nanaco / 佐藤奈々子


今回、moment jam session#1「We'll Meet Again」に参加していただきました、nanaco (佐藤奈々子)さんの過去から現在までを辿ったインタビューです。最後に、メッセージ映像もあるので、お見逃しなく。

(2003年9月2日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)






nanaco(佐藤奈々子)


東京、中野生まれ。
慶応大学在学中にコンテストに出場。これを契機に1977年『ファニーウォーキン』でコロムビアよりレコードデビュー。4枚のアルバム他を発表。1980年にバンド「スパイ」名義で1枚のアルバム『スパイ』をリリース。
その後、プロのカメラマンとなり、いろんな分野での写真を発表。87年よりパリに在住。
1993年帰国後音楽活動を再開し、13年振りのアルバム『フィアー・アンド・ラヴィング』をリリース。
以後『LOVE IS A DRAG』他、日本のみならず世界的に幅広く音楽を発信している。
現在、カメラマンの活動と共に、PPDというフレキシブなユニットでの音楽活動もし
ている。

 

 


多分、日本に帰って来るって頃だったんだろうね。日本でやらなくてはいけない事があるって。やっと思えるように。不思議な事に素晴らしい日本のミュージシャンに会っていくわけ。どんどん。もちろん昔から知っている人たちのそうだけど、私がずっと外にばっかり気を取られて、あちこち行っていた間に、皆、素晴らしい、それぞれの年月が流れて、こんな素晴らしいって思える人達が「実は、ここには、いた」って感じの。また一緒にこういう人達と出来るのが嬉しくて。

TERA(以下T):それでは宜しくお願いします。まず生まれから教えて下さい。

nanaco (佐藤奈々子)(以下 N):生まれは東京、中野です。

T:小さい頃は、どんな遊びをしていましたか?

N:小さい頃はね。おままごととか、女の子らしい遊び。そう、お人形で遊ぶとかね。うんと小さい頃ね。でも、3才ぐらいの時から体操をしてたから。遊びも遊んでいいわけだけど、お家で布団を何枚も引いて、とにかく、でんぐり返し、逆立ちとかを練習したり、あと、バレエ。だから、女の子らしい遊びもしながら、体操を。

T:体操をする事になったキッカケは?

N:叔母さんが、オリンピックに出て、、。その「巨人の星」と同じ。オリンピックに行ったけど、前の日にアキレス腱を切って出られなくなっちゃったの。その夢を託されたの。だからもう「大リーグ養成ギブス」じゃないけど、そのぐらいにもう凄い仕込まれて。叔母さんはその後、オリンピックのコーチとか審判になって、色んな選手をいろんな大会に行って、写真を撮ってくるの。それを私の部屋に貼るわけ。ザーっと。「あの手!」「あの足!」って言って。そういう感じだったの。その頃はビデオとかじゃなかったでしょう。だから、すごかった。

T:その体操の内容は?

N:器械体操。そうそう。

T:それが3才の頃から、どのくらい続いたの?

N:本格的な体操は中学から始まるんだけど。それまでは日体大とかの大学生達に混ざって、端っこでマット引かれて、ころころと転がったり、一緒に合宿行って、端っこで何かしたり。とにかくそういう感じだったの。

T:発表の場みたいなものは?

N:中学から試合で。都大会とかね。全国大会とかがあって。

T:じゃあ、その頃はもう体操一筋で?

N:一筋。もうすべて。だから、ちっちゃい頃は、正座をしてはいけないの。あの膝が出ちゃうから。スタイルが良くないといけない。だから私だけお家の中で、正座はしない。

T:椅子に座る?

N:そう。食べ物も違うの。

T:え?どんな食べ物?

N:外国な食べ物。だからこう、サンマとか味噌汁とか、そういうのじゃない。チーズにバターにみたいな。だけど、太ったらいけないから、お昼はりんご1コとか。そんな感じで、姿、形を保つ、徹底的に。それで、大きくなり過ぎちゃったの。それでだめでしょう?ああいうのって。最後高校の時は、インターハイとかに出て、3位とかになったりとか、学校が強かったけれども、個人的にはもう「あ、これ以上大きくなったら無理」みたいな事になって。

T:それで辞めてしまうの?

