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momentと交流のある方々へのインタビュー
#30
丸山圭子
1972年、エレックレコードからデビュー以来、
sg「どうぞこのまま」の大ヒット、多岐に渡る
作詞作曲活動を経て、現在でも、精力的にさまざまな音楽活動を
続けている、丸山圭子さんへのロングインタビューです。
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momentに関連したミュージシャン、バンド等を紹介します。
#30
横内タケ
「TENSAW」のギタリスト、佐野元春、矢沢永吉等
さまざまなアーティストのサポート活動を経て、
現在、「TORII」のボーカルであり、ギタリストの横内タケさんの
ロングインタビューです。
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#30 CLIP:「月刊ピカソ/森 英治インタビュー1」 LIVE:05.06.19/「小田一葉」(神奈川/藤沢クラジャ) LIVE:05.06.20/「長田進」(東京/下北沢440) 連載コラム:TERA'S SOUNDTRACK REVIEW 「#30/小さな恋のメロディ」 散文詩:「#01/雨上がりの道」 KanaT |
short films |
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丸山圭子
1972年、エレックレコードからデビュー以来、sg「どうぞこのまま」の大ヒット、多岐に渡る作詞作曲活動を経て、
現在でも、精力的にさまざまな音楽活動を続けている、丸山圭子さんへのロングインタビューです。
(2005年5月11日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)
丸山圭子(Keiko Maruyama) 埼玉県浦和市生まれ。 1972年 ニッポン放送主催「VIVA唄の市」にオリジナル曲で出場し優勝。 1972年 LP「そっと私は」SG「心の中の」発表(エレック・レコード)。 1973年 ラジオ関東「キョーリンヘルスフォーク・圭子のソネット」(〜75’7月)開始。 1972年 TBS主催東京音楽祭、国内大会に出場し入賞。 1972年 「ピピ&コット」(バンド)結成。SG「愛をつかまえよう」発表。 1974年 ニッポン放送をはじめ、TVK・ TVの司会などレギュラーを週4〜5本こなす。 1976年 キングレコードに移籍。SG「ひとり寝のララバイ」。LP「黄昏めもりぃ」を発表。 1972年 SG「どうぞこのまま」を発表。新宿厚生年金小ホールでリサイタルを初め て行う。 1972年 「どうぞこのまま」爆発的ヒット。日本有線放送大賞新人賞を受賞。 1977年 SG「あなたにつつまれて」LP「春しぐれ」発表。 エッセイ集「花望桜」発表。 1972年 全国コンサートツアー。 LP「マイ・ポイント・オブ・ビュー」発表。 1978年 アメリカにてレコーディング。LP「裸足で誘って」発表。 1972年 学園祭で“学園祭の女王”と呼ばれる。 1972年 LP「KEIKO」ベストアルバム発表。 1979年 約一年間休養し、作詞・作曲活動に励む。山口百恵・岩崎宏美・桜田淳子らに作品提供。 1980年 ビクターレコードに移籍。LP「やさしさの香り」LP「MISS LONELY」 1972年 SG「MISS LONELY」発表。 1981年 LP「MORE・愛」SG「愛はメッセージ」発表。 1983年 トーラスレコードに移籍。TBS系ドラマ「誰かが私を愛してる」挿入歌・同番組音楽担当。 1972年 LP「LADY GOOD」発表。SG「ラ・ムール」発表。 1972年 平岩弓枝シリーズの主題歌になる。 1984年 浜田省吾作詞・作曲「片思い」発表。この後、子供の成長と共に音楽活動は休止する。 1996年 本格的に活動再開。作詞メインに作詞活動に力を入れる。 1997年 シンガーソングライター谷村有美の作詞のアドバイザーとしてアルバム制作を始める。 1972年 谷村有美シングル(B面)「STAY WITH ME」を本人との共同作業で、 1972年 初の試みとして発表。 1972年 アルバム「DAY BREAK」も発表。SHOGUN・松下里美らに作詞を提供。 1998年 南青山「MANDALA」にてワンマンライブ“詩語り”を行う。 1972年 九段会館にて海援隊 生田敬太郎・山崎ハコらと“エリックアンソロジー” コンサートに出演。 1999年 “MAMA’S MUSIC PIE”LIVE(太田裕美・須藤薫・水越けいこ・丸山圭子)。 1972年 青森県白神の森・栃木県水上山地にて水越けいことジョイントライブを行う。 2000年 ヒューマンミュージックカレッジ講師就任 1972年 FFA主催 フォークデイズ「マザーズデイコンサート」出演(共演:水越けいこ・庄野真代) 2001年 マキシシングル「ただひとりのあなたへ」(4曲入り)発表。 1972年 マザーズコンサート・秋田公演(共演:水越けいこ・庄野真代) 2002年 群馬太調町マザーズコンサート(共演:水越けいこ・庄野真代) 1972年 山梨・そよ風コンサート(共演:水越けいこ・庄野真代)新宿音楽祭出演 1972年 (共演:尾崎亜美・南佳孝・西城秀樹) 2003年 大野真澄・鈴木康博・丸山圭子ディナーショー 2004年 山形県鶴岡市・第19回「雪の降るまちを」鶴岡冬まつり/シャイニングスノーコンサート出演 1972年 Life Goes Onに賛同・記者会見。テーマ曲「風に吹かれて」レコーディング参加 |
丸山圭子インタビュー |
TERA(以下:T):では宜しくお願いします!
丸山圭子(以下:M):はい。
T:よろしくお願いします。
M:よろしくお願いします。
T:まずは、生まれた場所をお伺いできますか?
M:埼玉県の今はさいたま市になりましたけど、浦和です。
T:ご兄弟は?
M:兄弟は姉が1人います。
T:女の子2人で。じゃあ、割と家の中で遊んだりとか?
