吉良知彦 / Tomohiko Kira


1985年、「ZABADAK」としてCDデビュー。1994年にソロユニットとして再始動。2004年、「ZABADAK」ニューアルバム『wonderful life』を発表。さまざまな分野での活躍を続けている吉良知彦さんの、過去から現在までを辿ったロングインタビューです。

(2004年5月26日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)




吉良知彦 (Tomohiko Kira)


●1959年12月6日・山梨県生まれ・名古屋育ち
●ギター、ベース、キーボード、ブズーキ、様々な打楽器他、多数の楽器をあやつる。
●幼少の頃より父の民族音楽レコード・コレクションを聴いて育つ。趣味は昆虫採集。 自然をこよなく愛し、農業にいそしむ。
●1985年、ZABADAK (ザバダック) 結成。様々な変遷を遂げ、1994年以降は吉良知彦のソロ・ユニットとなる。
●ZABADAKの活動と並行して、デビュー前からCM、映画、演劇、ビデオ等数多くの映像作品に音楽を提供。


いやー、何かやっとこう、もう20年もやってきたんですけど、この3枚で開放された状況で初めて作れてるなって。まあ、これまでも、恵まれた環境で作れてはいたと思うんですけど、どっかでこう、軋轢があって。何か出し切れてなかった思いっていうのが常にあったんですね。 (中略) やっと開放されたのが、自分のレーベルを立ち上げてからですね。だから今は本当にストレスのない状況で音楽を作れてる気がします。(抜粋)


寺澤 (以下 T) :よろしくお願いします。

吉良(以下 K):よろしくお願いします。

T: まず生まれと場所を教えてください。

K: 山梨県の長坂というところで生まれました、はい。

T: 兄弟は?

K: 一人っ子です。

T: 小さい頃遊ぶのは、近所とか?

K: 物心つくのが遅かったんで(笑)よく覚えてないんですけど、4歳で名古屋に引っ越すんですね。で、そっからの記憶しかないんですけど、最初はアパートに住んでて、そのアパートに子供が何人かいたんでその辺と遊んでましたね。

T: わりと外で遊ぶ子供でした?

K: そうですね、うちすごく狭かったんで、居場所がなかった(笑)。

T:どんな遊びしてたんですか?小学生の頃とかは。


K: 何してたんだろ?、なんだかしょっちゅう怪我してました。割と名古屋でも野原とかいっぱいあるとこだったんです。こう、トタン板とかでね、草の斜面をバーっとすべるんですよ。これが一時期はやって、毎日やってたんですけど、友達のすべってきたトタン板が足首にぐさっと刺さったことがあって、ビューっと血が出てほとんど気を失いました。その遊びは中止になったんですけど。その傷跡がまだ残ってたりとか。あと、名古屋の中で引っ越して緑区っていうもっとすごく緑のある方に引っ越すんですけど、大きな池があって、そこに雷魚とかがいるんですね。そういうものを捕まえたりとか。あとはまあ、山で虫捕りに明け暮れていましたね。

T: 音楽に触れるのは、小学生の頃だとどんな感じの?


K: 親がわりとクラシック好きで、ドボルザークだとか、ロシア民謡だとか、あと何が印象に残ってんのかな、なんか有名どこのクラシックのアルバムが何十枚かあって、それを親と一緒に聴いてて、中で気に入ったのをあらためて聴く、みたいなのが始まりでしたかね。

T: 実際、何か楽器とかは?

K: 楽器は親父がギターを弾いて、お袋がオルガンを弾いてましたね。本当はピアノをやりたかったらしいんですけど、買えなかったらしくて。電気オルガンがうちにあったんで名古屋に行ったのをきっかけにピアノを習い始めたんですよ。4歳から習い始めたんですけど、まわりみんな女の子で、僕は外で遊びたいから6歳でやめたんですよ。だから4歳から6歳までという非常に中途半端な、オケイコのピアノをやりましたね。いま思えば何の足しにもなってません、はい。

T: 学校で何か他の楽器を触ったりとかは?

K: 小学校でですか。小学校ではまあみんなと同じにリコーダーとハーモニカと、あと音楽室みたいなオルガンがダーっと並んでる教室があって、それを触ってました。まあ多少はこうメロディーくらいは弾けるようになってたのかな。ギターはまだいじってなかったですね、小学校時代は。

T: もうテレビの時代ですよね。何か小さい頃テレビは?

K: うちはね、テレビがやってきたのが遅いんですよ、3年生の時にはじめて来て。それまでは思いっきり古いですけど、「少年ジェッター」でしたっけ?「ソラン」とか、見たくて見たくてしょうがなかったのは、友達ん家に行って見せてもらってました。で、やっとテレビが来て、「ウルトラセブン」かな?初めて自分ん家で見る事が出来るようになって。しみじみうれしかったです。

T: 映画とかは?

K: 映画は、どうだろう?3ヶ月に1回くらいの割合で親に連れて行ってもらってましたね、はい。覚えているのっていうと、「野生のエルザ」とか、ディズニーの「わんわん物語」とか位なんですけど。1年生の時に「子供会」っていうのがあって、地域の子供たちがちょっと遠出して映画館に映画を見に行くっていう企画があったんですけど、それがね、「サンダ対ガイラ」と、「ガメラ対バルゴン」の2本立てだったんです。「サンダ対ガイラ」、すごい怖くて、でもすごい面白くて。で「ガメラ対バルゴン」もすごい面白かったんですけど、なぜか子供会は「サンダ対ガイラ」を見たところで帰る予定になってたんです。それを僕だけ知らなくて、「ガメラ対バルゴン」も見続けちゃって、一人で。それで、終わったらもう誰もいなくなってて。バスに乗って結構遠くまで行ってたんですよ。もう途方に暮れちゃって、知らない街でひとりぼっちになっちゃって。どうやって帰ってきたのか定かでないんですけど、それがはじめての迷子の経験で、映画は怖いっていう(笑)感じがその時に植え付けられてしまったんですね。一人では行けなくなりましたね、それからしばらくは・・・。

T: でも、大人の距離にしたら、そうでもないですよね。

K: そう、今で言ったらバスで2つの停留所くらいの距離なんですけど、1年生にとってはもう異国の地に一人放り投げられたような感覚で。もう泣きじゃくりながらうろつき回ったのを覚えてますね。

T: かなり記憶に残ってそうですね。

K: はい、残ってます。

T: 孤独ですよね。

K: 孤独でした。で、人の話をちゃんと聞いてないっていうものね、その頃からの・・・。(笑)

T:(笑)で、中学生になると何か?趣味とかは?


K: 中学になって初めて、自分で、えー自分から音楽を聴いたのが、たまたまテレビで流れてきた「コンドルは飛んで行く」を聞いて、サイモン&ガーファンクルを知ったんですね。親に頼んでベスト盤を買ってもらったら、声とか曲とかハーモニーとかすばらしくて良かったんですけど、「これを自分でも弾きたい」と思って、初めてギターをこう、親父のやつを引っ張り出してきて、いじり始めるんですね。親父もそんなに弾いてなかったんで、まあ僕が独占するような形にすぐになりました。クラシックギターだったんですけど、スチール弦を張って、あのピックガードっていうのがすごいうらやましかったんで、あれを、黒い下敷きを切って、それ風のを作って貼って、こう白いニスみたいなのを周りに塗って、ポジションマークみたいなのも付けて、ちょっとフォーギターみたいなテイストにして、じゃかじゃか弾いてたんですけど、スチール弦だとテンションが全然強いんで、ネックがこんなに曲がっちゃうんですよ。ものすごく弾きにくいギターになって、でもそれで一生懸命やってたんで、だから左手はけっこう鍛えられたかも知れない。でも最後はもう耐え切れずに「バキッ」とまっぷたつに折れちゃいましたけどね。

T: へー。(笑)

K: オレがあんまり熱心にやるもんだから、親も不憫に思ったらしく、中二の時のフォークギターを買ってもらいましたね。それからまあ本格的にのめりこんでいくんですけど。

T: 発表の場とかは?

K: はい、中学の時は稲沢というところに住んでました。名古屋のちょっと上の方の近郊都市です。そこの稲沢中学ってとこで、稲中バンドっていうのを組んでまして、哀しいことに坊主頭なんですね。で、どんなカッコつけてもダメなんですけど、一応なんか当時流行ってたチューリップとかやってました。あとビートルズもやっと聴くようになり始めてて、でもサイモン&ガーファンクルにはだれも付き合ってくれなくて、当時はやってたフォークのいろいろをやるようになりましたね。一人、教師にギター弾く人がいて、その人が部室みたいなのを用意したり、アンプなんかも調達してくれました。電気通して大きな音でやるようになりました。で、文化祭かな?何かそういう類の催し物でちょくちょくステージに出るようになりましたね。

T: もう70年代には入ってました?

