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#17 REPORT:04.04.26/「斎藤ネコ・ストリングス・カルテット」 /SP映像 CD : 「『SKY』/TAKERU」/スペシャルメッセージ映像 REPORT : 04.04.30〜5.7/「Dr.StrangeLove」ライブツアー& DSL最新メッセージ映像 LIVE : 04.05.30/「BIG FAKERS / 鈴木雄大」 (東京/Blues Alley Japan) 連載 TERA'S SOUNDTRACK REVIEW |
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#17
森英治
今年20周年を迎える「ピカソ」のキーボード担当、森英治さんの、過去から現在までを辿ったインタビューです。
森英治 / Hideharu Mori
今年20周年を迎える「ピカソ」のキーボード担当、森英治さんの、過去から現在までを辿ったインタビューです。また、Shortfilms#16&17にて、ピカソ1989年のアルバム『12色のハンマー』のドキュメントを配信中。
(2004年4月1日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)
森英治 (Hideharu Mori) ■ 略 歴 ■ 1958年 2月26日 大阪生まれ。5歳からクラシックピアノを習う。 1984年 ロックバンド「ピカソ」のメンバーとしてレコードデビュー 1988年 東京芸術大学作曲科、田頭 勉氏に従事し管弦楽を学ぶ 1997年 半年間のイタリア留学において、ランベルト・マッキ氏、及びトンマーソ・ビットリーニ氏から映 画音楽における作曲技法を学ぶ。 2000年 パーソナルレーベルMETRONOM Recordsを立ち上げる。 2004年 作曲家、アレンジャー、プロデューサーとして活躍中。 ■ 主な作曲作品 ■ 劇場アニメ 「めぞん一刻」サウンドトラック(1987年) テレビアニメ 「らんま1/2」サウンドトラック(1988年) テレビアニメ 「YAWARA」サウンドトラック(1989年) 劇場映画 「公園通りの猫たち」(1990年) 劇場映画 「天国の大罪」(1993年) テレビドラマ 「Only You 愛されて」(1996年) テレビドラマ 「Natural」(1997年) 北海道斜里町 「オーロラファンタジー」レーザーショー音楽(1999年) ■ 主な編曲作品 ■ 福山雅治 アルバム「Boots」(1993年) 五木ひろし シングル「千秋一夜」(1995年) 杏子 シングル「Distancia」(1993年) 高橋洋子 シングル「もう一度逢いたくて」(1993年) かの香織 アルバム「Fine」「Vita」「Familia」(1993〜1995年) 山崎まさよし 「Only You 愛されて」(1996年) テレビドラマ シングル「僕はここにいる」弦アレンジ(1998年) |
自分が好きで聞きたいものをつくる。判断する時も、きっとこの方が今どきだとか、うけるとか、そういう事ではなくて、自分がこっちのほうが好きだっていう、その基準ですべてを判断していける場にしたいし、そういうのが健全だなと、最近思います。 TERA(以下:T):まず、生まれと場所から教えてください。 森(以下:M):1958年、大阪生まれです。 T:大阪のどの辺ですか? M:大阪の住吉区って言って、住吉大社っていうのが有名ですね。あと大阪ってキタとミナミって言われてるけど、ミナミっていうところから電車にのって、難波っていう駅から乗るんだけど、難波には昔、駅前に南海ホークスのなんば球場がね。 T:小さい頃はどんなお子さんだったんですか?
