安斎 肇


3/20のmomentイベントでは、「The Chokobabyz」のボーカルとして素敵なライブを魅せていただいた、デザイナー/イラストレーター等さまざまなフィールドで活躍中の安斎 肇さんへのロングインタビューです。

(2005年8月13日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)

氏名 :安斎 肇
  
1976〜1979 桑沢デザイン研究所デザイン科終了後、麹谷・入江デザイン室
1978〜1982   SMSレコードデザイン室を経てフリー。
デザイナーとして、CDジャケットやツアーパンフレットなど音楽に関するデザインのほか、装丁を手掛ける。
イラストレーターとしてはキャンペーンやイベントのキャラクターデザイン、雑誌連載を通し活躍している。
また、ミュージックビデオの監督、CM出演・ナレーション、アニメーションタイトル作成、個展・グループ展、など広く活動している。
1992   TV朝日系「タモリ倶楽部」のコーナー“空耳アワー” にてソラミミストとして出演中。
1998   CM・ナレーション部門のマネージメント・オフィスとして、「ワン・ツゥ・スリー」を村松利史、温水洋一らと設立、所属。
 安斎 肇インタビュー

僕は30センチぐらいの、あの大きさの絵がすごい好きで、できるだけあそこの中で仕事がしたかったんです。でもCDに移行したころっていうのは、いわゆる安いからCDになったでしょう。非常にそういう意味ではね、もうなんか成り立ちから腹が立ってて、便利とか、安いとか、感じ悪いなと思って。ぶっさいくだけど、 面倒くさいけど好きだなと思ったので、レコードジャケットやろうと思ってたんだけど、出来なくなっちゃったんで、ツアーパンフレットをよくやってました。

TERA(以下:T):では宜しくお願いします!

河安斎 肇(以下:A):はい。

T: まず、生まれと場所を教えてください。

A:生まれと場所ですか。生まれは、広尾。広尾って別に赤十字の、赤十字病院、広尾のありますよね、あそこなんですよ。なんかおふくろが大事をとってそこで産んだらしい。でも、ほんとは僕、北池袋っていうところです。池袋の隅のほう。すごいあれですよ。いまだに池袋って、ホームがいっぱいあるじゃないですか。何番ホームまであるのかしらないけど、十何番まであるでしょう、きっと。北池袋って、ホーム1つで、1番と2番しかないの、いまだに。昔っからそうなんですよ。

T:ご兄弟は?

A:兄弟は妹が1人いて、あとは会ったことがないけどお姉さんがいるらしい。それはおふくろの前の旦那さんとの間の、いるらしいですよ。

T:兄弟仲よかったですか?

A:仲いいですよ。いいっていうか、妹ね、すごいできがいいんですよ。なんかね、うちね変わってるんですよ。おじいちゃんっていう人は、深川っていうところでパン屋さんをやってたんですよ。で、すごい商売熱心な人で、商売で成功させるために子供たちを育てたんだけど、子供はみんな勉強がしたいって、学校いきたいっていう子ばっかりだったの、男の子ばっかりだったんだけど。で、それをずっとおじいちゃんは反対してきて。反対されると、子供ってどんどん勉強するじゃないですか。だから、僕の親父もなんか、あとその上のお兄さんも、下のほうの人も、すごいクラスで1番とか、学校で1番とか2番とか3番とか、そんな頭のいいあれなんですよ。感じ悪いでしょ。イクロウおじさんっていう、僕のおじさんで親父の弟は、立命館の教授やってて、ときどきテレビ出たりする変わってるおじさんで、いわゆるUFOとか、ああいう科学で説明のできないものってあるじゃないですか、心霊ものとか。心霊手術とかを手品でやったりとか、UFOの写真をとったりとかしてるんですよ。

T:本物のUFO?(笑)

A:うそ。(笑)だから、うそだよって。なんかね、手品がすごいうまくって、もともと手品やってて、手品っていうのは絶対種を教えないけど、手品はもう一つの世界を見せることができる。だから、結局もう一つの世界を見せてる人たちもいるって。ほんとはないのに。だまされるなっていうことだと思うんだけど、そういうんで灰皿とポラロイド持って山に登って、灰皿投げて写真撮って、誰が一番UFOに撮れたかっていうのをやったりとかしてるんですよ。なんか、この間もテレビに出てやってたけど、タオルにちょっと臓物みたいなのを隠しておいて、裸の人の前でくちゅくちゅおなかをやって、その臓物が出てきて心霊手術みたいに見えるっていうのをやったりとか。そういうの好きみたい、なんか。変わってて、そういう変わってるのから来てるのか知らないけど、うちの妹もすげー頭よくて、感じ悪いんですよ、すごく。うちの家系って。僕全然勉強とか興味なかったんで、別に一番になるとかっていう気持ちが全くなかったから、非常にこう、うっとうしかったですね。なので、
そういう意味ではけんかにならなかったっちゅうのが正しいのかな。

T:小学校のときは、どんなお子さんだったんですか?

A:小学校はね、僕、本当に小さいころから小児喘息っていうのになっちゃって、小学校の5年生かな、4年生か。4年のときに妹からはしかをうつされて、そのはしかがすごいひどいはしかで、普通年下からはしかってうつらないらしいんだけど、妹からうつって、よほど弱かったんだよね。で、死にそうになって助かったら、喘息が直ってたの。なんか、ラッキーみたいな。わからないんですけどね、結局、甘えてたんじゃないのかな。(笑)甘えてたんだと思いますよ、きっと。子供のころ。ずーっとね、長ズボンだったし。何するに、表で缶蹴りするのも、草野球やるのも、全部おふくろが来て、おふくろが一緒に走ったり、おふくろが代わりに打ったりしてましたからね。野球じゃないっちゅうの、おれ全然楽しくないじゃん。缶蹴りとかも、かくれんぼとかしてるじゃないですか。隠れてるちゅうのにおふくろが来て、「危ないっ」とかって。(笑)「何とかちんここにはいないからね」なんて言って、いるに決まってるでしょ、そんなこと言ったら。

T:過保護なんですかね。


A:めっちゃ過保護に。そうですね。恥ずかしかったです。

T:それ、小学校上級生まで?