K: 中学はそうですね、71〜2年ですね、12〜13歳の頃だから。

T: 邦楽・洋楽いろいろ聴いてた感じで?

K: 僕はほとんど邦楽は聴いてなかったですね。バンドでやるから「これコピーして来い」って渡されたものを、日本のだとそれだけを練習、みたいな感じで。何だったかな?「ふきのとう」とか「三輪車」とか、何かそういうものと「ビートルズ」が共存している、というバンドでしたね。

T: 編成は?


K: 編成はね、僕がなぜかエレキギターを持っていて、ドラムがいて、先生がベースを弾いていたのかな。みんなで歌も歌っていました。僕んちはフォークはいいけどエレキはダメっていう家で、で、エレキギターは断じて許してもらえなかったんですけど、クラスにひとりくらいエレキ持ってるけど弾けないっていうヤツがいるんですよ(笑)。彼のをずっと借りっぱなしにしてました。でもうちに持って帰るとバレちゃうから、学校でだけ弾くようにして、だんだんエレキギターの扱いも分かってきてたような時期でしたね。

T: 高校に入ると音楽に対して、何か変わってきたとか?

K: はい、俄然変わっていくんですけど。高校はまた名古屋の高校に戻るんですんね。また友達を1から作り直さなきゃならなくて。で、自己紹介ん時に「僕は音楽がやりたいので、バンドやってくれる人、よろしくお願いします」みたいな事を言ってたら、声かけてきたヤツが、大のフォーク男で、いきなり「かぐや姫」に行っちゃうんですね。かぐや姫と拓郎かな?

T: ええ。

K: それでまあ、僕も、かぐや姫のショーヤンとかギターうまかったんで、その辺に接点を見出そうと一生懸命聴き込みました。で、たいがいのかぐや姫の曲はやりましたね。それで、やっぱその段階では、学校の文化祭が主な活動の場でしたね。それが1年生の間ですね。1年生の中頃からなぜか野球部に入るんですね(笑)なんでかよく分からないんですけど(笑)。

T:(笑)急に野球やりたくなったんですか?

K: 急にやりたくなったのかなぁ?でも当然片手間なんで、しかも軟式で、すごいいいかげんなクラブだったんですけど、そこですらレギュラーは取れずに補欠に甘んじていたんですね。それでまあ、それも1年持たずに諦めてしまうんですけど。「つまんねーなー」とか思ってた頃に、うちの近所に住んでたやつ、こないだのスイートベージルにも来てたやつなんですけど、そいつがどうもあやしい音楽を聴いてんですよ。「おれの聴いた事ないのがヤツの部屋から流れてくる」って。「なにそれ」って。ツェッペリンだったりイエスとか、プログレなんですよ。いきなり。「うわーこりゃすげー」って。そういうのに興味ある連中が4人集まったのかな。僕がギターで、その引き込んだやつがドラムで、もう一人ブラスバンドの部長さんっていうのがいて、もう一人ベース、これが相当の不良なんですけど、その4人で始めて。まあバンドと言える形のものになったんですね。それで、まあ怖いもの知らずですから、手当たり次第にコピーするんですよ。ツェッペリンもやるし、イエスもやるし、ELPもやるし、一番すごかったのが、2年生の文化祭での「展覧会の絵」全部制覇ライブっていうのでした。でもあれ、ギターはあんまり活躍の場がね、途中の「賢人」のアコースティックのパートくらいしかないんですけど、なんかもう闇雲に「みんなでやろうぜ」、みたいな感じでやり切っちゃいました。バンド名も「メサイア」っつー偉そうな名前を付けて。(笑)

T:(笑)

K: それはもう2年から3年の終わりまでずっと続けたんですけど、結構体育館も一杯にするくらいのそこそこの人気が出てきて、ほかの学校の人も見に来たりしてました。それで、バンド合戦っていうのがあったんですよ。今だとどういうのに当たるのかな?分からないですけど、まあ学校単位でバンドが出てきてどっかの体育館みたい所で演奏を競い合うみたいなのがあったんです。まず地区予選があって次に名古屋地域の本選みたいなのがあるんです。その地区予選で優勝しちゃうんですね。そこでツェッペリンの「ローバー」って曲をやって、まあそこそこいけてたんでしょう、そこで優勝して本選に臨むんですけど、その頃は3年の受験まっさかりの頃だったんですけど、そんなことにうつつを抜かしていたので、あの、受験は全部失敗しました。もう本当にバンドが本気で楽しくなり始めていた頃なんですね。

T: 「メサイア」っていうのは?

K:「救世主」なんでしょうね。鬱屈した学校生活を俺たちが何とかしてやるぜ、みたいな・・・。

T: みんなでつけたんですか?

K: 多分。良く憶えてないな。その頃になると、もう、学校内の活動だけじゃなくて、区のホールとかを借りて3ヶ月に1回くらい定期的にコンサートをやるようになってました。ちゃんと打ち上げもやるようになりました(笑)。今と大差ない構成になってましたね。その頃から曲も作り始めましたね。

T: 最初に作った曲ってどんな感じなんですか?


K: あのね、もう同じですね、今と。あの、プログレ道に引きずり込んだ例のヤツが、「こんなのあるよ」っていって聴かせてくれたのが、マイク・オールドフィールドの「チューブラベルズ」だったんですよ。それを聴いた時、すごくいい曲で、大好きになったんですけど、何よりも一人でやっているっていうのにびっくりして、「ああ、そんなことが出来る人がいるんだ」って思いました。そして「自分でもこういうのがやってみたい」と、切実に思ったんですよ。何とかして自分でギターを弾いて、それに笛とかなんかほかの楽器を重ねる事が出来ないかなって思って。当時あの、旺文社のLLっていうカセットレコーダーで、英語を聞きながら自分の声も入れて発音を練習できるっていう機材があったんです。それでやると、1曲録ったものにもう一個音を足せるんです。2トラックあるわけです。それを、引きずり込んだやつも持ってたんで、2台用意して、片方に2コ入れたものを鳴らしながらもう片方に1コ、それと歌か何か入れたものを3チャンネル、最後ほかの楽器をもうひとつ入れることができる。つまり4チャンネルの多重録音が初めてそこでできるんですよ。で、そうやって作った曲は後のザバダックで作っているような類のインストの曲でしたね。

T:へー。それは高3?


K:そうですね、高3ですね。そうです、受験勉強をせずにやってたのを憶えてますから、はい(笑)

T:(笑)要するに教材って事ですよね、機材って。


K:そうそう。で、英語のカセットもついてくるんですけど、片っ端からツメを折ってもう全部多重録音用に使ってましたね。

T:それは自分で買ったやつ?買ってもらったやつ?


K:買い与えられたやつですね、英語をやりなさいって(笑)。でもそっちの用途にはほぼ使わなかった(笑)。

T:友達が同じものを持っていたっていうのは何かそういう利用価値があるっていうので買ってもらった?


K:いやー、そこまで姑息なことは(笑)偶然ですね。

T:じゃあそれがザバダックの前身っていうか。


K:はい、始まりですね。

T:大学受験は、結果はどんな感じになったんですか?


K:結果は、国立しか受けなかったんですが、3つ受けて、全敗でしたね。でも半ば計画的で。浪人したかったんですよ。浪人すると学校行かなくていいじゃないですか。で、河合塾に行くんですけど、全然授業なんか出ずに、友達のうちに楽器を持ち込んで入り浸ってました、それがベースの、さっき出てきたメサイアの不良のやつの家だったんですけど、そいつん家はすごい放任だったんで、浪人生が昼間から何してようと全くかまわないっていう素晴らしい環境でした。でも音がもれるのはやばいっていうんで、窓閉めて、カーテン分厚いの閉め切って、真夏のくそ暑い中、汗だくになりながらひたすらバンドの実力を上げていくんです。だから浪人時代に僕たちのバンドはどんどん上達していきました。

T:ああ。オリジナルもどんどん増えていく?

K:どんどんは増えなかったですね。僕はバンド用の曲みたいなのが作れなかったんですよ。多重録音の喜びにはまってましたから。だから、2つの系統でやってましたね。みんなとはバンドでガンガンロックやって、一人になるとシコシコと多重録音で音をこしらえていく、というような。

T:両方とも同じくらい好きだった?


K:そうですね、バンドもすごい楽しかったし。

T:じゃあ一日の時間は、音楽に費やす時間って?


K:もうほとんどですね。もう部屋に入っても参考書開くことは、まずなかったですね。ギターばっかり弾いてましたね。

T:で、ライブも。


K:はい、ライブも高校時代に比べるとガタンと減るんですけど、浪人中に2回かな、やりましたね。

T:浪人時代が1年あって、その後の展開っていうのは?


