村田和人 ロングインタビュー (PART2)

 約13年ぶりのニューアルバム「NOW RECORDING+」をリリースした、村田和人さんへのロングインタビュー。 そのPART2。

(2008年9月1日/都内某所にて/インタビュアー:TERA@moment)





 村田和人(KAZUHITO MURATA)
 ロングインタビュー(PART2)

  Talk&Interview #70
 
  


    
 村田和人 ロングインタビュー (PART2)


自分の自宅にこもってですね、2週間くらいかけて大体2,000〜3,000ぐらいの曲のモチーフを書くんですよ。ごく短いアイディアだけの曲なんですけど、4小節から8小節。サビを目指したものもあれば、Aメロのメロディーもあり、全然無作為なんです。もうとにかく思いつくコード、リズム、自分がいいなって思った曲が浮かんではそれっぽい感じの曲、自分にそれぞれその都度刺激を与えて2週間くらい朝から晩まで。もう1週間超えてくると頭がずっと回っている状態になるんですよね。なんか音楽作るクリエイティヴな脳みそって、普段使っていないところにあって、そこが回り始めると止まらないんですよ。


TERA(以下:T):では。PART2、よろしくお願いします。

村田和人(以下:M):よろしくお願いします。


T:それでは、ファースト・アルバムのお話から聞かせて下さい。

M:はい。ファースト・アルバムのプロデュースを達郎さんにやってもらいたいのはやまやまだったんですけど、でも初めから達郎さんの色で全てを作ってしまうと、絶対にこれから長い間、村田のサウンドは達郎さんと比較され続けられるだろうから、ということで敢えて鈴木茂さんとか井上鑑さんに参加してもらいました。だからファースト・アルバムは、鈴木茂アレンジがあって井上鑑アレンジがあって、という構成になったんです。最初はRVCから発売するはずだったんですけど、そのうちにムーンレコードで発売するっていうことになって、次の年の4月までデビューを待つことになったんで、いっぱい作りかえる時間があって。で、その辺りから達郎さんもまた加わって、アレンジを変える曲あり、達郎さんのギター・ソロに差し替える作業あり、コーラスを山下達郎アレンジに差し替えるものあり、といった感じで、そこかしこに達郎さんがアレンジを加えてくれたものも、ファースト・アルバムにいっぱい詰まっているんです。

T:なるほど。

M:その時ね、達郎さんは丁度『FOR YOU』のレコーディングを六本木ソニーのスタジオでやっていて、それで自分でこの現場を見てレコーディングのノウハウを覚えたいと思ったんですよ。プロになってから、自分のレコーディングの現場でも“え、何これ?”とか“この作業は一体何のため?”とか分からないことが色々とあったんで。達郎さんが「レコーディング始めるから、よかったら見においで」なんて言うんで、毎日原チャリで六本木のソニーのスタジオに品川からブーーーン!って駆けつけて毎晩、朝の5時ぐらいまでですかね、『FOR YOU』のレコーディングを最初から最後までもう全部見て。それで覚えたんですよ、いろいろな事を。


T:へぇ〜!

M:ギターのダビングの仕方とか、何に気をつけなきゃいけないとか。達郎さんは手取り足取り教えないんで、見て盗めってタイプなんですよ。で、達郎さんがコーラスのダビングを1人で多重録音始めますよね?

T:はい。

M:すると、村田も譜面もらってるんで、関係ないのに自分も譜面を見て達郎さんのテレキャスかなんか借りて音録って(笑)、達郎さんのやっている音を全部譜面に直していって、それで“あ、そっか!こういう風にコーラスの音っていうのは重ねるんだ!”“このコードの時にはこういう風に上が動くから、下はこういう風に動く”とかっていうのを、達郎さんのコーラスで全部覚えちゃったりとかして。


T:へぇ〜。

M:とりあえず(音楽)理論書みたいのはプロになる前一通り勉強したんですけど、でもやっぱり実践的に達郎さんのコーラスの重ね方、音の重ね方を見たのが、その後に自分のアルバムを作るとか自分でプロデュースする時に、役立ちましたね。例えば自分でコーラス・アレンジして、自分でコーラスをヴォイシングするとか、アイディアを出すとか、もうそれは『FOR YOU』の時の経験が母体になってますね。

T:なるほど。ムーンレコードの経緯なんですけど、1枚アルバムが出てその後は?