M:そうですね。浦和って今では新興住宅地で、今はアリーナとかができて、さいたま市はすごくなっちゃったんですけど、あのころはのどかで、タモリのボキャブラ天国で、「うらわ〜うらわ〜うらうらわ〜♪」っていうの知ってます? 浦和、浦和って替え歌で、浦和は7つの駅があるっていうので、今7つも駅があるんだっていうのを、私は知ったんです。そのぐらい、私が子供のころは3つぐらいしか駅がなくて、しかも南浦和という駅がうちのそばにできるというころに育ったんですね。ものすごくのどかで、とにかく自然に恵まれてて、ほんと、畑や田んぼや、牧場もあったんですよ。だから、えーっとかみんな言うんですけどね、埼玉で牧場ですかみたいな。そのぐらい本当にまだ人口も少なくて。だから、自然には恵まれてたなと思いますね。町は町でしたけど、ちょっと足を伸ばすと、すぐに自然な遊べる場所がいっぱいあったっていう感じです。
T:小学校入った時は、何か習い事とか、遊びとかって?
M:一応、二つ年上に姉がいて、2人一緒にピアノを、私は3歳で姉は5歳から始まりました。で、小学校のときは、結構何でもやりたがりで、それで英語を習ったり、高学年になったら合唱団に入ったり、浦和児童合唱団というのがありまして、そこにも2年ほどいました。
T:ピアノはずっと続けてたんですか?
M:ピアノは中学までやってました。
T:小学校の上級生あたりになるとかなりうまく?
M:そうですね。サボってばっかりいたので、うちの姉はすごくまじめ人間で、結局そのままクラシックをやったんですけど、私は全然姉の練習してるピアノを聞き取っては譜面を見ずに弾くというので、いつも先生がまた見てないとかって、細かいところが間違ってるとか言って、そんなんで全然練習をいかに手を抜くかというのばっかり考えてて、そういうだめでしたね、ほんとに。やっぱりいろんなことに興味があったっていう感じが覚えてますけど、絵も習ってたかな、なんかちょっと母親がやってみたらということは全部やってたみたいな感じで、楽しい小学校生活を送ってまして。で、覚えてるんですけど、小学校の3年生のときにビートルズが出てきたんですね。で、そのときにうちは割と固いうちで、クラシック系みたいな、そういうのばっか聞いてて、で、本当に年末は第九か何か毎年聴いてました。そういうので終わるような、そういう家族で。ビートルズには縁がなかったんですけど、ちょっと親戚のお姉さんでビートルズが好きだった人がいて、そういう影響でちょっとビートルズを聞いたら、やっぱりすごい衝撃だったんで。でも、うちではちょっとそんな家だったんでね、聞いちゃいけないっていう感じで、たまに友達の家とかで聞かせてもらったぐらいで。ビートルズにはまったのは、でもね、映画だったんですよ。映画は見に行っても怒られなかったので、それこそ昔三本立てとか、そういうのがいっぱいあって、それで本当に浦和に1軒しかなかった映画館にお弁当を持って朝一から行って、それでとにかくビートルズのあのころのヒットしたね、「ヘルプ」とか、「ヤァ!ヤァ!ヤァ!」とか、全部とにかく軒並み3本立てとかで見ましたね。あとね、映画で好きだったのは、そのころミュージカルが全盛期だったので、やっぱり「サウンドオブミュージック」とか、「ウエストサイド物語」とか、映画も3本立てで見てる分、すごいいっぱい見まして、ほんとに。あと、たまにはいいところで見てましたけど、ほんとにすごい凝っちゃって、お弁当持ちで毎週毎週行ってたみたいな、そういう感じでしたね。音楽、ポピュラー音楽は、どっちかというと映画から入ってるかもしれないですね。
T:中学生入ると、何か変わったことありました?
M:中学に入ったころが、フォークソングが世の中に出てきたときで、ジョーンバエズから始まって、やっぱり日本でしたら五つの赤い風船とか、とにかくギターを持って、ベッツィーアンドクリスも歌いました。知ってますか?
T:知ってます。
M:よかった。(笑)ね、スリーフィンガーみたいな。そういうのや何かをコピーしてたような時代ですね。
T:じゃあ、ギターを始めたということですか?
M:ギターも、中学のときに触り出したぐらいでしたけど、友達がよくやってたので、ちょっと教えてもらったりもしまして、でもどちらかというと中学校はテニスをやってましたんで、音楽というよりはスポーツに走ってました。そうですね。で、好きで時々歌を歌ってたというぐらいで、高校に入ってから、そういうアコースティックなバンドを始めたんですね。
T:その辺の話を聞かせてください。
M:それで、ギターをちょっと少しおもしろくなって、いじり出して、ある日、すごく欲しくなって、それこそ親に黙って丸井までいきまして、丸井で買ったのを覚えてる。それでほんとに勝手にローンを組んで、どうやったのかわからないですけど、高校生なのにね、持って帰ったんですよ。そうしたら母親が驚いて、どうしたのみたいな感じで。でも、とにかくそれぐらいやりたくて、で、そこから始めたんですね。だから、高校のときはギター弾いて歌う、女性3人のバンドをやってたんですけど、でもなんか固い学校で、そういうフォークソングっていうのが反戦とか、やっぱりそういうイメージが昔あったんで、何をやり出すんですかみたいな感じで、職員室に呼ばれて。こういう歌を歌うんだとか言ってね、「竹田の子守唄」とか、そういうのを一生懸命歌って説得したのを覚えてますけどね。(笑)
T:バンド名とかってあったんですか?
M:サンデースプリングってつまんないの(笑)ほんとに、今考えると。もうちょっと考えろよっていう名前ですよね。
T:割とカバーがメインで?
M:カバーばっかりで、で、そのときに、でも少しはつくってみようかみたいなことをやり出して、でも全然真剣じゃないっていうかね、だから何をつくったのか今でも覚えてないですけど。遊びっていう感じでしたよね。そのバンドで、でもちょっとコンテスト受けてみようかみたいな感じで。それで、ニッポン放送のオールナイトニッポンがやってる「ビバ唄の市」っていうのに、初めて受けたんですね。
T:それは、結果的にはどんな感じだったんですか?
