奥井亜紀 (PART1)


昨年末「moment Xmas Session 2005」で素敵な歌声を聴かせてくれた、
今年1月にはニューアルバム、「トキノマニ」をリリースしたばかりの、
シンガーソングライターの奥井亜紀さんへのロングインタビュー、そのPART1です。


(2005年11月29日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)









奥井亜紀(Aki Okui)



1971年10月19日 兵庫県に生まれる
天秤座 B型 長女
色白だと言われたことは基本的にない
丈夫だね、と言われる髪
足は身長のわりにでかい
骨太
歯はかなり頑丈
そり爪
視力裸眼で0.02(コンタクトレンズ装用)
とにかく辛いものが好き
お菓子大好き
ものすごい冷え症
ネットショッピングが好き
散歩はほぼ日課
整理整頓ができない
数字が嫌い
スポーツよくわからない
熱しやすいがすぐ冷める、醒める、覚める
旅は好きなんだろうと思うが、自ら行かない
マイ自転車はゲイリーフィッシャー
派手色好き
花、豹、迷彩柄が好き
ふわふわ、てれてれ、つるつるのものが好き
 奥井亜紀インタビュー (PART1)

単純に本当に覚悟もなくデビューしちゃって、そのままいっぱい色んな事が起こって、大人にならなくっちゃ、と思って頑張っていたけど、ついていってなかったって感じかな。でも、一番頑張ってたから、今思うと、一番成長もさせてもらえたなと思う。やっぱり人間は転んで対処法を見つけていくと思うんよね。


TERA(以下:T):よろしくお願いします。


奥井亜紀(以下:O):宜しくお願いします!

T:生まれと場所を教えて下さい。

O:生まれたのは、兵庫県の伊丹市ですね。伊丹市の市の病院。今、ないらしいんだけど、その場所に。

T:ご兄弟は?

O:兄弟は妹がひとりいますね。

T:年は?

O:年はね、2つ下なんですよ。

T:小さい頃は、姉妹良く遊んだりとか?


O:うん。姉妹だし、父親が、私が3歳ぐらいから、単身赴任で東京に行ってたので、でも父親のお母さん、私たちからはおばあちゃんで、母親にしたらお姑さんと女ばっかり4人で暮らしてたから、なんか女系ってわけじゃないんだけど、仲良くするのが当たり前って感じやった。一番覚えてるのはね、それはもう高校とか中学ぐらいになってたんだけど、とにかく分け合うっていうのが当たり前の家だったから、今みたいに個室があるとかじゃないから、部屋も、ずっと二段ベッドで育ったし、果物一つを家族4人なり、最低でも分けるとしても姉妹2人でわけるって感じだったから、私がお小遣いでポテトチップス一袋を一人で食べたことがバレたときに、殴られて、お母さんに(笑)私、鼻血出たこと2回なんですけど、そのうち1回がそれなんですよ。(笑)

T:幼稚園、小学校と同じで、ずっと伊丹に?

O:うん。大学の間も伊丹から通ったし、大学は近畿大学なので大阪のほうだったんですけど、1時間ぐらいで行けたから、ほんと東京出てくる22歳ぐらいまでずっと、生まれも育ちもずっとそこの家っていうか。

T:小学校の時は、何か楽器やったりとかは?

O:えっとね、5歳の誕生日のころに、ピアノ習いたいって言って、うちおばあちゃんが大正琴弾く人だったんですよ。で、我流で大正琴を覚えて、足踏みまでいかないけど、電子足踏みオルガンみたいなのが家にあって、おばあちゃん「猫踏んじゃった」をよく弾いてて、指つかい、今思ったらぐちゃぐちゃで弾いてたんだけど、だからね、なんか、5歳までの間の、3歳から5歳ぐらいまでの間でも、既に音楽がそばにあって、でもそんな大げさなことではなくて。

T:具体的には?