M:1枚目が夏のアルバムだったんで、村田は何故か最初から「夏の音楽」っていう売り出しから入ってったんで。でも自分でも嫌じゃなかったんですね。夏に聴いて欲しいサウンドを作ろうって思ってましたから。で、冬はやることがないんで、そのムーンレコードのディレクターが「村田は冬やることがないから、達郎さんのコーラスに使って」って、達郎さんのコーラスを薦めてくれたんです。こういう縁があって「村田君の曲を、俺が聴いて薦めちゃったんだから」っていってコーラスに入れてもらって。で、達郎さんのツアーをやりながら、セカンド・シングルっていうか、マクセルのCMの曲「一本の音楽」をツアーの合間に作って達郎さんがアレンジしてくれて。その曲を持ちながら次の年、達郎さんのツアーが終わった後すぐ、3月丸々ひと月かけて達郎さんと二人でスタジオにこもって『ひとかけらの夏』っていうアルバムを作りました。

T:なるほど。1枚目と2枚目のアルバム制作で大幅に変わったことはありますか?

M:アマチュア時代の曲がほとんどなくなったってことですね。デビュー・アルバムには「電話しても」をはじめとしてアマチュア時代にやっていた曲が半分以上あって、アマチュア時代の財産+新たに3〜4曲を書き下ろした形だったんですけれど。セカンド・アルバムはアマチュア時代の曲が1曲だけですね。残りの曲は全て達郎さんのツアーをやりながら新たに書き下ろしたものだったんで、ある意味このアルバムが認められなかったら、もう自分の先はないかもねっていう感じだったですね。これがもし受け止められるようだったら、次の年に作る曲も、またその次の年に作る曲も、村田の作品として受け止めてもらえると思ったんですけど。

T:なるほど。

M:でもまだアルバム出ること自体がありがたいって思ってたんですよね。まだ自分にプロの自覚がそれほどなかったんだと思うんですけど“すいませんね”って感覚だったです、最初の1年2年…3年目ぐらいまで。「僕のこんな曲を買ってくれてありがとう!」っていう感じでお客さんに売ってましたね、3年間は。まだ自分の作るものにそれ程自信が持てなかった頃で。で、その達郎さんの『FOR YOU』を見たぐらいじゃレコーディングのノウハウってうものはまだ全然自分のものにはならなくて。だから毎日現場に行っては、達郎さんが始める事に「これ一体何を始めてるんだろう」っていう感じで。で、2時間くらいするとやってることが分かってきて、「あ、そういうことやろうとしてるのか!」っていう時には「これは違うな」って達郎さんがそれをボツにしちゃうんです。「もうこれ振り出し。オールクリア」「えっ?!今までの3時間は何だったんでしょうか?」みたいな、そういうレコーディングを目の当たりにして。そうか、こういう風に作るんだ!って思ったんですけど、村田の担当ディレクターに「くれぐれもこれが普通のレコーディングだと思わないでよ」って強く言われて(笑)。「この作り方でやったらお金が膨大にかかるんだからね」って言ってました。1ヶ月間ほとんど丸々スタジオをロックアウトしながら作っていましたね。

T:ツアーもそれに合わせて行ったんですか?

M:そうですね。最初のちゃんとしたツアーはその年にやったと思うんですけど。東・名・阪、北海道も行ったのかな。覚えてないですけど、福岡・北海道辺りも2年目、3年目に行ったような気がするんですけれど、5大都市ですね。バンドもギタリストはアマチュア時代から知っていた人で、パーカッションはその作品から移って、里村(美和)から代わって、固定メンバーになりました。最初はやっぱりアマチュア時代の勢いのまんまプロのライヴをやっていた感じがあって。アマチュア時代には、2日続けてライヴなんてあまりないじゃないですか。

T:ええ。

M:プロになると3DAYSがあったりとか、バスに乗って5日間やったりとか。それが初めての経験で、最初は2日続けてライヴやって、1日終わった段階で声がガスガスでシャガシャガになって、高い音がもう出ないって感じの声帯の使い方していましたね。明日のことは考えないで今日最高の音を出します!みたいな感じでやってたんですね。で、何度かライヴ・ハウスも含めてツアーをやるうちに酷い目にあって(笑)、5日くらいライヴが続くと、村田の音はドレミファソラのラくらいまで使うんですけど、5日目はもうミから上が出ないような状態になってて。で、もうしょうがないからパーカッションの小板橋君にミから上は歌ってって(笑)。だから「電話しても」も「♪明日ま〜た」の「ま〜」が高い音で、「明日」って僕が言うと「ま〜」は小板橋君が歌って「た」から村田がまた歌うっていう(笑)、振り替え方式で何とか逃れるという事をやってましたね。もちろんお客さんに隠してじゃなくて、僕本当にこういう状態でって言ってやってました。

T:なるほど。わりと夏のイメージが強くなって、3枚目はどういう流れだったんですか?