M:バンドは惨敗で全然だめで、それが高校の3年近くなってたんですけど、でもう一度受けてみたらいかがですかっていう葉書が来て、そのときにちょっと受験に悩んでて、もうあんまり目標もなく学校行くのなんて嫌だなと思って、で、結構胃が痛い毎日を送っていたので。それでじゃあ、ちょっとこれを試しでやってみようっていう感じで、そのときはバンドはもう受験で解散してたので、一人でやってみたんですね。そのとき最初に歌ったのが、「ただ愛に生きるだけ」っていうフランス語の歌だったんですけど、そのころ結構ヒットしてて、英語だと目立たないだろうからと思ってフランス語の歌を歌って。で、目立ったんですけど、でもとりあえず「今の時代はオリジナルっていうのがいいんだよ」って、アドバイスしてくれた人がいて、で、最初のオーディションやった日から1週間間があって、その間に初めてものすごく真剣に曲をつくってみたんですね。それが後々、それで合格したっていうかオーディションに合格したんですけど、「しまふくろうの森」っていう曲で、北海道に実在した羽を伸ばすと2メートルぐらいあるしまふくろうっていって、アイヌの狩りの神様として祭られていた、そのフクロウの絶滅していく話っていうのが童話にあったんです。で、それを読んでちょっとエコロジーっていうんですか?そういう感じでおもしろいなと思って。で、題材をちょっと、やっぱり少し変わったものにしたかったんですね、きっとね。で、それで、その最初の予選から1週間の間に、授業中だの何だのにずっとはまってつくってまして、で、でき上がって、それがたまたま多分受けたっていうんですかね。で、最初、だから、その次が埼玉会館というところでありまして、その日、すごい偶然ですが雪が降ってまして、私は38度ぐらいの高熱でうんうんいいながら行ったんですけど。会場に学校からの友達がたくさん来てくれて、もうすごい人数いたんですね。それで応援団のようにいてくれたので、会場票もあったので、私は会場票で受かったんだと思ってたんですけど。その後のコンテストのときに、とても曲を褒められて、そうか曲で受かったのかなみたいな、そこまでは全然気がつかなくて。でも、ほんとにいろいろそういうおもしろい偶然があったりなんかして。で、一応神田共立講堂というところで、最後の全国大会というのがあって、そこで入賞したんですね。それが本当にこの世界というか、プロになるきっかけだったので。でも、本当にそんな歌を歌って、こういう仕事をするとか、まして曲をつくる人になるなんということは、まったく考えてなかったですね。
T:受験のほうは?
M:受験は全然蹴飛ばしてました。というより、よく模擬テストとかあるじゃないですか。もう真っ青で、なんじゃこりゃみたいな、散々な結果で、これはやるなら本腰入れなきゃだめだし、もしやめるなら今だぞみたいな、そういう感じで。その入賞ということをきっかけに、レコード会社が2社スカウトが来て。1社はソニーで、片方がエレックレコードっていうね、幻のすごいレコード会社があったんですけど、そんなんで、普通だったらCBSソニーを選びそうなものをね、そこがちょっとあの時代を多分象徴してるんだと思うんですけど、やっぱりソニーはあのころ郷ひろみさんとか、ばりばりアイドルの時代ですよね。天地真理さんとか、そういう人が出たっていう印象がインプットされてたんで、アイドルはなみたいな感じで。エレックのほうは、拓郎さんがもう出てたんです。で、やっぱりシンガーソングライターの走りで、私もそんなんでみんなに曲をつくりながら歌っていったほうがいいよって、そういうふうに言われて、あ、そうかって感じでノリノリになって。で、アーティスト系の形のところに入りたいと思って。ところが、入ってびっくりっていう感じで。拓郎さんとか、泉谷もいましたし、そのころ古井戸とか、ケメ君がいたんですよ。で、大体それでケメ君と組んで一緒に全国回されたっていう感じで。とにかくでも入ってすぐにアルバムつくりましょうみたいな、すごいイージーな感じで、曲なんかなかったわけですよ。それで、でもなんか調子に乗っちゃって、すごく楽しくなっちゃって、どんどんつくって、やっと10曲みたいな形のアルバムをつくったんですけどね。
T:それは、ソロ名義ですよね。
M:そうです。それで、アレンジは沢田駿吾さんっていって、そのころジャズのほうの大御所で、ギタリストをやってた人で、その人がアレンジしてくれて、でも何だかアレンジしてる間に、ボサノバみたいな進行の曲が多いねとか言われて、そうですかみたいな。全然わからないですよね、私は。だから、そういうジャズっぽい感じっていうのもあるよねとかって、すごいのってくれて、今でも音もありますけどね、すごいカッコいい感じで弾いてくれて。
T:作曲は主にピアノで?
M:そうですね。ピアノとか。でも、ギターも弾いてたんですよ、そのころね。だから、高校生のときに拙いギターをそのまま、そのギターを弾いてて。ケメ君とかと回ったときは、ギターを弾いて歌ってたんですよ。バックに逆にピアノの人がついてっていう感じで。今なんか、もうほんとにビデオなんかなくてよかったなっていう感じぐらい、もうすっごい恥ずかしい感じのステージをやってたと思います。だから、声もトレーニングしてないから出ないし、歌は歌好きでしたけど、でもアマチュアもいいところだったし、ギターももちろん下手だし、何かもう自分ですごい調子に乗り過ぎたなっていうのを、ステージやりながら一番感じて。
T:そのファーストアルバムのタイトルは?
M:「そっと私は」っていうやつで、今、フォーライフか何かで出てます。
T:その中の楽曲は、オリジナルで。
M:そうですね。でもね、ケメ君が詩を書いてくれたりとか、何人かの人が手伝ってくれた曲もありましたけど。
T:初めてレコードが世に出て、何かその時の印象ってありました?
