庄野真代 / Mayo Shono


1976年LP『あとりえ』でデビュー。1990年に入りアジアでの音楽活動も。2000年「浜田山〜ず」結成。『Time Traveler』シリーズをリリース開始。現在、精力的にさまざまな音楽活動を続けている、庄野真代さんのインタビューです。

(2004年11月11日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)





庄野真代 (Mayo Shono)


1973年 YAMAHAボーカルオーディション合格をキッカケに
1973年 音楽活動を始める。
1976年 コロムビアレコードよりLP『あとりえ』EP『ジョーの
1973年 肖像』でデビュー。
1977年 EP『中央フリーウエイ』で注目を集める。
1978年 『飛んでイスタンブール』『モンテカルロで乾杯』
1973年 のヒットで、 一躍ニューミュージックシーンのトップに。
1973年 紅白歌合戦に出場。
1980年 『Hey Lady 優しくなれるかい』のヒット中、
1973年 休業宣言し、世界一周旅行へ。
1981年 ロスアンジェルスにて、LP『逢・愛・哀』と旅行記
1973年 『THE漫遊記』を制作。
1982年 帰国後、音楽活動再開。様々なジャンルの活動に
1973年 チャレンジ。多才ぶりを発揮する。
1991年 シンガポールのEMIより、『cabin36』(日本未発売)を
1973年 リリース。
1999年 初のオフィシャルファンクラブ『お達者CLUB』発足。
2000年 法政大学「人間環境学部」に入学。「浜田山〜ず」結成。
1973年 ライブ活動も展開。
2001年 ホームページ「webあとりえ」を設営、メッセージの
1973年 配信開始。 カバー曲中心のアルバム『Time Traveler
1973年 Vol.1』リリース。
2002年 ピアノとボーカルのDUOアルバム『Time Traveler
1973年 Vol.2』リリース。9月からロンドンの「University of
1973年 Westminster」に留学。滞在中、NGO・OXFAMにて、
1973年 ボランティア活動をする。
2003年 3月ロンドンのSt.James.Churchにて、チャリティ
1973年 コンサート。9月帰国。マレーシア・フィリピンなどで
1973年 チャリティコンサート。
2004年 3月大学卒業。4月24日マキシシングル『Be yourself』
1973年 リリース。9月11日NYにてライブ。11月・12月と、ニュー
1973年 アルバムをリリース。

現在、私、また学校へ行っていて、国際関係というか平和とか国際協力についての勉強をしてるんですね。
それも私の場合は、音楽をやっているので、自分に関連のあるような活動に結びつけたいって、ずっと思ってます。だから、今後は音楽で日本のいろんな所へ行って、心が傷ついている人達や、
一緒に今の思いを共有したい人達の所で演奏していけたらいいなと。

TERA(以下:T):それでは、よろしくお願いいたします。

庄野真代(以下:S):よろしくお願いします。

T:まず、生まれと場所を教えてください。

S:生まれと場所。大阪市内で生まれました。

T:育った場所は?

S:大阪で生まれて大阪にハタチくらいまでいました。大阪も淀川の近くで、よく川べりで遊んでました。大阪駅から神戸の方に向かって一駅なので、それはまあ中心地といえば中心ですが、東京でいうところの下町風かな。古い家が沢山あって、すごく庶民的な所で育ちました。

T:小さい頃はどういう遊びを?

S:私は未熟児で生まれて、ずっと虚弱児で育っていたので、一人で静かに遊んでる事が多かったんですよね。10才くらいまでは。10才くらいから急に活発な子供になって、それこそ、朝「いってきまーす」って家を出たら、学校の帰りにあっちこち寄り道をして、暗くならなければ家にたどり着かないっていうくらい、遊び歩いてましたね。神社で遊ぶとか公園で遊ぶとか、昔は今よりも、何も道具がなくてもみんな遊ぶ知恵があって、何かこう、地面に絵を描いたり、石ころだけで遊ぶとか、それから空き地に入って行って何か集めて遊ぶとか、それこそ遊びの天才でした。

T:ご兄弟は何人ですか?

S:私は三姉妹の長女です。すぐ下の妹とは6才離れているので、姉妹が固まって遊ぶというよりかは割と兄弟の中でも、すごいリーダーのようなふりをして、学校で習ってきた事を、すぐに下のちっちゃい妹達に教えて、うさぎ飛びをやれとか、いろんな事を強要して楽しんでいるお姉ちゃんでした。

T:小学校の時に凝ってた事、部活とかは?

S:部活ね。小学校の時は、放送部に入ってたんですよ。それで学校でいつも放送室にいて、校内放送もそうだけども、先生方の行事のお手伝いというか、何ていうんだろう、プロデュースをしたりとか(笑)、それから、音楽がやっぱり好きだったので、ピアノ部に入って、みんなで楽しく、6年何組の歌とか、そういうのを作詞・作曲したり、今から考えると、そのあたりからスタートしたのかな?という気もするんですけど、すごく学校の中で動き回っている子供でしたね。でも5年生、6年生の時だけですけど。

T:中学校に入ってから変わった事はありましたか?


S:中学校に入ってのめり込んだ事が、生徒会活動なんですね。今の子供達には、そんな熱くなるのか判らないかも知れないけど、最初は整理委員とかになって、生徒会で色んな事をやるのが楽しいなって。というのはその頃は「いろんな古い校則とかを新しくしよう」みたいな運動があちこちの中学校で起きていた時で、私も生徒会の委員の一人として、「なんで男の子は長髪はいけないの」とか「女の子の持ち物はこうだとか、なんで決めなきゃいけないんだ」とか、いろいろ一件、一件、決められた事の見直しをやったんですね。それが楽しかった事を覚えてます。

T:それ以外の活動は?