A:小学校の上級生まで、そうもう4年近くまで。それで、そのことが逆にコンプレックスでもあったけど、そういうことがあると子供社会ではすごい嫌われるじゃないですか。だから、よくおふくろがいなくなると蹴られたりとかして。それで泣いたりとかして。そうすると、何で泣かしたみたいになってまたおふくろが来てみたいな。もう面倒くさいことにいつもなってて。そうなんですよ。もうずっと。だから、もう幼稚園ぐらいまではひどかったから、ほとんど。1日200回泣いてたっていううわさですよ。うわさですよって、おれもわからないですけど。ほんとにずっと。

T:中学校に上がると?

A:小児喘息っていうのは、もう体が動かせないじゃないですか。ちょっと汗かいたりとかしただけでも、咳き込んでしまったりするから、運動ができなかったんですよ。それが急にできるようになって、めちゃめちゃ楽しくなったんですよ。もうなんか、遊ぶことが。それで中学になってから、陸上部、剣道部やって、剣道部ってすごい厳しい剣道部で、1年もてばすごいって言われたのを、1年もったからやめたんですよ。(笑)すごいって言われたからもういいやと思って。で、2年になってから陸上部になって、3年のときに、3年で区の大会とかで長距離って、1500メートルって長距離でも何でせないけど、区で3位とかになったりしたこともあったんですよ。それで、すごい親にしてみたらそんな病弱な子がすごいって言ってるんだけど、でもそんなすごいことじゃないんだよね。その後、先輩が来て鍛えられて、すっごい鍛えられて、おまえは区で3位になったんだから都でも3位になれとか、わけのわからないこと言われて鍛えられたら、もう全然そのプレッシャーに負けて、ク
ラブ嫌で嫌で、すごく。部活もう大嫌いになって、放課後になると下痢してた。(笑)

T:じゃあ、部活三昧みたいな感じですか?

A:部活三昧なんかでもないですけどね。でも、勉強はしなかったんですよ、全然。

T:趣味とか何かあったんですか?

A:趣味はありましたよ。趣味は、野球ゲーム。鉛筆転がして、こうやってやる野球ゲームとか、紙相撲とか、そのさいころ転がして人がトラックを走るマラソンみたいな、1万メートルってただ転がしていくだけのやつを、ひたすら転がしてってこうやっていくやつ。もうね、だから最後のほうは統計学みたいになってくるんですよ。確率でしょ、もうそうなると。すごいおもしろかったよ、もうなんか。それ一生懸命やってた。受験のときもそれやってて。

T:それは1人で?

A:そうです。僕、なんか机のところに一番広い引き出しのところがグランドになってたんですよ。そこの広いのをぐっと引き出すとそこにセットされてて、グランドが。こっち側にいわゆる選手がいて、こっち側には転がすスペースが、さいころ転がすスペースがあって、それでやってたんです、勉強しないで。だからいっつも机に向かってるんだけど、ころころ、ころころって。(笑)よかったよね、博打とかに手出さないで。

T:テレビとかって?

A:テレビもちろん。僕の生まれた年っていうのは、いわゆるNHKが開局した年なんですって。よくわからないけど、テレビ局の見学とか、よくそういうのがあって。あと、学校で幼稚園で選抜でテレビに出たりとかしてたんですよ。だから、見たりとかもちろんね、もう物心つくころからテレビはずっとあったし。僕の上になるとラジオとかいう人がいるけど、僕は全然。だから、そういう意味でもどっかでビジュアル的な部分で育ったんだと思うんですけどね、何となくこじつけだけど。

T:音楽とかはどうなんですか?

A:音楽は、テレビから流れてくるコマーシャルとかをすぐ覚えたりしたりして、それを友達に歌ったり、親に聞かせたりとかするとびっくりするじゃん。そういうのがすごい好きで。テレビのコマーシャル「ペンギン、ペンギン、かわいいな」とかいう歌を一生懸命覚えて(笑)それを歌ってたりしたんですけど。情けないよね、なんかちょっと。音楽はそのころはずっと、ちっちゃいころはテレビだから、テレビだといわゆる歌謡曲的なというか、GSとか。GSで入ってなんで、レコード買ったのはすごい後からです。中学後半になったから。

T:最初に買ったレコードとかって。

A:一番最初に買ったレコードは、おれね、すごいケチでね。シングル盤というものにすごいもったいない感じがしてたんですよ、昔から。シングル盤って、今も、今は1000円ぐらいするけど、しばらく長い時代600円とか700円だったでしょう。出たころも、そのとき高くて、1曲そんな、もうって思ってて、アルバムいきなり買ったんですよ。ワイルドワンズの。情けないけど、それもあんまりあれだけど。GSが好きだったから。ワイルドワンズのベスト盤。それが多分一番最初だよな。シングルは、萩本欽一、きんちゃんが、「テ」っていう映画をつくったんですよ。なんかね、よくあるじゃないですか。コメディアンの人がそういう、お笑いじゃないものをつくるみたいな。僕はチャップリンになりたいんだよみたいな感じでつくった映画があって、それが「テ」っていうんだけど、それのテーマをきんちゃんが歌ってたんです。それすんごい暗い歌なの。だから、暗いんじゃないかな、もともと。すごいそう思いますよ。すごく暗いと思う。

T:高校入るころには、何か変わったことありましたか?