N:高校の時に「ウルトラC」みたいな練習をしていたら、段違い平行棒で、上のバーから頭から飛び出して、床に落っこちて、記憶が無くなっちゃったの。一週間くらい。「それはもう大変な事だ」って、もう家のママが「頼むから辞めて」って。私も凄い好きでやってたっていうか、そういうもんだと思って、小さい頃からやってたから。本当いうと恐がりだし、平均台に足を乗せていた時に「地震とか来たら、何処に降りるの?」とかもうこわい事ばかり考えて。もう好きで好きでって事じゃなかったかも知れない。

T:じゃあ、辞める時はすんなりと?

N:そう、私はね。でも叔母さんとかは悲しかったと思うし、私はすんなりだけど。でも今でも体操とかの試合をテレビとかで見ると、じーんとくる。何か自分の中に記憶があるから。ここまでいくのに、どれほど大変な思いをして練習してきたかとか。自分の中に、そういうものがあるから。動きを見るだけで反応するものがあるのね。気持ちがもう何か感動するわけ。自分が残念とかそういうんじゃなくて。スポーツってそうだよね。みんなね。例えば走ってる経験があると走ってる人を見たら、じーんと来るものがあるじゃない。ただの好きとかじゃなくて。やっぱり自分の中にあるものが。

T:体操を辞める事になって、それ一筋でやってきた事が無くなって、その後はどうしてたの?

N:取り柄がないでしょう?それは高校の2年生で辞めちゃったから「取り柄が何もなくなった!」とそう思って「まあ、いい学校でも入るか」って感じで、大学に入って。「何用」という訳でもなく取りあえず「いい学校にでも入れば、何とかなるかなあ」みたいな。何にも考えなくて大学に入って。そしたら、ひょんな事からね、歌手になっちゃって。

T:何で歌を歌う事になったんですか?

N:歌を歌うなんて、夢にも思っていなかった。

T:そもそもキッカケは何だったの?

N:最初に大学に入ってテニス部に入ったの。なぜかっていうと、アンダースコートのフリフリした可愛いあーいうものを履いてみたかったのね。あーいうのを履いて何か可愛いなあ、かっこいいなあと思って入ったの。そしてまたすぐに今度は、音楽クラブ?に誘われて、入ったクラブが音楽活動というよりかは、皆で集まって飲んだりして遊ぼうみたいな感じで、真剣に音楽をやるクラブでもなかったんだけど。女の子はひとりしかいなかった。そのクラブが学園祭で青山学院のクラブと姉妹クラブみたいになってて、青学の学園祭の時に手伝いに行ったの。そしたらそこで佐野クンが出てたの。私は佐野クンにお茶をあげる係だったの。それで、また今度は自分の学校にも来て、その時もまたお茶をあげる係で。それで知り合いになって音楽を歌うようになって。詩を書く事を教わって。「大学主催のコンテストがある」って事になって最後の予選の準決勝とかになって、その時に佐野クンと作った歌を歌って残っていっちゃった。決勝で日本青年館で佐野クンと真鍋さんってベースの人と一緒にやって、そのコンテストの時に作詩の賞をもらって。それで歌手になったの。歌手なんかなるつもりなかったから。その色んなレコード会社が探しに来てたわけじゃない?その頃って。でも、私がそのレコード作るか何か言われても、最初はお断りしてたんだけど。もう諦めない訳。それで、「じゃあやってみてもいいかな?」って思って。それがデビュー。

T:でもそれまで、歌を歌う事とかはしてないんだよね?

N:全く。

T:でもレコードを聴く事くらいは?

N:ちっちゃい頃から体操をしてたから。その体操で、映画「第3の男」のテーマで足を上げをするわけ。最初の柔軟とかマットで足を振るとか、いつも「タララララー、ララー」とか言って(笑)。それで家は、ロックとかそういう音楽の無い家だったから。ロックなんかは「不良の音楽」とおばあちゃんは思っていたから、お姉さんもロックの「ジェファーソン・エアプレーン」とか「ザ・フー」とか持ってたんだけど。隠していたの。ステレオセットとかお姉さんが買って貰っても、映画音楽は聴いて良かったけど、ロックはダメだったから閉まっておいたの。それでこっそり聴いてたの。でも私は全然聴いて無い。映画音楽以外は良く知らなかった。「学生街の喫茶店」って歌が高校の時に流行ってて。でも、「ボブディラン」って何なの?って感じ。何にも知らない人だった。うん、全く。

T:それでは、自らの歌とかのジャンルであるとかも知らずに、その歌は初めて触れる音楽だった?

