伊藤銀次:ソロデビュー30周年インタビュー(上半期編)

 今年ソロデビュー30周年を迎えて、現在、久々の記念ツアー展開中。伊藤銀次さんへの緊急インタビューです!

(2007年6月18日/ITS COMスタジオロビーにて/インタビュアー:TERA@moment)





 伊藤銀次 (GINJI ITO)

  Talk&Interview SPECIAL
 
  


    
 伊藤銀次・30周年記念インタビュー (上半期編)

先日の仙台ですか。8人乗りか9人乗りのワゴンタイプの車を借りて、4時間から5時間かけていったんですけど。それは、僕が「行こう!」って言ったんですよ。だって、ライブハウスレベルで新幹線で移動するとかね、泊まるとかね。それは、やっぱりやる気のあるミュージシャンだとは思いませんね。向こうのミュージシャン達は自分で車持ってね。機材や何か積んで。それで、スタミナ満々でまわって行きますもんね。あぁいうのも憧れていて「よし!!」って。「やってみよう!!」ってね。

TERA(以下:T):改めて30周年を迎えて何か今、思う事を。

伊藤銀次(以下:G):30周年っていっても、あっという間だったと思うし、長かった様にも思えるし。自分ではピンとこないですね。ただ、でもやっぱり30年やれたっていう。お仕事としてね。好きな音楽をやれたって事は本当にラッキーな「ミュージシャンだな」って思いますね。まぁ、30周年やれたんだから、それに感謝する意味でこの命が終わりが来るまで…ちょっと暗いか。自分の届くとこまで努力して更に演奏上手くなったり、歌が上手くなったり。それと最後まであきらめないで良い音楽の繋がりをもっともっと作れる様になりたいと思います。まぁ、途中でメゲメゲになったりとか、ひよったりとかちょっとお金に走ったりとか、色んな時期があったんですが、30年にもなると、もう、達観の境地ですね。本当に心から応援してくれた人達が未だこんなにいるって事をツアーで確認できて勇気が湧いてきたし。だから音楽でああいうファンの人達、遠く離れた人達と繋がっているってことが凄く確認できた事が、更に今後、負けないで頑張ってですね、音楽に取り組んでいこうという、そういう確信に過ぎた30周年ですね。


T:また、改めてなんですけれども、ライブツアーのですね、今回のメンバーについて。

G : まず今回メンバーを選ぶ時に、キーボード二人、ベース、ドラム。後、僕以外のギターリストが一人と。僕は歌を歌うのに専念する為に肝心な所はキーボード二人とギターにやってもらってたんですが。今回はあえてストイックに自分がギターを弾いて後、ドラムとベース、スリーピースだけでやろうと思って。で、これはやっぱり自分のモチベーションを高めるという意味合いがあったという事と、ライブハウスの自分の力というものをはっきりと出していかないとダメだろうと。それでPOPSのジョニールイス&チャーをですね、そういう精神でやってみようと。それで、どうなるか解らないけど自分に高いハードルを課して遮二無に練習してやりました。と、いうのもずっとプロデューサーに専念してたけれども、年に一度ファンの人達の為にライブを。お店を借りてね、レストランみたいな所の御誕生祝いの12月近辺にやってたので、お誕生日祝いを持って来て貰ってお礼にギター1本で歌ってたんですから、そんな13年ぐらい続けていると全ての曲をギター1本のアレンジで歌えたりするって事に気付いて。そこから今回のね、キーボードがいなくても僕がギターをキーボードの様に弾いて歌う伴奏をつける。それで、リズムセクションとしてはドラムとベースが必要なんですけど。あくまで従来のエレキギターの概念というよりはライク−ダーの様に伴奏のギターを弾こうと。ちょっとむつかしいんですけどね。

T:メンバーは?