A:高校入るころには、ちょうど69年のいわゆる70年安保で学園紛争になってて、高校の入学式に行ったら、バリケード封鎖されてて入れなくて、横のほうから入って、それでもうなんかヘルメットかぶった人がわーんと来て、途中でおしまいみたいになって、しばらく、多分高校、最初の2カ月ぐらいは教室にも入れなかったんじゃないかな。だから、仮の体育館のところにみんな集まって、体育館でみんなで話し合ったり、もうだから、高校っていうのは僕の中ではすごいそういう意味ではいろんな、いろんな意味で学校というよりも、もう社会に近くて、出ていった瞬間に、入った瞬間に、まず同じ中学のやつが少ないじゃん。クラスに1人しかいなかったから。それも女の子で、僕がわからないけど、ちょっとふっちゃったっていうか、いじわるしちゃった子だったんだ。すごく気まずくて。すんごい気まずい高校生活が始まったにもかかわらず、いきなりストやってるし、自由とは何だとか、それこそいろんな社会に対しての問題を突きつけられて、一人一人そういうのを考えなきゃいけなくなる一方で、
片方では言ってみれば封鎖されてる学校の中だから、自由だからそこに酒持ち込んで、たばこ吸って、麻雀やってみたいなやつらもいて、片方ではもうそんなんだから学校来ないって、来なくって、それで音楽聞きに行ったり、ちょっと適当なことしてるみたいなやつらがいて、めちゃめちゃ。もう。おれは、多分その中学のときにはね、中学の3年間というのがすごく僕にとってみたら、いわゆる体力もやっと男子なレベルまで来て、すごいはつらつとして3年過ごしたんですよ。特に中2なんていうのは、ほんとに最後の子供みたいなもんじゃないですか。すごいほんとに楽しくて、毎日友達とすんごいばかなことばっかりやってて、めちゃめちゃ楽しかったんだ。連帯感とか、友達ができることの喜びと、いつまでもずっと遊んでられるって感じがすごい嬉しくて、なのに高校入っていきなりそれがぶつっとなくなったから、めっちゃめちゃ暗くなって、すんごい暗くなりっぷりでしたよ、もう。

T:学校には行ってたんですか?

A:学校には行ったり、行ってなかったり、早退したりとかいろいろして。早退してたら、担任から電話かかってきて、「いや、いとこです」って言ったりとかして、切ってあわてて言ったりしてばればれだよね。

T:学校行ってないとき、どういうところに行ったりしてたんですか?

A:学校行ってないときは、友達と喫茶店行ったり、映画見に行ったりとか、普通な、ごく普通なこと。でも大概家に帰ってきて、家でテレビ見てましたけど。

T:高校時代影響受けたものありましたか?

A:高校時代に後々これは影響受けたなと思うのは、やっぱりそのときに本当にロックっていうものが、何となくいろいろ聞いていくうちにわかってきたことが一つと、そうだな、あとはテレビで、例えばサッカー番組見たり、映画見に行ったりとかして、自分の中で混沌としている中で、一つだけ将来のために何かつかもうと思って、でも何かそこから逃げたいから映画見たり、テレビ見たり、音楽聞いたりなんかして、なんか現実から逃げようとしてたことを、今、その逃げてるほうばっかりで今仕事してるから。(笑)だから一番大きかったのかもしれないです。でも一番嫌いだったけど、ほとんど覚えてないです、高校のころは何してたか。

T:高校出るころは、どういう進路を考えてたりしてたんですか?

A:高校はね、出ようと、あんまり出るも出ないもあんまりほんとに意識がなくて、ただ一つだけ、何となく大学生の人たちってみんな遊んでるから、すぐ入れるんだと思ってたんだ。(笑)高校入るときも、3日ぐらい勉強したら入れたんだ。大学はそうはいかんだろうから、1か月ぐらい頑張れば入れるのかなと思って、だからどっか大学入って、別にそれがどんな大学でもよかったんですよ。美術系の大学でも、音楽系のとか、そんなんじゃなくても。でもなんかいろいろ話してるうちに、だんだん面談とかやっていくうちに、何ができるんだっていうことよりも、何がしたいんだということよりも、まず最初にお前の成績はこれだぞって見せられるじゃないですか。そうすると、あーあって。何だ、おれ、なんか美術ぐらいじゃんって。美術と体育ぐらいじゃんなんて思って、で、なんかそういう学校ってあるのかなって。芸大があるっていうから、いいなと思って。そしたらお前なんか受けられない」って言われて。おもしろかったですよ。受けにもいかなかったですけど。でもそのころ、
高校の時には、だから、美術大学か専門学校行こうって。とにかく社会にあんまり出たくなくって、働きたくなかったから、学校に行くっていうのは働かなくていいじゃないですか。まあ、夜間の人は。とにかく一番長い学校に行きたかった。6年制ぐらいのところ、小学校みたいに長いのがよかったんだけど。

T:実際、どういう進路になるんですか?

A:結局は中途半端なことやってたから一浪して、一浪してそのまんま2浪目は絶対だめだって言われて。うちも親父が絵をかいてるので、肖像画を書いてるんですよ。そんなに商売も、そんなに注文もないからそれほど楽じゃないし、なんかもう待てないから、2浪したら就職だって言われたので、じゃあ、まあ入れるところって。で、桑沢デザイン研究所っていうところは、美術手帖に広告が出てて。うちの親父はそれを見て立派なところだって言って。確かにいいところだったんです。すごいめちゃめちゃ楽しくて。高校がね、ほんとにね、別にね、普通にみんなぶち当たることなのかもしれないけど、まず彼女もできないし、いわゆるクラスの中でも何かでちょっと光が当たったりするわけでもなく、ずっと何となくカーテンのそばにいて暮らしてたし。しかも友達っていうのは3年間ずっと変わらなかったんですよ、クラスも変わらなかった。何つうの、あんまり希望とかっていうのがもう持てなくなってて、あーあ、こんなことしてても、しようがねえやと思って、これ無駄だよなと思って、
あるときに、そうだ、中学のときに大好きだった女の子に、もうこの思いのたけだけ伝えようと思って30枚ぐらいラブレター書いたんですよ。もう、すごい、ほんとに1時間ぐらいでぶわーっと。多分今までやった仕事の中で一番早いと思う。(笑)書いて、しまおうと思ったら封筒に入らないんだもん。前編、後編で2冊で送ったんだ。それもこんな瓦みたいに厚くなってるんだよ、もう。多分、恐かったと思うな、もらったほうは。恐る恐る様子見みたいな返事が来た。2枚、ぺらっと薄く。懐かしいねみたいな話。全くおれの思いのたけは通じてないっていうか、そのこと関係なしになってて。そのときもう死のうって思った。もうだめだと思った。こんなに一生懸命やったのに。

T:高校何年生のとき?

