東純二 / Junji Azuma


今年20周年を迎える「ピカソ」のベース担当、東純二さんの、過去から現在までを辿ったインタビューです。

(2004年4月1日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)





東純二 (Junji Azuma)


■ 略 歴 ■
1956年 12月1日 東京都世田谷区生まれ。東海大学卒業。
1984年 ロックバンド「ピカソ」のメンバーとしてレコード
1984年 デビュー
1984年 現在ベースギター・プレーヤー、作詞家、プロデューサー、
1984年 として活躍中。
■ レコーディング参加アーティスト ■
永瀬正敏、福山雅治、谷村新司、杏子、矢萩渉、雪村いづみ、かの香織、田原俊彦、小椋佳、GARDEN、加藤登紀子、五木ひろし、平岩英子、上原さくら、彩Colors、他
■ 作詞 ■
矢萩渉、福山雅治、アコースティックス、彩Colors、影山ヒロノブ、他
■ プロデュース作品 ■
JUJU、グラナダ、加藤妙子、他

何かライブパフォーマンスで「がーっ」とやって、そういう事をやりたい、そういう事をやり続けたいというバンドというより、傾向が、曲作りだとか、サウンド作りだとか、自宅録音、デモテープを作る為に自宅録音とか、しょっちゅうやっていたから、それで自然とそういうユニット的な形になっていったっていう感じですよね。

TERA(以下:T) :まず、生まれと場所から教えてください。

東(以下:A):東京都の世田谷区。小学校は三軒茶屋小学校。中学校が駒沢中学。まだ生まれた頃は空き地があったり、舗装されてない道があったり、そんなような世田谷です。

T:兄弟は?

A:兄が1人。2つ上。

T:幼稚園とか小学校の時は、結構一緒に?

A:うん。大体僕が遊ぶのは兄貴の友達たちの、一番けつにくっついて遊んで、泣かされて。

T:どんな遊びとかしてたんですか?

A:普通に缶蹴りとか、鬼ごっこ的な。あとローラースケートが流行ったら、ローラースケートはいて。だから、道もまだそんなに危なくなかったから、広い範囲で鬼ごっことか、今思うと、とんでもない事やってましたよ。

T:どの辺なんですか?三茶は。

A:上馬。ちょうど246と環7が交差点、あれのちょっと近くですね。だから、俗に言う三軒茶屋からはちょっと離れて、少し駒沢寄りな方なんですけど。

T:なるほど。小学生の時は趣味とか、何かなりたいものとかはあったのですか?

A:小学校の頃はね。普通に水泳の選手とか、これでもやってたりとかして、割と体を動かすのは、当時はね、好きだったりしてましたね。ちょうど、グループサウンズというものが、ちょうど僕が小学校の真ん中辺かな。で、割と近所にもそういう事をやるお兄さんとかがいて、家の2階からエレキギターの、ベンチャーズの音とかが漏れて聞こえてきたりとか。「あれは何なんだろうな?」っていうのとかは、すごい覚えてるんですよね。やっぱり兄貴の友達とかが、バンドを始めていたりだとか、それがちょっと音楽の方に耳を持っていかれるキッカケになったというのがあるんですね。

T:小学校の時は、何か楽器とかは。

A:小学校のころはないですね。ドーナツ盤のシングルの、当時の流行歌、歌謡曲のを買ってもらったりするぐらいでしたね。グループサウンズのレコードとか。

T:特に気に入ってヘビーローテーションしてた曲とかあったんですか。

A:ありますよ、やっぱり。当時はやってたグループサウンズのヒット曲なんかは、すごい。なんかね、何ていうのかな、テレビの、別世界というか、ふだんの、日常とは別世界のものだな、何だろうな、夢の世界かなみたいな感じで。子供心にね、思ってましたね。なんか甘美な感じ。

T:歌ったりとかもしてました?

A:してましたね。ほうき持ってね。でも、そういう事やった人、僕の世代とかは多いと思うね。

T:中学校に入ると、何か楽器とかは?

A:うん。中学でがらっと。何か開花したというか、目覚めたというか。2つ上の兄貴が、大体何かを家に持ち込むのが、先にそういう何かカルチャー的なものを家に持ち込むのは兄貴で、例えば僕が中学1年生になって、兄貴が中学3年の時に、家に初めてフォークギターを持ってきたり、洋楽と言われるもののレコードを持ってきたりとかして、だからそれを、ギターなんかは、初め兄貴のものだから触れなくて、触っちゃいけないもので。兄貴がいない時に、ボロンって音出して、それが楽器に初めて触ったって感じですかね。

T:触った瞬間は、自分でも持ってやってみたいとか?

A:やっぱり、すぐギターの仕組み、コードとかは、割とすぐ、こうでこうなってるったというのは、割とすぐ気がついて、それからは、どうしても曲を歌いたいじゃないですか、弾きながら。だから、そういうのを簡単な曲を、コード3つぐらいの。

T:それは、具体的にどういう曲をやったとか覚えてますか?

