19歳ぐらいの時、大阪の天王寺の野外音楽堂で、「ビーインラブロック」というライブイベントがあるというのが、新聞広告が出てて。「アマチュア、プロを問わず出たい人は出て欲しい!」と。ギャラとかは出ないけれども。大阪は当時発表する場所がなかったんですよ。東京では日比谷の野音とかで、内田裕也さんたちとかがやってたけど。アマチュアだったけど「面白そうだから、出よう!」と。そこでブルースの曲とか、オリジナル曲をやったら、福岡風太や「ディラン」の人たちとかに出会って。翌年、70年に大阪城公園で自分たちでステージ設営してイベントとかをやったのが、この世界に入る一番大きなキッカケになったんですね。
TERA(以下:T):よろしくお願いします。まず、生まれと場所から教えてください。
伊藤(以下:I):1950年12月24日、大阪生まれです。
T:大阪はどのあたりですか?
I:住吉区です。
T:小さい頃は、どんな遊びとかしてましたか?
I:小学校ぐらいまでは、スポーツとか、あんまり出来ない人だったんで、本を読んだり、それからテレビが好きで。小学校までは、クラシックの小曲を聴くのがすごい好きで、『威風堂々』とか、そういうたぐいのものをよく聞きましたね。
T:テレビで、よく見てた番組は?
I:僕はTVの第一世代だと思うんです。大阪だったから『てなもんや三度笠』とか、子供達に人気のある番組を見てたし、『月光仮面』とかヒーローものに、はまってました。それ以外には『ヒットパレード』とか、当時の洋楽を日本人が日本語で歌う番組も見てて、坂本九さんとか、そういう人達も好きで。クレイジーキャッツもその番組で良く見ましたね。
T:小さい頃は、何か楽器とかは?
I:普通に学校で吹くハーモニカとか、リコーダーぐらいしかやった事ないかな。
T:始めて買ったレコードって何ですか?
I:始めて買ったのは、ローリングストーンズの『Tell Me』というシングル。中学2年生、3年生だったかな、そのぐらいの頃。
T:その頃、ご自身で楽器とかは?
I:全然。当時、一番友達の中で人気があったのが、「ベンチャーズ」なんですね。自分たちよりも年齢の上の人達は、ベンチャーズのコピーバンドをやって練習してたりしてて。だけど「歌わないで、楽器だけやる」っていうのに興味を持たなくて、ビートルズが「カッコいいな」と。お小遣いは限られてるからね。なるべく友達が持ってるものというのは借りてきて。みんな持ってなくて、ラジオで聴いて「いい曲だな、欲しいな」と思ったものを買うようにしてたんですよ。それで、ローリングストーンズの『Tell
Me』を買ったんです。ビートルズはみんな友達から借りてたんですよ、最初は。だけどストーンズは、まだそんなに人気がなかったから。『サティスファクション』が出たあたりから人気が出て。それ以降、シングルだと、皆が持ってないようなのばっかり買ってましたね。2枚目が、マンフレッドマンで。当時の学校でそんなレコード買ってたのは、僕だけだよね。
T:では、お小遣いの行き先は、殆ど、レコードに?
I:レコードを買うようになったら、もうレコードを買うのに精一杯ですよね。当時シングルが330円で、それでお小遣いは1000円だったんですよ。3枚買うと、いっぱいいっぱいなんですよ。文房具とかそういうのは親が出してくれたんで、純粋に1000円を使えるっていう。だけど時として、もう1枚欲しくなって、3枚買っちゃった為に間に合わなくてもう1枚買っちゃうと、自分が食費でもらってる学校の食堂で食べるカレーライスとかを、うどんに変えて、けちけち生活するなんて事はよくありましたよ。(笑)
T:レコードは、かなりお持ちだったのですか?
I:LPは買いたかったけど、当時の僕らの財力では絶対買えなかった。ただ沢山聴きたいし、持っていたいというか、ラジオのエアチェックはしてなかったし、情報源でしかなかったから、ラジオでビートルズとかストーンズを好きになって、片っ端からラジオの洋楽番組を、夕方、帰ってきたら、夜、寝るまで探しては聴いて。それでビートルズとか、ストーンズとか、ビーチボーイズみたいなグループみたいなのが「他にもいっぱいある!」っていう事を知っちゃったから、とにかく1つでも沢山聴きたいと思って。それで聴くようになると、グループの名前や曲名もわかる。と、レコード店行って。ラジオを聴いて「どれを買おう」って決める訳ですよね。これは友達が持ってるから買わないとか。今考えたら、レコードが集まっていくペースは遅いですよ。ただ、全部シングルですけど。アルバムはビートルズの『ビートルズ・フォー・セール』が最初ですね。あれは全部シングルがいい曲いっぱい入ってて、勇気をもって買いましたね。ただ、僕の友達にお金持ちの子がいて、その子が「ゾンビーズ」とか「キンクス」とかのアルバムを持ってるんですよ。彼から借りてよく聞いてましたけどね。1枚のシングルをよく聴いたもんです。何回も、A面もB面も、ひっくり返して。
T:高校に行く頃は、何か変わってきた事はありますか?
