福田裕彦(PART1)


YAMAHA DX7用ソフト「生福」では業界を圧巻し、1998年からの浜田省吾とのツアー等、
多岐に渡る音楽活動を続けているキーボーディスト福田裕彦さんのロングインタビュー、そのPART1です。


(2006年2月3日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)


福田裕彦(ふくだ やすひこ)

1957年 東京都出身。血液型A。
1980年、鳴瀬喜博(現・カシオペア)、岡井大二
(元・四人囃子)らとのバンド「QUYZ」のキーボーディスト
としてプロ活動開始。
1981年、斎藤英夫らとのバンド「YOU」でレコードデビュー。
以降、80年代はスタジオプレイヤーとして、シブがき隊、
松田聖子から尾崎豊にいたるまで1000曲以上のレコーディングに
参加。
1984年、生方則孝と共に発表したYAMAHA DX7用
音色ソフト「生福」はスタジオ業界を席捲。海外でも高い評価を得た。
1988年には同じ「生福」ユニットでオリジナルアルバム
「内容の無い音楽会」を発表、カルト的人気を獲得。
1990年、小泉今日子の「見逃してくれよ!」のアレンジで
ビクターヒット賞を受賞。

以後は主に作編曲家として活動。
宍戸留美、爆風スランプ、おおたか静流、鈴木結女、宇都宮隆、
谷村有美、玉木宏 他数多くの作編曲を手がける一方、
ゲーム音楽、アニメ音楽も多数制作。同時に、放送作家、
コラムニスト、コミック原作者、作詞家としても活動。
1996年以降、岸谷五郎プロデュースの「A.A.A. 
バラエティin武道館」の音楽監督を務める。
1998年から、浜田省吾の4年間に渡るロングツアー
「ON THE ROAD 2001」に参加。
キーボード、ストリングスアレンジを担当。
現在もツアーに参加中。
2001年から2年間、PS2ゲームソフト
「OVER THE MONOCHROME RAINBOW」の企画・総監督を務め、
同ソフトは2003年3月 SMEより発売。
2004年、Q・タランティーノ監督作「KILL BILL Vol.1」において
殺陣指導、振り付けを担当した島口哲朗率いる殺陣グループ
「かむゐ」のオリジナルDVD「斬雪」をプロデュース。



趣味:映画。特に「C級以下のSF映画」の鑑賞。
モンスターフィギアの収集。
ミュージシャンにあるまじき映像、特撮オタク。
最も好きなバンド:RAGE AGAINST THE MACHINE
特記事項:2003年末にタバコを止めて以来、酒量がほぼ3倍に。
 福田裕彦インタビュー (PART1)

暇にしてたら、山岸潤史から電話がかかってきて。「今度ヤマハのイベントでサンタナが出るイベントがあるんだけど、
キーボードの難波弘之がスケジュールが合わないから、福田くん弾いてくれんか」って。正直、ちょっとビビりましたけど、嬉しかったですね。それが初めての、プロのステージ体験です。大学4年の10月ごろですかね。


TERA(以下:T):では宜しくお願いします!

福田(以下:F):はい。

T:ではまず、生まれと場所を教えてください。

F:1957年5月3日。東京都板橋区東坂下というところで生まれました。

T:ご兄弟は?

F:兄弟は、私の下に2歳下の妹、5歳下の弟ですね。

T:幼稚園あたりはどういうお子さんでしたか?

F:幼稚園のころは、まず内弁慶、強力。人前で何かするのが大嫌い。ピアノはそのころすでに習ってたんですけど、例えばオフィシャルな場所、発表会であるとか、そういうところで最初からやるってわかってやるのはいいんですけど、
いきなり何げに幼稚園の先生に、福田君ピアノ弾けるんでしょ、弾いてみせて、とか言われると、死ぬほど泣いて拒絶。絶対にやらないって。要するに、出来る限り人前に出たくないっていう子でした。で、あとはお母ちゃんから離れないタイプですね。端的に言えば、甘えん坊。

T:小学校入ると、何か新たなことは?

F:小学校のときも、基本内弁慶。勉強は得意だったから、4年ぐらいから進学塾とか行ったタイプですね。いわゆる受験戦士になるべく、某何たらかんたら進学塾というところを受験して入って、毎日曜日はテストに明け暮れるみたいな、そういう生活を送ってました。だから、そういう状態になっちゃうと、今の子もそうかもしれないんだけど、学校の勉強する必要、まるでないんですよ。「勉強」のレベルが全然違っちゃってるから、学校に関してはすげえ楽勝な感じで。だから、逆に、学校にいる間はずーっと遊べちゃうんですね、友達と。学校は遊びに行く。勉強は家で、だーっ!てやる。趣味は、顕微鏡。1年生か2年生のクリスマスの前に、おやじにいきなり、お前、レーシングカーか顕微鏡買ってやるけどどっちがいい、って聞かれて、まよわず顕微鏡。実はレーシングカー、おやじが欲しかったみたいなんだけど(笑)。俺は幼稚園の頃から顕微鏡が欲しくて貯金してたくらい欲しかったのね。だから案外いいやつ買ってもらいました。で、いろいろそこら辺のものを、自分の口の中の粘膜から、糸くずから、水槽の水から、来る日も来る日も見て遊んでて、その後、フラスコとか試験管とかの実験道具を買ってもらった。要は、「鉄腕アトム」とかの影響で、科学者にあこがれてたのね。でもそのわりに、やってたことはむちゃくちゃ。今でもすごい印象的なんですけど、炭酸水素ナトリウム、つまり重曹ね、と、酢酸を混ぜると、ぶわーってすごいイキオイで泡が出て。で、それをミミズにかけるとのたうち回って死ぬんですよ。それをね、やりましたねー。ミミズ大殺戮ですよ、もう。ドンブリ一杯にミミズ集めてきては、しゅわーって殺しまくりました。まったくガキってひどい(笑)。で、あと好きだったのは怪獣映画。実を言うと幼稚園の時に、怪獣映画にハマるきっかけになった映画があって。

T:どんな映画ですか?

F:まず、見れなかった『モスラ対ゴジラ』という映画があった。これがちょうど僕の幼稚園に入ってすぐくらいに公開されてて、行きたかったんだけど、なんかタイミングが合わずに終わっちゃった。わー、終わっちゃったよってガックリしてたら、夏休みに「マタンゴ」っていう映画がはじまったの。新聞広告を見る限り、なんか見たことない怪獣がががーっと写ってて、人間がこのぐらいの大きさで写ってるわけですよ、小さく。で、人間がこう、空中を指さしてるから、間違いなくデカい怪獣出るんだと思っちゃった。単に、いわゆるコラージュになってただけなんだけど(笑)。で、おやじに頼んで連れてってもらった。板橋区のはずれの、うちの前から都電に乗って、板橋の中央のほうにある清水町というところの東宝封切り館で、『マタンゴ』。もうわくわくですよ。生まれてはじめての「怪獣映画」だから。入るとき塗り絵をもらって、さらにわくわくしながら見ました。そしたらこれがもう、この世のものとは思えぬほどおそろしい映画で。あんな映画、幼稚園児が見ちゃいけないよね(笑)T:やばかったんですね。

