黒沢健一(PART2)

 今年5年ぶりのソロ活動を再開して、初のライブアルバム「LIVE without electricity」をリリースしたばかりの、
 黒沢健一さんへのロングインタビュー。そのPART2です。


(2008年6月13日/momentにて/インタビュアー:TERA@moment)





 黒沢健一(Kenichi Kurosawa) PART2

  Talk&Interview #67
 
  


    
 黒沢健一 ロングインタビュー (PART2)
1968年8月11日生/B型 19歳で南野陽子、島田奈美などへ楽曲提供やCM曲提供など、作家としてデビュー。1991年 弟秀樹、木下裕晴と共にL⇔Rを結成。1995年オリコンNO.1シングル「Knockin' on your door」を初めとした純度の高いポップスを送り続ける。1997年活動休止までレギュラーラジオ番組・全国ツアー、など精力的に音楽活動を行う。L⇔R 活動休止以降、ソロ活動開始。シングル、アルバムのリリース、ツアーを行い、3枚目のアルバムリリースとツアー終了後に、制作意欲が爆発。2003年〜 2005年にかけて curve509、健'z、Science Ministry、MOTORWORKSと4つのバンド、ユニットで活動の幅を広げる。また、森高千里・湯川潮音などへの楽曲提供、徳山秀典・ hi*limitsなどのプロデュースなど活動は多岐にわたる。



TERA (以下:T):では、PART2という事で。よろしくお願いします。

黒沢健一(以下:K):よろしくお願いします。

T:ソロのお話を聞かせて頂きたいんですけれど。まずファーストアルバムに至る経緯みたいな事を。

K:L⇔Rが活動休止してですね、Doubtツアーが終わり。その時やりたい事をとりあえず形にしようという風に思って、遠山裕さんと2人でですね、デモテープを事務所のスタジオで作っていたんですよね。最初はその、なんかちょっとラフな感じのアルバム。L⇔Rの時ってかなりレコーディングに時間をきっちりかけて、ちょっとコンセプチュアルな方向まで見えるように音を詰めてたんですけど、そういうんじゃなくてもうちょっとアコースティックだったりとか、もうちょっとシンプルな方向で曲とか歌を聴かせるようなアルバムにしたいなって当時思っていて。で、遠山さんと2人で、そういう感じのアルバムとかそういう感じの質感のデモテープを作っててですね。そしたら丁度、ポールマッカートニーとかやってるジョン・ジェイコブスというエンジニアが、丁度スケジュールが取れるというんで。じゃあ、どうせだったらアナログレコーディングも出来るし、イギリスにいって録音しようよっていう事で、で、作ったんですね。

T:曲的にはどのくらいの時期に書いた曲ですか?

K:いやもう、全部新曲ですね。だからDoubtってアルバムの時までには何も書いてなかったっていうか。ソロ用の事を考えていなかったんです。

T:コンセプトは何かあったんですか?

K:無いですね。コンセプトは無くって。敢えて言うんであれば、自分はL⇔Rっていうバンドの中だとやっぱりどうしても、僕個人という視点よりも、僕等が的な視点でのアプローチをしていたので。ちょっとそういう感じじゃなくてミュージシャンとして、ひとりの音楽ファンの音楽を作る人間としての作品を聴いてもらいたいなと思ったのがコンセプトって言えばコンセプトですかね。

T:レコーディング期間はどんな感じだったんですか?

K:これは、デモテープ作り始めてからどれくらいだろうな。1年くらいはかけたんじゃないですかね。いや、1年はかけてないかな。でも、Doubtのツアーが終わって・・・でも結構すぐにね、すぐデモテープを作り始めたような気がします。その間にL⇔Rのライブの編集をしたりとか、mixしたりとか、色々L⇔R周りのそういうのやりながらだったけど、ソロのデモテープを作ってましたね。こつこつと。

T:向こうでのレコーディングって、どんな感じだったんですか?

