルバートハモンドとか。そういうヒットチャートに出てくる人たち。

T:歌い始めたという、そういう意識みたいなのは小学校の時?

種:私は、曲作るようになったのは高校ぐらいからなんですけど、自分のバンドを作り始めたのは大学に入ってからで、その時はボーカルの女の子がいたんですね。だから、私はキーボードを弾いて曲作ってアレンジしてっていうだけだったので、自分で歌うというのは、そのバンドを辞めてソロでやろうと思ってからなので、すごい遅いですね。

T:キーボードはいつ頃から始めてるんですか。

種:ピアノは物心ついた時にはもう習ってたので、すごい昔から。英才教育的にやらされてたんですけど、全然やる気がないので余り進まず、だらだらといつまでも習ってたんですけど、段階的には上のところまで進めずっていう感じでやってました。

T:中学、高校は、部活とかは音楽系?

種:中学校の時に、友達が入ったので自分もっていう感じで、合唱部に入ったんですけど、そこは全国的に有名な合唱部だったんで、すごく厳しかったんですね。一軍とか二軍とかあって、下手だと一軍から二軍落ちとか、二軍から一軍とかいろいろあって、最初、全然下手で、明日にでも辞めて欲しい人たちっていうのがいて、そこに入ってたんですけど、何か急に「もしかしてこうするのかな?」と思ったら、出来るようになって、急に一軍に入れてもらったんですね、そうそう。それで、合唱とか「面白いな」と思って、そこでは難しい曲とか、ちょっと前衛的な曲とか、普通のハモじゃないものをやったりしてたんで、そういうのはすごい楽しかったですけどね。高校になったら普通の高校で、合唱部もレベルが低かったんで、そこはもう行かないで。というか、その頃は学校がまずもう嫌いになってたから、学校に行かなかったですね。

T:なぜ、嫌いだったんですか?

種:わからないんですけど、何か耐えられない感じがしてたんです。今だと登校拒否とか引きこもりとか、そういう事になるんだと思うんですけど。何かね、何なんだろうな?中学校は義務教育だから、色んな人がいるじゃないですか。頭がいい人もいれば、うちの辺は凄い柄が悪い所だったんで、屋台でたこ焼き焼いてる様な感じの人とかもいて、本当に面白かったんだけど、高校行くと似たような人ばっかりで、つまらなくなっちゃったんですよね。とにかくつまらなかったですね。

T:それで不登校になったりとか?

種:そうです。だから、学校は最低限だけ行って、出席日数をつけてたんですね。進級できる日数ってあるじゃないですか。そこまで行ったら後は行かないっていう感じにしてたんで、一応進級はしましたけど。辞めたいとか言った時もあったんですけど、一応行ってって感じですね。でも学校生活というのには参加してなかったんで、運動会も文化祭も修学旅行も行かなかったですね。

T:学校以外でやりたい事はあったんですか?

種:バンドはやってたんですけど、それは田舎のっていうか、大体やるじゃないですか、男の子とかが。そこに入って、キーボードを弾いてたっていう感じだったんですけど。でも、やっぱりそれもそんなに大して面白くはなかったですよね。みんな下手だし。みんな上手くなりたいと思ってバンドやってる訳じゃないじゃないですか、そういう時って。単にわからないけど、何なんでしょうね。

T:楽しいから?遊びなんでしょうね。

種:そうですね。何か浮いてましたね、一人バンドの中でも。それで、一人で曲つくったり、家で音楽を聴いたりしてましたね。

T:家にいるのは好きだった方ですか。

種:家は別に好きではないんですけど、いるところがないので、ですね。今から考えると、10時になっても家でぶらぶらしてる訳だから、高校生が。よくよく考えると、あの時に、凄く親にやんや言われてたら、やっぱりどっか出て行かざるを得ないじゃないですか。「じゃあどこ行くの」っていう事になると、不良がたまってる喫茶店に行ってたばこ吸ってるとか、それもやってたんだけど、やってたっていうか、それがすごく耐えられなかったっていうか、そういうところに行って、何て言うのかな「何でこんなところでたまってるの!みたいな、体育館の裏でたばこ吸ってたりとか、訳わからないんだけど、こんな所に隠れて皆でウイスキー飲んでるとか、何かそういうのがすごい嫌だったんですね。

T:何か新しい生活を求めていたという事はないんですか?大阪に出ていこうとか。

種:でも、その時は自分が何になりたいかとかわからなかったので、音楽は好きだったけど、ミュージシャンになろうって、その時は思ってなかったので、何がしたいとかわからないけど、田舎だし、あんまり不良になって遊べる場所もないので、家で引きこもってた感じですね。

T:大学は京都ですか?