I:高校に入る時に「志望校に入れたら、好きなものを買ってあげる」って言われてたんで、「ギターとアンプを買って欲しい」と。それを目標に頑張って、高校に入れたんですよ。グヤトーンというメーカーがあって、ギターで1万2500円というのがあったんですよ。それを買ってもらって。同じくグヤトーンの2万5000円のアンプ。当時の高校1年生にしたら、結構なお金のもので。とてもじゃないけどギブソンとかフェンダーだとかは、もう高嶺の花で買ってもらえないから、その2つを買ってもらって。買ってもらうまでは、友達でエレキギターともう1本クラシックギターみたいなのを持ってる人がいて、使わないから貸してもらって練習してましたけどね。自分でギターを買ってもらってからは、自分で練習してバンドをやり始めて。
T:練習曲は、どういう楽曲だったんですか?どんな練習方法を?
I:当時、ベンチャーズが人気があって、ベンチャーズの「ピース」っていう、ドラムとベースとリードギターとリズムギター、4つの譜面がワンセットになってて。1曲しかないんですよ。ただ比較的安いんですよね。全集じゃないから。それが売ってたんで、僕の友達は、ほとんどベンチャーズのコピーやってた。でも僕はベンチャーズはやりたくなかった。それで、ビートルズの曲とか、マージービートな曲を、「キンクス」の曲とかをやりたかったんだけど、譜面が売ってないんですよ。だから「やろう」と思っても出来ないんですよね。それともう1つ気がついたのが、みんなリードギターをやりたがるんですね。だけど僕はリードギターって興味なかった。ギターを弾きながらビートルズのジョンレノンみたいに歌いたかった。変な話だけど、僕の友達でコードというのを知ってる人がいなかったんですね。みんな単音で弾いてるわけ。「歌を歌う為には、コードというのが必要なんだ」と思って、楽器屋さんに行って、コードの本を探したんですよ。すると、今はどこに行っても売ってない本なんだけど、『ギターコードのABC』という本があったんですよ。この本があったから今日があるんで。いろんな本を見たんだけど。ある本はCっていうと、Cのコードがあって普通のC、C6、、、、と、ザラーっと書いてある。次のページをめくるとDって書いてあって、Dの押さえ方が全部書いてある。「何か、目がクラクラしてくるな」と。「これ、全部覚えなきゃいけないわけ?」っていう本がほとんどで。でも『ギターコードのABC』っていうのはね。見た時に画期的だったのは、EならEの第一ポジションの押さえ方が一番上に書いてあって、それを半音ずつずらしていくと、FもGも弾けるって書いてあったんですよ。それを見た時に、押さえ方の形が何種類かあって、それを覚えれば、あとは平行移動していけば、色んなキーが弾けるんだっていうのは「目からうろこ」じゃない。その本を買ったんですよ。それで、押さえ方をある程度覚えて、それでどうしたかというと、自分が歌いたい曲をレコードをターンテーブルに乗っけて、レコードに針を落とし、曲の始まりの「ジャーン♪」の響きを聞くんです。そして、その中の聞き取れた音をギターで探すんですよ。それで音が1個見つかったら、これが含まれてるギターコードのABCにあるあらゆる押さえ方を全部試すんです。ものすごい気が長くなる作業ですけどね。最初はそうやったんですよ。
T:凄い作業ですね。
I:ええ、それで最初にコピーした曲は、ハーマンズハーミッツの「ミセスブラウンのお嬢さん」。トライしようと思って聴いた時に「これならいけそうだな」っていうのがある訳ですよ。大体3コードの曲っていうのは、聴けばわかったんですよ。だけど何か3コードじゃない曲で「これはいけそうだな」って。それが、1曲コピーするのに3か月ぐらいかかったかな?でもね、そうやって1つとれてくると、だんだんとカラクリがわかってくるのね。ほとんど「解体新書」みたいですよ。だけど、ほんとにそういう知識を持った人が周りにいなかったから、自分でやるしかなくて。大学ノート1冊にわからないところは穴を空けておいて、コード進行を書いていくんです。最初の音がわからない、試してもわからなかったら穴空けといて。そうやって大学ノートに1冊に自分のやりたい曲というのが全部埋まってくると知らないうちにコードプログレッションというか、コード展開の形とか、仕組みがわかってくる。そうするとすごく面白い。そうこうしてる内に、バンドに誘われるんですよ。リズムギターで誘われて、そこに行って僕がコードをコピーする訳ですよ。するとみんな驚くんですよ。よくそんなのが出来るなと。噂を聞いて色んな人が僕に「このコードをコピーしてくれ」と言ってくるんです。高校1年の時は、要するに僕がいると譜面で売ってない曲も出来る訳で。それで、4つぐらいバンドをかけもちしてましたね。どこでもリズムギター。あるところでは歌を歌わないインストがあったり。それは別に自分のやりたいバンドではないんだけど、少しでも一緒にやれるじゃないですか。だからやって。自分のやりたいバンドでは、ラビン・スプーンフルとか、キンクスとかそういう曲をやってましたね。
T:やりたいバンドとは?