A:フォークソング、その頃は、『ピーターポールアンドマリー』とか。多分あれは、あの人たちのオリジナルというよりはアイルランド民謡みたいな、きっとそういう、本当の意味のフォークソングの流れのものだったと思うんたけど。『マイボニー』とか、ああいうのだってそうでしょう、ビートルズがやってた、ああいうの。何かそういったたぐいのものだったと思うんだよね。でも、それからすぐ日本のフォーク、岡林さんとか吉田拓郎さんとか、そういうのが、割とそういった外国のフォークソングとは違って身近な、もちろん日本語でやってるし、ぽんとそれが、やっぱり兄貴が持ち込んだと思うんだけど、それも少しショックを受けて、そういう曲をちょっと弾けるように練習したりとかしてましたね、それがすごい原点って感じ。

T:実際、楽器を手に入れたのはいつですか?

A:自分のですか?高1?それまでは大体兄貴がフォークギターを飽きちゃってからは、僕が引き継いで、中学時代はそれをいじったりしていて、中学校の卒業式の学芸会で何かやったりとかね。

T:1人でですか。

A:友達2人とやりましたね。そのときは、だけど何をやったかというと、そのころ僕は、フォークをどうのって、今、言いましたけど、でもやっぱりロックが好きだったから、当時流行ってた。流行ってたというか、すごく刺激を受けたニールヤングの曲とか、そういうのを演りましたね。みんな他の人たちは「ぽかん」としてたけど、ニールヤングとかやっちゃったんですよね。

T:なるほど。高校入ると、どんな活動を?

A:やっぱりそういう、その流れで、何しろフォークが全盛だったもんで、日比谷の野音とかで、フォークの人たちがいっぱい出るコンサート見に行ったりとかも、割としょっちゅう、東京にいたものだからそういうことができて、高校でのそういう人たちが集まる同好会みたいなのとかがあったりして、そういうところに出入りしたりとかしてました。

T:バンドは?

A:まだバンドには至ってなくて、だけどある時に、フォークのコンサートに行った時に、エレキをやるバンドも一緒に出てたんですよ、そのときに聴いたロックの音に「やっぱり俺、こっちの方が好き」っていう事になって、高校2年のときにベースを始めて、自分でベースを買ったんですね。そのときに、やっぱ同じ中学で高校は別に行ったやつらとバンドを組んで、そこの学校の学園祭、高二のときに始めて人前でロックバンドっていう形でやりましたね。

T:バンド名とかって。

A:あのね(笑)あのね、僕がベースでそこに加わる前に、ベーシストが、そのバンドは、もう居たのね。だけど辞めちゃったんですけど、そいつがフクシマ君っていうやつで、そのフクシマ君って、面白いやつで、僕も好きだったやつなんだけど、教科書とか楽器とかに、必ず自分のマークを丸にフクっていう字を書いてるマークを必ず付けてるやつだったのね。だから『マルフクバンド』って言われてて、フクシマ君がいなくってもマルフクバンドっていうことになってたの。

T:もうその頃は、東さんはベースで?

A:そうですね。ベース。

T:もう自分の楽器はベースだと。

A:ベースを弾きながら歌ってた。ストーンズの曲とか、今思うと傾向としては、やっぱイギリス方面の、割とちょっとブルースっぽいようなバンドの方が。コピーまでは全然できないんだけど、すごくあの辺ってコードとか、そういうあれがシンプルだったじゃないですか。だから、割と真似しやすかったから『フリー』とか、そういうすぐ出来るような。『ディープパープル』とかは難しくてできなかったの。それを高二、高三ぐらいでやってました。

T:その頃の生活は、もう音楽一筋ですか?

A:今思うとそうですね。格好とかも基本的にそうなっちゃうでしょう。かかとの高い靴はいちゃったり、髪の毛伸ばしちゃったり。そうなると、やっぱり人種って別れるじゃないですか。もうそういう人たちっていう。そういうやつになっちゃったから、一筋なのかな。

T:高校卒業あたりって、どういう動きが。

A:アマチュアサークルみたいな所に出入りするようになって、そこは割と1人で、相変わらずフォークシンガー的な人もいたり、何人かで男の人、女の人いろいろいる。『赤い鳥』のようなバンドをやってるような人がいたり、ロックバンドみたいなのもいたんだけど、そこで友達の紹介でそこに出入りするようになったんだけど、ベースを弾く人って、そこはいなかったのね。だから、そこでのいろいろなベースは一気に引き受けますみたいな感じになって、ジャンルがその中にあって、そこで何かいろいろ対応するようになって、それがそれで今思うと、少し勉強になったし「よかったかな」っていう。その1、2年そんなような事をやっていたと思いますね。

T:じゃあ、大学の時は、具体的に1つのバンドにっていうことではなくて。

A:幾つかバンド、誘われたり、人の紹介で入ったり、いろいろちょこちょこやってましたね。よくね、渋谷のヤマハに、そのころはよく今だとライブハウスとか、リハーサルスタジオとかでもメンバー募集みたいな張り紙が、掲示板みたいなのがあるじゃないですか。渋谷のヤマハに、当時僕の知る限り、あんまり、渋谷のヤマハにしかなくて、渋谷のヤマハに行くたびに、こうやって見て、何かそこに書いてあることが面白そうだったりすると、1人で電話してみて、一度会ってみましょうみたいなことやって、やったりしてましたね。だから、そこで知り合った人とかも、結構多くて。