種:そうですね。

T:行って何か変化は?

種:大学に入って、軽音とか色んなサークルがあるので「そこに入って自分のやりたい事を探そう」っていうのがあったんですよね。軽音とか入ってやってたけど、サークルが合わないんですよね。だから、サークルっていうよりかは、関係なく色んな音楽性の合う子たちが集まったりとかして、それで私が曲を書いて、それでバンドをやるっていうのをやろうよっていう話になって、ボーカルの女の子を探してきて、それでバンドを始めたんです。

T:そこでは詞曲書いて。

種:詞曲書いたりとかしてたんですよね。で、その辺のライブハウスとかにも出させてもらう事ができて、プロの誰だれさんからプロにならないかという話があったりとか色々しながらやってたんですけど、でもやっぱりバンドっていうのが合わなかったんですね。みんなが1票制っていうのが。やっぱり理解が出来なくて「私が曲つくってるんだから、私が2票持っててもいいじゃないか」みたいな感じで。それは今から思えばバンドって決してそういうものだけではないんだけど、でもその頃は自分がやってるんだからっていうのがあって、それで何か「そんなんだったら、バンドなんかやめよう」っていう事になって、バンドはもう解散っていうことにしたんです。

T:その頃の楽曲っていうのは、パーソナルに伝えたい事があったから、自分が前に!という?

種:もちろんそうなんだけど、自分としても徒弟時代っていうか、まだわからなくて書いてた曲もあるし、バンドのメンバーが「今度こんな曲を書いてよ」っていう発注かあったりして「じゃあ」って書いたりとかあるので、それは色々なパターンがありましたね。でも、それでやってるうちに、「自分はこういう感じかな?」とか、漠然とですね。

T:それで1人になって活動するという事?

種:1人になって、そうするとライブができないじゃないですか。それで、どうしようとか思って、デモテープを作って、そしたら知り合いが「オーディションあるから出しといてあげようか」って言われて、もう締め切りが過ぎてるから駄目かもしれないけど、とりあえずって言って、その人にカセットを渡して。そしたらそれで通ったんですよね。

T:それがソニー?

種:そうです。

T:賞みたいなのは何?

種:オーディションの優秀賞っていうやつをもらって、最優秀賞は、もういなくなっちゃったけど、『東南西北』っていうバンドなんですけど。私と『ルック』っていうバンドがあったんですけど、それが優秀賞とって『聖飢魔II』が特別賞みたいなのをとった時でしたね。

T:それをとってから東京出てきたのですか?

種:そうです。それで通って「じゃあデビューしましょう」っていう事になって。でも最初は事務所が決まらなくて「全然決まらないじゃん」とか思って、早くしないと家賃が、更新料払わなきゃいけないから何とかして欲しいとかって焦りましたね。

T:どのぐらい決まらなかったんですか?

種:半年ぐらいですね。半年ぐらい決まらなくて、いろんな事務所の社長さんに会って、やっぱりだめでとかっていうのをすごく繰り返してたんですけど、半年ぐらいして決まって、東京に来たんですね。来た時は、全然何もわからなかった。東京で知ってる人もいないじゃないですか。1人で出てきたのでレコード会社のディレクターと、事務所のマネジャー以外の人をだれも知らないっていう感じでしたね。

T:最初出てきた所は、東京のどの辺なんですか?

種:最初に事務所が借りてくれたマンションが笹塚ですけど「今日からここね」みたいな感じで、そこに引っ越してって感じですね。

T:そこからレコーディングとかが始まる訳ですか?

種:そうですね。

T:すぐにアルバム作りですか?

種:すぐ、そうですね。

T:何かエピソードあります? 大変でした?

