東 雄一朗 / Flight Of Idea


ポエトリー・リーディング・バンド「フライト・オブ・イディア(Flight Of Idea)」の、東雄一朗氏のインタビューと、最新メッセージ映像をお届けします。


(2003年10月6日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)







東 雄一朗(Flight Of Idea)


 98年より、音楽・詩・映像・アートなどを絡めたミクスチャー・スタイルのイヴェントを発信してきた日本初のポエトリー・プロジェクト『TRAVELIN’WORD』を主宰してきたバンドの中心人物の詩人・東雄一朗。東氏は、NYポエトリーの聖地‘ニューヨリカン・ポエッツ・カフェ’のOPEN SLAM NIGHTで3位入賞の実績や友部正人プロデュースのオムニバスCD『Live! no media2002』(MIDI)にも参加している。また、SHIBUYA-FM『EVERYBODY KNOWS?』のDJや音楽コラムニストとしても活動。

ポエトリーっていうのは肉体一つあれば、誰でも始める事が出来るし恥ずかしい行為でも何でもなく、誰でもやれるんだよって、そういう手軽さというかね、アマチュアリズムに解放したような雰囲気の良さは確かにあったんだけれども、それが黎明期だと考えて、ある程度時間が経っている訳だから、これから出る人は自分の好き勝手、例えば半径1m位だけに届くような言葉を言っても、そこから先に広がんないんじゃないかなと思って。個人から発していてもそこからグローバルな風景ができれば作れる様にしていきたいなと。



TERA(以下T):まずは生まれた年と場所から教えて下さい。

東 雄一朗(以下A):1969年の8月29日。生まれた場所というのは品川の戸越で。ずっと育ったのは鎌倉の大船という所です。

T:小さい頃はどんな感じの少年だったんですか?

A:まあ我は強かったよ。ずーっと我は強いって感じで。今考えるとちょっと変わった、ルールを守りながらも変わった子供だったと思うんですけど。権力というか何か大きいものに対して「違う」と思ったら聞かないというかね。よくいえば「正義感が強い」みたいな事で。例えば、近所で小学生が野球チームみたいなのじゃなくて、一年生から六年生まで近所の公園で集まって野球するでしょ。あーいう時でも何か納得いかないわけですよ、その上下関係みたいなものが。それで小学二年の時にまわりのクラスの友だち集めて高学年の人たちに試合を申し込んでね、二年生だけで(笑)今考えたら8才ぐらいの子供でそんなんするのはおかしいなと思うんですけど、やってボロ負けするわけなんですけど。そういうのが結構あって、反骨精神なんですよ。メジャーな流れのものに対して「違う」と思ったらダメでも行っちゃうみたいな。別に殴り合うケンカとかそういうのは全然好きじゃないし、やらないんですけど。

T:割と「少数派」?

A:そうですね。それが今でも全然つながってますね(笑)。少数派な所がね。

T:小さい時に音楽には触れてたんですか?

A:音楽は一番最初は、長渕(剛)とかね1980年ぐらいとか聞いててだからあんまりアグレッシブでマッチョになる前の長渕とか聞いてて。

T:フォークっぽい頃?

A:うん、フォークっぽいの聞いてて「あーいいな」って思って、特に詩がいいなって思って。その後は普通にMTV世代っていうか1982年ぐらいから洋楽のポヒュラーなものを聞いたりして。ちゃんとロック的なものとかに触れるようになるのは1985年ぐらい。

T:ちょうどMTV世代って映像と音楽が同列であった感じですよね。

A:そうですね。うん。

T:個人的に特に好きだったアーティストは?

A:そうですね。一番最初、すべての原点になるのは佐野(元春)さんもそうなんですけど、エコーズだったりね。あの辺で何か「普通のラブソングとかを歌う内容じゃなくても歌のテーマにしていいんだな」みたいな風に思ってそこから遡って、その彼らを作り上げた所に何があったかという所で『ビートジェネレーション』みたいなのがあるっていうので、「何かよくは分からないんだけど調べてみよう」と思って。一番最初はね『ビート』って辞書引いても載ってないわけですよ。まぁ今みたいにインターネットもないから情報がない。例えば『アレン・ギンズバーグ』と『ジャック・ケルアック』という人の事ぐらいしか情報がなくて、「ビートジェネレーションって何ですか?」って現代国語の先生に聞いたりして。そしたらちゃんと広辞苑で調べてきてくれて、そこに『うちひしがれた世界』って書いてあって(笑)「1950、60年代のアメリカのヒッピー以前の世代で、ジャズとか麻薬に耽ったりする人達から生まれたカルチャー・ムーブメントの事を言う」って確か書いてあったと思うんだけど、でもよく分からなかった。で、ある時、父親が東京に仕事で行った時に『アレン・ギンスバーグ』の詩集と、ケルアックの『路上』を買ってきてって頼んだんですよ。『路上』は正直言ってあまり読んでないんですけど、ギンズバーグの詩とかは難しいながらもすごい一生懸命読んで、「何かおかしいな」みたいな。剥き出しにSEXの事だとか麻薬の事とか、そういう日常生活で語られなくても現実の問題としてあるような事を、ちゃんとありのままに語ってもいいんだなっていうところで、すごい衝撃を受けたっていうのはありましたね。

T:それは高校時代?