N:そう。TVで流れて来るような歌謡曲とか演歌、映画音楽以外のロックなんか聴いた事なかった。良く知らなかった。

T:デビューの契約をして、最初のレコーディングは、どうだったの?

N:とにかく言われる通りの事をやって。自分の中から自然と出て来るビートっていうのが、4ビートだったの。だから16ビートなんか普段聴いた事も無いから、良く歌えない。「息切れちゃう」みたいな。そんな感じ。何にも知らないで、本当に何にも知らない人が、歌手になっちゃって。こういう人、珍しいと思うのね。今も昔も。

T:1枚目の「ファニーウォーキン」が出て、周りの反響は?

N:「何か不思議な声だ」って事になったんだと思う。そう。そうだね。面白い声。何だか不思議な声だって。だから声が変わってるみたいな事が、何か反響だったと思う。

T:何枚リリースしてたんだっけ?

N:4枚。半年に1枚のペース。

T:じゃあ、本当にレコーディングして出して、また。

N:さっさ、さっさ、次々と。その頃は早かった。

T:そういう生活は楽しかった?

N:楽しいでしょう?だって何かもう、はじめてな世界の事で「わー楽しい!」って感じで。楽しいって、その音楽の事ばかりしてないし、ライブって事でもバンドの人達がいて、その人達といつも遊んで海に行ったりとか色んな人達と会う訳で。学生の時だったでしょう。楽しかった。とっても。

T:それで大学を卒業して?

N:卒業したよ。だって3年の時、全部単位取っちゃったもん。だからもう4年の時は「遊んでても卒業出来る」みたいな感じで。

T:80年に入って、ユニットを組んで。

N:「スパイ」

T:そう「スパイ」。

N:だから。音楽の事をよく知らないで次から次に出逢うものが新しい世界で、そーこーしてる内に「ニューウエイブ」とかが流行っていた頃で、「暗い」「病気」とかそういう言葉が流行ってた頃で、何か周りにふと「ムーンライダーズ」がいて。すぐに影響される。「あーいうのやりたい」とか思って。それでやってみた。

T:どんな感じだったの?

N:あ、れ、は、似合ってなかった(笑)。ねえ。本当に。でもあれはあれであの時だったから、その中には「ニューウエイブ」って日本では言ってたけども「パンク」とは言えず「ニューウエイブ」みたいな。自分の中にそういった世の中に対しての、猛烈な衝動みたいなものがあった訳じゃないわけ。世の中の気配としてはもちろんそうしたものがあったのは感じていたけども。そういった意味では気配じゃなくて何かファッションみたいなものだった気がするのね。それを「着替えてやってみた」みたいなもんだから、そういった意味では楽しかったけれども、その生きて行く為にどうしてもこれじゃなければいけないってもんでは全然なかった。

T:その頃はライブは良くやってたの?

N:「スパイ」の頃は、いっぱいやった。うん。

T:ライブは楽しかった?

N:うん楽しかった。でも正直言って、デビューから「スパイ」までの間って4,5年かな?自分は「わっわっ」って次々に新しい世界に驚きながら楽しくみたいな感じで、歌うって事をそもそも「歌わないと生きてはいけない」とか本当に自分の中のどうしても歌わざるを得ないみたいな深いものではなかったの。本当に「ふわふわ可愛く遊んでいた」みたいな感じがしてるから。だから次に写真。「押せば写る」っていう一言で「えっ、押せば写るの?」って思って、写真の方に行っちゃったんだろうと思うし。あともう1つその。バンド。自分は音楽の共通言語みたいなものを持っていなかったから、今でも音符も読めないし。そういう事わからなくて。本当にこれは「青い音」で「黒い音」で「赤い音」で、これは冷たいの?寒いの?って事しか言えなくて。そうすると、もどかしいわけ。同じ「青い」って言っているのに「黄色い」みたいな事だったり、やっぱり皆と音楽する。自分がコミュニケートする事が言葉では良く出来なかったり。それで皆、一生懸命だったんだけれども、例えもどかしさがあっても「一人で完結する事」がやりたかったの。写真って自分が押すでしょう。もちろんその目に見えるものがなければ、写らないにしても、押せば写るんなら、自分でも出来ると思った。

T:それは「スパイ」が終わってから?