I:ギターを弾く面白さと、不思議なコードの魅力みたいなものがわかってきて、「シャドウズ」っていうバンドがあって、アメリカのベンチャーズ、イギリスのシャドウズ。日本でシャドウズのコピーやってるバンドは少なかったんですよ。それで、当時TVで、イカ天の元祖みたいな、アマチュアバンドの番組があって、「サベージ」っていう、寺尾聡さんがベースでいたバンドですよね。そのバンドが、シャドウズの曲をやってたんですよ。それが、めちゃかっこ良かったんですよね、オシャレで。ベンチャーズの持ってるアメリカンっぽい大ざっぱな感じじゃなくて、すごくコードが綺麗で。それでシャドウズを買って、コピー始めて。シャドウズは、映画音楽とか、そういう綺麗なメロディをやってて。友達のベンチャーズやってるリードギターを、無理やり説得して「シャドウズ、いいだろ、いいだろ」と言って、何カ月かかけて洗脳して(笑)、シャドウズのバンドを組んで。その時はコードにはまってましたね。だけど、そのバンドでダンスパーティーやっても、全然受けない。渋過ぎて。その辺が出発点ですね。とにかく驚きだったんですよ。コードという概念がなかったから。それで、一緒にやってたキーボードの人は小さい頃からピアノの稽古に行って、耳もいいんだろうけど、ドアーズの「ライトマイファイヤーをやろう」と言った時に、当然「キーボードの曲だから、全部レコードから簡単にコピー出来る」と思ってたら「コピーしてくれ」って。「えっ、俺は譜面に書いてあれば弾けるけど、流れてる音を探す事は出来ない」って言われて。「えーっ?」と思いましたけどね。だからクラシックと全く違うものなんですね。そんな事があって、大阪の田舎町だったけど、「俺って他の人と違うんだな」と。でも別に天賦があった訳でもなくて「やりたかった」から、ほんと、解体新書と同じですよ。
T:バンドの発表の場は?
I:学園祭です。学園祭は毎年出てましたね。2つぐらいのバンドで。まだオリジナルとかというのはなかったですけど。ただ、オリジナルを作ろうとはしてましたよ。やっぱり「バラが咲いた」とか、日本のフォークみたいなのが出てきた時に、それとちょうどボブディランが出てきたりして、プロテストソングがはやり始めた頃、作ろうとしてやったけど、恥ずかしくてやめちゃいましたね。『花はどこへ行った』みたいな曲だったりね。あと、GSがあったから、日本語で曲をつくるとGSみたいになっちゃうんですよ。それが嫌で、やっぱり変な話、「僕らの好きなロックは英語じゃないとだめだな」と、思ってましたけどね。
T:その頃は、カバー曲ですか?
I:そうです。高校生の間は。僕がオリジナルを初めて書いたのは大学入ってからですね。で、時代がどんどん変わっていって、66〜68年ぐらいになってくると、ビートルズとかの音楽じゃなくて、ジミヘンドリックスとか、エリッククラプトンが出てきて、そっちに影響を受けて、ブルースロックとか、そういうのが出てき始めて。その時に、僕がハーモニカ吹いたり、ブルースハープ吹いたり、ソロで歌ったりするバンドをつくって。そのバンドでオリジナルをつくりましたね。
T:最初に書いた曲は?
I:もう忘れました。あんまり上手くなかったの、そのバンドは。ちょうどそれが19歳ぐらいの時ですけど、大阪の天王寺の野外音楽堂で、「ビーインラブロック」というライブイベントがあるというのが、新聞広告が出てて。職業募集みたいな欄あるじゃないですか?「アマチュア、プロを問わず出たい人は出て欲しい!」と。ギャラとかは出ないけれども。大阪は当時発表する場所がなかったんですよ。ディスコとか踊れる場所はあったけど。東京では日比谷の野音とかで、内田裕也さんたちとかがやってたけど、大阪にはそういう場所がなかった。僕はアマチュアだったけど「面白そうだから、出よう!」と。そこでブルースの曲とか、そういうオリジナル曲みたいなのをやったら、そこで福岡風太や、「ディラン」の人たちとかに出会って。「君たち面白い」っていう事になって。それで、続けて翌年、70年に大阪城公園で自分たちでステージ設営してイベントとかをやったのが、この世界に入る一番大きなキッカケになったんですね。
T:それは『春一番』ではない?
I:ないんです。その大阪城コンサートは、サブタイトルがついてたんだけど、『ロック合同葬儀』っていう(笑)それが1970年ですよ。「3日間、ウッドストックみたいにやろう!」って、大阪城のだだっ広いところに自分達で、丸太とかを運んで来てステージを設営して。僕は、自分も出るんだけど、バンドのプログラムを決める。色んなバンドの人たちに電話をかけて「何日の何時ごろ出てください」っていうのを仕切る役だったのね。スタッフでもあった訳です。その頃大村憲司さんとか、そういう人たちも出てくれてます。それが8月に終わって、それまで大学に行ってたんだけど、色んな人たちに出会って、何かもう学校いくのが嫌になって、そのまま行かずに京都でふらふらして。京都でもロックのイベントいっぱいあって「バンドをつくろう!」っていう事になって。「スタッフでやっていけないから、バンドをやろう」という事になって『グラス・ブレイン』というバンドを作って。お金をもらって、演奏できる場所は、そういう踊る場所しかないでしょう。そういう所に入るんだけど、僕らは1曲が20分とか長かったり、たばこは飛んでくるし、コーラの空き缶は投げられるし、お店からも踊りにくいから、文句言われたりとかは、ありましたね。
T:どんな編成だったんですか?
