熊木杏里


「moment jam session #5」に、出演、参加していただきましたシンガーソングライターの、
熊木杏里さんへのロングインタビューです。

(2005年8月27日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)









熊木杏里(Anri Kumaki)



本名:熊木杏里(くまき あんり=杏の里の生まれ)
生年月日:1982年1月27日生まれ 23歳
出身地:長野県更埴(こうしょく)市=十歳まで在住(平成15年合併により千曲市)
身長:153cm
血液型:B型
専攻していた学科  言語表現学科→自称言葉博士になりたい
好きなもの: 梅。肉。魚。掃除。高いところ。映画を見ること。
嫌いなもの:直射日光。デジタル時計。
チャレンジしたい事:ギター弾き語り。
好きなスポーツ: 野球=見る。K?1=見る。バレーボール=する。
執念:何でも信じる→人を信じたいから。
自覚している性格:直したほうが良いかも知れない・・・負けず嫌い。一匹狼。忘れやすい。
尊敬する人: 井上陽水
死ぬまでに経験したい事:水の中に住みたい。人が食べられる各地の珍味を食べる。

 熊木杏里インタビュー

ニューヨークへ初めて行ってきたんですよ。行きは1人だったんですけど、向こうで人と会ったんですけど。何か大きな気持ちになって。でも自分は小さいなと思って帰ってきたんで、それはすごくいいなと思って。違うところへ行きたいです。


TERA(以下:T):よろしくお願いします。

熊木杏里(以下:K):お願いします。

T:まず、生まれと場所を教えてください。

K:生まれ。長野県更埴市。今は千曲市になりまして、そこで生まれました。アンズの里なので、杏里といいます。

T:本名ですか?

K:本名ですね。

T:ご兄弟は?

K:弟がいます。1匹。失礼だよ。(笑)

T:仲はよかったですか?

K:仲はいいです。今もいいです。

T:小さいころは、二人でどんな遊びしてたんですか?

K:小さいころですか。自転車に乗って、弟を自転車に乗せて救急車ごっこをしました。

T:それはどんな?

K:弟が何もしないのにけがしたという設定で、私が運んでいく。自然が多かったんで、川沿いとか。魚とったりもしましたけど。

T:けがして運ぶだけ?

K:(笑)何か助けたい欲望から。それはちょっと記憶に残ってます。

T:小学校のときって、どんなお子さんだったんですか?

K:小学校のときはですね、男の子みたいでした。えーっと、よく男の子とけんかして勝つような感じで。なんか、後ろからぽんぽんっ、やめろよって男の子に言われて、ふっと見ると好きな男の子だったとか。(笑)やめとこう。私が悪かったっていう、そういう感じです。

T:何か部活とか、凝ってたものとかってあったんですか。

K:部活ですか。小さいときですか。小さいときは部活? ソフトボール。

T:小学校?

K:小学校のとき。やってましたね。

T:結構長く?

K:そんなことないですね。ちょっとだけやってました。

T:どっちかというとアウトドア派な感じ? 家の中とか。

K:小さいときですか。アウトドアでしたね。外に行けば面白いことがいっぱいあったので。

T:小学生のとき。音楽的な習い事とか、楽器やったりとかは?

K:ピアノはやってましたね。ピアノもやってましたし、一時期お琴とかもやってましたね。

T:ピアノは長いんですか?

K:ピアノは、幼稚園から小学校ぐらいまでですかね。

T:琴は?

K:うん。琴、やってましたね。それは、結構ちゃんと先生に習いに行って、楽譜とかも、爪とか。発表会とかもやってましたよ。

T:結構うまいところまで?

K:どうなんでしょう。よくわからないな。でも、そんな難しいところまではやってないですね。童謡とか、そういうやつですね。

T:「さくら」とか?

K:そう。さくらとか。

T:中学校入ると、何か変化したことはありますか?