M:3枚目はね、『FOR YOU』のレコーディングを全部見て、セカンド・アルバムは達郎さんプロデュースで作って、その一方で“自分で出来る”って感覚があったんですよ。だからセルフ・プロデュースで、アレンジからバンドのケアも含めて全部自分でやろうって。そのアルバムのコンセプト、選曲、そういうものも全部含めて、オール自分のプロデュースでやってみたいなって。それで作ったのが『MY CREW』っていうアルバムで。ツアーもそのレコーディングと同じメンバーでやったりしてましたね。まだアルバムのクオリティとか、特にこの頃レコーディングした歌には“すいませんね、お客さんどうもありがとうございます”っていう感謝の気持ちになっちゃう部分はあったんですけど、レコードの作り方とか音楽の作り方のノウハウはもうそこですごく分かった気がしました、3枚目のアルバムで。

T:なるほど。

M:達郎さんのツアーもまだ続いていたし、ライヴのパフォーマンス的には、ただ行くだけだった“行け行け”の村田のライヴが段々と、そこで力を抜いてメリハリをつけていくのがプロのライヴのパフォーマンスのやり方なのねって。実際に達郎さんのステージ上で勉強したところもあって。ただ、ライヴの時間は長くなったっていう。そこは真似しなくていいよ、ってよく言われたんだけど(笑)。やっぱり来てくれたお客さんにお金以上のものを持って帰って欲しいって、いつもToo muchなライヴになっていて、時には4時間になったりとかして。「終電がないので帰ります」なんていう早退届けがステージ上にばら撒かれて、みんな「ごめんね〜」とか言いながら帰っていくお客さんがいたりとか。そういうライヴと、レコーディングでは自分の音楽の作り方を掴んだのが、3枚目のアルバムの頃でした。

T:その後4枚目のアルバム『Showdown』、これは僕が初めて村田さんの曲を聴かせてもらったアルバムなんですけど。

M:あ、そうなんですか!ありがとうございます(笑)。これ、『MY CREW』から2年空いてるんですよね。


T:そうですよね。

M:本当は85年に発表するアルバムがあったんですけど、達郎さんが「そういう風にやるんだったら、僕にもアイディアがあるから、また山下達郎プロデュースでやらせなさい」って。やってくれるんだったらもう1回一緒にやりたいですね〜って待っていたらスケジュールが合わなくて、そうしたら今度はディレクターが「このままいくと夏には難しいよね」って話になって。「夏に難しいって言われても…じゃあ今年はなしで?」っていう風になって。そのアルバムに用意してた曲はほとんど香坂みゆきちゃんに提供して。香坂みゆきちゃんがアルバム『FAIRWAY』の半分に村田の曲を使ってくれたんですよ。で、村田のアルバムが出ないまま2年経っちゃって、その間ムーンレコードの中でディレクターが代わったんです。前のディレクターは音楽的だったんですけど、今回のディレクターが割とコマーシャルとかビジネス的なディレクターで、視点がまた違ったりするんですよ。「村田はもう2年出してないんだから、半端なことやっても受け入れてもらえないよ」って。じゃあ、どうするの?達郎さんプロデュース?っていうと「もう駄目!達郎プロデュースでも!」なんていうディレクターで(笑)、だったら「アメリカでやるんだな」とかって言いながら、別に何か勝算とか目算があって言ってるわけじゃないんです。ただアメリカでやるっていうその響きに惹かれて(笑)、アメリカ録音になりました。

T:(笑)