G:まず、昔からの古い仲間である小野田清文。佐野元春のTHE HEARTLANDで一緒にやってましたよね。彼のベースっていうのは本当に歌が歌いやすいリズム帯を任せられる男で、久々にmomentイベントでライブを一緒にやってやっぱり良いなぁと思ってたので、今回、まず彼を選んで。そして、一方、ドラムスはグッと若手の市田ユウキというね。以前、僕がSONY系の出版社に所属してた時にそこに送ってきたカセットテープ、ノーザンライトっていうバンドなんですけど。凄く良くて。そのバンドのドラムを叩いていた男です。結局、そのバンドをデビューさせようと思ったんですけど、残念ながら解散してしまいまして。で、以降、市田君とは色々僕の仕事を手伝ってもらったリだとかして。とっても良いやつで、凄いマインドの良いミュージシャンで。ただ、ちょっとチャンスに恵まれなくて。一番チャンスに恵まれてたのは”エレキベース”というインディーズ系のバンドで話題になった事があったんだけど、そのバンドも辞めてしまって。で、今回。ちょっと、一抹の不安もあったんですけどね。っていうのは、僕の曲、難しいですから。でも、まぁ、ちょっと「やってもらおうかなぁ」と思って。小野田がいるので。そういう意味ではちょっと世代が離れたリズムセッションですけど、良い緊張感でやれている様な気がしています。このユニットも今後、発展していきたいなと思っております。


T:それで、クラウディベイの青木さん。

G : 3、4年前、福岡風太という僕の古い友人で。大阪の友人ですね。昔の僕のバンド“ごまのはえ”のマネージャーをやっていた男ですが。その彼がずーっと30年近く大阪で『春一番』ってイベントをやり続けているんですが。4年ぐらい前に青木ともこさんのバックをやってくれないかという依頼を受けて。実は、久々に青木さんのバックをやりました。というのは70年代に、77、8年か?トライアングルより後ですね。その頃、青木さんがレコード会社にプレゼンテーションする為のデモテープを作りたいっていうのを友人から手伝って欲しいといわれて。その時、吉祥寺の『ノロ』という所に機材を持ち込んでとった時に参加させて頂いて。その時に茨木のり子さんの”生きているもの死んでいるもの”とか何曲か。3曲ぐらいかな?参加させてもらったんですが、とても声が良い。それと、詩が素晴らしくてね。それが、凄く印象に残ってたんですよ。で、結局、レコードデビューが出来なくて、青木さんはそのまま子供が産まれたりしたのもあるんで、家庭に入って主婦として何年かやってた訳ですが、7、8年前に又、歌い出すって事になって。それで、3年ぐらいやってて、丁度、ココナツバンクの再結成の前に僕が日比谷の野音の『喫茶ロック』に出た時に福岡風太と青木さんがわざわざ訪ねてきてくれて、その時、再会してですね。で、まぁ、そんな事があって『春一番』で僕はバックをやる様になったんですね。それで、久々に一緒にやってみると、以外と突っ込んで音楽の話しをした事はなかったんだけど、色々、話してみると好みが凄く近いっていうか。もっとフォークって感じの音楽が好きな人かと思ってたら、以外とPOPなものが好きで。全然イメージが「違うな」。それでちょっと暫くバックを付けてたんですが、色々音楽的な話しをしているうちにこんなのも「やってみたいね」あんなのも「やってみたいね」って話しをしているうちに、じゃぁ、もう「ユニットにしようか?」という事で、名前もクラウディベイという名でやっていき始めて、もう1年ちょっとぐらいですかね?今年はちょっとツアーではこのクラウディベイも僕の活動の一部分として皆に「紹介したいな」という事で今回ちょっと一緒についってってもらってますけど。まぁ、僕もソロ活動に加えてこのクラウディベイも。それから、ウルフルズのジョンBチョッパーともバンドを組んでいましてね、ライブハウスで躊躇なく色んなやりたい事をドンドンやっていこうかなと。今まで10年間ずーっと籠って何かやってた分、反動で色々発表していきたいなと思っています。で、クラウディベイは、そのジョンBチョッパーとやるのはブルースとかリズムアンドブルースとか、泥臭い音楽でギターリストって感じでやりますけれども。クラウディベイは割とアイルランドとかスコットランドとか。アメリカではアパラチアとか。そういう、ちょっとこう。土の香りがするカントリーミュージックとかですね、ルーツミュージック的な事をさわやかな感じでやってみようという事です。


T:ゲストも登場するという事ですよね?