K:中学は、いや、結局そのままスポーツ少女みたいな。アクティブ少女で。バレーボールをやってまして、青春ぽかったです。

T:青春の思い出はどんなのがあるんですか。

K:青春の思い出は、中学は、バレーボールと友達とはかない恋をいっぱいしてて。その、何か一生懸命みんなで頑張るっていうのは、中学のときだけだったかもしれないですね。先生に怒られながら、お前がやらなくてだれがやるんだよって言われながら、それでもなんか、みんないるんだけど、私の役割っていうか、存在、立場がちゃんとあって、私もいないとだめなんだって思いながら、みんなで朝起きて、練習して、学校へ行ったりするのか当たり前だったので。あれは、ああいうのは中学までですね。

T:ピアノは続けてましたか。

K:ピアノは、東京に私、小学校は長野だったんですけど、小学校の卒業式の直前ぐらいに東京に転校してしまって、父親の転勤の都合で。で、引っ越したときにやめました。ピアノは。

T:中学のとき、好きな音楽や、よく聞く音楽は?

K:中学のときは、はやってる音楽を聞いてましたね。自分で買ったのは、初めて買ったのは洋楽だったですね。

T:何ですか?

K:バレーボールの大会で、テレビでワールドカップで流れてた、マライアキャリーが歌う「OPEN ARMS」っていう曲が入ってるアルバムがあるんですけど、「デイドリーム」かな。それを買いましたね。でも、そのほかに好んで聞いてるのは、その当時はやってたポップスですね。

T:中学3年間はそのような感じの生活で。


K:そんな感じです。

T:東京はどの辺だったんですか?

K:下町です。

T:東京はもともと?

K:しょっちゅうおばあちゃんとか親戚が東京にいたので、あんまり変わりばえは、えらいとこ来ちまったかな、っていう感じではなかったです。あ、そうなんだ。私も東京に住むんだって。

T:割ともうなれてるかんじで?

K:割とそうですね。でも、ちょっとのなまったりとかね、してた問題とかで、ショッキングなこととかありましたけどね。

T:どういうなまりなんですか?

K:「ありがとう」じゃなくて、「ありがとう」とか。「学校」は「がっこう」なんです。「電話」は「でんわ」なんですよ。そういう関係で、ちょっと東京の友達、女の子とか。「意味わからなーい」とか言われたことが。(笑)ありましたけど……。

T:それは長野では普通なの?

K:イントネーションっていう。

T:ほかに何かありましたか?

K:ほかに、言葉自体が違うことはないです。ただ、意味合い。流れていく、イントネーションか違うだけなんで、何とも言えない、こう、ね。だんだん直っていきましたけど。

T:今はじゃあ。

K:今はもう大丈夫ですけどね。一番ショックだったのが、物が落ちるということを、「物がおった」って言うんですよ、私たちは、長野の人は。「あ、おったよ」「財布、おったよ」って言うんです。それを東京の子は「おった? 折ったっていうのはポキッっと折ること言うんだよ」って。すいませんっていう。それはありました。それが東京来て一番最初の思い出はそうです。

T:中学卒業するころって、何か変わったことは?

K:卒業するころは、ないですね。そのまま。期待を込めて、高校生活を送ろうじゃないかということで、ちょっと町を出てみようと思ったので、遠い学校にしたんですよね。その今までいる友達と違うところで。

T:あえて?

K:あえてそうしていたんですね。仲がよかった友達とも別れて。

T:で、高校生活始まりました。どんな感じだったんですか?

K:それがですね、それはちょっと、新宿だったんですね。どぎまぎしてました。えらいところに来ちゃったよ。これが初めて、もしかしたら、私の中で東京に打ちのめされたみたいなところがあるかもしれない。

T:まずは、どの辺で打ちのめされたんですか?