K:それでもう名古屋ではもうやり尽くしたな、みたいな感じになってたんですね(笑)。俺たち上手いし、みたいな(笑)。俺もうギターすげーうまいじゃんみたいな。見本のようなテングになってましたね。「これはもう東京に出て、自分の腕を見極めた方がいいんじゃないか?」というような思いがあって、とにかく東京に出たかったんですね。もう浪人の年の受験はどこでもいいから大学に潜り込めればいいやって感じでした。大学に入ることが条件で親は東京に出してくれるってコトでしたから、なにはともあれとにかくどこかに!ということで12校受けたんですね。東京の大学を。そうしたら2つばかりひっかかって、なんとかメデたく東京に出ることになったんですよ。

T:最初、東京で住んだ所は?


K:立川です。何故かは分からないんですけど(笑)。(大学は)中央大学に入る事ができて、南武線と小田急線を乗り継いで行くんですけど、最初はもう意気揚々と大学に行って、軽音楽部か何かの門をたたいたんですね。「さあ、ここからオレの音楽人生が始まる」みたいな気分でいたんですけど、意外と大学のバンドがショボくて、肩透かしを食った状態になってしまって。それでも半年くらいは中央の中での活動をやって、1回ライブをやらしてもらったんですけど、やっぱ全然面白くなかったんです。その後、学外の人とバンドを組むようになって、フュージョンみたいなのをやるようになっていったんですね。わりとペラペラとギターを弾きまくる系の。それで、ラリー・カールトンとかリー・リトナーだとか、まあ当時ギターのヒーローがいっぱいいて「誰のどの曲をどこまでコピーした」とかがギタリスト同士の話題になるような時代で、そっち方面にのめり込んでいくんですね。そして2年になって、こういう音楽やるのにはどうも理論っていうのが必要みたいだぞ、というようなことを感じはじめました。コードネームと耳コピのみでずっとやってきたのが、「このコードの時にはこういうスケールで弾いたほうが格好いいってのがどうやらあるらしいぞ」、みたいな感じですね。

T:何かきっかけがあったんですか?


K:それもやっぱりラリー・カールトンとかをやり始めてからですね。それこそ今まで「ソ.ラ.ド.レ.ミ.ソ.ラー」ってペンタトニックでやってれば良かったのが、たとえばCのキーで、G7が鳴ったら「ソー、ソのシャープー、ラのシャープー、シー、ドのシャープ」みたいな今まで聞いた事のない、ディミニッシュでもない、ハーモニックマイナーみたいなやつ。オルタードの音が来た時に、ソロの人はそういうスケールを駆使して個性を発揮できるみたいなことに気づくんです。それはカッコいいんだけど、どうやればいいか分からない。それをやるにはどうも理論っていうのが必要なようだなって思い始めたわけです。で、2年の途中から音楽学校に通い始めました。学費は自分で出したんですけど、なぜそんなお金があったかって言うと、2年生の時から「ハコバン」っていうものを始めていたんですよ。今ほどカラオケが世の中に浸透した時代じゃなかったんで、生バンドの演奏でお客さんが歌う、みたいなお店があちこちにあって、そういうものに誘われて、「ギター弾いてお金がもらえるなら最高じゃん」、みたいな感じで始めたんです。それまで過酷なバイトを散々体験してきただけに、飛びつきました。結構良かったんですよ、お金が。夜の7時から30分ステージを4回やると1万円もらえたんですね。で、週5回やってたのかな。だから週に5万円じゃないですか。もう当時の僕にしたら、もうすごいアブク銭のような、すごいバブルな感じになって。このお金があれば音楽学校にもいけるな、と思って、アン・ミュージックスクールっていう所に通い始めるんですけど、実際行き始めたら大変で・・・。大学の授業もあって音楽学校もあって、夜はハコバンじゃないですか。まあ、人生で一番忙しかった時代ですね(笑)。

T:「ハコバン」は具体的にどういう場所でやってたんですか?


K:横浜です。その当時はもう立川じゃなくて府中に住んでたんですけど、府中から横浜までって結構あるじゃないですか。音楽学校が六本木にあったので、八王子、六本木、横浜っていうのを毎日やりくりして動き回ってたんですね。ギターとエフェクターかついで。まあ大変だったんですけど、充実してたんでなんとかなりました。ハコバンも割と楽しかったんです。客のバックはそんなにやんなくてよくて、割と自分たちの好きな曲をやらしてもらえるお店だったんで、けっこうビートルズなんかをガンガン普通にやってました。そこそこ楽しかったんですけど、それがいけなかったんですかね。4年も続けちゃったんですよ。

T:ズルズルと。


K:そう、ズルズルと。結局24歳まで続けてしまって、もう最後の頃は楽しくも何ともなくなってしまってました。人の曲ばっかり毎日毎日やってて。僕の人生ではめったに感じないストレスみたいなのを感じ始めてて、しまいには胃潰瘍になっちゃったんですね。東横線の菊名駅でぶっ倒れて駅の救護室に運ばれました。病院にいったら胃潰瘍できてますよって。「ああ、つまんない音楽ちょっと続け過ぎちゃったかな」みたいなのがあって、そろそろやめようかなと、思い始めてました。もうちょっと楽しかった時の音楽って何だったんだろうって考えてた時期だったんですね。そんな時に高校時代に付き合っていた彼女とばったり会った事があって、その人が「今こんなの聴いてるんだ」って言ってウォークマンで聴かせてもらったのがケイト・ブッシュだったんです。それが「ドリーミング」っていうアルバムだったんですけど、それがまたすごくて。自分としてはハコバンもそうですし、フュージョンとかも何かしっくりこないなって思いながらやってたんで、何か、自分が好きな音楽ってなんだろう、見たいなのをドヨーンと思ってた時に、ケイト・ブッシュはもうストレートでズドーンとストライク入ってきました。「うわー、かっこいいーっ、これかなー」って。そして、むかし旺文社のテープレコーダーでやってた多重録音みたいなのをまたやりたい、と激しく思いました。その頃は狛江に住んでたんですが、近所にサウンドガレージっていうリハーサルスタジオがありました。そこでよくバンドの練習をやってたんですけど、そこにフォステックスの8chのマルチレコーダーがあって、それをちょっとずついじらせてもらうようになりました。で、夜の間はオレ店番するからこれ使わせてって言って(笑)。店番兼録音勝手にやり放題、みたいな(笑)のをとりつけて。そこでケイト・ブッシュで衝撃を受けた結果出てきた自分の音楽を徐々に作っていったんですよ。それが24歳の時で、それをまとめたのが一昨年復刻した「after the matter」っていう、白黒のジャケットのやつなんですよ。

T:「ザバダック」、そろそろですよね。


K:そうですね。音楽学校、アン・ミュージックスクールの、僕はギター科に入学したんですけど、アンサンブルクラスっていうのがあるんですね。それぞれの科から集まった人たちでセッションする授業です。そこに上野洋子がいたんですよ。上野はもともとピアノ科で来てたんですけど。なんだっけ、ミスティかな、ジャズのスタンダードの曲を彼女が歌って、みんなが演奏する機会があったんです。僕は彼女の声を聴いた時に、「うわー、この人の声すげー」ってぶっ飛んでしまいました。っていうのは例のケイト・ブッシュにすごい近いものを、声の倍音成分だと思うんですけど、すごい近いものを感じて、「この声といっしょに音楽やりたいな」と思ったわけです。いろいろ話をしてみたら、実は彼女もケイト・ブッシュ大好きだったりして、意気投合しまして、深夜僕がやってたスタジオに連れて来て、「今こんな曲つくってんだけど歌ってくれないかな」みたいことを言ったんだと思います。で、彼女と僕とで作ったものがだんだん増えていったんですね。で、その「after the matter」っていう中にも、1曲上野が入ってるのがあります。オハイオ殺人事件っていう、こないだもやった曲なんですけど、それで参加してもらったり。

T:「aftrer the matter」っていうのは、当時自主盤で?


K:そうです、自主です。

T:どんな感じで作ったんですか?


