根岸孝旨 / Takamune Negishi


現在、待望の約4年ぶりになるニューアルバム、レコーディング中の、Dr.StrangeLoveの根岸孝旨氏の、過去から現在までを辿ったインタビューです。

(2003年10月6日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)






根岸孝旨 (Takamune Negishi)



埼玉生まれ。
学生時代より、その非凡な才能のせいか、
音楽業界で広い交友関係を持ち、その中で多くの経験を積む。
「POW!」「SENCE OF WONDER」などのバンド活動を経て、
80年代後半に出会った古田たかし、長田進と共に、
1994年に「Dr.StrangeLove」を結成。
精力的にライブ活動や他のアーティストのサポートをこなし、
カセットテープ、CDをインディーズで発表後、
1997年6月アルバム『Dr.StrangeLove』にて、メジャーデビュー。
その後、自らのバンドの活動以外にも、プロデューサーとして、
Cocco、GRAPEVINEなど数多くのアーティストの活動に、
精力的に参加し、優れたベーシストという肩書きだけではなく、
日本のロックシーンに多大な影響を与え続けている。

 

 


 楽器をいじって曲ができるっていうタイプではなく「イメージをもって楽器に向かった時に曲ができる」ってうか、先に大体メロディーがもう浮かんでるんですよ。「こういうの」とか「こういう世界観」みたいなのがあって。それがない状態で楽器に向かっても何もできないですよね。それがあって楽器に向かえば、割と順調にできますけど。うん。だから作曲家とかやってる時は、ほとんど楽器なしですね。



TERA(以下 T):それでは宜しくお願いします。まず生まれから教えて下さい。

根岸孝旨(以下 N):生まれは埼玉県、今はさいたま市ですね。

T:そこで育ったんですか?

N:幼稚園までは大宮に行ってました。

T:小学校からは?

N:隣が小学校だったんで。うち、農家で実家で。

T:えぇ。

N:その隣の小学校に行ってました。

T:その頃は、どういう遊びとかしてたんですか?

N:もう川にザリガニ捕りに行ったり、自然多いとこだったんで。
もうとにかくフナを釣りに行ったり、冬になったら、ちょっと古墳みたいなのがあって、そこにいつも、トタン板持って行って、「ソリーーー!」とか言って。すごい活動的な子供でしたよ。毎日血だらけになって遊ぶ、みたいな。

T:じゃあもうギリギリまで遊んで帰ってくるっていう?

N:でもうち、ちょっと学校の先生だったんで、ちょっとそれなりには厳しくて。

T:あ〜なるほど。 あ、うちもそうだったんですよ。

N:(笑)ヤバいっすよねぇ。あんまりそういう風に、結構学校の先生って体裁があるから制約が厳しいじゃないですか。そうするとやっぱり枠から外れたことをやりたいやりたいって、ず〜っと思ってて、でもなんか大人になってくるにしたがって、どんどんそうなるって、ヤバいですよね(笑)母親の唯一の教育の間違いはそれだろうなって思う(笑)

T:(笑) 兄弟は?

N:妹が1人。

T:一緒に遊んだりしたんですか?

N:いや、しないですねぇ。

T:まったく?

N:まったく。妹と僕は「犬猿の仲」と言われるくらいすごい仲悪かったです。掴み合いケンカとか、別に相談ごととかもしないし。ちっちゃい頃は僕が成績良かったんで、妹がひがんでたみたいなのも、やっぱり当時はあったんですよね。高校ぐらいになると、あいつはちょっとアイドルの追っかけとかやりだして(笑)
結構むちゃくちゃだったですけど。逆に大学に入ったら逆になっちゃって、あいつは真面目になって、今やもう学校の先生やってて2児の母で。えらい真面目です。すごく怒られますね、いつも。

T:(笑)「なにやってんのぉ?」みたいな?

N:そうそう。なんか「フラフラしてんじゃない」みたいな。今だに遊んでると思われてるんで。

T:音楽にふれられたのは、いつぐらいからですか?

N:興味があったのは幼稚園ぐらいから。『帰ってきたヨッパライ』が大好きで。フォーククルーセーダーズの。あれ声がもう。当時はテープの回転で変えてたらしいんですけど、いわゆる音声変えるみたいな、ケロケロ声で「ファッ、ファッ」とかやってて、子供心にやっぱりあれが面白くて、それで聴き出して。ちょうどスパイダーズが解散するぐらいの時で、僕が小学校に入ったぐらい。スパイダーズって曲を覚えやすいじゃないですか。" バンバンババババババババーン♪"(笑) やっぱりそれで当時やっぱり堺正章さんがバラエティーみたいなのに出始めてて「マチャアキが面白い」って思って、堺正章さんのソロのシングルとか、井上順さんのソロのシングルとかを聴いて。グループサウンズ系を。親はそういうのどちらかというと反対派だったんで、家にはなかったんですけど。近所で聴かしてもらって。うちのすぐ裏に住んでる農家のお兄さんが、古井戸の大ファンだったんですよ。