A:高校2年のときですよ。2年のときたまたま2年の文化祭で会ったんですよ、その子に。中学のとき好きだった子に。絶対打ち明けようと思って、かわいいと思って。かわいいし、今のおれには彼女しかいないと思って。だってだれもね。もともと落ち込んでいくと、どんどん人もいなくなるし、どんどん1人で1人でってちっちゃくちっちゃくなっていくじゃないですか。もう家の中でもどんどん小さくなって。それこそ部屋がなかったから、引きこもらなかったけど、もうすぐ家族と別の場所に行きたくなっちゃったりして、すごいよくなくなっちゃって。なんか。何もなかったんだろうね、きっと。

T:それで、デザインの学校に。まずは?

A:桑沢デザイン研究所というところは、桑沢ヨウコさんという人はファッションのデザイナーなんですよ。でも一応、やっぱりそういうちゃんとした教育を。デザインの教育そのものを実践としてやせようというところで、割とね、課題がきついの。きついんですよ。すぐもういっつも課題くれるの。で、嫌で。もうなんか、高校もすごくそんなふうに来て、ある種趣味の同じような人たちが集まったものだからすごい嬉しくなっちゃって、毎日のように友達の家泊まりに行ってたんだ、もう。毎日泊まりにいって、友達のよくみんなが泊まりに行ってるやつん家は3畳だったんだけど、3畳なのにそいつベッド持ってやがって、そこに8人で泊まったことあるだよ、一晩。男ばっかりで8人。もうすごい重なるようにして、みんな酔っぱらって寝てたんだけど、でももうなんかおもしろくてしようがないんだ、そんなことが。トイレに足突っ込んで寝たりとかしてるんだけど、おもしろくてしようがなくて。なんかね、中学のときに楽しかった感じの続きを桑沢のデザイン専門学校に行ったときにできるような気
がして、高校の分取り戻そうと思って、がむしゃらになってずっと遊んでた。だから、課題ができなくて。全然できなかったんだけど、なんか、たまたま僕らの担任の先生っていうのが、宮沢タイっていう人で、宮沢賢治の姪か何かで、すごいなまってる人で、いい感じの人だったんですけど、その女の先生が、興味のあることをやることは別にいいから、その興味のあることが今の時期にしか経験できないことだったらば学校に来なくていいから、そのかわり何で来なかったかを、ちゃんと報告しなって。きょうは映画を見ましたって、その映画を見てそれがどうだったっていう、何でもいいから、そんなことでもいいから1日に1回は学校に来て、それを私に報告しろって言われたの、学校来ないんだったら。めんどくさくてさ、そんなことするのが。行くようになっちゃって。(笑)
それでもそれを言われて、学校に行くようになっていくと、そこでまた友達が、そのクラスだけじゃなくて、いろんな学年のやつら、学年って2学年と研究科しかなかったけど、いろいろ狭い学校だったから、いろんな人たちと会って楽しかった、すんごい楽しかった。

T:2年間ですか?

A:2年間です。僕、本当は研究科に行きたかったんだけど、行きたくって、就職したくなかったから。研究科に行きたかったんです。で、受けたんだけど、受けたらもう僕の一番嫌いな先生だったんだ、その審査する先生が。一番、こいつみたいなのがいるからだめなんだよって思ってて、何かよくわからないんだけど、何がだめなんだかわからないんだけど、その人だったんだ。もう、見るからにだめだなって、おれは、もう思って、もともとだめだろうと思って受けたんだけど、案の定だめで、当時つきあってた彼女は受かったんですよ、3年に、研究科に。そのパッケージのほうに受かったので、おれグラフィックで受けたんだけど、パッケージの授業受けに行ってた、落ちてるのに。何でいるんだ、1人みたいな。

T:それで2年間やって、その後は?

A:2年間やって、その1年は、かといってそんな彼女の研究科の授業をずっと受けてるわけにもいかないんで、何となくバイトしなきゃなみたいな気持ちもあったんだけど、実家なんで危機感がないんですよ。で、でも中には就職しちゃってる友達とかいて、そいつらも挫折して、なんかいろいろ困ったりとかしてるやつらが、当時何つったらいいのかな、湯村輝彦さんと、だれだっけ、湯村さんと、川村ヨウスケさんと、100%ピュアスタジオっていうのがあったんですよ。それが言ってみれば流行りで、その後にワークショップ「ム」っていう奥村さんがつくった、立花ハジメさんがアシスタントに入ってるようなグラフィックグループみたいなものをつくるのがはやりだったのね。なんかこう、福生のハウス借りてみんなで共同生活しながら、そういう壁に絵かいたり、変なTシャツつくったりみたいなことして。
で、そういうのにすごい憧れてたら、たまたま先輩でこれこれこういう人がいるから、一緒にやりたいって言ってるって。安斎才能があるって言ってるって、その人会ったこともないのに、そんなこと言ってる。すごいおもしろいからつって、グラフィックツアースーパーマーケットっていうグループつくってやったんですけど、すんごい全然何のノウハウもない3人で始めたので、仕事も全然なくって、そのうち下請けのほうに。ミッキーマウスに似たような絵をかかされて、(笑)そういうものの刺繍とか、ワッペンとかそんなものつくって、そんなんやってたら、だんだん嫌になっちゃって、で、彼女のすすめもあって、っていうかそれで全然お金にもならなかったし、仕事もしてないし、ほんとに仕事してなくって、ひと夏その先輩っていう人のところにいてずっと仕事してるんだけど、何にもすることないんですよ。先輩っていうのは、彼女と犬の散歩とかにすぐ行っちゃって、帰ってこなかったりするから。そうすると僕ともう一人の相方と2人で、ずーっと何にも仕事しなくて、することもないから。
何かやりゃいいのに向上心がないから、おならって燃えるらしいよって。(笑)おならとか燃やしたりとかして。おなら燃やしてズボンに火ついたりとかして、そんなことばっかりしてたんですよ。そのうちもう一人のやつは、失恋したら、その失恋で神経性の胃炎になって、急に突然ぐるぐる部屋の中を駆けずり回って、胃が痛いとかって大騒ぎになったりして。おれもさすがに仕事はないは、犬の散歩してる社長だわ、失恋の痛手でくるくる回ってるやつがいるし、これはだめだと思って、彼女のすすめで就職をしたんです。

