山口洋/HEATWAVE (PART1)

 2CD+2DVD「The rising」をリリースしたばかりの、HEATWAVE 山口洋さんへのロングインタビューです。
 そのPART1。


(2008年2月24日/momentにて/インタビュアー:TERA@moment)





 
 山口洋(Hiroshi Yamaguchi)「HEATWAVE」

  Music #63
 
  


    
 山口洋 ロングインタビュー (PART1)

最初に出演交渉に行ったのは、すごい田んぼしかないような町の、スナック「憩い」みたいなところで、「生演奏、可」みたいな事が書いてあって、演奏したいんですけどって言いに行ったら「いいよっ」って言われて、「ちょっと演奏してみろ」って言われて。俺たち上手かったからね。すごい練習してたし。そこで「ヒートウェイヴ」として初めてのライブを始めた。そしたらそのスナックの野良仕事帰りのおばさんとかが来て、俺らがすげえパンキッシュな演奏してんのに、おばさんたちがツイストすんだよ。(笑)

TERA (以下:T):では、宜しくお願いします。

山口洋 (以下:Y):はい。


T:まず、生まれた場所をおしえてください。

Y:1963年、福岡県、福岡市です。まだ街に路面電車が走ってたような。そんな時代です。子供の頃のアルバムとか見ると、アルマイトの器でおじやか何か母親に食わされてる写真があって。すごい時代だったんじゃないですか。日本の高度成長の。

T:小さい頃はどんな遊びをしてたんですか?

Y:自閉症のハシリだったの。当時「自閉症」とか「登校拒否児」とか巷に出まわってなくて。学校行くの嫌で、「登校拒否児」かつ「自閉症」。趣味は読書と折り紙みたいな。折り紙上手いですよ。日本ロック界で多分一番。


T:まだ折れます?

Y:多分。

T:小学校の時は習い事とかは?
Y:外に出ない自分が嫌だったから、無理矢理変えようと思って野球を真剣にやってたな。あと本を読んでた。

T:野球は何か好きなチームが?

Y:福岡に「西鉄ライオンズ」ってあって、最近亡くなった「稲尾」っていう大投手がいて。本当に弱かったのね。俺がこのチームを救ってやろうと思って。笑うとこですけど。(笑)

T:(笑)

Y:俺が西鉄を救ってやるみたいな。でも所沢に持ってかれて、西武グループにね。フランチャイズなくなっちゃって、悲しい少年時代だったなあ。

T:当時、ラジオとかテレビはよく見てたんですか?

Y:テレビはそんなに見てなかったけど、ラジオは聞いてた。「欽ちゃんのどーんといってみよう」とか9時40分からイヤホンで聞いてた。あと土曜日に「笑福亭鶴光」のオールナイトニッポン、いやらしくて。まああれはもう「ドラえもん」の「どこでもドア」みたいな感じだったから。夜中ベッドに顔突っ込んで、卑猥な妄想しながら聞いてましたねえ。よかったなあ。今考えるとすげえイマジネーション膨らんでたもんなあ。

T:同世代ですね。

Y:いやらしかったもんね。

T:小学校、音楽に触れた思い出というのは?

Y:リズム楽器が異様に好きで、近くの高校のブラスバンドのドラムとか漏れてくると叩きたくてしょうがないの。自閉症だから叩かしてくれとは言えないし。学校の門の陰に隠れて2時間とかずーっと聞いてたの。それでイメージトレーニングしてたから、ドラムなんか叩いたことなかったけど、多分その場で入ってったら、叩けてたんじゃないかなと思うけど。あと親父がすごい音楽好きで、クラシックをずっと聞いてたから、ひととおり漏れてくるのを。まあ今となっては相変わらず楽譜も読めないし、破れてるんだけど。日常に音楽がある家だったから、それはよかったかな。

T:レコードは?