O:父親もハーモニカを吹く人で、聞いたら大体吹けるみたいな人だったので、だから、たしなみとして音楽をやるのはいいことだという感覚がありましたね。おばあちゃんからはオルガンを勝手に触って弾かせてもらえて。ただ、私が一番仲良くしてた女の子、同い年の女の子が近所にいて、その子がお金持ちの子で、バレエもやってたし、ピアノもやってたし、習い始めのときからピアノ買ってもらえる子だったし、うらやましかったのね。その子が習いに行ってるところがすごく近所にあったのね。で、お母さんに5歳の誕生日に、プレゼントがわりじゃないけど、やらせてほしいって頼んで、やらせてもらえることになって。だから、ピアノは5歳からやってます。

T:音楽以外には?

O:小学校入ってからは、またそのお金持ちの女の子が書道をやってて、おもちゃの黒板みたいなやつに、「亜紀ちゃん、自分の名前漢字で書ける?」とか言うのよ。私は、書けなかった。その子はお習字で習って覚えてて。悔しいと思って、「私も習字行く!」って。あとね、3歳ぐらいのときから、それはなぜ行ってたのか覚えてないんだけど、絵を習いに行ってたみたい。何年か前に実家を片づけたら、赤ちゃんというか、3歳ぐらいのときに書いてた絵とか出てきて、絵っていうか線なんだけど(笑)一応、先生の文字で、これは「妹さんのユキちゃんの絵らしいです」とか、「今日はたくさん遊んで楽しかったらしいです」みたいなのが書いてあって、その楽しい線、そんなのが書いてあった。で、小学校2年生ぐらいから、私、バレエがやりたかった、踊るほうの。だけど、「あんたみたいに肩幅広くてな、華奢じゃない子は、バレエとか後々悲しい思いをするから。」って言われて、体操クラブに入れられて、別にいいんだけど、体操クラブでも・・・でもかわいくないの。もう既に、レオタードから。「バレリーナと全然違うっ!」て感じで。入ったら入ったで、私、運動神経あるほうじゃないから、体操クラブの中ではめちゃめちゃ落ちこぼれの部類に入っちゃって、結局柔軟性とか、こうやって腕を上げてバレリーナみたいな真似ごとするのは、一人で家でやってたから、そういうのだけは、ほめられて。でも、基本的にやらなくちゃいけないのは、平均台の上にのぼって前転とか、そんなのサルじゃないんだから、と思っちゃってね。全然できない。結局それもね、2年ぐらいでやめちゃった。

T:その後は?


O:やっぱり運動はできたほうがいいって、母親はずっと思っていたみたいで、その後はなぜか私、水泳クラブにも入れられてるんですよ。水泳クラブも、体操クラブのときもそうだったんだけど、課題を最後までできない子は、みんなに「頑張れ、頑張れ」って言われるんだけど、水泳のときも同じで、クロールができなくて、ものすごくつらい思いをした覚えが・・・。平泳ぎも結局今でもできないから、「できないまま水泳クラブ卒業!」みたいな・・・。そんな感じで、運動できないなって自分でも気づいていたし、幼稚園ぐらいの記憶があるときから、かけっこしても一番でテープを切ったということじゃなくて、みんなについていけないって思って、ヒーヒー言ってた記憶しかなくて。そんな子供だったんだけど、何故だか知らないけど4年生ぐらいのときに、「バレーボール部に入ろうっ!」て決意して。入ったけど3日ぐらいでやめました。それは3年生のときに眼鏡をかけ出したんですけど、眼鏡かけてるとボールがここに(眉間に)迫ってくるのがね、トスの練習した時点で眼鏡がぐしゃみたいな事件があって。で、バレーボールもダメになって、なんかちょっとちょっとのことだけど、やってきたことがいっつもダメで。ピアノもずっと続けてたんですけど、なんかこう、もっとうまい子がいるの、クラスに。音楽会のときとか先生にすごいほめられて弾く女の子とかいて、同じ曲を一緒にスタートして練習するのに、その子全然うまいから、「もうだめだなこりゃっ」て感じて、幼いながらに、私ってダメな子って思ってた。

T:何か理由が?