T:ご兄弟は? M:兄弟は兄が1人いて、作詞家をやっております。 T:小さいころは仲よかったですか? M:そうですね。一緒によく遊んでもらったと思うけど。 T:割と外で遊ぶほうが多かったですか。 M:野球は毎日やってたし、よく遊んでたよね。缶蹴りやったり、戦争ごっこやったりしてましたね。今思うとね、まだ、戦後っていうか、戦後の時代っていう気がしてね、焼け野原なんてものはないんだけど、原っぱがたくさんあって、何て言うんだろうな、リンゴ箱みたいな、木でつくった箱とかその辺に散在してて、それで基地つくって遊んだりしてたもんね。戦後って感じだったと思うな。だって、終わって10年ちょっとだもんね、生まれたの。58年だから。 T:小学校入って、何か思い出ありますか? M:やっぱり野球ばっかりやったかな。ピアノは習ってたけど、嫌々習ってて、練習しないでいつも先生に怒られてばっかりって感じ。 T:発表会とかは? M:ありましたよ。半ズボンはいて。(笑)蝶ネクタイしてたかも知れない。上手くならなかったね、クラシックのピアノは。 T:楽器はピアノだけですか? M:はい。ピアノだけ。 T:レコードとか聞いてたりとかは? M:その頃、何て言うんだろう、流行ってたんだと思うんだけど、今考えるとちゃちな応接セットとステレオみたいなのがあって、それで親父が買ったクラシック全集みたいなのはあったかな。ソノシートたくさんあったな。今で言うと、3チャンネルの子供番組でやってるのがCDになったみたいな感じで、そういう子供のソノシートたくさんあって、お話と曲が入ってるような。そのシートってわからないよね。 T:わかります。 M:あれはよく聞いてました、きっと。 T:テレビは、白黒テレビですよね。 M:もちろん、白黒。 T:何かよく見てた番組とかありました? M:えーっとね、何だっけ。サンダーバードのもっと前に「何とかシービュー号」それはリアルタイムで見てたんじゃないかな、きっと。あと「鉄腕アトム」の実写版であったのね、それもずっと、ちゃんと見てたんじゃないかな、リアルタイムで。そうだね。大阪にいた頃は、きっと吉本のとか見てたんだろうと思うけど、あんまり覚えてません。 T:この頃、まだ大阪ですか? M:いや、幼稚園の年長のときに東京に来ました。 T:東京はどの辺だったんですか。 M:保谷っていうところに。練馬区にいて、練馬区内で引っ越しをして、最終的に吉祥寺っていうところが一番長い。20年吉祥寺にいました。 T:吉祥寺はいつ頃? M:二十歳の時。 T:中学のころは、音楽にまだ集中してはいない? M:まだピアノでクラシック習ってて、中三になって初めてバンドを組みましたね。それで、友達ん家で、そのころ中学生の時、リハーサルスタジオなんて発想もないし、ちょっと広めの友達ん家にドラムセットとか持ち込んで、リアカーで運んで、組み立ててやってた。 T:楽器はもちろん。 M:キーボード。 T:どんなジャンルのバンドだったんですか? M:ビートルズコピーしたりとか、あとモンキーズとかもコピーしてたかな。してましたね。 T:バンド名は? M:いや、なかったと思う。 T:じゃあ、割と遊び半分で? M:遊び半分。でも、その中に1人すごく早熟な子がいて、ピアノも上手かったんだけど、バンドではベース弾いてたんだけど、彼は今、音楽で仕事してるんだけど、その人に教えてもらったって感じがあったかな。 T:高校入ると? M:高校入ると、中学の時にね、音楽も、バンドもやってたんだけど、ハンドボール部をやってて、高校のときはハンドボールばっかりやってましたね。 T:バンドは? M:バンドは「ちょっと手伝って」って言われて、文化祭があるから「これ弾いてくれない?」って言って演奏しました。 T:その頃、オリジナルは? M:なかったです。なかったね。大学入って、ピカソのテツと知り合ってからオリジナルを作り始めたっていう感じです。 T:大学は、芸大じゃなくて。 M:いや。慶応なんですよ。 T:そうか慶応ですね。慶応の何学科? M:商学部。(笑)それで、でもね、学校は行ってたんだけど。日吉っていうところに、1、2年は日吉に行くんだけど、商学部の場合、そこに音楽練習室があって、クラブもあったの。それで、3年になると三田って、田町の方に来るんだけど、僕4年間日吉の定期しか持ってなくて、ずっと音楽練習室に行ってて、三田なんて、試験と三田祭の時にしか行かなかったぐらいでした。 T:慶応は、結構そのころミュージシャンの方って割と多かったのでは? M:いました。