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about moment momentの紹介/塚元香名・LIVE & PROFILE |
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新着情報:「塚元香名オリジナルCD/『0号』/3曲入り」
talk & interview
momentと交流のある方々へのインタビュー
#52
Talk&Interview
MANNA(PART1)
デビュー30周年を迎え、現在ベアフットコンサート開催や、
時折momentイベントで素敵な歌声を聴かせてくれている、
MANNA(マナ)さんのインタビューです。 そのPART1。
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momentに関連したミュージシャン、バンド等を紹介します。
#52
music
鬼頭径五(PART1)
ライブイベント「路地裏ダイアモンズ興行」シリーズを、
展開中で、独自のペースでロック活動を続けている、
ブルース・ロックシンガー鬼頭径五さんのインタビュー。
そのPART1。
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#52 CD:「sowan song:『瞬間線』」 CD:「ありましの:『コノセカイ』」 LIVE:「伊藤銀次:The 30th Anniversary Tour "Baby Blue 2007"」 連載コラム:TERA'S SOUNDTRACK REVIEW #52/ 散文詩:「#21/」 by KanaT |
short films |
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MANNA (PART1)
デビュー30周年を迎え、現在ベアフットコンサート開催や、時折、momentイベントでも素敵な歌声を聴かせてくれている、
MANNA(マナ)さんのロングインタビューです。 そのPART1です。
(2007年4月4日/momentにて/インタビュアー:TERA@moment)
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MANNA
(マナ) Talk&Interview PART1 |
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MANNA(マナ)・ロングインタビュー(PART1) |
TERA(以下:T):まず、生まれた場所を教えて下さい。
MANNA(マナ)(以下:M) :生まれた場所?東京都港区南麻布!
T:南麻布?
M:はい。
T:ご兄弟は?
M:兄が一人。
T:成る程。幼稚園の頃はどんな子供だったんですか?
M:神童と呼ばれていました(笑)!老成した子供だったの。子供なのに、家族の一員として何か出来る事は無いか考えて行動すると・・・大人がびっくりするというかんじ。兄が病弱で、子供の時。たまたま兄と母と三人の夜があって。普段はお手伝いさんとか、他の人が絶対いるんですけど。たまたま三人の時があって、兄が病気で倒れちゃったのね。それで、多分、幼稚園だったけど隣のお家へひとりで行ったの。母親に頼まれなくても「母が一人なんで来て下さい」って、夜だったけど言いに行ったのね。そうしたら「凄い!!」「偉い子だ!!」みたいに言われたけど(笑)!偉い子だって言われたのはその頃が最後でしょうね。きっと。
T:小学校に入って凝っていた遊びとか?
M:遊び?近所にお友達がいなかったので、家でずっとひとりで遊んでたんです。そうだ!幼稚園の卒園式の時に、バービードールとかあるじゃない?その子たちに「もう、君達とは小学校入るから遊べないんの、ごめんね・・・」って別れを告げて凄い悲しかったの覚えてる。「大人になるってこういう事かしら?」って思ってたのね、老成した子供は。でもね、実はずっとお人形遊びをしていましたね。そこで、そのお人形使ってストーリーとか作って遊んでいたの。芝居みたいな感じで。あと、ピアノをずっとやっていたので、練習の大変さもあるけど、お楽しみは音楽だったのかなぁ。
T:ピアノは何年生の時?
M:二歳半の時からやってるの。
T:初めはどんな風に?どういう風に弾いていくんですかね?
M:初めはね。何かね毛糸のリボンを指に巻かれて。”ド”だったら”赤”、”レ”だったらレモンの”黄”色みたいに色で覚えていくの。
T:じゃぁ、幼稚園の時はもう、結構弾けた?
M:弾けましたね。
T:どの程度の曲。
M:どの程度?バイエル、かなぁ?まぁ、簡単なのは弾けてたんじゃないのかな?そうだ!卒園式の時、何か弾いたんじゃないかなぁ?よく覚えてないけど。
T:小学校に入ってもピアノは、やってましたか?
M:うん。やってましたね。
T:歌いながら、弾き語りみたいなの、やるんですか?