F:もう、シナリオが最悪に恐い。若者たちがバカンスの途中に嵐に巻き込まれて、島に流れ着く。その島がいつも雨降ってる。
食い物が何もないんだけど、キノコだけ生えてる。そのキノコを食べると、最初はすごく気持ちいいんですよ。幻覚見ちゃうんだよね、マジックマッシュルームみたいに。ところが、そのうち体がキノコになっていっちゃう。で、どんどんキノコになっちゃって、仲間を誘いに来るんですよ。おまえもキノコになれって。それが、恐いの。襲うっていうより、呼びに来るのよ、食べろって。すげえこわいでしょ。で、この映画のシナリオが良くできてるってういうかムゴいのは、普通、映画って必ずこいつは善玉だろうと思う人間がいるでしょ。役者的にも、顔からしてこの人、いい人そうって(笑)。ところがこの映画、この人は一番いい人だろうと思ってた人間が、まず最初に裏切ってひとりだけ島から逃げちゃう。えーって、思うじゃないですか、子供は。で、そいつの乗って逃げちゃった船が結局帰ってくる。でも、逃げた当人は自殺しちゃってて。しかもその船がカビだらけ、キノコだらけ。その描写がまた、すっげえ気持ち悪いんです。で、まあ、その後もいろいろくらーい展開の末、最後の最後に二人だけ残るんですよ、ヒロインと主人公が。普通は無事逃げおおせるじゃないですか。ところがヒロイン、捕まっちゃうんですよ。捕まって、マタンゴに変わって主人公を呼ぶんです、手招きして。これがまたこえーのなんの。最後には結局、主人公の男は無事逃げれる。でも精神病院に入っちゃってて。実はその男が体験談を話すっていう構成の映画なんですけど、男が話終わって、こっちで医者が信じられんっていう顔して見てるんです。その男がばっと振り返る。そしたらその男の顔も半分ぐらいキノコになってる。これね、東宝ホラー映画史上、最強に恐いと思うよ(笑)。マジで最悪。映画終わったときは、はっきり言って腰が抜けてた。腰が抜ける、っていうのはあれだっていう。ほんとに立てない、もう怖くて怖くて。それから5年間ぐらいキノコがほんとに食えなかったですね。

T:軽いトラウマですね。

F:いや、軽くないです(笑)、完璧なトラウマですよ。でもその精神に突き刺さるようなインパクトを映像から受けてしまったもので、トラウマも受けたんだけど、ある種の強烈な快感のようなものがあったらしくで、そこから映画がとっても好きになって。
そんなこんなで、小さいころは怪獣映画、読む本と言えばSF、で、趣味は顕微鏡。すげー歪んだ子供になりましたね。
でもまあ普通に表でも遊んでたし、転げ回って遊びつつ怪獣ごっこもしてたし、そういう意味では、普通のガキかな。

T:ピアノはずっと?

F:ピアノを始めたのは4歳です。始めさせられたら、案外覚えが早かったんで、どんどん難しいの弾かされるうちに、だんだんチック症状が出てきちゃって、目の上がぴくぴくって。さすがに親も、これヤバいと思ったらしくて、おれとしては、いきなりたずなを緩められた感じはあったなあ。その頃からテレビ漫画の主題歌とかをコピーして弾くようになりました。僕らはアニメ第一世代で、『アトム』があって『エイトマン』があって、『マッハGO!GO!』があって、『宇宙少年ソラン』があって、『レインボー戦隊』がっ・・・ていう風に、うわーってアニメが増えていく時期にリアルタイムで子供やってたから、どんどん新しい主題歌が耳に入ってくる。昔の主題歌は基本的にメジャーの曲が多くて、コード、とかは当然全然知らないんだけど、ある程度伴奏つけられたんですよ。どういうアレンジで弾いてたか今や謎なんですけど(笑)、とにかく一応弾けてたわけ。そうすると、子供たちはみんなわーって喜ぶ。子供たちって、おれも子供だったんだけど(笑)。そしたら、これが変な話なんだけど、小学校1年のとき担任だった先生が、理科の先生のクセに音楽大好きで、おれがそういうのを弾けるって知ったら、いきなりクラスで合唱団を組織しちゃったの。「歌のメドレー」と称していろんな曲・・・文部省唱歌から始まり、最後らへんはアニメソング。全部で10曲から15曲のレパートリーを持って、校内巡回バンドを作っちゃった(笑)。今日は何年何組に行くから、って言って、ホームルームの時間とかにおじゃまして、1年1組の歌のメドレーが来ました、聞いてくださいってやってた。だから、おれ、その頃からバッキングやってるんだけど(笑)。こういうことやってる分には鍵盤弾くの楽しかったんだけど、ややこしいソナタとか弾くのはとっくに嫌になっちゃってて、親もチックが出るのはまずいと思ったらしくて「ピアノやめてもいいよ」と。で、おれのことは諦めて、妹にピアノ習わせ始めたんです。そしたら妹がめきめきうまくなりやがって(笑)。やべー、こいつ、おれの牙城を完璧に脅かしてるなと思った時期があって、もう一回ちゃんと習い始めないとヤバい、アニキとしてえばれないな、と思ったんですよ、で、4年生からレッスン再開したんですけど、結局、運指の練習、3年ぐらいさぼったわけですよね。アトムとかウルトラマンとかそんなのしか弾いてなかったから、全然指が動かなくなってて、妹にとうとう追いつけないまま、でも、なんとなーくそのまま習ってた、みたいな状態でしたね。

T:上級生あたりになると何か。5年、6年とか。

F:5年、6年になっても、相変わらず塾に、受験戦士として(笑)行ってましたから、日曜日は必ず試験。
試験やって、試験解説の授業を受けて帰ってくる。ついでに、ほぼ必ず本屋に寄り道して帰ってくるっていう。
大抵、一冊立ち読みして読んで帰ってきてた。2時間ぐらい立ち読みして。ジュール・ヴェルヌの全集とかは、
買わないで全部立ち読みしました。こう言うとすげえ高級な感じだけど、マンガももちろん読んでました。
週刊のマガジンとサンデーは、古本屋で安く買って、一年分全部持ってたし。そういう「ちび」でした。
今も背は低いですけど、当時は141センチぐらいしかなくて、しかも、ころころ。

T:中学入ると?

F:せっかく受験戦士として鍛えられたにもかかわらず、受験しなかったんですよ。これがまた親が中途半端だよね(笑)
させればいいのに。で、普通の公立行きました。母親に後で聞いたら、あんたがあの時に、おれは音大行くから受験しないでいいだろうって言うから「いい」って言ったって。そんな事、言った覚えないんですけど(笑)。でも、言ったのかなあ。単に、楽なほうを選んだんだね。要は、親、ダマした(笑)。公立の、板橋区立志村第三中学校っていうところに行って、そこでも勉強は楽勝で、ずっと普通に一番でした。逆に言うと、一番じゃないとヤバいっていうプレッシャーだけはちょっとあったんですけど。周りは案外おもしろがってた。どういうことかって言うと、そのころ、高島平団地が出来たばっかりの頃で、一カ月に一回くらいのペースで転校生が来るんですよ。そうすると、今度の転校生はどうもすごく頭いいらしい、今度のテストは福田が負けるらしいぞっていうウワサがたつわけ。で、おれもね、ちょっとぴりぴりってするんですけど、大抵おれが勝つんですよ。で、なんだ楽勝じゃん、と思ってたら、一回だけ、ちょっとやべえなあと思った事態があった。どういうことかと言いますと。実はこの頃も、日曜日の塾っていうのに、やっぱり行かされてたんですよ、親に。高校受験用。だけど、その塾、適当にさぼりながら映画見てたりしはじめたわけ。

T:どの辺りですか?