N:ううん。終わってない。「スパイ」が終わりがかってた頃かな?うん。周りにカメラマンの人が多かったんだ、たまたま。それで「押せば写る」って言った人が、ムービーのカメラマンでいて。もうその一言で。

T:そうだ。この間、小野田さんに聴いたんだけど、ベースを売ってカメラを買ったんだよね。

N:そう!それで写真に夢中になって。自分のジャケット撮ってくれたカメラマンの人がね。私インスタントカメラも撮った事もないぐらいな人だったから、フィルムを入れるのもわからない。だけど、その人が教えてくれて。その前にカメラがないから、自分が音楽を弾けもしないで持ってた綺麗なベースを小野田さんが欲しいって。それをカメラ屋さんの前で小野田さんに売って、それでカメラを買ったの。そう。

T:それから、撮り始めたんだ。

N:そう。そしてカメラマンの人に持っていってフィルム入れるのを教わって。もう楽しくってしようがないわけ。雨が降っても雪が降っても「きれいだわあ」って、朝から晩まで写真撮っているわけ。今度は現像も教えてくれて、すぐに「旅行に行って、撮って来たい!」と思ってパリに行ったの。フィルム100本くれて「これで撮ってきていいよ」ってくれて。撮って来て現像して。そうしている内に、とにかく好きで好きでたまらなくなってきて一生懸命やってて。すぐに何か「歌っていた人が写真を撮り始めて、どんなもんだか」って面白がられて、すぐに仕事をし始めて。

T:最初の仕事は?

N:何かレコードジャケットとか何かの雑誌を撮ったり、色々と頼まれて。その時は自分の写真が「凄い!」とか「綺麗!」とかだけ思ってて、もう何でも嬉しくてしようがない訳。でも本当にすぐ仕事みたいになって。一生懸命に写真撮ってた。そして、たまたま物撮りの人が「多重露光の撮影」をしていて「何だろう?」と思って見てて、1枚の写真の上に何枚も重ねて撮る事をやっていて、それで自分が「とっても多重露光の不思議な写真」を撮れる人になっちゃったわけ。それもメーターはもちろん使うんだけど。数学的に露出を計算しないで、自分がそれがどうにか良くわからないんだけど、それがこう「感」なんだけれども、光をあてて、例えば「コップを撮るとして、地球のまん中にコップがありたい」みたいな事が、露出とか色とかが何か分かる。メーターとか使わなくても、何回撮って、このくらいで光が入って、どんなものかがわかって、それでずーと撮ってたの。それが気に入られて、そういう味わいの広告をやるようになったの。何かの賞を取ったりして、何かいきなり初めてした事が。それがカメラマンのはじまりだった。

T:その頃は、もう音楽からは離れて?

N:もうすぐに離れて。すぅーっと。

T:その頃は、まだ日本に?

N:87年くらいまでは。7年間くらいは日本で。それからパリに行っちゃったの。

T:何でパリに?

N:好きな人が、オランダ人でパリに住んでいたから。

T:結婚で?

N:一緒に住むという事で。

T:写真は取り続けてた?

N:うん。写真は撮ってたし、パリから色んな所に行って、写真撮ってて、仕事もしたし、何か楽しく遊んで短編映画も作ったりしたよね。

T:NYに行ったりもしてたよね。

N:それは90年だった。あれはNYU、ニューヨーク大学の映画コース。一応16ミリで作品を作った事ある人だけのコースなの。それで送ったら「OK」という事になって、行ったの。

T:期間は?

N:何ヶ月か。すぐ。何でもね。ジムジャームッシュの映画を観たら「自分も映画が作れるんじゃないか」って、思って。そういう。あれ。

T:それで、1本撮ったの?