K:えっとですね、まずみんなね、お金持ちな感じなの。で、住んでるところが世田谷、杉並、なんか新宿区、中野区だとか、私にとってはよくわからない感じですよね。都会っ、私が住んでるところとはあきらかに違うっていう、感覚としてあったので。それでね、私が自分の住んでるところのことを言うと、なんか、だれか世田谷とかに住んでる話できるやついないの? みたいな、そういう。話にね、ついていけない感じが。こんな人たちがいるんだって。はやってることとか、雑誌のこととかね。大人びてましたよ、すごく。話ぶりも。全然わからないやって感じで。自分が100%そこで、自分を出せないかもしれない、そっちについていかないといけないのかもしれないって、私は思っちゃって。そっからが大変なんです。そっからね。自分を出し切れないと、息苦しい感じになっていって、あんまり、やっぱり上っ面のことで自分を、向こうとしゃべってたりすると、そこではおもしろいことにはなっていかないじゃないですか。隠してるわけだから。それは向こうにもばれるだろうし、いつもなんかあまりしゃべらないような感じになっていくし。すごく弱かったんだと思うんですね。自分が自分で、そこにいれば別にね、よかったんじゃないかと思うけど、なんかそっちに、自分がそれを知らないことが、すごいだめなことのように思えて。流されていながら、親に反発しながら、友達と何とか仲良くしないといけないみたいな感じもあるから。で、親のほうを、「きょうは、帰らないから」みたいなね。そういうの、あったんですけど、でも結局私はそっちのほうにも完全には行けないような人間で、家族のほうが大事かもしれないとか思って。で、そのころちょうど、歌を習い始めるというか、そういう学校に通い始めるんですね、高校のときに。

T:それは、きっかけは。

K:親父がですね、お父さんがですね、新聞の切り抜きを見つけてきて、こういう、タレント学校みたいなのがあって、養成所、そういうオーディションがあるから、テレビ、日本テレビ関係の何かだったんですけど、それに行ってみなさいよっていうことで。お前にお茶汲みはできないだろうって、最初お父さんか言ってて、それで何となく受けにいきました。何となく行って、そこでは結構歌はね、自分も好きだったんで、ああだ、こうだやってたら受かって。受かったんですね。だから、ずっとそこにいたんですね、高校入ったときには。ちょうど入ったときぐらいですね。そうそう。

T:具体的にどういうことをする、ボーカルスクールみたいな?

K:ボーカルもあって、アナウンス部もあって、お笑い部もあって、女優部もあるみたいな、そういう本当にタレントを育てるところなんですよ。テレビとつながってるところだったんです。だから、いろいろ、テレビの大勢の役とかに駆り出されてみんなで行くとか、そういうのができるところだったんですね。そこで私は歌を習って、ボーカルセクションみたいなところにいて、歌の発声をやりながら、あるとき自分で曲をつくってみようっていうことになっていくんですね。

T:それ、学校が終わって行くの?

K:学校が終わって行くんですよ。

T:週にどれぐらい行くんですか?

K:体力トレーニングの日、ボーカルの日とかあって、多分週に2日、3日ぐらいです。

T:曲をつくるというのは?

K:それはボーカル部分で、作詩を習うわけじゃないんですよ。ただ、やりたい人はやればっていう。先生が、それをまた先生が、自分で詞を書いて歌って見るのがいいんじゃないのかっていうことになって。何となく家でお父さんとかと、それも、きっかけもテレビだったんですけど。曲をつくって歌うっていうそういう企画があって。それに初めて自分で曲をつくってやったのが、すごいよかったと思って。それからちょっと自分で書いてみようと思って、どんどん書いていって。

T:最初に書いた曲って、どんなジャンル?タイトルは覚えていますか?

K:えっとですね、ジャンルは、今と大して変わらないよくわからないジャンルですけど、「テンシノホホエミ」っていうベタなタイトルです。そのとき、「天使が消えた町」っていうドラマを日本テレビがやってたんですよ。それの、いろんなことしゃべってるけど、番宣に行くっていう、そういう番組のオーディションに受かっちゃって、そのタレントスクールから、それに行きなさいって。

T:それはテレビに出る?