K:スタジオがそのツテを持ってたんですよ。そこで作った音源を、アナログ盤にしてくれる工場に持っていって、それをいくらだったかな、50万だかで作ってもらったんですよ。100枚作ったのかな。僕としてみればもう、当時、書き溜めた最高のものを入れたんで、大大自信作、自分のすべてを注ぎ込んだものを意気揚々とあっちこっち持っていくわけですよ、それを。はかないツテを使って、レコード会社の人に聞いてもらったりとか、ハコバンのバンマスに紹介してもらった業界の人に聴いてもらったりとか。それで、50枚くらい配って回ったんですけど、見事に誰も相手もしてくれなくて、「こんなのウケるわけないじゃん」って。聴かす人聴かす人みんなつれないお返事ばっかりで。「あれれ、ダメなのかな」って自信をなくしかけていた時に、パルコのオルガン坂大賞っていうのにそのアルバムごと応募してみたんです。そうしたら何か、パルコはすごいトガってた時代っていうのもあるんですけど、面白がってもらえて、本選、パフォーマンスを会場を借りてする決勝戦みたいなのに残ることができたんですね。パルコ劇場だったと思います。そこで、パフォーマンスをすることになったんですけど、なんせ多重録音で作っちゃったものなんで、「何しよう」って。で、上野と2人で考えて、かなり恥ずかしいんですけど、オハイオ殺人事件で演技をしたんですね(笑)。

T:(笑)へー。


K:一応マイクを立ててもらって、歌の部分は口パクで、歌うフリをして、歌のないところでは、なんか、奥さんを殺してしまうダンナさんの話なんで、上野を奥さんに見立てて、僕がそれを殺してしまうダンナさん役をして、ちょっと寸劇を(笑)。で、賞は逃したんですよ、グランプリと二等賞と何とか賞とっていうお金のもらえる賞にはひっかからなかったんですけど、それでまたいったん落ち込むんですけど、後日、その時審査員の一人だった立川直樹さんという方から電話がかかってきて、「君たちの曲、気にかかるんでもうちょっと聴かせてくれないか」みたいな事を仰いました。で、お会いして、そっから割と回転し始めて、もう、すぐにレコーディングに入っちゃったんですね。

T:凄い。


K:僕はそのとき、本格的なレコーディングのノウハウっていうのが全くなかったんで、安部隆夫君という人に間に入ってもらいました。彼はアレンジャーなのですが、コンピュータというものを駆使してアレンジをさくさくと行っていく、初めて会うタイプの人でした。彼に僕の曲を聴かせて、こんな曲を作りたいんだって言うと、彼がコンピュータにアイデアをどんどんプログラミングしていくんですね。すべてが初体験で驚きの連続でした。そんなこんなで、1枚目のアルバムが出来上がっていくんですけど、まだザバダックではなかったんですね。とりあえず吉良計画ということで「プロジェクトK」という名前で進行していって、その間に何本かライブとかもやるんですけど、安部くんがメンバーを集めてくれて、彼がベースを弾いて、僕がギターと歌で、上野が歌と鍵盤、それにコンピュータで鳴らす音源、みたいな形態で、何本かライブをやりました。

T:そのコンピュータって?


K:アップルの?やつですね・・・。たぶん。ボクはもうホント何も分からずにやってもらってたんで。

T:そのアイテムに夢中にならなかったですか?


K:僕はね、フォステックスの8chのレコーダーにひたすら手弾きで入れてたんですよ。ドラムもヤマハのパッドのついた機械で「ドンドンタッ、ドンドンタッ、チキチキチー」みたいに(笑)。まずタイコをいれて。これ打ち込みも出来る機械なんですけど、マニュアル見るのメンドくさいんで。とりあえずドンドンできて来ちゃうもんだから、こなしていくのが、録音していくのが間に合わないくらいの感じだったんで、操作覚えている時間が惜しい、というような感じでした。とりあえず出来る事ジャンジャンやっちゃえ、みたいな感じです。まず2ch使ってキックとスネア入れて、次の2チャンにハットとシンバル入れて、次のチャンネルにタム入れて、で6コ使っちゃったから2コにピンポンして、次はベースとギター入れて、でまた6コ使っちゃったから2コにまとめて。だから、音質はドンドン劣化して行っちゃうんですけど。なんというか力業でやってましたね、多重録音。

T:同じような事をコンピューターで再現してくれる相手が出てきた。


K:そうそう。相手が出てきました。僕じゃなくて上野がそれに興味を持って。それからずっと打ち込み関係は上野が担当になったんですよ。彼女がすごいそういう意味で理系的な頭を持っていてくれたんで、どんどん彼女は新しいものを吸収して、割と当時の最先端の技術で打ち込み関係はドンドン充実していきましたね。で、今みたいにサンプラーっていうものがまだ全然普及していなかった時代、イミュレーターっていうおっきな機械がありました。フロッピー入れて、それ読み込むのに3分くらいガチャガチャいってて、でも「その機械からピアノの音が出るんですよ」「うぉー」みたいな。次はストリングス、「グー、ガチャガチャ、グー、ガチャガチャ」、「ウォーン」ってストリングスが鳴る、「ナンじゃこりゃ」みたいな。もう大感激で、でもそれ数百万円もする楽器だったんで、レコーディングの度にレンタルで、それ専門のオペレータもついて来てくれて。ともかくそれがあればなんとかなる、みたいな。そういう形のレコーディングでしたね。

T:ザバダック結成は?


K:深夜、多重録音レコーディングを狛江でやってた時に、すでに「アン」でやっぱり知り合ってた、松田克志君がいました。

T:「アン」で。


K:そうなんですよ。松田君もアンで。彼はアンではものすごい優秀な生徒で、北海道出身なんですけど、北海道の何かのコンテストで優勝して、アンには特待生で来ていたんですね。すごいドラマーが近くにいる、頼まない手はないな。みたいな感じで、彼を深夜のスタジオに呼んでドラムたたいてもらいました。今まではヤマハのパッドのやつでやっていたのを生ドラムでやってもらうっていうのも始まっていたんですね。いざ安部君に誘われて本格的なレコーディングをするってなった時に、上野と僕は決まっていたんですけど、その「after the matter」に入っているミュージシャンの中で松田君はやっぱり引き込もうよってことになって、3人でとりあえず進めていこうって決まっていました。 デビューアルバムでは打ち込みが多用されています。今にして思えば「何でかな?」って思うんですけど、何故か、タイコをたたいてもらった音を1回サンプルして、で、シーケンサーでそれを動かす、みたいなややこしいことをしてましたね。結局松田君が生でたたいたっていうタイコは?あるにはあるのかな、ポーランドという曲はキックとスネアだけサンプルした音をシーケンスでレコーディングしたのに、タムだけ後で生でかぶせる、みたいな。とにかく、非常に変則的な起用の仕方を松田君にはしてしまって。彼にしてみれば普通に叩きたかったのでしょうが、その辺はちょっと不満に思う部分はあっただろうと、今にして思うわけです。ライブの時も、やっぱりこうマックでもってリズムを出して、松田君にはヘッドホンをつけてそのリズムの上で叩くという不自由な形でやってもらっていました。後にそれは一般化するんだけど、基礎になるリズムをコンピューターで出すみたいなことをやってた僕たちはわりと先駆けの方だったと思います。そんなことが面白くて仕方なかったのも確かです。そんな感じで3人でとにかくやろう、ということになって、レコーディングも済んで、でも名前が決まってなかったんですね。もう全部完成して、もう「デビューの日も決まってんのに、バンド名いいかげん決めろよお前ら!」みたいなことをレコード会社の人に言われました。あわてて当時、六本木のスタジオでやってたんですけど、そこのレコードのコレクションを見て、いいのがあったらもらっちゃおうぜ、みたいな感じで探していました。そこでたまたまディヴディ・グルーヴっていうバンドのアルバムがあって、その中の曲に「zabadak」っていうのが含まれていて、なんとなく字面が面白いなっていうので「これにしない?」ってみんなで。「いいねー、点々いっぱいで。」みたいな。あっさりと。で、「zabadakで行きまーす」。そんなもんです。

T: へー。楽曲はみんなで?吉良さんが?


K:デビュー盤では上野が2曲、書いてますね。ミニアルバムだったんですね。大きさは普通のLPサイズで、6曲入りだったと思います。めでたくバンド名も決まって、それでデビューということになるんです。

T:そこからは年に1回とかのペースに?周りからの反応とかは?


K:東芝だったんですけど、パルコが絡んでたって言うのもあるんですけど、西武と東芝が組んで新しいレーベルを作ったんですね。その第一弾だったんですよ、ザバダックは。ポップサイズレーベルっていう。ザバダックとサザンオールスターズのケガニさんっていますよね、その方のバンドが第一弾で2グループ、デビューしました。そのイベントの絡みみたいなので、いろんなのに出ましたね。それから、そのレーベルでは映像も一緒に付けていこうみたいな感じで、PVっていうのが今ほど盛んに作られる時代じゃなかったんですけど、あの、そういうものも体験させていただきましたね。

T:具体的にライブとかで映像を投影するみたいな?


K:いや、プロモビデオですね、要は。そういうのをやりましたね。過酷でしたけどね。オハイオ殺人事件という曲で最初のPVをとったんですけど、2月の八ヶ岳(笑)。2泊3日、全部車中泊(笑)。上野洋子は凍った水の上でワンピース1枚で横にさせられて、ゆっくり立ち上がるみたいな演技を延々・・・。僕は車の中で見てたんですけど。それを3時間くらいやってましたね。で、凍えきって戻って来て、カップヌードルとか食べようとするんですけど、ポットのお湯がもう水になってて、しょうがないから水をかけて、冷たいところをバリバリと、なんてことをしてました(笑)。

T:(笑)映像のディレクターは西武側から?