M:当時は80年代になってからロサンゼルス・レコーディングとかすごく多かったんで、じゃあお前もロサンゼルスに行けとかって言われて、でロサンゼルスで作ったアルバムがこの4枚目の『Showdown』だったんです。で、結局行ったのが村田1人で、そのディレクターが行く直前になってパスポートが切れてっていう。あ、そう、じゃあとりあえずコーディネーターと2人で行ってくるわっていうことになって、ロスに着いて3日目くらいに「日本で大きなトラブルがあって、僕帰らなきゃいけないんです」ってコーディネーターが帰っちゃうんです。で、ロサンゼルスにひとりきりで「えー?!」みたいな。で、毎日そのレコーディングをやっているところのエンジニアが車で「ハァ〜イ」とか言いながら迎えに来てくれて、その間も村田は近くに何にも食べ物屋さんとかないんで、ジャパニーズ・フード・マーケットみたいなところでいっぱい買い出ししてきて自炊して、ご飯食べてはスタジオ行って、アメリカ人の中でぽつり日本人ひとりでやってたんですけど。でも逆にそれが良かった感じがしますね、アメリカのミュージシャンと意思の疎通が出来て。ろくに英語を喋れるわけではないんですけど、通訳要らないって言ったんですよ。「いいの!自分が話してるんだから、こいつと!伝わるか伝わらないかやってみないとわからないから」っていう感じで。そうやっている方が音楽的なことって伝わるんですよ、何故か。口移しでも。アメリカの連中とレコーディングやった時には、また日本とレコーディングのやり方が違って楽しいっていうか。日本人のプレイヤーだと曲を演奏するにあたって「クラプトンのあのアルバムの3曲目あるじゃない?」とかって自分の出して欲しいニュアンスをプレイヤーに伝えるんですけど、アメリカ人はやっぱり自分の音楽って感覚で村田の持っていった音楽をすぐ捉えてくれるんですよ。で、村田が一人で作ったデモテープを聴いて譜面見て「オーオーオー!」って言って演奏すると本当に「そうそうそう!」って演奏になるんですよそれが。「あー、わかるんだ!すごいなー。説明いらないなー!」みたいな。で、さらに欲しいところは自分で希望を出して、アクセントのつけ方をこうしてとか、メリハリのつけ方とか。通訳がいないんでストレートに、日本だと好きなことをやっている者同士の会話みたいな、いいコミュニケーションがとれて。で、レコーディングで明日から歌録りっていう時に、自炊したカレーを食べて喉を壊しちゃうんですよ。カレーのルーがないので、カレー粉の缶で、小麦粉と一緒に炒めて今日は「激辛のやつ作るからな!」っていって、味見を何度もしてるうちに、最初の段階ってまだうまくルーが溶けていないんで、粉がのどにつくたんびに「うわー辛ー!」とかやってたら、翌朝からもう「ア゛…ア゛…」って声しか出なくなって。レコーディングはそこで中止。ダビングはもうそこで終わっていたんで、歌入れの日から何もやることがなくなって、じゃあもうしょうがないからカラオケだけこっちで落としてもらうっていうことにして、2チャンネル・ミックスでマルチにカラオケを録って、日本に帰って。で、日本で2チャンネルのマルチのカラオケに歌だけ入れたんですよ。だから逆にそれがまた良かったりして。落ち着いて時間に急かされないで日本で歌って、じっくり録れたのが良くて。でも音は向こうの音なんですよ。で、不思議なことに浮いた感じじゃなくうまく元のオケと歌を混ぜてあげると、すごく洋楽の音になりましたねぇ。

T:なるほど。そのアルバムをリリースして、ツアーとかはリリースごとにやってたんですか?

M:そうですね。その当時は学園祭も多かったですし、アルバムが出てツアーをやるのとは別に、定期的に例えば神戸とかだと、入る人がどんどん増えてきて立ち見が出るようになったら1日ずつ増やそうっていうやり方だったんですよ。お客さんが噂を聞きつけてどんどん増えていって、立ち見になったら2DAYS、それでも立ち見が出たら3DAYSって。神戸のチキンジョージって所では、夏に3DAYSやって暮れに3DAYSやるのがもう決まりみたいな感じで。それが90年代の半ばぐらいまでずっと続いてましたね。

T:なるほど。5枚目に向けては?

M:前回の初めてのロサンゼルス・レコーディングが自分で納得のいくものになって、じゃあこれは同じやり方でいこう、っていうことになって、ディレクターと話をして。で、もう最初から向こうでオケだけを作って日本に持ち帰ろう、っていうことになって(笑)。その方が歌もゆっくり歌えていいので。で、プロデュースしてくれたのがロニー・フォスターっていうスティーヴィー・ワンダーなんかのツアーのキーボードをやっている人で。そのロニー・フォスターが前のアルバムの『Showdown』の時は、村田がデモ・テープをヘッド・アレンジした状態で持っていったから「お前のアレンジがちゃんとしてたから、俺はやることがなくてつまらなかった、今度はお前がギター一本で歌っている歌を俺に送れ。俺がナイスなアレンジをしてやる!」って言うんで、今回は送ったんですけど。で、ロサンゼルスに着いて明日からレコーディングで、ロニー・フォスターの家に行って「はぁ〜い!アレンジ進んでるかな〜?」なんて言ったら「ごめんね〜、まだ出来てないんだ〜!」って。「うっそぉぉ!!!」みたいな(笑)。「明日からレコーディングだよ?!」「そうそうそうそう!だからこれから2人でやろうよ!」「えぇ!俺も?!」みたいな。