T:結構、皆さんやっぱり渋谷のヤマハを通過してる人多いですよね、そのころは。

A:ちょっと中学のときに話戻るけど、レコード、自分でLPを、洋楽のLPを買うようになって、しょっちゅう渋谷のヤマハに行くようになって、そこは輸入盤が置いてあったから、すごく情報が早かったのね。ビートルズのアビーロードが、これかぁって、買えなくて、こうやって眺めてて。眺めるために土曜日になると行ったりとかね、そういう中学生だった、中学のときは。

T:で、大学のとき、音楽に対して、将来、音楽にっていう気持ちはあったんですか。

A:もう、きっと思ってましたね。多分、当時、今、思うと笑っちゃう話なんですけど、ぽそぽそとライブハウスというものが東京にもでき始めていて、そこのライブハウスに出てるバンドを、やっぱり見たくて見に行くのね。行って、こういう人たちになりたいっていうふうに、やっぱり思っていて、そうなれば、もう立派なプロとして、立派に音楽でお金を稼いでいる人たちだろうって。今、思うと、きっとそんな事ないと思うんだけど、すごいそういう風に信じちゃって、そういう風になろうって。だから、張り紙、さっき言った掲示板で張り紙、メンバー募集みたいのでも、その辺の、そういった事とかも書いてあったりするのね「当方ライブハウス出演予定」とか「出演あり」とか、だから、なるべくその辺のところをチェックして連絡したり。

T:大学時代は?

A:大学時代ですね。大学時代は、少し頭も賢くなってきて、仕事としてベースを弾くってどういう事かなっていう事も考えるようになったから、セッションミュージシャンみたいな人で有名な人、色んなレコード、当時のレコードだけど、に参加してたり、そういうのを気にし出して、時代もあるんだよね、そういうちょっと当時はクロスオーバーって言ってたんだけど、フュージョン系、スタジオミュージシャン系の音楽っていうのが、なんかあって、そういう人たちの中で参考にし出したりとかしましたね。

T:それから、どういう動きになってくるんですか?

A:さっきのサークルから、ちょっとした展開があって、ビアガーデンとか何かのパーティーでとか、そういう所で生バンドみたいのが、そういう仕事とかがあって、バイトみたいなものだけど「やらない?」って言われて、それがちょうど20歳ぐらいからかな。「いいですよ」って。でも、今思うととんでもない、何にもできないくせにみたいな感じだったんだけど、それでちょこちょこそういうアルバイト、そんなこともやり始めて、それでお金をもらったみたいな。

T:そこが初めて音楽で収入を?

A:ですね。今、もうないけど、ないっていうかあんまり聞かないけど、箱バンっていう形のもね、数か月やったこともあったりとか。

T:そこはどこだったんですか?

A:どこだっけな、新宿はあったな。新宿はあって、あと新橋の方とかね、三、四か所、池袋のほうもあったかな、とても怪しげなところで。

T:1日どのぐらいいただけるんですか?

A:えーっと、五、六千円だったような気がするな。3回ぐらい、3ステージぐらいやったりして。

T:どういう楽曲を演奏するんですか?
A:あんまり、だから要するに、ばりばりのぶりぶりのロックとかは当然できないじゃないですか。やりたくてもできない。だから、ムーディーな、サンタナとかね、よくやったのは……

T:『哀愁のヨーロッパ』みたいな?

A:そうそう。哀愁のヨーロッパのもっと前なんですけどね。初期のサンタナとか、あとね、サンタナとかって、テーマの部分はちゃんとそれなりに形があるんだけど、それ以外は、間奏みたいになると、割と2コードみたいな。割と、長さがどうにでもなるみたいなのがあって、だから重宝して。そんなのをやったりとか。あと何やったかな。なんか、逆に流行歌みたいな、演歌みたいな曲も、当然僕以外の人たちはみんなそつなくできたんだけど、僕はそのころは、まだそういうのも。だから、そっちのほうが全然難しかった。サンタナのほうが全然簡単だった。

T:それで、卒業後は?

A:その頃に、やっぱり幾つかバンドを経て、アマチュアバンドのような、セミプロまでいかないぐらいなものを経て、で、今の辻畑たちと知り合って。当時、アマチュアバンドっぽい事をやってた、マネージャー的な人を介して知り合って。何で紹介されたのかはね、もう忘れちゃったんですよね。

T:向こうは辻畑さんと、森さんとか、何人かいる中に加わったっていう感じ。

A:そうそう。ベースだけいなくて、あとドラマー、ギタリストもいて、あとその2人で。そこに加わって。

T:最初の印象って、どんなバンドだったんですか?