K:向こうではですね、アナログでまず録りたかったんで。本当に全員一緒に殆どレコーディングみたいな感じのスタイルで。歌も殆ど一発録りでしたし。時間が無いっていうんじゃなくてアナログの質感がすごく大事だったっていうことで。兎に角もう既にDoubtの頃ってプロトゥールスであるとか、パソコン上での色々細かい作業っていうのが時代的にもう出てきていたんで。どうもなんか、本来時間をかけるべき所にかけてないなって気がちょっとしてたんですね。当時はまだ機材のトラブルとかも多いし。昔だったら、演奏が出来たり歌えればもう別に必要ないのにみたいな。音をこう、直したりとかするのって凄く時間の無駄に思えちゃって。だけどアナログレコーディングって、テープ回っちゃったらそれしか駄目だし。良い演奏しないともう駄目だしみたいな(笑)曲も良くないと駄目だしみたいな。もう、如実に露骨じゃないですか。善し悪しが。だからそこら辺は非常にすっきり楽しかったなぁというのはありますよね。よけいなこと考えなくて良いみたいな。ピッチ悪かったらそれはそのまま出るしみたいな。

T:レコーディングの合間にどこか行ったりとかするんですか?

K:いや、あまり。僕ファーストアルバムのレコーディングの前からイギリスは何回も行ってたんで。観光客としてはその時点でかなりイギリスは見て回ってたんで。だから、逆にレコーディングで行くから音に集中出来たっていうか。色んなスタジオの特性とかもよく見たりだとか。その時はどちらかっていうとちゃんと仕事で来たっていうか。ある意味、イギリスの音が好きな仕事で来た人間として。まぁ夕飯とかは喰いましたけど。ちゃんとスタッフ全員で。何か特に面白いエピソードはっていうと、ストリングスの音がとにかく良かったっていうのが一番嬉しいですね。あっちのスタジオで。

T:何か向こうでライブ観たりとかはしたんですか。

K:あの頃はレコーディング以外でもしょっ中行ってたんで、だからその時に何観たかっていうのはちょっと覚えてない。何観たっけなぁ。

T:向こうはバディ・ホリー・ウィークとかありますよね。

K:ああ。やってたやってた。でも、何時だか忘れたけど、レコーディングで行った時だか何で行った時だか。バディ・ホリー・ストーリーみたいなのやっててそのミュージカルをプレミアで観ました。

T:90年代中盤ですね。

K:そうですね。丁度その頃かな。なんかそういうの観たような気がする。

T:ロイ・オービソンのミュージカルとかもありますよね。

K:ありました。ありました。当日チケット買って行ったような気がするな。


T:地下鉄パスがね。

K:オイスターカードですね。

T:そうですね。ぐるぐる行けますね。

K:ワン・ウィーク・トラベルで色んなとこ行けます。でも、レコーディングの時はマスタリングとかもあったんで、結構入り浸っていたような気がしますね。一回行くとひと月とかそれぐらい。それぐらいはずっと居たような気がするんで。


T:で、セカンドの『B』ですか。それに至る経緯を。

K:そうですね。結構『ファースト』のアルバムが自分の中でフェイバリットで。もうなんか凄く気に入ったんですね。このアルバムが自分にとって本当のソロアルバムだったから。自分にとっては。で、何かね、それでこう正直ちょっとこれで良いやっていうか。納得出来た作品が出来たっていう満足感が凄く大きくて、次に何をやれば良いかが見えにくかったんですね。その『B』までの間。凄く納得の行く作品が出来ちゃったから、何か難しいんですけどそれを越えなきゃ行けないとかそういうプレッシャーじゃないんですけど、それを越えたいと思うアルバムってたいしたアルバムじゃ無いような気がして。凄く素直に、これは良いアルバムだなと思って。次に行くまで少し時間がかかって。次どうしようかなってなった時、プロデュースとか、作曲とか、そういう方向に気持ちが行ったんですね。所謂、L⇔Rでデビューする前の自分の感じ。裏方としての仕事に戻りたい。戻りたいっていうか、戻ったらどうなるんだろうと。で、『ファースト』の後に徳山君のレコーディングをしたりとか、中島ちあきちゃんのアルバムを作ったりとか、ひとりで曲を書いたりとか、かなり裏方ってましたね。『ファースト』の後の頃は。