A:そう。高校の時だから、周りにそんな人もいないしね。

T:聴くのはどんな音楽だったんですか?

A:聴くのはサイケデリックな音楽が好きだった。っていってもそんなに情報はなかったし、レコードもそんなに買えないし、貸レコード屋あるくらいで。あとはラジオをたくさん聞いてエアーチェック、みたいなとこですね。ドアーズは好きでしたね、うん。ドアーズもよくよく調べると、ギンズバーグだったりその辺と脈々とつながってみたいなとこがあるよね。

T:高校時代はバンドを組んでたりしたんですか?

A:高校の時はエコーズのコピーバンドみたいなのを高校2、3年頃から20才ぐらいまで2、3年かな?やってて。まぁそれ(エコーズ)も僕の中ではすごいメジャーだったけど少数派な訳ですよ。まわりは『ラウドネス』かよくて『RC(サクセション)』とかで、大体が『ボウイ』、あと『レベッカ』。コピーバンドなんだけど誰も知らないから「オリジナル?」みたいに言われる事もあったぐらいで。バンドも続けていきたいなと思ったけど浪人しちゃったから、そこで一旦辞めて、それで1988年かな?ギンズバーグが一度だけライブをやった時があるじゃないですか。

T:僕も、観に行きましたよ。白石かずこさんとかみんな出られてましたよね。

A:そうそうそう。それを観に行ってそれから最初のアルバムが出るまで構想15年ぐらいですね(笑)。

T:なるほど。

A:歌とかももちろん好きですけど、ロックっていうかそれなりのメロディーがあるのも。でも歌以上に歌ってる感じがあったんですね、その時。で、詩だけは、暗くっていうか誰にも見せずに書いてて、まあいつかそういう形態をやってみたいなって思っていたんですよね。

T:具体的にギンズバーグのライブを観た後、自分でライブパフォーマンスをやってみたいとかは思わなかった?

A:それは無かったですね。それはね、2年浪人をしてしまった閉塞感があって(笑)当時、最初にやってたバンドの友達とかはみんな大学受かったりなんだりでもうバラバラになってそれで大学に入ったのは20才で、そこですぐスタッフ側というか裏方の方にまわったから、ちゃんとこういうポエトリーの事をやるようになるまで時間かかってるんですよ。20才ぐらいからラジオのDJを、まず学生で始めさせてもらって。『CRJ』っていう日本のカレッジチャートの団体の活動に大学入ってすぐ入っちゃったから、自分がやるよりかは、やる人たちのあまり知られていないものを押し上げるみたいな役割になっていっちゃったんですよね。

T:それは媒体的なものというか、伝える側に?

A:そうですね。

T:じゃあ在学中はその後DJとカレッジチャートの活動だったんですか?

A:そうですね。フリーペーパーを作ったり、イベントをやったりとかそういう感じで過ごしてましたね。

T:卒業後の就職は?

A:それでその延長としてレコード会社っていう発想ぐらいしかなくて、それで何とかもぐり込んで。みたいなとこですね。

T:具体的に、レコード会社に入ってどういう事をされてたんですか?

A:まあプロモーターですよね。最初、コロムビアの時は『イエローモンキー』とか『ピチカートファイヴ』とか、あとnanacoさんとか。仕事をしていたレーベルはかなり幅広かったんで、メタルの匂いのする『東京ヤンキース』ってバンドをやったりとか、ポップスといわれるようなものをだったり、そういうものを一生懸命やってましたね、あの当時。

T:トライアドでしたっけ?

A:うん、トライアド。超体育会系だったから結構いじめられましたね(笑)。

T:そうなんですか?

A:(笑)そう。それは厳しかったんです。

T:その後の東芝は何年ぐらい?

A:東芝は3年ですよね、それでコロムビアは1年足らずって感じで東芝に移って仕事している間になんか沸々とね。もう、詩を積極的に書かなくなったのが93年頃から東芝に行ってからの95年ぐらいまでほとんど書かなくなったんですよ。まあ今考えたら、たいしたことない事ばかり書いてたんだけど、色んな人の売れるような手助けのような事をしててね、ある時昔のノートとかが出てきて自分はこういう大切な事をやってたんだな、これをこのままにしといていいのかなって思った。そうこうしている時にちょうどnanacoさんがハイパーディスクのレーベルでやるって時にロスに行かせてもらって、そのハイパーディスクが経営しているカフェでポエトリーやってる所を初めてちゃんと観たわけですね。だから向こうのスターバックスとかが日本に入る前のカフェ文化とともにそういう場所があっていろいろやってるみたいな。それを観て「自分もやんなきゃな」とか思いはじめたのが96年ですね。

T:なるほど。

A:でもその時は東京にそういうシーンも全然まだなくて初めて行ったのが武蔵大学のオールナイトポエトリーライブっていうイヴェントがあって、今もずっとやってると思うんですけどそこにエントリーしてみた。バンドはその時無かったから自分でバックにこういう音楽をのせてやったらいいんじゃないかなぁっていうのを自分の家で編集してってそれを流しながらやったっていうのが一番最初、だったですよね。

T:反響というか、成果はどうだったんですか?