Y:初めて買ったのは小学校5年の時に、福岡って田舎だから。なぜかビートルズの「レット・イット・ビー」と3本立てで、洋服屋さんで映画やってて。今で言う紳士服の「コナカ」ってとこでね。「フタタ」っていう店なんだけど。そこで「レット・イット・ビー」を見て、いいなと思って、親父に「レット・イット・ビー」を買ってもらったのかな。あとね次に買ったのは「天地真理」の「バスは〜」っていう歌があって、そのイントロがドラムから始まるんだけど、トンツトトンってフィルなんだけど、それが異様にかっこ良くて。それでレコード買ってもらって。そこのイントロだけ多分700回くらい聞いたと思う。何がそんなにかっこいいかよく分かんないんだけど。何かそのフィルを聴くたびに、体中の毛が全部逆立つような興奮があって。ドラムが好きだったからかな。

T:自分で楽器とかは?小学校で?

Y:学校で音楽やる奴嫌いだったから。吹奏楽部にいそうな奴。まあその「レット・イット・ビー」。ピアノ、確かポールが弾いてたんだけど、今考えるとあれキーがCなのね。だからあんまり黒鍵にいかず弾けるじゃない。あまりにも何百回も聞いてたら、家にピアノがあったから、気がついたら楽譜も読めないのに弾いてた。だからあの当時やっぱり、インターネットもないし、楽譜が楽器屋さんに売ってるって事も知らないし、楽譜を買ったとしても楽譜読めないし。完全に耳だけの世界で、レコード何百回も聞いて、体ん中に染み込ませて、自分で弾いて。まあコピーするだけじゃ飽き足らなくて、自分だったらこうやった方がいいじゃんみたいな感じで。で毎日3ヶ月もかけてひとつの曲をやって時代はよかったのかも。情報がない分だけ。

T:上級生あたりは部活とかは?

Y:今でもそうなんだけど集団が嫌いで。ガキ大将になるほど俺は体強くないし、けっこういじめられたりしてたから。俺が変わってたから。だから集団の中で何かやるっていうのが好きじゃなくて。小学校の時、暗いけど明るくなりたいけど、快活になりたいけど、快活でもないと。(笑)屈折しまくってた。でも屈折も一回転するとまっすぐみたいな。でも何となくね「やっぱり世の中おかしいぞ」とか何かこんな当時から勉強しないとロクな大人にならねえぞとか学校の中にプレッシャーがあって。それはどうも嘘くさいなって感じていて。小学校4年ぐらいから世の中を変えたいって思ってたけど、政治には未来はねえなとか。でも例えば、今考えると「オウム」の幹部なんて同年代じゃないですか。「上祐」とか。多分同じ気持ちだったんじゃないのかな。何か漠然とした不安があって。妙に小頭だけよくて。俺はたまたま音楽があって、まあ俺が今まともかどうか知らないけど、地下鉄にサリンを撒かなかっただけで。彼らのやった事は受容しないけれど、彼らがああなった気持ちは少し分かる。そういう時代に育ったんじゃないかなあ。だってあん時の教師なんかひでえもん。今だに許せねえし、こんな大人だけにはならねえぞみたいな。で、たまたまうちの親父が大学の教授。理解のある男で。5教科7科目まんべんなく出来ないと大学に行けないって国家が云うわけじゃん。そんなまんべんなく出来る男に俺はなりたくないし、俺出来ねえって親父に言ったら「うん、いいよ」って「好きな事をやれ」と。ただし自分が失敗したら自分で責任取れるような生き方をしてくれって。それは音楽やるしかないよね。

T:中学生では?