T:ミレニアム、2000年ってどう思ってました。子供の頃は、2000年が来るかどうかとか。

K:未来的なね。そうですね。何かあったかも知れない。でも意外にね、子供の頃に思っていた未来とは違うなって。もっとハイテクな感じに世の中なってるとか、メカメカしくなってるのかなと思ったら、全然そんな感じじゃなかったなと思いましたね。その頃に裏方をやってたんで、次のアルバムもこう、『This song』っていうのがテレビドラマのお話があったんで、それでシングルとしては出したんですけど、それ以外は殆どプロデュースとか。そういう事をずっとやってましたね。自分の作品を作るんじゃなくて。

T:割と充実した感じで。

K:うん、相当。何でしょうね。あの充実感っていうのは。やっぱりずっとエゴ丸出しで自分のものを出していたから、人のものを出すというか。人の役に立っているのが逆に嬉しかったのかも知れないですよね。人のアルバムを作ったりとかいうのが。

T:で、その2001年の『B』に至る、その始まりっていうのは?

K:そろそろアルバムを・・みたいな話が周りからありましてですね、それもそうだなーみたいな(笑)出してないもんなー2年も、みたいな。で、考えたんですよね。その時は『ファースト』は全く自分の中では違っていたんで、徳山君のプロデュースで僕はアルバムを作っていて、その時、自分のソロアルバムは人に任せようと思ってですね、岡井さんにお願いしたんですよ。プロデュースを。自分ではなくて。『岡井さんお願い出来ますか?ちょっと、次のソロのアルバムを』って。で、岡井さんとちょっと話して、ちょっとそういう素の部分の自分というか、L⇔Rの時みたいな緻密に構成された的なものではなくて。僕はプロデュースをやって毎日スタジオから朝方帰って来て、次曲書いて又持って行って、ミキシング確認して、みたいな、ミュージシャンとしての生活・・・っていうより・・・ミュージシャンの生活って不思議じゃないですか。何時仕事が休みになるか分かんないし。精神的なアップダウンが激しい職業だとも思うので。でもプロデュースの仕事とか始めたら、きっちり音楽を仕事にしている感じにやっとなれたんですね。安心したっていうか。そういう中から紡ぎだされるような音楽が良いんじゃないかなみたいな。それで、『B』っていうのは岡井さんと一緒に、他の人のプロデュースをしながらの間に作ったって感じですよね。

T:プロデューサーからのアプローチみたいなものは?

K:岡井さんからですか。まぁ、『B』の時に限らず、色々あるんですけど・・・。岡井さんがピンとくるってことに対して自分が何かを出せるかっていうのが結構、アルバム成功か、成功じゃないかのキモだったりするっていうのは、いつも、毎回同じなんですけどね。プロデューサーとしての岡井さんにお世話になった部分は語ろうと思えばいくらでも話せますけど・・・。長くなるので(笑)ここでは語り切れない。

T:実際にレコーディングっていうのはどんな感じで?

K:あの時は、基本的にスタジオにミュージシャンが来て、せーのでリズムを取ってっていう感じが多かったですね。所謂普通のロックバンド形式というか。

T:曲的には割りと早めに書けちゃったりとか。

K:うん。確か。徳山君プロデュースしながら結構早く書けたような気がしますけれども。


T:自分の作品っていうのは、プロデュース業の合間も書き溜めているのですか?

K:そうですね。どうだっただろう。だけどね、あの時は確かアルバム用に書こうと思って、結構一杯書いたような気がしますね。ただ、曲はいつも書いてはいるんですけど、なんかね、不思議なもんでアルバムを作るってなるとそれまで書き溜めてた曲とか一回捨てちゃったりするんですよね。不思議だなぁと思うんですけど。

T:『B』が出来て、次は3rdですよね。これはどういう流れですか?