同じクラブだとね、鳥山さんがいて、フュージョンやってる泉ってキーボード、スクエアだっけ、どっちだっけ、いるんですけど、その人とか、カシオペアだったら、神保君ってドラマーも一緒にいたりしたかな。あとね、斎藤ヒデオっていうギタリストがいて。あと、森高千里に曲書いてたりしたやつがいるんだけど、そいつもギターうまかったけど、そいつとは一緒にバンドやってたかな。 T:その頃は、もうバンドをつくって? M:はい。バンドつくって、日吉が練習所だったから、ライブは関内とか、あっちのほうでライぶをしてました。 T:オリジナルも? M:全部、その頃はもう全部オリジナルだったかな。 T:じゃあ、バンド名も。 M:バンド名何だったっけ。「キンズ」とかいうバンド名だったかもしれない。 T:編成は? M:おれでしょ、テツがいて、ギター2人とドラム、ベース、6人だね。 T:辻畑さんとの最初の出会いって、どんな感じだったんですか? M:大学に入って音楽クラブをいろいろ探してたんだけど、ポップス研究会って、最初にそういうクラブだったんだけど、ポップスという言葉がすごく好きで、例えばロック研究会とかあったと思うんだけど、名前も、とりあえず見に行っても好きになれなくて、ポップスっていう名前にひかれて、ポップス研究会に入って、そしたらテツが2年上で、結構偉そうに練習所を仕切ってたんだよね。それで、何かキーボードいないからって。キーボート少ないんだね。男のキーボードって少なくて、入ってすぐ声かけられて。 T:最初の印象は? M:ロットスチュアートみたいな格好も、髪もしてて、ここにマフラー下げちゃってるみたいな感じの人で、うわーって。 T:かなり目立ってた? M:目立ってた。(笑) T:それで、そのバンドがどのぐらい続いたんですか? M:3年ぐらいかな。そのバンドでデモテープとか作っていて、それも日吉にあったヤマハで作らせてもらったんだけど、そのテープを持ってテツがキティレコードに持ってって。そこで「じゃあちょっとやってみようか」っていう事になって、学生時代のバンドでちょっと世話になったのかな、キティに。でも、それは何にもならなくて、1人抜け、2人抜けして、結局辻畑と2人になって、で、純二が入って、3人でデモテープをつくってて、これだったらいいねっていうことになってデビューしようって事になった。 T:東さんとの出会いっていうのは、どういう出会いだったんですか? M:誰かの紹介の紹介っていうか、そういういい加減なものでした。何かね、初めて会った時にすごいカッコいい靴を履いてたんだよね、純二が。で、いいねって、それでいいんじゃないって決めたようなものだったと思う。 T:3人で最初どういう話をされてたんですか? M:3人で、その頃はまだいたのか。いたんだけど、とにかくもうプロになるんだっていう意識で、オリジナルをつくっていこうっていう事で、そのころキティに練習所はね、好きなだけ使っていい練習所を与えられてて、毎日そこで練習をしてて、4人か5人か忘れちゃったけど、全員が曲を書いたから、ともかく曲がどんどん集まっていって、それを形にするっていうのを日々やってたのと、アルバイトに追われてました。 T:アルバイトは何を? M:肉体を使うアルバイトが多くて、僕やったのは、デパートに深夜什器搬入って、ガラスケース搬入したりとか、新聞の発送所っていう、全部夜の仕事なんだけど、やってました。 T:その頃は、音楽でどうにかしようと? M:学校卒業したけども、就職もせずに練習してて、夜はアルバイトって感じでした。 T:国内外、目標としてたキーボードリストは? M:そのころはね、トレバーホーンが大好きで、キーボーディストっていうよりは、アレンジしたり、プロデュースしたりっていう、そういう風なのにその頃から興味があったのかも知れないですね。ビートルズにしても「誰、好き?」なんて言うけど、みんなポールだなんだって言うけど、俺なんかジョージマーティンが一番好きなんじゃないかと思ったりもするような体質みたいな。 T:大学出る頃は、どういう動きに? M:もう、キティとは一応契約とかじゃないけども、話はあって「ここでやらないか」って言われてたから、就職なんて考えなくて、やり続けようと思っていたっていう感じでしたね。でも、アルバイトしないとだめだったから、アルバイトしてましたけど。 T:卒業して? M:卒業して、どうなったんだっけ?キティと何かすごい安いお金、安い契約金みたいな、月2万とかもらってて、練習はやっていて、そうしている内に、キティは、沢山アーティストいたから「サポートやらないか」って話になって、キティのアーティスト何人かサポートしたりし始めて、ちょっと音楽で食えるのかな?