種:とにかく何だろう?とにかくお金がなかったので、手持ちが200円しかない!とかなると、それで地下鉄の切符買って事務所に行って「お金貸して」っていって、1万円とか借りて帰って、でも絶対返さない!みたいなそんな感じでしたね。(笑)。

T:1枚目出るまでに、どのぐらいの期間があったんですか?

種:覚えてないなあ。1枚目は半年ぐらいかな。多分そうだと思いますよ。

T:レコーディンググ自体は、割と早かったというか。

種:早かったんじゃないですかね。1枚目って、みんなそうだと思うんですけど、結局は、アマチュア時代のベストアルバムなんですよね。あり曲の中からこれとこれがいいんじゃないとか、適当に言われて出すのが多いから、1枚目はただ録って出しただけっていう感じですよね。

T:『いっしょに、ねっ。』っていうタイトルはどこから?

種:ほんとなんですけども『よいこ』とか『めばえ』とか、そういう雑誌のデザインにしたかったので、それが合う言葉がいいと思ったんですけど。でもデザイン何とかオブ・ザ・イヤーっていうのに、後にデザインが選ばれたんですよ。それはちょっと嬉しかったですね。

T:同じ年に2枚目が。すぐですね。

種:そうですね。2枚目からが本当の意味では、曲を作って出すっていう事なので、そこからかなっていう気がしますけどね。

T:2枚目からは東京出て来て、すべて作った楽曲ですか?


種:もしかしたらアマチュアの時のも1曲ぐらいは入ってたかもっていう感じなんですけど、大体こっち来てつくったのですね。

T:2枚目のタイトルは、これは楽曲名?

種:『みんな愛のせいね。』は、歌詞の一部で。

T:2枚目出した頃は、どんな感じですか。もう慣れて?

種:慣れてっていう事はないけど、その辺はすごい忙しかったですよね。ただ言われて、ただ曲書いて、ただ作ってただけなので。

T:ライブは?

種:やってました。

T:すぐ。

種:ええ。

T:ライブはどんな感じだったんですか。

種:ライブは何だろう、ぐちゃぐちゃでしたよ、最初はもう。でも、楽しかったですけどね。ライブをやる事で、他のミュージシャンとか、バンドで演奏してるミュージシャンとかと知り合って、色々と勉強になる事とか、影響受ける事とかあったので、それまでは会社の人しか知らなかったけど、何ていうか、ミュージシャン友達ができたっていう事が。

T:87年、3枚目が出ますよね。年1枚っていう感じのペースでしたか?

種:そうですね。

T:3枚目からって、何か変化ありましたか。コンセプト的なものとか、自分の。

種:とにかく、最初3枚は、「ひとつなぎ」だったんですよね。だから、そうですね。プロデュースも自分でやってた訳じゃないので、プロデューサーの人がいて、私はただ締め切りを、もらって「曲はこんな感じ、いついつまでに書いてきて」って言われて、「はーい」ってやってただけなんで、あっという間に過ぎてしまいましたね。

T:じゃあ、4枚目から何か新たな展開が。ベクトルが変わった?

種:4枚目は、未収録曲を集めたものなので、出してる間に次の事をやるようになったんですけど。

T:89年の『オ・ハ・ヨ』あたりから?

種:そこから自分でプロデュースをするっていうのと、自分で打ち込みをやるっていうのを始めて、コンピューターを買ってもらって、ソフトを勉強しながらやるっていう。それが最初ですね。

T:プロデュースを自分でやるというのは、アルバムのコンセプトワークみたいなものとか、企画みたいなもの、その辺を自分で考えて。

種:そうですね。そこまではそんな深い事は考えてなかったんですけどね。でも余りにも私が言う事きかないから「自分でやれば」っていう事になったと思うんですけど。

T:でも、自分的には楽な感じの環境になった?

種:自分としては、コンピューターっていう新しいおもちゃももらい、すごい「わーい!」っていう感じですよね。

T:時間的にはそんなにかからずに?

種:その前のアルバム『ベクトル…』を作っている間とかも含めて時間をもらったので、かかっているかも。

T:どこかで爆発したりとかしたんですか?