F:池袋に塾があったんですけど、池袋にはそのころ150円で映画見れる文芸座があって、日勝地下っていう120円映画館もあって、東急の二番館もあった。他にもたくさん映画館があって。「塾行ってきまーす」って言って家出て、授業途中で抜けちゃって映画見てた。なんでそんな風にインチキして見てたかというと、親には映画は月に2本まで、とか限定されてたのね。でも、その頃はもうすごく映画が好きだったから、そんな本数じゃとてもガマンできなかった。あと、チビだったけど中学生男子で、性に目覚めてるんで(笑)、成人映画とか、すげえ見たいわけ。でも、おれ、見た目上、絶対、年のごまかしきかないのね。そこで目をつけたのが「予告篇」。今週は、西部劇やってるけど、次週は成人映画!とかのタイミングを狙って安い日勝地下とかに行くわけ、予告目当てで(笑)。120円で成人映画の予告を観て、うわーっとか思って興奮して帰ってくる、みたいなことを毎週やってたら、ある時の中間試験かなんかで学年で三位になっちゃったの。その時の母親の愕然とした表情。あんた、普通の公立中学行ってて三位って何だ、このバカ!!って言われて、塾行ってることが逆にマイナスになってるんだったら、塾なんか止めろ、家で勉強しろって言う。とにかくすげえ怖いんだ。塾やめるそのこと自体は嬉しいけど、でもそれじゃ、池袋で映画見れないじゃん、やべーって思って、ちょっと勉強して、期末に首位奪還(笑)。で、もう絶対に一位以下には下がらないっていう約束させられた(笑)。でも結局、塾行くふりして映画は、ずーーと続けてたけど。

T:映画以外には?

F:映画と同じくらい好きだったのが、小説書きです。SFね。小学校4年ぐらいから書いてたんだけど、中学に入って友達ができて、同人誌みたいなのを作ろうと。単に、原稿用紙閉じた回覧式のやつですけど。でも、なんせ、チューボーだから、中身というより分量の戦いになるんですよ。あいつは30枚書いたんだ、おれ50枚書いたとか。最後100枚書いた、いや150枚とかいうパワー戦になってきて。負けたくないから、とにかくたくさん書いてた(笑)。でもここでもやっぱり母親に「誓い」っていうのを紙に書かされて、机の上に貼られた。「試験一週間前は小説を書きません」っていう。でも、ほんと書いてましたね。親なんか、なに言ったってダメってことですよ(笑)。

T:今でもその頃の小説は残ってますか?

F:ありますよ、実家に。すごいですよ、このぐらいあるよ、原稿用紙のたばで高さ1メートル以上。友達のを含めてですけど。
あー、このときはこいつが何枚書いたから、おれも何枚書くっていう、そういうすさまじい戦いをしたよなあ、という、チューボーの思い出(笑)。

T:内容的には?

F:いや、おもしろいのかどうかな、今読んでも(笑)。でも、それぞれみんな読みあって、率直に批判し合ってたから、
レベルはそれなりに高くなってたんじゃないですか。文章のうまい下手とかそんなのはあっても、これは展開が甘いとか、
あれはああいうふうに終わっちゃうんだ、つまんねえってみんなで言いあってたし、それが中学校1年から中学校2年ぐらいまで続きましたね。その間には相当書いてますよ。だから、ペンダコ、すごかった。でも、顕微鏡もまだたまに見てて、顕微鏡はストレス解消みたいなところがありました。

T:音楽は聞いてましたか?

F:聞いてましたが、聞くの大変でした。というのは、おれの父親は音楽の教師で、母親は音楽の教師じゃないけど、ごりごりクラシック信者。中学三年までは家ではロックはもちろん、ポップスですら全面禁止だったの。とにかく全部だめ。あんなくだらん音楽は聴いたら不良になる、って真剣に信じてた。だからおれ、自分が小学生の頃の歌謡曲、あんまり知らないです。GSブームも、殆ど知らない。そのへんの「邦楽ポップス」が原体験として全然ないんです。それでも中学くらいになると、こそこそ深夜放送とか聴き始めますから、それなりに自分の好きな曲とかが出来てきたんで、チューボー的に聞きたい音楽は、こそこそ聞いてました。まさに、完全にカウンターカルチャー、まさにサブカルですよ、ほんとに。僕が親に隠れて聞いていたアーティストの代表は、まずなんと言ってもエルトンジョンですね。エルトンジョンショックは中2のときに来ていて、「フレンズ」っていう映画のテーマ曲を聞いて、何ていい曲だ!と思って。それからずっとエルトン・ジョンは親に内緒でアルバム買って聞いてました。でも、それ以外の「洋楽ロック」というのはあんまりピンと来なくて、友達にクリームとかツェッペリン大好きなヤツとかいて、聞かせてくれるんだけど、ダメでしたね。なんと言うか、すげえ単調に聞こえた。あ、でも、「天国への階段」だけは好きでした、ツェッペリン(笑)。むしろ衝撃的にがんと来たのが「はっぴぃえんど」で、中学2年のときにはじめて「風街ろまん」を聞いて大ショックでした。何にショックを受けたかって言うと、まず単純におもしろかったんだよね、歌詞が。松本隆の歌詞がきれいっていうのももちろんあったんだけど、大滝詠一のセンスが好きだったんですよ。あの、なんとなく笑える感じ。押し付けがましくないけど、おかしい。「暗闇坂妖怪変化」とか「台風」とか。あと、細野さんの人を食ったようなメロディ。他の「邦楽」は全く聞かなかったんですけど、「はっぴぃえんど」だけは全く別格でした。天才集団、と思ってた。でも、中学の頃は、自分がバンドやるとかそういうことは、まるで考えてませんでした。この頃、音楽は聞いてればよかったし、自分からコミットするなら、小説か、映画、でした。

T:卒業の頃は?

F:中3ですよね。僕が中3、というと1972年で、ちょうどその時代が革新の時代というか、ちょっと上の人たちは学生運動をしている名残がまだあって。僕の引っ込み思案は随分なおっていて、いわゆる学級委員の集まりの会合の席で、それまで「学芸会」って呼ばれてた行事を「文化祭」って言おうって言い出したんですよ。だってカッコ悪いから。で、「文化祭」にした。その時、忘れもしないですけど、映画を撮りました。当時、学校の授業の一環で必修クラブっていうのがあって、おれは映画研究クラブだったのね。何やるかっていうと、週に1回教育映画を借りて来て見るだけなんだけど(笑)。「リスの生態」とか「日本の漁業」とか(笑)。でも、一応、ちゃんと予算があるわけよ、クラブ活動としての。その予算で、「文化祭」むけに映画撮ろうって。それが初めて撮った自分の映画。中3になった時、親父に8ミリカメラもらったんで、休みの日は友達と集まって映画のキレはしみたいなものを撮ってたのね。小説書くより面白くなってた。発泡スチロールでビルとかつくって、プラモの戦車つくって、爆竹でぱーん、殺虫剤に火つけて火炎放射、とかやって怪獣映画モドキみたいなの撮ったりとか。言うなれば、そういうものの集大成、チューボーなりの。短いコマ撮りのアニメもやりました。

T:8ミリフィルムですか?