と思い始めた。バンドはまだ何も形になってなかったんだけど。 T:じゃあ、3人に固まった時期っていうのは、もっと後? M:3人に固まったのは、もうちょっと。キティに最初契約したときは、まだ5人いたから、それで1人抜け、2人抜け、3人になって、3人になると、またライブなんかも全然出来なくなる訳で、とにかく曲ばっか作って、そのころは4チャンのカセット、テレコをおれと純二が持ってて、テープでやりとりして曲を仕上げていったりとか、誰かの家に集まって、それでレコーディングをするとか、そういう事でしたね。ライブはほんと、最初からライブとは縁がなかったね、そういう意味では。 T:まだ、ピカソという名前は? M:全然なかったんです。その頃は、ライブをやらなかったから、名前なくてもよかったし、3人で曲をつくってただけだったんですね。 T:何か煮詰まったりとかしませんでしたか? M:そんなしなかったね。(笑)何でだろうね。何ででしょうね。それが、おれも純二も、個人的にだれかサポートをやったりとかしてたせいもあったのかもしれない。テツはそれこそ何にもしてなかったね。曲つくるしかね。煮詰まってたかもしれない。 T:そういう生活が何年ぐらい続くのですか? M:デビューをしたのが、僕が25才だから、大学を出て3年ぐらいはそういう感じだったね。バンドで曲をとにかく作って、個人的には人のサポートをして。アルバイトはしなくなって、そういう感じでしたね。 T:80年代入って、割と日本の音楽シーンって、何となくわっと変わってきたような感じってあると思うんですけど、日本の音楽シーンってどういう感じで見てましたか? T:「ピカソ」誕生の時期の話を教えてください。 M:やっぱり曲ばっかりを作っていて、出来ちゃ、キティの担当の人に聞かせるみたいなことを繰り返していて、3人だしライブも出来ないし。だけど、一時期いい曲が大分できてた時があって、その時にどっかでキティの部屋の片隅で聞いてくださいなんて聞いてたら、担当してる人じゃないんだけど「これいいね、これだったらデビューしようよ」っていって、そこからポンポンとデビューが決まって、じゃあ名前つけなきゃって事だったのかな。 T:デビューが決まった段階で、うれしいとか、そういう気持ち的には? M:嬉しかっただろうな、きっと。あんまり覚えてないな。嬉しかったのと、あと不安があったんじゃないかな。曲つくって、自分たちの家で自宅録音、レコーディングなんていうのはしてたけど、実際、ちゃんと立派なスタジオに入ったときに、余りうまくできた経験もなかったし、レコーディングどうしようかっていう、嬉しいよりはそういうクリアしなきゃいけない事たくさん頭に浮かんできて、そっちのほうで頭いっぱいだったような気がします。 T:生活的に変わった事ありました? M:うーん。余りなかったと思うんだけど、おれはいつも時間にルーズで遅れてたりして、それまでだれかの家で集まってやろうなんていうのばっかりだったから、会社に何時に集まって、打ち合わせがあって、こういうインタビューがあってみたいなのは、特にすごくまだ遅刻癖が抜けなくな、みんなに困らせたっていう、そこを何とかしなきゃいけないなと、それが変わったかもしれないですね。 T:デビューが決まって、ファーストアルバム『ピカソ』までの話を聞かせてください。 M:デビューの時に、4、5曲レコーディングしてあって、そのうちの1曲でデビューして、B面もそこに、その5、6曲の中に入ってたから、それで、でも全然ヒットなんかしない訳で、でもアルバムは「すぐ作ってもいいよ」なんていう事になって、最初にとった5、6曲は、都内で一応、それ鳥山君と一緒にやって、彼が全部ミュージシャンを集めて、僕たちの歌弾いたり、演奏したんだけど、アルバムの時は、残りの5、6曲は、自分たちのバンドでやるっていう事で、バンド、自分たちでそれまでサポートやってたりしたから、知り合った仲間たちを集めて、バンド形式でレコーディングに入りましたね。でも、レコーディング楽しかったけど、苦しい事のほうが、その当時思うと、苦しい事っていうか、上手く出来ないなっていう事の方が多くて、その当時は悶々としてやってた思い出が。今は、へっちゃのへなんだけど。(笑) T:それでも、一番楽しかった事って? M:うーん。いや何かね、あんま楽しい事よりも、出来てもまた、次に作らなきゃいけないって、誰かに言われるんじゃなくて、それは自分の中でそう、すごく、何て言うんだろう、ストイックにしていたから、すごく苦しかったような思い出しかないですね。 