O:家の中でも、妹がねアイドルだったんですよ、奥井家では。妹はそんなことないと思ってるけど、もう明らかに見た目もかわいかったし、人当たりがよいのね。いわゆるセールスマンの人にも愛想のいい子なのね。なんかもう、みんなに可愛がられるの。でも私はいっつもタイミングがずれちゃって、じとーっとしてる子だった。(笑)だから今、あんまり感情表現の上手じゃない子供がいたりすると、「気持ちわかるでーっ!!!」て思うんだけど。人に物をもらっても、「ありがとう」って言えない感じ。いつも妹が先にそれをやっちゃうから、「えっと、もう今さら言えない・・・」みたいな。それは母親と私の関係もそうで、何か悲しいことがあったり、それこそ恐い思いをしたら、妹は多分お母さんに抱きつきに行けるんだけど、私、抱きつけなかったから、物心ついてから。高校ぐらいのときにね、母親にね、肩をなでられたときに、「うわ、気持ち悪っ。」て、でもそう思うことに罪悪感をもった覚えがある。それぐらい、スキンシップも苦手な子になっちゃって、そんな子供だったんですよ。

T:初めて買ったレコードは?

O:小学校のときは、多分、私たちの世代はみんな同じかもしれないんですけど、「およげ!たいやきくん」とか、「一本でもにんじん」が入ったやつかな。あとはソノシートをよく聞いてた覚えがある。てんとう虫のレコードプレイヤーで聞いていました。うちの家って、そんなにね、音楽を聞くっていうことを日々の中に組み込んでいた家じゃなかったし、父親はそれ相応に買ってたみたいだったけど、もう3歳から家にいなかったので。母親は、音楽をよりどころにするぐらいの心の余裕とか、お金の余裕もなかったから、新しい音源を買うとか無いわけ。ただ、ほんと私のちっちゃい頃からね、ラジオがいつもかかっていたのは覚えていて、FM大阪とか、ABCラジオとかは朝から晩までかかってた。お母さんが繕いものをしてる光景とかの横にはいつもラジオがあって、サイモン&ガーファンクルがかかると、「いいわー」って言ってた。「サウンド オブ サイレンス」とかの、原曲じゃなくて、伴奏だけの、スーパーでかかってるようなインストゥルメンツになってるカセットテープが安くて売ってたりするじゃないですか?「コンドルは飛んでいく」とか。超定番もの、世界の定番みたいな。あのカセットテープがありましたね。だから、そういう母親が好きな「もの悲しいメロディーライン」とかは覚えてるんですよね。

T:小学校高学年の頃は?

O:バレーボールがダメだった後に、コーラス部が学校にできたんですよ。コーラス部に入るようになってから、私の人生に、ちょっと光を差すようになって。(笑)自分から、音楽を聞きたいって思うようになったし、コーラスをやるきっかけになったのが、当時、母親が会社に勤め出していて、会社の同僚のお姉ちゃんに「サウンド・オブ・ミュージック」のカセットテープをもらってきたの。「サウンド・オブ・ミュージック」の中身全部の音楽が入ったやつ。多分サントラ版だと思うんだけど、そのカセットテープと「メリー・ポピンズ」。初めてお母さんがラジオとして聞いてたカセットデッキを「ちょっと貸してね。」って言って、自分の机の前に置いて、ずっと聞いてた。で、映画のミュージカルもみて、たまたま自分の住んでた伊丹市の合唱団が、その年の発表会で「サウンド・オブ・ミュージック」をやってて。それを見て、私もここに入るって思ったんだけど、まだ入れない年齢だったから、あきらめて、小学校のコーラス部に入ったの。そこからはね、人生でほんとに何本かの指に入るぐらいの努力をしたんですよ。小学校の2年間ぐらいだけなんですけど。そこで私、歌の基礎を覚えた。

T:最初、歌った曲とか覚えてます?

