西沢サトシ (PART1)

 rough laugh、speaklowと活躍後、ソロに。今年、アルバム「too soft to touch,too sweet to bite」を発表した、
 西沢サトシさんへのロングインタビュー。そのPART1。


(2008年7月17日/momentにて/インタビュアー:TERA@moment)





 
 西沢サトシ (Satoshi Nishizawa) PART1

  Music #67
 
  


    
 西沢サトシ ロングインタビュー (PART1)



TERA(以下:T):では。よろしくお願いします。

西沢サトシ(以下:N):よろしくお願いします。

T:まず、産まれた場所を教えて下さい。

N:産まれた場所。えーと、岩手県の花巻市花巻町。で、0歳のうちに埼玉入間市に引っ越して来た感じです。

T:ご兄弟は。

N:兄貴が居ます。6コ上の。


T:小さい頃、遊んでもらったりとか。

N:いや、喧嘩ばっか。というか、いじめられてばっかいました。

T:幼稚園の時も埼玉に。

N:埼玉ですね。はい。

T:何か幼稚園の時の記憶ってありますか。

N:一番昔の記憶・・・どうでしょうねぇ。その当時、保育園で好きだった女の子に告白したのを覚えています。

T:その結果は。

N:その子が引っ越しちゃうっていうんで母親同士で、レイちゃんっていう子だったんですけど、『サトシはレイちゃんの事が好きでねー』って言ったら『あら、うちの子もー』って。

T:両思いじゃないですか。

N:で、握手して『バイバイ』みたいな。

T:ちょっと切ないですね。

N:なんだかね(笑)

T:(笑) 小学校入る頃はどんな少年だったんですか。

N:保育園卒園してからサッカー始めたので。今ではもう15分も走れないですけど、昔はずっとサッカー少年でしたね。スポーツマンでした。

T:その頃、サッカー流行ってたんですか。

N:丁度少年野球の人気が無くなって来て、サッカーチームが増えて来た時期。『キャプテン翼』とかが流行って来た時期で、サッカー少年の数が増えて来てた時期だったんでその流れで。

T:サッカー以外に小学生の時にやっていた事って?

N:いやー、サッカー一筋でしたね。センターフォワードで何か副キャプテンやってて、今では考えられないですけど何か朝練仕切ったりとか。『何時に此処集合!』とかやったりとかしてました。凄い熱かったです。

T:学校行ってサッカーやってみたいな。

N:そうですね。勉強殆どしなかったですけど。

T:音楽とかはどうだったんですか。小学生の頃。

N:高学年の時に、兄貴の影響でちょっと早かったんですけどバービーボーイズとか。ま、BOOWYとか。そういうのはカセットテープで兄貴が持っていたんで、それを聴いてた・・・っていうか兄貴が聴いてるのを聴いてた感じでしたね。まだ目覚めたりとかは全然していなかったですね。

T:割と日本のバンドブームとかその時期ですよね。

N:そうですね。

T:テレビとかってよく観てました?小学生の時。

N:小学校の時。どうでしょう。歌番組とか観てましたねやっぱり。それでそれをカセットテープに録って、テレビの音を。

T:ゲームとかは。

N:中学あがる時にはもう辞めちゃいましたね。

T:ファミコンですか。

N:ファミコン世代です思いっきり。スーパーマリオとかあの世代で。でもドラゴンクエストのだか。だかやってた時に、何かクリア間近で急に冷めちゃってリセットボタンをカチッてして兄貴に『続きやって良いよ』って言って、それから一切もうやらなくなっちゃいましたね。何だったのか良く分からないんですけど。

T:何故だったんでしょう?

N:何故だか突然やめちゃいました(笑)

T:なるほど。で、中学はどんな感じで。

N:中学は一年生とちょっとまではサッカー部にそのまま居たんですけど、何か上下関係が凄く厳しくて、サッカー部入ったのにボール触らせてくれないとかそういうのが、子供ながらに理不尽に感じたんじゃないですかね。で、なんか部活を辞めちゃって、それで何か美術部に入って・・・幽霊部員で(笑)

T:美術部!

N:でも殆ど行っていなかったですけど。

T:入った理由って言うのは、やっぱり絵を描きたかったから?