T:最初、契約枚数とかは決められていたんですか? M:あっただろうと思いますが、キティ、そうか、事務所はキティだったんだけど、デビューはバップっていうところだったりして、詳しい契約内容については、これも駄目なところなんだけど、余り把握してなかったと思う、自分では。 T:続く2nd『ダイヤモンドの月』っていうのは、どういうアルバムですか? M:シングルもデビューアルバムも全然売れなかったんだけど、そのアルバムに入ってた「シネマ」っていう曲が、レコードの発売とは全然関係なくアニメのエンディングに「あの曲いい曲だから、何かしようよ」っていう人がキティに何人かいて。アニメのエンディングになって、お客さんが結構来るようになったりして、その後に『ダイヤモンドの月』のレコーディングに入ったんですね。それでアニメのエンディングが何作か続くっていう事になっていたから、「シネマ」の匂いにすごく何て言うんだろう、縛られたっていう感じのレコーディングではあったけれども、でもなかなか、それは今聞いてもしっかりできてるなとは思うんだけど、でもやっぱり喜びよりも苦しみの方が、やっぱり多かったっていう記憶があります。 T:で、続く『シネマ』というアルバムは、ベスト盤ですよね。 M:そうですね。それはね、バップからキティにメーカーが動く時に、これを出さなきゃいけないとかって、そういう。会社対会社の関係の問題だったみたい。だから、すごくベスト盤がなぜこんなに多いんだって、多いでしょ。そういう事なんです。 T:次にキティで『フォトグラフ』、これは? M:これはね、やっぱり、まだアニメのエンディングやってる頃と時代が重なってるんだと思うけど、アニメに縛られてたっていう感じで、バンド色というよりは、シングルをちゃんと作るんだっていうような意識があり過ぎたね。今考えるとそれは反省点で、バンドらしい弾けるとか、そういうのがまるでなかったですね。 T:「シネマ」から始まったアニメのタイアップの流れという事? M:そうだし、自分たちでもいいのかなと思いつつ、自分たちでみずから殻を破れなかったっていうような感じではあったんですね。 T:殻を破ろうとしたタイミングは? M:『フォトグラフ』終わって、僕がその当時「THE REDS」っていうバンドが、キティにあったんだけど、そのバンドをサウンドプロデュースする事になって、若いバンドとつき合ってみて「ああ、バンドってこうだったよなって、すごいいいな」と思わされた事があって「みんなでギター1本でハモろう」なんて、すごく楽しそうにやってくれたりするのね、その子たち。「こうだったな」って思って、レコーディングの仕方も下手なんだよね、せーので頭から始まって、たどりつければ御の字で、何度もとまっちゃったりするんだけど、でも瞬間の勢いが、こいつらでなきゃ出ないなっていうものがあったりして、これはいいなと思って。「こういうの忘れてたな」と思わされた経験があった。 T:それは、次のアルバムの『マーマレードキッズ』に。 M:うん。その「THE REDS」っていうバンドメンバーも、たくさん参加してるし、レッズのレコーディングで、さっき話してたコニヤンって小西っていうエンジニアと知り合って、これはいいや、この人ともやりたいし、そのメンバーともまたピカソで一緒にやりたいなと思って、これもコニヤンがやってるし、それからずっとコニヤン、ピカソはコニヤンにずっとやってもらってる、そういう関係が始まったりもして。 T:その『フォトグラフ』までで、ある意味、自分たちの中でピリオドっていうものがあったと。 M:うん。思います。 M:これは、バンドっていうか、自分たちが小さい時、ティーンエイジャーの頃に聞いて、音楽やりたいなと思った原点に近づいたアルバムだと思う。ビートルズだったり、ローリングストーンズだったり、もっとビートがあって、汗かいてっていうような音楽でいこうという事でした。 T:音楽の楽しさみたいなものは、その前までのものとはまた違う部分で出てきましたか? M:うん。最初戸惑ったけどね。辻畑っていうボーカルがいて、そこに曲があって歌うんだっていう風な形にやっとなれたと。最初の3枚のアルバムは、とにかく曲として完成度を上げようという事ばかり考えていて、誰が歌うんだと。バンドのこいつが歌うんだっていう事をないがしろにしていた部分があったような気がして、それが僕の反省なんだけど。だから『マーマレードキッズ』以降は、まず彼が歌うんだっていう事を真っ先に考えるようになりました。 T:以前は割と歌詞とか歌っていうよりは、サウンドの実験みたいな? M:そうなんですよ。それはね、僕の反省点。 