Y:受験地獄みたいなのがよけいひどくなってきて。でも俺らのとこは「ビーバップハイスクール」の舞台だから、そういう荒れてる感じもあって、今考えるとそんなに陰惨、陰湿じゃないんだけど校内暴力の嵐が吹き荒れてて。で俺はそれまで本を読んで、絵を描いてたの。絵を描くのがとっても好きで、絵描きになろうか、小説家になるのか、そういうところにしか俺の居場所はないなって思ってたけど、あの漏れてくるドラムのリズムとかどうしても忘れられなくて。今考えたら芳醇な時代で、ラジオをつけると「ローリング・ストーンズ」の「ブラックアンドブルー」とかがヒットチャートの1位だったのね。だからラジオつけるといい音楽が流れてたし。で「チャーリー・ワッツ」のドラムとか聞いて異様に興奮してて。で俺の14歳の誕生日の日に親友の家に遊びに行ってて、奴はギターを弾いてたの。で俺は絵を描いてた。で俺が奴に絵の描き方教えて、で奴が俺にギターの弾き方教えてくれた。互いに何年もやってたことなのに一週間ぐらいお互いの才能が交錯しちゃったの。俺は異様にギターを好きになって、奴は異様に絵が伸びた。でお互いの伸びたのを見て、こいつの才能に勝てないと思って。奴は後にオランダに行って絵描きになり。初めてGのコードを弾いた時に、「矢沢永吉」のロゴマークがZ、「グレイトフル・デッド」の雷が落ちてるじゃん。あれの先っぽが頭に刺さったような感じがしたの。きたぞっていうみたいな、これだっていうみたいな。で何だろうね、全身が震えるような感動があって。今考えるとGを弾いただけなんだけど。何かこうフィジカルな事とメンタルな事が全部そのGを通じて俺から出てるんで、また俺に戻ってきてループしてるような渦の中に入っちゃったような。何かこう自分が自分でいられるような。受験戦争なんてどうでもいいような、それを14歳で見つけられたのはよかったかな。だからそれからは起きてる間はずーっとギター弾いてたと思う。それから3年ぐらい。

T:何か曲を作ったりそういうのは?

Y:その頃は俺は歌う気持ちはなかったから、単純にインストとか勝手に作っていた。

T:よく弾いてた曲は?

Y:「ジミー・ペイジ」がバロックぽいインストをやるじゃないですか。「ツェッペリン」で。あれに塩酸かけてんだけど(笑)よくわからないけど。多分どこかに行きたかったのね。でもその時、飛行機に乗った事もなければ、ほぼ自分の街から出た事もない時に。ラジオから流れてくる音楽で色んな事を想像するんだけど、何かそういうところに自分も参加したくって、ギターを弾いてるうちに分かんないけど興奮してきてみたいな、そういう感じだったんじゃないかな。

T:中学終わる頃ってギターにまつわるエピソードって何かありますか?何か発表の場とか。

Y:全然ないっすね。悶々と自分が客で、自分が演奏者で悶々と弾きまくってるだけ。高校に入ってもしばらくはそうだったですね。でも高校2年の時に授業中にある日、だれかの言葉を聞いて。えーかげんにせいよ。このままだとほんとに巻き込まれると思って。でその時教科書のはじっこちぎって、俺、2年1組だったのかなあ。アウトローになりそうな奴選んで、お前が歌えとか、お前ベース弾けとか、お前ドラム叩けとか、教科書ちぎって授業中投げて。ま、何人かに断られたんだけど、それで作ったのが「ヒートウェイヴ」ってことですよ。1979年。何かやらなきゃと思ったの。そうなるとやばいって。

T:「ヒートウェイヴ」って名前は?

Y:恥ずかしいからあんまり言いたくないんだけど、15歳とかじゃない?「ローリング・ストーンズ」とか好きなわけじゃない。だからバンドの名前なんか何でもいいんだけど、バンドの名前つけなないと入ってくれなさそうじゃん。最初「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」ってバンド作るって言ったんだけど、それって何って。恥ずかしくなっちゃって。とりあえず「ヒートウェイヴ」にしとけみたいな。まあ早熟なガキだったからそれが「マーサ・アンド・バンデラス」のモータウンの曲だって事も知ってたし、「ザ・フー」も知ってたし、「ジャム」がやってたのも知ってたし。かっこいいじゃんみたいな、そんな感じ。

T:一番最初、集まって何をしたんですか?