S:放送部にも籍を置き、お昼の校内放送を担当したり、今思うとすごい活発だったと思うんですけど、コーラス部とかピアノ部にも入り、バレーボール部にも入り、どうやってマネジメントしてたんだろう?と自分で思うんですけど。
生徒会長もやりました。生徒会長は立候補する時に、どうせまた次期生徒会やるんだったら、会長やってみたらどうだろうかなんて思いついて、立候補の演説の時にも、一生懸命いろんなたとえを出して、この学校を良くしたいんだっていう、そういう訴えをしたら、その学校始まってから2回目の女性の会長立候補者だっていう珍しさもあって、当選したんですね。一生懸命、「よりよい生徒会を」っていうんで頑張ったんですけど、未熟な部分が多くて、自分としては「あれも出来なかった、これも出来なかった」っていう残念な気持ちで任期を終えた事を覚えてます。でもその時に、近隣の中学との交流があって、隣の中学校の生徒会長が、すごくカッコよかったの。その中学に行く度に、なんて素敵なんだろうと思ってて、その人がバンドをやっていて野球部のキャプテンなんですよね。それで何? 音楽をしている?という風に気づいて、すぐに私は行動に出ました。生徒会の会議じゃない日に、門の前で待ち伏せをしたんですね。それで会長が出てきたとこを、「あ、こんにちは、隣の中学のなんとかです!」っていって、「この間バンドをやってるって聞いたんですけど」(その時は大阪弁でしゃべってますけどね、)「練習見に行っていいですか」っていう風にいいました。そしたら「あ、ええよ」っていう感じで、それで練習見に行って、すごい楽しい面白いと思って、「高校生になったら、バンドのメンバーに入れてもらえますか」っていって、で、高校生になってからメンバーになったんですよ。それでまた今につながるんですね。

T:そのバンドはどういうジャンルの音楽を?

S:当時はフォーク・ソングです。アコースティック・ギターより一回り大きい、アコースティック・ベースがあって、そういうのを弾く人がいたり、何故か、ドラムも入ってたり。その時々によって集まるメンバーが違うので、編成は変わるんですけども。私に与えられた役目はタンバリンでした。そのカッコいい男の子は作詞・作曲もしてるんですけど、彼が作った曲を歌ったり。当時は関西の方のフォーク・ソング、素朴なものが多かったんですけど、赤い鳥とか、それからメッセージ・ソング的、まあアングラ・フォークともいわれましたけども、そういう反戦歌の名残りを引きずっているような、そんな歌を歌ったりとか。バンドの中でギターも習って、ギターも弾けるようになって、その頃からいろんなとこで活動していて、テレビとかラジオのオーディションものを片っ端から受けました。それでそうこうしているうちに、「翼をください」という歌が流行って、「これは女が歌ってるから、庄野、おまえ歌え」っていわれて歌い出したんですね。その頃からリード・ヴォーカルをだんだん取るようになりました。で、高校2年の終わりぐらいに、みんな受験勉強の為にバンドは続けられないという事で、一人抜け、二人抜け。最終的に私一人になってしまって。でも私はその時、一人でギターを弾きながら、プロのフォーク・バンドの前座で歌を歌うとか、ラジオのオーディションを、一人でも続けて受けるとかしてたんですけども、でもその頃いろんなチャレンジっていうのがあったから、今もやれているんだなと思うんですよ。

T:その時のバンド名は?


S:最初の頃のバンド名、忘れちゃったんですけど、だんだん減っていってから、「もんしろちょう」というバンド名になって、「もんしろちょう」は関西のアマチュア・フォーク界では少しだけ有名になりました。

T:個人、ソロになってからは本名で?

S:ええ。個人になってからは庄野真代でやってますけど、私もちゃんと進学をするつもりだったので、音楽を続けていて、プロになりたいと思った事は、一回もなかったんです。チャレンジする事が楽しくて、自分で一曲弾き語りをするのに、一生懸命ギターを練習して、家で歌も練習して、それが発表できるっていう事が嬉しかっただけなんですね。「この間、弾けなかったのに今日弾けた」とか。そんな感じで音楽を続けていて、3年生の時かな?東京からレコード会社の方が、家に来たんですよ。今でいうスカウトというんでしょうか。でもその時に私はプロになる気持ちが全然なかったので、断ったんですね。「いや、私は大学行って勉強するんで、音楽の方には進みませんので、どうもありがとうございます。声をかけていただいて」っていう風に。なんですが、大学落ちまして、浪人生活を決めたんです。ひとつ受かった大学かあったんだけど、何か落ちたところへのあこがれが捨てられなくて、絶対そこへ行くんだって思って、一年ぐらい浪人したっていいよな、じゃあ歌も続けようっていう事になり、勉強もしながらアルバイトもして、時々、歌のオーディションとか受けたりしてたんです。

T:結果的には?