N:ウーン。でも完成出来なかったの。色々とトラブルがあって。おかしな話があって、自分達でロケ場所とか全部やらなきゃいけなくて。俳優さんは不自由しないわけ。学校が映画を作るっていって、新聞に小さな広告を出すと300人も。一つの役に300人がオーディションに来たの。そーすると誰でもOKみたいな感じで。役者はいくらでもいるわけ。そこまではよかったの。その映画は「ドアマン」の話だったの。私の書いたストーリーが良かったから、良かった人が監督になれた。そして監督になったまではいいんだけど。「ドアマンが不思議な事件に巻き込まれていく話」なんだけど。「ドアマン」が働いている建物を探すのが大変で。いくら学生の映画といえどもなかなかなくて。それでOKになったところがタイムズスクエアの傍の、昔のダコタアパートぐらいな古い建物で。凄い豪華なホテルだったものが、ホームレスのたまり場みたいになっていたの。それを持っていたのがマフィアの人達で。そうとも知らず私達、シンクロの映画だったから電話線とか引っこ抜いちゃったの。そしたら怒られちゃって「1万ドル払うか、今すぐ出ていくか、どっちかにしろ!」とか言われて。出来なくなったの。それで「映画の出来なかった監督の話」に変えて、撮ったけど、編集は途中までやって終わった。もう駄目だった。でも1つだけ面白かったのは、その時。ブロッキングの練習とかがあって、カメラを動かさずにどうやって人物をダイナミックに動かせる映像を作って。私の作った3分の映像が、NYUの生徒だった人が来て、何かそれがサンプルになっているらしい。だから、そのちょこっとした事をやったのは、面白かった。

T:パリにいた間にNYにいったんだよね。

N:そう。行ってね。

T:パリでは、他にどういう活動をしてたの?

N:パリではね。不思議な生活。家はゴダールが住んでいた部屋だったのね。若い頃の。パリのアーティストが住みそうな屋根裏の部屋で。そこで一緒にいた人、住んでいた人もカメラマンだったから、周りはカメラマンがいっぱいいて、色んな国の人達が出入り自由で。本当にここの、「moment」と同じ感じ。教会みたいに「ドアは空いています!」みたいな感じで。だからもう四六時中、毎日、写真を撮って、毎日プリントしてみたいな。そういう感じ。

T:仕事はどんな感じで?

N:何かファッションの写真で、オートクチュールの写真であるとか銀行のポスターとか、あの頃はエージェントがいたから、仕事は取って来てくれるわけ。でも日本の仕事で呼ばれて、帰る事が多かったんだ。その時は。だからしょっちゅう帰って来てた。でも子供を生んだら帰って来れなかったでしょ。

T:うん。90年を過ぎて、日本に帰って来るよね。それは何がキッカケだったの?

N:別居。単純に。そう。

T:それで、ヤン君(息子)と帰ってくるんだね。

N:出戻ったの(笑)。

T:そして仕事の写真は、日本でも続けていて。

N:最初はヤンがまだ小さかったし、また1つからご挨拶みたいで大変だったけど。何かね。

T:それで、音楽も久しぶりに始めてね。また。

N:それはね。もう凄いものがあってね。パリにいた時まで、ずーとこう映像、映像、映像って、毎日の様に写真を撮っては暗室に隠りって事をやってたっていうのも、そうだけどやっぱり言葉の部分で、いっぱいいっぱい溜るもの。いくら英語がお話できても。自分の中に溜まっていく想いみたいなのが、いっぱいあった。そういうものが一気に出て来ちゃったの。例えばバブルの真っ最中にパリに行って、それで帰って来たら世の中がバブルの崩壊か何か言って、そういう時だったんだけど。何だろう、自分の崖っぷちを覗くみたいな思いになった時があった。そういう時にニールヤングの『ハーベストムーン』を聴いたの。そしたらもう涙が止まらなくなって、それを聴いた日の夜、お風呂に入ったら、言葉と歌が出て来たわけ。それでまた今度は本当に音楽が必要だった。歌う事が。じゃないと息出来ないみたいになって。それ憶えてる?