N:うーんと、一番楽だったからです(笑)っていうか、ちょっとやんちゃな部類のグループに入っていたんで、常に保健室とか空き教室とか探して授業さぼってる感じ。でも部活は絶対に入らなければいけないっていう決まりがあったので、一番楽な部活に入っちゃいました。

T:(笑) 中学の時に凝っていたものってありますか?

N:サッカー辞めてから、初めて通信販売でエレキギターを買って、音楽始めたのがサッカー辞めたのと同時ぐらいだったので。で、それからはバンドにはまりましたね。やっぱりコビーバンド。文化祭出るんだって言って同級生でバンド組んで。

T:その時はどういうコピーを。

N:一番始めに練習したのはZIGGYでした。あとは、JUN SKY WALKERR(S)。だけど、文化祭でやったのはRED WARRIORSでした。いきなり上の方に飛んじゃって。同級生誰も知らないみたいな。

T:RED WARRIORS。誰も知らなかったですね〜。

N:中学生で『次の女が来る前に〜』って歌ってましたからね。アホやーって思って。『俺のベットから消え失せろ〜』って。中学生の台詞じゃ無いと思って。

T:主に文化祭が発表の場みたいな。

N:そうですね。何故か先生に嫌われてたんで。というか、全体的に嫌われてたんで(笑)、だから目立つのはそういうとこしか無かったんで。ここぞとばかりにみたいな。

T:中学終わりになってくると進学とか色々あると思いますが。何か考えたりしましたか?

N:みんな普通に進学しますけど、何となく僕の中にはそういうのが無くて。だったら早く社会に出たい。みんながこう進路で色々悩んでいる時に、僕は全然何にも考えて無かったですね。結局高校も進学しなかったし、そのまんま。

T:中学出て、まず自分がやったことって何ですか?

N:バンドはそのまま続けてましたけど、とりあえずお金を貯めようって思って、100万貯め、バイトばっかしてましたね。で、70万くらいたまった時にそのお金で・・・元々高校行く気もなかったし、何となくこう、僕が住んでいた町もちょっと閉鎖的な町だったんで、閉鎖的というか・・・みんなあまり外に出ないという。都内との距離が凄く微妙で、行こうと思えば行けるし、行かなくても良いみたいな町だったんで、結構みんなそこにスティしちゃうんですよね。それが凄く嫌で、それでそのお金で海外に留学しました。1年間ワーキングホリデーっていうので。

T:国はどこなんですか?

N:国はね、ニュージーランドだったんですけど。

T:ニュージーランドの上の方ですか下の方ですか?

N:オークランドだから北ですね。


T:そこでは主に何をやっていたんですか?

N:もう本当に外国行くのも初めてでしたし、飛行機乗るのも初めてだったし、空港ついた時に『俺は何をしてしまったんだ』くらいに思っちゃったんですけど。ただ、向こうの高校に行く為の付属の英語学校みたいなのがあって、そこに通ってました。だから、日本の高校じゃなくて向こうの高校に行く為の英語学校。そこで何か疑似ハイスクール体験みたいなのをしたって感じですかね。

T:英語はどうでした?

N:変に文法とか知らなかったから、本当に勉強してなかったんで、英語も『ナイス トゥー ミーチュー』くらいしか言えないレベルで行ったんで、逆に早かったですね覚えるの。3ヶ月くらい経ったら結構普通に日常生活は困らないくらいにはなってました。

T:住んだところってどういう所だったんですか?

N:始めは、いわゆる留学センターの人たちが決めてくれたホームスティ先なんですけど。大体2ヶ月とか3ヶ月のタームで変わったりとか、学校の更新とか留学ビザで帰るとかそういうのがあるので。その時僕、結構語学学校の仲間が出来てたんで、仲良かったんでもうみんなで住んじゃおうよみたいな感じで。で、ホームスティは2ヶ月半くらいで辞めて、もうすぐ友達とフラットって言うんですけど、一軒家借りて部屋を分け与えてシェアして、そういう感じで住んでましたね。

T:楽しそうですね。

N:楽しかったですね。

T:自然も多いし。

N:そうですね。

T:それが何年間ですか?

N:1年・・・そうですね、まるまる1年かな。本当は途中で留学ビザじゃなくて本当に向こうの高校に行きたいなって思ってたんですけど、まぁ、親父とかの反対とかも色々あったりとかして。

T:「帰ってこい」みたいな感じで?