O:最初に歌った曲は覚えてないけど、それまで全然なんにもやってない子どもたち相手に、コンクール優勝目指した指導をする先生だったので、朝、先生が来るまで外で練習するのね。雨の日も風の日も、冬の日も真夏も関係なく。先生が来てからは音楽室で30分ぐらい練習して、学校の授業が始まる。お昼の休憩も、40分休憩とか給食の時間があったら、半分コーラス部にいかなきゃいけない。で、お昼も練習して、放課後も練習するの。で、休みの日は、午前中とか半日はコーラスにとられて、っていう生活だった。その先生は赴任してきた年の夏なのに「コンクール出る。」て言い出して、4月から3か月間、そのスパルタ教育のおかげで、NHKかMBS主催のコンクールの地区予選の上まで行ったから、多分ね、音源としてちゃんとレコードみたいなのになってる。だから覚えてるけど、ススキの穂が揺れるっていうのがひたすら連呼する歌で。ススキの穂がゆれる〜ゆれる〜って感じで。その歌をね、延々練習した。それが課題曲だったと思うんだけど。あ、違う、あれは自由曲かな?課題曲はね、もしかしたらアレかも。「気球に乗ってどこまでも」とかかな。ランララララランラって、みんなで手拍子やらされた覚えがある。

T:中学入ると、何か部活とかは?

O:もう、中学もコーラス。

T:ずっとですか?


O:うん。中学校って、公立の学校だったから、小学校からそのまま上がる感じで、同じコーラス入ってた子たちがいて、部長、副部長やってたあたりの子たちがいたから、みんな一緒にコーラス部。でもやっぱり先生が違うと全然違って、コンクール出るって言っても、もうどうしようもないねって感じで・・・。泣いてたね、中学校の先生。私たち生徒からの不信な目つきっていうか。そりゃそうだよね、小学校のときの先生がよかったみたいなこと言われたら、きっついよね、先生。

T:中学入ると、聴く音楽変わったりとかは?

O:うーん。別に、さして自分からっていうのはなかったなあ。私ね、親にものをねだるっていうことをしないから、もしかしたらこれほしい、あれほしいって思ってたかもしれないんだけど、洋楽とかにも別に興味があったわけじゃなかったし。クラスでね、ジプシー・キングスとかをね、家族が聞いてるとか言って、カセットをみんなに回してくれた友達がいて。「こんなのあるんだ、かっこいいっ」て思った覚えがあるのと、あと久保田利伸さんとか、あと、ホイットニー・ヒューストン!あれ、高校だったのかな?中3ぐらいだったような気がするんだけどな。でも、だんだん、中2ぐらいから、私、自分で詞を書くようになったから。

T:詞を書くっていうのは、曲は?


O:曲を書こうと思ってたんではなくて、単純に詩を書く感じ。なんか、そういうのが流行る時期っていうか、目立つ女子たちはおしゃれに目覚めていったり、ヤンキーになったり、そういうのあったと思うんけど、運動できる子は運動部に行くけど、そうじゃない子はやれることがそんなになくて、私は別にアニメの同人誌のほうに行くわけでもなかったから、そうなってくるとね、一人で出来る事って、多分今も昔も、詩を書いたりとかだと思うんだけど。私の友達とかは、かわいいメルヘンチックな詩が好きで、「萠」だっけな、何かそういうかわいらしい雑誌があって、そういう雑誌とかに投稿を目指すような女の子とかもいたんだけど、私はそういうのでもなくて、ただひたすら自分が思うこと書いてただけだった。父親が、文章を書く仕事をしてる人だったりするのもあって、なんかね、信じてるところがあったの。「自分にもできるっ」て。で、算数とか全然苦手だったけど、国語とかはずっとほめられてたし、本読むのは小さいときから好きだったし、文章に関してだけは、ひっそり「私できるもんっ」て、どこかで思ってた部分もあったりとかして(笑)詩を書いてたんだと思うのね。

T:中学終わり頃は?