T:(笑)

M:それで、時差ぼけの頭ですごいしんどいんですけど、着いてすぐそこからアレンジ。次の日に3曲ずつリズム・トラックを録っていくんですけど、次の日の3曲はとりあえずアレンジしなきゃって、そこからずっと夜中までアレンジ。それで次の日の朝10時からレコーディングして、しんどかったです(笑)。5枚目の『Boy's Life』は。で、またレコーディングが終わったら、ロニー・フォスターの家に行って次の日の3曲のアレンジをまたやってっていう。「もう、どういうこと、これ〜!」って。最初からアレンジしておけば良かったんですけど。ま、そうなっちゃったものはもうしょうがないかなって。メンバーもほとんど同じで、アメリカ・レコーディングしてトラック・ダウンしている最中、自分はもうロサンゼルスをあっち行ったりこっち行ったりみたいな感じで。で、夕方ぐらいにスタジオに戻って1曲目をチェックして、「じゃあ、もう1曲トラック・ダウン、よろしくね!」とか言いながらまた夕食食べてどこか行っては、夜に来て2曲目をチェックしてオッケー!みたいな。で、東京に戻ってきたんですけど、1枚目のアルバムと比べるとやっぱりその場でアレンジしたんで、帰ってきてから足りないなーと思うところがすごくあって「あ、やっぱりここにギターがこういう感じで欲しい」とか。そういうところを結局、東京で自分のメンバーを使ってダビングすることになって。で、もちろんそれプラスコーラスをダビングして、リード・ヴォーカルを録ってという形で『Boy's Life』が出来たんですけど。

T:なるほど。

M:作詞は前から付き合いのあった安藤芳彦君と2人で話して、今回は2人でやってみない?っていうことで、ひとつ統一したアルバム・コンセプトを持って作ろうよっていう話で。アルバム・タイトルの「Boy's Life」って詞を安藤君が書いてきて「これ、もうアルバムのタイトルじゃない?!」ってその場で決まりました。それでアルバムのタイトルは『Boy's Life』に。その時に達郎さんの『FOR YOU』のジャケットを鈴木英人さんが描いていて、自分の夏のイメージで村田もあーいうのをやりたいけど、あれと全く同じじゃ違うなって思って…。『Boy's Life』のジャケットをクラフトワークのみたいな形で作るアイディアをもらって、これすごく綺麗だからこういうので夏の風景みたいなセットを作ってって。あれって割と小さいセットなんですよ。それをライティングしてカメラで撮っていくっていう。そのトータルな感じの5枚目『Boy's Life』が、ムーンレコードでの最後のアルバムで、自分の音楽とやろうとしてること、見えてくる絵とか世界がそこでひとつ完結した感じが自分ではしました。

T:なるほど。移籍の流れについては?

M:ムーンレコードは先ほど言ったようにRVCから独立する形で出来たんですけど、当初のムーンレコードには、独自のパワーとか考え方があったんですが、5枚目の頃には少しずつ普通のレコード会社と同じようなやり方になってきていて。レコード会社と村田とが刺激的じゃない関係になってきていて、季節がきたら音源作って“はい、プロモーション終わり、じゃあライヴ、よろしくー”みたいなそういう感じで、うーん…いまいち自分でどうなんだろう?って感じて。で、村田も含めて最初からムーンレコードを作ってきた人たちが、徐々に抜けていった時代だったので、村田も抜けようかなって。で、いろいろ話をもらって東芝EMIに移籍という形になったんですよね。

T:それで、環境は何か変わりましたか?

M:同じでした(笑)

T:(笑)

M:「あ、レコード会社ってこういうもんなんだ」ってその時に初めて思って。スタートしたところが、むしろ(普通のレコード会社とは)全然違う臭いのするところで、その連中とやり方の中で最初育ったんで。やっぱり他のレコード会社も同じでした。そうだったんだ〜…って。

T:では、6枚目のアルバム『GO POP』はどういう感じで取りかかられたんですか?