T:この頃からツアーとかも? M:うーんとね、ライブは、ツアーは楽しかったけど、まだなれなくて、やりながら自分で解放感を味わえるなんていう事は、なかなか無くて、ちゃんとこなさなきゃいけないみたいな風に思ってたのが、すごくライブ下手だったなと、それも反省。反省点多いんですよ。(笑) T:この時期、森さん自身がいろんな部分で変わってきたということになるんですか? M:うーん、そうですね。うん。 T:何か管弦楽を? M:管弦楽。(笑)これね、レコーディングはとにかく好き放題できた時代があったから、これに弦入れたいとか、管入れたいって言ったら、まるでやったこともないのに、やってみればってやらせてもらえて、実際、書いて鳴るのかどうかもわからない、不安どきどきで書いてったら、こういう風になるんだっていう、自分で書いたものを自分のバンドのレコーディングでやって、1つ1つはこうかって言って、独学で、実地で学んでいったっていう感じなんだけど。 T:時期的には? M:ピカソで初めてやったのは『フォトグラフ』の時に何曲か弦と管をやってましたね。 T:『マーマレードキッズ』から、バンドサウンドで。その中でストリングスを組み込もうというのは、全体のイメージから? M:そうです。ビートルズにしても、変な弦が入っていて、すごく初めて聞いた時、おれ嫌だったのね、気持ち悪くて。でも、聞いていくうちに毒みたいになっていて、それを聞きたいがためにエンディングまで聞いてるみたいな感じになって、そのアルバムでは、とにかく毒みたいなものをどんどん、嫌われてもいいから癖になるようなものをどこかで散りばめたいと思っていて、その要素として、僕には弦がすごく発想が湧いたので、そうなった。ただきれいに鳴るというのではなくて「もうこれぶつかってんじゃないの」とか、これでいいんですかみたいなのをプレーヤーから言われると、すごく嬉しくて。いいんですよって。「ぶつかったと思ったら、思い切り弾いてください」って、嫌々でもないけどわかりましたって言いながらレコーディングをしてた。 T:そして続く『12色のハンマー』これについては今、映画で配信中という事で、簡単に一言このアルバムについて言う? M:これはね、珍しく反省点が余りなくて、準備もしっかりできたし、やりたい事もできたし、バンドとしてもすごくはっきりした目標に向かっていたと思うから、充実感はすごくあったし、楽しかったですね、そのレコーディングは。でも、終わったらへとへとで、しばらく何も力が出なかったぐらい頑張ってやってたと思う。でも、そんな苦しくなかった、レコーディングは。スタジオに人がたくさんいたし、一緒にやってるなっていう実感で、楽しかったですね。 T:続く、劇盤が1枚入ってますよね、これは。その前に、映画の音楽を。 M:やりました。 T:これはどういう。 M:それはね、キティ/東映だったけど、キティも関係してる映画で、それはでもアニメの映画とか何かやったりとか、アニメの劇盤をやったりしていて、キティの社長の高山さんっていうのが、映像につく音楽をとにかく「森にやらせろ」って言った時期があって、すごく映像につける音楽ってたくさんやらせてもらって、いい経験をさせてもらったと思うんだけど、あって、その流れでそれをやったんですね。それで、ミュージカル仕立てみたいな、あんま売れなかった、その映画で、荻野目ちゃんが主役の映画で、劇版、中にたくさんミュージカル仕立てだから、歌物の曲がたくさんあって、すごく弦管入れて一発どりでやろうなんていう企画があって、曲はね、劇版は全部僕なんだけど、歌うものの曲は、テツが書いたりとか、あと安全地帯の玉置が書いたりとか、キティの作家陣がうたもの関しては書いて、それを僕がアレンジしたっていう、そういう映画でした。 T:シングルカットもしてますよね。 M:しました。それはでもね、ドラマの中で使われたことは1回もないんだけど、でっち上げて何かつくったね。 T:イメージソングみたいな? M:うん。ピカソ、これいい曲できたから発表したいなって言って、無理やりねじこんだかな。 T:アルバム『バーティゴ』について、サウンド的には? M:えーっと、何かテーマがあったんだよな。それは、沢口靖子と浅岡ルリ子さんが主演っていうやつで、森英恵ストーリーみたいなやつだったと思うんだけど、ファッションデザイナーの話だったのね。それで、ファッションか、ファッションといえばイタリアなんて勝手に自分たちででっち上げて、イタリアみたいな匂いがあって、イタリア映画のサントラにもなり得るような哀愁とメロディーと郷愁みたいなものをテーマにつくろうと、勝手に自分たちでテーマをでっち上げてつくったんじゃないかな。 