T:どんな仕事だったんですか。

A:麹谷・入江デザイン っていうところで、農協牛乳のパッケージとか、ホンダのシビックのポスターとか、医療関係の雑誌やら、西友とか紀文とかのパッケージの立ち上げとかをやってたんですよ。その中で象印のCI、象印のマークからロゴから全部それをかえるっていう仕事をやって、そのときに安斎君絵かけるんだからって言われて、象印の象のマーク、昔の筆で書いたやつがあって、それはそのマークだから、それはいじらないだろうと思ってそのままにしてたら、それもやってくれって急に言われたんで、書けるんだったらやってって言われて、それで僕、2日ぐらいでやったんですよ。そしたらそれが通っちゃって、通ったらほんとにそのままとおってそのままになっちゃったの。で、本来はおれの書いたやつを元に、和田誠さんとか、偉い人に頼もうと思ってたらしいんだけど、いいよっていうことになったらしくて、僕、たまたまそんな偶然入った会社で、そんなすごい象印の象のマークとかやらせてもらったんですよ。それで、すごいなーと思ったのと同時に、なんかね、
もうやり尽くした感が出てきちゃって、自分の中では。なんか頂点極めたなみたいな。(笑)1個しかやってないのに。で、急にほかの仕事もやりたくなって、そこの事務所を、でもそれでも3年ぐらいいたんですけど。で、自然と暮らすっていうのいいなって思い出して、山小屋を建ててそこをロッジにして、冬はスキー客、夏はハイキングとか、そういうお客さんを泊めてるっていうあったんですよ。そこのところに行って修行したほうがいいって言われて修行しに行ったんですよ。すごいね、行ったらね、全然お客さんがいなくて、その年がね、まれに見る暖冬だったの。全然雪がなくて、ゲレンデがもう、大福じゃないけど、すっごい山肌が見えてて悲惨で、全然来なかったんですよ。おれ、そのロッジに勉強しに行って、薪割りとかして、だんだん薪割りとか毎日、やることないから薪割りばっかりやってると、手がだんだんでかくなってくるんですよ。なんか、今まで鉛筆しか持ってないのに、やってるとごっつくなってきて、すんげー嬉しくて、もう。おれ、山男になってきたなんて喜んでたら、
そこの主人がちょっとこれはまずいんで、おれは町に下りてアルバイトする。安斎君はいていいからって。昼間、奥さんと子供とおれと、雪山のはげ山のロッジで、ずーっと一緒にいて、なんか旦那が帰ってくるのを待って、おかえりなさい、ご苦労さまでしたなんて、お茶出したりとかして。それで、1週間もしてるうに、なんか辺だなと思って、おれ、何しにきたんだろうって思って、なんか向こうももう迷惑なんだ、明らかに。だって、アルバイト料をおれに払わなきゃいけないわけよ、向こうは少なからず。なのに、おれにやらせる仕事っていうのは子守ぐらいしかないんだ。おれもちょっとこれはもうそろそろ出なきゃなと思ってたら、たまたま友達からさっきのくるくる回ってた、失恋した男がレコード会社に勤めてて、そいつから電話かかってきて、1個席が空いたからやらないって、それで呼ばれて、SMSレコードっていうところに入ったんです。そこから、だから音楽関係の仕事をするようになったの。

T:音楽のジャケットとか、ですか?

A:そうです。レコード会社のデザインルーム。

T:なるほど。最初手がけた仕事って?

A:一番最初にやったのはね、企画ものばっかり。渡辺プロダクションの、いわゆるレコード会社だったんですよ。それまではなべプロはワーナーにほとんどの人がいたんだけど、それをワーナーから全部して、SMSレコードっていうのをやると。だから、渡辺系のものが多かったんですよ。最初にやったのは、多分あれだと思うんだけど、社長夫人が企画した、ミサさんのね、企画した、渡辺プロの人たちを使ったディスコバージョン。『ディスコザピーナッツ』、『ディスコザ加山雄三』、『ディスコザクレイジーキャッツ』、『ディスコザ小柳ルミ子』、『ディスコザアグネスチャン』みたいな。(笑)それをいる人たちにただディスコつけただけみたいな企画でやったんですよ。十何タイトル出た。すごい一気にばんと出すって。結構乱暴、でも今までの瀬戸の花嫁をディスコ調したりとか。

T:LP?

A:LP。乱暴だよね。流行ってたんですよ、なんか、LPサイズのやつで、長い曲やったり、ディスコでかけやすいみたいな。で、それの中の僕は『ディスコザスーパーマン』っていうのと、『ノッキンダウン・ディスコ』っていう、イタリアディスコ風なやつをやるっていうのと、あとほかにもあったかな、『ディスコ・ザ・加山雄三』だ。あと、何だっけな、幾つかやったんですよ。

T:(笑)ジャケット、どういう風になるんですか?

A:でしょ?(笑) 「どうするんですか」って言ったら、「考えてもらっていいよ」って、ディレクターの人が言うんですよ。布施明のディレクターやってる人とか、ジュリーとかやってる人ですよ、いわゆる花形の人たちも、もう自分たちがやってるやつよりも、企画ものだから、ディレクターの人もアシスタントの人に任せちゃってやっちゃってて、何でもいいよって言われたんで、ノッキンダウンディスコっていうのは、ケーキの上にリングをつくって、そこでおかしのボクサーが倒れてるみたいなやつにしたら、「おまえ、何考えてるんだ」って言われて、で、それでどうしたのかな。だからデザイナー変えてくれみたいな話になって。スーパーマンは、スーパーマンの絵をそのまま使うとだめだからって言って、似たようなの書いてくれって言われて、なんかミッキーマウスの似たの書いたよなとかって、変わんねえな、仕事とか思いながら。あとね、イタリアもののやつは、ディスコ・ザ・ピザっていうんだ。ディスコ・ザピザっていうのは、ピザを焼いてもらいに、ピザの具を音符とかにいろいろ切って、
焼いてもらいに六本木まで行って、すごく迷惑がられてやったんです。最悪でしたよね、どれもね、きっと。どれももう、どこにあるんだろう、最悪だったな、きっと。

T:その後、オムニバス以外にも手がける事に?