S:そのうちのひとつ、ヤマハのヴォーカル・タレント・オーディションに合格して、東京と三重県にある「合歓音楽院」で勉強しながら、スターを夢見るというのもヘンですけど、プロになるというシステムの中に潜り込んだんですよね。ヤマハにいて、音楽の勉強とヴォーカルの指導を受けたり、他にもアレンジの勉強とか、いろんな事をやってはいたんですけど、でも何だか自分の中で消化しきれないものというのか、こういうのが私がやりたい事じゃなかったんじゃないかなというような、もやもやした気持ちになってきて、一旦この音楽をやろうという目的に向かって歩いてきたことを、一度立ち止まってみようと。その時は音楽は辞めようと思ったんですけど。「音楽をやめて、海外に留学しようかな?」とか、「自分ができるお店なんか作ろうかな?」とか、いろんなちっちゃな可能性のある夢の方に興味がいったんです。でも、すっぱり辞める前にする事があるだろうと思って。確かに「2年間ぐらい、一生懸命音楽を勉強したという証拠になるような事を作らないと、やめられないよなこれは」と思ったんですね。その証拠は「ヴォーカリストとしてコンテストとかオーディションに出て、ちゃんと評価をされたい」と思ったんです。その時は20才だったんですけど、色々コンクールがあって、シャンソン・コンクールとかカンツォーネ・コンクールとか。最初に「フォーク音楽祭」っていうの受けたんですよ。これはフォークだから自作自演がいいだろうという事で、昔から作ってあった曲の中で、形になりそうなのを選んで、やっぱりギターで弾くよりピアノで弾いた方がちょっと目立つよなと思い、ビアノはまあちっちゃい時からやってはいたんですけど、ビアノの弾き語りで『ジョーの肖像』という曲をエントリーしたんですよね。そしたら何故か関西四国決勝大会でグランプリを取るところまで残っていったんです。本選会が東京の日比谷野音であったんですけどそこまで行って。何一つ賞は取れなかったんですけど、でも、その時に日比谷に見に来ていたレコード会社の方が、後で連絡をくださって、レコード作りませんかという事になって。私は辞めようと思って受けたのに、そこが新しい出発点となったんですね。

T:オリジナル曲を作り始めたのは、いつぐらいからですか?


S:曲作り始めたのは。高校生の時に曲は作ってたんですけど、小学校の6年生ぐらいの時に作った曲、詞と曲が卒業文集に載っていたりするんですね。だから何かやってたんじゃないでしょうかね。高校生の時にずっと作って完成してないものとかも、ノートで置いてあったりするんですけど、今見ても、今考えてる事とそんな大きく違わないんですよね。だからびっくりします。ていうか、今が幼いのかそれとも人間の本質っていうのは高校生ぐらいの時から、いいたい事、伝えたい事はもしかしたら変わらないものなのかな?って、ちょっと思ったりするんですけど。

T:その頃、音楽的に目標にしていた人は?

S:高校生の時に。目標っていうんじゃなくて、キャロル・キングを聴いた時に「すごいな」って思ったんです。私は長女なので、上の兄弟から音楽的な影響を受けるという事がなかったので、周りにある情報だけなんですよね。だからテレビで歌謡曲を聴いたり、フォーク・ソング同好会に入ったら、その人達からフォーク・ソングを教わったりというのだけだったんですけども、ある時クラブの先輩から、これいいから聴いてごらんといわれたのがあって、それがキャロル・キングの『つづれおり』だったんですね。で『You've Got A Friend/君の友達』を聴いて、最初、初めて聴いた時に「なんだか、ふにゃふにゃ歌ってて、上手じゃないし、顔もよくないし」とか、いろんな事を思って。でも二回目聴いたら「だけどなんかこう、心にしみるよな」と思って、三回目聴いた時に思わず涙が出てきて。どういった涙かっていうと、歌っていうのはすごいじゃんと思いました。『君の友達』は、「もし君が落ち込んでたら教えてよ。すぐそばに行くから」って。そういうのをしゃべる言葉ではなくて、メロディーに乗せて普通にさらっと淡々と歌ってるだけなのに、人を励ましたり、人の心にじわっていうエネルギーを注ぎ込めたりできる、歌ってすごいなあって。だからそんな風に何かを伝えられる事が歌で出来るんだったら、私もそういう伝え手になりたいな?って思ったんですね。

T:では、いろんな予選を受けてる時の気持ちというのは、今の事のような気持ちで?

S:そうですね。もちろんオーディション、コンテストですから、賞をもらいたいんですけど、でもそういう結果ではなくて、その過程。つまり演奏している最中にどれだけの人がこちらに目線を向けてくれるか、それは目を向けるだけじゃなくて、心を向けてくれるかどうかが、私にとってすごいチャレンジでした。

T:デビューのきっかけになったスカウトの話を、詳細に聞かせていただきたいんですけど。


S:はい。「野音で君の歌を聞きました」と。で「とってもよかった。」で「アルバムを作りましょう」といわれたんですよね。ただそれだけ(笑)。「えっ、アルバムって12曲ですよね」って、「形になってるのは、12曲ぎりぎりしかないですけどいいですか?」っていって。全く私にとっては初めての事で、レコーディングっていうのを、どうやってやるのかも知らなかったし。ただそのフォークのサークルの中の先輩に「シモンズ」のお二人がいて彼女達から「プロっていうのはね、、」って、そういう話を聞いてた事はありました。ただレコーディング・スタジオに行く前にもアレンジ打ち合わせとかって、「アレンジ打ち合わせって、どうやってやるんだろう」、「何を伝えればいいんだろう」って。「どういう人が私のアルバム作りのために演奏してくれるんだろう?」って。何かクエスチョン・マークだらけでした。でも背伸びしてもしょうがないし、出来る事しか出来ないんだから、今私のことを「作りたい」と言ってくださっている方の言葉を信じて、精一杯そのまんまぶつけるしかないなって思ったんですね。

T:デビュー・アルバムのLP『アトリエ』は、内容的には、それまで作った楽曲がメインに?

