|
bbs
about moment moment member紹介/moment DIARY/他 |
|
shop
talk & interview
momentと交流のある方々へのインタビュー
news
short films |
||||||
|
magazine |
|
#21 REPORT:04.08.24/「takeru」(東京/曼陀羅)/ 映像 REPORT:04.08.25/「HOWLING BUTTERFLY」(東京/初台ドアーズ)/ 映像 LIVE:04.09.17/「ブレッド&バター」(神奈川/相模大野) 連載 TERA'S SOUNDTRACK REVIEW |
music
momentに関連したミュージシャン、バンド等を紹介します。
#21
村瀬由衣
1990年にCDデビュー。1997年に鈴木雄大と「天才トノサマBAND」を結成、ヴォーカリストとして、さまざまな活躍を続けている村瀬由衣さんのインタビューです。
村瀬由衣 / Yui Murase
1990年にCDデビュー。1997年に鈴木雄大と「天才トノサマBAND」を結成、ヴォーカリストとして、さまざまな活躍を続けている村瀬由衣さんのインタビューです。
(2004年8月10日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)
村瀬由衣 (Yui Murase) 神戸生まれ。 趣味 猫に遊ばれること・猫と寝ること・キャンドル収集 1985 都内Live Houseで、Vocalistとして活動を開始 |
自分の歌の中で、哀愁というか、ちょっとウェットな陰な感じは昔から持ってたんで、そういうのがどのアルバムにも入ってるんですけど、1枚目だったら「雨のディテール」、2枚目だったら「雨より孤独な夜」とか「時計」、3枚目は「潮騒」だったりとか、そういうのは最初からフィットしてるかなっていう。 TERA(以下:T):よろしくお願いいたします。 村瀬(以下:M):よろしくお願いします。 T:まず、生まれと場所を教えてください。 M:神戸です。 T:神戸のどの辺ですか? M:神戸の三宮の少し北。新神戸駅と三宮の中間ぐらいのところです。 T:小学校の時は、どんな子だったんですか? M:おとなしい子でしたね。体が弱くて、幼児期に急性肺炎をやっていて、それから毎月のように風邪をひいて熱を出すみたいな体質で、しょっちゅう病院に行ってた記憶があるんですけど。小学校の真ん前が病院なんですよ。薬が大好きでね、お医者さんから出される液体の薬が。それもあってよく行ってたのかもしれないけど。(笑)
M:うん。おとなしくてね、お習字習ったり、そろばん習ったりっていう感じかな。でも、高学年ではバレーボールはやっていました。その頃「サインはV」とかが流行ってたので。あと、プールも好きだったかも知れない。 T:小学校の時、何か楽器とかは? M:やってなかったです。幼稚園の時にオルガンを習ってました。行くとお菓子をもらえるんですよ。それ目当てで習いに行ってたかもしれない。 T:なるほど。 M:友達と一緒に習いに行ってて、結構、私、おとなしい方だったんで、友達が辞めちゃったら、じゃあ私もやめるって、辞めちゃったんです。 T:ご兄弟は? M:兄弟は姉がいますね。 T:仲、よかったですか? M:いや、いじめられてたんで、姉に。(笑) T:それは深刻な問題ですか? M:深刻。結構ね、引きずってたかもしれない、多分。 T:トラウマに? M:トラウマだったのかな。ほんとにいじめられてたと思うんで。(笑)向こうはね、可愛がってたつもりかも知れないんですけど。いつだったか1回、余りにも怒って、その頃2階に住んでたんですけど、2階から階段だーんと突き落とした事があるんですよ。それぐらい結構、根に持ってたみたいでね、小さいながらに。何で怒ったかまでは覚えてないけど。 T:同じ学校に行ってたんですよね。 M:4つ違いなので、一緒の時期もあったけど、姉とはあんまり一緒に何かしたりという記憶がないんですよね。そのうち向こうが15歳で歌手デビューしちゃったし。 T:15歳で歌手デビュー? M:全国歌謡コンテスト?