I:その時は4人です。ボーカルとリードギターが僕で、ベースとドラムと。そこには後に『ごまのはえ』に入る上原裕もいましたけどね。惨たんたるものですよね。「月賦は払えないは」みたいな。だから僕は西成のアパートにメンバーと一緒に暮らしてましたけど。それがやがて『ごまのはえ』になっていくんですけどね。前のバンドも風太がマネージャーやってくれて。
T:ずっと西成に?
I:そうですよ。『ごまのはえ』の時は、もう西成じゃなかったかな?『ごまのはえ』の時には別のちゃんとした、「ちゃんとした」というのはおかしいけど、別の所に2人ずつ部屋を借りて一緒に住んだりしてて。『ごまのはえ』は、ちょっとは話題になったから、生活は楽じゃなかったけれども、色んな全国ネットの音楽雑誌に取り上げられたりとか。ベルウッドレコードから「出そうよ」という話があったぐらいなんですけど。結局、シングル『留子ちゃんたら/のぞきからくり』1枚だけで。当時のニューミュージックマガジンとか、ライドミュージックとかそういう雑誌に「大阪に、面白いバンドがいる」と。大阪にはまだ日本語でロックやるバンドって、71、2年ぐらいにはいなくて、僕らと『ジプシーブラッド』ぐらいだったかな?だから、非常に東京の人たちには「ザ・バンドみたいなサウンドで、日本語でやるグループがいるんだ」みたいな感じで。
T:『ごまのはえ』は、楽曲的には?
I:『ごまのはえ』の前の、『グラス・ブレイン』というのは、僕はもう既に、その頃から日本語でやりたかったんですけど、自分たちが考えてるビートのある音楽に、詞をどうやって乗っけりゃいいのかな?というのは、すごく悩んでたんですよ。ただちょうど69年ぐらいに、『はっぴいえんど』の1STを初めて聞いた時、自分の考えてるような意味ばっかりじゃなくて、言葉の音の面白さとか、そういうものに乗っけてつくってる、初めてのアルバムだと思って。それと僕は、プロコルハルムとか、すごく好きで。プロコルハルムの詞っていうのは、ちょっとわかりにくい詞なんですけど、松本さんの詞に、プロコルハルムみたいな映像空間を感じて「面白い人だな」と。やるんだったら、『はっぴいえんど』みたいな、ああいう詞のスタイルでやりたいって。なかなか出来なかったけど、グラス・ブレインは僕がリーダーじゃなくて、ベースの人がリーダーでハードロック志向の人で。グラス・ブレインというのは、レッドツェッペリンみたいに、アコースティックなサウンドもやるし、ハードの曲もやるような、そういうバンドにしたかったんだけど、なかなかそうならなくて。ブラックサバスとかの方に行っちゃうんですね。そうなって嫌になって、「こんな事が、やりたくてやってるんじゃないな」と思った時に、ザ・バンドの『ステージフライト』を聴いて、「いいな」と。僕の求めてるビートもあるし、メロディもあるし、色んなタイプの音楽が入ってる。ビートルズですよね、言ってしまえば。1つの中に色んなものがあって、バランスがいい。「これだ、そういう事か。60年代のビートルズはあれでよかったけど、70年代はこういうヒッピームーブメント、ジーパンを履いたりする時代にフィットしているビートルズというのは、ザ・バンドだな」と。「これしかない!」と。
T:具体的な活動としては?
I:『ごまのはえ』を作った時に、「ザ・バンドみたいな曲をやろう」と決めたんですよ。仲間もザ・バンドが好きだったから「やろう」と。それで初めてザ・バンドっぽい曲を書こうと思って。ザ・バンドの『アップ・オン・ザ・クリプル・クリーク』みたいな曲を書こうと思って作ったのが『留子ちゃんたら』という曲。あくまで『ごまのはえ』というのは、ザ・バンドみたいなもので。レパートリーは7,8曲あったかな。未発表の曲がほとんどですけどね。実際に発表されたのはシングルのA,B面だけですから。2回目の春一番のライブが、当時アナログ盤で出たんですけど、ベルウッド盤では『留子ちゃんたら』しか入ってないんですよ。でも当時、風都市が出した10枚組のアルバムっていうのがあったんですよ。それには4曲ぐらい入ってます。未発表曲を含めて。
T:なぜ、1曲だけに?