S:そうですね。高校生ぐらいの時から作っていたもの、それから最近作ったものがメインです。高校生の時に作ってたというのは、多分に学生運動系の香りがしているので、戦争とか平和とか、そういうものがテーマに含まれるようなのがあって、考えてみれば現在とちっとも変わらないんですけど、「ラヴ&ピース」みたいな、そういう姿勢で作ったのが多いかと思います。

T:出来あがった時の感想は?実際、手に取ってみて?

S:昔の事なので、鮮明には覚えてませんけど。これがレコード屋さんに並ぶところを早く見てみたいって思いましたね。それから自分の力の足りなさは自分でよくわかっているので、「もっと上手に歌えたらよかったな」とか、「曲のまとまりが、未熟なまんま作品になってしまったんじゃないだろうか」とか、そんな不安とかがいっぱいあった事は確かですね。でも発売になって、こっそりいろんなレコード屋さんに行きました。私のが本当にあるんだろうか?と思って。いつもそれが心配で。レコード屋さんに行っては、自分のを探して、当時はジャンル分けでいくと、フォーク・ロックというところに入れられてたんですよ。今はないでしょうね、フォーク・ロック。そのうちに1年ぐらい経ってから「ニュー・ミュージック」という言葉が出てきて、それからは、ニュー・ミュージックのところに入れられるようになったんですけど。そういうジャンル分けしているところになければ、女性シンガーとかポップス・アーティストとか、そういうところを見て、自分のを見つけたら、パッとディスプレイしているところの上に重ねて置いたりとか(笑)、地道なプロモーションをしてました。

T:(笑)。そのデビューのアルバムが出たその年から、どういうスパンで活動をしていたんですか?

S:ラッキーな事に、デビューしてすぐにスケジュールを任せていたとこが、イベンターだったんですね。で、コンサート、催し物を沢山やっていたところだったんで、色んなところに出演できたんです。だからデビューしてからずっとコンサートは絶え間なくやってるという感じでした。誰かの前座に出るという形ですけどね。だから発表の場が多くてよかったなって。実地訓練というのか、それが出来たので、今でも私がライヴ志向だというのは、その辺にあると思いますね。自分でピアノの弾き語りとかギターの弾き語りをしていたこともあるし、その内にバンドを組んで。バック・バンドと当時はいいますけど、私の意識としては一緒にやってるメンバーだと。そういう考え方で、沢山、コンサートをしてました。

T:アルバムは、年に1枚とか?

S:どれぐらいの間隔で作ってたのかな?でも最初はコンスタントに作ってましたね。1年に1枚とか2枚とか作ってたかもしれないです。

T:それで、シングル・ヒットが。

S:『飛んでイスタンブール』ですね (笑)。『飛んでイスタンブール』は、5枚目のシングル・レコードなんですね。その頃レコード会社の人がヒットを狙って、プロの作家と共演しようっていう。そういう方針を立てられて、筒美京平さんに曲を書いてもらおうと。なので、それまでは自分で作った曲、もしくは同じジャンルの人の作品を歌っていたんですけど、5枚目のシングルの時に初めて、歌謡曲とのコラボレというか、そういう試みをしたんですね。これがとても上手くいったので、時代の流れも、ニューミュージックと歌謡曲が歩みあっていた時で。それまではニューミュージックとかフォークっていうとテレビに出ないとか、歌謡曲の歌手の方と同じようなイベントには出ないとか、何か線を引いてる部分があったんですけど。1978年、その頃すごく歩み寄ってて、フォーク系の人も歌謡曲番組に出るようになったり、年末のショー・レースものにも登場するようになったり、多分時代の流れのとってもいい時に、私がその曲に恵まれたんだと思います。

T:庄野さん御自身、『飛んでイスタンブール』という楽曲に関して、当時、自分が手がけていない曲という事の辺は全然?

S:抵抗感とかですか。

T:ええ。

S:ヤマハで歌の勉強してた時、シンガー・ソングライターとしてではなく、色んな楽曲を歌う、歌手の活動をしてたんですね。だから既成の歌を歌うとか、他の人が作った歌を歌うという事には、全く抵抗感がないんですよ。自分で作った歌も含めて、どの曲も大好きっていう。そういう風に歌を捉えているんですね。ただ、『飛んでイスタンブール』に関しては、デモ・テープの状態で作品を聴いた時に、なんか、ものすごーく世界が今までと違い過ぎて、「えっ、でも誰もこれを選ばないだろうな」と思ったんですよ。3曲ぐらい候補曲があったんです。さわやかなニューミュージック的なものもあったし、それからものすごくどろどろとしたものもあり、まあ『飛んでイスタンブール』もどろどろ系だったんですけど。一応、何曲かのデモ・テープを家にもって帰って、夜、もう一回聴いて、「これは違うよ」と思って寝たんですね。でもね、次の朝起きて、どの曲が一番寝起きの頭に印象的だったかというと、『飛んでイスタンブール』で、何かその響きが耳に残っていたんですね。次の日、会社に電話をかけて、「昨日ね、『飛んでイスタンブール』の曲は、それはないねって、私、言ったんだけど、やっぱり今日になるとどうも気になるんですよ」って。そしたらレコード会社の人も、そうだろうっていう事になって、それを、5枚目のシングルとして出す事に決めたんですね。

T:この楽曲がヒットした後の活動ですが、変わった事ありましたか?