K:プロデュースも一段落して『B』も出して、その『B』の時に知り会った湯川トーベンさんとか岡井さんとかと、短いツアーをやりまして。ライブを。『ファースト』の時ライブやらなかったんですよ。全くライブやらなくて。『B』でライブ活動が復活したんで、そのツアーに行ったバンドで、これはもうこのままスタジオに入ってレコーディングできるなって感じになって。『NEW VOICES』はそれで作りましたね。そのツアーメンバーと一緒にって。ロックンロールだ!みたいなね。

T:この3枚っていうのは、今とらえるとどういう位置になるんですか。ソロとしては。セットみたいな感じですか。それとも全然別な感じに。

K:3枚とも全然違いますからね。ソロって、今更ながらに思うんですけど、キャラクター付けってしなきゃいけなかったのかもしれない、って反省する位バラバラで。この人はポップスですとか、この人はロックですとか。MCでこういうこと言いますとか。僕はもう、全くそういうものを無視して3枚作り続けたっていう。全部のアルバム、3枚。どれが好きかっていうのはきっと人によって違うと思うんですけど、なんかあんまり統一感も無いし、その時その時の自分のものって言うのが出てて。3枚とも面白いと思うんですけど。位置づけをこうしようって言うより、自然とバラバラなものになっちゃうんですね。その時の自分を表現してる感じで。

T:なるほど。その後、4つのユニット。それが続くんですけど、何からのスタートでしょうか?

K:『NEW VOICES』を出した後に、その時のツアーが良い感じにロックンロールな感じだったんで、久しぶりにバンドも良いなーなんて思ってて。そしたら木下君がですね、事務所に来まして、自分の関わっているユニットが出演するイベントがあって、そこに僕にソロで出ないかっていう話があって。木下は別のバンドで出るって言う話だったんですけど、『あぁそう。』なんて言って。『だったら、一緒にバンドでも組んで出ようか。』みたいな。イベントの話が先で、『curve509』ってバンド作ったんですよ。そしたら何か結構ちゃんとしたイベントで、それはやばいなと。ちゃんとやろうと(笑)で、新曲を書いて練習して出ましてですね。

T:出た時はバンド名は、もう有ったんですか?

K:またいい加減だったんですけどね。5月9日が確か初ライブだから『509』だとか。何か結構そういうノリでしたよね。その時は。で、まぁ堀君は元々の知り合いだから呼んで、井澤君も友達だから呼んで、みんなお互いバンド有るしみたいな。何かそれを免罪符に好きな事やろうみたいな(笑)

T:そして、音源も作って。

K:ま、ちょっとね。真面目な所も見せようかなと。

T:それはどういう感じで進んでいったのですか?

K:これはあの、ヤマザキテツヤ君という、プロデュースをやっている人なんですけど、ドラマーでもあり。彼のスタジオで。そうそう、だから木下が彼と凄く・・・僕らもそうなんですけどL⇔R時代から仲良くて、ヤマザキ君のスタジオに木下がたむろってて、デモテープ半分本チャン半分みたいなのでちょっと作ろうかみたいな。彼の部屋でドラムが録れるんで。で、なんかドラム録ったり歌録ってもらったりしてるうちに、『あ、これ結構いけるじゃん!出せるじゃん!!』みたいな。『良い曲だよね』みたいな。で、プレスして会場で売っちゃおうぜーみたいな。


T:このバンドはそのアルバムを作ってそれ以降の活動は。

K:無いですね。まだ無いですね。結構ライブとか本数があって、やってたんですけどね。

T:同じ時期に『健’z』が。

K:はいはい。あ、でも『健’z』は『B』というアルバムを出したあたりにもう既にあって。あってというか、そう、健太さんとテレビ番組に出た時に、しょっちゅうそのテレビとかの合間にアコースティックで弾き語りをやってたんですよね。僕が歌を歌って、健太さんがギターでみたいな。あくまでそれはコード進行の解説みたいなのを人に教える時とかそういう事だったんですけど。だからもう『B』の時に『健’z』っていう名前は全然無かったんですけど。なんかそういうラジオとかテレビの番組出たりとかしてましたね。

T:これカバーなんですか?