Y:「ヒートウェイヴ」。(笑)でもねドラムセットとかないし、どっかのアパートに行って、ドラムの奴なんか机をスティックで叩いてて。小さなアンプにギターとベースを両方突っ込んで、歌はなんか棒みたいなもんで。ガンガンノリノリでやってたわけ。すごい楽しくて。でも下がラーメン屋で、盛り上がってくると。そういう時、発表の場もないわけだからアパートにリハ行くのって命かけてるから。月曜から金曜まで鬱屈した日々を送ってね。着るものはピシッときめて盛り上がってるわけじゃない。そしたらそこの窓にピシッピシッとラーメン屋から何か飛んでくるのよ。よく見てたら、博多のラーメンって言うのはダシの中にニワトリの足が入ってるのよ。それに切り目を入れて煮るとダシが出るんだけど、ラーメン屋のおっちゃんがうるさいからニワトリの足投げるんだよね。(笑)それが飛んでくんの。そんな感じだったな。「お前らええかげんにせえよ」って。(笑)

T:(笑)。そういう活動っていうのはどのくらい続いたたんですか?

Y:2年くらいかな。高校出るまで。そんで高校の終わりがけに、やっぱり人前でやりたくなって、でもどこでやっていいか分からないし。まあ一番有名なところじゃ当時「ルースターズ」とかが、福岡のど真ん中で500円とかでやってたんだけど。見てかっこ良かったし、同時に俺にも出来ると思ったわけ。で最初に出演交渉に行ったのは、すごい田んぼしかないような町の、スナック「憩い」みたいなところで、「生演奏、可」みたいな事が書いてあって、演奏したいんですけどって言いに行ったら「いいよっ」って言われて、「ちょっと演奏してみろ」って言われて。俺たち上手かったからね。すごい練習してたし。そこで「ヒートウェイヴ」として初めてのライブを始めた。そしたらそのスナックの野良仕事帰りのおばさんとかが来て、俺らがすげえパンキッシュな演奏してんのにおばさんたちがツイストすんだよ。(笑)でおひねりとかもらったりして、いくらぐらいもらったんだろ。でも酒とか飲んで、楽しかったね。何か生きる場所を見つけたっていうか。若い客なんてひとりもいなかったけど、当時だって軽音楽部みたいなのあるあわけで。でもそういうサークルっぽいの嫌で、やるんだったら自分たちでやる場所見つけて。福岡市内の「ルースターズ」なんかがでてるところにでるのは、ちょっと俺たちはまだまだだから。田舎のスナック。でもやってる時はおばさんだろうが何だろうが本気だったし。

T:曲のレパートリーは?

Y:何やってたかなあ。博多ってのはいい街で、例えば「ローリング・ストーンズ」が好きで、今でもお世話になってるレコード屋さんが沢山あって。その店主が大抵怖いんだけど。嫌な文化もあるけど、良い文化もあるとするなら、「ローリング・ストーンズ」聞いてしびれて、じゃあ例えばレコード屋さんに行くと、「じゃあブルース聞いた方がいいよ」とか「ベルベット・アンダー・グラウンド聞いた方がいいよ」とか言う怖いおっさんがいるわけ。で、そのおっさんとかにおしえてもらって、今でも付き合いあるけど。だってひと月に一枚しかレコード買えないから。お金無いから。厳選に厳選を重ねるわけじゃない。レコード買っちゃたらバス代もないみたいな世界だから。で、メンバーと話し合って「お前はこれ買えよ」とか「俺これ買うよ」とか。その一枚を外した時のその一ヶ月もたないからね。買ったからにはもう擦り切れるくらいまで聞くし。それが世界と俺を繋いでる唯一のこうミラクルなアレなわけだから。やっぱりそういう聞き方にも気合いが入ってたし。その時にすでに「ジョン・リー・フッカー」から「ハウンドドッグテイラー」「ハウリンウルフ」「マディ・ウォーターズ」聞いちゃう訳だから。17のガキにしては何か妙にルーツ音楽みたいな、でも学校での不満を口にしたオリジナルソングもありみたいな。あんまり思い出したくないけどね。(笑)

T:ライブをする場は?