K:西部側の人の紹介でした。で、けっこうやる気満々の人で、で、そういうことをさせられたんですけど。まあ、過酷ではあったけど楽しかったですね。

T:もう出だしから、すでに周りの人たちから違ったパワーを?


K:そう、ジャケットの写真なんかもすごい人なんですよ。なんていったかなー。とにかくカッコよくしようって。パルコなんだし、みたいな。パルコなんだし西武なんだし、みたいな。デビュー盤に入っていたポーランドっていう曲は、当時のセゾンカードのCMに使われたりして、割とこう、後の世のメディアミックス?。いろんなことでプロモーションして盛り上げていく、みたいなノリでしたね。僕はもう右も左も分からないド素人だったから、言われるままに「何でもやります」みたいな。で、ひたすらついていきましたけど。

T:ライブとかも、けっこうデビュー頃は?


K:はい、コンピューターを使ってのライブって言うのをしばらく続けてましたね。デビューしてしばらくは、僕スーツで出てたんですよ。メイクしたりして。で、上野は真っ黒の服着て、金髪のカツラかぶったりして、とにかくまあ、ビジュアル系ですよね、要は(笑)。僕は一切しゃべらない、上野は本を読むようにして物語を進行していくみたいなMCをしてました。とにかくもう決め決めで。みんな一切笑わない。で、とにかくカッコつけてましたね。それも自分たちでそうしようってしたんじゃなくて、「そうしたら」っていわれて、言われるままにカッコつけてましたね。

T:へー。


K:で、だんだんお客さんも増えてくるんですけど、客もみんな真っ黒け(笑)

T:(笑)、おしゃれなカッコの。


K:そう、DCブランドの、みんなコムデギャルソンの、みたいな。全然盛り上がらないし。友達見に来て「何このお通夜みたいなライブ」って。(笑)

T:じゃあライブっていうよりなんか、、。


K:何だったんでしょうか。当時、西武系列のおしゃれなイベントホール、のようなところでよくやってました。インクスティックやエッグマンやテイクオフセブンでもやりました。なんかあの辺りで2ヶ月に1本くらいの割合でやってたのかな。そうですね、2枚目のアルバムもやっぱミニアルバムなんですけど、その頃までは割とそういう、ガチガチのコテコテの、今思えばクサーいバンドでしたね(笑)。やってる音楽は今のザバダックと同じなんですけど。

T:で、3枚目でフルアルバム。


K :はい、3枚目でやっとフルアルバムが作れることになりました。「welcome to zabadak」というアルバムです。その頃からちょっとずつ生音重視みたいなことになってきて、でもそこではもう2人になっちゃうんですね。松田君は初めの2枚を作った段階でもういられないなと感じたのでしょう、もうバンドを抜けてしまっていました。2人になってやっとフルアルバムをつくることが出来るようになって、そうするとこう、皮肉なことに、彼がやめた後で、生楽器重視みたいなことに方向性が変わってきました。もうちょっと我慢すればよかったのに、みたいなのもあったんだけど・・・。別のドラマーに来てもらって、普通にドラムセット叩いてもらって、ベースは今も付き合ってもらってる、内田ken太郎君が、そのアルバムから参加するようになって、段々こう、サウンドがグルーヴのあるものに変わっていきました。それまではリズムなんかもビシッビシッってなんかすごい「点」でとらえていて、歌も棒のように歌って、ブレスはカットされてたりなんかして、無機的なものこそ良しとしていた時代でした。そういうのが新鮮で面白いなと思ってました。ケイト・ブッシュなんかもそういう手法を使っていた時代で、たとえばすごいコンプレッサーかけて、歌が棒のようになってたりとか、そういうのに近づけるのがデビュー当時はうれしかったんです。タイコの音なんかもタムにだけゲートリバーブつけるんですよ。(リバーブの様子が)「ようかん」みたいな音です(笑)。「カーッ、カーッ」って、そういうのがすごい気持ちよかったんで。デビューした頃はそういう、変な音づくりをするのが僕も上野も大好きだったんですね。そういう好みは3枚目のレコーディングあたりから徐々に変化していきました。ライブもコンピュータとか使わなくなっていきました。

T:それで、バンドっぽい音でライブを続けて。東芝はこの辺まで。


K:そう、3枚目で東芝が終わります。で、1年レコード会社と契約しない時期があって、その時事務所も移籍したんですよ。あの、のちのバイオスフィアになるマグネットスタジオに僕たちも所属させてもらって。ラッキーなことに僕たちってレコーディング環境に恵まれていたんですね。マグネットに移ると、マグネット
もレコーディングスタジオなんで、開いている時間、使わせてもらえるんですよ、エンジニア込みで。

T:いいですね。


K:その浪人期間も、デモテープを作ることができたんですね。その、優れた音質の。そうやってためていったものが後に役に立つんですけど。

T:この時は、時代的にはバブル?


K:そう、バブル。バブり始めた頃ですよね。それで、MMGと契約を結んだとたんに、海外レコーディングの話がいきなり来ました。で、あのサディスティックミカバンドでキーボードを弾いていた今井裕さんがプロデューサーについてくれました。彼はサウンドプロデュースというより、ザバダックのモノの考え方をプロデュースする、みたいなところがあって、「君たちの音楽には、根本的にアイルランドに通づるものがあるような気がする、アイルランドでとりあえずミックスだけなんだけど行ってみよう」って事になって。当時、「フェアグランド・アトラクション」なんかで、トップエンジニアになろうとしている頃の「ケビン・モロニー」という人にミックスをしてもらう事になりました。で、そこで、僕と上野はもう「大ひとり頭ん中革命」をするんですけど、もう、根底から音楽に対する考え方を変えられる、みたいな、すばらしいミックス。ミックスによって音があらたに作られていく、みたいな。そういうものに出会うんですよ。それが「空飛ぶ夢」ってアルバムだったんだけど、これはつくる段階ではやっぱり、それまでの無機的なテクノ系のサウンドを引きずってレコーディングされてた素材なんですけど、それをものの見事にこう、有機的な、ちょっとこうブヨブヨするようなっていうのかな、そういう、こう、「生き物」にしてくれた感覚がありましたね。「ああ、おれたちの曲ってこんな風になれるんだ!」みたいな。最初のミックスを聞いた晩はもう興奮状態で、みんなで部屋に集まって、何を話すわけでもないんですけど、すごいものを聴いちゃったよね、みたいな、眠れない夜を過ごしました。ミックスで打ちのめされたのと同時に、アイルランドの風土にもやられました。ダブリンの酒場って、どこ行ってもバンド入っているんですよね。ギターとティンホイッスルとアコーディオンとブズーキ、みたいなバンドがどこに行ってもいて、そういう人たちともすごい気軽にセッションができたりとか。そういう、音楽がホント身近にある、っていう。みんなギネス飲んでは楽器弾いてうた歌って。僕らもその輪の中に入れてもらって、何かもう、音楽やってて幸せ!(笑)みたいな、もう基本的なところでむちゃくちゃうれしくなっちゃって。そっからですかね。本当の意味でのザバダックが始まったのが。それ以降、割と上野が積極的に曲作りを始めるようにもなっていきました。

T:つづく、『遠い音楽』。


K:はい、『遠い音楽』ですね。それが、僕らが開眼して初めてのアルバムになりますね。

T:『遠い音楽』、詩的なものはどういう考えだったんですか、当時?


K:歌詞はね、始めは僕が自分でつけたんですけど、何かこうケイト・ブッシュが引き金になっていることもあって、日本語っていうのが念頭になかったんですね。日本語でつけるのが何か、照れくさくって、とりあえず、なんとか手の届くところの英語でつけてたんですけど、ギターならギター、ピアノならピアノでデタラメに英語まがいの鼻モゲラで歌ったものを、聞き直して、何か英語に聞こえる音を取り出してくるんですね。そうすると、何かの単語が浮かび上がってきて、そこから無理やり物語を、その単語から引きずり出してくる、みたいな感じで物語を作っていくというすごい手間のかかることをしていたんです。だから英語で詩をつくったのは3曲だけなんですけど、最初はそういうものしかなかったんですね。そのあとの日本語詩の何曲かはドラマーの松田君が詩を書いていたんですよ。

T:ああ。


K:松田君は松本隆さんが大好きだったりして、普段からこう、いろいろ書き溜めている人でした。「こんな曲が出来たんだけどどう?」って聴かせると「僕がつけてみる」というような感じで。それからしばらくたって、小峰公子が現れました。

T:この『遠い音楽』は?


K:『遠い音楽』では小峰公子、原マスミさんですね。タイトル曲は原さんですね。上野もいろんな作詩家の方に頼んでいました。

T:発注する際に、音楽のイメージの説明みたいなことはするんですか?