T:ほぉ。

N:で、古井戸を、すごい聴いてましたね。何か「すっげぇかっこいい」と思って。ある時、これはみんな誰も覚えてないんですけど「時間ですよ」のエンディングの時にかかるのが「♪Hey Jude」のインストなんですよね、実は。で「これいい曲だなぁ」って思って小学校の時初恋の女の子にチラッと言ったんですよ。「あれ"時間ですよ"の最後でかかってる曲なんだろうね」って言ったら、「あれビートルズの曲だってお兄ちゃんが言ってたよ」って。お兄ちゃんがビートルズいっぱい持ってるって言ったんで、僕は当時その子に会いに行くのが目的で「あ、じゃあうち行っていい?」って。「へへ。しめしめ」なんて(笑)。したらお兄ちゃんは離れ住まいで(笑)。「なるほど」と思ったんだけど。でも「ビートルズって何だろう」と思って行った時に「ビートルズのアルバム持ってけば」って言われて、「♪Hey Jude」の入ってるあの編集盤のアルバムを借りて。そこからですね。どんどん。あと、うちの親が書道教室をやってて、家で。そこの生徒さんに、今のアミューズの営業部長の小島くんとかが来てて。小島くん僕の歳2つ上なんですけど、小島くんちに、たまたま遊びに行ったら、T-REXの「♪Solid Gold Easy Action」のシングルがあって。「これは何?」って聞いて。「これはかっこいい」と思って。それと「♪モンキーズのテーマ」だったんですよ。その2曲を小島くんちに行くたんびに「ちょっとこないだのあれ聴かして」とか言って聴いてて。小学校の時に小島くんに教えてもらったのも、あと関口さんっていうんだけど、僕の好きだった人のお兄さんに教わったのもあって。そこからはもう自分でどんどん。「音楽雑誌どうゆうのが出てる?」っていうのを教わったりとかして。その関口さんは、いきなり当時、『ミュージックマガジン』が創刊されて、そんなにたってない時に、もう当時は『ニューミュージックマガジン』ですよね。それとかを見出して。あと僕の同級生で1人中学に入ってすぐにギター始めた奴がいて。そいつのお姉さんがなぜか知らないけどスターダスト・レビューがデビューする前ですけど、「あれれのれ」っていうバンド名だった時に、そのスターダスト・レビューの人ともなぜか繋がってて。「あれれのれ」を見に行ったら、当時「あれれのれ」って凄くて、スティービーワンダーとイエスと両方やるってゆう、凄い訳のわかんないバンドで。とにかく「凄いなぁ」と思って。そこからまたどんどん刺激を受けて。音楽雑誌も、ちょうど僕が中学1年か2年かな?『ロッキンf』が創刊されて、当時ギター講座をCHARさんが書いてたんですよね?そうゆうのとか見ながら「こうゆうもんなんだぁ」っていう感じですかね。あと『ニューミュージックマガジン』を見ながら「そうかぁ。サザンソウルって凄いんだぁ」とか思いながら。当時は「何が凄いんだろう?よくわからない」みたいな(笑)。プログレッシブロックのほうが全然凄いぞ〜みたいな。高校入るぐらいの時は「プログレッシブロックがやりたい」と当時は思ってましたね。

T:最初楽器は何から入ったんですか?

N:ギターですね。

T:割りと早く、覚えてしまった?

N:いや、もう全然。まわりに教えてくれる人もいないんで。その同級生のギターの奴と、2人で見よう見まねで「こうなんじゃねーの?」「あーなんじゃねぇの?」って言いながらやって。当時はキャロルが全盛期だったんで。日本のロックバンドといえば。僕とか、今もそうなんですけど、結構、からまれやすい(笑)気の弱そうなところもあり〜のなんで、当時よく不良にからまれたんですけど、その不良のリーダーが、僕がちょっと「♪ファンキー・モンキー・ベイビー」を教えたので(笑)「♪ファンキー・モンキー・ベイビー」弾けるっていうんで、結構その地元の不良には守ってもらえてですね。俺が財布カツアゲされたっつったら取り返しに。「倍返し」みたいなね(笑)。

T:(笑)音楽が、役にたったと。

N:役にたった(笑)。それで「ギター弾けるといいことあるんだ」と思って(笑)。「自分を守る手段としてのギター」っていうのもありましたねぇ。

T:なるほど。

N:うん。まぁでも、それはあと後付けですけど。あの当時の気持ちが今あれば、今もっとすげぇ上手くなってるなと思うんですけど(笑)。

T:では中学時代は、もうギター三昧で?

N:そうですね。ギターですね。

T:高校入ると、何か変わってくるんですか?

N:高校入ると、僕、プログレッシブロックに非常に興味があったんで。あれってクラッシックが、すごい関わってくるじゃないですか。ピンクフロイドとかはそんな事なかったんですけど、そのイエスとかキング・クリムゾンとかに興味を持つと、クラシカルな楽器が入ってきたりするんで。ストラビンスキーとかかかってたりするじゃないですか。イエスのライブ、1曲目はストラビンスキーみたいな(笑)。そうすると「クラシック出来ないと自分の思ってるロックはできないんじゃないか」と思って、高校に入って、すぐクラッシックギター部に入ったんですよ(笑)。クラシックギター部に入った理由はただ1つ。そのイエスの「♪ムード・フォー・ア・デイ」を弾ける人がいて、そこのクラブに入った。で、やってく内に、クラシックが面白くなってっちゃって高校2年ぐらいの時はバンドを一生懸命やってましたけど、高校3年になったらクラシックばっかりやってましたね。

T:っていうのは?