T:『ハーベストムーン』を聴いた日ね。そうだったよね。

N:本当に。

T:それから、確かラジカセに歌を、ね。

N:そう、歌っておくのね。もごもごと。そもそも浮かんできたものは、歌ったおく。そのテープを「はい」って渡して、コードを付けてもらう。みたいな形だったでしょう。それで、1枚作ったでしょう、日向(敏文)クンと。その頃まで、そうやって、浮かんできたものを作ってました。だったんだけど。その日向クンのスタジオ、LAに行って録って。その時に面白い先生がいるってボーカルトレーニングなんか受けた事なかったんだけど、凄い人がいるっていうので。それが「マインドコントロールボーカリゼーション」っていって。受ける事になった。その先生とは、やっぱりぴったりで。もちろん普通に「あー」ってやるという事なんだけど、つまり自分を「管楽器」だと思って、自分の内側が例えば心の悩みだったり何かしら閉ざされているものがあったら本当、声がでないでしょう?だから、その「煙突」じゃないけど「掃除」をしてあげる。そこが全部、開かれた時にはじめて内側にあるものが「クライアウト」って言って出て来る。みたいな事を簡単に説明されたんだけど。実際はそんな説明もなく「ダイレクトコンタクト」っていって、本当に魂が通じ合った先生だったから、その人に合わせて何かを伝えてくれるんだけど、先生が言う事が自分はもう良く分かって、そしたら何かが変わって、別に「歌がとてもおじょーずになる」という事ではなくて、開かれた感じで、不思議な事に即興で歌えるようになったの。あれは不思議。それで1枚目『フィアー&ラヴィング』は作った曲を作っていっただけだったけど、音楽をしないと呼吸出来ないくらいになって人一倍音楽のスピードが早くなってきちゃって。どんどん溢れて来て。とにかく何とかしなきゃという感じで。2枚目は、DSLとやりたかったのね。彼等の音楽が好きだから。

T:再帰1枚目『フィアー&ラヴィング』を出す前に、何度かライブをしているよね。

N:そう、日本に帰って来てからね。

T:その為に、ライブのメンバーを一緒に探しに行って、まず佐野さんのライブにね。

N:その時に、長田さんを観て。そっか、その時に探しに行った時にはじめて観たんだ。

T:そうそう。

N:「何?あのギターの人?」って言って、実は最初、席が遠くて、佐野クンと間違えちゃって。「佐野クン、あんなギターを弾くんだ」って思ったら、長田さんだった。

T:その後、ロッテンハッツのライブも行って。

N:解散のライブに行って「何だろう?凄い!この子たち」って。

T:そして、レコーディングもして。

N:デモテープ。1枚目もかな?一緒に歌った。そう。

T:その辺りのメンバーと一緒の2枚目のアルバム『LOVE IS A DRAG』の話だけど。

N:その時は気持ちがもう凄いスピードで、作る作る作るってなっちゃってて、DSLがやっと空いて、正月にいきなり、3,4日もらって、レコーディングして。

T:そのレコーディングは?

N:楽しかった。その頃は、作った曲もあるけど、その場でっていう事がね。即興のものもあったりして、もう凄い楽しかったし、DSLの皆にとっても、スリリングなレコーディングだったと思う。

T:そうやってアルバムは作り続けつつ、写真も撮り続けてるんだよね。

N:そうそう。『LOVE IS A DRAG』のジャケットはね。それのミックスでロサンゼルスに行って、その行ったところが、たいそう気に入ってくれて、「イギリスでリリース」と言う事になったわけ。それでレコード会社をこのアルバムの為に作っちゃったの。そこまでは良かった。このアルバム作っている間に、ビジュアルは「レーガン」という雑誌、あの西海岸のサーファーが作ってた雑誌が好きで、その人達にアートワークをお願いして、私の写真をいくつか候補になるかと思って渡したら、GREAT3の賢ちゃんの写真を選んでそれをカバーに使ったの。私達も夢にも思わなかったけど。何かこうイメージに合うと思ったんでしょう。

T:この写真は何処で撮ったの?

N:どこかの屋上。どこだったかな?