A:全然。まあ、難しいなっていうかね。人前で歌うって事ではなくて詩を語るみたいな方法は初めてだったから緊張して全然棒読みですよね、もう。国語の時間に読むみたいな。

T:その時は個人で出られたんですか?

A:もう自由参加、オープンマイクな感じだから別にエントリーさえすれば誰でもできるみたいな所だったから。それがあってその頃からそういう場所を探しはじめて、97年にSHIBUYA FMでラジオを始める訳ですね。そこでとりあえず自分にテーマとして 毎週一個新しい詩を書いて何かインストゥルメンタルのバックトラックを使ってそれにのせてワンコーナーやっていこうって試みをやって、たまにゲストのミュージシャンの人でセッションのできる人は一緒にやってもらったりとか、そんな感じで半年、一年ぐらいかな?続けて。『アメリカンブックジャム』という本を知ってますか?今はあまり活動してないけどアメリカの洋書を紹介する雑誌なんですけど、そこの人たちが高田馬場のベンズカフェって所でオープンマイクのポエトリーのイヴェントを月一回やってるって事だったんで、「じゃあそこに行ってみようか」っていうところからが具体的なスタートでしたね。

T:内容的にはどういう感じだったんですか?スタイルは?

A:スタイルは最初は97年とか、98年にいろんな人とセッションをする感じでやってたんですよ。で、ちゃんと楽器の人が一緒にいるようになるのは98年ぐらいからですね。

T:どういうメンバーの方達が集まったんですか?

A:一番最初にやってくれた人は、恵比寿で今はもうなくなっちゃったみたいだけど「2626(フロフロ)」っていうすごい怪しい、ビルの隙間から入っていく恵比寿の五差路の交差点あたりにバーがあったんですけど、そこのマスター。たまに飲みに行ってて、ギターがうまいと。何か一緒にセッションやってくれって頼んでやってもらったのが初めて。昔沖縄にいてバンドをやってたとかでなにか謎めいたオヤジで(笑)そのかわり日本によくあるようなスタイルで、こう(紙を手に持つ)詩を見ながらやるんだったらやらないし、全部即興じゃなかったらやらないとかいう、すごい厳しいテーマを与えられて。だから最初の頃は割と即興性を追求するというようなことをテーマにしてましたね。それで 98年にアメリカンブックジャムと有志が集まって『トラベリンワード』ってイヴェントを始めたんですよ。

T:それはどういうイヴェントですか?

A:音楽とポエトリーと、あと映像。他にもいろんなものをあわせた、いわゆるミクスチャーイベントみたいな感じ。それを一番最初、98年7月にやりました。

T:一緒にやってる人たちは?

A:最初の頃は結構面白い人がいましたね。ただ別にポピュラーになってる人はいない。

T:『詩人と男たち』っていうイベントはどんなイベントなんですか?

A:そこがキッカケになっていて、それが98年でせっかくそういうイヴェントやるんだったら楽器やる人とセッションしながらやりたいなと思って、友人つてで楽器演奏者を紹介してもらって、その中に『フライト・オブ・イディア』で今一緒にやってるウッドベースの助川久美子っていうのがいて、あと今有名になってきた『ナオミ&ゴロー』っていうユニットがあってそこでギター弾いてる伊藤ゴローさんって人とか、あとsaigenjiさんとかと一緒によくライブをやっている吉田一夫っていうフルートの人ね。それで、ちょっとアコースティックな感じの編成でやり始めたのが最初ですね。

T:これは『曼陀羅』で2回ですか。

A:そう。

T:それで、99年に入ってオムニバスCD『TRAVELIN'WORD』ですか?

A:そうですね。そのオムニバス出す前に、ギターの松本千香と出会った。渚十吾さんて人とセッションしたんですよ、その時にたまたま連れてきたギターが彼女で結構それが良かったんで何かの時は一緒にやろうかなって思ってた。世間的にもそういう東京のポエトリーシーンみたいにして、よく語られるようになってて、自分でそのポエトリーシーンの事を原稿で書く機会が増えてきた訳ですよね。それだったらば、じゃあ今その空気感を伝えるオムニバスを『TRAVELIN'WORD』ってイヴェントをやっていくんだったらばCDを作ってみようかなっていうのが始まりで。そこでレコーディングするって時に「あ、あのギターがいいな」「あのウッドベースが良かったな」「じゃあ、いついつ来て」で打ち合わせもなく、もうその日にその場所に集まって別に詩も見せずに「じゃあ一回こういう感じで読んでみるから」っていう所で出来たのがこのCDなんですよね。ほとんど即興、一発録り。

T:CDの販売は具体的にどういうところでしているんですか?

A:普通に、結構これはある程度メディアに対してはそういうものがなかったから取材みたいなのとかも受けたりして話題になったんですよ。いわゆる普通の流通ですよね。予算の関係上、大した本になってないんですけど、CDショップで普通に置くのと、本屋さんで置けるっていうので全国流通してってとこで始めたんですよね。


T:形態が面白いですよね。

A:そう。開くと一枚の絵なんですよ、表。

T:なるほど。

A:「ハイウェイを行く」みたいなね。

T:これに合わせたイヴェントっていうのも何かやられたんですか?