N:要するに親が「大学受験に関係ない事はするな」みたいになるじゃないですか。学校の先生だから(笑)。そうすると理由が「音大を受ける」じゃないけど、でも今さらピアノ科とか作曲科とかに行ける訳もないので、「学校の音楽の先生になる」っていうと、学校の先生になるって言うだけで、うちの親は「まぁ〜よしとしよう」という事になるので。必然的にそのピアノとか声楽とかを習わなきゃいけなくて、それで混声合唱団に入って。あとピアノも先生に習いだして。そうやってやっていくうちに、どんどん逆にクラッシックの深みにはまって、大学に入ったばかりの頃は、最初はバンドもやってなかったんですよねぇ。最初「芸能山城組」っていう民族音楽をやる集団に入って。だから僕、元祖ワールドミュージック派なんですけど(笑)。昔から別に誰に言われるわけでもなく、自分から好きになって、そういうのを聴いてて。ピーター・ゲイブリエルがジェネシス抜けて、ああゆう風になってから、「おっ、なぁ〜んだ。俺のほうが早いじゃん(笑)」とか思いながら(笑)。結構、大学時代に、レベッカやってた小田原豊とも高校の時からやってたんですけど、大学入ってから、結構本気なバンドをつくって。その最初に作ったバンドは、ひどいバンドだったんですけど、メンツは結構おもしろくて、小田原と俺と、あとボーカルが、今フジテレビのプロデューサーをやってる深瀬っていう、夜のあやしいバラエティ番組とか、スマスマとかもやってるんですけど、あいつがボーカルで。それでバンドやってて、その時に知り合ったのが、今アレンジャーやってる有賀啓雄とか、あの山崎まさよしくんとやってる江川ゲンタとか、あの「♪屁ぇ〜こきましたね」の淡谷三治とか、あの辺みんなあの当時、友達になったんですよ。

T:最初のバンド名は、どんな名前だったんですか?

N:え〜とあ〜れは、ひどいですよぉ。言っていいものなのかどうか(笑)。

T: いや(笑)。教えてほしいですね(笑)。

N:僕が付けたんじゃないんですよ!僕はあとから。ベースを高校の先輩がやっててバイクで事故して、それででもイーストウエストに出なきゃいけないっていうんで「誰か弾ける奴はいないか」ったらその深瀬と小田原が「あいつだったら出来るんじゃないの?」って。僕はその当時、ベースなんか真面目にやったことがなかったのを「ベースやれ」って言われて。高校2年の時に、小田原と1回やる時に、ギターじゃなくてベースやってくれって言われて。僕、人にベース借りてやったのが最初だったんですけど。加入するんで「ベース買わなきゃ」ってなって、初めてちゃんと自分のベースを買いました。

T:で。バンド名のほうは?

N:ムフフフフ(笑)。言わなきゃダメ?(笑)それ僕が付けたんじゃないですよ。

T:えぇ(笑)。

N:そのフジテレビの深瀬が。「これは言っていいな」(笑)付けてて、
『※猫印牛乳ビンテージ』っていう訳のわかんないバンドで(照笑)。

T:はっはっは!それは結構続いてたんですか?

N:いや。そのイーストウエスト出ただけで。その後、活動停止、みたいな(笑)

T:(笑)。

N:その後、僕は小田原と大学のやつらと一緒に違うバンドを作って。

T:そのバンドは何という名前なんですか?

N:最初は、当時、他にも2つぐらい同じ名前のバンドがあって『The KIDS』ってバンドが2つくらい。

T:『The KIDS』?

N:それを大学の同級生の奴がこの名前にしたいって言って。「でも他にあるよ」って言ったけど、「いや俺達のほうが正しい」とか言って(笑)。で、そのバンドでやっててボーカルの奴が抜けて『POW!』っていうバンドになって、3人組でちょっとMODSみたいなのをやってて。ギターの奴はオリジナルコレクターズのメンバーだったりとかするんですけど。僕と小田原は、その後プロになっちゃって、そのバンドはDr.StrangeLoveを始めるくらいまでやってたんですけどね。

T:なるほど。

N:何かその頃はだいぶみんなの目的がバラバラになって。俺はちょうどよく
長田(進)とシータカ(古田たかし)さんと知り合って、で、新しいバンド作ろうと思ってそっち始めたっていう。で、Dr.StrangeLoveになった、っていう。すごい前の話なんですけどね。

T:いつ頃なんですか?Dr.StrangeLoveになったっていうのは。

N:僕がだからサザンオールスターズ始めるちょい前ですからねぇ。
岡村靖幸くんをやってる頃ですから。何年になんでしょう?

T:80年の後半くらいですねぇ。

N:岡村靖幸くんの"DATE TOUR"のギターが長田で、その時に長田に「バンドやろうよ」って言ったのが最初なんで。で、その時に違うところからバンドに誘われて、そのドラムがシータカさんだったんですよ。

T:あ〜、なるほど。

N:それでシータカさんに「いいギター見つけたんだけど、長田っていう」っつったら「あ〜、ハートランドで一緒だよ」って。「え〜!話し早いじゃん」って、安易にシータカさんと飲んだ勢いでバンドが結成されたっていう。

T:なるほど。あの、ちょっと前に戻るんですけども、プロになるキッカケっていうのは?

N:小田原とやってたそのバンドで、まだ「The KIDS」の名前だった頃かな?
それをやってた時に、彼が当時のユイ音楽工房に知り合いがいて。あるバンドのマネージャーだったんだけど、その人が来て「仕事をやらないか」と言われて「ちょっと紹介したい人がいる」って、当時の太田裕美ちゃんのバンドのバンマス。今ヒップランドってう事務所にいる成沢彰三さんっていう人が昔はドラマーで、今でも彼のドラム大好きで「またやんねーかな」とか思ってるんですけど。もうやるわけないんですけど(笑)その彼があの当時、デビューしてたんですよ。そのバンドが解散して、また自分は「セッションミュージシャンに戻る」と。で、「太田裕美ちゃんのツアーやるから、ベースは若い奴に変えたいからお前やれ」って。それが最初。

T:それで、どういう風に流れていくんですか?