M:やっていました。実は、父が学生の頃、ハワイアンバンドをやっていたんです。何でやっていたかというと万国共通の「女の子にモテたい」っていうのもあったと思いますけど、戦後だったんで、ステージが終わるとコーラとハンバーガーを出してもらえたそうです。それは戦後の子供達にするとびっくりするぐらい美味しいもの!それで、アルバイトで音楽をやっていたそうなの。私が子供の頃は、日曜日になるとバンド仲間が家に集まって、演奏してるの。騒がなきゃ居て良いと言われて一緒にくっついていましたね。そこで、「じゃぁ、ちょっと歌ってみれば?」って感じで「ラララー」とか歌ってたりした。学生時代のお友達が集まって、音出して、最後はパーティーになっているのを見て「良いな」って思ってました。ハワイアンとスタンダードジャズで育ちました。
T:音楽以外で何か興味持ってた事とか?
M:音楽以外で?本が凄く好きだったかなぁ。いつも本を読んでたから、幼稚園位から本を読んでたから。それで自分でもストーリー作って、お人形達を思いどおりに動かして遊んでたの。そのストーリーに合う音楽も作ってピアノを弾いてたのかな?一人完結の暗い子供だよね。
T:テレビはもうあったんですか?
M:うん。テレビはあったの。気が付いた時にはあって『チロリン村とくるみの木』とかね見てた。今でも挿入歌の「つぼみのリップちゃんの歌」を覚えてる。
T:他に何か見ていたものは?
M:エェッとね、私が中学生ぐらいまではアメリカの音楽番組やアメリカのドラマが何時もやっていて、それで親も見ていたので、アメリカのテレビ番組をよく見ていました。アメリカの放映時期とあまり差がなかったと思うな、その頃は。
T:一番記憶に残ってるのは?
M:えっとね、それこそやっぱり『モンキーズ』とか、『パートリッジ・ファミリー』とか好きでした。『デイビット・キャシディ』は私の中学校時代のアイドル!そうだ!音楽だけじゃなくてスポーツも好きだったんです、実は。卓球とかバレーボールとか好きでした。「バレーボールのオリンピック強化選手にならないか?」って小学生の時言われたんです!!ピアノをやってるから「無理です!」って断ったんだけど。音楽をやっていなければ、選手になってたかしら? 中一の時に父からウクレレとギターを教わって、一年間、毎日弾いて少し弾ける様になったら、ギター買ってくれたの。そこで、コードワークを独学しました。クラシックとポップスが一挙に近づいた時期でした。毎日ギターを弾いて勉強したのって過去であの時だけかしら?(笑)それですぐ曲を作り出して、中三の時、初めてヤマハの『ライトミュージックコンテスト』の一番最後の回にエントリーしました。たまたま知っている人が「出ろ」と言って、知らないうちに出る事になっていて、たまたま出たら優勝って事になって。それも初めて書いた曲で。小室等さんが審査委員長でした。「優勝者はステージでいきなりアレンジしてプロミュージシャンが演奏してくれる!」それが、優勝のご褒美なの。その時にバンドって「面白いな」って。こうやって音「作るのか」って思いましたね。
T:その時、演奏した曲ってどういう曲だった?
M:えぇっと、そうそうひどいの〜。!雑誌に投稿している詩に勝手に曲付けちゃったやつで。それを歌いました。曲は自分で書いたんだけど。詩を書いた方ごめんなさい!
T:結構、曲を書いてたんですか?
M:オリジナル?書いてたなぁ。コピーよりまずオリジナルを作ることから始めてしまいました。
T:じゃぁ、高校はいる頃にはたまってた?
M:どうかなぁ?そんなになかったかなぁ?ううん。ありましたねぇ。ヤマハのイベントに定期的に出演してたから。中学3年生の頃。ピアノの弾き語りです。
T:作った曲を録音してたりとかしてたんですか?
M:してました。カセットテープみたいなのあったのかなぁ?あった様な気がするなぁ?オープンリールだったか?忘れちゃった(笑)!
T:で、高校入って。
M:高一になって、兄が佐野元春君と同級生で、彼らのクリスマスパーティーに誘われたの。ホテルでパーティーがあって。まあお派手だこと!でもその頃の私立の付属校ってそんなかんじでした。そこで兄に佐野君を紹介してもらいました。「妹も音楽やってるんだ!!」そこで「キーボード弾けるの?」「ピアノ弾けます!」って答えたら、「じゃ、一緒にバンドやろう!」って事になったの。
T:そのバンドはどういう編成だったんんですか?