I:春一番っていうのは3日間ぐらいで50組近く出るから、1人1曲がぎりぎりですよね。「入れてもらえただけでも、嬉しいな」っていう感じ。『ごまのはえ』が、シングル1枚を、1972年にベルウッドから出して、僕にしたらレコーディングをやるのは初めてで、僕が中心でやらなきゃいけないんだけど、レコーディングのやり方が全くわからないライブマンでしたから。「次、シングルなりアルバムつくるんだったら、誰かプロデューサーを立てないと」という事で、当時、ソロで出した大瀧(詠一)さんのアルバムが自分たちに合ってるから、大瀧さんにお願いして。それでプロデュースしてもらえるようになって。「東京に出て来るならプロデュースするけど、大阪でずっとやるつもりだったら、僕はやらない」って言われて。本気でやる気持ちだったら、僕もやりたいという事で。バンド全員で東京に。大瀧さんの事務所のある福生に家を借りてもらって、大瀧さん自宅のすぐ歩いて2,3分のところの1軒借りてもらって、そこでアルバムを目指した合宿生活みたいなのに入るのが、東京に来てからですね。
T:その場所で音は、鳴らせたんですか?
I:そこはね、米軍の兵隊さんが住んでてあの頃、72,3年っていうのは、軍人の数を減らしてた時期なんですよ。だから、それまで兵隊たちが住んでたところが空き家になってる所が多かったの。それで民間に払い下げて、何とかハイツとかっていう風に、一般のところが買い入れて、日本人の人に貸すようになってた。中には外人の住むところもあったんだけど。そこを借りるのは、やっぱり東京からも遠いし、多摩美の学生とか、バンドやってる人とか、そういう人で、ほとんど一般の人は住まなかったんですよね。だから、村上龍さんの『限りなく透明に近いブルー』に書かれるような、まさに僕らが住んでたところなんですよね。一応、窓とか全部、毛布張り付けて、一応それなりの防音をすれば、そんなに苦情はこない。時間帯をちゃんと昼間でやれば。昼間から堂々と演奏してましたから。
T:それで、音楽活動は順調に?
I:いや、いかなかったですよ。結局、『ごまのはえ』のメンバーがどんどん変わっていって、『ココナツバンク』に到る訳で、風都市もつぶれちゃいましてね。だから『ココナツバンク』解散した後に、山下(達郎)君のシュガーベイブに入ったりして。シュガーベイブを辞めた後は、りりぃさんのバックバンドにいたりして、そうこうしている内に、76年に大瀧さんが「『ナイアガラトライアングル』を出そうよ」って言って。バンド活動というのは大体そこぐらいまでですね。77年ワーナーから「ソロを出さないか」って言われたんで出したんです。その『デッドリードライブ』はあんまり売れなくて、ソロとしてデビューしたんだけど、活動もかんばしくなくて、生活も厳しかったのと、やっぱり大阪でやってた時には、あんまり「すごい!」と思う人はいなかったんだけど、東京へ来ると、ちゃんと音楽的にやってる人達がいて、山下達郎もそうですし、坂本龍一とかいたんで、これは「ちょっと基本が全然出来てないな」と思ったんです。それから、僕が所属していた事務所でCMをつくるセクションがあって、「もし職がないようだったら、コマーシャルでもやってみるか」って。コマーシャルは短いし、1曲が15秒か30秒だから、アレンジとかは「勉強するには、いいかもしれない」と。しばらくそういう事をやってたんですよ。その頃にアレンジをやるノウハウみたいなのはマスターして。そうこうしている内に、1980年に佐野元春に。
T:佐野さんとの出会いのキッカケは?
I:出会ったのは、佐野元春の音楽出版社のディレクターの人が、松原みきさんの担当だったんです。僕が、松原みきさんのバックバンドのリーダーという形で仕事を始めてたんですね。実は松原みきさんの話も、最初は「何だかな、アイドルなんかやりたくないな」と思ってたんですね。だけど曲を聴かせてもらったら、作曲が林哲司さんで。何ていうんだろう?シュガーベイブでやってもおかしくないような曲なんですね。その時、ちょうど78年ぐらいでしたけど、だんだん時代が変わってきたなと。アイドルも昔からあるようなアイドルじゃなくて、林哲司さんのような人が曲を書いてやる時代になってきた。しかもベストテンに入ってましたしね。それで「やってみようかな」と。今まで自分達でやってきたことを他流試合で始めた頃というか。そういう自分の知らない世界で仕事をしてみるのも面白いなと。修行期間みたいな。それで始めてたんですよ。松原みきさんのレコード、ニューシングルの曲選びだとか、そういう事に関しても僕にアドバイスを求められてきたりとかしてたんで、ディレクターの人とも仲良くなって。そしたらある時、既に『アンジェリーナ』と『さよならベイブ』のシングルをとってたんですけど、「こういうアーティストがいるんだけど、どう思うか?」って聴かされて、最初に聴いた時に「すごくいいな」と思って、興味があったんで「是非!」と。
T:それでどういう流れに?