A:なったんですけどね。でも、僕はその、いわゆる主流の渡辺プロダクションのアーティストの人が出しているレコードとかをあんまり興味がなくて、それよりも企画でやってるできなかったっていうこともあるのかもしれないけど、企画もののやつをもっとちゃんとやりたくって。あと、ロック系の、いわゆるそういうポップスからちょっと離れたやつをやって。もあって、外れたのばっかりやってたんですよ。だから、中でも一番は、髭ダンスのテーマって、ドリフのやつの。あれが、あれをやるときに、あれやったんですよ。急な話になって、すぐやれってことになって。僕の友達が、相方がイラスト書いて。結構似顔絵も書ける器用なやつで。2人で書いて、表やるから、お前裏やってくれって言われて。裏なんて、普通に歌詞やればいいじゃないですか。なんかでも悔しいから、なにかやろうと思って、ひげのおまけ付きっていうふうにして、ひげを、紙を切って貼るとひげになるって、そんなもの黒いものだったら大概なるんだけどさ、それをこういかにもそれっぽくつくってやったんですけど、
シングル盤小さいんで、ひげやったら1個しか入らなかったんですよ。蝶ネクタイもなきゃだめじゃないですか。そうしたら1個しかできなかったんですよ。あーあと思って、2人でやるものなのになと思って、まあいいやって出したら、すっごい営業の人とか褒められて。すごいって。天才だって。えー、うそ、もうこんなにおまけがうまくできたのかなと思ったら、1人分しかないっていうことは、これはひげダンスは2人で踊るものだから、必ず2枚買うだろうって。甘いけどね、その考えも。(笑)褒められたの。営業力あるって。初めて褒められたんですけどね。でも、それっきりっすね。それ以外はほんとずっと怒られてたっすよ。

T:それ、もう80年代入ってますか?

A:80年代入ってすぐ。そうそう。83年ぐらいじゃないですか。すごい怒られた、怒られた。笑っちゃうぐらい。

T:結構、その会社には長く。

A:長くいましたよ。長くって言っても3年。3年ですね。何となく3年だった。学校の単位ですからね、何となく3年って。

T:その後は?

A:そこからはフリーになって。フリーでぁ。

T:何がきっかけだったんですか?

A:フリーになるの、きっかけがね、僕、イラストレーションがやりたくて、イラストレーターで湯村輝彦さんっていう人がいて、その人は今テリージョンスっていう、ヘタウマを立ち上げた人なんだけど、その人はすごくグラフィックデザインも、すごくアメリカンテイストな、すごくどぎついデザインをよくやるんですよ。それが僕すごい好きで、当時湯村さんのところ行くと、コンテンポラリーの進藤さんとか、結構今でそれこそ糸井重里さんとか、根本タカシ君とか、蛭子さんとか。いわゆる湯村さんのスタジオにはヒロ杉山とか、いっぱいそういう人たちが来てて。僕も行ってて、なんかスージー君とか、優秀な子たちはちゃんとイラストレーターとして認められるんだけど、僕とかはあれだったから、普通に仕事頼んでしてたら、「安斎君もそろそろ1人でやったほうがいいんじゃないの」って言われたんですよ。それを真に受けて、当時、友達だった伊島薫っていうカメラマン、やっぱりレコードジャケットで知
り合ったんだけど、伊島君に何となく相談したら、いいんじゃないとかって言って、それで湯村さんのところに行って、僕、フリーになりますって言ったら、何でって。湯村さんが、フリーになれって言うから、会社に行ってフリーの約束しちゃいましたよって言ったら、「おれは言ってないよ」って。「安斎君がやめるっていうことはさ、レコードジャケットの仕事が減るだろ」って。「レコードの仕事したいんだよね」って言われて、フリーに、そろそろって。「そろそろっていうのはそろそろだろって、おれは言ってないと思うんだよな」って言い出して、それで、でもできると思うからフリーでやりなよって。でも、レコード会社の仕事もしたほうがいいよとか言われて。で、レコード会社の仕事をしつつ、フリーでしつつ、伊島君が電話番で呼んでくれて、部屋代要らないから、電話番してくれればいいからって。伊島薫がつくったばっかりの事務所に行って、それで。電話受けしながら仕事して。でも、ね、そのことフリーとかになっちゃうと、みんな面白がって仕事くれるじゃないですか、
最初のうちは。そんなに仕事が遅いって知らないから、みんな。最初のうちは。(笑)だから、すごかったですよ、ほんと。大変だった。

T:最初、手がけた作品は?

A:最初ね、伊島薫がSALEっていう無料の広告雑誌っていうか、小冊子を出してたんですよ。1ページを何万円かで原宿のお店の人が買って、その何万円かで印刷とデザインとイラストでもカメラでも、そういう人たちを全部そこにかかる経費を、その人のギャラ、払った広告費でやるっていう、結構健全な広告雑誌をやってたの。それは、結構一時期いっぱい原宿に置いてあったんだけど、そこでやったのが最初かな。それ、ただだったんだけど。やらせてもらったんですよ。
フレッピーっていう、そこでやったりとかしてから、フレッピーっていう広告を、マガジンハウス系に出したりとか、あとはそんなことしてたんです。でも、基本的に仕事なかったから、仕事ないから自分で仕事つくるしかないじゃないですか。だから、16ミリの失敗した黒みになっちゃった、撮影して何にも撮れてない黒みのフィルムって出るじゃないですか。あれを引っかいてアニメつくったりとか。あと、ビデオカメラが、このカメラ結構いいんだよってなって、撮ってみようって試し撮りしてるうちに、だんだん興奮してきて、みんなでつくりものしてって、1日っていうか、一晩ずっと適当な音楽に合わせてミュージックビデオをみんなでつくったりとかして、すごいおもしろかったですよ。やっぱり何人かで集まってやると面白いですよね。1人だったら絶対そんなことしないもんね。また野球ゲームやっちゃう。(笑)

T:80年代中盤に入るとCDに。

A:そうですね。僕、ほぼ移行期ですね。で、でもレコードジャケットがすごい好きで、レコードジャケットやりたいって言ってたんでレコード会社に誘われたりもしたんで、やっぱり思い入れがあって。レコードジャケットを   一番長くやってたのは、白井貴子。白井貴子さんのアルバムから全部やってたんですよ。なんかあとは単発でいろいろやってたけど。どっちかというと、CDには余り興味がないっていうか、CDはかわいいっていう人がいるんだけど、僕は30センチぐらいの、あの大きさの絵がすごい好きで、できるだけあそこの中で仕事がしたかったんです。でもCDに移行したころっていうのは、いわゆる安いからCDになったでしょう。非常にそういう意味ではね、もうなんか成り立ちから腹が立ってて、便利とか、安いとか、感じ悪いなと思って。ぶっさいくだけど、   し、面倒くさいけど好きだなと思ったので、レコードジャケットやろうと思ってたんだけど、できなくなっちゃったんで、ツアーパンフレットをよくやってました。

T:ちょうど大きさもLP大ぐらいですよね。

A:ツアーパンフレットは、まだ売れてる人をやってたから。チェッカーズ、バービーボーイズと、ユニコーンと。すごい楽しかったですけどね。

T:バブルとかってあったんですか?