N:まぁそれは確かにありましたね。10代で一人暮らしじゃまぁそれは心配だったんじゃないですか。初めての海外で。

T:じゃもう1年でぽっと。

N:そうですね。でもそこでは結構、本当に世間知らずだったんで、何か色々な事を学びました。生きて行く上での、感受性とかそういうのも含めて。

T:何か大きい出来事ってあったんですか?

N:そこで、初めて自分の曲を作りましたね。オリジナルの曲。で、一番仲良かった友達が帰る日に、内緒でその子の好きだった曲と自分の曲をカセットテープに録音して、それをあげて。そしたらその子が、男の子だったんですけど何か意外と号泣してしまって。お別れパーティーみたいな場所だったんですけど、それで何か漠然とですけど帰ったら何か音楽やってみようかな、みたいな感じに思えたのが一番でかかったですかね。その子とはもう本当。ふらっと3ヶ月終えてからずっと最後まで一緒に暮らしてた子だったんで。

T:その曲は今はもう歌ってない曲ですか?

N:歌ってないです。その子しか知らない。

T:じゃ一度もやったことない。

N:ないです。

T:日本帰って来てまずやったことっていうのは。

N:流しですね。パーカッションの子連れて、僕がギター弾いて、もう至る所で。丁度あのアカペラとか、例えばゆずさんとかああいうのが丁度こう時期的に重なってた時で、ストリートパフォーマンスする人が凄く増えていた時だったんで。で、何かのきっかけになれば良いなと思って。本当に色々な所でやっていて、で、結果そこで声を掛けてくれたピアノ弾きの男性が居て、彼の紹介でライブハウスに出るようになって行ったんですけど。

T:最初に出たライブハウスって、どの辺のあたりですか?

N:新宿のヘッドパワーってとこでした。小さい。

T:その時は、オリジナル曲は、かなりあったんですか?

N:そうですね。10曲は無かったですけど。30分のステージが出来るくらいはあったかな。


T:その10曲の中の曲に、今歌っている曲ってあるんですか?

N:は、無いですね。さすがに。


T:その頃は音源みたいなものって言うのは。自分で焼いたりとか、そういう時代ではまだ無かったですか?

N:じゃないですね。あの、ヤマハのQYシリーズが出始めた当時だったんで、まだDTMもmidiの打ち込みもようやく出来るか出来ないか程度だったと思ったし、だから、こんなちっちゃいシーケンソフトでこんなんになって打ち込んで作ってましたね。


T:ライブハウスやるようになって、次の節目と言うか何か展開は何時ぐらいに?

N:凄く早かったんですね。3回目にそのライブハウスに出た時に、そのライブハウスの店長さんが、所謂媒体さんレーベルさんが来て、ちょっとしたオーディションみたいなのをやるから、まだ3回目なんですけど『出てみないか』って言われて。そこで出た時に声を掛けて頂いて、インディーズレーベルの方から。それがきっかけでまぁもしかしたらプロになれるのかなみたいな風になって。で、ちょっとバックアップされつつ1年間くらい新宿が拠点だったんですけど色んなところでライブして、それからだんだん徐々に徐々にこう、表現力とか曲とか書き貯めたりとかして。

T:主に曲を作るときはギターですか?

N:ギター弾きなんですけど、曲作るときは鍵盤が多いです。


T:どういう順番になるんですか。曲作りは。

N:メロディーですね。テレコ持ってメロディーが浮かんだらフーって吹き込んでて、最悪無いときは留守電とかに吹き込んだりとかして。で、その断片を聴き直して、良い曲になりそうだなって予感のするものを引き抜いて、それがサビだったりAメロだったりするんですけど、そっから世界を作っていくみたいな感じで。詩はもう本当に後ですね。

T:その一年間というのはその曲を貯めつつライブをやりつつ。その時のライブは西沢サトシの名前なんですか。

N:いや、あのrough laughっていう。まぁ若干のメンバー交代とかはあったんですけど。実際僕もメインボーカルで歌っていた訳じゃなくて初めは横でギター弾いてたんですけど。そういうメンバー交代とかがあって僕がいつのまにかフロントに立つようになって。その時はもうrough laughっていう名前でしたね。

T:rough laughって名前はそもそもどこから来た名前なんですか?