種:時間はとりあえず欲しいっていうのは、ずっと言ってたんですけど。それまではほんと、単にただ言われて作ってただけなんで、「いついつに出すからレコーディングいつだよ、だからいつまでに曲つくってね」って言われて、「げー」って思いながらやってるだけだったので、そういうやり方に煮詰まってきちゃったんでしょうね。そんな風に流れ作業の様に言われて「言うのは簡単だよな」とか思いながら作っているっていうのが。だから企画もの、未収録曲を集めたアルバムを挟むから、その分、時間をくれって。「コンピュータもわからないから」って言いながら始まったんですよね。

T:どの辺まで一人でやるんですか。ある程度、打ち込みも全部やって?

種:大体の打ち込みを自分でやってきて、あと細かいデータの検証をコ・プロデュースっていう感じで、もう1人立てたんですけど、その人の家に行ってデータを見てもらってタイミングとか直したりとかプリプロをやって、それをスタジオに持っていってっていうふうな感じですね。

T:完成したアルバムに関してはどういう印象だったですか。

種:その当時ですか。

T:うん。

種:「やったな」っていう感じですね。

T:結構満足?

種:そうですね。

T:周りの反応とかはどうでしたか。

種:どうかな。聞いてなかったと思います、その事は。

T:ライブにするには難しい感じだったんですか?

種:手は込んでましたね。その頃は、シークエンスと常にシンクしてやるっていうライブをやってたんで。

T:マニュピレーター入れてとか?

種:そうですね。だから、レコーディングのデータをもう1回編集し直してとか、そんな感じでしたね。

T:続く『うれしいひとこと』は90年リリース。これはどんな?

種:これもその延長なんですけど、自分でやるしっていうことで。

T:その次の『音楽』も。

種:そうですね。その3つが同じような感じで、コープロデュースでやってくれた人も同じで、そんなやり方でやりましたっていう。

T:この3枚が1つのブロックとして存在しているという。

種:そうですね。

T:『音楽』って、またすごい直球なタイトルですよね。

種:そうですね。自分としては、結構「ここまでやったらこれは終わり」っていう感じが、多分してたんだと思うんです。

T:終わりっていうのは?

種:終わりっていうのは「もう極めたな」っていう風な今から思うとそれは違うっていう事なんですけど、その当時は結構「どやっ!」っていう感じだったんですよね。

T:『音楽』以降の展開というのは、自分にとっては?

種:すごいスランプになったんですよね、そこから。結構やり尽くした感が自分ではあったんで。特に自分で打ち込みをやって、常にサンプラーが友達みたいな感じで、打ち込み芸術を極める、とかっていうふうな事に関して、「やり尽くしたな」っていうのがあって、かなり煮詰まったんですよね。

T:そうですよね。3枚とも自分でパーソナルな感じで、ぱーっと作っちゃうと、結構お腹いっぱいですよね。

種:そうですね。

T:91年の『KISS OF LIFE』っていうのはどういう感じのアルバムですか?


種:それはそのスランプの中でつくったので、余り言うべきものがないんですけれどね。

T:出したくて出したものではないっていう感じですか?

種:無理やり出せって言われた訳ではないんですけれども、自分としてこれだっていうものがないまま、「ちょっと楽な感じでやってみようかな」っていう、決め込まないでやろうかなと思ったんだけど、でもこれじゃないよな、これっていうのがないとだめじゃないですか。でも、これじゃないっていうところだけでやったんで、「じゃあ、何?」って言われると、いまいちわからないなっていう感じかな。

T:これは打ち込みではないんですか。

種:これは打ち込みもやったんですけど、打ち込み芸術はもう終わりっていうことにしたんですね。何ていうのかな?うーん。打ち込みの妙技を聞かせるとか、それはもういいかなっていう感じかな。

T:じゃあ、結構、生で。

種:生でやってました。

T:映像作品も結構幾つかある。これはライブですか?

種:そうですね。ライブです。ライブが2本と、あとはプロモビデオ集。

T:プロモビデオに関して、何か自分がやりたかった事みたいなのはあったんですか?

種:プロモビデオっていうのは、無いほうがいいですね。

T:(笑)。なぜですか?

種:すごい中途半端な気がするんですよね。自分にとってっていう事なんですけど。

T:音楽は音楽だけで聴かせるっていう感じですか?