O:中3になって、高校から公立の音楽学校に行こうと思ってたんだけど、私、コーラス部始めたときから、学校の先生になるか何かわからないけど、とにかく音大行こうと思ってたから、でも音大行くのお金かかるし、公立だったらいいよって言われて。いざピアノを受験用に専門的に習い出したら、もう楽典がだめなの。四分音符とか、名前が覚えられない。ピアノの先生がじゃーんって和音を弾いて、下から鳴ってる音を言ってごらんとか言われるのね。そういうのついていけなくて。あとはなんか、楽譜どおりに弾くっていうのが、だめ。すごい好きな曲はすごく心を込めて弾けるんだけど、いわゆる練習曲が嫌だったの。感情の入れどころがない曲ってストレスになってて。だからね、ピアノはやってても、「もっとうまい人がいっぱいいるな」と思ってた。あとは、大学行くにしても、高校そのまま公立行ったにしても、ひたすらお金がかかるし、「オペラ歌手とかにならへんかったら、あんた何になるの?」って言われて、「学校の先生?」って言われたら、学校の先生なんて世の中で一番なりたくないもの、になりたくないと思って。一攫千金を目指すなら作家になったほうがいいかもしれないとか、ちょうどそのころはスタイリストとかね、カタカナ職業が流行ってたの、コピーライターとか。だから、カタカナ職業もいいなとか、そんなことを実はひっそり思いながら、中2、中3、高1とかの、いわゆる思春期のころは、そんな感じ。で、とうとうピアノをやめちゃったから、やることがなくなって、毎日ピアノの練習していた時間にやることなくなっちゃって、弾くものがないから、でもピアノは「でーんっ」と家の真ん中にあって、「こりゃ困ったぞ」と思って、小林明子さんの「恋に落ちて」とかの楽譜を小遣いで買うようになったの。「ひこうき雲」とか「いとしのエリー」とか、だれが歌ってるとか、どんな曲っていうのがはっきりわからないままに、一応何となくピアノで、譜面は読めるから、それで弾き語りを家でやって楽しんでた。(笑)だんだん、中2ぐらいから書き出してた詩に、「私もこうやって字数揃えたらいいんだ!」と思って、何となく字数を揃えて、何となくメロディをつけていったら、曲になりました。

T:最初の曲って覚えてます?


O:が、「銀のスプーンで」ってデビュー曲なんですよ。2曲ぐらいしか持ち歌ないのに、でもだれかに聞いてほしいし、学校の友達には聞いてもらったけど、親に聞かすのもちょっと恥ずかしいし、聞いてるんだけど、家で弾いてるから。(笑)でも、とにかくね、「家から出たいっ」ていうのと、何の文句があったわけじゃないんだけど、なんかこう、「私は絶対もっとすごくなりたいっ」て、お金持ちになりたいっていうのもあった。たぶん「何やってもアカン私。」ていうのがすごく嫌だったのね。そこから抜け出るには、自分の力でどうにかしなくちゃいけないっていうのがあったから、オーディション雑誌買ってきて、「デビュー」っていうやつ。締め切りに間に合いそうなやつが2個あって、1個は映画。それとんでもない、何で応募したのかもわからないけど。(笑)もう1個のほうが、ボーカリストオーディションみたいな、CMボーカリストオーディションって、お菓子会社がやってたのかな、で大手プロダクションが一緒にやってたんですよ。で、それに応募したら、落ちたの。なんと「落ちましたよ」という景品が来たの。でもね、それね、当時流行っていた、ちっちゃい文房具セットみたいなもので、街で500円ぐらいで売ってたもので、母親と一緒に「これ、すごいねっ」て。「落ちてもこんなのもらえるなら、これからもどんどんやったほうがいいよね」とか言って、それで終わってたの。普通は、景品とか出ないよ、普通はね。で、それはそれで終わってたんだけど、だって、オーディション用の写真をタンスの前とかで撮ってたからね、私。(笑)一番そのときのお気に入りのトレーナーの、Minesotaとか書いてるトレーナー着て(笑)そんな感じでオーディション受けたんだけど、それ落ちて忘れてたの。何カ月か経って、手紙が来て、ボーカリストオーディションの落ちたテープを聞いて、特に「銀のスプーンで」を聞いて興味を持ったから他に曲は無いですかっていう手紙を頂いて、「うわー、来た、来た、来た」って感じで。(笑)そのディレクターさんと文通のようなことを始めて、2曲しか作ってなかったから、頑張って曲つくらなくちゃ。みたいになって、高校の間はろくに伴奏もつけてない、半分アカペラみたいな曲を、そのディレクターさんに送ったりとかして。それは大学行ってる間もなんとなく続けていました。デモテープを録りに東京に呼んでもらったり、オムニバスCDに参加させてもらったり。

T:その時点で、曲数は結構たまって?