M:そうですね。だから、そのときは、プロモーションライブみたいな形で回ったっていうのが強烈で、売り上げがどうのとか、そういうことよりも、もう自分がライブやることで手一杯で、やっぱり私は何をやり出しちゃったんだろうぐらい、これでいいのかなっていうね、毎回反省で。で、やっぱりそのころエレックレコードって、すばらしいスタッフの人が多くて、私に最初についたマネジャーが、今のアップフロントの社長なんですよ。山崎さんっておっしゃるんですけど、その人がとにかく業界に入って一番最初についたのが私だったっていう感じで。周りがすごく厳しかったんですね。でも、例えば同じ、いろいろみんなでわっと出るような、そのころお祭りのようなコンサートが多かったじゃないですか。そのときに、泉谷さんとかいろんな人と出てて、やっぱりいろいろ見た感じの感想で、打ち上げなんかのときに、かなり厳しく、おまえなんかやめちまえとか、平気で言われましたから。あと、詞を書いていっても、これは詞じゃないよ、日記だよとかね。それから、メロディーも、メロディーとか歌とかに関しても、ぼろけちょで、お客さんをつかめないアーティストは来なくていいみたいなぐらいな、そういうのりでしたよね。大体、お客さんも厳しくて、私はやられなかったけど、ケメ君なんかはね、ブーイングされて帰れ、帰れって言われたり。だから、なんか体育会系じゃないけど、鍛えられたっていう。すごく鍛えられた思いがありますね。でも、今にして思えば、スタッフは山崎さんを初め、ほんとうにこの業界にすごくみんな散って偉くなってる人ばっかりですけど、やっぱり全員が同じ釜の飯を食べながら、すごくお互いに厳しいことを言い合いながら、刺激し合いながら、でも何としてでも生き残っていくぞみたいな、そういうエレック魂ってよくみんなで言ってますけど、はい上がっていく力みたいな、そういうのはそこでかなりやられたと思います、私は。だからやられて強くなったと思いますね。
T:そのファーストアルバムが出て、ライブの流れがありますよね。その後どういう流れになったんですか?
M:仕事はね、結構恵まれてて、3年半ぐらいラジオ関東って、今のラジオニッポンで10分帯びの、月曜日から金曜日までの番組を持ってたんです。で、「キョーリンヘルスフォーク・圭子のソネット」っていって、私の1代前が森山良子さんで、本当に自分でしゃべって自分の曲をかけるっていう、それを月金の帯びでやってたんで、とにかく曲がいっぱい要るっていうやつで。それで、エレックレコードが恵まれてたのは、レコーディングスタジオもあったし、ラジオのスタジオもあったし、とにかくスタジオに恵まれてたので、自由に曲ができるとレコーディングができたんですよ。それで、例えば会社に入っていくじゃないですか。そうすると、スタジオ辺にうろうろしてるのが、charとかね。それから、もう本当にすごいミュージシャンばっかりで、charなんか今でも覚えてますけど、いつでもギターを抱えてたんですよ。だから、ご飯を食べるとき以外はずっとギターを弾いてましたね。それで、何か弾くものない、何か弾くものないとか言いながら。ちょっとスタジオで入れてくれる?って言ったら、いいよ、いいよって、そういう感じで。だから、周りにいた人がすごいプレイヤーばっかりいっぱいいて、それこそその後名前が出てきた人ばっかりで。そういう人たちにちょっと頼むって言うと、わーっと来てやってくれるっていう、本当にそういう感じだったんですよ。あと、アーティストルームっていうのがあったのがよく覚えてるんですけど、「ラブイズオーバー」っていうのでレコ大とった伊藤薫さんっていうのもエレックだったんですけど、彼なんかとよく、みんながわーっとたむろしてて、新曲ができると、みんな持ってくるんですよ。それでわーっと歌って、喧々囂々いろいろ言い合って、いいんじゃないのとか言いながら。だから、すごいそういう場があったということが、今にして思うとすごいよなと思って。その刺激と、鍛えられていくお互いに学習していくっていうものがあったんで、多分続けられてるんじゃないかっていう、基礎的なことに関して、エレックはもう、私は感謝してますけどね、すごく。
T:2枚目は?
M:2枚目が、「どうぞこのまま」の入ってる「黄昏めもりぃ」というものなんです。結局、その「キョウリンヘルスフォーク」を3年半やってて、その間にちょこっとやっぱり歌をちゃんとしなきゃというんで、ちょこっとというか、グループに入ったんですね。一つのコーラスグループ、ピピアンドコットといいまして、そこに実は昔ケメ君がいて、ソロになるんで抜けちゃったんですね。そこに私が入って、一応、ピピ&コットと海援隊と、武田さんたちといつも競い合わせられて、ライバル同士とか言われて、で、武田さんが「母に捧げるバラード」でスパートしちゃったんですよ。それで、えーって感じで、ピピ&コットは取り残されてしまって。で、まあでもアルバムというか、シングルとかは出してたんですけど。そんなんで、その間はいろんな仕事をして、本当にしゃべりの仕事から、「銀座NOW」っていう番組があったんですけど、それのレギュラー司会もやってたし。
T:関根さんとか出てた番組ですよね。
M:そうそう。関根さんが、初めて小堺さんとかと出たときに司会やってましたよ。あと、テレビ神奈川の「ヤングインパルス」っていうのがあったんですけど、それも司会やってたし。だから、人気番組の司会を、たまたまピピ&コットというバンドでやらせてもらって。レギュラー5本あったの覚えてますよ。だから結局、今思うと周りのスタッフがすごかったですね。その山崎さんっていう人の後が、今の武田さんの事務所の社長になってる黒木さんっていう人で、その人もまたすごくいっぱい仕事を入れる人だったので。その人が2人目のマネジャーなんですよ。だから、みんなどんどん入れてくれるんで、あり得ないですよね、今だったら。レギュラー5本も、しかも売れてないバンドなのに。(笑)なんだそれって。銀座NOWはせんださんとやってたんですよ、せんだみつおさんと。だから、なんかね、おもしろかったですけどね。そんなんで、その間はそういうことをやっていながら、ボイストレーニングに通ったりとか、まず自分の実力をね、つけていかなきゃいけないっていうんで、すごく歌に関しては一生懸命でしたね。それで、まあ、ほどほど自分なりにやっぱりここまでなら大丈夫かなって思うぐらいまで、いろいろやってるうちに歌えるようになって、曲も「圭子のソネット」をやってたので、120曲ぐらいたまって、3年半の間に。で、もうチョイスした10曲でとりあえず、またもう一回やろうということになって、エレックがつぶれてしまったので、その後にミュージカルステーションというところの、今、会長さんになった金子さんという人に相談に行って、金子さんがキングレコードとかを紹介してくれて、それが2枚目なんですね。
T:3年半ぐらいですか?