種:私はミュージシャンなんで、音楽をやっているところを撮ってもらうんだったらいいんだけど、何か私が街角を歩いてるとか、お茶を飲んでいるとか「そういうのを撮ってどうするんだろう?」っていうのが常にナゾですね。そういうドラマ仕立てっていうか、なっているようなものとかだと、何でっていうような、すごいナゾっていう気になっちゃうんですね。特に、その頃、多かったしね。

T:結構、変な風潮のアイドルポップ的な何か?そう。

種:作り込むような。

T:うん。ガールポップみたいな「くくり」みたいなのとかがね。

種:そうそう。それはすごい嫌だったんです。

T:次の『Mighty Love』まで少し期間があいているのですが。

種:そうですね。そこでやっぱり煮詰まってて、どうしようかなと思ってたんだけど、自分としてすごく、あっ、こういうものがやりたいっていうのがやっと見えたっていう感じがして、それでつくったっていう感じですね。

T:録音の方法とかは?

種:これは家で録ったんですね。ちょうど、そのころ結婚して、旦那がエンジニアだったので、それで家で録ったりしたらどうかなと思って、今でこそハードディスクレコーダーとか、色んな選択肢があって、別にスタジオでなければレコーディング出来ないっていうのは、今や全然ないですけれども、その頃あんまりそういうのがなかったので、すごく一生懸命頑張ってシールドとか準備して、家で録ったんですね。すごい楽しかったですね。スタジオで毎日通勤して録るっていうんじゃなくて、「家で録る」っていう、やっぱり全然違うし、すごくイイですね。

T:「生活の中から自然と生まれる音楽」という感じで。

種:そうですね。何ていうのかな?もっと普通な感じで出来るので、気分転換もすぐできるし、家にいれば。だけど、仕事場で気分転換って結構難しいじゃないですか。それが一番。仕事の為の場所なので、気分転換とかってテレビゲームしても、意外と気分転換にならないんですよ、仕事の為にやっているという感じがして。でも家にいるとやらなきゃならない事がいっぱいあるんで、洗濯もやらなきゃとか、そういう事をやっていながらレコーディングをやってると、すごい、何ていうか、普通の気持ちで出来るっていう感じがしますね。

T:『HARVEST』は?

種:次のは失敗なんで。(笑)。

T:そうなんですか。どの辺が?

種:自分として失敗だったなと思う感じですね。何だろうな?スタッフとかもよくなかったっていう事もあるんでしょうけど。あんまりちょっと、いまいち、よくなかったな。

T:これはどういう録り方で。

種:それは、家で録ったりスタジオで録ったりしたんだと思いますね。

T:続く95年『感傷』は?

種:これはまたちょっと違うやり方がやりたくて、ライブでやるっていう。

T:一発で?

種:一発で。

T:どんな場所で録るんですか。

種:ライブハウスで録ったんですけど、お客さんを入れて録ったのと、お客さんなしで録ったのと。そういう意味でいうと『Mighty Love』の続きかな。

T:既に出した曲のライブテークじゃなくて、全て新しい曲で。

種:そういう事です。「新曲をやるライブ」っていうのをやったんです。

T:出来というか、上がり的には?

種:出来としては、自分としてはすごい好きですけどね。一発取りっていう緊張感とか、ミュージシャンにぶーぶー言われましたけど「何でこんな大変な事やらなきゃいけないのか」って。でも、それまで例えば打ち込みの妙技であったりとか、家で一人でお家レコーディングとか、割りとそういう意味で言うと、おうちの中で1人でやっていることが多かったので、ミュージシャン達と共同作業しながら作っていくっていう昔はそれしかなかったやり方なんですけど、それがすごく有機的に出来るっていうか、例えばそれまでも1枚目、2枚目、3枚目ってスタジオで、スタジオミュージシャンに来てやってもらってたんですけど、どうしても有機的に一緒にやっているという感覚は余り持てなかったんですよね。何かそれもあって、こんな事だったら、1人で打ち込みやってたほうがいいなっていうのがあって、打ち込みに行ったんですけど。そうじゃない、ちゃんと確認しながら、だけどその場の雰囲気だけでやるんじゃない。完成形をつくっていくっていう、バンドもの。バンドみたいなっていう事ですね。