F:8ミリです。中学の3年のときの一番楽しかった思い出ですね。

T:上映はしたんですか?

F:もちろん「文化祭」で。それはもう大ヒットでしたよ。映画なんか撮ってるやつ、そんなにいなかったんで、少なくとも僕らの周りに。2本とって、1本は超哲学的な映画で、チューボーなりのいろんな思想を反映したアバンギャルド映画。ストーリーとかなくて、イメージだけみたいな。ただ少年がひたすら懊悩しているような映画なんですよ。「四足記念日」っていうタイトル。でもフィルム、どっか行っちゃったんですよ、見たいんだけど。で、もう一本は、これはまた生意気なんですけど、「世界名作映画パロディ大全集」っていう映画で、映画のタイトルをもじった小ネタ集合映画っていうか、そのころ「ゲバゲバ90分」っていうTV番組がすごく面白くて、モロにそれの影響ですね。

T:さっきのアニメっていうのは?

F:『ある愛の詩』のパロディで、「ある藍の豚」っていうアニメ。小麦粉の粘土で人形作ってコマ撮りやってるんですけど、人形、乾くとどんどんぼろぼろになるんですよ。やばいヒビはいってきた、とか言いながら、必死で撮ってました。ストーリー的には、まず、藍色の豚がいる。普通の豚はピンク。だから、そいつ、藍色の豚はいつもハブにされてる。ハブにされて悲しいなと思ってるところに、おおかみが襲ってくるんですよ、で、おおかみ、ピンクの豚は追いかけるんですけど、藍色の豚はシカトする。で、「おおかみにまで無視された豚」は、川に身を投げて死ぬっていう(笑)。ひでー話ですけど、そんなの作ってましたね。あと、ちょい大作では『大脱走』。僕らは学生運動を理解していたわけじゃないんですけど、ちょうどいわゆる赤軍事件があって。わりと「革命勢力」=悪、という単純なイメージがあった。だから、革命後のすごい管理抑圧社会で、思想犯収容所からみんなが脱走しようとして皆殺しにされるっていう映画なんですけど。ちょっとアクションできる友達とかもいたから、階段落ちもやったし、あと鉄パイプでマシンガンを作って、銃口に爆竹入れて、一発ぱん、って撮って、またぱん、とやってを何十回も撮って、編集で一コマずつつないで、ばばばばっと連続発射に見せる、とか、すげえ楽しかったですね。音楽は一応、自分で弾いてつけたりしてました。あ、あと、エンニオ・モリコーネ、と、ストーンズは使いました(笑)。

T:高校あたりは?

F:バンド始めました。ある日音楽室のピアノを弾いてたら、長髪の、背の高い大人びたやつが、「きみ、ピアノ弾けるんだね」って来て、「僕バンドやってるんだけど、一緒にやらないか」って誘われたのね。高校入ってすぐぐらいって、マセたやつと、ウブなっていうかオクテなやつって、すげえ落差があるじゃないですか。おれはもう見事に「オクテ系」で、その話しかけてきたヤツは見事にマセガキ。かっこいいやつでね、いわゆるギター小僧だった。で、なんというか、抵抗もできずに(笑)そいつとバンドやることになった。で、両親に話したら、青ざめるかと思いきや、なんと、いきなり協力的なんですよね。ワケわからないんだけど、多分、高校生になったからもういいやと思ったのかな。これは未だにナゾです。おやじの努めてた小学校の音楽室を、毎日曜日ごとに練習場として貸してくれることになったんですよ。これはすげえ助かりました。練習代、タダですから。こうしてバンド少年誕生。髪のばす、服装変わる、たばこ吸う、酒飲む。見事な不良になったなって、いまだに思ってるよね。ロックって、やっぱり不良になるんじゃんって(笑)でもバンドって言っても、一応コンテストにちょろっと出てすぐ落ちたりとか言う程度の、まあ文化祭バンドですよね。

T:バンド名とかって。

F:一番最初に組んだのは、FINDってファインドっていうバンド。メンバーの頭文字集めただけ。でもたまたま「FIND」ってなったんで、いいじゃんって。一番最初にやった楽曲がすごくて、いきなり「シカゴ」の組曲やったんですよね。「バレー・フォー・ア・ガール・インブキャノン」って、15分ぐらいの組曲で。ほかのメンバーが「シカゴ」大好きだったんです。ちょっとカルチャーショックでした。はっきり言って、ちょっと理解絶してる部分がありました。おれにとっては難解でね。時代が時代なんで、当然ディープパープルの「ハイウェイスター」なんかはやっていましたけど、うちのバンドって「シカゴ」メインでやるんだ、ちょっと聞いてみるか、と思って聞いてみたら、ヒット曲は普通のロックだったんで安心しました(笑)。2年生になってバンドメンバーが変わって、バンドの名前も変えました。「ROTTEN PEACH」。腐った桃、ですね。エルトン・ジョンの曲名からのいただきですけど。このバンドでは、一応、アルバムを自主制作しました。オリジナル中心ですが、はっぴいえんどのコピーとかも勝手にいれちゃいました(笑)。そういえば、おれがはじめてバンドを組んだ高校一年のとき、はっぴぃえんどは解散しちゃったんです。僕の行ってた高校のすぐそばの文京公会堂で解散ライブがあって、ライブアルバムが出て。細野晴臣さんは実はすげえベースうまいっていうの、そのとき初めてわかったんですけど(笑)、そのライブアルバム聞いて。そしたら、中学の時に一緒に同人誌やってた友達が、こいつは別の高校行ってたんですが、新しい情報を持ってきて、「シュガーベイブ」っていうバンドがあるって。なんと、「はっぴいえんど」の大滝詠一さんがプロデュースしてるって言う。それで、ライブ行こうって誘われまして。

T:それは貴重なライブですねえ。

F:ですよね。あれは「シュガーベイブ」初めてのワンマン、のはずです。厚生年金小ホール。司会、大滝さんでした(笑)。
とにかくよくてねそのライブ。バンド始めてるから、いかにうまいか分かるんですよ。その時ドラムは、多分、センチメンタルシティーロマンスの野口さんだったはずです、ユカリさんの前だったんで。いわゆるハイハットワークが、ハービーメイスンっぽいんですけど、それを初めてナマで見たんですよ。ハイハットって言ったら、チチチチと8ビ−ト叩くのしか知らなかったから、両手でちきちきってやるのを、うわーっかっちょいい!!って思って見て。ベースは鰐淵さんってかただったんですけど、これまたすごいわけね、高校のバンド小僧には。ちょっとウォーキングっぽいのが入ってるベースで、相当衝撃だったのと、あとなんと言ってもコーラスがうまかった。これはまさに圧巻でした。何じゃ、このバンド!?みたいに思って。奇しくも上の厚生年金大ホールではリック・ウェイクマンの「地底探検」ライブやってたんですけど、そっちは全然興味なし(笑)。

T:なるほど。

F:あと強烈に印象に残ってるのは、大滝さんのソロプロジェクト。大滝さんって、この頃、精力的にライブやったんですよ、ライブハウスで。荻窪のロフトで2DAYSとかやってて、これは真剣に学校サボって見に行きました。1日めはバックバンドが鈴木茂とハックルバック、で、2日目はシュガーベイブがバック、とかいう、当時のおれにはもう直球ど真ん中ストライク、なライブでした。ハックルバックの時、キーボードのトラでいきなり矢野顕子さんが来てたりとか、そういう時代ですよ。何だ、この女、異常にピアノうめー、誰よこれ、みたいな。細野さんの『HOSONO-HOUSE』、大滝さんのナイアガラ。あのへんは、ほんと圧倒的に楽しかったですね。イメージも含め内容的にも。それで、そこから追っかけるように聞くようになったのが、ティンパンレーですね。そういう意味では、おれなんかの世代は完全に、今で言うJポップユーザーの第一世代なのかもしれないですね。
もちろんその後、一緒にバンドやることになる岡井大二のいた「四人囃子」も聞いてたし、ナルチョの「バクス・バニー」も、もうちょい後では「サウス・トゥ・サウス」も聞き始めました。

T:洋楽では?