A:2000年の2月11日に代官山のボールルームってとこでやって。それが非常にいいイヴェントだったんですよね、今思っても。このCDに参加した人全員出て、合間にこのジャケット書いてくれたMIIDAさんて人と、あとスチールギターの人でライブペインティングをやってもらったりとか、フードサービスの人達がケータリングでいたりとかして。ライブでは花田裕之さんが出てくれて。nanacoさんにも「やりますか?」って言って2日前位に急にメンバー集めてDJとベースとミキサーかな?その人達と即興でやったのがすごい良くて。ビョークみたいだったかな。

T:環境がよかったんですね。

A:うん、人もよく入ったし。でも何か全体論で引っ張っていくみたいな、誰に頼まれたっていうんじゃないんだけど、原稿書いたりとか、(そうしているうちに)そういう風な感じに段々なって来ちゃってて。そういうイヴェント仕切って自分が出ると、自分のやる部分(パフォーマンス)があんまり納得いったものにならないし、そういうジレンマは結構あったんですよね。今でもそうですけど、プロデュースする立場でなおかつ出るっていうのは切り替えがなかなか難しいなって思い始めた頃で。

T:それでニューヨークに行かれるんですよね。

A:そうですね。たまたま取材旅行でアメリカのサウス・バイ・サウス・ウエストという音楽フェスティヴァルに行くのにくっつけて、一週間ニューヨークのマンハッタンの、そのポエトリーの現場を見に行くっていうので。帰ってきたらレポートを雑誌に発表するっていうのが目的で。それで一週間毎日、日本でいう『ぴあ』みたいな雑誌に『ポエトリー』ってカテゴライズされたのがあって、それをどういうものかもわからずに毎日なんとなく感覚だけを頼りに行くわけですよ、地図を頼りに。当たりもあれば、外れもあるっていうような感じで。写真も撮りながら、自分もオープンマイクみたいなのにちょっと出たりしながらで。白人の人達が集まる様な所の住み分けは結構されてて、その白人の集まるポエトリーの場所で、なんかこう頭でっかちであんまり面白くないなっていう事で、一番最後に行ったブルックリンの方にある、黒人が集まるYWCAっていう教会じゃないけどパブリックな場所があって、そこで『ティーパーティー』というイヴェントに出会うんです。要は『TRAVELIN'WORD』みたいな感じで音楽もあり、飲み食いできるしポエトリーもあるしみたいなそういう自由な場所があってそこに行ったら「来てよかったな」っていう感触を得て。まあ一回目はそれで終わったんですよね。

T:それで2回目も行かれるんですよね。

A:そう。2回目はあまり間髪入れずに行って『ニューヨーカン・ポエッツ・カフェ』っていう有名な場所があるんですけどそこに行ってパフォーマンスしてきてそれが結構ウケて。コンテストみたいなのがあって(オーディエンスは)300人位かな?そのほとんどは黒人ばっかりみたいなとこなんですけど、日本語でやって。やっぱりどうしてもポエトリーっていうと真面目で堅いようなイメージで伝えてしまいがちなんだけど、どこかユーモアみたいなものを混ぜながらやるのが楽しいのかなって。それは何となく自分で意識してるところはあるんですけど。

T:それで日本に帰ってきて、結構活発にその年の後半は活動されてますよね。

A:そうですね。それでまあギター、ベースは事あるごとにやったんですけど、リズムがちゃんとある形態でやろうっていう事で、ドラムの人に関しては不定期なんですけどやり始めたのが『Flight Of Idea』っていうバンドの一番最初のスタート地点だったんですよね。

T:じゃあ以前からその原形みたいなものが出来てて、二度のニューヨーク体験を経て正式にバンド形態にしたんですね。

A:そうですね、うん。

T:そういう形態のバンドってあまりないんじゃないですか?

A:日本でいえば『TOKYO NO.1ソウルセット』だったりとかなのかな。詩っていうところで普通の人にこのバンドの事を伝えるとね。『叫ぶ詩人の会』みたいな事を言われることが結構あるんだけどそれくらいしかなかったから即興的な部分を重視したっていうとこではあまりないと思うんですけどね。

T:お客さんにとってはどう入っていけばいいのかって部分があるじゃないですか?初めての人にとっては。それに対して何かありましか?

A:それはライブとかやる時はいつも考えながらって感じではあるんですけど。やっぱりユーモアの部分だったりとか意識したり、あと「コール&レスポンス」できるみたいな。別に「Say Ho!」ってやる訳にはいかないんだけど(笑)それはテーマではありますね。

T:それで2001年入ってからバンド的な活動に関して難しさとかってありますか?

A:難しさはねあります。場所とか、出る所は今でもそうですけど考えてて。普通にライブハウスのブッキングで入っていけばいいのかどうかって考えると、それは伝わんないんだろうなとか。じゃ自分でイヴェントやってやるしかないな、でもそういう事ばっかりになっちゃうと広がんないし、とかそういう中で少しずつ。だからどこをベースにっていうのはないんですけど、やっていきながらいろんな人と出会ってみたいな。

T:例がないものをやるってところで、手応えを感じにくい部分があるとは思うけど、その中でも手応えを感じる時ってある訳じゃないですか。そういう人達は何を望んでいるんですか?