I:その時はアレンジを任されて。アレンジャーとアーティストという形で彼に出会うんですね。彼はまだ当時バンドも持ってなかったし、スタジオミュージシャンに的確な指示が出来る人じゃなかったから、アレンジャーを立てなきゃいけないと。もう亡くなられましたけど、大村(雅朗)さんが、バラードとかをやってたんだけど、ロックタイプは僕に「やってほしい」って言われて、1stアルバムの4曲をやったんです。でも、わかったんですよ。アレンジャーが勝手に家でアレンジしてきて、自分の納得するのとは、そぐわない形でやられて、歌だけ歌うのは絶対に嫌なタイプの人だと。会った時にそれがわかった。自分がそうだったからね。それで、彼の家に譜面を持っていって、「曲のタイトルは何?キーは?」って。「イントロのイメージある?」すると、「こうなんだよね」と。手で真似してやるわけです。それを譜面に書いていくんです。取りあえず、彼の頭の中で鳴ってる音だけは全部書き留めてあげて。だけど「ベースはどうする?」って、彼が浮かんだフレーズを聞くと、音がぶつかったりとか、平気でそういうのがあるんですよね。それで「このさっきのところと、ぶつかってこうなるから、、」ってやりながら始めたのが最初の始まりなんですよ。彼が決めてなくて「そこはどうでもいい」「銀次、好きに考えてくれ」っていうところは僕が考えて。だから『バック・トゥ・ザ・ストリート』のギターのフレーズは僕。みたいな形で入ったのが1stアルバムで。4曲ぐらいだったから、あっという間に終わっちゃって。
T:なるほど。2ndはどうなっていくんですか?
I:1stアルバムは、お互いが「どんな人かな?」というのが、ちょっとわかったぐらいで終わっちゃったんですね。それで「お互いに頑張ろう!」って分かれて。その後、松原みきさんのバンドで、テレビ神奈川の『ファイティング'80』に出たんですよ。行ったら、佐野元春がレギュラーでエンディングで1曲だけやるっていうので、毎週来てたんだよね。そこでばったり会って「元気?」って話をして。そこで僕がギターを弾いてた訳ですよ。その時にいた彼のバンドのギタリストが、代わることになっていて。彼の曲というのは、色んなタイプの曲があるから難しいんですよ。それで「新しいギタリストいないかな?」っていう話があって、そこに銀次がいて、それで早速、事務所から電話がかかってきて、「バンドに入ってくれないか?」と。それで入るんです。それでバンドに入って、その時は2ndアルバムを僕がプロデュースするとか、全く話にはなかったんだけど「2ndをやって欲しい」と。前よりも大村さんのやっていた量よりも僕の量が多くなってて。その時には一緒にステージもやってる訳で。
T:その時、ザ・ハートランドは、まだ?
I:まだないです。ザ・ハートランドの前の、らしきもの。そこのメンバーで残った人っていうのが、僕と阿部ちゃんと、サックスのダディ(柴田)と3人だけなんだよね。そうやってバンドにかかわりながら、ステージ上での彼を見たりして。そうすると、ちょっと前より、どんな人かはわかりますよね。で2ndアルバム『ハートビート』の話が来て。2ndは、もうちょっと一緒にいろいろアイデアを出しながらやれた感じですね。それでも『ハートビート』の頃は、彼は「やりたいこと以外は好きにやっといてくれ」っていう感じで。だから『ガラスのジェネレーション』は、半分ぐらい僕のアイデアで出来たし。伊藤銀次の匂いも感じられるアルバムですね。
T:当時、音的にとてもバラエティに富んでいると思いましたね。
I:1stの場合は、ハードな部分は僕がやって、バラードを大村さんがやってる訳だから。一緒にステージを共にしたり、彼と一緒にレコーディングにかかわったりして思ったのは、いろんな曲がある事。言ってしまえばタイプの違うアーティストが1つのアルバムの中に入ってるから。「1人のアーティストが、色んなタイプの曲をやってる」っていう風に見せるように作らないと、訳がわからないんじゃないかな?と。実際に「ロックな人なのか、どっちなの?」っていう意見があったからね。ビートルズは、1人の人がやっているように聴こえるから、なるべく『ハートビート』と、『ガラスのジェネレーション』と『悲しきレイディオ』が、1人のアーティストに見えるように楽器の使い方とか、そういうので寄せていけないかな?と。例えば『ナイトライフ』は、非常に、ニューオリンズっぽい音楽だし、『ガラスのジェネレーション』は、最初フォークロックっぽかったし。それを1つの同じ匂いにするにはどうすればいいのか、凄く考えましたよね。『ナイトライフ』の彼が最初に考えてたサックス1本だけだと、余りにも昔っぽく聞こえ過ぎて。彼に提案して、当時出てきたシンセサイザーを、興味本位で使ってるんじゃなくて、シンセサイザーを、ホーンセクションのかわりやら、ハモンドオルガンのかわりやら、そういう事に使う事によって、佐野元春というのはオーソドックスな曲をやって、ちょっと前に出てきたシャネルズとか横浜銀蠅とか、そういうロカビリーの人たちと一緒にされるのが、僕はすごく嫌だった。『ガラスのジェネレーション』も最初、「アコースティックでやるスタイルでやりたい」って彼は言ってたんだけど、それをやっちゃうと、アリスと一緒にされちゃう。何とかスピリットはそうなんだけど、初めて10代の子が聴く時に、「今まで聴いた何かに似てなくて、私達が見つけた、新しい音だ」っていう風にしないと。彼の音楽の中に革新性と保守性が両方あるから、僕がプロデューサーとしてかかわって気にかけていた事というのは、これからの音楽。タイミング的には、80年にデビューしていますから、70年代の音楽ではないんだと。「何とかそういう色付け出来ないかな?」というのが2枚目で考えた事なんですよ。そういう意味では、他の人と区別化は、出来たんじゃないかと思います。
T:その時に考えた80年代の音楽とは?