F:エルトンジョンが、僕の高1の時に「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」っていう最高傑作を出しちゃうんですよ、
エルトン、まだ26なんですよね、そのとき。で、やっぱりね、それよりいいアルバム、それ以降1枚も出してないです、彼は。
だから、エルトンはそこで終わったんですよ、僕の中で。もちろん、その後も買って聞いてるんだけど、どれを聞いても「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」に全くかなわない。いまだにエルトン・ジョンのライブの1曲目って、このアルバムの1曲目をやるんですよ。やっぱりね、クリエイターのピークっていうのはあるんだなっていう、おそろしい事実ですね(笑)。エルトンが「終わってしまってた」んで、普通にパープル聞いたり、ツェッペリン聞いたり、クイーンも聞いてはいたんですけど、実はおれ、基本、その当時「ディストーションギター」っていうのがあんまり好きじゃなかったんですよ。今のおれの趣味からは考えられないんですが。かといって、プログレも嫌いでした。「ELP」「YES」「キングクリムゾン」、どれも全然いいと思わなかった。特に「ELP」はリズムが悪くて聞いてられなかった。変にクラシックを意識してるのもすげえダサく思えました。今でもキライです(笑)。クリーンなギターのカッティングで、グルーブ感のあるものが好きだった。だから、その当時そういう言葉はないですけど、「グランジっぽいような印象のあるもの」は嫌だったんです。それはやっぱりね、クラシックばっかりだったからね、聞いてたものが。ところが大変革がそのうち起こっちゃうんですけど・・・まあ、とにかく高校時代はディストーションものじゃないものを聞いてました。

T:高校出るあたりは?

F:高校3年の時、僕は文芸部を主宰していて、機関紙も出し、小説やら詩やら書きつつ映画撮ってました。まあ今で言えば典型的な文系オタです。映画やりたいなって真剣に思ってて、休日は名画座とか行ってずっと入り浸ってるみたいな感じでいたわけですよ。ガールフレンドと映画見に行く時も名画座ばっかり。お金ないし。で、だんだん「大学進学」マジメに考えなくちゃ、になってくるじゃないですか。とりあえずどうしよう、まあ方向は文系だなっていうことは自分の中では決めていて、でもそこから先が決まらない。周囲、要するに、母親とか教師は、当たり前みたいに「東大受けろ、東大受けろ」って言ってくるわけですよ。
でも東大っていっぱい受験科目があって、それが嫌で、なんせ、そんな勉強してないから、おれ。だって、小説書いて、映画とって、バンドやってたら、そんな8教科も、受験勉強してる暇ないですよ(笑)。で、一応、それでもどっか大学受けるしかないなと思ってたら、その年に、今村昌平さんが日本映画学校を作ったんです。すごい!そっち行こう!って思いました。今村昌平監督、好きだったし。で、母親に、こういう学校があるんだけど、ここどう思うって。そしたら「そこ行くと、映画監督になれるの?」って言われた。で、あー、なかな核心つくこと言うよなと思って、「いや、分からない」って。すると今度は「あんたの好きな映画監督はどこの大学出てるのか調べたの」って言うわけですよ。それは調べなくても何となく知ってて、おれがそのころ好きだったのが、実相寺昭雄さん、篠田正浩さん、今村昌平さん。日本映画ばっかり見てたんですね、高校になってから。最初に好きになった映画は岡本喜八の『肉弾』という映画なんですけど、それ見ちゃったら、もうだめだ、バカバカしくてハリウッド映画なんか見れないと思ったんですよ。話もどしますが(笑)実相寺さん、篠田さん、今村さん、みんな早稲田だったんです。さらに、一番好きだった実相寺昭雄さんが、早稲田文学部仏文科。早稲田の文学部かあ、いいんじゃないかって、おれには合ってるかもしれないな って思ったんで早稲田行きました。

T:大学に入った後の流れとしては?


F:映画やる気まんまんで入ったんですよ。映画と文学やる気満々入って、でも、とりあえず大学生なんだから勉強しようと思って、すごい勉強してました。大学入ってから、家で1日5時間ぐらい勉強してましたね。マジ、鑑ですよ大学生の(笑)。でもいわゆるサークル活動は・・・これが、やらなかったんです。普通、大学行ったらサークルじゃないですか。もちろん、最初からやらないつもりじゃなくて、新入生としてどこ行こうかなと思った時に、映画のサークル、何故か行かなかったんだよね。なんでなのかなあ。実はよく分からない。でも、多分、いざ入ろうかなと思った時、映画サークルの「縦社会」構造っていうのがなんか見えちゃったのかも。おれ、ほんとにダメなんですよ、縦社会不適応で。なんせ、体育会系の経験、完全に0、いつだって俺が大将、でやってきちゃってたから(笑)。でね、この際映画系はやめて、とりあえず、どっか音楽系のサークル入っとくか、と思ったの。すげえ軟弱っていうか適当(笑)。でも、ロック研は音がうるさそうで嫌だと。じゃあ、モダンジャズ研究会とか、ビックバンドとかはどうかっていうと、いまいちピンとこなかった。そこで思いついたのがニューオリンズジャズクラブ。当時、「ダウンタウンブギウギバンド」でピアノを弾いてた千野秀一さんっていう方が、ちょっとニューオリンズスタイルのピアノを弾いてて、ああいうピアノかっちょいいなあ、と思ってたの。ニューオリンズスタイルのストライドピアノが好きだったんですよ。今でも大好きですけど。あと、ラグタイムとか。

T:なるほど。

F:で、ニューオリンズジャズクラブ行こうと思って、入会申し込みに行ったの。そしたら部室にボロいアプライトのピアノがあって、オーディションって言うんじゃないけど、弾いてごらんって言われて弾いたわけですよ。弾いたら、当然ちゃ当然なんだけど、その辺の新入生よりはうまい。なんだかんだ言ってピアノ歴長いし、がーって弾くから。そしたら先輩がね、妙な嫌味を言いやがって、一生忘れないんだけど(笑)、「君ね、出る杭は打たれるよ」って言ったの。「なんだ、このやろう」と思ったけど、「まあ、いいや」とその場はガマンした。その後、「新入生歓迎会があるから」って言われて、「いついつ。ちゃんとスーツ着てきてね」って言われた。それでもう決定的にかちんと来て。ジャズやるのにスーツかよ、と思ったのね。でもう二度と来ねーよこんなとこ、と思って、それっきり(笑)。多分、全部のサークルの印象がそれで決まっちゃって、大学のサークルなんてくだらないもの、絶対入らないと思って。だから、大学生活、つまらなかったですよー、サークル入らなかったから。でも、その年の夏休み、フェンダーローズっていうエレピが欲しくて欲しくて、一夏つぶして、ドカタのバイトやって買いました。78万円したんです、その時。とてつもないですよ、当時の78万円って(笑)。だって、一夏つぶした肉体労働で稼げたの15万円ぐらいですから。でもあれを買わなかったら、多分、音楽はそのあと、やってなかったですね。そういうポイント、ポイントっていうのは、人生には確かにありますよね。で、自分が高校のころから一緒にやってた友達と、私立でサークルつくって、それはもう今でも仲良く酒飲んで、旅行行ったりしてるぐらい続いてる仲間なんですけど、そいつらと定期的に公会堂借りてライブをやったりやってたから、余計大学では本当に勉強しかしなくなっちゃいました。それはそれで歪んでましたね。

T:私立のサークルっていうのは?