M:どういう編成だったのかなぁ?佐野君がピアノ弾いていて、私が…あの頃シンセってあったのかなぁ?あれ、何だったんだろう?エレピみたいなの弾いて。ギターがいて、ベースがいて、ドラムがいて。
T:フル編成。
M:そう、結構フル編成だった。
T:最初はどういう風に曲をやってたんですか?
M:バンドメンバーは既に佐野君の曲をやってたの。でもメンバーがしょっちょう変わってた気がする。遊びにきてたのかな?セッションだったのかも。附属校だから音楽部の先輩たちも来ていたのね。その時、私は丁度、大学の事考えなきゃいけない時期で。音大に「行きたいなぁ」と思ってたんだけど、ピアノで「行きたくないなぁ」と思っていて。声楽で「行きたいなぁ」と、思っていて。高一の終わりからバンドやり始めたけども声楽も始めました。尚且つ子供の頃にバービードールで遊んでたのがこうじて、ミュージカルもやってたの。演劇部で。そんなのがあって忙しかったの。
T:ミュージカルってオリジナルストーリー?
M:そうそう!えっと、高二の時かな?シンデレラをモチーフにした作品を作りました。シンデレラって言ってもイギリスのファンタジー作家の”エリナ・ファージョン”原作の『ガラスのくつ』をベースに、脚色したものに音楽を付けました。佐野君も曲書いてくれていて、今プロになった仲間たちに手伝ってもらってスタジオでレコーディングしました。うん、高校生にしちゃもう豪華(笑)。
T:その曲はBGMっていうか、流すだけ?その場で演奏とかは?
M:それはねぇ、女子高だったからねぇ、生演奏は出来なかったの。だから、スタジオでレコーディングしたの。それにコーラスなんか入れて。それで、カラオケを流したの。
T:それで、場面毎に歌付きの曲があるんですか?
M:そう。佐野君作の愛のデュエットなんかありました。今考えると音楽以外も豪華なんですよ。今、振り付け師として有名な”カルコ”ってダンサーがいるんですけど、同級生で、彼女が全曲振り付けて。それで、演出家の蜷川スタジオで女優になった”坪井美香”が主役だったり。現在染織家の”千葉祥子”が衣装担当とか。今考えると「豪華!豪華!」でしたね。(笑)。
T:マナさんはステージでは?
M:えっとね、私は勿論やりましたけど。脚本と演出と音楽を作ったって感じかな?
T:音源っていうのはもう残ってないんですかね?
M:(笑)皆に聞かれる!あの、あります!実は(笑)。
T:まぁ、発表は出来ないですよねぇ。
M:ですね。もう、仲間うちで「楽しむ」っていう秘密のものです。佐野君のディレクター達は「聴いてみたい!」とおっしゃいますが。「ヒ・ミ・ツ!」
T:その後、大学進学とか、どういう風になりました?
M:そうそう。高二の時にそんな事をやり、学校も忙しくなり、クラシックの方も勉強し。佐野君達ともバンドをやり。それで、何だっけ?イーストウエストじゃなくって、ヤマハの・・・何ていうんでしたっけ?とにかく、その、有名なコンテストに『佐野元春とバックレイン』で出たの。『Bye
Bye C-Boy』で、出ました。そうだ!『ポプコン』!それに出て、最後まで一応行ったんだけど、”合歓の里”で落ちて帰ってきた。
T:その時、出演したメンバーは?
M:誰だったんだろう?その頃、皆、佐野君達は大学生だったんだけど、私は高校生だったので。お味噌っていうか、特別扱いをして頂いて、本番で学校休む訳には行かなかったんで、本番直前に先輩が車でお迎えに来てくれて。終わったとたんに、一晩泊まったのかな?忘れたけど。車で送ってもらって先に帰りました。皆はいたんじゃないかなぁ?よく覚えてないの。
T:遠くの会場へ発表に行くんですか?
M:”合歓の里”って何処か遠いとこでしょ?
T:そこに何組ぐらいが出演するんですか?