Y:大学入って、高校3年の時にやっぱり進学校ではあったので、みんな勉強するためにバンドやめちゃう訳。で自分がいる高校の中で俺ぐらい熱い奴はいないんだって思うから、隣の高校に遠征していって上手そうな奴見つけてきて、そいつらとやるようになって、いよいよ福岡市内に打って出るぞみたいな感じで。福岡市内に行って。気がつくと、自閉症は随分治ってた。

T:大学は普通の大学ですか?

Y:それは芸術学部、美術学科っていういわゆる絵描きのとこに。まあドロップアウトする奴にありがちな、何も出来ないけど絵は描けるみたいな。

T:じゃあ、高校時代は絵を描いて?

Y:描いてたけど学校で描くのは嫌だったから、密かに描いてた。

T:大学行って絵の方は?

Y:何でそこに行ったかっていうと、そこには俺の居場所があると思ったんだけど。でもそこにいる教授どもが、アーティストってのは自由なはずなの、俺の頭の中では。だって俺の好きなミュージシャン、みんなアートスクール行ってたし、俺もそっちもいいだろうって行ったら、教授どもがつまんないわけ、人間として。破れてないし。だって今考えてみたら、学校で教鞭をとって、個展もやりますなんて、そんな奴の絵なんか見るか、バカ!って話でしょ。その頃、分かんなかったから、彼らが人間的にとってもつまんなかった。一人だけいたの、俺が心酔してた先生がいて。飲み屋でばったり会ったらね、その先生が「お前、恋しとるか」って聞かれたから、「ああ、してます」って言ったら「いいか、恋をするんだったら全身の体毛を逆立つくらいじゃなきゃ駄目だ」って先生が言ったの。俺はこの人好きだと思って。

T:大学その4年通して、ライブ活動、バンドとしてどういう流れに?

Y:大学出る頃にはそれなりの人気があって、まあミニ芸能界みたいな感じだったから、ライブとか毎月やってたし。俺は真剣にやっていくつもりだったし、とりあえず一生懸命やってた。それやんなかったら取り柄ないから。レコード会社の人間って、いつ天使のように目の前に現れるんだろうって。でも大学時代にはすでに色んなレコード会社の人がきて、けっこう騙されたりして。まあ22になる頃にはほぼあいつらは信じないって。(笑)そういう態度にはなってたから。で、当時ねイギリスで「ラフ・トレード」とかはじめとしてインディペンダントの動きがあって、俺も絶対こっちだって思ったから。まあ考え方として、福岡に住んで全世界的にレコードが出る方法を考えつつ、あるいは外国に行って「ラフ・トレード」みたいなレーベルと契約する。やり方を考えていて。

T:じゃあ、音源は自分たちで録ったりとか?

Y:うん。レコーディング好きだったし、当時は本当に「オープンリール」にね。博多にいるのは、自分たちの根城みたいに思ってたし、まあ当時からレコーディングには興味があったし。まあライブでは誰にも負けない演奏をしようって、一年300日くらい練習してたし。レコーディングはレコーディングで自分たちでやってたし。

T:なるほど。最初のレコーディングっていうか、ちゃんと録ろうって決めたのは?