N:いろいろ有りすぎてうまく言えないんですけど(笑)。当時どうやって知り合ったのか覚えてないんですけど。ユイ音楽工房の流れかな?で、伊藤さやかをやれって言われて。伊藤さやかをやってる時にまた知り合った当時スキンっていう元祖パンクバンド、テレビのオーディション番組から出てきたパンクバンドがあって、ギターの奴とドラムの奴とも何かやりながら、その当時「POW!」になった時にデモテープがナベプロに行ったんですよね。当時ナベプロにいたディレクター、渡辺音楽出版かな?その人から「作曲家やれ」って言われて。その時に書いたたまたまの曲が「結構いいから新人のデビュー曲にする」とか言って。その曲は最終的にプレゼンで落ちて。で、当時織田哲郎さんがちょうど「♪シーズン・イン・ザ・サン」でヒットを出してて、織田哲郎さんと「もう1人作曲家が欲しい」って、その彼に「もっと新しい曲書け」って言われて、「まぁ人の為の曲なんかわかんないけど書いてみる」って、「自分のバンドっぽくないな」と思いつつ、書いた曲がその新人のデビュー曲になって、それからあの当時は、アイドル歌手とかアニメの作家みたいなのをやってましたねぇ。当時からポニーキャニオンとかにも出入りしてたし、おニャン子関係の曲とか書いてたんですよ(笑)。

T:その頃は、バンドよりも作家っていう感じですか?

N:いや、バンドもちゃんとやってましたよ。ずっと。やっぱりバンドがあって、じゃないと、どうも何かこう仕事になると、やっぱり何か自分でも違うなぁって思うし。バンドっていうか、自分の活動をやってないと仕事に反映されないってゆうか。今もそのバンドをやる度合いが上がると、どんどん収入が減っていくっていう(笑)まぁ、当たり前と言えば当たり前な。自分のバンドで、ほんとはこう成功したいっていうのがずっと夢だった。「だった」っていうか今も夢なんですけど(笑)どうして自分のバンドでは食えないのかなぁ。そんなに難しいことやってる訳じゃないんですけどね(笑)。

T:途中「POW!」が、活動が中止になったりっていう時がありましたよね?
で、また復活とか。その頃の活動っていうのは?

N:そうですねぇ。20代の半ばぐらいから岡村(靖幸)くんがやっぱり中心でしたねぇ。岡村くんがとにかく厳しいので(笑)岡村くんの所で当時は色々な事を思ったりもしましたが、今思うと、すごいいい経験をしてたなぁと思って。彼の無理難題をクリアしてて。だから彼のおかげで、長田とも知り合ったわけだし、あと今回参加してくれてる山本拓夫もそこで知り合ってるし、今思えば自分には。当時は「なんか辛ぇ〜なぁ」って思うことが多かったですけど、今思えば、あの当時の頑張りが、今だいぶ助かってるっていうか。今岡村くんに「ありがとう!」っていうところもあるんですけど。

T:あとサザンオールスターズとの活動を話していただけますか?

N:それは、たまたまなんですけど。当時まだ小林武史さんとは知り合いではなくて、そのコバヤンがちょうど桑田(佳祐)さんのKUWATA BANDじゃないほうのソロを作ったあとで「稲村ジェーン」のサントラをコバヤンと一緒に作ることになって。サザンのメンバーには、あまりこだわらずにって事になってたみたいで。で、ある1曲「♪東京サリーちゃん」って曲だったんですけど、それを小田原豊でやろうと決めてたみたいで。「ベースどうする?」って話になって「レベッカのベースじゃちょっと違うかもね」って。で、「まぁサザンには予算もあるし、ダメならまた他の人でやればいいや」みたいな事だったんで(笑)小田原のやってるもう一つのバンドの方のベースの方がビートルズ、要するにブリティッシュビートっぽい事をやってるらしいから「そっちのベースのほうが曲に合うかも」っていう単なるコバヤンの思いつきで僕は呼ばれて。行った時に何かすごい桑田さんが気に入ってくれたみたいで。それでそのレコーディングやってる時に「今度うちの嫁(原由子さん)のも手伝ってくれ」って言われて、原坊の当時『Mother』っていうアルバムを作ってて、それに何曲か参加してる時に、「実は原坊がライブやるから、それのベースをコバヤンと一緒にやってくれ」って言って。原坊のライブのリハをやってる時に、今度は「あの〜、俺バンドやってんだけど〜」って桑田さんが(笑)「知ってる?」って言われて「サザンは知ってますけど」って。「そのサザンなんだけどちょっとベースがお休みするって言ってんだけど、こっちとしては休みたくないんで、お前手伝ってくれ」って言われて。で、やり出したという感じです。

T:実際にライブをやってどうでしたか?