S:大きく変わった事はないですけど、やっぱりコンサートの数が増えましたね。それから、まあ華やかなとこに出て行く機会も増えましたね。テレビとかね。でも、私の中の気持ちとしては、デビューした頃からそんなには変わってなくて、コンサート会場に来てくださった方と、時間と空間を共有して伝え合う作業というのが、とっても好きだなっていうだけで。『飛んでイスタンブール』がヒットした頃っていうのは、学園祭にそういうアーティストを呼ぶっていうのが、一番華やかになってた時で、色んな所に行きました。私は浪人中に音楽の方に進んじゃったので、大学ちゃんと行かなかったなあと思う気持ちが、学園祭でいろいろ周るうちにすごく満たされていったりしたような、そんな覚えがありますね。

T:なるほど。80年に入ってから、「世界一周」っていう。これはどういう心境で?

S:ふと思いついて(笑)。

T:(笑)。

S:「そうだ、旅人をしよう!」と思って、行ったんですけど。具体的なきっかけは、友達が「世界一周クーポンが30万円であるけど、この話っていいと思わない?」っていうから、「それいいねえ」って。それのクーポンのタイトルが『80日世界一周クーポン』て、「なんか響きもいいよね、それ乗る!」っていって始まったんですよ。で、80日世界一周なので、どう回るか計画を立てました。計画立て始めると同時に、レコード会社と所属の事務所に、「あの、旅行に行って旅人をしてくるんで、3ヶ月仕事を休んでいいでしょうか、80日だからだいたい3ヶ月」という事で。そしたら「いいんじゃない?」って、誰も反対しなかったんですね。計画を立てて、インド行って、アフリカのここへ行って、30万円でとか思っていたら、「いやあ、せっかく行くのにね、あちこち見ないですっ飛ばして80日で回るのはもったいないよ」って思い出して、せっかくここへ行くんだったら、例えばインドに行くんだったらネパールにも寄りたいしとか、色々と欲が出てきたし、一大決心をして出て行くのであれば、いろんな所をこの際だから見なきゃと思って、計画がどんどん膨らんで、半年にしようかなとか、1年にしようかな?とか、思いつつ。
そのひらめいた時から1年かけて、とりあえずは仕事の整理と旅行の計画を練ることとをしたんですね。出発する時には、1年半行ってくるというぐらいにスケジュールが膨らんでいて。結果、2年行って帰ってきました。でも出発するまでに歌をやっている私というのをきちんと整理しようと思った気持ちっていうのがすごく強くて、納得のいくアルバムを作りたい、ライヴ・レコードを出したい、それから出発前にヒット曲も出したいよなと思い、その1年すごく積極的に、私も動いたし、周りも協力してくれたので、青写真通り、全てがうまくいって、出発前に出したシングルが、自作のものだったんですけど、中ヒットくらいしている中、事務所の社長が「これからもっとヒットするかもしれないから出発を遅らせた方がいいんじゃないかな」っていう言葉も振り切り、出掛けました。でも、きっとその時考えてなかったんですけど、その1年半とか2年とか、今のポジション離れて戻ってきた時に、戻ってから今のような仕事ばできないかも知れないと、すごい覚悟をしていたんだなと思いますよ。今になれば。

T:で、帰ってきて、活動的には変化は、やっぱりありましたか?

S:まあ、ラッキーな事に帰ってきても、私の椅子はあったんですが (笑)。1枚アルバムをロサンジェルスで作ったりね。それから旅行記を、ロサンジェルスにいる間に書いたり、そういう事があるので、何か文字にする事とか、それから自分の体験を伝える事とか、そういった仕事も増えてきて、行く前は歌う事だけだったのが、いろんな事が出来るような状況になってきて、とっても良かったですね。

T:歌う事のお仕事以外で、やりたい事もいっぱい出てきて?


S:やれる可能性が出てきたという事でしょうかね。体験を生かして、環境の事とか、旅のものとか、女性が何か行動を起こす時みたいな、そんな目的のイベントの司会をやることになり、また別のジャンルからの司会もやる事になったりとか、テレビ番組の司会をやる事になったりとか。そうすると舞台もやる事になったりとか、色々じわじわと広がってきて。でも、それは、全て「歌手である私」というのがあって、出来る事なんですけどね。

T:その頃、一番、楽しかったお仕事は?

S:やっぱり歌う事が一番ですよ。それ以外は全部、私にとってはセカンドのものなので、サードのものかもしれないけど。だからいつもドキドキしてますね。ただドラマをやるとか、演劇・芝居系、その中のチームワークとか、その作り手の熱い思いとか、ものすごく勉強になりました。それは自分が勉強したものは今度、いつもいつも自分の音楽で生かそうと思っているので、そこから学ぶ事、多かったですね。

T:90年代に入ってから日本以外、アジアでの音楽活動が。その辺の話を聞かせてください。

S:いろいろ世界旅行をした時にも思ったんですけど、私はアジア人であると。それから日本という国もアジアの中のひとつの国なんだと。だからアジアの真ん中から、何か発信してみようと思って、私達は欧米を見習って、そこと一緒になりたいと思うのではなく、アジアの優れた音楽を感じる感性みたいなものを大切にしたいなっていう思いから、シンガポールのレコード会社何社かにデモ・テープを送ったんです。かなり完成品に近い形で日本で作ってあったんですけど、その内一社が、契約をしてくれるという事になって、それで向こうへ行って、最後のレコーディングの仕上げとかをやったんですけど。これもすごい勉強になりましたね。全く向こうで無名の新人としてデビューするわけです。あちこちのラジオ局にキャンペーンに行ったり、新聞社のインタビュー受けたり、テレビにも出たりしたんですけど、向こうのそういう業界の関係者が口をそろえていうのは、「あなたは日本から来てるアーティストなのに、どうしてこういうノーマルなやり方をするの?」って。「えっ、それってどういうことだろう?」と思ったら、「日本人は大金を持ってきて、こういうアーティストがいるので、香港でも売ってください、シンガポールでも売ってくださいっていう事で、すごいおまけをいっぱい持ってきて、そのスタッフを日本に招待して、そのアーティストのツアーに呼んだりとか、ものすごくお金を動かして音楽ビジネスをやっている中で、あなたはとってもビュアなやり方をしている」って言われたんですね。だからそういう、アプローチができた事を、すごく誇りに思ってます。

T:そのアルバムは、日本語で?