O:今のアマチュアの子に比べたら全然ないと思うよ。うん。何曲ぐらいあったんやろ。50ないと思う。全然なかったと思う。私ね、ほんとにデビューまで苦労してないと思うよ。(笑)

T:デビュー時の楽曲は、どういう風に選定を?

O:「銀のスプーンで」が結局デビュー曲になっちゃったのは、あれは偶然って言ったら変なんやけど、「銀のスプーンで」はいい曲だねってみんなが言ってくれてたんだけど、アルバムの一曲目にしようみたいな感じで。明るい歌でもないし、当時は女の子いっぱい出てきてたときだったし、「ガールポップ」っていう言葉もできたぐらいの時期で、「やっぱり明るい曲、キャッチーな曲がいいんじゃないの」みたいな感じで、元気めのものを、いいものから選んでいって録音していってたんですけど、とりあえずアルバムの曲数ぶん、みたいな感じでね。「銀のスプーンで」は管野よう子さんがアレンジしてくださって、そしたらすばらしかったんですよ、それが。これしかないよねっていう感じの。なんかもう、今でも思うんだけど、「銀のスプーンで」の間奏の弦のフレーズと菅野さんのピアノが混ざり合って、ばーっと世界が広がったときの感覚が、今でも忘れられないというか、「びっくりしたっ!」て感じで。生きててよかったって感じだった。あと、そのとき、東京でひとり暮らしをしていて、ロフトのある部屋で、明け方に、寝ながらヘッドホンで聞いてたのね。私、全然家財道具とかなんにもなくて東京に出てきたから、音楽聞けるのって、ウォークマンしかないから、ウォークマンで聴いてたんだけど。(笑)フレーズの「♪タン、タン、タン、タン。の最初のタン・・・」っていう音がその無音の家の中で耳に入ったときにね、光がサーっと、ロフトの天窓からおりてきて。あのときのね、白い自分の家の壁と、光の感じが忘れられない。あのとき「あ、私ほんとに歌う人になったんだなあ。」って思った。

T:これから歌手、シンガーソングライターとしてやっていく!という事は?

O:私、そうだね、そういうね、ガッツに燃えた感じではなくて、歌う仕事は絶対するって思ってたし、なんだろ・・・普通にOLさんになるっていうのは、ちっちゃいときから自分で描いてないから、あとはね、ディレクターさんが全部導いてくれてたから。自分がどうとかというよりも、私が思い描いてたレールを敷いてくれて、そこに乗っかっただけって感じだったから、だからデビューしてからが、私は多分、精神的にも上がったり下ったりもすごかったし、そこからが大変だったけど、デビューしたときはなんにも考えていなかった。ほんとオバカちゃんだったなって思う。母親に、デビューするときに、「あんたこれから一生歌つくっていくの?」って言われて、「ほんまにつくれるの?」って言われたときに、ワオって思った。「そっかあっ。」て思った。つくれなくなるとか、思ったことなかったのに、言われた瞬間に、わ、そうだって思った。それまで全然なんにも思ってなくて、生きてりゃなんか思いつくって思っていたし、メロディーが無くなるとか、そんなこと思ってもいなかったから、びっくりして。でも、あっと言う間に来るんですよ、その日が。何を書いたらいいかわからないし、メロディーってどうやってつくるの?みたいな感じになっちゃって。頭で考えるようになってから、全然できなくなっちゃって。

T:ライブっていうのは、デビュー後?