N:いやぁ、緊張しましたよ、やっぱり(笑)。いきなりスタジアムで何万人ですよね。武道館は経験あったんですけど、スタジアムでワンマンなんて経験ないじゃないですか。俺よりもお客さんの方がサザンの事を良く知ってる訳で。お客さんの勢いとかにやられましたね。でも当時はああゆうので、みんなでワーーッてやるのとか憧れてはいたので、最初はすごい嬉しかったですよね。やっぱり日本のトップミュージシャン達とやれるっていうのも大きかったし。

T:それと同時期に「SENCE OF WONDER」の活動がありましたよね。

N:はい。SENCE OF WONDERは、岡村くんをやってる時に始めたんじゃないかな?それはたまたま、難波(弘之)さんとは僕がアレンジちょこちょこやり出した時に、難波さんにキーボードを頼んでて、実はそのスタジオでプログレ好きだって話しで、「そうなんだ」みたいなことになって。レベッカのギターの是永(巧一)とも難波さん繋がってて、是永も「ベースは根岸がいいよ」って言ったらしくて。オーディションやるっていうから「オーディションなんかじゃ僕は受からないから、そんなものやるんだったら僕はいいです」って言って。「まぁとりあえず遊びにおいでよ」って言われて遊びに行ったら、もう譜面が用意されてて、「チクショー騙された」と思ったんですけど(笑)。だからまぁ、僕より上手い人はいっぱいいたと思うんですけど。多分、歌も多少できるし、多分、当時一番若かったと思うんですよ。「一番おもしろそうだ」って事で、やり出したんだと思うんですが

T:具体的に参加してみてどうでしたか?

N:あ〜。「難しいな」って思いましたね(笑)。あの時期はいっぱい練習してましたね。あとサザンも入ったばっかで曲いっぱいやらなきゃいけないし。もういきなり34曲とか渡されちゃいますからね。「え゛ぇ!?」みたいな(笑)。目が点でしたね。あの当時が一番ベース弾いてたんじゃないですかね。練習するとかに関わらず「もうやらなきゃ追いつかない」みたいな感じでしたからね。今みたいに何とかなるだろう、みたいな考え方なんかなくてですね、ほんとに練習してましたよ。今あのぐらいやればっていうかやらなきゃダメですね。練習します。はい、すいません。

T:もちろんその頃はすでに「もう楽器はベースだ」っていう感じだったんですか?

N:やっぱり最初にベースでお金をもらうようになってからは、もうやっぱり「ベーシストだ」っていう。ずっと20代入ってからはずっと。10代の時はそんな事、考えもしなかったですけど(笑)。何か、スーッと運良くプロになって、運良くここまで来てるっていう感じですかねぇ。

T:曲を作る時はピアノですか?ギターですか?

:やっぱりピアノが一番好きですね。ピアノの響きが大好きなんで。ただピアノで曲を書くっていうよりは、楽器に座って、楽器をいじって曲ができるっていうタイプではなく「イメージをもって楽器に向かった時に曲ができる」ってうか、先に大体メロディーがもう浮かんでるんですよ。「こういうの」とか「こういう世界観」みたいなのがあって。それがない状態で楽器に向かっても何もできないですよね。それがあって楽器に向かえば、割と順調にできますけど。うん。だから作曲家とかやってる時は、ほとんど楽器なしですね。当時は携帯とかもないので、家の留守番電話に電話して、するとお袋が出たりすると「出るな〜忘れちゃうじゃないか〜」とか言って(笑)。家の留守電に「♪フフフーン」とか言って、あとで家に帰って聞くと、「あれ?これ全然わかんねーや」みたいな。でも大体、当時は電車だったんで、電車の中で、ずーっとそのメロディーを一日中、口ずさんで酔っぱらって帰ってもそれからデモテープ作りとかしてましたね。

T:譜面には?

N:いやぁ、昔から譜面書いてると忘れちゃうんで。譜面は、いまだに苦手ですね。

T:じゃもう即、音楽にしていくっていう感じで?

N:そうですね。譜面なんか見てたら忘れちゃうみたいな。でもプロになってからは簡単な譜面は書いとかないと忘れるっていうのもあるんですけどね。うん。でも忘れるようなものは「たいしたものではない」っていうのが俺の信条なんで。はい。

T:Coccoさんのプロデュースなどをされていましたよね。

N:はい。

T:Coccoさんとのコラボレーションっていうか、プロデュースを?

N:もともとビクターのディレクターの寺田が20代に入ってからの友達で、彼とは知り合いが長かったくせに知り合って10何年、ほとんどまともに一緒に仕事をしたことがなく。年に何度かは必ず会って、飲んだり帰り遊びに行ったりとかして、「なんか一緒にできたらね」ってず〜っと言ってたんだけど。まぁ、あんまりそういうのもなく。たまたまビクターが沖縄でちっちゃいオーディションみたいなのをやった時に。Coccoは別に何の賞も取ってないんだけど、その当時宣伝やってたセンタくんっていうのが、Coccoに興味を持って「ちょっと東京に呼ぶわ」って。呼んで寺田も会った時に、「この子はちょっと何かしだかすかも知れん」と思ったみたいで。でも当時、詞も曲も書いてなくて。寺田が「君は何かあるんだったら詞を書いてみて」って言って。そしたら1ヶ月くらいで、すごい分厚いやつにいっぱい詞を書いてきて。それで寺田が慌てて電話してきて「ねぎ坊、凄いよ!ひょっとしたら化けるかもしれない」って。でも僕は当時、全然有名ではないので、とりあえずちょっとでも名のある人で、寺田としてはやりたかったみたいで、そういう何人かの人たちとコラポレートはやらせつつも、どうもうまく先が見えないという事になって。柴草玲ちゃんの曲付けて。ご存知のように売れた曲はいっぱいあるわけで。何か凄いいい感じなのに何かが足りないって事になってて、僕がたまたまちっちゃいマンションのプリプロスタジオみたいなところに行って「ここをこうすればいいんじゃないの?」って軽く言った話が、Coccoには凄い何か効いたみたいで。そのまんまデビューアルバムの1曲目に入ってる「♪首」って曲のセッションやったんだけど。Coccoが「こないだのネギって人もう1回呼んで」みたいになって。ところが、もう「インディーズでやる」っていうのが決まってて、SCUDELIA ELECTROの石田(小吉)がやる事になってて。彼が「SPIRAL LIFE」やってる時に、僕がベースやってたんで。その流れで僕がベースを弾くって事になって。したらCoccoに「なんでネギはベース弾いてるだけなの?」って(笑)。「いや、だって俺はそういう風に呼ばれて来てるから」って(笑)。で、寺田に「何で全部ネギにやらせないの?」って事になって。そのインディーズ、TOWER RECORDSのbounceで出したやつの後に「本チャンをやろう」という時に、Coccoの希望で僕になったていう。感じですね。