G:そうですね。ゲスト、今回は黒沢秀樹君。元『L⇔R』の黒沢君。杉真理君と黒沢君とシュガーベイブのギターリストだった村松君と『夢街名曲堂』というイベントで一緒になって。その時、杉君と黒沢君とデュエットとかやったんですけど。初めてそこで黒沢君を知って。それから以降、僕がちょっと馬が合う所があって黒沢君にもライブを見せにいってもらったりしてたんですけど。今回は心良くゲストを引き受けてくれて。面白いのは、彼も歌を歌っているけれどもどちらかといえばプロデュース的な人でね、アーティストを盛り上げたりそういう力が凄いある人だと思って。今回は、僕の歌にギターを付けてくれたりしてるんですけど。非常に楽しみな人なんですけど。本当に透き通った感性の人でね、僕の様なギラギラした感じはないんで面白い組み合わせかなと思っています。それから古村敏比古君はね、ずーっと昔20何年前ですか僕がソロ活動やってた時に、レギュラーだったサックスに…ダディだったか誰だったか忘れましたが、それが都合が悪くて変わりのサックスでやんなきゃいけないって時に古村君が吹いてくれて。その当時、古村君は、今もそうですが、浜田省吾さんのバックでバリバリいわせてた頃で。何かとても楽しくやれた印象があって。しかも、その当時、古田たかしが僕の最初僕のバンドのドラムをやってくれてたんですが、古田たかしの後、大谷ナオヤっていうですねドラムでやってったんですけどね。ナオヤ君と偶然同級生だっていう事もあって。ですから、もう20年ぐらい前に一緒にやったんですね。何か懐かしくて、全然、変わってなくてね。これぞ!本当にサプライズゲスト!って感じで非常に楽しみにしてます。


T:既に、町田、赤坂、仙台を終えて、何か印象的だったエピソードとか?


G:うーん、そうですね。僕にとっては、やっぱりね、久々に本格的にライブをやる訳でね。ファンの方に失礼ですけど。本当に皆さんファンの人達が「いるんだろうか?」っていう。やっぱり、10年以上人前で歌ってなかったし。それと、プロデューサーとして良くインタビューされた時もね、もう、僕はアーティストとして見切りを付けてプロデュースに「専念します!」みたいな事、いってましたからね。だから、もうファンの人は「もう、銀次は歌わないんだ」って、覚悟決めてたんじゃないかと思うんですよ。又、シャァシャァと「歌います!」なんて出てきて、本当に来てくれるのかと。沢山来てくれて、有り難かったですね。未だ未だ情報がいってなかったり、来てないファンの方がいるんだと思うんですよね。でも、根気良く続けていかなきゃね。急に始めたからといって、僕自身も往年の様にアーティストとしての雰囲気を醸し出せるかどうかって、そんな甘いもんじゃないと思ってるし、此処んとこ、又、歌い始めて色んな人達とライブをやって。一番最初にやったのは杉真理君、次にリクオ君。やっぱり、地道にライブ活動をやり続けた人の重みというんですかね。やっぱり格好良いですよ。杉君もリクオ君も。彼等に比べたらね、僕なんか1年生なんだけどね。やっぱり、そういう意味では良い人達に刺激を受けて。僕も未だ未だ、こんな事いうの恥ずかしいんですけど。自分で、全然納得のいくライブが出来てないんですよね。しっかり、練習したり反省したりしながらね、自信の持てるライブをね、杉君やリクオくんを見習って、自分で「やっていきたいな」と思ってますね。エピソードというと、まぁ、やっぱり仙台ですかね。8人乗りか9人乗りのワゴンタイプの車を借りて、4時間から5時間かけていったんですけど。それは、僕が「行こう!」って言ったんですよ。だって、ライブハウスレベルで新幹線で移動するとかね、泊まるとかね。それは、やっぱりやる気のあるミュージシャンだとは思いませんね。向こうのミュージシャン達は自分で車持ってね。機材や何か積んで。それで、スタミナ満々でまわって行きますもんね。あぁいうのも彼等に憧れていて「よし!!』って。「やってみよう!!』ってね。でも、やっぱりちょっと疲れました(笑)。だけど、これが僕はね、当たり前だと思うんですよね。何やっても疲れる訳だし。やっぱり、自分のモチベーションだとか、自分のやる気を高める事って言うのが、演奏していく人には、一番大切な事ではないかと思うんですよ。だって、誰にも頼まれてないじゃない?楽したければいくらでも楽できる。やっぱり少しでも、無駄な経費押さえて、自分達のやる気とかモチベーションでライブを続けて行くって言う。そう言う積極的な気持ちが、僕達、スタッフの方達からすると僕達やる側の人間にないと、物事がこれから上手く運んで行かないと思うんだよね。そうやって行かないと、メジャーとかそう言ったものに頼らずに自分の力で自分の音楽シーンを切り開いて行くっていう。そういう気を持たないとこれからは駄目だよって気がしてやったんですけど。でも、ハッキリ言って疲れました(笑)。でも、楽しかったですよ。

T:これから、名古屋、京都、大阪なんですけど。それぞれの土地で何か思い出とか思い入れとかありますか?