T:『LOVE IS A DRAG』のあとの話なんだけど。

N:『LOVE IS A DRAG』はイギリスで受けて、「ニューミュージカル・エクスプレス」の「シングル・オブ・ザ・ウイーク」に選ばれて。そこまでは良かった。けど、レコード会社とトラブルがあって、それがとっても大変だった。そこから自由になるために2年間くらい大変な思いをしたんだけど、音楽はしていたわけで、どんどん沢山作って、止まらない音楽を作る為に、イギリスに行って、イギリスのメンバーとレコーディングしたものがあって、アルバム2枚分の未発表のものなんだけど、「ダイアーストレイツ」とかレゲイのグループや、「ジョンレンボーン」とかが入ってて。それは宝物になってる。それの次に今度は、「コクトーツインズ」の人が『LOVE IS A DRAG』を聴いていて、声が気に入ってロンドンに呼ばれたのね。レコードを作るからって、2週間後に来てくれって。「コクトーツインズ」は知らなかったんだけど、夏と冬にレコーディングして、イギリスで出た。その頃には自分は自由に音楽をできるようになって。その次は、細野さんと久保田麻琴さんの「ハリー&マック」という2人組のユニットのレコーディングでジャケット写真とビデオの撮影でレコーディングに付合うというのがあった。何年前だっけ?

T:3年くらいかな?

N:うん。それでニューオリンズに行って。ビデオの撮影で。そこのスタジオの持ち主が「R.E.M」を手がけた人で。私はカメラマンなんだけど、良く言われるのが、喋っていると、こう、音楽みたいに聴こえるから、「歌うでしょう?」って言われたの。そして、細野さんのレコーディングをしてて、ガース・ハドソンが「お願いがある、サクラサクラを歌って欲しい」って。「今はレコーディングしてるし、後で、これが終わったら、歌うから」って。でも毎日毎日言うから、細野さんたちも「分かった。今日やっていいから」って。それでその日の終わりにガースと一緒にサクラサクラをデュエットしたの。そしたら、ガースがテープを持って行っちゃって(笑)。それがキッカケで2年間、2ヶ月に1度くらいニューオリンズに行って作ったアルバムがあって。本当にディープなディープなニューオリンズ体験だった。もう自分がニューオリンズに行くとは思わなかった。それが外で音楽をした最後だったような。多分、日本に帰って来るって頃だったんだろうね。日本でやらなくてはいけない事があるって。やっと思えるように。不思議な事に素晴らしい日本のミュージシャンに会っていくわけ。どんどん。もちろん昔から知っている人たちのそうだけど、私がずっと外にばっかり気を取られて、あちこち行っていた間に、皆、素晴らしい、それぞれの年月が流れて、こんな素晴らしいって思える人達が「実は、ここには、いた」って感じの。また一緒にこういう人達と出来るのが嬉しくて。この国には素晴らしい音楽があって、それっていうのは、自分達が今、知らない状態になっちゃってる。その伝統的な音楽、それも縄文時代までさかのぼってくような、アイヌの人達の歌とか、その島、南の島の人達の音楽とか、素晴らしいものがあって、自分達の記憶の中にどこか絶対あると思うのね。そういうものが、あるあるっていうものが、感じるようなところになってきた感じがしてて。

T:なるほど。そういえば、COCCOさんの写真も撮っていたよね。出会いは?

N:夢のような出逢い。デビューの直前だったのね。こうデビューの時のシングルをまず撮影した。それとCOCCOが唯一雑誌に特集を組んでいたものをずっと撮ってた。うん。アルバムが出るタイミングで、それがプロモーションみたいな感じで。

T:どういうところで撮ったの?

N:最初に、COCCOと行ったのは、ロンドンだった。次がヨセミテ。次がアイルランド。次がスイス。最後が沖縄。COCCOは、会った時から、何か鏡をみている様な。向うもそう思ったと思うけど。何かこう本当に良く似ている部分と、自分とは違うんだけど、凄い深い深い闇の中から、聴こえて来るようなものが、COCCOにはあって、そんな聞こえない声がきこえてた。鏡をみているような、姉妹のような。自分の若い頃に似てたのね。自分の20才の頃と。だから佐野クンなんか、COCCOと会った時「夢か幻か」って思ったくらいそっくりだって思ったみたい。

T:COCCOさんとは、音楽は一緒にやってないんだっけ?