T:次の年にアルバム『チャンピオンのノスタルジー』。これは『12色のハンマー』以来のオリジナルアルバム。 M:はい。それはね、大分バブルも終わって、お金がなくなってきて、それまでリハーサルでしか使ってなかった箱根のスタジオで、『バーティゴ』もそこでつくったんだけども、お金ないんだと、おれたちどこでも、別に、レコーディングに関しては全然自信を持っていて、どんな機材とか、なくても、別にできるなんていって自信を持っていて、「高いスタジオ入っちゃだめって言うんだったら、ここでつくり始めようよ」って。それで、いつ発売するなんていう締め切りもないまま、曲こんなに出来てるし、とにかくレコーディングするんだと。そのかわり、発売も決まってないけど、時間とスタジオだけは湯水のようにある訳で「とにかくやりたい事をまたここでぶちまけよう」って言って、結構足かけ、かなりの時間やってるんじゃないかな。これが、今まで発表したいって言っても絡みがないからためだとかそういうたまったものをぶらまけた、濃いアルバムですね、これは。と自分では思う。何かだれかに聞かせたら、ここまで濃くしなくてもいいのにっていうか、ここまで怨念めいたものを感じるとまで言われたから。 T:この頃って、それぞれが作家活動とか提供活動みたいなのをされていますが。森さんにとって、いろんな人に楽曲を提供したりアレンジしたりの仕事は、どういうとらえ方で? M:あんまり仕事としてとらえてなくて、それはなぜかと、キティ絡みのアーティストが多かったせいもあるんだけど、まず何かやって、友達にならないとできないっていう、何か不器用なところもあって、だから、友達が音楽つくるのに力を貸してるんだっていうそういう感じ方でしかいなかったですね。すごくアマチュアっぽいけど。 T:その中で、森さんに託される楽曲は、どういうものが多かったのですか? M:それはね、アーティストによっていろいろ言い方は違ったと思う。いてくれるだけでいいっていう人もいたので、弾かなくてもいいし、何か一言言ってくれればいいっていうか、そこにいて「いいね」って言ってくれるだけでいいっていう人もいれば、綿密にアレンジを、かの香織さんとかそうだったけども、すごく細かく、こういう絵が見えててって、ちゃんと伝えてくれて、わかったって、それにきっちり彼女の要求するものを返さないとだめなんていう、そういうこともあったし、それは人それぞれだったかな。 T:ピカソとしては『ショッピングリスト1』『2』があるんですが、これは? M:えーっとね、それもベスト盤なんですよね。未発表のものは必ず入ってるんだけど、その周りを固めてるのは、この非売品のこれからつくったりとか、『チャンピオンのノスタルジー』から焼き直したりとか、そういうのだったと思う。何でなんだろう。何でなんだろうっていうのは変ですけど。 T:その翌年、97年、イタリアに。 M:(笑)これね、半年ぐらいどっか、とにかく海外に住みたいと、まず。 T:そのきっかけは何だったんですか? M:きっかけというか、海外に半年行って、仕事探せないだろうと思ったの、あっちで。 T:「また行きたい」という感じですか? M:行きたいですね。行きたいけど。行ければいいな。 T:日本に帰ってきて、動きは何か? M:僕が帰って、それで半年、全然知らなかったんだけど、半年日本にいない間に結構変わってたな。まず一番近いところで言うと、オフィスオーガスタがいきなり売れてたっていうのにびっくりした。それで、山崎もそんなに売れてなかったし、帰ってきたら売れてたな。あと、スガも、おれがいない間に「夜空ノムコウ」ってSMAP、1回も聞いたことなかったのね、あの半年だったらしいんだけど。帰ってきてすぐ、杏子のツアーでピアノ弾いてくれって言われて、リハに行って、スガがこれゲストで歌うっていう事になって、「夜空ノムコウ」って譜面をもらって、全然聞いたこともない曲、みんなはよく知ってるわけね、それ、こんな曲なんだって言って「何だこの曲は」と思って、半年間の、半年っていうのはすごいなと思った。MISIAとか読めなかったもん。この人何て読むんだろうって、全然わからなかった。 T:それだけ日本の歌の移り変わりって激しいっていうことですよね。 M:ね。 T:単発でぼんぼんっていう。なかなかロングセラーになり得ないっていうか、そういう側面もあるのかもしれないですよね。2000年入るあたりの時期っていうのは? M:僕が帰ってきたら、もう越谷にうちを借りていて。