年に1回しかやってないのが当時あって、それで最年少で優勝して、15歳で優勝したのかな、で、16歳でデビュー。歌謡曲、演歌歌謡曲みたいなのでデビューしちゃったんで、あんまり一緒にはいなかったです。 T:アイドルみたいな? M:アイドルじゃなかったんですけど。でもミニスカートとか履かされてたかな?ちょっと演歌っぽい歌謡曲だったけど。30万枚も売れたみたい。、結構さっぱりとした感じで、ちょっと哀愁のある歌謡曲という感じでしたね。それで芸能界に入っちゃいましたね。 T:じゃあ、東京に? M:はい。で、そこの事務所の社長さんが、「妹さんも、やるなら東京に来れば?」って言われて、私も15歳で来ちゃったんですけど。でも、芸能チックな感じがすごく嫌いで、ボイトレだけは、紹介されて普通にレッスンを受けてました。中学卒業して、高校1年生で東京に。 T:家も? M:実家はそのまま神戸です。私も一人で東京へ行き、最初の1年間だけ姉と一緒に暮らして、余りにも気が合わないので、16歳の後半に、1人で吉祥寺に住み出して。 T:その時、目指していたのは、歌手に? M:そうですね。何も知らずにとりあえず東京に来て、そこでボイトレを受ければという事で紹介してもらった先生が全然芸能チックじゃなく、どっちかというと演劇、舞台関係の先生で、ちゃんと基礎発声をしっかり教えてくれる、すごくいい先生だったんですよ。物事の価値観とか、考え方も影響を受けたと思います。その先生の紹介だけしてもらって、私はそこの事務所と何も関係なく終わりました。 T:それで、いきなり1人暮らし、たくましいですね。 M:うん。うちの家庭は、放任主義なんですよ。そんな裕福な家庭ではなかったし、勝手に、何でも1人でやるんだったらやればっていう親なのね。だから、東京に行くなら行っていいし、嫌だったらいつでも帰ってくればいいしということで。仕送りもなかったから、自分で稼いでやりなさいっていう形で。昼間働いて、夜定時制行って、ちゃんと自分で全部やってました。しっかりしてたのは、しっかりしてましたね。 T:こういう歌手になりたいみたいな目標は? M:漠然といい歌い手になりたいとは思ってたけど、こういう風にと具体的には全然なかったと思う。音楽も小さい頃の私の周りの音楽環境というのは、そんなあか抜けた環境ではなく、すごく庶民的で、一般的な家庭だったので。世間で流行っている音楽しか耳に入ってなかったので、音楽をそんなに知らなかった方でしょうね。それでもつなき&みどりとか(年がばれる…)、分からないながらにも、当時にしては歌謡曲の中でも少しセンスのあったものを好んでた気がしますね。デビュー当時にインタビューを受けた時に、「昔はフォークとか、どちらかというと歌詞先行で音楽を聞くタイプと、ちょっと洋楽っぽいセンスある歌謡曲を好んだ楽曲派のどちらかに分けられるんだよね、君は後者だね」って言われたことがありました。東京に来て、ボイトレ行くようになって、ビートルズだとか、ロバータ・フラックや色んなものを聞いたりするようになって。その頃でもまだ探求してたっていう感じですね。 T:毎日、働いて、学校、ボイトレの毎日に? M:そうですね。 T:高3まで? M:高4だった。定時制だから。そうですね。 T:その頃は、歌の世界でお仕事という事にはまだ? M:何せ仕事が朝早くから夕方の5時、その後定時制にすぐ行くでしょう。日曜日がボイトレ。他の世界を見る余裕がなかったですね。だから何も知らないというのかな。「スタ誕」とか、当時あったんですよね。そういうのにはちょっと出した事があったかもしれないんだけど、でもやっぱり有名になりたいとかではなく。何でかというと、姉が反面教師だったので、芸能界で、ちやほやみたいな、そういうのを見ちゃったんで、そういうのって嫌だなと思ってたんですよ。どっちかというと、渋好みなので、小さい頃から(笑)。野球で言うと巨人の森が好きだったりとか。「佐部と市」という渋〜い漫画があって、そういう好みだったので、あんまり華やかとか、派手なという感じは好きじゃなくて、「じっくりと渋くいきたい」と、その頃から思ってたみたいですね。 T:学校を出る頃になると? M:高校の時は、音楽活動も何もなく終わって、大学の話になり、「演劇を勉強したいな」と、その頃に思ってたんですよ。