K:そうですね、曲によっていろいろです。

T:次の年に初のライブアルバム。


K:はい、『遠い音楽』のレコーディングに渡辺等くんと、金子飛鳥さんが参加していて。そこでもやっぱりビックリするんですね、アーティストの力量に。「この人たちとライブやりてー」みたいな感じで。その頃はもう完全にコンピュータを使わない、生演奏だけのライブの形態をとるようになってました。バイオリンが入って、僕がギターで、タイコ、ヒトシくんがベース弾いたりチェロだったり、キーボードがいたりいなかったり。とにかく、生の、生身の人間が出すグルーヴを意識してザバダックの曲を演奏するようになったのが、その『遠い音楽』ライブからくらいだったんですよ。それはやっぱりアイルランドのパブのイメージが2人とも強烈に残っていたんで、やっぱ音楽って生じゃん、みたいな方向にどんどん傾いていったということなんでしょう。で、その渡辺くんや飛鳥さんといっしょにやってるバンドが、やるごとにどんどん良くなるんですね。その頃は動員も飛躍的に伸びていった時期で。それまで100人くらいしかこなかったのが、200人、300人ってどんどんやるたびに増えていって、ライブアルバム出した頃には、1000人を超えてて、「いやー、そろそろこのバンドもいい感じになってきたから、この辺で音残しとかない」っていうことで、初めてライブアルバムというものを作りましたね。

T:あの客層もだいぶ変わって?(笑)


K:はい。黒以外の色も目立つようになって(笑)。その頃から上野にスタイリストがつくようになって、。アメリカンカントリーみたいなちょっとレースのついたカワイイ格好するようになったら、そういうのをお客さんも着てくるようになって。数年前のと同じバンドのお客さんなのか、これはっていう(笑)そんな風になってきましたね。

T:で、次のアルバムが『私は羊』。


K:えー、はい。それはちょっと悩み入ってる頃ですね。『遠い音楽』『live』と、結構フル回転でぐんぐんやってきたのが、ちょっとエネルギー切れちゃった、くらいの感じで。でも契約があるんでつくらなきゃ、みたいな・・・。でもバブルまっさかりだったんで、制作費は『私は羊』が一番かけてるんですよ。

T:へー。


K:今だと考えられないけど、2000万円!。レコーディングも福島の方のリゾートスタジオをどかーんとおさえてもらって。「できない時はやんなくていい」みたいな、ね。もう・・・。まあ時代が時代だったんですよね。

T:翌年、自主制作アルバムっていう。


K:はい、それはですね、白虎社っていう暗黒舞踏の、明るい暗黒舞踏(笑)の人たちのためにつくったインストの曲があったんです。1コ1コがすごい長くて、3曲で40分以上あったかな。それを当時のライブの開演前に流していたんです。そうすると、ファンの人から「あれはいったい何なんだ」っていう声がどんどん聞かれるようになって。「あれをぜひ売ってくれ」みたいな。

T:へー。


K:そういう事になって、マグネットから発売しました。バイオスフィアの第1弾になるのかな?

T:なるほど。


K:それを出すためにレーベルを立ち上げて、インストだけのアルバムを作ったんですね。で、それをライブ会場で発売したら、1日で1200枚売っちゃって。エライこっちゃって(笑)。インストだけなんだけど、結構評判よかったです。インストっていうのがザバダックの中で2,3割を占めてるんですけど、歌ののらない曲っていうのが時々できます。そういうものはちょくちょく吐き出していかないと具合が悪いっていうのもあります。

T:翌年『桜』。これは?


K:はい。『私は羊』が出たあとに上野がもうザバダック止めたいって言い出したんです。僕も晴天の霹靂でしたし、スタッフももうビックリしちゃって。せっかくこう、動員もぐんぐん伸ばしてきて、「これからじゃん!」みたいな、そんな時でしたから。ちょっと待って、もう一枚作ろうよって。それでも止めたかったら、もう1枚作った段階でもう1回みんなで話し合おうよ、みたいなことになりました。上野の中では次に「ザバダックではない所でやりたい事」っていうのが、もうすでに念頭にあったらしいんです。でも、とにかく「もう1枚つくろう」っていうのは合意ができて。だから『桜』が「ラストアルバムだな」っていうのは、作る前から僕たちは認識していて、「じゃあ最高のものをつくろうよ」みたいな暗黙の決意がありました。それまで以上に楽曲を選りすぐる段階とか、アレンジもそうですし、すべての事にこう、丁寧に、時間をかけました。別に今までもないがしろにしたつもりは全然ないし、きちんとやってきたんですけど、「それの集大成だ」っていう事で、大事に大事に作ったアルバムです、『桜』は。

T:タイトルの『桜』は?


K:これはインストの『桜』からきてるんですけど。この曲はこないだのライブでもやったんですけど、実はデビュー前の狛江の夜中、多重録音で僕と上野で作ったものなんです。曲はぼくが作って、上野に声で参加してもらって。だから、僕と上野が出会った当時の曲だったんですよ。彼女はそれを「あの曲はぜひ入れたい」って。スタッフには「えーっ!」って言われて。9分もある、インストを普通の歌モノのアルバムの中に入れるって事にはすごく抵抗が、スタッフサイドとしてはあったようなんですけど、まあ、それはちゃんと説得して。思い入れの強い曲だから、アルバムタイトルにもさせてくれ、と。まあそれは最後のわがままみたいなものでしょうか。それで、できた作品ですね。だからもう2人ともが2人で作る、これが最後だって事で、その時持ってた力は全部注ぎつくしました。僕はリリースの段階でもう放心状態でした。もうしばらく何も作れなくなってしまいました。

T:そのアルバムが93年ですね。


K:で、その秋のコンサートで、「のれん分け」という言葉は使ってますが正式に上野は「脱退」と、いうことになるわけです。

T:翌年からはどういう?その放心状態から。


K:はい、それでMMGとも『桜』を最後に契約切れまして、また浪人状態に戻るんですけど。まあしばらくは何もできなくて、ぼんやりしてましたね。そして段々、曲ができるんですけど。さてこれをどう発表すればいいものだろうかって。上野がいなくなってもオレは1人でもザバダックと名乗りつづけて行くよと言ったものの、それをどんなかたちで、発表していけばいいかっていうのが全く、皆目わからない状態だったんで、とりあえず、多重録音でのデモテープみたいなものは徐々にためていきました。だいぶマグネットの社長に助けてもらいましたね。彼といろいろ相談したりして、実は何人か上野に代わる女性ボーカリストのオーディションみたいなこともしたことがあったんですけど、やはりピンと来なくて。「まあ、この辺で腹くくったほうがいいかな」みたいな(笑)。そういうことは思い始めていました。

T:なるほど。


K:で、1人で力強くやって行こうじゃないのって感じで。そう思ったら割とふっ切れて。で、実際スタッフにも恵まれていました。当時マグネットスタジオに専属でいた、松林くんっていう、エンジニアの人に打ち込み部分をやってもらって、さらにミックスもお願いしちゃったり、とか。スタッフに恵まれていたこともあって、一人でもなんとかなったんですね。それで、『音』というアルバムが出来上がりました。その間は今までにないくらいのブランクがありました。『桜』から『音』までっていうのは。たぶん2年くらいあったと思うんですけど。

T:『音』がバイオスフィアですよね?


K:そうです。本格的にバイオスフィアが、レーベルとして動き始めたっていうのがそのアルバムからですね。で、事務所仕切りでライブなんかもするようになっていきました。

T:『音』のアルバムに対するファンとか周りの反応っていうのはどういう感じだったんですか?


K:ネットとかは僕やってなかったんで直には接してないんですが、後から、その当時書かれていた文章なんかを見ると、やっぱりキビしい意見が多かったですね。おそらく半分以上、7割くらいのファンが去っていきましたね。「上野のいないザバダックなんて」って事で。そこで残ってくれた、何割かの人と一緒に、もう1回やり直し、みたいな感覚でしたね。動員もいきなりガクンと減りました。1/4くらいですね。キャパでいうと。でも別に、そう、ふっ切れていたっていうのもあったんで、あんまり気にしていなかったのが本当のところでしたね。っていうか、気にしたってしょうがないじゃないっていう。もう、僕は僕のザバダックをやるし、みたいな感じで。もうその頃は僕も結婚してて、身近に強力なサポートをしてくれる小峰って存在もいたし、なんか大丈夫な感じだったんです。

T:『音』リリース後のライブっていうのは、ライブはライブで同じように楽しんだり?