I:やっていた事はフォークロックだったりするけれども。すごく参考になったのは、ちょうど70年代後半から80年代にかけて、パブロックとか、60年代のシンプルなロックみたいなものが、もう1回見直されましたよね。その時期と、ちょうどピッタリ来てて、欧米なんかにもそういうグループが、沢山、出て来てますからね。「そういう風に見ればいいんだな」と。コステロもそうだし。そう考えていましたけどね。そういう事があって、1枚目もそうだったけど、2枚目ぐらいになると、佐野君が「こうやりたい」って言っても、僕が「それは良くわかるけどね」っていう話は随分ありましたね。でも、すごく彼はよく聞いてくれましたね、話を。けんかになりそうな事もあったけど。やっぱり彼もわかった事は、自分の持ってる良さと難しさみたいなもの。自分のやりたい事を通したいけれども、ライブハウスのお客さんを増やしたいし、それは真剣に考えてましたね。
T:ザ・ハートランドは、その頃に?
I:うん。そうこうしているうちに、3枚目になって、その直前にとった『ダウンタウンボーイ』では、既にザ・ハートランドはありました。2枚目の頃はまだなかったからね。例えば、佐野君が「曲、出来たよ」って持ってきた時に、高いギャラを払わなくても集まってくれるメンバーがいなかったわけですよ。彼はもう忘れてるかもしれないけど、僕は彼に話したんだよね。「もうハートランドがあるから、しーたか(古田たかし)、小野田(清文)が入ってるから」と。しーたか、小野田が来て、揃った時に「これはいけるな」と思ったの。やっとバンドになったと。バックバンドじゃないバンドになったと。レコーディングのやり方ですが、今まで例えば、僕が譜面を書いて、佐野君の家で「ああだ、こうだ」とやるのがあったけど、「もうスタジオミュージシャンじゃないんだから、佐野君はアイデアが浮かんだら、リハーサルスタジオにみんな集めて、そこで納得いくまでやるという方法が一番今の、これからの、佐野元春とハートランドにいいことなんじゃないか」という話をして。それで『ダウンタウンボーイ』と『スターダスト・キッズ』を初めてやったの。録った時に、ちょっとトラブルがあって、ディレクターがね、中目黒にあるスタジオをとっていたんですよ。天井低くて、ドラムが箱の中に入ってしまう。そこをとっちゃったんですよ。彼が考えたのは、何かこうオーケストラルなスケール感のある感じだったから、はなから「ここでは僕の考えている音は録れない」って事になっちゃって、本当に機嫌の悪いレコーディングで。でも僕たちには、そんな思いはないから、録れた音に関しては、ハートランドで初めての曲だったし、今までのスタジオミュージシャンにはない、すごいバンドっぽい良さがあったんですよ。僕はすごい好きで、ハートランドメンバーも気に入ってたけど、彼はずっと納得いってなくて。『ダウンタウンボーイ』に関しては、その後、録り直しをしてますよね。それから、20周年になった時に、大分時間がかかってから彼は「わかった」と。
T:そういえば『ダウンタウンボーイ』は、シングルと、アルバムのバージョンは違ったものでしたね。
I:そう、シングル『ダウンタウンボーイ』は、アルバム『SOMEDAY』に入ってるやつとはバージョン違い。あれは新たに別なスタジオで、ちゃんと録ったんですよ。僕はそれを録ってる時にもいたんだけど、色んな意味でグレードは上がっているけれど、前の方がバンドっぽくって好きでした。色んな意味で『ダウンタウンボーイ』のシングルを録った時は、歌も大変だったんですよ。ツアーやりながらのレコーディングだったから、声がかれててね、もう1回延ばしたぐらい。何かそういうものなんですよ。その時の「くっそー!」とかね、そういうものが音になってるの。それはね、やっぱりその時しか録れない。それから10年20年経ったって、アーティスト的にも人間的にも完成されていっても、それはまた全然別のものだから。やっぱりレコードっていうのはそういうものだから。
T:それから動員が増えて行く訳で。ザ・ハートランドは、どういう流れになっていくんですか?