M:ムーンレコードの5枚目でひとつ完結した形だと思ったんですよ。で、今度は自分の曲をどういう風に理解して、どういう風に持っていってくれるだろう、他のアレンジャーとか他のプロデューサーは。一応預けてみたいって思ったんですよね。それが東芝EMIの一枚目『GO POP』のスタートラインだったんです。プロデューサー/アレンジャーで幾見雅博さんっていう方がいらして、その方のアレンジとかアイディアの下で色々な曲をやったんですけど。自分では思いつかないアイディアだなって思うのが半分と、これはひょっとしたら自分の方がいいかもしれないっていうのが半分、半分半分で。レコーディングに入って迷いながら進んでましたね、かなり。イメージも変えようっていって、オフィスも変えてプロダクションも変えて、もっと髪型もこざっぱりとした感じでとか、こういう衣装でとか。でも、そういうのも全然経験なくって、ムーンレコード時代は放し飼いな感じだったんで(笑)、だからちょっと新鮮な感じに乗ってみようかなって思ったんですけど。曲的には自分のオリジナルのセンスで出来ていると思うんですけど、ただアレンジがやっぱり自分のバンドで演奏したりする方向とは違っている感じでしたね。


T:なるほど。ちょうど時代的にはバブルの頃ですよね?

M:そうです。何でもオッケーよ!っていう(笑)、感じだったですね。88年ぐらいですかね。まだレコード業界はお金があった頃ですよね。だからプロモーション・ビデオも第一弾のシングルの「Sky Love」をロサンゼルスに撮りに行って。で、ロサンゼルスのアメリカ人のスタッフを使ってプロモーション・ビデオを撮って、ロサンゼルスの市内のいろんな所で「Sky Love」を歌って撮りましたねぇ。その後、そのトラック・ダウンはナッシュヴィルでやって。エンジニアがナッシュヴィルにいるっていうんで「じゃあうちの方からナッシュヴィルに行きます!」ってもうみんなでナッシュヴィルに集まって。お金あったんですねぇ〜(笑)。5人くらいナッシュヴィルにスタッフがいましたから。


T:へぇ〜!これもツアーはあったんですか?

M:そうですね。この頃ぐらいから「作るアルバムの音は聞きやすく作られているのに、ライヴはワイルドだね!」ってすごく言われて。聞こえはいいですけど“ライヴは荒いね”っていう意味なんですよね。だから東芝の宣伝とかディレクターとかは「違うバンドがいいんじゃない?」って何度も言いましたね。で、その前の年かな、ムーンレコード最後の年にセンチメンタル・シティ・ロマンスと1回ツアーやったんですよ。それは単純に村田のいつもやっているメンバーのスケジュールが、どうしようもなく合わなかったんで、諦めるか違う人たちをバックにしてツアーするしかないんじゃない?って。クリスマス・ツアーだったんですけど、それで「じゃあセンチはどう?」って、センチはもう昔から知っているし、演奏もアメリカの音だし、「じゃあセンチで1回やってみようかな」ってメンバーとも相談してセンチメンタル・シティ・ロマンスでやってみたんです。でもこれが、音が来ないと言うか、自分の感覚で音が小さく感じるんですよ。自分のバンドの音が大きいのもあるんですけど、センチの音がちっちゃくて、自分のボルテージが上がってこないんですよ。それで、東芝に入ってから言われた「村田のバンド、荒いんじゃない?」とか「もっと上手いやつにした方がいいんじゃない?」とか一切、完全無視で。「いいの!これじゃないと俺、絶対楽しく演奏できないと思うんで!」っていう形で。ずっと村田バンド続けちゃいましたねぇ。

T:なるほど。でこの後、7th、8thとアルバムも2年続けてリリースしてますけど、これもやっぱり夏に向けて?

M:そうですね。基本はもう常に夏を意識して、っていうか夏の音楽を作ろう!じゃなくて自分の好きな世界が夏なんですよね、音楽的にも。だから湿ってたりとか重かったりとか、それ自体が自分の好みじゃないんですよ、きっと。あと、マイナーだったりとか。自分が夏っていう季節がすごく好きなのもあるし、それと自分の音楽が=(イコール)だったんですよね、思考と夏。だから必然的に出来てくるものが夏に聴き易いものになったんだと思うんですが。

T:はい。この2枚のアルバムはどういった感じですか?

M:次の『太陽の季節』は前作の完全な反動ですね。前回は全部人に任せたので、今回は自分でみたいな。もっと自由で、荒いと言われているそのバンド使って一発録り!みたいな感じでレコーディングしてやろう、みたいな。逆にバンド・サウンドで敷き詰めたらどうなるかっていうのが『太陽の季節』で。


T:結果はどうだったんですか?