K:かなりロック色が強くなりましたね。『音』ライブっていうのがビデオで残っているんですけど、そこでは僕もエレキ抱えて、もう一人ギタリスト、保刈君ていう「KARAK」の人が入ってくれてs、渡辺等君がいて、とにかく、ロックバンドになりました。だから今までバイオリンとかチェロとか壊れやすそうな楽器を多用してたザバダックに比べると、何かシンプルになりましたね。それは僕の気持ちをふっ切るにもちょうどよくって、骨太ロックみたいなのが、心情的にもちょうどあってたような感じでしたね。

T:それからコンピのプロデュースとか。あと移籍が。


K:はい、当時はバイオスフィアがレーベルとして、すごく元気になり始めた頃で、新居昭乃さんのプロジェクトの作品をだしてたり、あと「カラク」や濱田理恵さんの作品も出したりとか。「ハイポジ」がマグネット所属になったりして。とにかく、バイオスフィアが割とコンスタントにいい作品をぼんぼん出してた頃です。で、何かみんなで作品持ち寄ってアルバムつくらないか、みたいな話になって、「songs」っていうコンピレーションアルバムを作ることになりました。

T:この頃からインディーズレーベルっていうのが定着しつつで。外資系のレコード店が割と力を持つようになって。


K:そうですね。

T:ポリスターに移籍するっていうのは?


K:それはですね、MMG時代に別のデスクに座っていた佐々さんっていうプロデューサーの人が、前々からザバダックに興味をもっていたらしいんです。彼は、「ディップインザプール」を当時やっていて、似たような形態のザバダックは、さすがに出来なかったんだけど、「いつか一緒にやってみたい」と思ってたらしくて、僕一人になった事だし、ちょっとやってみない、みたいな感じで、声をかけられました。僕も異存はなかったんでポリスターに行くことになりました。

T:『something in the air』。これは?


K:これも割とロックっぽいアルバムですね。で、その佐々さんの意向で、「ザバダックにも新しい世界を導入してみないか」というような雰囲気がありました。サエキけんぞうさんに詩をお願いしてみたり、アルバムのジャケットの感じもちょっと変えてみたり、いろいろとザバダックを変えていこうとする時代に突入しましたね。割とそれまではわがまま放題に音づくりとかもやってきたザバダックなんですけど、ポリスターに行くと、今風の音っていうのかな。当時の今風の音をちょっとアレンジ面でも探ってみたりとか。僕はあんまり探りたくなかったんですけどね(笑)。で、また外のアレンジャーを入れて、ループ取り入れてみたり、とか新しい手法で音楽を作る、というようなことを試みたアルバムです。

T:『光降る朝』は?


K:『光降る朝』は、ちょっと意味合いが違って。

T:一緒に録ったんじゃなくて、全く別の。


K:はい、『光降る朝』は、ポリスターと契約する前に宮沢賢治を題材に1枚作ってるんですね。『 賢治の幻燈』ってアルバムです。そこで、割と埋もれがちだった楽曲、インストの部分を持ってきたのと、あと当時、映画音楽をやっていたんですけど、企画自体がポシャって、宙に浮いた形の楽曲が何曲かあって、そんなのをまとめて。とにかくその時期、宙に浮いていたものを無理やりまとめたっていう感じで作りました。ほかのアルバムに比べるとトータリティーの希薄な、いってみれば寄せ集めの(笑)アルバムです。言い方悪いけど音の切れ端みたいなもんですかね(笑)。そういうもので1枚作りました。

T:1ヶ月もたってないっていう。


K:そうですね、とにかくポリスターでの戦略は、間をおかずにどんどん出そう、みたいなんで。だから実際在籍してたのは3年に満たないと思うんですけど、5枚くらいあるかな。

T:この頃から劇団「キャラメルボックス」と?


K:ああ、それも始まるんですね。もうややこしすぎて整理ができない。

T:「キャラメルボックス」はどういうきっかけで?


K:キャラメルボックスの総合監督の加藤さんという方がいて、音楽も彼が一手に引き受けているんですけど、前々からザバダックの事はご存じで、よく聞いててくれたみたいなんです。「スパイラルライフ」の音楽をお芝居で使った事があるそうなんですが、スパイラルってポリスターだったんですね。で、加藤さんがポリスターに出入りするようになって、そこでザバダックのプロデューサーと話をされたみたいですね。「一度お会いして、ザバダックの何曲かを芝居に使いたいんだけど」というような話をいただきました。最初はもうすでに発表済の曲を使ってもらっていたんですけど、その次のお芝居からはもうちょっと濃いおつき合いになりました。書き下ろしの曲を何曲か作って、それから今に至るという感じですね。

T:ポリスター時代っていうのは、どんな感じでしたか?


K:試行錯誤の時代ですよね。それも、僕の主導じゃなくて、プロデューサーの意向で、彼として見れば何とかしたい、どうしても上野時代のザバダックを超える事が出来ないっていう。もどかしい思いがあったんでしょうね。色んな外の力、外の才能を入れて、僕と絡ませて、何か次のステップに進めないかっていうことを、あれこれ試した時代でしたね。『はちみつ白書』っていう「くまのプ−さん」を題材にしたアルバムを作ったとき、「高井萌」さんという女性ボーカリストを大々的にフュ−チャ−しました。半分以上の曲を彼女に歌ってもらいました。

T:「高井萌」さんっていうのはポリスターにいた方?


K:そうです。佐々さんがかつて担当したアーティストの方です。僕も彼女の声を聴いたときに、すばらしい声だなと思いました。とても気持ちよく、いい感じでセッションしました。でもやっぱりなんか、お見合いで知り合ったみたいな・・・(笑)。そんな感じが否めなくて、彼女自身も、ザバダックでパーマネントに活動するのはちょっと、みたいな感じで、一歩引いた所でのおつきあいにならざるをえなかったですね。結局そのアルバムを完成させて、ツアーで何ケ所かをまわった段階で、サヨナラになってしまうんですけど。作品を残せたっていう意味ではとても感謝しています。 自分的にもなんかこう、人に試行錯誤されるのも、もうそろそろいいかなみたいなことを感じ始めていました。佐々さんとしても、これだけいじっても、どうにもならないし、あきらめの境地に達していたようですし。で、合意の上、この編でやめましょうかみたいな感じでポリスターはやめる事になりました。自分の思い通りにできなかった数年間、気がつかなかったけどたまってたものはすごくあったようです。マグネットに戻って作った最初の1枚が『IKON』になるんですけど、それはもう、どプログレになりましたね。反動で。ガーンと。

T:「アコースティックギグ’97」は?


K:それは、『IKON』というアルバムで、今までためざるを得なかったプログレ魂みたいなのをバーンと放出した後、ライブを考えたら今までのメンバーでは不可能だったんですね。大々的にサポートメンバーを入れ替えて、そして難波さんに初めて声をかけました。作ってしまったアルバムでは「イエス」とか「EL&P」とかそういうバンドのアナログシンセとかハモンドオルガンとかの音が不可欠になってしまっていたんですよ。それをガンガン弾いてくれる人も。「これ、ライブでだれに頼めばいいんだろう」っ悩んでたときに、ふと難波さんがいるじゃないかって。あのプログレ王がいるじゃないかと。で、もうダメもとで声かけてみたら、すごいいいノリで「やるよ」みたいな。で、お願いすることになりました。その時のメンバーでのライブに「アコースティックギグ’97」という名前が付いてます。

T:『IKON』ってアルバムタイトルはどこから?


K:プログレに戻ったはいいんですけど、モチーフだけがいっぱい出来ちゃって。それをどう組み合わせればいいのかっていうのがよく分からない状態の中で、たまたま鈴木光司さんの「楽園」っていう本を読んだんです。モンゴル人達の壮大な旅の話なんです。北の方渡っていく人と船で南の方行く人と。で、あ、この小説通りにつなげていくと、あのバラバラだったモチーフが曲になるかも、って思いついて、そしたら一連の作品がこう形を成していったんですよ。その話で象徴的に「赤い鹿」が出てくるんですね。石に描かれた赤い鹿が。それは象徴じゃないか、って思ったんですよ。言い換えればイコン。英語で「ICON」。そのドイツ語表記が「iKon」。なんだか「K」のほうがかっこいいなぁって。

T:確かメルギブソンの会社名も「ICON」ですね。名前といえば、2001年、事務所がぺネロープ。新レーベル、ガ−ゴイル。いい名前ですよね。


K:はい。ぺネロープは僕と小峰で、「サンダーバードがらみにしない?」とか言ってて出てきました。(笑)

T:(笑)何か「ピンク」って感じですよね。

K:そうそう、黒柳徹子みたいな。(笑)

T:(笑)でも、ガーゴイルってのはまた凄いレーベル名で。


K:2000年に初めて僕たちはフランスに行ったんです。お芝居の仕事でフランスのアビニョンという町に行きました。フランスではどこの町でも邪悪なものが教会の上から見下ろしているんですよ。日本で言ったら鬼瓦かシーサーみたいな感じで。で、あれはなんだって聞いたらガ−ゴイルだって。実際のところよく分かってないんですけど、魔よけのようなものでしょうか。それ見た時「かっこいい」って思ったのと、ガ−ゴイルって言葉のまがまがしさが今の僕らにぴったりだなって(笑)。ちょっとプログレっぽくもあるしいいんじゃないとい感じで。

T:アルバムはレーベルを立ち上げてすぐに?事務所を持とうと思ったきっかけは?