それで、日大の演劇部に行きたいと思い、担任の先生に相談したりとかしたんですけど、一応クラスの中では上位だったんだけど「受けると落ちるぞ」と。定時制のレベルは低かったですからね。「だったら推薦で明治の文学部に行けるから、そっちにしろ」と言われて、「じゃあそうします」って。明大の二部なんですけど、演劇の勉強があったから、文芸部に入ったんですよ。でもあんまり面白くなくって、ちょっと講義は受けたかなっていうぐらいですね。入学してすぐ音楽のサークルに入ってたんですが、そっちは楽しかったですね。 T:東京での拠点はどの辺だったんですか? M:中野に住んでて、高校は東中野、大学は御茶ノ水、ですから中央線沿線ですね。最初に住んだのが中野の南台ですね。そこから吉祥寺に行って、吉祥寺から西荻に。それで新高円寺に行って、中野に戻って。結構、引っ越し魔だから点々としてるんですけど。 T:サークルでどういう活動をされてたんですか? M:そこのサークルは6つバンドがあって、その中で気に入ったのを選べって所で、入ったところが「フリーソンファミリー」というバンドで、ちょっと泥臭いけど小洒落た感じのサウンドを演奏していたんですけど、そこに入ったら、「新入生だけで何かをやりなさい」っていうことだったんですよ。そこで、一番最初に歌ったのが、カーラボノフの『ルーズアゲイン』という曲でした。カーラボノフって、結構ソフトなんですね。で、同じウエストコーストでも、リンダロンシュタットが同じ曲をハードに歌ってるバージョンがあって。こっちの方が合うんじゃないのってメンバーに言われて、で、リンダ・ロンシュタットを当時カバーをしてたんです。 T:その辺りから、自分の方向、やりたい方向が? M:その時は主にリンダ・ロンシュタットやニコレット・ラーソンをやってましたね。ただ、音楽を聴く耳もそんなに広くは持ってなかったから。今はブラック系とかも好きなんだけど、当時はR&Bのフィーリングとかが分からなかったというか、その時はストレートにスコーんと歌えるものが好きだったんですね。結構熱いものがあったから。 T:当時、曲書いたりとかは? M:やろうと思ってたんですけど、どうもあんまり進みませんでしたね。文学部のくせに余り読み書きが好きではない。なぜ文学部?っていう感じなんですけど(笑)。多分、今思うと何でもちゃんと人に言葉で口で伝えないと嫌なタイプで、何でも言っちゃうんですよね、人に。あんまり自分を隠して隠してというよりも、「ちゃんとここをわかってよ」という感じで伝えちゃう方なので、歌にしたいと思うのは、どうなんだろうと思うと、既に何か素晴しいものがあっちゃったりすると、それがいい!という感じがあったりして。でも今、ちょっと書いたりとかしてるんですね。その内、またオリジナルでやろうかなとも思ってるんですけど。 T:サークルでの活動や、以降の音楽活動、ライブとかは? M:二部のサークルだったんで、みんな昼間働いて、夜学校来て、合間にサークルをやっていて、外に向けての活動って余り多くなかったんです。だから、うちうちの年間の行事があって、みんなそれで精いっぱいでした。学校のバンドは卒業後解散したので、外のバンドに入ったんですよ。でも何も動きはなくて、これでは駄目だと思い、ソロヴォーカルで動こうと思いました。やっぱりどうしても歌を続けたかったんですよ。昼間の仕事はもういろんな事をやってきてるんで。レストランでも働いて、学校の事務もやったし、学校の校長秘書もやった事があるんです。ブティックに勤めたり、ライブハウスでもバイトしたし。いろいろやってきて、やっぱり好きな音楽で食べていきたいなと思っていたので就職活動とかは別に改めてする必要もないし。ソロで歌おうと思って。その時、ジャズのライブハウスのオーディションがあったんですよ。「ジャズって何だろう」っていう感じだったんですけど、最初、ヘレンメリルの歌を聴いて、当時はストレートに歌い切りたいというのがあったので、ヘレンメリルは気持ち悪いなとか思ったんですよね。今なら良さが分かりますけどね。で、エラ・フィッツジェラルドの『コール・ポーター集』のアルバムを聞いたら、すごいキュートでそのうえ強さもあったし、素敵だったんですよね。