K:テレビに出るんですよ。テレビの中で、藤井フミヤさんに会いに行って、そこで藤井フミヤさんが天使が消えた町に出てた人だったんで、会いに行って曲をつくりなさいっていうやつで、指令があって。そういう番組だったんですよ。

T:で、つくった曲が、さっきの。

K:「テンシノホホエミ」っていう。

T:時間はどのぐらいかけてつくったんですか?

K:3日ぐらい。

T:曲が先?

K:曲と一緒ですね。一緒に。お父さんにギター弾いてもらって。

T:お父さんギター弾けるの?

K:そうですね。

T:ギターをやってみようっていう気はまだ?


K:そのときは全くなかったですね。

T:で、曲書きました、テレビ出ました。その後のことは?

K:その後しばらくずっと曲づくりに励みながら。

T:お父さんにギター弾いてもらって?

K:お父さん、もう関係ないですけど。私は一人でやっていくさって。

T:楽器はピアノで?

K:何となくそれでつくって。そういうのがあって、で、学校生活、さっき言った高校生活と並行しながら、そういうのがあって、だんだん自分でやっぱり詞を書いてね、曲が書けて、そういうことができたときから、ちょっとずつ自信を持っていったところがあったから、学校生活もそんなに、ま、いいかなっていう気に後半はなっていったんですね。そのなっていったときに、ある日オーディションが、そのタレントスクールに舞い込んでくるんですよ。行きたい人はどんどん行ってくださいっていうやつなんで、ある日「ああ、ばらいろのじんせい」っていうテレビがあったんですけど、あれで、あれは全員強制的に出動みたいな感じだったんで、よくわからないで行ったんですが、それもCDデビューがそれはできる、決まるっていうのがあったんですね。で、もし、これはちょっとチャンスやないのと思って、そこで自分の曲を歌いました。

T:そこで歌った曲は全く違う、新しい曲?

K:全く違う。新しい。「時計」っていう曲を。最終的に、その「時計」っていう曲で。一次、二次、三次ぐらいまであったんですよ。で、受かったんですね。

T:受かったら、どういうふうに。


K:受かったら。とにかく曲をつくってください。「はい」って。プロということを意識してつくってくださいって言われて、わからないじゃないですか、そんなこと。でも、つくってるときはそんなこと考えないでつくって、レコーディングっていう、そういう得体の知れないものがありまして、それで、それで、そうですね、レコーディングが待ってます。

T:初のレコーディング、どうでした?

K:初のレコーディングは何もかもが感動的でした。自分の曲がね、こんなふうになってしまうんだって。プロの人がピアノ弾いたら、こんなになるんだって。かっこいいって。かなり感動しましたね。

T:そこでは何曲ぐらい?

K:そこでは、3曲。「窓絵」とその「時計」っていうデビューで受かったときの曲と、「りっしんべん」っていう。

T:楽器、演奏は? ボーカルだけ?

K:ボーカルのみですね。

T:特に一つレコーディングの思い出っていうのは。印象深い出来事とかは?

K:私、歌い方がそれまで全然違くて、ふざけたソウル歌いみたいな歌い方してたんですけど、プロデューサー、今もしてくれている、サウンドプロデュースですね、吉俣良さんという方が、初めて私の歌い方を、こういうのがいいんじゃないってしゃべりながら、もうちょっとこうしてみなっていう感じで歌ったんですよ。「窓絵」っていう曲が、以前にデモテープとったときのがあったんですけど、吉俣さんに手がけてもらう前に、そのときの歌い方と全然違うので。こういう、ふぁーっとした、かすれていくような感じの歌い方をするようになったのが、そのとき初めて。これがもしかしたら、私かな。だから、そのときに、のミチができるのも、吉俣さんが、そういう何となくこう、この子はこうなんじゃないのかな、そういうので、自分もしっくり来た感じですね。

T:で、ファーストマキシをリリース。

K:はい。

T:どうでしたか、リリースして。CDが発売された後と。自分の。何か思うことはありましたか?