T:Coccoさんから出てきたものを、全部根岸さんが拾い上げていくっていう感じですか?

N:んー、そうですね。曲はもう彼女。世界観も彼女が持ってて、それをどうするか。彼女がどうしていいかわからないから。だから、よく言うんですけど、僕は「通訳」彼女の。音楽やる時の、僕は通訳なんで。

T:その辺りって、やっぱりnanacoさんに似てますよね?

N:やっぱ似てますね。

T:そういう感じですよね。

N:うん。

T:で、それをキッカケにずっと関わっていく感じですか?

N:そうですね。

T:最初、DSLはインディーズからでしたよね?

N:はい。最初、もともとはその前にインディーズのカセットを出してたんですけどね。知り合いのエンジニアが伊豆にスタジオがあって超安い値段でやれるっていうんで、みんなで泊まり込んで。突貫工事のようにバァ〜ッと作って(笑)。それはそれで良かったんですけどね。

T:カセットの後、インディーズがあって。そしてメジャーで、アルバム
『Dr.StrangeLove』を。

N:当時は完全に1曲1曲分業制でしたね。自分がやりたい曲を作って持ってきて、みんなで軽くやってみてうまくいきそうな曲をそのままアルバムとして詰めていくっていう。この他にも何曲もあったんですけどね。

T:世界観みたいなものは、最初から何となくあったんですか?

N:当時は『WayOut』から『Dr.StrangeLove』に入るぐらいまでは、もともと結成した時の感じが、XTCとか、ああいうひねったポップなロックをやろうみたいな所から入って、『WayOut』は割とそんな感じだと思うんですけど。僕はその、NirvanaやPearl Jamのせいでポップというよりはだんだんこう。ライブの時はまだXTCとかJellyfishとか、あのへんの感じの気持ちだったんですけど、『WayOut』録るぐらいの時からかな?どんどん新しいムーブメントの刺激を受けてて、もっと何か内証的なものから、外にどうやって出していくかみたいな事に、非常に興味があって。でもだからと言って、KURT COBAINみたいな自殺行為をしながら音楽をやるっていうのは、もはやできないっていうのもあって。その時に、どんどんザラザラしてる、当時のアメリカのインディーズみたいなものに、僕はどんどん刺激を受けてって。『Dr.StrangeLove』もそれっぽい感じに大分なって来てるとは思うんですけどね。何か上手く言えない。今も上手く言えないですけど、当時は「ザラザラした感じにならないかな」みたいな話をしてて、レコーディングでもそういうニュアンスの方に、俺と長田はどんどん向かっていっちゃって、シータカさんはちょっとテンションがずれ始めてきたなって。今思えばね。彼はもっと、そういう事はどうでもよくて、みたいな部分もあって。やっぱり彼独特の世界観と、ちょっと俺と長田の世界観みたいなものが少しずつ。まぁ、今はね。今思えば『Dr.StrangeLove』を作ってる時に「少しずつ出てきてたのかな?」とか思ったりもしますね。うん。やっぱりシータカさん中心の曲と他の曲は、今聴くと結構違うなって思うし。それはそれでシータカさんの曲は面白くて、僕は良かったんですけどね。長田も当時、いいと思ってやってたと思うんで。最終的に全然円満な脱退で。円満だったから奥田民生もずっと一緒な訳だし(笑)。プレーヤーとしてでもミュージシャンとしてでも、非常に僕も彼を尊敬しているので。ことあるごとに一緒にやってるので。

T:映画のサントラ1枚やってますよね?『鮫肌男と桃尻女』。

N:あれはねぇ「出来るのかな?」っていうくらい時間がなくてですね。

T:その時、映画の音楽は初めて?


N:長田と2人でやるのは初めてで、2人で「どうすりゃいいんだ」と。「自分で曲とか書かなきゃいけないのかな」って思ってたけど、この『鮫肌男と桃尻女』の音楽の話を持ってきてくれたミスターミュージックの渡辺っていう大学の同級生がいるんですよ。で、僕は当時、GRAPEVINEのアルバムを作ってた時かな?時間がなくて「1週間しか空かないんだけど」って。「じゃあその1週間で作っちゃおうよ」ってなって。だから「即興演奏でいいんじゃない?」って渡辺も言ってくれて、スタジオにスクリーンに絵を出しながら。それシータカさんが抜けた後だったから、僕がドラムをやって長田がギターをやって、絵を見ながら「せーのっ!」の即興演奏して。その後に長田がギターダビングって言ったら俺がそこでベースやって。そうやってライブ形式でどんどん重ねていうっていう、基本の曲は。後は僕1人演奏もいっぱいありますけど。大体キーボードが入ってるのとか打ち込みになっているのは僕で。詞を書くのが非常に苦手なんで、音だけだと凄い早いんですけど、僕(笑)。長田があの性格なんで、ちょっとゆっくりめに来るときがあって(笑)。そういう時は勝手に「このシーンの音付けちゃえ」っつって「ジャーッ」とやっちゃってたりとか。割とそんな感じで。

T:その年に、アルバム『Twin Suns』を。これはどういうアルバムに?