M:3年半ぐらいですね。だから、120曲中の10曲だったので、打率はよかったっていう感じで。しかも番組で下調べができてて、人気のあった曲をチョイスして。ところが、「どうぞこのまま」っていう曲は、そのレコーディング中にできたんですよ。それで、全然最初に選んであった曲じゃなくて。で、ボサノバだったんで、みんながちょっと今回の雰囲気とは違うんじゃないのみたいな。どっちかというと、ギターでつくった曲なんかはフォークっぽかったし、あとキーボード系の曲は、すごいユーミンにも近いようなポップスだったし、結構いろんな曲を書くんですね。それで、曲をつくるときに自分が楽しんじゃうところがあって、ボーカルというよりは曲を優先してしまうというのがあって、本当にいろんな曲をつくっちゃったので。ボサノバがそこに登場したら、ちょっとディレクターやプロデューサーの人たちがへーみたいな。これでボサノバが入ると、もう本当に結構ジャンルがばらばらじゃないって言われて、でも私はどうしても入れたいって言って。ただ、つくってみたものの難しい歌でね。レコーディングにはすごい苦労して。ボーカル少しは前よりはましになったかなと思ったんですけど、ボサノバはやっぱり大変だったんですよね。テイク30ぐらいまでだったですかね。なんかね、みんなきょうはやめようみたいに、もう夜中になっちゃってて、ブースのところで落ち込んで、みんなが寝そうになってたんですよ。それで私が、もうそうか、じゃああと1回ぐらいうたって諦めよう、今日はと思って、すごいすーっと力が抜けたんですね。で、それでふっと歌ったら、すごいよかったらしいんですよ。で、なんかブースでねかかってた人たちがみんなはっと顔を上げて、これだよ、これだよってテイクが売れた歌なんですね。
T:今残ってる音源がそれ?
M:そうなんですよ。だから、やっぱり不思議ですよね、それって。なんかよく1日に1回やつが天から降ってくるみたいなことを言う人がいるけど、不思議なオーラを持った何かが、自分の体に乗り移ったような、そういう感じだったんですかね。
T:この楽曲は、シングルとしてではなくて、アルバムの中の一曲だったんですか?
M:そうそう。一番最初に「黄昏めもりぃ」っていうアルバムから出た曲は、「ひとり寝のララバイ」っていう曲があって、そっちが先に出てて。それでアルバムを出したら、もう出したり、プロモーションでまいたりしてる段階から、「どうぞこのまま」が評判になりだしちゃってて、それで夏、8月だったかな、最初に出したのが3月ぐらいで、もうすぐに追いかけて8月とかに臨発で、おっかけでシングルにしたんですけど。私が覚えてるのは、いわゆる今は店頭で歌うの何ていうんでしたっけ。インストアライブっていうでしょう、昔なんて、全然そういうのじゃなく(笑)店頭販売みたいな感じで。それで旗がひらめいちゃってね。
T:その前でそのまま歌うっていう感じですよね?
M:そうそう。で、ほんとにね、演歌の方々と一緒にやったりなんかしたんですけど、でも、それでとにかく歌ったときに、シングルとアルバムを積んであるじゃないですか、販売しようとして。それが、例えばシングルが30枚ぐらいでアルバムが10枚とか置いてあると、全部売れちゃうんですよ。私、その前にピピアンドコートで武蔵小山商店街とかそういうところで、自分が歌った、歌った後に今度はみんなでよろしくお願いしますとか言いながら、販売員に変身して、エレックってそういうところがあったんで、ほんとにドーナツ盤を持ってですね、みんなよろしく、よろしくとか言って。そうすると本当に義理でね、1人か2人、そこを通り掛かった人がじゃあ買ってくかみたいな、そのぐらいののりで。売れたよとかって大騒ぎしてたんで、そういう経験ばっかりだったんで、とにかくシングルのみならず、アルバムっていうのは昔高いんですよね。当時でも何千円てしたでしょう。アルバムまでが出ていっちゃうっていうね、もうすごいびっくりして。それを、北海道から九州まで回ったんですけど、各所でそうだったんですよ。だから、あり得ないっていうね。一体何なのこれはっていう。それを目の前で見てたんで、自分で、どうしてっていうことは、いまだに自分の曲ですけど、ほんとうになぜヒットしたんだろうっていうのは難しいところでわからないですけどね。ただ、多分、何ていうか、一番私らしい曲であることは確かで、私自身の中から出てくる自然なメッセージみたいなものが、一番伝わる曲であることはいまだに変わらないので。「どうぞこのまま」っていう曲だけをテレビとかでもいろいろ歌ったりして、最後に歌ったりすると、そこで一つのその世界っていうのが強烈にできちゃうっていう歌であることは確かで、だから、やっぱりそれはきっと自分が何がなんでもこの曲を入れてほしいと思ったっていう、そこから始まってるんだろうと思うんですね、エネルギーが。
T:それで、そのシングルがヒットしました。状況的には、その後どういう感じになってるんですか?