A:とてもいい意味でも、健康的な感じが、学生バンド、健康的な、すごくまだそういう感じかすごく。僕は、ちょっと変なところも見ちゃった部分もあったんで、とてもからっとしてる感じだな。雑談してる中でも、まだ学生っぽい雑談の仕方、プロ野球の話ししてたりだとか、麻雀の、練習終わったあと麻雀しようみ
たいな事言ったりとか、割とその辺がそういう感じがして。でも、全然人間的に嫌いじゃなかったんで、すぐ溶け込めましたけど。

T:当時の辻畑さんと森さんの印象ってどんな、一言で言うと。

A:今はね、もうこの年になっちゃうと、もうそういった事はないんですけど、当時はまだちゃんと先輩、後輩っていう感じがあって、辻畑と森は2つ年が違ってるので、大学出たての頃の、しかも大学時代は先輩、後輩だったから、まだそのまんま、そういう流れで来てましたね。

T:それで、しばらくその5人のバンドが続くんですか?

A:そうですね。それで僕が加わった時に、既にそういった俗に言う事務所っていうか、そういうのとちょっとそこはつながりのある形に、もうなっていたから、すぐ何しろ形、ものにしようっていうような動きがあって、すぐ曲を作ったり、どういう感じにしようかみたいな。まず何しろ1曲どんといい形の楽曲をつくって、それを持ってレコード会社を決めようみたいな事になっていたから「まずそれを作れ」みたいな。「それを作るまでは、お前らはここから出てくるな」ぐらいな、そういう練習場所、そこで。だから、ライブを、いついつライブ、そのための練習っていうよりかは、そこで何しろこの1発という曲ができるまで、繰り返し、繰り返し曲をつくっていたっていう始まりですね。

T:ピカソの前の形になるんだと思うんですけど、3人になるまでの期間ってどのぐらいだったんですか?

A:まず、ちょっと音楽的指向が違うっていうこともありつつ、ギタリストが北海道のウトロという、知床半島のほんとうに人の住める最後の場所で、家が漁師をやっている関係があって、漁業権ということがあって、家に帰らなきゃいけないっていう話が。それは、だけどやっぱり音楽的なっていう話があったちょっと後だったと思うんだけど、それでまずギタリストが抜けて、で、ドラマーと僕と辻畑、森、4人で1年ぐらいやったのかな。だけど、やっぱり相変わらずそのときも、曲づくりがメーンで。そのころに森とか、僕とかは、ほかの人のサポートなんかも、バックバンド的な事もやり始めたりとかしたところなんですよね。それで、ドラマーがアメリカ人の女の子とつき合い始めて、アメリカに行っちゃったんですよ。で、3人になって。

T:その時、仕事は、どうしてたんですか?

A:当時は、僕は住むところという事で言うと、実家にいたので、特に音楽、楽器を弾く以外の仕事とかはしないでも済むんで、そういうバックバンドとかは。当時は、ある歌手がデビューしたら必ずバックバンドっていうのをつけて。もちろんバブルの時代の奔りみたいな頃だったと思うんだけど、そういう仕事って少なくなかったんですよね。ひどい時だと、そのバックバンドのリハーサルがその日1日のうちに3つあって、もうだから、あっち行って、こっち行ってっていう事もやってましたね。

T:それは3人で?

A:辻畑は、その頃は主に楽器をやらなかったので、森と僕が、割と。一緒の事が多かったですね。なぜか。

T:ピカソが生まれるまでの話を聞かせてもらえますか?

A:生まれるというよりかは、そうなっちゃったっていうことのほうが大きくて、3人になってしまったっていうこと。だけど、何かライブパフォーマンスで、何かがーっとやって、そういうことをやりたい、そういうことをやり続けたいというバンドというよりかは、なぜか傾向がそういう曲づくりだとか、サウンドづくりだとか、自宅録音、デモテープを作る為に自宅録音とかをしょっちゅうやっていたから、それで自然とそういうユニット的な形になっていったっていう感じですよね。それで、相変わらず森とか僕とかは、他の人の所で楽器を弾いたりかながら、少しずつそういった知識とかも得ながら。割とだから、初めに曲ありきな、まず曲をつくろう、それでサウンドを面白いサウンドをちょっと色々と持ってこようっていう感じになってきたっていうことが多いですね。

T:デビューまでの間に、かなり曲はたまって?

A:そうですね。だけど、当然、何かしっかりと完成品というよりかは、作っちゃ、こんなもんだね、こんなもんだねっていうような、もちろん断片だけのものもあったりだとか。ユニットって聞こえはいいかもしれないけど、結構ずるずるしたもんなんですよね。だから、そういった曲はもう膨大にふえていってしまったっていう感じですね。

T:やっぱり曲は、三人三様だったんですか?3人目指すところっていうのは何か一つに。

A:大体ね、当時、すごくやっぱり、当時が一番ほかの海外の音楽とかにもアンテナを、一番張りめぐらせていた時期だったと思うんですけど、そこで刺激を受けたものとか、すぐだれかがこういうのあるんだけど、こういうふうにしないとか、それによってがーって、こういう風に皆して傾向ががーんと動いちゃうっていうことが多かったかな。あと、ちょうど、ニューウエーブっていう時代が来たので、その時にそれの刺激がすごい受けて、何でもありなんだなっていう。だから、その3人のユニットっていう形ででも成り立っていけるんだなっていう。例えば、リズムマシーン的なものを使ってでも音楽はできるなっていうことですね。