K:発売されてですか。売れないかなと思ってました。そんなに、実感がないままね、ままだったんですよ。うん。

T:周りの、何か反応みたいなのはあったんですか?

K:周り、親とか? うん。若干ありましたよね。テレビ出てたねとか。何か、私はあんまりもうちょっと聞きたかったりもするんですけどね、そのどう? って。でも、あんまだれも言ってこないのが、近寄っちゃいけない存在のような気がした。

T:ライブとかって、何かやったんですか?

K:ライブやりましたね。

T:どんな感じで?

K:それがいきなりバンドだったんですよね。初めてのお披露目。熊木杏里お披露目ですっていうのが、バンドで。ベース、ギター、何だ、あれはパーカッションもいたかな、いないか。いた? 

T:どうだったんですか、結果。

K:いや、難しいと思って終わりましたね。バンドで歌うって大変だって。

T:どの辺が大変だったんですか。

K:飲み込まれるんですよね、音に。自分の声がかすれていく、カラオケ少女って言われてたんで、吉俣さんに言われてショックだったんですけどね、それはぼーっとしてる、自分もぼーっとしてるような感じでしか歌えない。それか静かじゃないと歌えない。ああいうバンドの中で包まれながら、声の場所を見つけるみたいなのってできてない。できなかった。今はもう、まだそんなにね、バンド経験がないのですけど、そのときは全然わからないでやってたんで、歌いにくいって思いながらやってました。

T:次のマキシが半年後ですね。じゃあ、もうそっからまた曲づくり。

K:曲づくりですね。

T:そのあたりの生活はどうだったんですか。

K:このあたりはですね、友達と分かり合えないような感じになってきて、それで何となくメンタルが心かゆらゆらしてた。でも、割と曲がそういうときに限ってできてきたりするので。できてましたね、そのときは。

T:セカンドマキシ、内容を教えてください。

K:セカンドは「咲かずとて」というタイトルで。「咲かずとて」「まよい星」「二色の奏で」。

T:このころ、何かレコーディングとか、残ってることってありますか?


K:このときは、意気揚々してました。こう歌います。1枚目に比べてちょっと要領もつかんだ感じで。そうですね。恋の歌がメインですけど、「まよい星」とか「二色の奏で」っていうのが、「まよい星」は迷ってるんですけどね。「二色の奏で」っていうのは、お友達とこんなふうに遊んでていいのかしらみたいな、そういう葛藤の曲て。「二色の奏で」っていう曲はですね、バンドで歌うっていうイメージじゃなくてですね、そのま、拙いイメージですけど、そこの中で静かに歌うっていうのができなくて、苦労しました。ヨシマタさんにまた、「私はこんなんじゃ歌えません」って言ったら怒られて、「じゃあ、おまえは歌うな」みたいな、すごい一番それがへこみ泣きしまして。

T:じゃあ、わりと詞の内容っていうのは、リアルな感じなんですか。

K:リアルですね。

T:本当にあったこととか?

K:本当にあったこと。その2枚目は。ほんとだったことですね。

T:で、また半年後に。リリース続きますね。

K:そうですね。

T:3枚目はどんな感じで?

K:3枚目は、「今は昔」というのですね。ちょっと変わった感じにならないかなって。もうちょっと私歌いたいこと、本当はもっと違うんじゃないの。それはいつも思ってるんですけどね。いつも私歌いたいこと、歌いたいことって。で、「今は昔」と「ちょうちょ」何で3曲目がいつも思い出せないの。謎。わー、「冬の道」です。

T:この3曲はどういう感じでできたんですか。「今は昔」は聞いたんですけど。

K:「ちょうちょ」は、飛び立ちたい、何か飛び立ちたい。でも、それもたとえ話みたいになりながら、自分の気持ちは込めてあるわけなんですけどね。それで「冬の道」か。「冬の道」はすごい憧れフォークだったんですね。憧れフォーク作りましたって。そうですね。私、そうですね。多分、憧れフォーク。

T:3枚出て、次アルバムに続くんですが、この流れって。どんな感じに取られてるんですか。

K:自分にとってですか。うーん。あっと言う間でしたね。その都度、次に向けての仕事とか、次、私こういうふうにやりたいっていうのがすごい。1、2、3ってすごく変わっていったところだったんですね。うん。次、こういう歌歌いたいっていう感じで、方向が見えてきた感じがありますね、自分で。

T:ファーストアルバムですけど、どういう構成になっているんですか?