M:いや、もうね全然変わっちゃうもんですよね。だから、本当にそのころ何度も引っ越したんですけどね。最初は六畳一間みたいなところにひとり暮らししてるところが、本当に原宿とかそういうところに引っ越せて、あとね覚えてるのは、やっぱりちょっと父が高校のときになくなってて、母が一人だったものですから、もしそういう成功できたら、やっぱり大分心配かけたので、親孝行したいなと思って、アメリカに旅行に連れてって。で、私と母と一台ずつ車を買ったんです。そういう、ちょっとアメリカンドリームのようなことができたんですけど。だから、ヒットソングって、やっぱりそのころは特にすごかったですよね。銀行行くとね、奥から銀行員の人が出てきて、どうぞどうぞとかってね。私、そのころジーパン履いて、いまだにそうですけど、ジーパンはいてTシャツきてみたいな、ずっとそういう格好ばっかりだったので、母親に怒られましたけどね。銀行行くときはちゃんとスーツぐらい着ていきなさいって。ほんと、奥へ奥へね。そのうち料亭みたいなところで接待されたりして。まだ、20か、21ぐらいですかね。とんでもなくまごまごしましたね。(笑)なんなんだろう、これはってう感じで。あとはね、プロモーションいろいろ回ったときに、結構人間もようっていうか、割と冷静というか、クールなんですよね。すごい大げさにリアクションするディレクターとかプロデューサーとか、昔よくいて、何ていうかな、おお、圭子ちゃんとか何とか言いながら、肩組んじゃったりして、ううんみたいな人っていたんです。それで、いかにも自分が、頑張ったからどうぞ、売れたよねとかって言っちゃうようなおじさんがいたんだけど。そういう人ほど最初にご挨拶に行ったときは、よろしくお願いしますとか言うと、手渡したレコードをぽんと投げて、全然聞いてくれないじゃないと思った。逆ですよね。売れたとたんに、おれが売ったんだよねみたいな。それは明らかでしたね。一番おもしろいなって言っちゃわるいけど、そういう世の中を見たなと思いましたね。だから、ほんとに売れないときも売れてるときも、絶えず変わらずずっと支持して応援してくれてるっていうプロデューサーの人も何人もいたので、そういうところはいろいろ人を勉強したかな?なんて思いますけどね。
T:それがヒットして、次のアルバムとかはどういう感じで?
M:もうその次は、「春時雨」っていうのが2枚目で、3枚目か「マイポイントオブビュー」っていうんですけど、そこら辺まではずっと順調に自分のやりたい方向のものを、やっぱり大分そこまで一回いっちゃうと、コンサートとかもやらせてもらいながら、とてものりに乗ってる感じでやってたんですけど、その「My
Point of view」を、3枚目をレコーディングしたときに、佐藤準さんという方とめぐり会って、すごく売れてるときにいきなり結婚をしたんですけど。で、周りは真っ青になって。いや、反対とかそういうのはもちろん、そこまで言われるような事は何もなかったですけど、でもなんかもったいないとかね、いろんなことを、結婚するということにはいろいろあるんだということで、アドバイスしてくれた人もいましたけど、何だろうね、でもそういう部分では本当にマイペースで、やっぱり自分の人生というのを、自分の個人の人生とか、プライベートな部分をすごく大事にしたかったので。相手も音楽家だったというか、ミュージシャンだったので、一緒に仕事もやっていけるなっていうのもあって、それですぐ飛び込んじゃったっていう感じなんですよ。
T:結婚された後っていうのは、活動はどうなるんですか?
M:やってました。やってたんですけど、かなり早いうちに子供ができちゃって、25才で出産してしまったので。そのときに1年ぐらい休んだんですよね。いろんな人に、そのとき山口百恵さんとか、桜田淳子さんとか、岩崎宏美さんとか、石野真子さんとか、いろんな人に曲を書いて、そのころね。結構だから、六、七十曲ぐらい人に書いてるんですよ。だから、杏里とかもそのころ出てましたし。結構家にいて、産休じゃないけど、お産してたころは、自分で曲を書いてっていう感じで。
T:詞曲とも?
M:そうですね。南沙織さんとかも書いたし。つくるのが好きなんで、自分だけが歌うっていうよりは、いろんな人に歌っていただけるのはすごく嬉しかったので。
T:それが何年ぐらい続くんですか?
M:それはね、産休はそのときは1年でもう復帰しちゃって、あっという間に復帰しちゃって、そこから30代前半ぐらいまではすごく忙しい生活、子育ても、やってたんで。でも、ちょっとね、いろいろ環境、自分の周りのレコード会社とかプロダクションなどの、環境が変わっていったので、テレビのほうの仕事っていうか、主題歌とか、挿入歌とか、それを幾つかやらせていただいたので、「誰かが私を愛してる」っていうドラマがあって、多岐川裕美さんと野口五朗さんとかの。市川森一という人がシナリオ書いてまして、それの挿入歌と音楽担当をやらせてもらって、ちょっと市川さんが、木下啓介劇場だったんですけど、市川さんがアイデアで、ナレーションを歌でやろうって言い出したんですよ。で、そうですかって感じで。頭にメロディーがダーっと来て、それを毎回入れ換えるわけですね。(笑)その頭のフレーズがナレーションになっていくっていうね。でも、新聞で取り上げてもらったりとか、スポーツ紙だなんだで話題にはしてもらいましたけど、でも、何か今にして思っても、わかってもらえたんだろうかっていうね、不安はちょっとあったんですけど、でも毎回書き直して書き直して、入れ直して入れ直してやってたんですよ。
T:おもしろいですね。
M:おもしろかったですね。「ガラスの森」っていう曲で、結構そうですね、ベストテンには入らなかったですけど、15位ぐらいまでいったんですかね。そんなんで、それが大体30才ちょっと手前ぐらいですかね。だから、いろんないい仕事はできてるっていうか、させてもらったなと思って。
T:そのとき、まだレコード会社は変わらず。
M:もうそこはね、トーラスレコードっていう。その間、あ、産後すぐに変わったのは、ビクターの禅レーベルっていうところだったんですけど、そこで2枚ぐらいアルバムを出して、そこからトーラスに移ったんですね。
T:トーラスではそのドラマの主題歌を?
M:出していくっていうほどではないけど、その後に平岩弓枝シリーズっていう番組の主題歌っていうの。それはでもね、筒見京平さんが曲を書かれて、初めて私が詞だけっていう仕事をして。そのアルバムは、全部詞だけなんです。そういうアルバムも1枚つくったんですけど。でも、その辺でもいろいろありまして、最後に浜田省吾さんの、なぜか「片想い」っていうのをシングルで出して、そこから休業に入っちゃうんですね。それは、何だろうな。
T:「イルミネーション」っていうアルバムの曲ですね。
M:そうです。浜田さんは、たまたま私の元の主人の佐藤準がずっと音楽をやってて。
T:「イルミネーション」も手がけられてましたよね。
M:やってます。「SAND
CASTLE」っていうバラード集もやらせていただいて、でね、結婚式、浜田さんご夫妻の結婚式と、私たちの結婚式が1日違いというね、不思議なご縁があって、浜田さんのほうから声をかけていただいたんですけど、夫婦でプライベートで結構なおつき合いをしてたんです。ゴルフやったり、スポーツクラブ行ったりとか。で、それで何かおもしろいんですけど、家も近かったりなんかして。そういうんで、浜田さんのコンサートは、私は彼の曲がすごい好きなので、しょっちゅう見せていただいて、「片想い」っていう曲がとっても好きで、で、歌わせていただいて。それは、多分レコード会社のほうとのいろんなやりとりの中で、作詞もやってる、作詞だけのアルバムもいいんじゃないって言って、その次に出てきたアイデアがカバーで、だれかの歌ってみたらどうかなっていうのがあったんだろうと思いますね。それで、じゃあって言ってそれを歌ったんですけどね。
T:それは80年代手前な感じですか?