M:いっぱい・・・。(笑) 杉 真理君も竹内まりやさんと一緒のバンドで出演したって言ってたし。優勝したのは八神純子ちゃんだけど。
T:予選で選ばれて来た方の最後のステージとかですよね?
M:そうそう。各地から選ばれてて東京大会で佐野君、優勝したんじゃないのかな?うん。で、本戦みたいな。感じだったと思う。
T:マナさんのパートは?
M:コーラスとキーボードで。
T:それがきっかけで何か動きはあったんですか?
M:その頃には勿論、自分のオリジナルの曲とかも書いていたんだけど。佐野君のバンドは佐野君の曲をやるバンドだったので。佐野君のバンドで演奏している私を見てベースの小野田清文君が…佐野君と同級生なんだけど「一緒にやんない?」って言われて、高三のはじめにバンドを組みました。で、五月に小野田君たちと日比谷野音に一回出たんですけど、受験体制に入っていきなり次の年の三月までバンド活動休止(笑)!…になってしまいました。
T:そのバンドはどういうバンドだったんですか?
M:小野田君とか、パーカッションの里村美和君とか。私がボーカルで、キーボード、ギター、ドラムです。
T:そこでは、のちにCD音源になった曲は、やってるんですか?
M:あぁ、あぁ!一曲だけあります。二曲?「帰港」「いつもならば」です。そうでした!段々、思い出して来た!それで、大学がめでたく受かったんですけど、国立音大声楽科ってところに。それで、やっとバンドが「始められる」って免罪符を親からも貰って。別に反対されてた訳じゃないけど。
それで、夏、軽井沢で合宿練習して。亡くなったんですけど音楽評論家になった斎藤君ってのがいまして、彼が曲を書いてギター弾いて。それでオリジナルを作って。で、今度は『イーストウエスト』ですね。ヤマハの『イーストウエスト』っていうコンテストの第一回目に出たの。
でも、何にも賞が貰えず。「入賞ぐらいしても良いかな?」って思ってたんだけど。メンバー皆、思ってたんだけど。(笑)何もなく終わり、ロビーに座って「なんか駄目だったねぇ」ってしみじみしてたたところに・・・。ドラムの林立夫さんから声を掛けてもらって、「君達、気に入ったから一緒にやんない?」と誘われました。
最近、審査の時にどうだったかっていう話しを、尾崎亜美ちゃんの現在のマネージャー蔵本さんから教えてもらったの。審査員にティンパンアレイのメンバーがいて、細野晴臣さん、松任谷正隆さん、林立夫さんと鈴木茂さん、ティンパンの四人は私たちをとても気に入ってくれてたんですって。他の審査員と、私たちの成績をめぐってしばし揉めたそうです(笑)こんなこと今でも覚えていてくれた蔵本さんにびっくり!
その後「デモレコーディングしてみようか」みたいな話しになるんだけど、メンバーがどんどん居なくなってしまったの。多分、皆、本当に将来「プロになるのか?」って真剣に考える時期だったからだと思う。ここでも、私は年下のお味噌だったので、バンドの状況を知らされていなかったの。「えっ!皆、居ないの!?」「どうして!?」「ひとり!?」で、ソロになったわけです。
それから、林立夫さん経由で「CMソング歌ってみて!」とか「スタジオコーラスしてみたら?」とか、色んな所でバイトな感じでスタジオ始めました。『ティンパンアレイ』のアルバムが、声のデビューです。大学二年生ぐらいかな?
T:それはアルバムに繋がっていく動きなんですか?
M:林さんは私のプロデューサーであったので、そういうつもりだったんだと思います。
浜口庫之介さんのところにボーカルレッスンに行くことになったのも、ソロデビューの準備だったことも今ならわかります。ビートの取り方とか色々教えていただきました。でも、半分はねぇハマクラさんの歌を聴いてるの。すっごい楽しかった!それで、半分は踊っていて、半分はビールを頂きながらハマクラさんの歌を聴くっていうゴージャスな時間でした。でも、その時、教えて頂いたビートのとり方っていうのが、すぐには解らなかったんだけど、一年後ぐらいに「あぁ!こういう事か!!」って少し解ったの。
T:それは、まだメーカーとかは絡まずに?