K:そうですね。カバーをやるユニットで。

T:2枚出てるんですけど、曲のセレクトっていうのはどういう風に決めて行くんですか?

K:うーんと、ファーストはですね。『B』以降、健太さんと僕で何回かライブをやったりとかした中で、事務所のスタジオに2日か3日ぐらい健太さんと入ってですね、50テイクくらい録ったんですよ。今までライブでやったことある曲。2人とも一発録りで。で、その中からベストないい感じなテイクと、まぁ『健’z』ってグループのそれまでの活動を総括しましょうみたいな。だからファーストアルバムは全部一発録りなんですよ。選曲の基準が良く出来たやつ(笑)


T:あ、録ってもまだ音源化されてないものもある訳ですね。

K:あったんですけどね、消えちゃったんですよね。ちょうどその時の何かのセッションの時に、OKテイクだけ残してちょっと消えてしまったらしくて。ファーストアルバムはだから残っているのはアルバムの音源だけなんですよ。間違って消しちゃったみたいなんで。残念なことに。

T:セカンドも同じような感じで。

K:ファーストアルバムの『健’z』は健太さんと僕のユニットで、本当に好きな曲をアコギと歌でカバーするっていうユニットだったんですけど、セカンドは、ロフトプラスワンというライブハウスで健太さんがCRT(カントリー・ロッキン・トラスト)っていうイベントをやってて。そこら辺の関係で出会った高田みち子さんと曾我泰久さんとのユニット。彼らのコーラスが入ると、また幅も出るだろうという健太さんのアイデアがあって、で、『健’z with Frends』っていう形でセカンドを出しまして。


T:で、2004年に2つのバンドがありますよね。これ、結構近い期間でアルバムも重なっているんですけど、この2つに関して教えてもらえますか。

K:『Science Ministry』はホッピー神山さんと岡井大二さんと僕のグループで。最初はホッピーさんが、シンクシンクインテグラルというレーベルをやっているエンジニアの寺田康彦さんの方にですね、『黒沢君のソロアルバムで黒沢君をボーカルにして何かこう、面白い事をやりたいんだけど。』という打診をしたらしんですよ。で、やってるうちにバンドにしちゃおうぜっていう話になって、ドラムは大二さんにやってもらって。これはもうかなり面白いグループで、スタジオ入るまで曲が分からないっていう。入ったらホッピーさんがワーッと弾いてる中で、突然、『黒沢君これメロディー上付けて』とか。僕もアコースティックギターで弾き語ったようなデモテープだから骨格がシンプルなもの以外は駄目なんですよね。アレンジがきちんと出来てるとか、面白くないから。その場でみんなでこう作っていく。結構即興性の強いバンドで。凄く面白かったですねこれは。

T:これはライブとかはあったんですか。

K:これはね、イベント2回か3回、3回くらいやったんですかね。かなり大人数でやりましたね。コーラス2人居て、ベース、ドラム、キーボード・・・かなり、7人くらいかな。7人編成くらいでやったのかな。

T:『MOTORWORKS』は?

K:これは石田ショーキチ君から電話が掛かって来て、『バンド組まないか』っていう話で、カバーやろうよ、みたいな。『いいよ』。で、スタジオに行って、ザ・フーのカバーとかやってたら、デビューしない?っていう話になったっていう(笑)