M:もう80年代です。
T:それがシングルとして出て。
M:そうですね。出して、それからしばらくもうちょっと、休むっていうか、そのね、アーティスト活動はお休みしてしまうことになっちゃうんですけど。
T:じゃあ、80年代は大体休みみたいな形で、そこまでいかないですか。
M:年代で言うとそのぐらいなんですけど、プロフィールにあると思うんですが、最後、浜田さんの「片想い」を歌ったのは、そうですね、80年代。
T:84年ですね。
M:そこから10年ぐらい休みました。
T:96年に活動再開ということで。それは何かあったんですか?
M:いろいろ、やっぱりいろんな要素があったんですが、一番の要素は、子供ですかね。で、そのころ佐藤準っていう人が、主人がもう破竹の勢いの、ものすごい忙しさになっていまして、とにかく1か月にアルバムを2枚つくったりするぐらいの、今思うとすごい仕事の仕方をしてて、今井美樹さんだの、光ゲンジだのいろいろやってまして、とにかく忙しいから、生活も不規則だし、私がアーティスト活動でまた今度地方行ったりとかいろいろしてると、子供がほとんど孤児状態に入ってしまいまして、やっぱり寂しいし、おばあちゃんやおじいちゃんのお家に預かってもらったりしてたんですけど、情緒不安定みたいなことも出てくるような、小学校の2、3年だったと思うんですけどね。で、やっぱりどっちかはしっかり見てないと、子供の人生は一回しかないよなってすごく反省して、大分いろんなことをそこまでにやったんで、出産後もね、で、もうすごくそういう意味では自分の力もそこまで、かなり出し切ってて、やっぱり結婚して子供を持ったっていうことのもう一つの大事な意味がやっぱりあるっていうふうに、常々思ってたけど、バランスをとろうとろうと、自分で一生懸命両方やってたんです。でもやっぱりとりきれないっていうのを、子供を見てて思ったので、だから、それで主人と相談して、やっぱりしばらくはね、真剣に子供を見てないとどうなっちゃうかわからないよねみたいな感じで。何かがあったとかっていうわけでもなかったんですけど、ただやっぱりよくね、熱出したりとかね、そういう子供って赤信号はそういうところで出したりするので、母原病じゃないけど、私がいない間に熱出したり。大体ね、コンサートでこっちがぴりぴりし出すと病気になるんですよ。で、コンサート終わった後、子供の看病してたっていうことが何度もあって、終わった途端から家に帰ったら、ずっと子供の看病して3日ぐらいなおらないみたいなことがよくあったので、だからそれぐらい直結してるんだなと思って。そうなんですね。一番の原因というか、考えたのはそこのところと。あとは人間不信になってましたね、業界の。非常に歌いたいけど、やっぱりそのころバブルに向かっていってる時代ですから、とにかく売れ筋、売れ筋みたいな。その売れ筋の傾向っていうのが、私たちみたいにナチュラルに自分を出していくっていうものじゃない方向にどんどん行ってる時代で、やっぱりつくられた世界ばかりで。それからあと、作詞で言うと、結構現実感のあるようなもの、女の人の詞は特にそうでしたね、どんどん変わっていって、ちょっとロマンを歌おうとかすると甘いとかね、そういうような。もっとシリアスなことはないかとか、そんなことまで言われて、ちょっとやっぱり周りのスタッフも含めてですけど、いろいろ結構トラブルがあって。一番の原因はそこですね。プロデューサーなんかともちょっとうまくいかなくなっちゃったというところもあって。
T:それで、休暇をとって、再開した理由っていうのは、何かあったんですか?
M:そうですね。ぶっちゃけ離婚をしたのでっていうのもあるし、あと世の中に出なかった10年近い間に50曲以上たまってましたね、今でもあるんですけどね。
T:休養中にずっと曲は、つくってたのですか?
M:つくってました。たまに使っていただいたので、その間もちょこちょこはね、依頼がくればっていう形でやらせていただいたんですけど。だから、やっぱり自分を表現するものとしての音楽であり、歌なので、やめるとかやめないとかというものでは全然なくて、だんだんライフワークに近づいていきました。けれど、その間につくってるものっていうのは、発売するとかそういうことではなく、全然そういう決まりがあってやってたことではなかったけれど、書きたくなるんだなと、つくづく思いましたけど。
T:それで、復帰後、谷村有美さんとかいろいろ?
M:そうですね、それはたまたまユミちゃんのプロデューサーのほうから頼まれたので、ユミちゃんもシンガーソングライターとして悩みがあったりした時期なので、先輩としてやってくれみたいな感じで。みんな、女性のアーティストは特にですけど、世界のどんなところに行ってもそうだと思うんですが、やっぱりそういうプライベートな自分の人生と音楽人生っていうののぶつかってしまうときとかね、あるいはうまくバランスがとれなくなるときとかが、あると思うんですね。男の人もあると思うんですけど、女はやっぱり出産とかね、そういうことがかなり左右されるところがあるから、これは別に、アーティストに限らないかもしれない、普通の女性のお仕事を持ってる人はみんなそうだろうと思うんですけどね、そこが山みたいなところがちょっとありますよね、やっぱりね。
T:90年代後半はライブとかが、いろんなライブとか出たりとかもまた始めて?