S:全部作った時は日本語なんですけども、出す事が決まってから、そのうちの4曲を英語に変えて歌い直してます。

T:レコーディングのやり方みたいなものは?

S:もう音を全部日本で固めていったので、シンガポールで録ったのは歌を入れた事と、あとミックスをするぐらいなんです。何も変わりは感じませんでしたね。日本と。

T:それを出したあとの音楽活動の流れは、どんな感じに?


S:アジアの何カ国かでキャンペーンをやった後は、そんなに大きな動きはしてないです。ただ自分にとってシンガポールで出したアルバムがあるっていうのは、何かこう、すごく大事にしたい部分で、なんか付加価値みたいな風に思ってますけど。

T:なるほど。それで、2000年に入って法政大学に入学という。これはどういう考えで?


S:いくつかのきっかけが重なっているんですけどね。1999年に、病気と事故で二回入院して、手術を受けたりしてたんですよ。その病室で、じーっと天井を見ながら「ああ、人の命っていつ何が急に起こるかわかんなくて、大切にしなきゃいけないんだよな」って。いつ何が起こるかわかんないから、やり残している事があったら、早くやっとかなきゃいけないなと思って、それでやり残した事、やってないリストを作ったんですね。ホームページ作る作るってやってないなとか、ファンクラブって私なかったなとか、隠し芸大会に出た事ないよなとか。やった事ない事をずっと書いてて、「大学、ちゃんと行ってないよな」って。それ以前にも通信の大学とか行ってたんですけど、最終的にちゃんと卒業まで出来てなくて、このやり残している事を、退院したらひとつひとつ、ちゃくちゃくと片付けていこうと思ったんですね。昔、若い頃に描いた夢、こんな事やりたい、こんな事できたらいいな、あんなとこ行きたいとか、そういうのは輪郭を書いた途中でやめちゃってるけれども、いつでも続きを書いて、中に色を塗ればいいんだ。退院して家に帰って新聞を見ていたら、「法政大学で人間環境学部」っていうのがその年に出来た。で、社会人入試がある。「そうかあ、これだな」って思って(笑)。環境に関しては、1980年の世界旅行の時に、いろんな事実を目の当たりにして、すごく心に大きな衝撃を受けていたんですね。その後、たったひとつしかない私達の地球、この星を私達の手で守らなきゃいけないし、ここに生まれてきた事に感謝して、自分の出来ることをやっていこうって思っていました。ただ思ってはいたし、実際に行動もしてたけども、私のやってることというのは、自分の体験談をしゃべる、それか自分が一般市民として持ってる理想像をしゃべる、ていう事でしかなかったんですね。だからもっと確かな情報、研究者達の意見、具体的な事例、色んなものを勉強したいと思ったの。それはもちろん独学でもできるかもしれないけど、学校で学べたら、専門家達が集まっているところだから、一石二鳥とか三鳥とか、そのぐらいいくんじゃないかと。それでキャンパス・ライフを楽しむことと、環境の勉強をする事、いろんな素晴らしい人との出会いも含めて、大学に入る事にしました。

T:実際に大学行かれて、どんな感じだったんですか?

S:楽しかったですよ。働く女子大生やってました。だから、試験の頃にぶつかる仕事なんかあると、ものすごくコントロールが大変なんですけども、仕事をしているからこそ、よけいに、きちんきちんと学校の提出物とかやらなきゃいけないものをいつやるか、何日の何時から何時までは、これをやるとか、そういう風にオーガナイズができて、一般の若い学生よりも非常にうまく、両方やってこれたんじゃないかなと思ってますね。大学生なんだから、サークル活動もしなきゃいけない、ていうので、サークルを作ったんです。自分で。それは、ボランティア論ていう講義の中で、プロジェクトを作るっていうのがあって、私は音楽をやってるので、コンサートをデリバリーする団体っていうのを立ち上げました。それに賛同してくれた学生達と一緒に、老人ホームだとか、障害者の施設とか、コンサートに出かけて行けない人の為に、こちらからコンサートをデリバリーしてあげようと。いろんなアーティスとも呼んで。そのサークル自体は、演奏者はいないんですけども、コンサートを進行していくのに必要なノウハウを勉強して、みんなで作り上げる、要するに企画、プロデュースをやるような。そういうサークルをやっていて、その中から優秀な人達も育ってきたし、私はこの春法政大学を卒業したんですけど、そのサークルの仲間達とはずっと付合っていきたい、そんなやつらです。