T:結構、楽しみながら。

K:そうですね。結局『Science Ministry』も『MOTORWORKS』も、ちょっと『curve509』はね、違うんですけど。やっぱり健太さんっていう人、石田君という人、ホッピーさんっていう人。ある意味音楽だけじゃなくてキャラクター的にもリーダーシップというか、そのバンドの運営と言ったら変なんだけど、そういうのを引っ張って行ってくれる人が確実に居て、僕はどちらかというと僕もそのバンドのメンバーとしてはちゃんと入ってますけども。やっぱりそのプロデューサーであったりとかいうよりは、ある意味そのちょっとミュージシャン的な流れで自分の力を試せたりとかした事が凄く多かったから。逆にもの凄く面白かったし、勉強になったし。だからボーカリストとしてピックアップされたような感じですよね。ソングライターとか、バンドの中心人物としてって言うよりも。ボーカリスト兼ソングライターみたいな感じで参加の要請をされるパターンが多かったから。それ以上の役目は自分的にはちょっと、バンドとしての全体的なリーダーシップとか、ちょっと僕は多分無理な人なんで。そこら辺は、その面子と一緒にやれて幸せだったと思うし。随分周りに助けてもらいつつ、活動が出来たっていう。

T:で、最近というか、2007年代から新しいメディア、ポッドキャスト、iTuneなどで新しい作品を出されているんですけど、ポッドキャストは映像なんですよね。それはどういう感じの流れなんでしょう。

K:あれはですね、ちょうどネットの投稿作品サイト、アート系の映像の投稿作品みたいなサイトを観ていたら、マユさんという方の『幸福本』という作品があって、何か夜中に観ていたらそれにこうぐっと来ちゃって、これは良いなみたいな。話がちょっと前後するんですけど、まず最初にiTunesでの配信の話がスタッフからあったんですよ。僕の楽曲とか過去の楽曲を配信するっていう流れの中で、それでスタッフの方から例えば映像も何か一緒に面白い事が出来ないかという話があったりとかした中で、それでマユさんに『作品を見てインスパイアされたんで是非何か、一緒に作品を作れませんか?』という形で声をかけて。それでコラボレーションしてもらったんですよね。オビナタさんも知り合いの映像作家の方から紹介してもらってって感じですかね。

T:作品的には。

K:やっぱり素晴らしいし、こういう形が、少なくとも自分が小学校とか中学校の頃はテレビで見るしか・・・そういうものに触れる世界がテレビだとか映画でしかなかったのが今誰でも簡単に観れる。ダウンロードも出来る。これを活用しない手は無い。ものを発表したい衝動みたいなものに対して、正直に答えてくれるメディアだと思いますね。インターネットとか、そういうものって。それで随分全然変わりましたよね、昔と。本当に。作り手側からしたら。

T:普段、やっぱりそういうもので音楽は割と聴くのですか。

K:聴きますね。ipodも使うしパソコンにもソフト入ってますし。

T:そして。今年、初のライブアルバムが。これはどういう考えというかライブを出そうというか。

K:年末、過去の楽曲も含め全部配信された時に、記念じゃないですけどちょっと久しぶりにライブをやりたいなっていうところで。随分前に高野寛さんと話をしていた時に、高野さんが自分でソロライブをアコースティックでやった時に満足出来るアコースティックライブが出来るまで2年ぐらいかかったって言っていて。それはそうだなと。だって丸裸じゃないですか。演奏から、歌から。だからこれはやっぱりそういうライブを2時間やるのは凄く大変な事だけどいつかはトライしたいな、と思っていたんですけど。年末丁度その、配信にあわせてライブをやるっていうことで、今このタイミングで俺やれるかな、と思っちゃったんです。で、言ってから後悔して(笑)どうしよう!で、生ピアノと生ギターだしって思って。それでiTunesで配信するカタログが来てね、今まで書いた曲がばってこう並んでて、もうソングライターとしてはこの中から選び放題だから。曲も自分で書いた曲なんで。それをやろうということで始めて。で、アコースティックだし6年ぶりとかですからどうなのかな、と思いつつ、蓋を開けたら、スタンディングなのにすごくたくさんのお客さんに来て頂けて嬉しかったんですよ。その時CDリリースする予定は元々無く、スタッフがたまたま資料用に音源を回していて、プロトゥールスで。何かあったら1〜2曲使えるかなぐらいな感じだったんですけどラフミックスを聴いたらもの凄くそれが良くてですね、これはドキュメンタリーとして凄く面白いから、これはこのまま出そうっていう事で。直し無しで。まぁ、完全収録にはならなかったですけど。それで出す事にしたんですけどね。

T:その展開というか。ライブツアーもあって。

K:そうですね。この間一旦終わりまして。東京以外。

T:どんな感じでしたか?