N:どうだったっけなぁ。まぁ語呂合わせみたいな感じでしたけど。僕はroughっていう言葉を凄く付けたくて、『ラフ何とか』とか『何とかラフ』とか何でも良いんですけど。とにかく性格的にもその当時の音楽のクオリティ的にも大雑把だったし、まだまだアマチュアだって意識もあったから、これは付けようよ〜って言ってて。で、辞書とかなんか色々調べてて、何か同じ言葉であるって言うあの、スペルがちょっと違うだけで。それで面白いねって。『大ざっぱな笑い』でラフっていう。なかなか良いなって思って付けましたね。

T:それでrough laughで初めて音源というか形になったものっていうのは。そこから直ぐなんですか?

N:その後にラジオのオーディション番組でリスナー投票でどんどん勝ち抜き戦みたいなのがあって、最後決勝戦が5組くらいかな、集まって赤坂ブリッツで決勝戦大会やるみたいなのがあって、で、最後までリスナー投票で残って決勝大会まで行けて、で、その時に優勝はしなかったんですけど何かちょっとした賞を頂いて、それがきっかけでCD出さないかっていう話になったんで。そこまでは結構予想していたよりは凄く早かったです。自分の技量が全然まだついて来てないのにとか思いつつも話はどんどん進んでて。


T:rough laugh自体の曲も、そこまでにはもうかなり増えていて。

N:そうですね。

T:音源を作るってなった時に、その中からセレクトみたいな感じで。

N:えっと、とりあえずファーストシングルはその中のセレクトでしたね。セカンドは書き下ろしというかセカンドの為にファーストがこうだったのでじゃぁセカンドはもうちょっとアッパーな感じなものしようかってなって作りましたね。そこら辺まだ、いくつくらいだったのかな。20歳前後でしたね。だから結構アイディアはガシガシ出て来た時だったんで。あんまりこう悩まずに。あの、出てくるものそのまま書き出してみたいな作業でしたね。

T:メジャーデビューするまでっていうのは、どのくらいなんですか?

N:えっと、そこでシングル3枚とアルバム1枚ださせて頂いて、ちょっと今みたいにインディーズとメジャーの境が無いような時代じゃなかったんで、やっぱりシビアな面もあったんじゃないですかね。それでそこを離れざるをえなくなってしまって。そっから又スタート地点に戻っちゃったんで、一年間くらい又ライブ活動中心にやってる中で、メジャーレーベルさんの方から声かけて頂いて、それでメジャーでデビューしないかっていう話になって。だからインディーズ時代含めると2年ちょいくらいでしょうかね。


T:その頃のCDっていうのは今はもう手に入らない感じですか?

N:インディーズの頃のですか。えっと辛うじて入るくらいですけど。僕が聞きたいぐらいなんですが、手に入りましたっていうメールとか頂くと、どこで買ったのって。

T:そうなんだ。

N:そうですね。お店にはもう置いていない。基本的に廃盤扱いだと思うので。だからまぁ中古とかだと思うんですけれど。

T:ご自身がフロントで歌うって言うのはまだ後ですか?

N:もうその時は、インディーズでCD出させて頂いた時にはもうずっと歌ってました。

T:メジャーの初アルバムは曲は書き下ろしだったんですか?

N:貯めてたのもありますけど、スタジオ行ってから完成させるっていうのが結構多かったので、そこまでは本当にmidiで打ち込んだものに仮歌差し込んでもっていって。で、スタジオで差し替えるみたいなのが多かったんで。断片的な曲のストックは凄くあったんですけれど、それをどうやって完成させるかみたいな意味では、ちゃんと完成していたものっていうのはあんまり多くはなかったかもしれない。だからアルバムの為に作った曲は結構多かったですね。

T:メジャーのやりにくさとかそういうものって言うのは何か感じましたか?

N:もし僕がその当時25とか6とか、ま、ちょっとした大人だったら対応出来たんでしょうけど、いかんせんインディーズで一年しか活動していなくて、それも予想以上のスピードで此処まで来ちゃって、自分もまだ全然若かったし、やっぱり戸惑いはありましたね。でも、そういう風にアドバイスとかして下さる方がいるんで、勿論人数も極端に増えますし、これがメジャーなんだっていう風に言い聞かせてる部分は多少ありました。ま、それが良いか悪いかは別としてですけど。だから背伸びしていた感じはしますね。

T;メジャー行って良かった部分はどの辺なんですか?