帰ってきて初めて行って、そのころには会社形式にはなってなかったんだけど、「プロジェクトピカソ」っていう事で始まりつつあって、「ベルアンドアコーディオンズ」の「あじあ姫」っていうのはね、僕がいない間に2人で作ったようなものなんですよ。「こういうのやるから、今度これ」って。 T:じゃあ、メトロノームレーベル創設時は、イタリアに。 M:イタリアいた頃だよね、きっと。 T:じゃあ、びっくりしたんじゃないですか。 M:いや、偉いなと。(笑)おれが遊んでる間に偉いなと思いました。 T:でも森さん自身何かプロデュース意欲っていうか、何かそういうのって出てきたりとか。このチームでこういう感じでって。 M:うん。ありました。人は、ちゃんと評価される場所にいないとだめだなっていうのを思った。イタリアではいろんな人に会ったりとかはして、アニメがあったから、ヨーロッパですごいわけ、高橋留美子のアニメ。それで、イタリアでも「らんま1/2」とかやってて、駅で単行本みたいなの売ってたりとかして、オープニングとエンディングはイタリア語の歌に変わってるんだけど、劇中は全部僕らがつくったやつそのまま流れてるのね。だから、大人は知らないんだけど、子供にその話をすると、必ず「らんま1/2」見たことあるって言うわけ。「あれ、僕やってるんだよ」って言って、そういう事やってる作曲家なんですよって言って、何人かのいろんな人に会って、でも会う人は、作曲家を紹介してくれるから、作曲家同士会っても仕事は広がらないわけでさ、そういう意味で仕事は見つからなかったんだけど。で、何の話だっけ、結局仕事が見つからなくて、でも日本に帰ってきたら評価してくれる仲間がいて、実際につくる音楽があってっていうのは、すごくありがたいなと思って「さあやるべ」って言って、やりました。 T:再始動的な感じのスタートみたいなものは、何かきっかけがあったんですか? M:そんなキッカケっていうのはないけど、みんながでも作品をずっと、それがどういう形になるかっていう事ではなくて、作品を作っていくっていう創作意欲とか、創作しなきゃいけないっていうノルマもあって、曲が出来てくる訳だから、発表する為に自分たちのメジャーじゃ時間が、そんな手っとり早く自分たちのところでやろうっていう事で、時代も自分たちでインディーズをつくれば、ちゃんと発表できるわけだしっていう事で、つくったものを発表していかないと体に悪い。 T:そうですよね。90年代後半からインディーズがメジャーと対等な場所っていう感じになってきましたよね。プロジェクトピカソの動きって言うのは、具体的にどういう風に流れていくんですか? M:ピカソは自分たちのライフワークとして、曲をつくって活動していくんだけど、それ以外に会社でやっているアーティストをもっと、この前も言いましたけど、大きくしなきゃいけないと思ってて、それでちょっと話が前後しちゃうんだけど、自分たちでインディーズレーベルを作った時に、あとの2人はどう考えたか知らないけど、おれは自分の聞きたい曲がラジオから流れてきて、それを聞きたいと。それで、その中には当然自分たちがつくっている曲も自分たちで聞きたい訳だから、このレーベルの一番の根本は自分たちの聞きたいものを、良質なものを作るっていうのが一番のコンセプトで。だから、例えばいろんな仕事をアレンジだとか、プロデュースをしていて、その都度その都度判断しなきゃいけないときがあるじゃない。それで、みんな数あるプロの人たちがいて、おれがその仕事に携わって、その責任をどうとれるかというと、結局その作品を一番愛せるっていう形でしか責任をとれないわけで、みんなノウハウもテクニックもあるんだから、だれがやったって、ある程度ちゃんとしたものができるのはわかっていて、それでおれがせっかく知り合えたんだったら、その作品を好きになれるっていうことでしか責任をとれないと、それは前からずっと思ってたのね。それはメトロノームに関してもそうで、自分が好きで聞きたいものをつくる。判断する時も、きっとこの方が今どきだとか、うけるとか、そういう事ではなくて、自分がこっちのほうが好きだっていう、その基準ですべてを判断していける場にしたいし、そういうのが健全だなと、最近思います。 T:今日は、ありがとうございました! M:こちらこそ。 只今、ピカソのドキュメンタリー映画(リンク)が配信中です。 ピカソの詳しいインフォメーションは、 オフィシャルホームページ(http://www.pro-picasso.com/)まで |
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