F:これが出来たきっかけになったのが、また話の時系列無視しちゃうんですけど、高校3年生の文化祭なんですよ。
「高校3年生の文化祭」っていうのは、ある種、切ないポイントですよね。例えば『青春デンデケデケデケ』とかでも、そこで自分が好きなことと別離する、っていうポイントとして描かれてますよね。要するに、大学受験というものが控えてるから。そこまで引きずってきた「自分の好きなもの」とは、きれいにお別れしなきゃいけない。バンドに関しても、何となくやってた、とは言いつつも、やっぱりそれなりに一生懸命やってきた。高校2年のときには自主制作のアルバムも出したし。相当のエネルギーを投入してやってきたんだけど、もうここから先バンドはやらない、お別れだって言う、「ターニングポイント」が高三の文化祭だと思ったので、すごい力入れて練習して、すごい力入れて機材も借りてきて、初めてマルチの卓も用意して、マイク立てまくって、録音準備もちゃんとした。もうこれが「さよなら青春」のライブ、ぐらいの覚悟で準備したんですよ。これが終わったら、おれはもうすっぱりバンドをやめるぞお、・・・・と思って、当日です。ライブ始まった、これが最後のライブだ、とか思って気合入りまくりでやってた。メニューは全部で20曲ぐらいあって、その10曲目ぐらいのとき、さあ、これから後半で盛り上がるぜ、っていうときに、いきなり先生舞台袖から来て、「福田、台風来てるから文化祭中止だ」と。は? 「台風で中止、今すぐやめて。」「がーん」。僕のさよなら青春、めちゃくちゃ中途半端なところでぶちっと切れちゃって(笑)、「何だ、これ」みたいな(笑)で、そのライブ、終わっちゃったんですよ。

T:そのバンドの編成は?


F:編制で言うと米米クラブみたいなバンドで、ツインキーボード、ツインギター、パーカッション、ドラム、ベース、ボーカル3人とかのバンドだったんですよ。他校生もたくさん混ざってました。で、次の日は、めちゃくちゃいい天気で。みんなで機材返しに行きながら、これじゃ終われなくねえか、っていう話になって。その文化祭が10月の頭で、どっかでリターンマッチやろうよっていう話になって、11月にライブやったんです。その時に、このメンツでサークル作ろうよ、って話になって、結局音楽活動は続いていくことになったの。要するに、おれ、「音楽をやめ損ねた」(笑)。この時のバンドが、どんどん友達ひきこんでサークルに変わっていくんです。その中におれのバンドもあって。基本、オリジナルやってました。そのころはおれの弾き語りで。歌、ヘボでしたけど(笑)。でも大学2年のときに大失恋して、歌詞書けなくなっちゃった。そしたら都合がいいというかなんというか、ちょうど「クロスオーバー」「フュージョン」ブームが来て。じゃあ、インストバンドやろうと。ちょうど、高中正義さんががファースト出した頃ですね。いろんなインストゥルメンタルのバンドが出始めて。カシオペアとかもこの頃です、出てきたの。で、大学3年、1978年に、『夢職人』っていうインストバンドでYAMAHAのEASTWEST78って言うコンテストに出るんですよ。運よく決勝大会まで行きました。その時優勝したバンドは「ウシャコダ」っていうブルースバンド。その後彼らはプロになったんですが、もうとっくにいないですね。おれのバンドは、「シャネルズ」と一緒に2位でした。もちろんこの時に、できればこのバンドでプロデビューしたいとか思ったんですけどレコード会社の人が見に来ることもなく・・いや正確にはワーナーの某ディレクターさんが一回だけ来てくれたんですよ。でも練習見にきて、まあ頑張ってねーって帰っちゃって(笑)。このかた、おれがプロになってから何度かお会いしてるんですが、「スターダストレビュー」のディレクターやってました(笑)。

T:大学は4年間。


F:はい。1、2年はほんとにまじめに勉強してすぎました。で、3年になるとき、また人生のあやまちがあって。

T:(笑)それはどんな?

F:2年の一般教養過程が終わって、専攻を決める日のことです。一応成績の条件があるんですけど、おれの場合、ほんとにまじめに勉強しちゃってたんで、どんな専攻でも申し込めば100%とれる状態だった。で、専攻を決定する書類に、仏文専攻希望、って書いたんですよ。やっぱりなんとなーく初志は残ってて、「仏文だ。実相寺さんが行ってた仏文だ!」と思って仏文って書いて、提出を待って座ってた。先生が入ってきたら書類提出。それでもう変更は効かないんです。そしたら、おれの隣の席に、4浪して早稲田に入ってきたっていう、非常に人望の厚い、マツバラ君っていう人が座ってまして。当時の4歳年上、ですからね、すごい大人ですよ。その人の専攻希望欄を見たら「社会科学」って書いてあるんですよ。おれは「社会科学」なんて考えたこともなかったんで、マツバラ君、社会科学って何?って聞いたのね。そしたら、彼は、こうこう、こういう学問なんだってとうとうと説明をはじめるわけ。「僕は最初は心理学を専攻しようと思ったんだけど、早稲田の心理学は実験心理学で、ぼくは実験心理学で人間は救えないと思うんだよね。社会科学は、僕の見地から言うと、人間が救える学問だと思うんだ」って説明されて、おれ、仏文消して、社会科学にしちゃったんですよ。なんて意志のない男(笑)で、おれ、社会科学専攻になっちゃったんですよ。

T:(笑)

F:これがつまらなくてさ、おれ的には。大学3年の夏には、大学のゼミの教授の研究に協力させられる社会調査っていうのがあって。これがマジ、最低。うちのゼミの教授は「パニック」のを研究してて。つまり、情報伝達の研究。ちょうどその頃、鶴見川流域でコレラが発生したという事件があって、ちょっとした情報パニックが起きてたのね。それで、教授、その情報の変質がどう起きたかというのをフィールドワークとして研究することにして。おれら学生は、無作為抽出された対象に対して一人25件ぐらいノルマで、1時間以上かかるインタビューさせられた。もう地獄。真夏で、炎天下歩き回って日射病になっちゃって。でもおれなんかまだよくて、調査エリアによってはものすごく調査しづらいところとかあって、本気でバット持って追い返されたやつとかいるんですけど(笑)。ま、そういうこともありーので、社会科学という学問は、本当におれにはちっともおもしろいと思えず。1、2個の授業だけ、ちょっとおもしろかったけど。でも、全部、おれのせいだから(笑)。なんであの時、仏文消しちゃったかなあって話ですよね(笑)。ほんと、バカ。で、サークルも入ってないし、4年生になったらみんな就活で大学来ないじゃないですか。おれは就職するつもりなんてさらさらなかったから大学行って、一人ぽつん。そんなふうに無聊を囲ってると、いきなりある友達が来て福田くん、ちょっと話聞いてよって。おれの友達の女の子のボーカルが、EASTWESTの決勝大会に出たいって言ってる、と、そう言うのね。福田くん、メンバー集めて、決勝大会に出るためのバンド組んでくれないかって。