Y:84年かな?大学生かな。シングル盤を出した。初めてレコードになって、盤から自分の音が出てきて、ほんとに嬉しかった。あれが一番嬉しかった。で、当時からインディペンダントな気持ちだったんだろうけど、自分たちでレコード屋さんを回って置いてもらって、それが売れたお金が入ってきて、また次の活動に繋がって。まあ1000枚くらいだったと思う。何かそういう事をやってるのが楽しかった。で、地元の荒くれどもがどんどん集まってきて、俺はお山の大将でいるのが嫌だったから、じゃあ組織を作ろうって話になって、有限会社は嫌だから無限会社にしようって話になって。人が嫌がる名前にしようって事になって「無限会社地獄商事」って会社を作ったのね。でこういうアパートみたいなとこに、30人くらい人がいて、何とはなしに勝手に色んな宣伝やったり、勝手に色んな映像作ってる奴がいたり。で、俺はどっちかっていうと、こう見えてお母さん的な性格で。奴らがいつも飢えてるから、まあ夏とかだったらバイクで、福岡は海に近いから、うちの今のべースの「渡辺」って日本ロック界で一番ウニの密漁が上手いんだけど(笑)奴が密猟するのを俺が水中で、俺潜り上手いから、海っ子だから、それを袋に入れて50個くらいウニを密漁して、たまにタコとかあるんだけどね。それを「地獄商事」に持ってきて。俺は飢えてる奴らにウニ飯をつくって食わしてるみたいな。なんだよそれ。(笑)みたいな。楽しかったね。ほんと楽しかったよ。だって、お前にこれやれって言った事は一度もないんだけど、みんながそうやって勝手に集まってきて、色んな事やってて、まあ周りには相当恐れられてたけど。だけどテレビとか取材に来るようになって、何だこの若者たちはって、NHKのドキュメントになったりとかね。面白かった。だからあのままメジャーとか契約しないで、やり続けてたらもっと面白い事になってた気もするし。でもやっぱり基本的にお金の事を考えてやってる奴っていないから。いざっていう時に必要なの金だったりするからね。その辺でもうちょっと頭のいい「マルコム・マクラーレン」みたいな奴がいたらね。もうちょっと面白い事になってたかも。

T:で、そのレコードデビューまでいく経緯というのは?

Y:大学を出て、俺就職決まってたんだけどするわけがなくて。で選んだ仕事が肉体労働だったの。社会のヒエラルギーの見方によっては一番下のところから世の中を見れば、ソングライターとしてはいい経験だろって思ってたから。肉体労働しながら4年間音楽やりながら、朝6時から仕事して夕方6時まで体使って、それから8時頃から夜中の2時くらいまでバンドやって、それを4年間やってて。実際に妙に人気がでてくると、博多でどんなに人気があったって、日本、東京でどうにかしないとどうにもならない。で当時博多のバンドがデビューするにはコンテストに1位になるしかなかったから。俺たちのバンドも18の頃でてたんだけど、前年のグランプリが「チェッカーズ」みたいな世界。俺たちも穫ったんだけど。何かこう音楽に1位とか2位とかねえだろってら、早々と思っちゃって、こういうやり方やめようって事にしたんで。取りあえず福岡からツアーして全国各地で、並みいる対バンを叩きのめして這い上がってくるしかなかった。でも食うものは食っていかなきゃいけないないし、肉体労働してもツアーやると赤字だからさ。俺ほんとに49キロくらいまで痩せてて。ただライブの時はそんな対バンのヘナチョコ全部叩きつぶしてやるって気持ちだったから。