K:これは、すごいもう、できてた曲だったんです。アルバムをつくるから曲を取り直すよっていうんじゃなくて、ほとんど今までにあった曲で、新しくつくったのも何曲かありますけど、早く自分の違うところも見せたい、見せてやるっていうような感じで。だから、アルバムは結構思い入れ深いですね。自分の中だけの違いかもしれないですけど、早くいろんな、もっと違うのもあるっていうのを聞いてもらいたいと。

T:前のとは違うっていうのは、前がどう、それを変えていった感じですか?

K:シングルになる、シングルとしてとかいうことじゃなくて、もうちょっと小さい感情かもしれないけど、だから、アルバムなんでしょうけど、そういうことでした。つまり、シングルのB面に入っているような感じの。うーん。感じの、集まりみたいな、何て言うんだろうな。気持ちとして、ささやかな、みたいな感じなのかな。そんで、結構理想の世の中を勝手に自分で想像してた曲がたくさん、曲が入ってある、あったんですね、「夢見の森」とか、「寿」とか。そういうのを早く聞いてほしかったとか。

T:アルバムタイトルは、どういうふうにつけたんですか?

K:えーっと、悲しい感じにしたかったんですね。世の中は結構悲しいんじゃないか、すごいそのときそう思ってたんで。なんかそういう出来事か結構目に浮かんだりとかしてて、そんなもんで何にも殺伐としたっていう名前にしたかったんですよ。でも、本当はそうじゃないから、そうじゃないよなっていう、だから歌って、歌うんだけどねっていう。何か意味ですね。裏返しの意味でしなかったんじゃないかな。

T:ということは、割と歌いたいことがはっきりしている。


K:うん。はっきりしてた。はっきり、すごいはっきりしてましたね。

T:それは、デビューから時間を経てなのか、それとも以前から歌いたかった?

K:以前から歌いたかったですね。以前から、ずっとそういう気持ちをふつふつと、多分育ててたんでしょうね。自分を思いっきり出せないから、高校生活でも、自分も悩んでたから、早く自分が思ってることを、本当はこう思ってるんだよ、いつも黙っててね、不思議少女ですねって言われてしまうって。すごいだから、みんなに知ってほしかった。迷いなくそう思ってましたね。

T:その思いっていうのは、どのぐらい達成できたんですか。アルバムを出した時点で。

K:その思いは、私、多分、ほぼそういう欲望は達成したんだと思います。そのことに関しては。今ある自分のすべては発揮したような気がする。ただ、そこからですよね。そこからね、今までのそういうくーってなりながら、くーってなりながらいろんなことを見てね、思ってたことが、自然にあったわけで、それを発揮しちゃったと思いますね。

T:そこから、活動はどういう流れになっていくんですか。

K:発売後。発売後。えーっと、発売して、ひとしきりライブだとか、やりながら、曲も書いてたんですね。で、レコード会社が変わるんですね。そこが結構、長い潜伏期間があったんじゃないかな。それから、しばらく1年間あるんですよね。

T:その期間っていうのは、曲とか書いたりとか、ライブをやったりとか、どの辺の比重が多かったんですか?

K:曲書いてましたね。印象で。今ふと残ってることと言えば。

T:さっき言っていた、ある程度自分が書いたことが達成できた後、その期間でつくった曲っていうのは、変化はありましたか?