T:傭兵みたいな感じですね(笑)。

F:そうですね。でもこれ、案外ムチャクチャな話で(笑)。何だかんだ言っても、1000バンド以上がエントリーするだよね、EASTWESTって。で、決勝大会に出れるのはそのうち16バンドくらい。そうそうカンタンに出られっこない。ナメたこという女がいるもんだなあ、バッカだなあ、と思ったんですが、でもまあ、他にやることもなし(笑)。ちょっとやってみるか、と思って「決勝大会に出たことのあるプレイヤー」を集めたんです。そしたら、案外いいメンツがそろったのね。で、ボーカルの女の子も案外かわいくて、決勝大会行きたいとかムチャな事言うだけあって、歌も相当うまかったのね。ソウル系のシンガーでした。こりゃ案外いけるかなと思ったら、問題がひとつあった。そのボーカルの女の子の彼氏がドラマーだったんですけど、これが下手(笑)。どしゃくしゃなドラムで。でも、ボーカルの彼女の彼氏じゃやめさせられない。しようがないから、そのバンドで予選出たんですよ。そしたら、これがまたターニングポイントなんですけど、予選の審査員やってたのがギターの山岸潤史で。
コンテスト終わったあとの講評でいきなりおれを名指しで、「福田くん、お前のピアノ、イナタいなー!ほんとに東京出身か?」っていうわけ。「はあ、東京ですけど。」「そうか。今度一緒にやろうや!」って言ってくれて。初めてそのときプロの人から声かけられたんですね。そのバンドで、一応決勝大会行く直前の予選までは行けたんですけど、そのレベルまで行くと、やっぱりドラムがガンで(笑)。結局、落ちちゃった。それで「おれの1979年の夏」は、なんか不完全燃焼で終わっちゃったんですよ。
で、また暇にしてたら、ほんとに山岸潤史から電話がかかってきて。「今度ヤマハのイベントでサンタナが出るイベントがあるんだけど、キーボードの難波弘之がスケジュールが合わないから、福田くん弾いてくれんか」って。正直、ちょっとビビりましたけど、嬉しかったですね。それが初めての、プロのステージ体験です。大学4年の10月ごろですかね。その後に、山岸潤史がベースのナルチョにおれを紹介してくれて、ナルチョからも「来年から新しいバンドやるから、お前一緒にやらんか」と言われたのね。なんか、就職決まった感じでした(笑)。と同時期に、ギターの斉藤英夫っていう男からも電話がかかってきて。彼は、今もう完全に作家先生ですけど、森高の「私がおばさんになっても」を書いたやつです。彼も山岸潤史経由の知り合いのつてで電話をかけてきて、来年から新しいバンドをやるので、一緒にやりませんか、と。彼は当時、慶応の3年生だったんですが、一緒にバンドをやってたメンバーが4年生で、全員就職しちゃうんで、バンドを組みなおさなくちゃならなかったんです。で、英夫と組んだバンドが「YOU」っていうバンドで。のちのちこれがおれの「デビューバンド」になります。こんな感じで、おれ、卒業と同時に一応「プロで」バンド始める予定だけは立ったんですね。で、さらに、79年の10月から、神田の宮地楽器、という楽器屋さんで、YAMAHA企画のシンセサイザースクールの講師をやりはじめました。当時はシンセはブームになりかけてて、生徒は相当集まって、おかげで月に10万円くらいはコンスタントに稼げるようになりました。それでも、月10万じゃあとても食っていけないし、バンドやったって最初のうちは全然食えないはずだから、どうしようと思って、母親に言ったんですよ。「ちょっといろいろ軌道に乗るまで学生やってていいかな、半年卒論を出さないと、秋卒業ができるんだよね」って。そしたら、「いいよ別に、でもその間学費かかるんでしょ、それあんた払いなさいよ」って言われて、がーん、そんな金ないし、いいやめんどくさいから出ちゃえと思って。というわけで、出ちゃったんですよ、4年で。

T:YOUっていうバンドは、アルバムを。

F:出しました。1981年、僕が24の時です。いわゆるおれの「レコードデビュー」は山岸潤史のセカンドアルバムで、これが80年。同じ年にナルチョのソロアルバムをレコーディングして、その後です。当時コロンビアに「BETTER DAYS」というフュージョン系のレーベルがありまして。渡辺香津実さんとか、マライアとかがいたレーベルです。そこから「ピッキー・スリッカー」というアルバムを出しました。英語で「小さな事をあげつらって言うイヤなヤツ」っていう意味(笑)。まあ、おれら、あんまり性格いい、とは言えなかったので、そういう意味ではすげえ的を得たタイトルつけられたなあ、と思って自画自賛してました。「YOU」はキーボード、ギター、ベース、ドラムのフォーピースバンドで、ベースは荻原メッケン。今もばりばりやってます。ドラムがギターの英夫の弟で、斉藤亮。「年子バンド」で、僕が24、英夫が23、ドラムのリョウスケが22で、荻原が21。若いバンド。レコードデビュー前の、「YOU」としての旗揚げライブの時は、23、22、21、20で、平均年齢21・5。うひゃー、ですね(笑)。まあ、でも、実を言うと、アルバム出した時点では、すでにフュージョンブームが下火になりかけてるころだったのね。僕ら自身も、「ピッキー・スリッカー」のレコーディングが終わった時点で、16ビ−トのこちょこちょっていうのにだんだん飽きてきてて、どんどん大音量の「インストロックバンド」になっていっちゃうんですよ。時代としてもニューウェーブとかもがーっと来てて、それでどっちかというと、かなりスクエアの方向にビート的に行き出して、もう、16で、デッタカッベッタ……っていうのは違うよねって自然に思ってきていて。で、ちょっと語り損ねてたんですけど、おれがちょうどEASTWESTに「夢職人」で出てた頃、実は裏で聞いてたのは、クラッシュとか、ピストルズなんです(笑)。もちろんフュージョンも聞いてた、ウエザーリポートも聞いてたし、ハービーメイスンも聞いてたんですけどね。これ、妹の影響です。当時、妹はパンク大好きで、ジャム、ストラングラーズなんかもがんがん聞いてた。聞いてるうちに、こういう荒々しくてざくざくしてるのっていいな、と思ってきてて。どんどん上品なものに「飽きて」いったんですよ。そういう下地もあったんで、「YOU」はどんどん過激になっていっちゃいました。で、そんな中、2枚目のレコーディングもしたんですけど、レコード会社とのトラブルもあって、結果得体の知れない映画のサントラ盤として出てしまいました。だから「YOU」は、「2枚目」のアルバムは、結局出せなかったんです。

T:得体の知れない映画、ってなんですか。

F:得体知れてるんです、ほんとはね(笑)。でも、なんとなくそう言いたい。悔しいから(笑)。「燃えよカンフー」という中国の武道家たちを描いたドキュメンタリーで。中国のいろんな拳法をひたすら紹介するという、マジメな作品です。今をときめくジェットリー、当時で言うリー・リンチェイとかも出てくるんですけど。なんにせよ、いきなりそういう映画のサントラ盤にされちゃったんです。ほんとは「NATURAL BEAUTY」っていうタイトルのつもりが、ですよ(笑)。ものすごい衝撃でしたね。だから、「YOU」としてのアルバムっていうのは、「ピッキースリッカー」1枚。ゆえに、完全カルトバンドですよ。で、2枚目のアルバムっていうか「燃えよカンフー」には、16ビートの曲は2曲ぐらいしか入ってないです。全部8。そのころのライブは、マーシャル三段積みグワーっみたいなサウンドになっていて、そのうちギターも1人ふやしちゃって、すさまじい音量のバンドになってて、客がもう、体硬くして足突っ張って聞いてるバンドで(笑)。いやもう、ひどいひどい(笑)。さらに、そのうち、どんどん変拍子の曲とかも増えてきて。フュージョン聞きたくて来てるのに、このバンド何???ってなって、それでも何となく、だらだらと、ライブ自体は84、5年まではやってたのかな。

T:その後も、バンド活動を?