G:そうですね。名古屋はね、最初のBABY BLUEツアー、ライブハウスでやってますよ。確か、「名古屋HEARTLAND」だったかなぁ?確かそうだったと思いますよ。その時に最後のアンコールで『SHADE OF SUMMER』を歌ったんですよ。ピアノと二人だけでね。そしたらね、何かMCをしてる間に自分で何か感際待ちゃって。嬉しかったですね、やっぱり。こうやってアルバム出して。で、感際待ちゃって、歌い出したら途中で「うぅっ!」ってなっちゃって。歌えなくなったんですよ。そしたらね、来てたお客さん達が皆、歌ってくれたんですよね。僕の変わりに。あれは、また更に「うぅっ!」ってきちゃって。汗拭いてる振りして涙を拭いていましたけどね。覚えてますね。大阪はね。自分の生まれた場所だから。大阪のファンは独特なんですよ。何か他の地域の人達と差があると言う事はないんですけど。やっぱり、何かこう、大阪で歌うのはほっとするっていうかね。ただ、まぁ大阪のファンは厳しいですけどね。何か本当、久々に大阪で歌えるので、大阪のファンの人達に逢えるのが楽しみですね。京都と言うのはね、僕、京都ではあんまりやってないと思うんですよね。ちょっと、不安はあるんですけど。スペシャルで黒沢君も遊びに来てくれるしね。場所は関係なくね。一生懸命やろうと思っています。


T:ファイナルが東京・代官山で、晴れ豆はホームグラウンドっていうか。もう、オープン時にやってると思うんですけど。その、ファイナルを飾る晴れ豆という場所については。

G:そうですね。晴れ豆は居住空間としては非常に「いやすい場所だな」って、気がしますね。ただ、やっぱり、いやす過ぎちゃってやる側が緊張感持たないと、あのリラックスした雰囲気に流されてしまうのでそこが難しいなと思いますね。逆に町田のクローブは、居住空間自体が非常にロックな空間なので、何やってもロックになるって空間なので。だから、晴れ豆でファイナルって言うのは自分の中では「どう言う風にやろうかな?」って感じには思ってますけどね。でも僕の曲の場合って言うのはロックでもありポップスでもあり和みでもありテンションでもありって言うのがあって、どちらかに偏ってるのではないので。それが、毎回毎回バランスが微妙にポップだったり、微妙にロックだったりってそれでも「良いのかな?」って思ってですね。若い時は絶対にロックじゃなきゃいけないって思ってましたので、凄い恐い顔して「グワー」ってやったりしてたんですけど。今はそんなに自分を限定する事もないし、多分僕は「両方なんだろうなぁ」。その時その時のナチュラルな感じで、感じたままにやれば「良いのかな?」って。とは思ってますけどね。それと、トリオなのでね。出音の音が問題で仙台ではマーシャルを使ったんですよ。マーシャルとかそういうアンプの方が「良いのかな?」と思っていて。未だ未だ試行錯誤ですね。大変なんですけどね。キーボード1人 入れちゃえば良いじゃない、ギター1人 入れちゃえば良いじゃないっていうのは当然なんだけど。トリオでね何かこう「おぉー!」ってアンサンブルが出来て。「格好良いじゃん!」みたいなところまでいくと何かそれはそれで自分にも大きな自信になりまして。もう、なんにも「恐くない」というか。そこまでは自分で仕掛けたんだから、そこまでは辿り着いてから、次のプロジェクトというか。例えば、秋以降から行われる後半のライブツアーは『スターダストシンフォニー'07-'08』という事で、アルバム「スターダストシンフォニー」の曲を沢山やるので。やっぱり、ワンキーボードは絶対必要なんですよ。それもだから普通のピアノとかオルガンなのかシンセサイザーを入れるのか。やっぱ今の時代にシンセサイザーは古くさいなって気もするのでね。鍵盤系の音は絶対入ってこないとちょっと出来ないかなと。でも、あえてその鍵盤が入るから楽するっていうのじゃなくて。基本的にはスリーピースで出来ないかなって事考えた上で足りない部分を音にする。だから、今回、もう仙台までもう3回くらいやってますけど。1回1回反省点をふまえて良くなってきてるのかなって思いますけどね。また、一回一回を楽しみに見ていただければ。
是非、皆さん、遊びに来てくださいね。

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