M:そうですね。同年代のアーティストの水越けいこさんとかと、今でもいろいろやってますけど、彼女もたまたま同じような人生をちょこっと似たような経過だったので、二人で声掛け合ったりしながらやったりしてて、今でもほんと仲よくて、夜とか長電話をしたり。向こうはね、かなり飲むんですよ、電話しながら。私は余り飲まないほうなんで、そのうち口が回らなくなってくるんですよ。ミズコシケイコがね、みたいな。(笑)でも、ほんとに同年代なんで、楽しいですけどね。
T:それで、2000年入って何か展開は?
M:そうですね、まあ、マイペースにやってるんですけど、そろそろもう少し音楽というか、歌を通じてだんだんやっぱり人の役に立てることはないのかなとすごく思うようになってきて、そんな大上段にたった部分じゃないんですが、やっぱり今もいろいろ世界中が抱えている問題を日々目にしていると心が痛むので、その中で自分は何ができるのかなということを考えていて、母親になったということの意味ってやっぱり大きいんでね、だから水越とかと話をしてお母さんになったアーティストを集めてライブをやろうとかっていって、ママズミュージックパイというのをやってみたり。そのときは、太田裕美さん須藤薫さんどいたんですけど、やっぱり子供たちの未来のためにっていうのを一応標語にして。そういう気持ちをこめてていうことで。「Bless
My Love」っていう、そういうテーマ曲っていうのをつくって、それは今でも私とミズコシは歌ってますし、またそういう企画ができそうなんで、ぜひ声掛けてやらせていただこうと思ってるんですけどね。
T:ライブ以外で何か活動は?
M:今、もう一つライフワーク的になっちゃったんですけど、後輩を育てるという意味で、アーティストを育てるっていう意味で、たまたまなんですけど、ボイシングとソングライティングという部分を教える講師っていうのをやってます。大体、そうですね、ことしまだ、ことしは新学期が始まったばっかりなんですけど、ヒューマンミュージックカレッジというところで、今、80名ぐらいですかね、生徒。去年はもっと多くて120人ぐらいいたんですけど、とにかくいろいろ教えてるんで、ソングライティングとか教えるっていうものじゃないんでね、どうやってやるんですかってよく言われるんですけど。だから、何だろうな、やっぱりディスカッション、今、本当にコミュニケーション足らない時代なので、大いにディスカッションすることや、いろんなたくさんのいい音楽や、いい詞やDVDやいろんなものから、感性を刺激し合う。さっきの最初に話したエレックのときみたいに、何らかの刺激を自分に与えられるように、そういうものに私は毎日のように、1日に一回は感動したいと思って、いろんなものをとにかく見たり聞いたりしているので、そういうときに思い出したりするものものたくさんあって、そういう資料を持ってってはみんなに聞かせたり見たりして、そういうことから初めてっていう感じですね。で、ものをつくるということに対して、一回自分は真剣にやってみようよみたいな。でも、私自身が全然そんなことができるとは思わずにこういうことをやり出したので、可能性というのは十分あるんだよということからみんなに話をして。自分にチャレンジしていこうよみたいなことでやっているので、そういうすごい人数の中の、それでもやっぱりひとつまみですけど、シンガーソングライターは、、、。やっぱりシンガーソングライターは育って欲しいですね。ぜひ。だけど、考えてみると作詞もやって作曲もやって歌も歌ってっていうのは、本当にすごく大変で、自分たちでやってきて、だから水越とよく電話でしゃべるだけど、私たちの時代って意外といたんですよね、そういうことをやる人が。だから特別自分たちが、特別でそういうことができるとかって、あんまり思ってなかったんで、何でだろうねって言ってて。ただ残ってってる人を見ると少ないから、じゃあやっぱり続けるっていうことは大変なんだねみたいな。で、自分たちだとよくわからないところもちょっとあったりしたんですけど、でもいろいろそうやっていろんな人を見ていると、本当に全部やるっていうのはとっても大変なことだなって、改めて思ったりして。でも、生徒と二十歳前後の、とにかくすごいエネルギーを持ってる人たちと接してると、エネルギーもらえるし、刺激もあって楽しいですけどね。
T:で、今度ライブがあるという。
M:はい。あります。
T:TORIIをバックに。
M:そう。TORIIを。
T:すごいジョイントっていうか、組み合わせなんですが、これはどういうライブになるんですか?
M:そうですね。TORIIの中のキーボードの西本さんと、ベースの岡沢さんとふだん一緒にやってまして、で、やっぱりほかのメンバーの方はまだ私はやらせていただいていないんでわからないんですけど、TORIIのライブは見たし、全然お互いに世界観は違うんですけど、でもなんかそのおもしろさっていうか、やっぱり世代的には本当に一緒の方々なので。で、さっきのヒューマンミュージックカレッジの生徒とか、二世代で私たち世代とちょうど子供の年代なので、二世代で楽しめるライブができないかなと常々思っていたので、今回は親子で来れる人は来てくださいっていう感じにしていきたいなと思ってます。水越けいこも出ます。ゲストです。
T:楽しみですね。今後、何かやりたい活動はあるんですか?
M:そうですね。今一つ「詩語り」っていうアコースティックライブを展開しているんですけど、歌は「言」べんに寺って書いて、それを語るって感じで。で、やっぱり日本語というものに、だんだんだんだんとてもいろんな魅力を感じて、昔から好きだったんですけど、アンティークモダンみたいな形で、そういうイメージにやっぱりこだわりつつ、言葉にこだわりつつ、いろんなことを表現していきたいというのがあって、、、。だから歌を、ふつう作詞というと詞っていう字が「言」べんに司るのほうで、そっちの詞が歌の詞なんだなと思うんですけど、作詞の言葉っていうのは、メロディーが乗って初めていきるということだと思うけど、でもなんかその詞を、例えば目にして読んで見たときに、詞を取り上げただけでも一つの世界が見えるというような、欲張ってしまうかもしれないですけど。で、そういう語っていけるような歌をなるべく自分の曲の中からチョイスして、じっくりと言葉を聞いてほしいっていうライブを展開したい。これも随分前からぽちぽちとやってきてるんですけど、何か一つ形になるといいなと思っているところです。
T:今日は、どうもありがとうございました!
M:ありがとうございました。
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