T:東さん自身、80年代入って、日本の音楽シーンに対して何か、80年代に入って変わってきたものっていうのは、何か感じましたか。

A:1つ変わったなっていうか、そういう事をやって、その流れでピカソがデビューしたのは、そういったそのくくりの流れでデビューしたんですね。そうやって曲をつくって、そういうユニット的な形で。で、曲はそこそこよくて。だけど、そのうち僕個人的は、一番初めに音楽を好きになった形のものを、やりたくなって、いわゆるドラム、ベース、ギターっていうトリオのバンドっていう事ね。それで、それをピカソとは別個の、本当に非公式な形で、当時は事務所とかとも、レコード会社とも契約を、僕自身はしてたからそういう活動は余りしちゃいけないんですけど、それをわかっていながら、それを始めたんですよ。それがちょうど、どうしてもそういう音楽のつくり方が、ピカソでは、ピカソでずっとデビューして数年たって、どうしてもつくり方から、多少ストレスみたいなのを感じていたのかもしれない。それで、87年にスリーピースのバンドを立ち上げて。『ママトールドミー』っていうバンド名で、僕がベース弾きながら歌を歌って、あとギタリストが、やっぱりいろいろ、いろんなシンガーの人のサポートしてるときに知り合ったサイトウゴウっていう、今はホルモンタンクレコードっていうインディーズを立ち上げて、そこで運営してるやつなんですけど、それとあとヒカシューっていうバンドがいて、そこのドラマーだったタニグチっていうやつと、何かやろうよっていうのから始めて、それで新宿のロフトとか、幾つかライブハウスをぽこぽこっとすぐ楽器を手で持っていって、わーってやってっていうのをやってましたね。その時に、すごく「あっ」て思ったのが、レニークラビッツの、88年ぐらいに、僕デビューアルバムを聴いたのかな?その時に「ああ、そうだよね」って、そのとき僕の感じてた事と、ぴったりあったのを覚えてるんですよ。その『ママトールドミー』っていうバンドは、ドラマーのタチグチがちょっと他界してしまいまして、それであれしちゃったんですけどね。そういう動きが、僕の中ではとても。

T:スリーピースバンドをやり始めたっていう事に対して、ピカソにも刺激はあったんですか?

A:多分、そういったアルバム『プレゼントフォーラバーズ』っていうのを88年につくったんですけど、そういう生で、またちょっとそういうロックテイスト、ほんとうに自分たちが好きだった、初めはこうだったじゃいのっていうのを自然に持ち込めたんじゃないかなっていう感じはします。そこから、これ以前とそれ以降っていうので、そういった考え方が、音楽に対する考え方がすごく変わった時期だったし。

T:そのプレゼントフォーラバーズをつくる前の、ピカソの3枚、4枚のアルバムっていうのは、やっぱり実験的な音楽というのが、たまたま劇盤というか、アニメ映画とか、そういうものにフィットしたっていうか、フィットしてしまったという?

A:フィットしてしまったという事でしょうね。

T:やっぱりフィットすると、メーカー側もそういう動きにせざるを得ないという。

A:そう。だから、結局、シネマっていう曲が、多少なりとも少し注目を浴びた時に、やっぱり他ではちょっと聴けない感じな、そういう印象を持った楽曲だったもんで、それ以来、その印象がちょっと強かったから、割とそういう曲を、他のアーティストも作曲を依頼されたときに、ああいう曲をつくってくれって言われたり、どうしてもそこから、多少なりとも逃れられない感じのところに陥っちゃったところはあるかもしれないですね。

T:時代的には、映像と音楽のかかわり方が、タイアップとか「妙な関係」を持ち始めた時代でも。

A:そうだね。どうしても、今思うと、音楽を音楽だけでレコード会社とかが、その音楽を広くの人に宣伝することが難しくなってきた。だから、何かほかの商品とか、番組とかに、やっぱり付随しながら、その音楽を広めていくっていう、そういう道に、だらしないですね、ちょっとね、今思うと。

T:テレビっていう媒体の力を変な形で過信してしまった部分っていう事ですね。

A:そうですね。昔はなんかね、やっぱり僕が子供のころとかは、よく皆さんラジオを聞いていた気がするし、ラジオから流れてくるっていうことだけで、いい曲だわっていうことになって、そのレコードを買いに行った思いがあるので、そういう感じがライフスタイルっていうか、それもすごく変わってきた時代だと。

T:確かMTVは1981年に開局なんですよね。

A:MTVも大きいよね、すごくね。

T:それで、初期のピカソを覆すキッカケにもなった『プレゼントフォーラバーズ』は、7曲入り?

A:うん。そのぐらい入ってますね。

T:このアルバムのセレクト、『ホリーズ』のバスストップなど、これらの選曲は?