O:デビュー後ね、私の舞台経験として鍛えてもらった場所はキャンペーン先だった。ちゃんとしたライブっていうか、ワンマンライブは、デビューして半年後の、デビューが93年の11月28日で、ファーストコンサートをやったのが、94年の6月23日なので、そこまでの間はね、イベントで歌わせてもらったり、全部弾き語りでやってて、それは10回くらいは、やったのかなあー?わからないけど。多分、百回はやってないね。(笑)今のアマチュアでずっと頑張っててデビューする人たちに比べたら、全然デビューまでなんにもしないって感じ。ただ、大学で演劇を専攻していたんですよ。だから、ステージに上がるっていうことは知ってたのね。お客さんの目の前にさらされることは、コーラス部で小学校のときにいるときからずっとやってきたことだし。舞台に上がることに関しては怖くないんだけど、ただ自分だけで、自分がマイクをもって、バンドの人がいてとか、そういうのはなかったからねえ。半年間で鍛えてもらったな、ほんと。キャンペーン先で歌わせてしゃべらせてもらったこと。

T:アルバムは1年ごとっていうか、2年ごとっていうか、コンスタントに。

O:そんな間隔で、ですね。ワーナーミュージックからデビューしたんですけど、アルバムで10万枚とかずっとコンスタントにいくようなアーティストにいつかはなってほしいと思って育てようとしてくれていたんだけど・・・。世の中、バブル最後のときだったし、私の作品はお金をかけてもらったと思う。その分は回収できてなかっただろうし、ほんとうに申し訳ない。(笑)でもそれでもやらせてもらえてほんとよかったな。あのころ考えてみたら、びっくりするぐらいキャンペーンに行ってたし、毎回毎回宣伝の人がいて、営業所の人もいて、マネージャーも行ってたりしてたし。毎週九州行ったりとかしてたからね。あと、ラジオもやらせてもらっていたし。

T:ワーナーで5枚?


O:そうですね。1枚はシングルコレクションで。

T:ワーナーの最初の4枚のアルバムですが、簡単に内容について教えて下さい。

O:「LOST MELODIES」は、このタイトル曲だけが、上京してから書いたもので、ディレクターと一緒にアルバムコンセプトとして考えた曲で、残りは全部高校、大学の頃につくった曲ばかりなんですよね。で、2枚目の「Wind Climbing」。セカンドシングルの「WInd Climbing〜風に遊ばれて」っていうのが、テレビアニメの「魔方陣グルグル」のエンディングテーマになって、認知度が上がったって(笑)こともあり、そういうタイトルをつけて、ウィンド、「風」をキーワードにしたのが私の曲には多かったりしたので。このころが一番働いてましたね。で、この2枚目のプロモーションが終わったら、体を壊しちゃって、体重がドカーンと夏に減って、もうそのぐらいからですね、私のものすごい冷え性の始まりというか。(笑)ある日、足の指が、皮膚がね。腐っちゃったんですよ。不思議な病気になっちゃって。病気っていうか、体がついていってなかっただけなんだろうけど、半年ほど治らなくて、結局は足の指の皮が腐っただけなんだけど、入院して手術までしたからね(笑)そんなことがありつつ3枚目のアルバムをつくったりとかして。入院、休養で時間だけはあったんですけど、心の余裕一切なく、アルバム、2枚目と3枚目は1年の間につくってるんですけど、なんかもう息上がってるっていう感じがあって。

T:それは曲をつくる上でのストレス?

O:曲をつくるうえというよりも、単純に本当に覚悟もなくデビューしちゃって、そのままいっぱい色んな事が起こって、大人にならなくっちゃ、と思って頑張っていたけど、ついていってなかったって感じかな。でも、一番頑張ってたから、今思うと、一番成長もさせてもらえたなと思う。やっぱり人間は転んで対処法を見つけていくと思うんよね。だから、ラジオのレギュラーをやってたりしたのも、あのころ全然しゃべれなかったんだけど、しゃべらないと番組始まるし(笑)すべて切羽詰まったからやれたのかもしれないけど、そのおかげでいっぱい勉強もさせてもらえたから、すごく人生の中でも一番勉強になったねって感じがするので、よかったんです。ただ体力がほんとについていかなかったっていう感じ。で、サードアルバムは、やりたかったアカペラとか、私、小さいときから幼稚園がクリスチャンの幼稚園だったので、ゴスペル風じゃないけど、聖歌を思わせるようなものがつくりたくて。冬リリースということもあって、クリスマスに合ったようなアルバムというコンセプトで、「Voice of Hallelujah」をつくらせてもらいました。

T:なるほど。そして、4枚目は?