M:うーん、半分成功、半分失敗してるっていう感じですね。それは、いつも信頼して一緒にやっているプレーヤーなんですけど、でもやっぱり全てを任せてはいられない、っていう感覚だったんですね。レコーディングの時に。自分の思考とか自分のアイディアを超えるアイディアを求めるんですけど、それを待ってるとやっぱりなかなか出てこないっていう。いいプレイはするんだけど、そのもっと先を考えた時にこのメリハリを生かすためどういうアレンジをしたらいいか、っていうところまでは突き詰めてアレンジしてきていないんで。やっぱりいいプレイはするものの、適切なアレンジが出来るとは限らない。もちろんいいのもあるんですけど。バンドに任せたかったんで、自分は極力口を出さないでレコーディングしたんです。バンドの行きたい方向に、馬が走りたい方向にっていう感じですね。でもやっぱりそれは、自分の曲は自分が一番良く知っている、っていうこととかも感じたアルバム作りだった気がします。


T:その次は『空を泳ぐ日』ですね。

M:『空を泳ぐ日』は、また違う方向にいったアルバムなんですよ。アレンジ自体は中村哲さんにこれもまた全て任せているんですけど。一度、達郎さんのツアーで中村哲さんとずっと一緒で、1曲ムーンレコード時代にアレンジしてもらった曲が、すごい良いアレンジで、あのアレンジがすっごい良かったんでもう1回やってみませんか?みたいな話になって。で、哲さんから「僕からアイディアがあるんだけど」っていう話で「村田君はアレンジとかプロデュースを一切考えずに、シンガーとして僕のアレンジに乗ってくれない?」っていうことで。このアルバムはだから、クリエイトするっていうよりは1人のシンガーとして、僕のアレンジに刺激を受けて君がどうやって歌うのかを表すアルバムにしようよ、っていうことで作られたんですけれども。

T:『空を泳ぐ日』は結果的にはどうでしたか?

M:結果的にはやっぱり、すごいなって思うアレンジが半分、自分でもう一回やり直したいって思うアレンジが半分。だから、いいところだけ取りたい感じですよね。そのアレンジの根本のアイディアからして「あの曲がこういう風になるの?!すごい!」って思うのと「あの曲がこういう風になって、あ…こっちの方が良かった」って思うのと。だから、難しいです。人のアレンジでやるのは。

T:なるほど。この頃、曲を作るタイミングっていうのは、アルバムの為に時間を作るっていう感じだったんですか?

M:この頃になると、アルバムを作る作業がパターン化してきている頃で。ディレクターとかオフィスの誰かから「あのさぁ、×月発売の予定なんだから○月にはちょっとスケッチをみんなで聴いて、チェックしておかないとまずいんじゃない?」とかって言われて、そこからやっと作り始めるっていう感じで。曲の発注で誰かに曲を書いて欲しいとかって言われたら作るんですけど、それ以外はもう曲を作るっていうことはなくなっていたんですね。

T:なるほど。

M:で、自分の自宅にこもってですね、2週間くらいかけて大体2,000〜3,000ぐらいの曲のモチーフを書くんですよ。ごく短いアイディアだけの曲なんですけど、4小節から8小節。サビを目指したものもあれば、Aメロのメロディーもあり、全然無作為なんです。もうとにかく思いつくコード、リズム、自分がいいなって思った曲が浮かんではそれっぽい感じの曲、自分にそれぞれその都度刺激を与えて2週間くらい朝から晩まで。もう1週間超えてくると頭がずっと回っている状態になるんですよね。なんか音楽作るクリエイティヴな脳みそって、普段使っていないところにあって、そこが回り始めると止まらないんですよ。で、睡眠時間が2時間くらいになったりするんですよね。もう疲れて疲れてアイディアも何にも浮かばなくなってもう、バタッて寝ると2時間くらいしたらまた、ふっと起きるんですよ。で、そこからヘッドフォンして、シンセとかでワーって弾きながらまたメロディーをふっと作って、っていうのを2週間くらいやって。で、2週間くらい経ってくるとちょっとね、精神的に危ないところに行くんですよ。

T:(笑)

M:近くにあるものを投げたい衝動に駆られて。テレビとかラジカセとか、壁にバーっ!とかやりたくなるんで、そうなってくると「あ、もうダメかも。ここまでにしよう。」ってさすがに自分でも怖くてここまでで終わっちゃうんですけど(笑)。で、その作った3,000のモチーフを1〜2週間聴かないで置いておくんですよ。もう2週間経っていると、籠もって曲を作っていたことが夢のような出来事になってくるんですよ。で、その時の曲をまた聴いてみると、もうどの曲も自分の知らない曲なんです。覚えがない曲。ただそれを漫然と聴くと、ある曲がポンッと自分に当たるんです。ああ、いいこれ!って。で、その曲をまた別に録って、それをちゃんとした一人前の曲にするんです。で、その時に作った違う曲のサビとくっついちゃうこともあるし、どうしてもくっつかないときは自分でまた新たにサビだけ作ったりします。それは、今でも同じ曲の作り方してますけど。

T:じゃあ、詞は後で?