T:続く『Locked in Heaven』、これまた2年離れてますね。

種:その間に子供産んでたりとかしてたので。このアルバムは私ともう2人と、3人で共同プロデュースという形でつくりましたね。

T:子供が生まれたりとかして、作風に影響というか、歌の中に何かありましたか。

種:そんなにはないですけどね。子供が生まれたからこんな曲を書く、あるかもしれないけど、でもどうかな。

T:このタイトルはどういうところから来てるんですか。

種:それは天国に閉じ込められているっていう状況なんですけど。

T:そういう感じだったんですか。

種:何だっけな。シングルがその曲だったんですね。それを英語で言ってみましたっていうタイトルなんですけど。

T:楽曲的には早く書き上げたほうですか。

種:自分としては早く出したいなと思ってたんだけど、子供っていうのもあったりして、結構かかったかな。あと、その頃から、その前からもそうなんだけど、出来るだけ曲を作りながらレコーディングするのは、やめたいなっていうのがあって、収録予定曲数だけ書いてレコーディングするんじゃなくてとにかくたくさん曲をつくって、いいのだけセレクトして出す、っていうやり方にしたいなっていう感じだったので、時間がかかったのもありましたね。

T:ある程度、曲が集まったから、そろそろ出そうかみたいな感じ?

種:そうですね。

T:続く『hetero』は?

種:それは企画物で他の人が作った曲を歌うっていう。それも2人目がその時に生まれそうっていう時だったので、「時間空けずにとにかく何か出したいな」ってときに、そういう企画が来たんですね。

T:レコード会社の方から?

種:そう。それで、これはレコード会社っていうか『Locked in Heven』の時に、一緒にやったプロデューサーの人が、こんなアルバム作りたいんだけどどうですかねって、話をしてきて「じゃあ、是非」って言って、それで色々人に頼んで。ずっとシンガーソングライターやってると、自分の曲を自分で歌ってっていうことしか知らないので、人の曲を歌うって、そんなにいっぱいアルバム出してるのに初めてだったので、とても新鮮だったし、とてもすごい勉強になる感じですね。

T:じゃあ、ほかの人の曲を歌ってレコーディングするのは初めてという?

種:そうですね。カバーとかはありますけど、そういうんじゃなくて、私のためにつくってもらった曲を歌うっていうのは。

T:これはライブはやったんですか?

種:その時、ライブやりましたね。

T:ここから結構また期間がありますが、この辺は。

種:この辺は、またすごいスランプになってて。多いですね。離婚したんですけど、それだからかなと思ったりもするけど、何かでも離婚してからふっ切れて、すごくすごく楽しくなってきて、また曲が書けるようになって、それでミニアルバムのお話が来た時に、じゃあせっかくなら2枚連続で、って提案したっていう感じです。

T:2003年、昨年リリースの『IN』『OUT』は?

種:かなり久々ですよね。

T:ですよね。これはどういう風に作っていったんですか。

種:これは3年間の間に書いていたものとか、あるいは出す事になって書いたものとかを合わせて、また選んで、それでこっちのアルバムとこっちのアルバムっていう感じで振り分けたんですよね。『IN』の方は、内面的なっていうか、「1人で聞きたい種ともこ」で、『OUT』の方は「みんなで聞きたい種ともこ」っていうキャッチコピーをつけたんですけど、そういうので分けて入れたっていう感じですね。

T:あと最近、映像とピアノっていうコラボレーションのライブを始めたきっかけは?

種:それは、何かだれかと一緒にやるライブっていうのをやったらどうなのかっていうのがあって、私とだれかっていう。考えた時に、例えばギターの人とかパーカッションの人っていう、言ってみれば同じ職種の人とやるよりは、何か全然違う職種の人とやるほうが面白いかなと思って、その前からちょこちょこっとライブの時とかに、映像とかを作ってくれてた人がいるんですけど、その人に1対1の感じで、比重も1対1の感じのライブやらないかなって言ったら、「いいよ」っていう事になったので、それでですね。

T:もう何回位?

種:6回やりましたね。

T:その間に、変わっていったものってあるんですか?