N:うん。やってないけど、でもみんなが知らない時に一緒に歌った。COCCOがギター弾いて、私が歌った事もある。だからこの間、COCCOが沖縄で「ゴミゼロ大作戦」って歌ったでしょう?私は行かなかったけど。でも凄く嬉しかった。

T:で、今、写真は撮ってる?

N:写真は、DSLを撮るの。とても嬉しい。

T:最近の音楽活動は? PPD?

N:PPDは、バンドというか、もっとフレキシブルな考え方で。去年はPPDでいっぱいライブをやったでしょう?その時も例えば、こうゲストで色んな人が入ったり、形体としてはフレキシブル。少しずつだけど、レコーディングやってて、ベースとキーボードとパーカッション。そこに誰が入ってもいいという感じのベーシックを作って。それでライブも出来る。ってことをやってて。だから今までの知ってるミュージシャンとか何か自分の好きなミュージシャンが参加してくれたらそれで嬉しい。昨日のレコーディングでは、サックスの山本拓夫くんが吹いてくれた。

T:今、録っているものは、どういう風な感じ?

N:大人っぽいよ。大人。もう素晴らしいミュージシャン達で。

T:何曲くらい上がっているの?

N:3曲。ベーシックな形だけど。

T:目標としては、アルバム?

N:目標。そうだね(笑)。あんまりはっきりした目標はないんだけど。アルバムになったらいいなあと思ってる。

T:では、1曲ずつじっくりいくという?

N:それは、最高に贅沢なペースで、自分たちが、これで1週間レコーディングをやらないとする。と、その1週間の生活があるでしょう?そうすると1週間の人生があるわけ。その人生で音楽って変わっていく。不思議と。これで1ヶ月会わないと、1ヶ月で声も変わるし、それぞれが変わっていくの。それがもう楽しくて。昨日も、キーボードの人は、元ウエストロードブルースバンドの人で、前にやった時に何か元気がなかったのね。そしたら、今度ハワイのカウワイ島でサンディの撮影をしてきて、凄くいい時間を過ごしたら、違う訳。全然キーボードが違うの。何だろう?この美しいエネルギーは。そういう事がもう素晴らしいわけ。こう予定通りに、いついつ具合が悪くても、そこに行ってやらなきゃいけないみたいなやり方とは違うから、もう超贅沢。たまたまベースの人がswing bamboo studioというスタジオを持っていて、レコーディング出来る。ミニマムないいものを作るのにはベストって感じのいい環境で。メンバーはベースが吉田達二さん。キーボードは井出隆一さん。パーカッションの山北賢一さんは若いけど、「サイコババ」っていう「ボワダムス」のよしみちゃんの今のバンドのパーカッション。DJユニットの「FREEMAN」ともやっている素晴らしいパーカッション。あと、今まで関わった人達、例えばギターの奥沢君とかも、アコースティックなきれいなギターが得意だから、その時にはまた来てもらったり。あと今、GREAT3の賢ちゃんのドラムが素晴らしくて、参加してもらいたいなって。
もちろんDSLも。

T:その辺りが、今現在の音楽活動?

N:そう。割りとこう、ベイシックな受け皿を作っておいて、誰でも参加出来る感じだと素敵かなって思って。

T:そうだね。それではアルバムを楽しみにしています。それでは今日はありがとうございました。

N:ありがとう。


nanacoの詳しいインフォメーションは、HPをチェックしてみて下さい。
nanacoオフィシャルホームページ→http://www.rivernanaco.com/

【Discography】



Funny Walkin'
1977/COCA-11100



Sweet Swingin'
1977/COCA-12367



Pillow Talk
1978/COCA-12368

Kissing Fish
1978/COCA-12369

SPY
1984/VICL-2022

Tears of ANGEL
1994/COCA-11613

Fear and Loving
1995/COCT-12259

Sweeter than suite Compilation
1996/TOCT-9372

Love is a drug
1996/TOCT-9494

Luminus Love in 23
1998/TFCC-87616


sisters on the riverbed
2001/RVB-0023


 

『moment jam session#1』を終えて映像メッセージ

Message Movie

『moment jam session #1 』を終えて

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by ken-G