I:そうですね。『SOMEDAY』ツアーの前には、結構、全国を回って。ライブ会場に1回目に行った時は満杯じゃないんだけど、2回目、半年先とかに行くと、もう満杯なんだよね。やっぱりライブパフォーマンスが面白かったからね。それを見ないと。テレビにも出てない訳で。それは逆に、テレビの中には、ああいうロックみたいなのは少ない時代だったから、全国行った場所では終わった時がすごかったですね。始まった時には何だかわからない感じで。ラジオの『サウンドストリート』で初めて知って見に来た人もいる訳ですよ。でも、どんな人かわからない。でも、全部見終わった後に、みんな興奮状態で帰って、ああいうロックエンターテイメントって、多分初めてだったでしょう。その頃には「僕はいけるな」と確信しましたけどね。やっていく手応えが。自分もプロデュースでかかわりながらステージに立ってるわけですから。それで『SOMEDAY』とライブを一緒につくって。だから、その時には、もうほとんど僕がアレンジ的に色んな事を教えたりする必要もないし。ただ彼のかわりに譜面をつくってあげるくらいで。『SOMEDAY』は、ザ・ハートランドがメインで、曲によってスタジオミュージシャンを加えるという形なんですね。というのは、ハートランドっぽくない曲というか、彼のソロっぽい曲もあったりするから、それに関してはハートランド以外入れてるけど、ベーシックは完全に、ザ・ハートランドでとってるから、それは、『ハートビート』に比べて、バンド感あふれるアルバムになってますよね。一応『SOMEDAY』のシングルを録る時に彼は「全部自分でやるから」と、スタジオでは、僕は「一応ご意見番で見ててくれ」「僕が緊急で銀次に助っ人を頼む時だけ」って言われて。譜面をつくってあげてスタジオにいたんだけど、結局、何にも問題なくて。そこで、彼はセルフプロデュースが出来るようになったんですよね。成長したんですよね。それも、たった3年間でね。
T:銀次さんは、その時は、ザ・ハートランドのバンマス的な感じだったのですか?
I:そうですね。一応バンマスになっちゃいますよね。年もダディの次に上だし。
T:銀次さんのソロ活動で『伊藤銀次バンド』がありますよね。それにもザ・ハートランドのメンバーが?
I:それは、ちょうど82年。81年の途中に沢田研二さんの編曲をやってましたから、沢田さんのスケジュールで、本人がレコーディングのリズム録りに来れない時に、僕がかわりに歌を歌ってたりしてたんですよ。そしたら、プロデューサーの人が、「銀次さんいい声してるから、今、レコード出してもいいんじゃないの」って言われて、レコード会社探してくれて、ポリスターレコードでっていう話になって。ハートランドにいたまま、ソロアルバムを出したんです。その時に一番よくやってるのがハートランドのメンバー。ただ、レコーディングは自分の曲だから、色んなタイプの曲があるんで、ハートランドのメンバーも参加してるけれども、ほとんどがスタジオミュージシャンでつくってます。ライブはハートランドのメンバーを中心に。その方が、僕がソロ出した時にも、共通したファンが多かったですからね。佐野君のバンドも好きで、佐野君も好きで、その中で銀次も好きだっていう人が多かったから、ハートランドでやるのが一番わかりやすかったんだと思います。それで最初はハートランドでやってましたね。
T:なるほど。それから、どういう流れに?
I:それで、佐野元春がニューヨークに発って、83年にアルバムを作って戻ってきた時には、僕もソロ活動を結構やってたのね。ちょっと戻れないんですよ。というのは、例えば、両方かけもちでやって、自分とダブった時、かわりのギタリストを入れるようなバンドじゃないんですよ、ハートランドは。
T:それは、ポリスターで、『BABY BLUE』など、4枚出した頃のタイミングでしょうか?
I:ポリスターでちょうど83年だから、4枚目を出すか3枚目が出たか、ちょうどそのぐらいだと思うんですけど。あと僕がアレンジャーとしてすごい仕事をしましたからね、その頃は。大体スタジオにいるかステージに立ってましたから。絶対に迷惑かけちゃうといけない。やるんだったら、他のをやめて、佐野君一本でやらなきゃいけないという事で。佐野君は「どうしても戻ってきてほしい」って言ってたんだけど。やっぱり流れの中で『SOMEDAY』まで作った時に「もう僕の役割は終わった」と。彼が「自分の頭の中にある音楽をちゃんと形に出来て、人に伝える事が出来るのであれば、必要ない」と思ったんですよ、その時は。もし2nd『ハートビート』ぐらいの時だったら別だけど、やっぱり2、3年の間に彼は色んなものをマスターして、音楽の形を作る事も出来るようになったから。だから、その時も言ったけど「もし本当に困ったら声かけて」って言ったけどね。そこからまた僕はソロに。
T:それを決めたタイミングというのも、佐野さんがニューヨークから帰ってきて、もうすぐに?
I:戻ってきて、すぐですね。彼じきじきに話に来ましたからね。でも、やっぱりハートランドのオリジナルでやりたかったんでしょう。彼は、基本的にはそういう人なんですよ。縁とかすごく大事にする人だから。結局、僕が出来ないという事になって、しーたかと小野田君の紹介で、(横内)タケが入るんですよ。
T:なるほど。次回は、82年からのソロの話をお聞きしてみたいと思っていますので、宜しくお願いします。
I:わかりました。
-end-
伊藤銀次・ライブインフォメーション
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「One Wonderful Night Vol.17」
出演:布谷文夫、伊藤銀次、上原裕、矢野誠、小川ヒロ
日時:2004.08.08(Sun) Open18:00/Start19:00
場所:KABUTO/兜 (渋谷区渋谷3-26-25 FURAビル4F) 03-5468-0050
料金:4,300yen(+1drink)
問合せ:兜(03-5468-0050/http://www15.ocn.ne.jp/~kabuto-1/)
伊藤銀次さんのインフォメーション等は、
「ブルーワンミュージックHP」(http://www.blueonemusic.com/)まで。
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