A:バブルはね、気がつかなかった。全く……。わからない、あったのかな。

T:今のアーティストって、大体バンドブームの。

A:そうですよね。たしかにね、すごかったですもんね、何でもつくらせてもらえてたから。ツアーパンフレットとかも。売れてたんだもん、すごい。もう信じられないぐらい。キャパ3000のところを9000売れたりするから。友達の分まで買って帰るからすごかったですね。

T:割とアートワークス的なパンフレット、多かったですもんね。

A:一番最初にレイチャールズが日本に来たときのやつをつくったんですよ。それは、わからないけど、ツアーパンフレットというか、パンフレットそのものの歴史の中で、どこがどうか知らないけど、いわゆる広告メインのパンフレットから、編集メインのパンフレットにしたのは、レイチャールズのそのころってすごい、多分かなり早かったと思うんだよな。本当にR&Bの歴史とか、柳ジョージさんとやったんで、柳さんが向こうに行ったりとかして、いろいろ旅行記みたいなものを載っけたりとかしてたんで、すごい広告減らしてやってたんですね。しかも、すごく変なとこ凝ってたから、打った写植を一度コピーして、それをあまく紙焼きして、それを張ってたんですよ。だから、誤植とかがあるとめちゃくちゃ大変で。そこからまた。でも何となく全体に古い本をつくりたかったので、古い感じのつぶれた感じの。活版で刷ったみたいな。活版ですればよかったんだけど、活版もきれいに刷れちゃうから。汚らしい感じにしたかったんで。すんごい、やってて一番おもしろかったですね。
雑誌とかでもね、雑誌はもっとサイクルが早いから。ツアーパンフレットは今でも大好き。もうほとんどないですけどね。奥田民生君ぐらいしか。奥田君のやつも紙じゃなくて、DVDだから。そうなんですよ、もう。なんかね、買わなくなっちゃったんですよ。これはね、多分つくってる側にも問題があるし、買ってる側の理由もすごくよくわかるけど、Tシャツのほうがいいじゃん、やっぱり思い出としたら。こう、なんか、部屋にこうやって差し込んでおくよりは、着て表に出ていったほうがね、いいですよね。つくってくださいよ。イベントのときはTシャツを。

T:やりたいですね。

A:おもしろいですよ、結構。グッズはつくっていくと面白いですよ。今、パンフレットとかをじっくり家に帰って読むっていう人ってあんまりいないし、だってレコード屋さんに行くと、ただですごい分厚いのもらえるし。そこにインタビューも載ってるし。ツアーの内容もわかっちゃうし。別にメンバーなんかだったら、ホームページで検索できちゃうし。そういう意味でのツアーとしての情報そのものは、普通に手に入るようになっちゃったから、今は実質的なものがいいでしょう。

T:そうですよね。Tシャツ意外と長持ちしますもんね。

A:それにすんごく一生懸命やってるしね、今。すごく一生懸命やってるし。そうなんですよ。それは。

T:最近はTシャツがメインですか?

A:最近はTシャツがメインです。(笑)もう、だんだん、だんだんレコードジャケットから、象印から追われて、追われて。(笑)
 すごいなって思うのは、仕事してるのがすごいなと思いますよ。なんかね。よく僕みたいな人がやってるなって。

T:音楽に関しては、チョコベビーズが初めて。

A:初めてです。いや、バンドはその前にワイルドイーグルスっていうのと、もう一つ名前忘れちゃったけどバンドがあったんですけど、実質的にはワイルドイーグルスっていうのは、ドラムが机たたいてましたからね。ドラムが机たたいて、ベースがそうじのほうき持って。(笑)ボーカルが歌って、リードギターは口で言うっていうバンドだったんですよ、かっこよかったですよ。

T:それ何年前ぐらいですか?

A:中学のとき。(笑)放課後になるとやってたんですよね。めちゃめちゃ、みんなで愛称で呼んだりして。(笑)

T:その次のバンドは?

A:次のやつは、高校のときに、なんか先輩ですごいホモっぽい先輩がいて、その人たちがサイモンとガーファンクル歌ってたんですよ。すげーうまくて、ああ、いいって、サイモンとガーファンクルやろうって、すごいおれのホモっぽい友達が言ってきたんですよ。で、そいつが、なんか『スケアクロウ』とか、そういうそういうホモっぽい話ばっかり言ってくるやつで恐いんだけど、そいつがなんかやろうって言って、おれはボーカルができるって、だからボーカルやるから、ギター弾いてくれって。でもおれ、いきなりギター弾けるとも何にも言ってないのに、おれはボーカルができるから、おまえはギターやってくれって言われて。できないって言ったら、ギターは適当にやってればわからないんだよって。(笑)がちゃがちゃがちゃがちゃやってればいいんだよって。グランドファンクもそうやってたよとか言って。それで、ガットギターでハードブレイカーのコードだけ、ズンチャドゥドゥドゥドゥドゥーっていうところだけ覚えて、それをハートブレイカーだけで20分あるから、30分おれたちはやろうって言って、
2人で。ズンチャって始まるんだけど、そいつがハートブレイカーって言ってるんだけど、だんだんもう興奮してきて、変なこと言い出してくるんだ。それに合わせて適当に、おれもガーン弾いてて、かなりねパンクだったと思う。それを喫茶店でやったことがあるんですよ、一度。めちゃめちゃ安斎君ギターうまいって言われて、すごかった。だってもう、動かせるだけ動かしたんだ、指を。(笑)動かせるだけ、もうぐわーって、右手はがーって弾いてて、左手ががーってやってたんだ、ずーっと。(笑)そうすると何かわからないけど、グルーブができてくるんですよ、がーっとやってると。そうすると、わーってこっちは歌ってるから、すっごいって思ったみたいで。ハートブレイカーしかできなかったですけど。