A:なんだろ?刺激を求めてるのかなって、別に歌でもないから口ずさめる訳でもないし、でも、ある種「お話」みたいなとこもあるから。CDとか(手元に)ちゃんと読むものがあれば理解度は深まると思うんですけど、ただライブ観るだけだったらばどこかフックになる言葉が引っ掛かるっていうのでいいじゃないかなって僕は思ってるんですけど。それに何かハッとさせられてちょっとその人に残ってくれればいいじゃないかな。狙ってるってことはないんですけどね。なんかどう観たらいいのかわかんないし、何か変だし、あっでもこの言葉すごい印象に残ったなみたいなそういう状況はずっと続いてた気がするんですけどね。

T:昔観たギンズバーグのライブとの違いっていうか、自分達の理想の形みたいなものはありますか?

A:最初の頃の理想っていうのは『TRAVELIN'WORD』のCDの中でも自分で書いてるんですけど、ポエトリーっていうのは肉体一つあれば、誰でも始める事が出来るし恥ずかしい行為でも何でもなく、誰でもやれるんだよって、そういう手軽さというかね、アマチュアリズムに解放したような雰囲気の良さは確かにあったんだけれども、それが黎明期だと考えて、ある程度時間が経っている訳だから、これから出る人は自分の好き勝手、例えば半径1m位だけに届くような言葉を言っても、そこから先に広がんないんじゃないかなと思って。個人から発していてもそこからグローバルな風景ができれば作れる様にしていきたいなと思ってますけどね。

T:ギンズバーグとかから受け継いでいるものってあるんですか?

A:そこまで大袈裟なものはないかな。受け継いでいるものといえば、出来る限りありのままにというかね。でもかといって僕あんまり素直じゃないからストレートな表現って出来ないんですよ。その辺はずっと自分の詩の課題ではあるんですけど。出来るだけヒト(他人)が観てない風景を観てきたたっていう認識は自分の中にあるんです。色んな日常の出来事だったり色んな場所だったりして。それを普段見聞きする人の現実と近いような表現を出来るだけ自分の言葉にして発してそれが重なるようになればいいんじゃないかなっていうのが、それがハッとさせるみたいな、覚醒みたいなところはあるんですけど。

T:『Flight Of Idea』の最新アルバム『a Day』なんですけど、最初どういう所から始まってるんですか?

A:2001年の6月にソウルに行ったんですよ。 その時はまだ三人編成の時でね、ギターとベースとで行って、当時、韓国の教科書問題があった時で、さっき話した小学生の時に高学年に立ち向かったというスピリットとなんら変わらないと思うんですけど、翌年は(一緒に)ワールドカップをやるくらいになって、戦後五十何年も経っているというのに、そういう風になんで昔の所に立ち戻って発展しないしないような事をいってるんだろうと思って、今は日本語の歌とか興味を持っている若い世代がいるけれども解放されてないみたいなとこがあって。 その時はまだ三人編成の時でね、ギターとベースとで行って。そんな過激に煽ってアジテーションする事はないんだけれど、普通に歴史的事実があった事を認めて、まあ普通に日本人と韓国人が新しく友達になれればいいじゃんみたいなことを直に言いに行きたくなったんですけどね。別にそれはどっかライブハウスとかそういうところじゃなくて、路上でそういう事やったらどうなのかなというとこで行ったら、全然なんかスリリングな事とかなくて、んー、まあそのある程度ハングル語に直してやったりしたところとかもあったんですけど、まあ伝わりきれなかったところは正直あった。その帰ってきた直後にドラムの永井朋生も加わってきたところで、じゃあちゃんとそのレギュラーな形で即興的なスタイルを中心にしてバンドでやってくのは最初で最後のチャンスだろうと思ってた。今まではまあ僕のソロの発展系みたいなとこだったんだけれども、バンドっていうカタチでスタートさせようってなったのが2001年の夏くらいで、詩が出来たごとにセッションして作った曲が結構ある程度あったんで、じゃあこれをそのままもう瞬間で録音して出してみたらどうかなという、ただその先どういう風に出すとかなんだろうっていうことは全然決まってもなかったんだけど。

T:じゃあそこでやり始めたっていうことで2002年はずっとそのレコーディングが続く訳ですか?

A:レコーディング自体はですね、2002年の3月に相模湖にあるパブリックな施設で「藤野芸術の家」っていう所に音楽スタジオがあるんですよ。ある程度機材を持ち込めばすごい安い値段で録れる。このバンドの特性は、例えばじゃあリズムをとってギター被せて、最後ボーカル的に詩をリーディングするっていうようなスタイルじゃなくて、「せーの」で録らないとあんまりフレッシュさが出ないって思ったんで全部一発録り。ほぼ1日で録ったんです。大体3テイクずつくらいしか録ってなくて、別に普通のバンドみたいに「あ、ここちょっと間違ってたらやり直し」とかじゃなくて、別にそれももうそれでいいじゃないっていう。詩もベーシックにあるものをちょっと削ったり、増えたりとかっていう部分もその時の瞬間のものだから、その生々しさがいいんじゃないかなってやり方で。だからもう録ったらもうそれっきりみたいな。だから、それで録ってミックスが3日位。

T:マルチでハードディスクに録って?