T:2001年に『浜田山〜ず』のアルバムが出ました。このバンドの結成のいきさつを教えてください。


S:2000年の春に大学生になってから、学業も続けて音楽もやれる一番いい形は、バンドだと思ったんですね。それで、たまたまそれまで一緒にやっていた一人が、家が近所だったんです。ベーシストなんですけど。彼が2000年のゴールデン・ウィークの頃に、「中野区から頼まれて、高校生、中学生の前で、ベースを弾いてお話しなきゃいけないんだ」って。「ベースだけだと音楽としてちょっと物足りないから、一緒に歌ってくれないかな」っていって、「あ、いいよ」って。じゃあウッドベースとヴォーカルだけで何が出来るっていいながら、彼の家にリハーサルしに行ったんですね。そしたらそこに「あ、この人ギターなんだ」っていう人が座っていて、その人も家が近所だったんです。それで、ベースとアコースティック・ギターとヴォーカル、3人だけでまずその中野区の中学生、高校生に向けての、その演奏会っていうのを終え、私達のサウンドってすごくいいよねって。終わってから食堂で話をしてて、「いやあすごい新鮮だよね、バンド組もうか」っていう事になったんですね。でもパーカッションが、それにプラスされたら、もっと応用範囲が広がるし、その音楽の世界がうんと色濃くなる。たまたま私が知ってたパーカッションの人、彼は近所じゃないんですけど、話したら入りたいっていうで参加知する事になり、近所の3人は浜田山という駅の近くに住んでいるので、バンド名は「浜田山〜ず」と決まったんですね。で、もう地名のバンドっていうのって、シカゴみたいな感じでつけました。

T:「浜田山〜ず」のアルバム名の『Time Traveler』シリーズっていうのは?

S:浜田山〜ずが主に演奏しているのは、カヴァー曲なんですね。時代を越えて人の心に残っている名曲がたくさんあるはずだと。だから、それを今私達の手で作品化していく。そういう思いで。みんなそれぞれ音楽歴が長いので、こんな歌好き、あんな歌やりたいっていうので持ち寄って、料理して、演奏しています。なのでその『Time Traveler』っていうのは、時を旅する私達の事です。

T:今度Vol.3が発売になるんですよね。で、副題が『ラビリンス』ですね。これは?

S:そうねえ、いいアルバム(笑)。「浜田山〜ず」サウンドというのが、すごく確立されてきた気がしますね、これでね。だから意見統一にもすごく時間がかかって、手こずった1枚ではあるんですけれども、『ラビリンス』ていうのは、迷宮なんですが、まあ人生ってそうだなと思うんですよ。絶対にわかりきったお城にいるわけじゃなくて、どんな世界がそのドアの外に広がっているのかわからない。ドアだと思ったところがドアじゃなかったり。すごく明るい日差しがさしている窓、でもその日差しっていうのは、何ていうのかな、作られたものかもしれないし、色んな惑わす要素があるんですね。だけども、そういうひとつひとつの迷い道を歩きながら、私達は過去から現在、現在から未来へ、生きているんですよっていうような。これはあとでつけた理由ですけど(笑)。というふうなイメージができるかと思います。

T:それが12月15日リリースですね。


S:はい。

T:その前の11月25日にも1枚、『V.S.O.P.1』というアルバムが、イエローパンサーという名で。


S:そう。ちょっと「浜田山〜ず」のみんなには内緒で、ちょっと浮気をしてみたというか。

T:これはどういうプロジェクトで?


S:一言でいうと、「なんちゃってジャズ」。なんかこうジャズって日本人の私達にとっては、耳に心地よいものだと思うんですよね。だからそういう心地いい時間に聴けたらいいなと思うようなアルバムを、楽しくさらっと作ってみたいなって、思ったのにけっこう力入ってるんですけどね (笑)。

T:こちらも名曲のカヴァーが中心ですか?


S:そうです。私の中では、「浜田山〜ず」は日本語で物を伝える音楽の世界なんです。でなくて英語でもっとさらっと伝えられたらいいなと思うのが、この『V.S.O.P.1』で一緒にやっているイエロー・パンサーっていうバンドなんですけど。で、ジャズのスタンダードからたくさんレコーディングして、こっそりオリジナル曲も英語の詞で入れたり、日本の曲も、英語でジャズ風にやってます。私達は日本人だから、本物のジャズは絶対できないし、マネをするのも嫌だとは思ってるんですね。だから日本人が日本人らしさでもってそれをやってみたという、そんなジャズのアルバムです。

T:イエロー・パンサーはどういういきさつで結成を?


S:この話のる人っていうか、やってくんない?って話しかけて、いいよ、いいよって集まった人です(笑)。

T:(笑)。このイエロー・パンサーは、バンドに?


S:常に行動してる訳じゃないですけど、これで第二弾、第三弾作っていく事になれば、イエロー・パンサーとしてやっていくと思います。一緒にやった鈴木雄大さんは、この後に「いやあ、これでライヴやろう」とかっていってたんですけど、全て英語の歌詞を覚えて歌うのに、すごく大きな問題がありそうで(笑)。恥ずかしいなと。私は自分のポリシーとして、歌詞はちゃんと覚えて自分のものにして、自分の言葉で歌わなきゃダメだと思っているタイプなんですね。それには重荷ですね。1〜2曲なら覚えられますが。