T:なるほど。

Y:で、ツアーでる時は、ベースんとこのおかーちゃんがおにぎりを60個くらい作ってくれて、それが何日食えるかって世界で。(笑)ほんとなんだけどさ。すさんでてみんな、ほんとに飢えてたからさ。で名古屋くらいまでたどり着いたら、ほんとの話だけど、もうたまらんから誰か「「吉野家」に行く」って言ったら、「そんな金は無い」って俺が言い張ったんだけど、みんな行っちゃって、で勝手に「わかった。じゃあ、牛丼なら食っていい」って言ったんだけど、そいつが勝手にみそ汁を注文した訳。それで「吉野家」のカウンターで俺がそいつの襟首つかんで殴り合いのけんかしてんの。(笑)「みそ汁っ、貴様、このやろうっ、みそ汁っ食いやがって」って。そういう状態だったから。笑い話だけどさ、当時はやっぱり、バンドやるって金かかるし。音楽に命懸けてるし。その分俺たちのライブはすごかったと思うよ。もう見たくないけど。だけどどうにもこう、このまま行くとこれは歯がボロボロになって、自分の体の限界がきても、もう音楽出来ませんっていう事になるのか、っていう時間との戦いだなあと思ったから。まあもちろんもうその頃メジャーのオファーとかあるわけで。色々話があった中で、当時のエピック・ソニーって音楽に非常に理解があった。で社長が丸山さんて言う、俺はいまだに大好きな人でね、丸山さんに会ったら「お前たちで5年間儲けようなんて思ってないから、5年間ほんとに好きにしていい、金なら出す」って言ってくれてね。「今、言いましたね」(笑)彼の言葉が決め手で「わかった、じゃあいいや」ってそれでソニーと契約しました。

T:はい。

Y:で、初めてレコーディングでカツ丼食って、泣きそうになったよ。俺たち音楽やりながら昼飯くってるぜみたいな。当時の自分たちのレコーディングなんてもうクオリティーを上げる為にはレコーディング・スタジオ使わざるえなかったから。でも3日間とか4日間フルアルバムつくってる訳だから、飯なんて食うなんてとんでもない。そんな時間があったらもっと違うトライをしようってやってたからね。当時日本がバブルだった頃に、俺たちは最低の生活してたから。それが逆に良かったような気がするし、それでもみんなが、一攫千金とか音楽やって金儲けしたいって思ってるメンバーは一人もいなかったからね。それだけ音楽に純粋にクオリティーをあげていいライブをやることしか考えてなかったから。それは今も変わんないけど。大学出てからの4年間、社会の下層から世の中を見つめる事が出来た事。そして、14歳の時ギターを弾いた時の胸がうち震えるような感じがずーっと持続してた。「ジョー・ストラマー」がパンクは態度であるって言った事が、色んな事がずーっと続いてたんだと思う。だからメジャーと契約したからって有頂天になる奴、ばかだと思ってたから。そんなの別にスタートラインに立っただけじゃん。まだ走ってもねえし。

T:最初のレコーディングっていうのは、曲の選曲とかどういう風に?

Y:デビュー盤は今まで培ってきた自分たちの、まあ全部早すぎて「ネオアコ」ってのが流行る前に、「ネオアコ」みたいな事やってたし、「デジタル・ロック」ってのもやってたし。デビューした時に完全に裸一貫みたいになってたから。そんなさあ、エピックのレコーディングなんてめちゃくちゃ金あんのに、なんか東京のスタジオで録るのが嫌で、あえて福岡のボロボロの友達のスタジオで録って。とにかく、こう柔道で言うと体は小っちゃいかけど無差別級で戦ってる感じがあって、あのでかい奴をこちょぐってでも、噛み付いてでもいいから俺たちがねじ伏せてやるみたいな、そういう感じ。実際その自信があったし。セールスとうい点では全然ねじ伏せられなかったけど。

T:当時はまだ東京に出ててきてない?

Y:出てきたよ。26の時に。トラックに乗って。

T:デビュー時に?

Y:デビュー。そう。

T:最初どの辺に?

Y:事務所の社長が「山口君は絶対東京は無理だ」って言われて千葉県。(笑)

T:千葉のどの辺に?