F:バンド活動、に分類すべきかどうか分からないんですが、デビュー前の「爆風スランプ」に参加してました。まあ、単なるサポートのような、メンバーのような微妙な感じだったんで、「バンド活動」と言っていいかどうか分からないんですけど。「YOU」があるところでライブやった時、前座に、「爆風スランプ」の前身のバンド、「スーパースランプ」が出てて、おれ、そのライブで彼らがものすごく気にいっちゃったのね。で、「スーパースランプ」のベースだった豊岡くん、という人に連絡先教えたんです。そしたら、電話がかかってきて、82年の大晦日に「スーパースランプ」の解散ライブを渋谷の屋根裏でやるので、手伝ってくれませんか、と言われ、大喜びで参加したんです。で、その時点で、中野と河合は「今度、アイドルバンドをやるんですよ」って言うんでデモテープ聞かせてもらったら、これがアイドルバンド?パンク?ファンク?みたいな、よくわかんねえけど、とにかくイキオイだけは物凄いバンドで。それが「爆風スランプ」だったんです。それからややしばらくして、翌年の秋口に、中野から家に電話がかかってきて、福田さん、爆風手伝ってくれませんかって言われたのね。またまた大喜びで練習行ったら、やっぱり気が狂った曲しかなくて(笑)、すごいおもしろくてね。サイコーでしたね。リハの最後とか、河合とほーじんが興奮してPAスピーカー倒しちゃって、中野はその下敷きになって歌ってるし、末吉は意味もなく尻出してるし(笑)。で、しばらく一緒にやってたんですけど、ベースの江川ほーじんが「おれは手数がものすごく多いプレーヤーなんで、福田さんのキーボードとぶつかる」って。それはたしかにあった、おれも同じこと思ったの。で、「爆風スランプ」はキーボードがいないけど物凄い音を出すバンドにしたい、っていうほーじんの意見、もう一つ、このバンドじゃ食えないよなあ、っていうおれの判断もありで、デビューと同時におれはメンバーから下りた。おれはすでに結婚してて子供もいたんで、金が稼げるかかどうか、は、すげえデカい問題だったんです。まあ、誰でもそうでしょうけど。ただ、デビューに向けてのコンベンションとかには参加しました。これはちょっと歴史的なイベントだと思うんだけど、東京タワーの第一展望台でライブをやったんですよ。おもしろかったなー。あと、アルバムのレコーディングには、マメに参加してました。

T:その後の流れとしては?


F:ちょうど長女生まれてすぐぐらいの時に、これは今になって思うとナゾなんですけど、どっかのインペグ屋さんから電話がかかってきたんですよね。未だに、誰かわからないんですよ、あの時電話かけてきた人(笑)。で、おれが電話出たら、とあるフォークシンガーがツアーメンバー探してるんで、オーディションを受けてみないかって言われたのね。とあるフォークシンガーって誰ですかって聞いたら、南こうせつさんです、って。南こうせつ……。おれの中で南こうせつって言ったら、「神田川」のイメージしかないわけですよ。これ、リアルタイムです。まあ、もっとずっと前、たしかに中学生の頃、「酔どれかぐや姫」とかって変な曲やってたなっていうのはちょっと覚えてたけど。でも基本、「あなたは〜♪」しか覚えてなくて(笑)。その時おれがやってたのが、大音量インストロックバンドと、爆風スランプだから、ジャンルが余りにも違うじゃないですか。どうしよう、と相当悩んだんですが、なんせ仕事は欲しいので、行きましたよ、オーディション。代々木の「ワキタスタジオ」ってところでした。そこにいたのが、今でもずっとおつきあいしてる、というか、おれの「師匠」と思ってる、ギターの水谷公生さん。水谷さんがバンマスだったんですよ、その時のこうせつバンド。結局、気に入ってもらえて、ツアーやることになって、で、そこら辺からぼちぼちスタジオに呼ばれるようになって、スタジオミュージシャンみたいになっていくんです。あとになって水谷さんに言われたですが、「あの時はねえ、びっくりしたんだよ。普通、キーボーディストがオーディションに来る時っていうのは、シンセサイザーの一台くらいは持ってくるもんなのに、福ちゃん、手ぶらでふらーって入ってきて、スタジオに置いてあるエレピ弾いたよねえ。あきれたねえ」って(笑)。

T:じゃあ、岡沢(茂)さんとかも同じ?

F:それが、例の岡沢さんの事件で、メンバーを変える必要があったときに変わったのが僕なんですよ(笑)。ベースとキーボードが変わった。茂さんがこうせつバンドだった時、キーボードは佐藤準さん。準さんと茂さんが、おれと榎本くんっていうベースに変わったんですね。だから、その時はまだ茂さんとおれ、会ってないんですよ、すれ違いで。そのころ水谷さん、ほんとにいっぱいアレンジをやってて、スタジオに呼んでたベースは、主に、美久月くんと、あとは長岡さんという方がメインですね。で、茂さんはね、随分後になってかな。90年入ってからかもしれない、初めて一緒にやったのって。なんとも妙なタイミングで、そこでぱっとチェンジしたみたいなのがありますね。あと、ちょうどその頃、DX7というシンセサイザーがあって、僕はDX7はたまたま開発の最初のころから関わって・・・開発にかかわっていたというよりも、音ソフトの部分ですね、音色部分で関わっていたので、扱いに詳しかったわけですよ。で、水谷さんってすごい新しもの好きで、スタジオで`DX7使いたいんだけど、使える人間がいない。なので、最初は、佐藤準さんが弾いてるスタジオに、マニピュレーターとして呼ばれて行ってたの。DX7使い、として。で、何回かそれが続いたあと、可愛かずみちゃんっていう女の子のレコーディングを、一種の企画モノとして水谷さんが頼まれた。「企画ものだし、ここらで福田使ってみるか」っていう感じだったと思うんですが(笑)、おれがDX7で全部手弾きでレコーディングしたんですよ。で、この仕事以降、水谷さんの仕事の「マニピュ」とキーボードの「弾き」は、おれが一人でやっちゃうようになって。そのあと、もうずっとですね。5〜6年間は、とにかく水谷さんの仕事メインでずーーーっとやってましたね。何曲レコーディングしたか、覚えてないです(笑)そのうち、おれ自身もアレンジを頼まれるようになって、色々とやり出しました。



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