K:変化はありましたね。で、夢見がちで書いていた部分が自分ではあったんですけど、それがだんだん、今の自分の生活態度とか、今の自分に降り注いでいることをちょっと現実を伴いながらかけるようになったんじゃないかと思いますね。

T:歌い方とか、その辺は。

K:歌い方は変わってないですけどね。より素直な感じになってると、自分では思うんですけど。

T:どの辺から素直っていうのが。

K:何ですかね。うまく言えないですけど、何となくこう歌いたい、より自分が歌ってる感じがしたんですね。より自分じゃなければ歌えない、自分の身に起こっている今のことを、ふっと。苦しい感じじゃなくて、うまく言えないんですけど。

T:2年後になるんですが、セカンドアルバム。その間、曲作りに専念して、2枚目のアルバムのレコーディングスタートあたりの話を教えてほしいんですけど。

K:2枚目が出たときは、やっとレコーディングができると思ってわくわくしましたね。レコード会社が変わったということもあったので、環境が変わると今までの自分をすっと捨てて、ふっとまた違う自分になれたりするじゃないですか。そういう気持ちで意気込みながら。とにかくまたレコーディングができるのが嬉しくて、それは楽しみながらやってましたね。

T:そのアルバム収録曲に関してはその期間につくり続けていたものから?

K:そうですね。

T:テーマ的には何かあるんですか。自分で。

K:何もないじゃない。自分にはっていう気持ちに駆られながら、部屋の中で考えたり、考えてることが多くて、あんまり自分から何かをするっていうよりかは、過去は自分振り返りながら、今、こう、なんかすごい寂しいような気持ちになったり、一人暮らしを始めたということもあって、ちょっと自分が大人になったような感じがして、いろんなことを考えちゃって、それが過去のことに話か向かっていったり、長野のことを思い出してたりとか、自分は何てまだ若者は若くて未熟なんだろうかって思ってしまったりとか。そんなわけで、何か自分が無っていう感じで。そこから出てきた、何かさびみたいないやな、いやなっていうか、もどかしい気持ちとか、そういうのを削り取ったっていう、今、自分の周りにまとわりついているこの感情を削りとって。でも、私は結構それが大事なことのように思えてですね、素直に、結構自分の友達と自分を置き換えてみることがあって、もうちょっと素直に親にも言えたらいいのにとか、もうちょっと素直に自分を感じてあげれれはいいのに、友達に大してよくそういう、思ってたことを、友達かできないんだったら自分が経験して歌おう、そしたら、「そうそう、私もそうなんだよね」とか、ふるさとを離れたら、結構長野を離れたら寂しいよねとか、自分が住んでた家のこととか、そういうもうちょっと大事に、大事ですって、大事ですって言おうよっていう意味を込めてって感じです。

T:出来というか、満足度は?

K:満足してます。そのときまでの自分を切り取った1枚だと思います。

T:結構、その期間って、いっぱい曲をつくってたと思うんですけど、こぼれた曲は?


K:こぼれた曲、こぼれた曲はいつもいっぱいありますね。いつもいっぱいくだらない、変な曲がいっぱいあるんですよ。だめな曲がいっぱいあるんですよ。数打ちゃあたるみたいな。

T:その選曲って、どういう過程を経て決まっていくんですか?

K:聞いてもらって、みんながいいって言ってくれるものがいいんで。もちろん自分でもこれ気に入ってますって言うんですけど、自分が気に入っていても決まらないものとかありますからね。でも、大体自分で満足しているものは満足してくれるでしょうから。

T:4枚目のシングル、シングルカットなんですけど。

K:これは、「私をたどる物語」っていう武田鉄矢さんの詞ですね。レコード会社が変わったときに、事務所に入ったんですよね。武田鉄矢さんの。それまで事務所がなくて、レコード会社だったので、そこから出会いましてね、3年B組金八先生のことについて武田鉄矢さんが書いた詞なんだけど、入団テストのようにね、ちょっと曲をつけてみてくれないですかって言われて。

T:じゃあ、詞が先。

K:詞が先です。私が歌うつもりは一切なくて、武田鉄矢さんが歌うっていうのがあって、私は多分頼まれ作家みたいな気持ちで、武田さんを思いながらつくったんですよ。そしたらそれが、デモテープで渡したら気に入ってくれて、これは君が歌ったほうが絶対にいいよって武田さんも言ってくれたので、そんなわけで私が歌ったんですね。そしたらテレビで流れたら、意外といいですねって言ってもらったので、シングルで。全部。アルバムでは1コーラス、テレビサイズで入ってるんですけど、ちゃんと2番まで詞があったので、全部を聞いてもらいましょうっていうので、出しまして。

T:初めてですよね。他の方の詞を歌う事は?