K:ポリスターを離れたあたりから、日本も僕たちも景気が悪くなって来ました。バイオスフィアに一応所属してはいるんですけど、ライブツアーを組めなくなってきたんですよ。東京のライブはかろうじてできるんですけど、ツアーを組めない。新しい音を東京以外でも演奏したい、って僕は切実に思っていたのに、事務所はどうやらそう考えてはくれない。それがつらかったですね。事務所の意向と僕の考え方のずれみたいなのがだんだん表面化してきたんです。そろそろ自分たちでやってみるのも良いかな、と思い始めていたこともあったので思い切って独立することにしました。実際の経済的なやりくりは僕にはよくわかっていないのですが、念願だったツアーを組むことも出来るようになりました。いっぱいいっぱいですけど、なんとかここまで続けてくることが出来ています。事務所を立ち上げて間もなく『COLORS』をガーゴイルレーベルから発表しました。

T:『SIGNAL』は2枚目になるのかな?『Wonderful life』が3枚目。


K:そうですね、その間に「ブリザードミュージック」っていうのが1枚入ってて、それはキャラメルの方から出ています。

T:サウンドトラック。


K:はい。

T:『Wonderful life』まで3枚作ってきて、どんな感じですか?


K:いやー、何かやっとこう、もう20年もやってきたんですけど、この3枚で開放された状況で初めて作れてるなって感じています。まあ、これまでも恵まれた環境で作れてはいたと思うんですけど、どっかでこう、軋轢があって。何かこう出しきれてなかった思いっていうのが常にあったんですね。それは上野とやってる絶好調のザバダックの時も、ぶつかり合いの中から生まれてきたものだから、しんどかったわけですよね。いい作品を残すために戦いあうっていうのは、すばらしい事なんだけど、ものすごい消耗することでもあって、それは僕もつらかったし、上野もつらかった。それで上野は結局抜けていってしまうし、その後のポリスター時代とかも、今度はプロデューサーといろいろ戦わなければならなかったりとか。そういうものからやっと開放されたのが自分のレーベルを立ち上げてからですね。だから今は本当にストレスのない状況で音楽を作れてる気がします。

T:何か広い意味で、何かすごいメッセージ色が出てきたっていうか。


K:はい。

T:そういう印象があったんですよね。


K:そうですね、97年、自分で子供を持つようになったりとか。そういうこともすごい影響してると思うんですけど。昔はメッセージを託すのもたとえば自然環境を扱ったりしても、ちょっと何かにくるんだ状態で表現していました。今も直接的な言葉は使ってはいないんだけど、思いのぶつけ方とかそういうのは以前よりも断然ストレートになってますね。それは小峰の生き方とも、すごくかかわってくることなんですけど、彼女自身が母親になって、今の世の中に対する意識というのがすごく強くなっています。こないだの彼女のインタビューでも感じられたと思うんですけど、そういうものが時を同じくして、僕にも出てきて、それを作品に投影していくのは、何か、とても自然なことなんですね。もう2人とも40歳を過ぎて、というかこんだけ長く続けてくると何か、どういう形で音楽をつくるのが自分たちにストレスが無いかってことや、そしてストレスが無いっていうのは自分でいられるけれど反面責任もそれ相応に負わなければいけないっていう、その辺のバランスがなんとなくこう、分かってきたのかな、という気がしています。

T:この3枚で周りのファンの反応も変わった部分とか出てきました?


K:んー、聞いてくれる人は増えましたね。一時期のどん底状態に比べれば動員も増えました。そして、ずっと「のれん分け」以降もついて来てくれるファンっていうのはもう10年以上のお付き合いになるわけですよ。そうすると、「吉良さんがものすごく自由に音楽を作っている」みたいな感想は、よく目にするんです。はたから見てても、ザバダックがいま、ストレスのない状況で音楽を作れているのがわかる、みたいな意見を目にすることが多いですね。ただこれが、自分でも危惧するのが、安定につながるのがイヤだなって。だから今はまだ、全然見えてないんですけど、次のアルバムはまた、変わっていたいな、というのが希望としてはあるんです。ザバダック大体3枚周期くらいで移行しているような気がするんですね。今回も『COLORS』から数えて3枚目、間に『ブリザードミュージック』が入るから4枚、割と同じような心の持ちようで作ったアルバムが続いて。そして『Wonderful life』は自分の中でそういう状況での頂点に達したかなっていう感触があるんですね。「ああ、いいのができたな」っていう満足感と、「この先にはないかも知れないな」っていう虚しさの両方を感じています。これをそのままの路線上で続けていくのは、多分無理かなっていう気がしています。だから、今ちょっとまた、混沌としている時かも知れない。

T:という事は、この3作がその、一生懸命凝縮してできている音楽って事でもある?


K:そう、その開放された状態で作るっていうスタンスで生まれたものが、とりあえず頂点まで来たのかな、っていう感じかな。今、劇団ひまわりと一緒にものをつくっているんですけど、それがまた、そこでできている曲が、けっこう今までにない感じなんですね。

T:ほー。


K:なので、それが僕にとっては次のヒントになるかなって気がしてます。これもホントにラッキーなんですけど、その、自分で迷い始めた時に何かよそから外のエネルギーが来てくれて、何かヒントをくれるんですね。今回はそれがどうやらひまわりのような気がするなって。そこでは何かね、まあ次の作品の説明をしてもしょうがないんですけど、ちょっとこう、土の匂いのするようなearthyなものになってます。そっちが今、ザバダックが行きたがっている方向なのかなって。ぼんやりとですけど感じています。

T:何か「人間」っていうのが見えてますよね。最近は。吉良さんの中から。


K:はい。その方向は多分引き続くでしょうね。というか、もうそれは、一生続くでしょうね、こうなっちゃうと。これからもうデビュー当時の無機質なものにはどうしたって戻るはずない気がします。

T:あとは、そういうメッセージを?


K:はい、入ってくると思いますよ。こないだ、あのライブで、(憲法)9条の歌を歌ったりとか。あんなことちょっと前まで考えられなかった事なんですけど。ああいうことがやりたくなっていたりするっていう事は、たぶん自分の中で変わっている部分なんだろうなって思う。

T:まあ、言いたくなくても言わざるを得ない状況っていう。


K:こんなだからね。そうなんですよ、ベトナム(戦争)の時はすごいアメリカでは優れた音楽が生まれたじゃないですか。その、反戦をベースにした。それが今回アメリカからほとんど何も聞こえてこないっていうのがすごく不気味でね。

T:怖いですよね。


K:何か、ミュージシャンの側からそういうのが聞こえなさすぎるっていうのが、ちょっと気持ち悪いんで、オレはやろうかなって。

T:こないだのカンヌ映画祭で、マイケルムーアのあの映画『華氏911』がパルムドールを獲って。実は今回、審査員、アメリカ人が9人中5人っていう。素晴らしい。


K:救いですよね。あとアジアがすごいガンバっちゃったじゃないですか、今回。ああいう出来事は何か、次の時代を予感してしまいます。

T:そうですよね。


-end-


吉良知彦さんの詳しいインフォメーションは、
「ザバダック」オフィシャルHP(http://www.zabadak.net/)まで。



【NEW ALBUM】

『ZABADAK』



Wonderful Life
HARV-0006


 1.今日の夢のこと
 2.The Dawn
 3.彗星はいつも一人
 4.ホームページのつくりかた
 5.Regret
 6.天気予報
 7.クリオン広場
 8.Wonderful Life
 9.生まれては別れにむかう
  わたしたちのために
 10.夏日記      

  2004.1.22 Release   3,000 (w/tax)





































































































































































































































































































































































































































































































































【Discography】


『ZABADAK』




WATER GARDEN
1987/CA32-1539




WELCOME TO ZABADAK
1987/ CT32-5024




遠い音楽
1990/AMCM-4084




live
1991/AMCM-4098




私は羊
1991/AMCM-4115





1993/AMCM-4156





1994/BICL-5009




賢治の幻燈
1995/PSCN-5032




Something In The Air
1996/PSCR-5527




光降る朝
1996/PSCR-5536




はちみつ白書
1998/PSCR-5709




IKON
2000/ZA-0019




夏至南風〜カーチバイ〜
2000/HARV-0001




colors
2001/HARV-0003




SIGNAL
2002/HARV-0005





















































































































































































































































































































































































































Message Movie

『みなさんへメッセージ』


メッセージムービーを見る
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(BB環境のある場所にて、お楽しみ下さい)

by ken-G