種:最初は、そういうのってやった事なかったので。例えば、映像にVJの人が色々していくっていうのはあるじゃないですか。あるっちゃあるので、そういうのとは全然違うものにしたかったんですよね。なので、結構あと、やっているうちに、どんどんあれもこれも、こういう事もやりたい、ああいう事もやりたいっていう事になってきて、すごい大変になってきたんですよね。でも、それはしようがないというか、作り込むのが好きなので、しようがないなと思っているんですけど、何ていうかな、一応コンセプトとしては、この曲を作っている、心の風景、心の中に見えている風景を見てもらうっていうことなので、だから、映像の人にもロケに行ってもらったりとか、色々作り込んでもらってはいるんですけど、6回やっていく中で、どんどん進化して来ている感じはしますね。

T:楽曲の映像イメージっていうのは、わりと変わらない感じですか?例えば、去年はこの楽曲にこういう映像をつけたけど、今年はまたちょっと違う映像がつけたくなるとかっていうのは?

種:その辺は、全部映像の人にお任せしてるかな。変えたくなったら変えてるみたいだし。

T:仮に1回やるごとに、楽曲を並べて楽曲ごとの映像を新たにつくっていくというか。

種:そんな事はないですよ。この曲はこれって決まってるやつもあるし。

T:それはそのまま毎年。

種:毎回、同じっていうのもあるし、微妙に違うんですね、見ると。

T:一番最近のアルバムがベスト。

種:ベスト盤なので「ソニーにいた時の時代のベストアルバムです」っていうものですけど。

T:提供曲も沢山ありますよね。ほかの方に提供する楽曲をつくるときというのは、つくっているうちに自分が歌いたくなったりっていうのはないんですか?

種:でも、やっぱり曲はそういう意味で言うと、その人の為につくるものを含めて、その人が一番きれいに見える、その人だったらこんなの似合うなっていう、「つくる」っていう感覚ですよね。だから、それもたまに私もこんなの着てみたかったりしてと思うのはあるかもしれないけど、基本的にはその人のものなので。

T:楽曲をつくるときって、どういう感じでできるんですか。どういうふうに生まれていくか。

種:思いつくものですからね、曲は。どうやって思いつくかというのはちょっとわからない事ですよね。

T:曲をどういう風に書き留めておくとか、録音しておくとかってあるんですか?

種:MDに入れておいたりとかする時もありますけどね、メモとして。余り意味はないですね。意味はないというか、メモを残すということには、余り意味はないと思うんですね。録音したりとか、書き出す、例えばノートに何か書いておいたりしても、後で見ても何だっけと思う時もあるし、自分が覚えていられない曲というのは、いい曲ではないということなので、忘れないように書いておくぐらいのものだったら、忘れてもいいんじゃないかなという風な事ですね。

T:なるほど。最終的に形にする曲というのは、ほとんど覚えていた曲だという。

種:そうですね。ある程度、覚えているんだったら、適当に書くとか、MDに録音しておくなりなんなりしてっていう感じですね。

T:わかりました。最後に、これからの活動予定を。

種:とにかく、しばらくぶりに活動再開したような状況なので、これからはどんどんと曲をつくって、早く出していきたいなと思ってます。

-end-


種ともこさんの詳しいインフォメーションは、オフィシャルHPまで。
「weedymoody」→http://www.wideandzoom.com/weedymoody/



【Discography】



「いっしょに、ねっ。」
1986.3.21/32DH-353



「みんな愛のせいね。」
1986.11.21/32DH-537



「Che Che-Bye Bye」
1987.10.1/32DH-800



「ベクトルのかなたで待ってて」
1988.4.29/32DH-5032



「O・HA・YO」
1989.3.1/32DH-5199



「うれしいひとこと」
1987.10.1/32DH-800



「音楽」
1990.11.21/CSDL-1099



「KISS OF LIFE 」
1991.9.21/SRCL-2157



「MIGHTY LOVE」
1993.3.21/SRCL-2578



「HARVEST」
1994.6.22/SRCL-2925



「感傷」
1995.5.21/SRCL-3203



「Locked in Heaven」
1997.11.1/SRCL-4057



「hetetro」
1998.12.1/MAGL-5005



「in」
2003.3.5/ANET-0901



「out」
2003.5.21/ANET-0902



「11 Year's works」
2003.7.16/MHCL 234-235
















































































































































































































































































































































































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