A:これを作るキッカケになったのは、宣伝費というのをレコード会社からいただいて、結局レコード会社の方も「どうやって宣伝していいんだかかわらないよ」っていう事だったと思うのね。だから「おまえら何かアイデアあるんだったら、ここにあるウン百万円を、それで何か使ってみたらどうか?」っていう話があって、だったら、まず僕らは、僕らと同世代ぐらいな感じて、今、地方のラジオ局のディレクターをやってる人とか、割とそういう感じがすごく、そういう人たちの声とかをよく耳に届いていたので、そういう人たちにこういうの懐かしいでしょっていうような、そういう人たちって、やっぱり僕らと同じでポップス好きな少年がそのまま、ちょっとそういったことから離れられないままラジオ局のディレクターやってる人とか、割と多いっていうことに気がついて、そういう人たち向けに、僕らはこういう感じな人間なんですよっていうのを知らしめてみたいなと思って、まず非売品としてそれをつくってみたっていう曲で。

T:その選曲に関しては?

A:選曲は、当然、ビートルズとか超有名曲とか、そういうのはちょっと置いといて、もうちょっと一発屋で、実はあったねっていうのを、ちょっとくすぐるような選曲にしようよっていうことで選んでみたんですけどね。だからビートルズじゃなくて『バッドフィンガー』みたいな。当然、ビートルズは好きですよっていう事がわかってもらえれるように、モンキーズは有名かな?

T:でも、モンキーズの『ステッピンストーン』って、有名だけれどもA面じゃなく、、。

A:B面なんだよね。

T:そうですよね。あと、僕が注目したのは、映画『マッシュ』の主題歌。

A:これは、僕が「これは入れて欲しい!」って言って、ごり押しで入れた曲なんですよ。僕が、中学の時に、シングル盤をなぜか持っていて、こういうあれのやつね。この曲が何しろ切なくて、大好きで、でもそんな、すごいヒットチューンっていうわけじゃなかったんだけど、なぜかずっとそのシングル盤は、何しろ僕は今でも持ってるぐらいに、なぜかそれだけ持っていて、だからそれがすごく、ぜひこれはやってほしいっていうことで。

T:これはびっくりしましたね。ロバートアルトマンの名作で、音楽はジョニーマンデルで。

A:いい曲なんですよ。

T:いい曲ですよね。このアルバムをキッカケに、ピカソのサウンドが変わった。

A:生指向になっていったんですね。

T:その次のアルバム『マーマレードキッズ』、このアルバムを一言で言うとどんな感じ?

A:『プレゼントフォーラバーズ』で得たいい感触を、そのまま、やっぱりこれはこれで企画ものでしたっていう事ではなく「やっぱりこういう事が、俺たち、合ってるね」っていうのがわかったので、じゃあ、それをやっぱりオリジナルな、自分らのサウンドにしようっていうことで始まったのかな。で、やっぱり一番そのときのキーワード的なもので言うと、サイケデリックっていうのがキーワードになっていたんですよ。何か音と音がぶつかり合ったところで、何かにじんでくる何か甘美な感触「何なんだろうこれ」っていう所を、すごく意識して。だから、森の書いたストリングスの弦のライン何かが、それなんかもすごく表れてると思うんですけど、そういう質感というか、感触を意識し始めたものですね。それまでは割と打ち込み的な、割ときちきちっとしたものを、主に、そういうことがすごく多かったんですけど、ここからもっとぐちゃっと、何かぐちゃっとしたものに、すごく自分たちのオリジナリティをそこから見つけようみたいなことを意識しましたね。

T:これが『マーマレードキッズ』が89年の夏リリースで、ちょうど1年後『12色のハンマー』で、これは?A:これはですね。

T:そのドキュメントが、映画で配信中という事ですが。

A:その辺の、多分ピークになったものだと思うんですよ。そうやって得た『マーマレードキッズ』までに得たノウハウとかも、すべて注ぎ込むこともできたし、すごくぜいたくなプリプロとかもやらせてもらえたし、言ってみれば、自分の中ではすごい大作、やってるほうも、聞く人も、聞き終わるとどっと疲れるんじゃないかなっていう、ちょっと大作に、自分は思っています。

T:初期3枚、後期3枚と分けたときに、続くというか、4年後になるんですけど『チャンピオンのノスタルジー』というアルバム、これはどういう風な感じに?

A:伊豆から熱海からちょっと上がっていった方にあるスタジオなんですけど、そこは歴史のあるスタジオなんですけど、ちょっとばりばりの現役のスタジオからちょっとリタイヤしたような形なスタジオだったのね。それは、僕らがいた会社がなぜか買い取っていて、主にバンド君たちの合宿リハーサル施設みたいになって使われていたところで、そこでよくデモテープとかはそこでつくれていて、16チャンのアナログのテープレコーダーがあって、APIっていう古い70年代のコンソールがあって、その音が実はすごく、やっぱりよかったんだなと思うんだけど、そこで僕らもデモテープをつくろうっていうことでつくったりとかもしていて、その時の音が気に入ったっていうのがまずあって。「いいね、いいね」って言いながらも『12色のハンマー』でプリプロをやったりもして、映像にも出てくる話なんですけど、だから、そこの音を、そこで録音をしたいな、レコーディングを、本チャンのレコーディングをそこでしたいなって思ったのが、まずありました。そうこうしているうちに『チャンピオンのノスタルジー』の前にTVのサウンドトラックの仕事が来て、それを実験的にそこのスタジオで「作れないもんだろうか、いや作れるよ」って言ってつくってしまって、それが『バーティゴ』なんですよね。作れたんですよ、そこで何とか。16チャンで。「やっぱり出来るじゃん、ぜんぜん出来るじゃん」っていう、その流れ、その勢いを殺さずに、そのセッション『バーティゴ』のセッションのまま、今ある楽曲たちを、ちょっとこの流れを切らずに、ここでつくってしまおうって言って、だから93年につくってしまったっていう感じですね。