M:もう完全に後ですね。詞先はもう駄目です、ありえないです。


T:そうですか(笑)。90年代に入ってベスト盤が出つつ、杉さんとアロハ・ブラザースをやっていますよね。これはどういういきさつで?

M:それはJ-WAVEの企画で、毎月の歌を何か作ってくださいって。どこから村田と杉さんがくっついてきたのか全然覚えてないですけど、多分杉君の方に話がいって「僕1人の形じゃなくてユニットで誰かと」って、そこの段階で「じゃあ村田とやるといいんじゃないかな」って2人でやることになったんですけど。

T:杉さんとはその時初めてお会いしたんですか?

M:いえ、もうデビューした当時から杉君はよく知ってたんで、仲良くしていました。2人の曲の作り方がちょっとずつ違っていて「なになに?そこへいくんだったら、ちょっと貸してギター。こっちの感じでメロディーがいくのはどう?」って「あ!いいですねー!さすが社長!」とか言いながら(笑)。で、曲がどんどん繋がっていくんですよ。だからすごく楽しい曲作りのやり方で。


T:曲は結構作ったんですか?

M:ええ。毎月1回で6曲、アロハ・ブラザースで作ったんですけど。だから毎月杉君と会ってはそんな感じで曲を作って「これはなんかさ、おシャンソンにして!」とか「アコーディオン、バラバラバラ〜!おフランスに行きませんか〜」みたいな感じで杉君が言って、「あ、じゃあだったらさぁ、宝塚チックにして、ここはみんなでユニゾンで歌っちゃうとか!」っていうアイディアを出しながらアレンジしてレコーディングして。

T:なるほど。バンド名は?

M:最初はねぇ、エヴァリー・ブラザースがあったでしょ?


T:はい。

M:だから、エヴァリー・ブラザースの感じで何かない?って。「じゃ、マをつけて、マエヴァリー・ブラザースなんてどう?」とか。で、却下されて(笑)、「じゃあ、マクハリ・ブラザースは?」とかって、色々出しているうちに、「じゃあもうアロハでいいんじゃない?ハワイ好きだし」とか。「村田と杉君2人とも島が好きだから、じゃあアロハ・ブラザースでいこう」って。


T:なるほど。それとソロでは会社がまた移籍になりましたよね?

M:はい、ビクターに移籍するんですけども。


Tでは、この辺りで、PART3へ続きます。引き続き、宜しくお願いします!

M:宜しくお願いします!

PART2 END>>>   
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■村田和人オフィシャル・ブログ
ツアーの様子やメディアへの出演情報など、最新情報をいち早くゲットできます。
http://d.hatena.ne.jp/KAZ_MURATA/
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デビュー前の1970年代〜80年代初頭に書き溜められた未発表曲たちに、新たな息吹を!約30年の時を経て完成した珠玉の1枚。まさに村田和人の音楽的ルーツがここにある。

ニュー・アルバム『NOW RECORDING+』
NAYUTAWAVE RECORDS / UPCH-20108 / 定価¥3,000(税込)
24bit デジタル・リマスター / ボーナス・トラック5曲追加 / 村田和人コメント掲載 / 監修:村田和人/土橋一夫

村田和人、13年ぶりのニュー・アルバムとなる本作は、プロとしてデビューする1982年より前のアマチュア時代に書き溜められていた未発表曲を新たにレコーディングし、甦らせたものです。若き日の村田和人の感性や当時のテイストが詰まった楽曲の中には、デビュー前に既にライヴで披露されていたナンバーも含まれており、その後の活躍を予感させる興味深い楽曲が満載です!

本作は2008年4月に自主制作盤『NOW RECORDING』として発表されましたが、今回新たに貴重なボーナス・トラック5曲(全て未発表音源)を加え、24bitでデジタル・リマスタリングし、ジャケットも一新してタイトルも『NOW RECORDING+』となって登場。若き日の村田和人のテイストをお楽しみ下さい。

村田和人さんの詳しいインフォメーションは、オフィシャルブログまで。