K:本当にこんなに久しぶりなのに、全国のみなさんが待ってて下さったりして、まずそれに感謝で。お客さんも沢山来て頂きまして。僕の曲がみんな好きで聴いてくれていたんだなっていう手応えはありましたね。どうしても自分は新しいもの、新曲を書き続けていることが仕事みたいなみたいな気持ちがありまして。プロモーションするにしても、例えば次のニューシングルが出たらそのプロモーションで仕事みたいな。そうやってローテーションでずっと今まで生きて来たんで。過去の曲って振り返らないとかじゃなくて、それはその良いものだけれども何かこう、新しいプレゼンテーションをしていくっていう生き方だったから、あんまり過去の曲をひっぱりだして歌うというのはあんまり予想していなかったんですけど。僕がそういう風に思っていただけであって、お客さんは凄く大事に聴いてくれてたんだなっていうのがなんか、それは凄く嬉しかったし。でも自分も音楽ファンとして考えたら本当はそうなんですけどね。僕は昔の好きなアーティストの曲は新曲ばかりが好きな訳じゃないから。でも意外に自分の事になると、最新曲という事に対していつもそれを中心に考えている人生だったんで。

T:今後、ライブとか新しい新譜とかっていうのは。

K:そうですね。新譜は凄く出したいと思っていて、何となく構想も出来てるんですけど。前に書き溜めていた曲が60曲ぐらいあって、今回のライブの前にちょっとまとめて人に聴いてもらったりしたんですよ。それがちょっとばらついてまして・・・時間も長かったですし。これを1枚のアルバムとしてまとめるとはどうかな、と思ってたんですけど、ライブが終わってあらためて聴き直したらまた印象が変わってきたりしている部分もあるので、ちょっとアルバムを作ろうかな、と思ってますね。それに、
ニューアルバムというくくりとは別に今回のツアー、アコーステックピアノと生ギターの形態が自分にとってエキサイティングだったし面白かったんでまたこの形でもちょっとやりたいな、とも思っていますね。

T:最後にですね、もうすぐ夏なんですけど夏は好きですか。

K:いや駄目です。色んな意味で夏が駄目なんで。

T:どの辺がですか。

K:まず僕ね、紫外線アレルギーなんですよ。子供の頃から夏海とか行くと体中痒いし、理由が分からなくて。手足に包帯巻いたりとかしてたんですけど。包帯巻いてると出ないから、これなんだろうと思ってたら。ここ4、5年ですよね。やっとそういう病名がちゃんと紫外線のアレルギーらしいっていうのがわかったのが。だから天気のいい日とかは完全サングラスとかで防御しとかないと、体中が痒いんで。夏場ビーチで寝そべるなんて絶対に出来ない人生なんですよ。
暗く家でポップミュージックを聴くっていう。なんと楽しい(笑)


T:(笑)分かりました。長いお時間、ありがとうございました。

K:ありがとうございました。


PART2  END>>>
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1st Live Album 「LIVE without electricity」KENICHI KUROSAWA/黒沢健一

2008.06.04 out ! / KZCD-1011

DAY BY DAY/Scene39/Feel it/SOCIETY'S LOVE/
Rock'n Roll/遠くまで/This Song/Love Hurts/
Hello It's Me/Bye Bye Popsicle/Lazy Girl/PALE ALE
Younger Than Yesterday/リトル・ソング/God Only Knows
ブルーを撃ち抜いて

黒沢健一さんの詳しいインフォメーションは、オフィシャルサイトまで。