T:『12色のハンマー』から、直接ではなくて、『バーティゴ』の実験的な作業が実を結んでというか。

A:そうですね。『12色のハンマー』で、一たん世間的にもバブルが終わったんですよ。それで、だからそこからは、いかに低価格でローコストなレコーディングができないものだろうかという流れに、だんだんなってきているところで、じゃあ、ローコストでやってやるよっていうことで始まったのが、それ以降の流れ。そうなんですよ。そこの箱根のスタジオが、幾ら使ってもいいっていうことになったんですね。『12色のハンマー』までは、やっぱり1日ロックアウトをスタジオにすると、このぐらいかかるんだよっていうのが、常に頭にありながらつくっていたんですけど、そういう変な解放感が『チャンピオンのノスタルジー』にはある気がします。

T:そうですね、バブル後っていうのが、やはり音楽産業の中では、かなりサバイバルを生んだというか、それは全体を通してというか、音楽業界全体に。

A:とても大きく影を落としてる気がするね。

T:そうですね。

A:とてもインディーズレーベルみたいなのが、がっと注目を浴びたり、みんなそういう事をやろうって始めたのも、そういった時期だったかもしれない。

T:きっかけになってますよね。

A:逆に、でもよかったと思うね。ほんとうの意味でのスピリットみたいなものがある人間とない人間っていうのですごく別れたし。とっても恵まれたレコーディングスタジオで、豊富な機材の中で囲まれてやってると、どうしても出てくる音っていうか、それが何かオーディオ的な意味でいい音「いい音だね、これすごくいい音だね」っていうことでオーケーを出しがちに、自然になっちゃっう危険性があったと。ほんとうは、聴かせたい音楽が、届かせたいものって、音の向こう側にあるもののような気がするんだけどね。それがそういった所でごまかされちゃう、音のきれいさ、サウンドのよさで。だから、ほんとうに届かせたいものはその裏側にあるものだなっていう気はするんで、それが低予算でやると、そこをまず抽出しないと、まずそれはだめだからっていう所で、そういう意味で、そういう考え方でみんなそれ以降は研ぎ澄まされていくようになってきた気がするね。

T:90年代入って、ピカソとはまた違う動きを東さんもされていると思うんですけど、アーティストのサポートであったり、作詞とか、プロデュースとか、そういうピカソ以外の音楽的な作業というのは、どんな感じにとらえていたんですか。

A:ピカソも最初の頃はサウンド指向なユニットだったので、歌詞とかに全くみんな3人とも、何だか無頓着で、あればいいやぐらいな感じで思ってたんですけど、やっぱりふつふつと僕も、いや何かやっぱり届かせたいものは、こういった歌詞じゃないかもしれないとかって思うようになってきて、やっぱり「どうしようか」っていう話になったときに、じゃあ君が書きなさいっていう話になって、それからわかりましたっていう事になって、歌詞を大体僕が何とかするっていう形になっていって。何とかしなきゃいけないっていう事になってから、歌詞の方にも興味を持ち始めて、そういう、そっち側の人間に少しずつなっていったっていう感じですね。日本語、俳句だとか、日本語が持っている響きとか、きれいな言葉だとか、そういうのを意識にするようになったし、それを何とか音楽的に聞かせられるは、何かテクニックがあるはずだとかも、すごく自分で考えるようになって、それ以降、やっぱり今ではわりと、どちらかというと、そういう、そっちの人間に、自分はなってると思うんですよね。ベースを弾くのは趣味みたいな感じですね。

T:歌詞を書くのって、楽しいですか?

A:楽しいですね。特に、僕は僕が歌うための歌詞を書くということは、全く少ないので、だれかに歌わせる、こういう歌詞を歌わせたい、こういう歌をこいつが歌うといいのになとか思いながら、今、自分らでやってるレーベルの人たちにも詞を提供したりしているんですけど。だから、すごく、そういったことをまず考えている時点では楽しいんですよね。自分の中にアイデアをとっておいて、これはこの曲にぴったりだから、これはあいつで、このアイデアをこういうふうにぶつけようとかって思ってる時点では楽しいの。でも、それを何か最終的な形にするまでの1日、2日は、とっても苦しい場合もありますね。カプセルにぱこっと入らな
いと書けない。

T:90年後半、98年でしたか、ピカソの形が、、。

A:そうですね。ピカソがほぼ10年ちょっとやった時点で、年齢もそこそこ行ったし、自分たちが自分たちのための、何て言うのかな、ピカソだけのものでは音楽をつくるのが、それ以外にもすごくプロデュース的な意味合いでも興味が出てきて、よりピカソっていうユニットが、少し一回り、二回り、やっぱり大きくしなきゃいけなかった時期で、周りにいるスタッフたちも、みんな僕らより年が下になったし、だからそこで1つ、何かユニットとかバンドとか言ってるよりも、もう1回り大きい形の会社のような、チームのようなっていうのに、自然と発展したっていう流れですね。

T:構想っていうのは、いつ頃から考えていたんですか?