O:4枚目は、入院してる間に、そうそう、3枚目が終わってから入院したのかな?そうそう!3枚目の「Voice of Hallelujah」を発表するコンサートのときに、入院前で、足動かせなかったんだ。そうそう(笑)青年館コンサートをやらせてもらいました。それで、そのままお正月あけてシングルのレコーディングして、入院をして、その後につくったのが、「You're the only melody」。ちょうどそのころ子どもの自殺がすごい多くて、まだ若いのに死んじゃうっていうのが・・・「死んだらあかん。」ていうのがあって。うーん、まあ、せっかく生まれてきたら、なんかやっぱり人間一人一人やらなきゃいけないことがあって、生きてるんだって思いたいっていうのもあったし、あとはね、その入院してる間にアボリジニの本を読んだんですよ。

T:タイトルは?

O:「ミュータントメッセージ」っていう本だったかな。でも結局その本がね、実は嘘のこと書いてあるとかいろいろあって、またそれを後で抗議の手紙をもらったりして、そんな本をもとにアルバムをつくるな、って。でもその本が嘘であれほんとであれどっちでもよいの。書いてある内容に私は「おーっ」て思ったことがいっぱいあって、入院してるときに読んだっていうこともあったんだけど、先住民族の人の言葉って、やっぱり生きる知恵っていっぱい入ってたりとかするし。サウンド的にはちょっと民族音楽寄りのこともしてみたいってう気持ちも生まれた。「You're the only melody」っていう言葉、あなたはたった一つのメロディーなんだよっていう意味は、昔から言われているどの神様ってわけじゃないけど、自分の神様っていうか、なんかそういうものを思って聞いてもらえたり、自分を大事に思ってほしいというディレクターとの話しからうまれました。

T:4枚目のアルバムのジャケットの印象は、ちょっと違いますね。

O:そうですねえ。人に自殺すんなとか言ってるんだけど、「そんなこと言えるような義理なの?私って。」とか、自分がきれいごとをずっと言い続けてるような気がして、それも、全然大人になってないのに、大人のふりしてずっと子どもに説教しているような感じっていうか、自分が一番説教されなきゃいけないのにっていう感じで。やっぱり電波に乗るとか、人に何かを伝えると思うと、いいことを伝えたいと思うし、少しでもすばらしいものを残したいんだって思う気持ちから、人から聞いたらきれいごとだったり、「お前に言われたくないよっ」ていうようなことを言ってしまってる自分がいたりとかして。だから、ラジオとかも何をしゃべればいいかわからなくなってて。とにかく自分から出てくるもの全部嫌いになってました。そういう意味ではね、このアルバムを作って他界してしまったアレンジャーの大村雅朗さんは最後に私に宿題をくれましたね。「本当に死ぬ前につくる納得いくものを、毎回リリースしているかっていう宿題。大村さんは死ぬ前に、「You're the only melody」の出来上がったのを、「すごくいい曲だ」って言って周りの人に聞かせてくれていたんだってことを知ったんだけど・・・。大村さんのお別れ会のときにこの曲がかかってたりとかしてね、大村さんと私が一緒につくった曲が他にもかかってて、生前は「こんな曲ででいいのか?」と、いつも叱られていたので。(笑)「よかったね、いいのつくれたね」って言ってもらえてる気もして、飴もムチも両方とももらえたっていうか、いつも曲をつくったりライブをするときに、「今のでよかったのかな」と思うときは、大村さんだったらどう思うかな、とか考えるんです。

T:大切な曲ですね。

O:そう。曲にもなったし、なんか、このアルバムつくったときに、自分でもびっくりするくらい「他人にこんなこと言う人だったの私?」っていう喧嘩もしたし、これをつくれてメジャー時代が終われたから、まあ、(笑)、今となってはよかったかなと思う。




PART2に続く  >>>>>

 
 インフォメーション

奥井亜紀さんの詳しいインフォメーションは、オフィシャルHP(http://www.okuiaki.com)まで。