A:それをコンピューター上でミックスする。去年の、夏前くらいにはもう出来てたんです。

T:なるほど。で、発表が今年?

A:1年ちょっとかかっちゃったけれど。例えばね、自分でレーベル的にリリース出来なくもないけど、よりパブリックな形で、とりあえずいいという人の反応がある元にやっていきたいっていうのがあったんだけど、これをどういう風に売っていいか分かんないとかネガティブな意見しか出てこなかったから、ちょっとかなり最初は悩んだんですけど。でもそんなこと言ってんだったらやっぱり自分でやった方が早いなあと思って。ノウハウはある程度ある訳だから、ちゃんと出そうって言う風に、こう準備に入ったのが今年明けてからですよね。

T:で、この、ええと、結構ブック形態な?

A:詩集的なものとしても成り立つし、それを喚起させるカートゥーンっていうか、1コマ漫画があって、音楽があってっていうトータルで作りたいなっていうのがやっぱりあってですね。

T:すごい。子供から、年寄りまで?

A:そう。だからまあ絵のイメージはすごいいいんだけど、絵のイメージでくるとちょっとギャップがあるかもしれないんですけれども。でも、普通に、例えばそのビートの流れとかで、ジャケット作るとイメージ固まってるじゃないすか?タイポグラフィー作ったりとか、写真のコラージュだったりとか。そういうのをやっちゃうとそこまでで終わっちゃうなと思ってね、敢えてっていうとこではあるんですけど、それが成功か失敗かまだ分からないんだけど。

T:じゃあ割とユーモア?

A:そうですね。ジャケット描いてくれたのは、森田拳次さんっていう、昔「丸出ダメ夫」っていう漫画とか描いた、もう60過ぎた先生なんですけど。僕が小学校の時に、すごい遡ると漫画家になりたいと思っていた事があったんです。その森田先生が書いた「マンガの描き方」っていう本があってね、何故か、小学校4年位の時かな、その本を見て先生に「僕の漫画を見て下さい!」って電話した事があって。なんかすごく優しい先生で、いきなり知らない子供が電話してきたのにね「今度鎌倉に家族で行くから、その時会ってあげるよ」って言ってくれて下手くそなマンガを見てもらって、何回か交流があったんですよ。だけど中学入ったくらいから漫画家になりたいというよりかは、音楽の方にシフトしていったんで、先生との付き合いも当然なくなって。アルバムのジャケットをふと考えている時にふと思い出して、トータルユーモアがあって、絵で描いてくれる人と思ったら、その先生が思い浮かんでだんです。20年ちょっと過ぎて、またいきなり電話してみて、皆でお願いに行って頼んで。先生はねえ、凄い筆が早くて先に絵を描いてきて送ってくれたの。ちゃんとこっちがコンセプト決めて先生に伝達する前に書いてきて。そしたら、それが全然ちょっと違った訳ですよ。まだカラーにするとかが決まる前でね。ただ普通のペン画で書いてきたものだけで、ちょっと違うなと思ってね。「すみません、もう一回こうこうこういうイメージなんでやり直して下さい」って言って描き直してもらって。で、まあ中身の各曲ごとの絵に関してはほぼイメージ通りだったんですけど、表紙がね、またちょっとイメージが全然違ったの。「どうしよう、こんな先生になあ。日本漫画家協会理事だよなあ」とか思いながらまたダメ出しして(笑)。まあ最後の方は温厚な先生も「こんな事は初めてですね」と少し怒り気味ながら、描いてきてくれたんですけど。それもある意味セッションみたいなもんでね。

T:そうですよね(笑)

A:うん。一応納得いくまでやってってとういうとこで。

T:音を聴いてもらってから描いてもらったんですか?

A:そう、聴いて。聴いてもらって、まあだいたいこういう、別に挿絵を頼んでいる訳じゃないから、1人の主人公がまあ「a Day」っていうアルバムは、まあその、内容の話は後でしようと思いますけど、1人のその主人公がずっとページめくるごとに追っててそのシチュエーションで出てくるみたいなね。それをまあ、描いてもらいたくて。

T:面白いですよね、形態。

A:形態としてはね。中々伝わりにくいんですけど。

T:これ、ライブとかは、ライブとかはどう言う形態でやってたんですか?なんか絵とか出したりとか?