T:あと先日、ニューヨークヘ行かれたという、その話もちょっと。


S:はい。9月11日、セプテンバー・イレブンの日に、セプテンバー・コンサートという、音楽で平和へのメッセージを、みんなで認識し合おうというイベントがあってね。これを始めた人が、私の古い友人で、テロのあった翌年に第一回目をやって。その友人の考えてる事は、「音楽っていうのは本当に国境もなければ人と人の差別区別もしない、全ての人をつなげる要素があるものだ」と。だからその「9月11日という日だけでもいろんな人がいろんな所で音楽に接して、平和を共に感じる日にしたい」と。今年で3回目になるんですけど、その話はずっと聞いてたんです。でも私もいろいろ用があって、ニューヨークまで行けなかったんで、今年は春ぐらいにその友人にメールを出して、今年は行くから、私行ってもいい?という風に自分で志願しました。これに出演するアーティストはみんなボランティアで、ホームページでボランティア登録して、歌いたいですと。すごい大人数の申し込みがあったそうで。ニューヨークのマンハッタンだけでも10数カ所の公園で、その日一斉にコンサートをやって、私は鈴木雄大さんとKENJIROさんと3人で日本から行ったんですけど、セントラル・パークと国連の近くにある広場、2カ所回って、演奏してきました。その日は朝早くから追悼のための特別番組がテレビでずっと流れていて、グラウンド・ゼロの所ではセレモニーがあって、そこで肉親を失った人達が一人一人名前を交替で呼び上げていって、思わずぐっと涙につまるようなシーンもたくさんあったんだけれど、そういう事をみんな胸に抱いて、それで集まってきて、音楽を披露し合う事によって、何か大切なものについて考える、そういう時間が持てて、すごい行ってよかったですね。

T:そのコンサートの感想を聞かせてください。


S:ボランティアの人達で作っているコンサートなので、現場に行って、「えっ、ここでやるの?」っていうような、機材が整ってないとかいろんな事はあったんだけど、通りかかる人が立ち止まって、私なんかは日本語で歌ってるんですけど、聴いてくださって、リズムとったり、目線が合った時に、微笑みを返してくださったり。何かこう、大きな手応えとか感動とかいうよりは、ひとつひとつの小さな出会いみたいなのが、すごくよかったですね。演奏している前が小道になってるんですけど、そこにタクシーが入ってきて、車を横につけて、車を止めて、こうやって窓から顔出して、聴いてくれてるんですね。それが二台三台とか順番に止まって聴いてくれるとね、すごいうれしくなるし、キーボードを貸してくれた中国人のバンドの人とか、フルートだけ演奏する人とか、太鼓だけで演奏して歩く人とか、いろんなそういう人達のふれあいとかね。お年寄りの方が来て、ただベンチで座ってじっと聴いてくださって、私が前を通ると軽く片手をふっと上げてくれたりね。そういうとこがすごくひとつひとつ、しみじみうれしいなって。行ってよかったです。

T:楽曲的にはどういう楽曲を演奏されたんですか?


S:自分のオリジナルですけども、その中でも平和を願うような意味合いがあるものっていうことで選びました。鈴木雄大さんは自分の曲を英語の歌詞に変えて歌ったりとか、一緒に行ったKENJIROさんは、ビリー・ジョエルの大ファンなので、そっくりそのままビリー・ジョエルで歌って、お客さんが通りかかった人が、大喜びでした。そんなことが音楽でできるんですよね。

T:最後に、今後の活動に関して教えて下さい。


S:今の形でどんどん続けていくんですけど、現在、私、また学校へ行っていて、国際関係というか平和とか国際協力についての勉強をしてるんですね。それも私の場合は、音楽をやっているので、自分に関連のあるような活動に結びつけたいって、ずっと思ってます。だから、今後は音楽で日本のいろんな所へ行って、心が傷ついている人達や、一緒に今の思いを共有したい人達の所で演奏していけたらいいなと思っている事と、それから、そういう仲間をいっぱい増やして、同じような気持ちで音楽をやろうというね、そういう仲間を増やしたいなと思ってますね。今、国境なき医師団とかいろんな所へ行って、活躍してますけど、「国境なき楽団」というのを作っていきたいなと、、。

-end-


庄野真代さんの詳しいインフォメーションは、
「庄野真代/WEBあとりえ」(http://park16.wakwak.com/~mayo/) まで。


【Discography】

『庄野真代』




アルバム
「あとりえ」

1976.6.25/日本コロムビア




アルバム
「るなぱーく」

1976.12.25/日本コロムビア




アルバム
「ぱすてる 33 1/3」

1977.9.1/日本コロムビア




アルバム
「ルフラン」

1978.6.25/日本コロムビア




アルバム
「MASQUERADE」

1978.12.10/日本コロムビア




アルバム
「私旋律・バラード」

1979.10.25/日本コロムビア




アルバム
「ラスト・ショー」

1980.3.21/日本コロムビア




アルバム
「DIGITAL COSTUME」

1980.12.21/日本コロムビア




アルバム
「逢・愛・哀」

1982.3.21/日本コロムビア




アルバム
「メイド・イン・トーキョー」

1983.7.21/日本コロムビア




アルバム
「EXOTIC」

1983.11.21/日本コロムビア




アルバム
「紅ホテル」

1984.12.21/日本コロムビア




アルバム
「EID・UL=FITR」

1987.4.6/東芝EMI




アルバム
「CABIN36」

1991.11.1/SINGAPORE EMI




アルバム
「愛情〜Art of Loving〜」

1992.4.25/ファンハウス




アルバム
「庄野真代 single collection」

1995.6.21/日本コロムビア




アルバム
「The Very Best of MAYO SHONO」

1997.5.21/日本コロムビア




アルバム
「Time Traveler vol.1〜時代の夜汽車〜」

2001.12.21/S2Sレコード




アルバム
「Time Traveler vol.2〜ノスタルジアの樹〜」

2002.9.25/S2Sレコード








































































































































































































































































































【NEW ALBUM】

『庄野真代』


2004年11月25日リリース



「V.S.O.P.1」

unforgettable moment
feat. Yellow Panther
SSDI-9116/INCENSE RECORDS


2004年12月15日リリース



「Time Traveler vol.3 ラビリンス」

庄野真代 with 浜田山〜ず
MAYO-0001/OH! TASSHA LABEL