N:極端にもう1回ライブやるごとにお客さんが増えていくっていう。後は、東京以外でもキャンペーン行けたりとか。本当にファンの方と自分の曲が繋がってくっていうのはやっぱり規模はどうしても違うので、その部分はやっぱり凄く嬉しかったですね。それから、タイアップとかやっぱり自分の声がデレビから流れて来たら、それはやっぱり純粋に嬉しかったですね。初めての事だったし、車運転していてラジオから自分の歌が流れてきたりした時は、ちょっとした感動はありました。

T:そこのメーカーで何枚くらいアルバムを出したんですか?

N:アルバムは2枚。シングルは結構出しましたね。6〜7枚。

T:割とシングルをきってそれをアルバムにって感じに。

N:そうですね。突発的にタイアップが決まったからシングルを出すっていう場合も有りましたけど、基本的には2002年あたりですかね、まだ8インチとかが残っている時代で。だから1、2、3枚きってアルバム、1、2、3枚きってアルバムみたいな。そういう標準ルールみたいな感じの時代でしたね。

T:その中では音楽的には自分のやりたい事は結構一杯出来た訳ですか。

N:始めの1年目1作目2作目辺りまでは凄くやっぱり戸惑いと、あと技術的なものと知識ですよね。トラックダウンの時に一応プロデューサーの方は付いて頂いていたんですけど、どっちかっていうと仕切り屋なんで。やっぱりあれも知りたい、これも知りたいで、で、クリエイティブな事もやりつつ勉強もしなきゃなって感じであっという間に過ぎちゃった感じですよね。その当時の僕のキャパシティの中では100%やったつもりはあります。

T:その辺りの楽曲は、今聴くとどんな感じなんですか?

N:うーん、悪くないですね(笑)若いなーとは思うけど。でもたまにちょっとしたフレーズ歌詞とかに30越えてから、今32なんですけど例えば10年前に書いた曲のひとフレーズにはっとさせられる歌詞があったりとか。結局、同じ人間が書いている事だからあり得る事かもしれないですけど。それはちょっと面白い現象ですよね。何か将来を見越して言っているのかな、ぐらいの箇所がたまにあったりします。

T:なるほど。そのアルバム2枚が出た後はどういう動きなんですか。

N:メーカーさんというよりも僕自体の心境の変化が凄くあって、2枚目のアルバムというか、その前のシングル1枚目作った辺りからちょっとジャジーな方向に凄く自分が寄って行ってしまって。マイナーから始まるみたいな。ただ、その当時はそれが僕はかっこいいと思っていたし、それが鋭いものだと思っていたんですね。今でも勿論そう思ってますけど。僕がそういう風に傾倒していって、エンジニアさんもイギリスの方に2枚目のアルバム作って頂いて、やっぱり金物の録り方とかエアーの録り方とか凄く巧くて、どんどん音響とかコンプはどうとかTTはどうどかって方に走って行って。クオリティー的には凄い、今聴いても凄い良いものが出来たんじゃないかなと僕は思っているんですけど、ただその、そういう内面的な部分をえぐり出す曲を書き始めると、なんかこう自分の知らなかった一面も出て来ちゃって、で、それが意外と爽やかなもんじゃなく。意外な面だったりして。それに自分も気付いた時に、そのギャップに結構苦しめられて。で、結果僕が耐えられなくなってちょっと休憩時間が欲しいというか、自分を見つめ直すというか、その時25とか6だったのかな。ようやく。だったんで、30になるにあたって別に音楽じゃなくても、多分サラリーマンとか会社勤めの方でもそうだと思いますけど、何となく想像するじゃないですか。この職業で良いのかなって。それと一緒で僕もそういう風に感じて。ちょっと一時休止してみたんですよね。

T:でもファンも残念だったんじゃないですか。

N:今だから笑っていますけど(笑)それで、又外国に行っちゃいましたね!

T:この辺りで、PART1終了という事で、続きはPART2にしましょう!

N:はい。宜しくお願い致します!

PART1 END>>>


西沢サトシさんの詳しいインフォメーションは、オフィシャルサイトにて