K:そうですね。初めてです。

T:その辺で、何か違うことってありましたか?

K:大分違いましたね。自分の詞を歌ってるときは、やっぱり自分の言葉で自分が思ってることなので、気持ちが込もるんですけど、自分ではちょっとこうすればもしかしたらよかったかなとか、いろいろ考えるんですけど、人の詞なので、両手を上げながら歌えるわけですよ。わーって。もうただ、ただそれを歌う。雑念か全くなくて、歌うことだけ歌う。私はこの言葉を伝えるんですって、それをすごい教えてもらったような気がして、自分の歌でも、心持ちとしては、そうやって歌おうって。歌って伝えるということを、すごい自分で考えた1枚でした。人の言葉なので。それはすごいこれから役立っていったらいいなと思いますね。

T:今も曲は書いていますか?

K:書いていますが。

T:次の予定は?

K:ある、ありますけど。

T:それに向けて。

K:それに向けて。

T:で、9月30日ファーストソロライブ。

K:はい。

T:このライブは、どういうライブになりそうですか?

K:これはですか。熊木杏里だけの、だれにも気遣わなくていい、のびのびした、のびのびできるよって、私はすごい嬉しいです。だから、それが空気として歌うのも、わーってみんなをそれで包み込めたらいいですよね。それが何となくいつもと違う日常にね、飛び出るみたいな。いらっしゃいませってできたらいいなと思ってるんで、だから、ときを出た時間っていう意味合いもあって、そうですね。

T:曲目とか、構想は?

K:いっぱい歌おうと思ってますから、アコースティックもやりながら、バンドでもやりながら。とりあえず今までのことが全部できればいいかな。初めてのライブで。今までのことが全部できて、一歩その先が見えることをしたいなと考えてます。

T:今後、音楽以外で何かやりたいことってありますか?

K:音楽以外ですか。音楽以外か。旅。また、外国に行きたいですね。

T:また、っていうのは?

K:初めて、潜伏1年の間にですね、ニューヨークへ初めて行ってきたんですよ。行きは1人だったんですけど、向こうで人と会ったんですけど。何か大きな気持ちになって。でも自分は小さいなと思って帰ってきたんで、それはすごくいいなと思って。違うところへ行きたいです。

T:大きな気持ちで。

K:うん。大きな気持ちになって、小さい自分で帰ってきたいですね。

T:今度は、どの辺に?

K:イタリアに行けるとか、行けないとか、行きたいなと思って。テレビとかイタリアの特集をやってるよって、見たりして。別に何ら音楽には関係ないですけどね。

T:最後に、ファンの方々に簡単にメッセージみたいなものがあれば。

K:いつも聞いてくれてありがとうございます。いまだに余り実感のわかない私は、私のCDを大事に聞いてますって言われるのが、今まであんまり実感がない感じなんですけど、何か嬉しいなって、さっきちょっと思ったんで、言ってるんですけど、だから、もっとたくさんの人に聞いてもらえる曲を自分でたくさんつくりたいなと思ってます。ライブはぜひ来てください。今までのライブに来てくれてた人も、初めて行こうかなと思ってる人も、聞いてほしいと思います。

T:じゃあ、これで終了です。ありがとうございました!

K:ありがとうございます。


-end-

 
 インフォメーション

熊木杏里さんの詳しいインフォメーションは、オフィシャルHP(http://www.kumakianri.com/)まで。