Y:千葉の検見川って街だったかなあ。とにかくさあ、給料7万円でさあ。家賃4万いくらかでさあ。楽器のローンが3万円くらいでさあ。もらった日にマイナスなんだよね。食えねえっつの。(笑)俺ねえ、東京にも友達できてきて、当時色んなミュージシャンの友達がいて、みんな貧乏でさ。「ウルフルズ」とかうち泊まってたけど、すげえ貧乏で。ある時、終電なくなっちゃって、新宿で飲んでて。どうするって話になって、帰れねえよって、そうだねって、みんなの金を3人くらい足したら1600円くらいだったのかな、そのまま酒屋に行って、一升瓶を買って、これで夜が超せるぜってって話になった訳。でも俺酔っぱらってて、一升瓶落としちゃったの。(笑)割れたのね。でアスファルトに焼酎が染み通っていくのよ。その瞬間に3人が何をしたかっていうと、染み通っていく焼酎を口から飲もうとしたのね。俺その時に、これはやばいぞ、これは何とかせにゃいけんと思ったのが、何か金がないっていうのはここまで人をすさませるのか、みたいな。でも当時はほんとにバブルなわけでしょ。たまに俺たちタクシーに乗らなきゃ死にそうだっていう時、タクシー止まんないような時代だから。あの頃に正体不明の被害者意識は相当摺り込まれたかも。ひどい時代だったね。

T:なるほど。で、ファーストアルバム後はどういうサイクルに?

Y:とにかくレコード会社主体で。自分たちのやり方、ほんとに好きにさしてもらったけど、でも宣伝会議みたいなのがあって。当時ディレクターがさ、エピックの中で一番売れてないディレクターでさ、抱えてんのがさ「エレファントカシマシ」と「ヒートウェイヴ」だぜ。どんなディレクターだよみたいな。(笑)今考たら可笑しいけどね。まあ奴も大変だったんじゃない。あんまり多くは語れないけど。(笑)

T:大体1年に1枚くらい?

Y:もっと出してたんじゃないのかな。わかんないけど。とにかく、こっちのすげえ高いっスタジオでやって、自分たちの望んでる音はでないっていう違和感はすでにもうあったし、やりたい事があって歌わないと死んじゃうから音楽やってたのに、締め切りがあって歌を書いているってどういう事みたいな。俺は職業作家になりたいのかって言われた時に、そんな事やりたくもなっかたし。まあ当時からギターだけは評価されてたから、ギター弾きにきてよって言われて、どっかのレコーディングスタジオに行って。まあ弾けるんだけど、いわゆるスタジオミュージシャンみたいなことをやると、自分がその金を稼ぐのの百分の一位の労力で金が入ってくるんだけど。燃えないんだよ。何か、例えばあるレコーディングに行って、バリバリ売れてる女性シンガーのギターを弾く。俺にとって音楽ってのはビジュアルだから、ビジュアル系っていうじゃなくて、スピーカーの間に風景が見えるって事だから。まだ歌詞とか出来上がってなくてさ。これどういう事が歌いたい、何をやりたいのか聞くと、「そうだねっ、地平線かなっ」って言われたから。(笑)そんで一生懸命考えて、こうかなって。いい音楽にしようと思うんだけど。ただその子が望んでたのは、ただ後で考えたら12弦ギターだけっだたみたいな。意味わかんねえ。で違うセッションに行くと、仮のタイトルとかついてて「ジェームス・テイラー」風とか書いてあるわけ。その時点でやる気なくすじゃん。そんなの「ジェームス・テイラー」に勝てるわけねえじゃんみたいな。ものすごい違和感あって。金は貰えるわけ。でもやだって。やっぱり苦しいけどバンドでやるしかないし、でもバンドのメンバーだって、段々結婚して、子供が生まれてくれば、ほんとにきびしくなってくるし。で俺はすごい狭い6畳で音楽作ってる時に煮詰まりそうだし、そこで初めて、そういえば俺を動かしてきたのは日本の音楽じゃなくて外国で出来たものじゃんって、ほとんどじゃんってって思って、突然嫌になって外国に行こうって思って。で初めてニューヨークとか行って、まあそれはすごい刺激だったよね。

T:では、この辺でPART2へ続きます。

Y:はい。

PART1-END>>>
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山口洋さんの詳しいインフォメーションは、オフィシャルサイト