A:構想というか、それまで割とどこかにレコード会社なりプロダクションなり、そういうところに所属という形でやっていたんですけど、それをやめて、森も僕も辻畑も、フリーに、まずちょっとフリーにやってみようっていう形にしたんですよ。そこで、今までやらされていたというのは変な言い方なんだけど、的な仕事から、自分らで仕事を見つけなきゃいけない。やりたい事を、やらなきゃいけない事を見つけなきゃいけないという風に思い始めて、そうしたら、やっぱりそれなりの、ファクトリーじゃないけど、そういう場が必要だなっていうことに気がついて、まずそういう場所を立ち上げてしまったんですね。一軒家を借りて、そこをファクトリーにしてそこで何かを始めよう、それが98年ですね。それまで、フリーになってから1年ぐらいは、そこまで踏み切るまでに至っていなかったんですけど、相変わらずプロデュースのような仕事をやりながら、でもやっぱり自分たちで何かを育ててみたい、何かつくり始めてみたいなっていう気になって、それで立ち上げたのが、立ち上げてからは、もうそういう流れになっていったっていうあれですね。

T:一軒家は、どんな感じなのですか?

A:まず、どうしようかって。よく、当時、マンションとかの一室がスタジオになっていたり、都内によくある形ですよね。だけど、やっぱりそれってちょっと僕もそういったところに行ったこともあるし、知り合いがそういうことをやっていたりという事もあったんですけど、そういうところに行く度に、ちょっとスペース的に物足りないな、何か空気があれだな、もうちょっと開放的にやりたいなっていうことで、辻畑もそういうふうに思っていたらしくて、何かお風呂入れたら、お風呂入ったあとにばんと縁側があってさみたいな。そ
れは箱根のスタジオがすごくベースになっていたと思うのね。それで、それからじゃあ、やっぱり一軒家だねっていうことで、やっぱり一軒家を探し始めて、そこはスタジオ的な意味合いもあるし、やっぱり会社でもあるし、そこで実は寝泊まりもできるっていう環境が欲しかったので、一軒家にしたんですね。

T:実際、稼働してどんな感じですか?

A:多少防音をいろいろしたりして、周り、こっち側は畑でこっち側はお隣に家があって、だからちょっと気をつけないとねって。防音して、夜はなるべく音は出さないようにしようと。車の音が録音されても、それはそれとしようっていうような約束事はあったんですけど。あるとき、だから全然苦情的なことはなくて。だけど、ちょっとある人間を呼んで何か打ち合わせをやって、そのまま夜飲み会になってしまって、そのとき夏だったんで、窓開けっ放しにして、そしたらそいつが割と酒乱で、夜中に大声出して、それで苦情が来たっていう。それまでは苦情がなかったんですけどね、失敗でした。

T:そこで、ライブのリハもするんですか?

A:かなりなアンプラグドなリハーサルはできるんですけど、ドラム入れてどうのっていうのは、ちょっと難しいで
すね。

T:最後に、最近のピカソの活動と、これからピカソの動きみたいなのがあれば。

A:20周年という事もあって『スパイス』っていうアルバムを2年前に出して、それからちょっと腰が重いんだか何だかで、ピカソの楽曲づくりの方が少し停滞しているところなのですが、それはまた近々再開する予定なので、何とかしたいと。20周年という事もあって、何かそういうイベント的な事が出来たらいいなということを思ってます。

T:本日はどうもありがとうございました。

A:こちらこそ。

-end-


只今、ピカソのドキュメンタリー映画(#16 short film)が配信中です。
ピカソの詳しいインフォメーションは、
オフィシャルホームページ(http://www.pro-picasso.com/)まで


【Discography】



「PICASSO」
1985.08.21/VAP


「ダイアモンドの月 」
1986.08.21/VAP


「CINEMA」
1986.12.21/VAP


「PHOTOGRAPH 」
1987.05.25/VAP


「Marmalade Kids」
1989.08.25/KITTY


「12色のハンマー」
1990.08.25/KITTY


「Seiz」
1990.11.05/VAP


「Vertigo」
1993.08.11/KITTY


「EARLY BEST '84-'86」
1993.10.01/VAP


「チャンピオンのノスタルジー」
1994.09.24/KITTY


「Shopping List」
1995.09.25/KITTY



「Shopping List II」
1996.06.25/KITTY


 

 

 

 

















































































【Discography】


「METRONOM Records」



「SCRAPS」
2000.6.20/METRONOM Records


「笑うラクダ」
2000.6.20/METRONOM Records


「hammer Makers」
2000.12.1/METRONOM Records


「Presents For Lovers」
2001.5.10/METRONOM Records



「SPICE」
2002.10.4/METRONOM Records

















































































 

 

 

 

















































































Message Movie

「みなさんへメッセージ」

メッセージムービーを見る
| Mac | Win |