A:絵はそのものに関してはやってないですかどね。

T:あ、そうですか、うーん。

A:このアルバムタイトルの「a Day」っていうのは、ちょうどなんか音が出来上がったばっかりの時に佐野さんの所に、音を持ってって聴いてもらいに行った訳ですよ。詩を作って曲が出来てレコーディングする間はあんまり分かんなかったんだけど、一応これ曲順通りに録っていったんですね。で、並べて聴いてみたら、僕らなりのイメージで朝から始まって、東京で暮らしている人の1日。朝起きてクリアな気持ちで始めようっていうところからスタートして、1日色んな事があって過ぎてゆくでしょ?。色々な事が会っても「ある1日」が気持ち良く終わって、また次にループしながら1日が始まるみたいなのアルバムかなぁと思ってたんですよ。それを佐野さんに伝えたら、「じゃあ、これはあ『a Day』っていう感じだね」みたいなところを言ってくれた。「じゃあシンプルだけどそういう事かなあ」と思って、それでタイトルがついて。そのイメージで森田先生に絵を書いてもらったんです。1日の流れっていうところで絵を描いてもらってみたいな。

T:しっかりまとまったって感じですよね。

A:そうですね。だからコンセプトアルバムですよ。ある意味ね。

T:じゃあライブもこの曲順でやったって訳ですよね?

A:曲順に関してはライブではまちまちでなんですけどね。僕らは何かもう終わったものに関してはあんまり結構執着しないところがある。やっぱり次の新しいものを探してしまう。だから普通の歌と同じように繰り返しやったりっていう面白さもいいんだけども、そうじゃなくてどんどんその即興的な部分で演奏がどんどんこう化学変化おこして、詩もやっぱそれに合わせてなんか新しく出来てゆく、どんどんどんどんこう先を行きたいみたいなところが4人全員の特性としてあるんです。だから一応8月に発売記念のライブやったところで結構それに関して、ちょっと完結しちゃったみたいなところが現時点ではあるんです。

T:プロモーションビデオ『セルフポートレートを記憶の島で』があるという、選んだのはなぜですか?

A:いやなんかね、一応だから歌に近いようなサビ的な部分でインパクトのある「ローリングソバット」っていう言葉があったからかなぁ。で何故かねえ、どれか1個はそのー、映像作品として残してみたいなって思ってて、まずその絵とリンクしている、「記憶の島」っていうところはどこかなとういうところを最初に考えてて。そしたらねえ、ある日「散歩の達人」っていう雑誌があるじゃないですか?あれを読んでたらイメージにはまった軍事遺跡が横須賀の先の方にあると。猿島じゃなくて「第二海堡」っていう場所で。明治時代に鎖国が解けて、その時に色んな外敵が来るっていうとこで守る要塞を作らなきゃいけないっていうことで、明治時代の終わりくらいに作り始めて、完成まで大正くらいにまでかかっちゃった軍事遺跡。詩と曲のイメージと絵からして「あ、そこだなあ」と思って。じゃあここでやりたいって、また突拍子もなく僕が思って。ロケで撮ろうって。

T:撮影の時はなんかエピソード的なものは?

A:撮影の時はねえ、皆ねえ結構晴れ男、晴れ女で。ちょうどね梅雨時だったんですよもう。皆のスケジュール、ナリオ監督のスケジュールが取れるのが6月の2日間しかなくて、もう5月の段階で。「梅雨入りするからヤバいなあ」と思ってたんですけど、タイミングよくその最初の予定日でバァーっと晴れちゃって。だから難はなく撮影自体は終わったんですよね。

T:出来はどうでしたか?

A:イメージ通りに完成しましたね。シチュエーションはイメージで僕が考えたんですけど、その先はあんまり細かく打ち合わせはしてないんです。でもナリオ監督がイメージをそのままとらえてくれましたね。作った時点ではナリオ監督の色んな作品を見た知人の人がね「今までの中で一番いいよ」とは言っててくれたみたいなんだけど。

T:映像にもやっぱりなんか今後は?

A:そうですね、やっぱり詩だけじゃなくてトータルなもので表現していければいいなとは思うんですけど。

T:じゃあ何かmomentで一回絡むとか?(笑)

A:ねえ(笑)やってほしいですけどね。フフフ(笑)。あ、moment?僕が監督?フハハ(笑)。僕は夢はねえ、全然個人的な夢は、あのー、ロックムービーを作りたいんですよね。全員出る人がミュージシャンだけみたいな。役者全員ミュージシャンみたいな。そういう表現をしている人だけのロックムービーを作ってみたいなあっていうのが。夢っていうのはあんまり僕言わないんだけど、何かそういうやってみたいトータルなものとして最後やってみたいものの1つかなっていうのはありますよね。

T:じゃあ、具体的なストーリーとかそんなものは?

A:ストーリーは今自分のやっているバンドで日々ストーリーが生まれてるって感じかもしんないですけどね。

T:ほうほうほうほう。じゃあ、楽しみですね。

A:ねえ、だからやっぱり色んなところで見聞きしたことと、自分の体験とが混ざったようなものとしてやっていければとは思うんですけどねえ。だだこのバンドの形体はだからほんと手探りで。まあポピュラーな支持を受けてる訳じゃないから、そこだけにポイントをしぼって考えちゃうと、すごいやっぱネガティブになっちゃうんだけども。でも今別に評価されなくても、まあ後で評価される事もあるしなっていう前向きな部分であったりとか。別に「分かってたまるか!」(笑)っていうくらいの事を思ってたりもするし。あと、特にこのアルバムの「a Day」っていうのに関してはなんかね、東京、都市部に住んでる人の切迫感だと思うんですよ。だから、それってなかなか、特に東京以外の場所でリアリティ持って感じれるかって言ったら簡単なものではないと思うし。そういう切実な感じっていうのが中々やっぱり伝わりにくいのかなと思ったんだけど。でも、それは僕が色々見た現実から発しているだけど、それを誰かの自分の生活の中にリンクさせることが出来ればいいなと思ってはいますけどね。

T:じゃあ、やっぱり今後書くものに関してもやはり東さんの身の回りで感じたもの?