M:絡んでたのかも知れない・・・?。ソロデビューするまでは、若かったし、野心家君でグイグイみたいでもなかったから。すべて知らないうちに決まって行くみたいなカンジでした。頭悪そうに思うでしょうけど!へへ。色んな事、知らないうちに決まってたの。守っていただいたんだと思います。
T:最初のLPはエピックレコードですよね?
M:ですね。
T:ですよね。そこに行ってアルバムを出すまでの流れというのは?
M:そういう意味では全然知らない。そうそう、デモテープを録りました。そのテープを偶然聞いたアミューズの大里さんが、声を気に入って私を捜せっ!ていう指令をスタッフに出したんですって。パーティーを主催してる(これはホント!)派手な女(派手かな?まあ、都内の私服の付属校あがりの子ってことです!)なんていう噂が飛び交っていて、ハタボーこと畠中君(現アミューズ社長)は異常に緊張していたそうです。実際に私と会ったら空気が抜けて脱力だったって後で言ってました。
T:曲はどういう風に作ってたんですか?
M:本当に知らないんだな。皆、言わなかったのかな?ディレクターも決まってたし。皆、事前には何処かでお目にかかって「こんにちは」ってご挨拶はしていました。筒美京平さんは事前にスタジオで「マナっていうんだ。変な声ねぇ」なんておっしゃるし。私が知る前に作家も含め全部決まってた。エピックが決まった。事務所アミューズだ。アミューズが先だったのかなぁ?
T:エピックも、その時って未だできたばっかり?
M:そうそうそう。エピックのねぇ、最初の女性シンガーだったの。で、アミューズでも最初の女性シンガーで…えっと。
T:もともと渡辺プロのチームで?
M:渡辺プロで、キャンディーズを卒業させたチームで作ったのがアミューズです。原田真二君がいたんだけど私が行った時には真二君はもういなくて。他に誰かいたのかな?まだ、サザンもいなくて。部活みたいだった。アミューズもエピックも。エピックは皆が一生懸命だったていう印象。色んな業界の人が…つまり、音楽業界の人だけじゃなくって、本を作ってった人とか、色んな畑の人がエピックの最初のスタッフで、音楽業界に新風を吹き込もうとしていたのね。
T:エピックは最初、どこに?
M:青山のツインタワービルに入ってたの。アミューズはアミューズで仕事が終わると、スタッフは社長の大里さんの家に行くの。奥様の邦子さんがご飯作って「早く食べなさい!」って。スタッフも独身ばかりだったし、部活みたいに和気あいあいとしてました。
T:良い感じですね。で、最初のアルバムの製作過程は?
M:デビューアルバムはロサンゼルスで録ったんです。今から考えるととても豪華なレコーディングをしましたね。アメリカに行く二、三か月前からスタジオでずっとリハしてたの。ギターの今剛がメンバーで。コンがまだ新人。それで、アレンジャーがサディスティックスにいた今井裕。それで、ベースが渡辺直樹。スペクトラムのナオキ君。ドラムはミッチ。林さんね。一か月とか二か月ぐらい練習してて、京平さんの曲が「出来てきた!」はい、練習。ハマクラさんの曲が「出来てきた!」はい、練習。勿論、私の為だと思うけど、みんなで練習して、ヘッドアレンジしてデモテープ録って。それからアメリカへ向かったの。
T:それは何日間くらい?
M:一か月くらいかな?一か月ちょっとくらいじゃないかな?
T:ロスのどこですか?
M:ロスの”A&Mスタジオ”で。
T:海外は初めてじゃなかったんですか?
M:初めて?じゃなかったですね。はい。
T:レコーディングは順調に?
M:そうですね。順調でしたね。週末お休みになるので、週末は色んな遊園地めぐりをしてました。丁度その頃、お友達がロスにいて週末になると訪ねて来てくれたりして、一緒にディズニーランドに行ったりしてました。でもミッチに「そういう事じゃないだろう!」って怒られたりしました。子供でしたの・・・。
T:(笑)。なるほど。では、この辺りで、PART1が終了します!次回PART2は、日本に帰ってからのお話を。
K:はい。
PART2へ>>>>>>>>>>
MANNAさんが活動しているベアフットオフィシャルHPは、コチラ(http://www.barefoot.jp/)まで。