N:はい。『Twin Suns』は長田と俺が、漠然となんですけどね。ちょうどバブルの後の音楽業界の景気がいい時期で、何かこう、まろやかな音楽をやっててもしょうがないと。「何かザラザラした手触りのまんまのアルバムを作れないものか」っていう話をしてて。それでどうなんでしょうね?当時はまだ景気が良かったんで、デモもスタジオで録らしてくれたりしたんで、最初は今回とは逆で、長田がまったく、こう最初のうちはペンがにぶってましてですね(笑)。僕がどんどん先に作るっていう感じでしたね。最初に「♪Love on the Air」のデモデモを、僕が勝手にスタジオに入って1人で演奏して作って、そのデモのドラムとギターとベース。ベースは変えたかなぁ?そのまんまなんですけど(笑)すごいヘタクソなドラムで(笑)。うまくTchad Blakeがごまかしてくれてるからいいんですけど。当時俺も長田もTchad Blakeの作品が大好きで。冗談で「チャドにデモでも送ってみるか」って送ったら「やるよ」って返事が来て。「え゛ぇー?! 」みたいな。「やべぇ〜真面目に作ろう」みたいな(笑)。それで長田がようやく、こう燃えてくれてですね。最初のうちは、「もう長田いいから早く帰ってくれ」みたいな感じだったんですけどね(笑)。

T:全曲、その時に作り始めたっていう感じですか?

N:そうですね。それまでの曲は、全部一度オミットして、新しいものを全部やろうって事になって。当時、だからあのライブだけでやってた曲とかもなしにして「もう全部新しく作る」って言って。シータカさんも抜けたから、いわゆる2人だけでやり出そうっていうのがきっかけで。ドラムも全曲自分でできる訳もなく、昔のよしみに「小田原やってよ」みたいな感じで。

T:出来は?

N:いや、もう作った時は「も〜すげぇもん作っちゃったなぁ」とか(笑)。今聴くとね、色々ありますけど(笑)。当時は。そりゃそうですよ。『Dr.StrangeLove』出したときもそうですよ。「どうだコノヤロー!」くらいのつもりで作ってますよ、もちろん。今聴くとね「あそこをこうすれば」っていうよりも「ん〜、もっと全体的に」っていうのはありますけど。でもよく出来てると思うし。もうちょっと話題になっても良かったんじゃないの?と思う点はいっぱいありますけどね。難しいんですかね?結構、簡単な事しかやってないんですけどねぇ。やっぱりミュージシャンとしては、まだまだたいしたことない、っていう事で(笑)。