A:そう。だから僕ねえ自己体験派なんですよ。全部。だからねえ、そうですねえ、いい事も悪い事も含めてなんですけど、そういうところからしか出てこない。だから量産して書くみたいなタイプ、日常的に日記のように書くってよりかは、なんかあって「ワッ」っとみたいなところで詩が生まれる。今取り組んでいるのはねえ、「a day」は割と曲っていう感じでキッチリ構成されてるんだけど、今は3部作的な長い詩が1つの曲の中に入ってるみたいな1曲30分位のものを作ろうってところでチャレンジしてますよ。もうほとんど「プログレかな」みたいな。でもそれは様式美を追求した、プログレではなくて、なんかどんどんどんどん展開していくっていう、まあプログレッシブな部分とジャムバンド的な部分であってその演奏にある程度喚起されて、ベーシックな詩の部分がこうその場の音と想像力で作ってくみたいな。で歌みたいになる時もあるし。だから決めごとのない自由さみたいのが一番このバンドをやってて面白いところではあるんですよね。

T:次発表するのはいつ位とかあります?

A:とりあえず「a Day」をもうちょっと売ってからっていうところはあるんですけど、だから制作中の長めの新作をライブとかで消化できるようなものになった後かなと思うんですよね。結構みんな真面目だから、キッチリキッチリやっていきたいみたいなとこがあるみたいで。そういうなんか自由な決め事のない楽しさみたいなのを無くさないように続けていければなあっていうところはあるんですけどね。

T:じゃあ、当面の活動としてはこの「a Day」を広めて?

A:そうですね。広めてっていうか、東京以外の場所でライブをやってっみたいなっていうところはありますけど。それでどういう反応をするのかなとういうのも見てみたいし。このアルバムをきっかけにやっぱ今回もmomentで取り上げてもらって話聞いてもらってるっていうのも、このアルバム出たからっていうきっかけだと思うし。そういうことが作品を作っていいなあ思える瞬間なんです。別に売れればベストですけど、何か新しい知らなかった人と繋がっていくみたいなところがやっぱり糧になっていくっていうとね、ちょっとクサい言い方なんですけど。そういう部分をどんどんどんどんこうやっぱり東京だけじゃなくて、やっぱり少数派だけど東京以外の街でも求めている人は絶対いるんですよ。だから「あ、こういう形態でやってもいいんだって」って思って、自分もなんかじゃあ始めようっていうような人が増えてもらえると僕らもやり易くなるしっていうとこもあるし嬉しい。決まりごとののない楽しさみたいなものをどんどんこう皆色んなやり方で始めてくれるとなんかこのバンドでやったこと、意味が残って繋がってくるかなっていうね。

T:なんかねmomentと一緒になんか?

A:そうですね。

T:なんかカタチにしたいですね。

A:やってみたいですね。

-end-


東 雄一朗(Flight Of Idea)の詳しいインフォメーションは、
オフィシャルHP→ http://www.travelinword.com/


【Discography】



LIVE! no media 2002
2003.01.15/MIDI/MDCL-1436

収録曲

1. クーラー / 水谷紹
2. オメガスパイシー / 東雄一朗
3. トマスの一生 / 田口犬男
4. 遠い夏 / 尾上文
5. うぇーべるん for children / 谷川俊太郎
6. 作詞作曲 / 宍戸幸司(割礼)
7. 誕生歌 / サヨコ
8. 新月の晩 / 知久寿焼(たま)
9. プロフィール / オグラ
10. デイブ・ヴァン・ロンク / 友部正人
11. 春の嵐 / 寺岡呼人
12. ないない35 / 田辺マモル
13. 運転免許証 / 三宅伸治





a Day

Flight Of Idea /
2003.08.02/DOCZ-1023

収録曲

1. FIRST QUESTION ?
2. TRUE NUDE
3. womb
4. セルフ ポートレイトを記憶の島で
5. FORCUS IN THE MIRROR
6. シザーハンズ
7. 支柱のアンセム
8. グットナイトレクイエム
Lyrics : Yuichiro Azuma
Music : Flight Of Idea







TRAVELIN` WORD
山崎円城/カワグチタケシ/ふじわらいずみ/
松岡尚美/東雄一朗/青柳拓次/渚十吾/1999.11.19/MOTR-001



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ポエトリーリーディングについて」映像メッセージ&「Flight Of Idea」ビデオクリップ

Message Movie

『ポエトリーリーディングについて 』


メッセージムービーを見る
| Mac | Win |

-------------------------------------------
(BB環境のある場所にて、お楽しみ下さい)







Video Clip

『Flight Of Idea』


ビデオクリップを見る
| Mac | Win |

-------------------------------------------
(BB環境のある場所にて、お楽しみ下さい)