T:じゃあ、それ以来のバンドが。

A:それ以来のバンド。(笑)なんか、やってること同じって感じだよね。(笑)

T:今、レコーディングを。

A:してますよ、もうすごいですよ。佐川がいないですから。佐川が就職活動でいないですから。変わってるよね。50近くなって就職活動でバンドを休んでるっていうやつって、変わってるよな。でも、すごいあれですよ。真剣に今までは音楽を外から見ていて、それを真似するということだけで、何となく今まで来ちゃったじゃないですか。真似できたら嬉しいじゃないですか、何となく。エアギターにしても何でも、弾けたふりができたらもう嬉しいじゃないですか。そんな感じでファースト、嬉しいっていう気持ちがすごかったけど、今回は確実に音楽がつくれているっていう喜びに変わって。まじめだからね、古田君は。やっぱり、ミュージシャンの人はまじめですね。びっくりする。すっごいびっくりする、ほんとに。ミュージシャンなんかさ、がーってきめちゃってさ、わーって酔っぱらって、なんかさスタジオとか、きょう来なかったねなんて、やっちゃいましたねーなんて、それで、すいませんなんて、レコード会社のネクタイした人が来てさ、すいません、レコードが間に合わないんで、
発売になんて言うと、関係ねーよとかなんか言って、もうスタジオ、なんかわからないけど、グルーピーの女の子と出ていくみたいなイメージがあったんだけど、全く違いますよね。むしろレコード会社の営業の人がそんな感じだよね、キャパクラ行ってて。ミュージシャンまじめだよね。まじめに時間になるとセッティングして来てさ。ね、すごいびっくり。

T:チョコベビーズの新作はいつ頃の予定ですか?

A:チョコベビーズの新作は、今ね、もう既に15曲ぐらいできてるんだと思うんですよ。できてるって、まだ完成はしてないですけど。ほとんど形になってるのは。で、でも、すごいちょっと欲が出てきてて、今、ギターと作曲を担当していた佐川君が就職活動してるので、ここのところは彼が復帰するまで待とうということで、古田君と僕と2人でつくってるんですよ。2人でつくってたほうが、スムーズなんですよ。何でだかわからないですけど。スムーズだし、楽しいんですよ、何でだかわからないんですけど。(笑)そんなこと言うと怒られちゃう。いや、でもあいつがいないと、あの面倒くさい男がいないと、チョコベビーズじゃないので。あの男を入れて、また、せっかくきっちりとリズムと音程の合ったギターが入ってるんですけど、古田たかし君の。それを全部消して、味のあるギターに差し替えなきゃいけなかったりとか。ちょっと今きれいなところを、ちょっと叫んでもらったりとかいろいろして、いい感じのね、陽気な感じにしてもらわないといけないんで、そんなことをしてもらって。
それでも、それを5曲ぐらいやったら大体できちゃうんじゃないですかね。秋ぐらいには絶対できちゃうと思いますよ。

T:じゃあ、間もなくですね。

A:ね。でもね、すっごいびびるっしょ。1枚目より2枚目のほうが。1枚目って、もう全く今まで例がなかったから、1枚目を出すときには、何にも恐れることもなく出せるけど、2枚目って、1枚目よりも進歩したところを見せたいし、少なからずちょっとね、これだけ頑張りましたよみたいなのを見せたいじゃないですか。普通のことを考えちゃうと、出せなくなっちゃうから(笑)で、変わったかね、変わったですからね、ほんとに、古田たかし君は。昔はいわゆるパーフェクトに、本当に完璧主義に近い男じゃないですか、割と。音に関して。きっちりと、ここんとこがちょっとずれてるから、もう一回やってみたいなことを。あんまり言わなくなりましたからね。ここまでなら許せる範囲っていうのが、すごくできたみたいで。嬉しいですけど。

T:じゃあ、ライブとかで新曲も少しずつ出しつつ?

A:ライブね。少しずつ出しますよ、きっと。でも既に前のときから、佐川君が新曲どんどん持ってきてたんですよ、練習するたんびに。毎回のように。だから、結構前のファーストにないやつが、もともとライブではやってたりしたんで、またファーストに入らなかったやつとかもやったりしてるし。ライブでやったやつを、また入れたりとか。そんなこと言うと、すごく、なんかほんとに生意気な、普通の……、あくまでチョコベビーズですから。

T:今年は第二弾をリリースして、ライブと。

A:そうですね。ライブやりたいですね。ライブはね、一番おもしろい。レコーディングがすごく楽しくて、あのライブの緊張感っていうのは、またね、別ですよ。ライブはすごいよね、なんか。ライブは恐いものね。関係ないことやり出すしね、佐川君とか。僕とかも。全然予定にないことやったりするから。だから、僕、古田たかしっていう人をずっと見てきて、今まで古田たかしというドラマーは、すんごくステージで楽しそうにたたいてるっていうイメージがすごいあったんだけど、なんか、僕、あんまり見たことないんだよね、最近。いつもライブのときにぴりぴり、ぴりぴりしてて、チョコベビーズのときは。後ろ向くともうぴーっとしてて。佐川をにらむようにして見てるから。(笑)今、間違ったでしょ、今度はちゃんと入ってよみたいな顔で、ここで入るんだからね、ここだからねみたいな顔で、ずーっと見て。今度は歌はここで入るんだからなって、今度はおれのほう見て、ずーっと。ね。ある種、新しい面を、古田たかしの、しーたかの新しい面がチョコベビーズは見れるっていう。
それでもだんだん楽しんできてるっていう風に、本人は言ってましたけど、わからないですけど。

T:では、「お楽しみに」っていうことで。

A:はぁ。(笑)

T:リリース時に、またインタビューを。

A:ぜひぜひ。ぜひお願いしますよ。

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