T:で、4年ですかね?今、待望のニューアルバムのレコーディング中ですね。

N:約4年ですねぇ。レコーディングした時期からいくと。4年ぶりのレコーディングですね。やっぱりお互いが仕事で忙しくて、「やろうよやろうよ」といいつつも、何かこうやっぱりお互いの仕事の方にいっちゃったり。お互いが、もやもや何かを持っていたとは思うんですけど。で、無理矢理ライブとかをやっても、腰が重くなっちゃってる部分もありで、スタジオ入っても「イェーイ!」っていう瞬間が少なくて。で「ど〜なっちゃうんだろうなぁ」と思いつつも「やっぱりやりたいな」っていうのもあって。何かこう尻はたかれないと出来ない所もあって。結果的には事務所サイドが動いてくれて、インディーズでもリリース出来るっていうあてができたっていう所で、ようやく俺も長田も本気になったっていうのが素直な話ではありますよね。今回に限っては。で、そうなった時に、特に僕はCoccoでだいぶ自分の身を削ったんで「さてどうしよう」っていうのがありましたよね。曲、出来なくて。こんなに曲、出来ないって事は僕、今までなくて。「できね〜」って感じでしたよ。今回の名義はどこまでどうするかわかんないですけど、今回はほとんど長田中心の曲が多いです(笑)。正直に言いますが。僕も曲は書いてたんですよ。最初に長田が今回用に書いてきた曲がすごく良くてですね。最初の2曲が。逆に僕あせちゃってですね、でも今自分の中に何もないっていう感じだったんですよ。ほんとに。何をやってもCoccoのアルバムを作るようになってしまう自分がすごく辛くて。俺はもうだから、Coccoなり誰なりああいう歌手がいないと何も作れないのか?っていう所で非常に悩んじゃって。そこでちょっと「トレーニングだ」とか言って(笑)健全な肉体に健全な精神は宿るという逆説の方向から向かおうと思って、スポーツをやり出したら、今度は疲れて具合悪くなっちゃってですね。何年も運動してない俺には非常に無理があった話で。逆に筆がにぶったというか。でもその間、長田がいい感じに尻をはたいてくれて、重い奴だったんですけど、今回に限って曲とかに関しては先導をきってくれて、非常に助かったなぁと思ってて。だから僕、最初のうちは曲書いてたんですけど、結局収録されることになったのは、もう一番最後に書いた2曲ですよね。ほんとに一番最後に書いたやつ。やっぱり、何をやるべきかっていうので焦ったり、長田に合わせたり、みたいな曲も書いたりしてて、でもやっぱりどれも。長田は、とにかく俺が「自分が納得するものをちゃんと作れよ、その曲だったらやる」っていう感じだったんで。俺が納得してなかったんですね。結局、自然に出てきた2曲ですよね。無理しないで出来た曲。「曲書かなきゃ」っていうのはずっとありましたけど。たまたま今月デビューするJackson vibeっていうバンドのレコーディングで、河口湖スタジオ行って。最初のうちは「何か作らなきゃ」とか思いつつも浮かばないからメンバーと一緒に酒飲んで「ワァーー!」とかやってたんですけど、「あ〜もう日にちないなぁ。ダメかなぁ」 と思ったときに、ふと、ん?って思って、ピアノに向かいだしたら、そのまんま「これいいんじゃないのかなぁ」みたいな感じで、その時に曲が出来て。帰ってきた時に長田に聴かせたら「あ〜いいじゃん」って。軽く長田はあの口調で「あ〜いいんじゃない」みたいな(笑)「やろうよ」みたいになって。まぁ長田も納得したかどうかは別にしても、まぁ今の曲やらなきゃぐらいの(笑)つもりだったとは思うんですけどね。それでレコーディングはそれで始まりで。やっていきながら「もう1曲、曲書けば?」とか言われつつも、「いやぁ〜出来ないものは出来ないからな」とか言いながら。あの、macを買ったんですね。これで"プロトゥールス"というのはどんなもんじゃと。何とかなるのかな?みたいな(笑)。そこでドラムをサンプリングして、切って、貼って、って練習してるうちに、せっかく貼ったんだから何か曲になんねぇかなぁ、みたいな。でも簡単に曲になんかなるわけもなく。まぁ、たまたまですね。何か降りてきてくれた(作曲の神様?)時があって、で、それの時に、そのドラムループの中で、何か合うのねぇかな?とか思ってたら、「あ!これは新しいかもしれない」と思って、結構ニューオリンズのドラマーのリズムパターンにちょっと僕の昔からの王道な作風ではあるんですが、ちょっとブリットポップっぽいメロディーだとは思うんですけど。「こういうビートにこういう曲が乗るなんて誰も想像しねえだろ」っていう発想の所でやってみて、それも勢いで作っちゃったんで、取りあえず長田に聴かしてみようと思って、聴かしたら「こないだの曲よりこっちの方が好きかも。これやろうよ」って。「でも時間ないからなぁ」って、結構リズム録りの最後の方だったんで。でも「いや、やろうよやろうよ」って長田に言われて、かろうじて純然たる作曲、、100%僕が曲を書いたというのはその2曲だけなんですよね。後は一緒に書いてるのも何曲かあって、でも「長田が先導してくれなかったらどうなってた事やら」っていうのはあるんですけどね。

T:そのニューアルバムの話については、また今後、あらためてゆっくり聞かせてもらうと言う事で。

N:はい(笑)。とりあえず長田と口裏合わしとかないといけない(笑)。

T:ええ(笑)。

N:二人で違うこと言ってるとまずい(笑)。

-end-

根岸孝旨さんのインフォメーションは
「オフィシャルHP」→http://www.cool-net.co.jp/dsl/
また、アンオフィシャルサイトHP
「Dr.StrangeLove net」→http://dr-strangelove.under.jp/

【Discography】


「POW!」



POW!
1988.08.06/BOX RECORDS/BOX-17



幻のスーパーマン
1989/FILE RECORDS/YGHS-20



「D.S.L」




DR.STRANGE LOVE
1994年/ 自主制作6曲入りデモテープー

WayOut
1995.12.10/SF-001

江戸屋百歌撰 1995
1995.01.21/EDCR-30004



青春のキャンドル
石川よしひろwith Dr.StrangeLove
1995.02.02/PIDL-1141

Eyes in the Sky
1996/SF-002


BORDER
tribute to MOTOHARU SAND
1996.08.31/bounce0023



手のひらの中のFreedom
1997.05.02/PCCA-01106



Dr.StrangeLove
1997.06.04 /PCCA-01108


Escape
1997.11.19/PCCA-01156

鮫肌男と桃尻女(O.S.T)
1999.01.28/MOSCD-005

Twin Suns
1999.08.18/PCCA-01363



「other」



BANBITA
川村かおり/FHCF-2309/
1996.09.21/ファンハウス


クムイウタ
Cocco/VICL-60205/
1998.05.13/スピードスター



青い空
くるり /VICL-35075/
1999.08.25/スピードスター

ベスト+裏ベスト+ 未発表曲集
Cocco/VICL-60770/
2001.09.05/スピードスター

another sky
GRAPEVINE/PCCA-01789/
2002.11.20/ポニーキャニオン

恋する眼鏡
つじあやの/VICL-61041/
2002.12.11/スピードスター

月天心
一青窈 /COCP-32024/
2002.12.18/パッション

ストリッパー
siren/BVCS-25001/
2002.12.18/アリスタ

遠幻郷
白鳥マイカ/PCCA-01917/
2003.07.16/ポニーキャニオン

ためいき
Cheri/TOCT-4542/
2003.08.06/東芝EMI


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