同じジャズと呼ばれるヴォーカル物でもこんなに違うんだと。だから、すてきなメロディだったり、すてきな歌詞があったら、自分なりに歌ってていいんだなっていう風に思って、とにかく何曲か覚えて、「バレンタイン」というところのオーディションを受けたら、合格しちゃったんですよね。定期的に2カ月に1回か、3か月に1回か出演しますっていう話になって。またちょうどその時に、別のお店で「ウエイトレス兼ボーカルでバイトしない」っていう話があって、レパートリーないですけど、それをやり出したんですよ。ジャズって3・4回セットがあるので、1日に最低9曲は歌わなきゃいけなかったんですね。最初5曲ぐらいしかレパートリーがないから、ワンステージ目のを3ステージ目に持ってきたりとかして。そんな感じで、ウエイトレス兼ボーカルでちょっとずつ曲を増やしていって。そのうち、ソロで色んなお店に出るようになったんですよ。その時に知り合ったミュージシャンの中で、もろジャズっていうよりも、ポップスのお仕事なんかもしてたピアニスト渡辺一己君が、「4ビート物を16にアレンジして、バンドでライブやろうよ」といってくれて、やったんですよね。考えてみればそれが卒業後のバンド形体での初めてのソロライブでした。その流れで、「マリーンのコーラスが1人抜けるんだけどやらない?」っていう話になって、とりあえずやってみるっていう事で、こっちの世界に入ってきたんです。 T:それが、歌のお仕事の始まりですね。 M:そうですね。 T:マリーンさんとの活動は、ツアーとかレコーディングを? M:うん。 M:何年だろう? デビュー前までだから、4、5年やってたような気がする。 T:マリーンさんやってる頃は、他のお仕事は? M:その時はコーラスだけで。ジャズのお仕事もちょっとやってたんですけど、スケジュールが合わなくなってきて、それだけかな。 T:「自分で歌いたい」っていう思いみたいなものと、コーラスという活動に関して、何か考え方はありますか? M:ソロで歌う人って「前に前に」ってタイプの人が多いと思うんですよ。でもあたしは性格的に、あんまり「前に前に」って行きたがらないタイプで。コーラス仲間でもいるんですけど、やっぱりそうなんですよね。自分がメインではなくても、音楽を楽しんで、その中の1つで音が出せればいいっていうタイプなので、別に「メインじゃないと嫌だ」っていうのは全然なく、すごい好きなんですよ、コーラスとしてステージに立つのが。だから、すごく嬉しかったですよ。 T:ソロのキッカケは、何か? M:ジャズ系のライブハウスに出てた時も、レコード会社の人からの話がちょこっとあったりしたんだけど、それは結びつかず。マリーンのコーラスをやるようになってから、スタジオでとった音源とかあるじゃないですか。「もっとコーラスやりたい」ってすごく思ってたので、コーラスとしてのデモテープと写真と、簡単なプロフィールみたいなものを作って、友達に渡したりとかしてたんですね。コーラスの仕事があったらやりたいからっていう事で。それが、ファンハウスの当時のプロデューサーに渡って「ソロを聴かせて欲しい」っていう話になって、改めてソロを聴いてもらって、デビューする事になったんです。 T:それが決まった時はどんな感じだったんですか? M:そうですね。嬉しかったですよね。何だろうな、歌が好きだから、いい歌が歌えるようにというのがずっとあったわけで、ずっと歌を続けていければいいじゃないという風に思ってて、コーラスの仕事があって、「コーラスをもっとやりたいな」と思ったら、そういう話になって。「あんまり考えてないほうが、こういう道に入るのかな」とその時、思ってて。流れに乗っちゃった方がいいんじゃないっていう感じで、始まったんです。 T:「Mew」っていうアーティストネームはどういう形でついた名前なんですか? M:それはファンハウスの話が決まる前のことで、「コマーシャルの歌録りがあるからちょっとやってくれない」って言われて、歌いに行って録音して、それがたまたま「CDになるよ」っていう事で。2曲とも英語だったし、名前もそれっぽいのがいいかなと思って。で、ミューという響きが好きだったので。 T:アルバム1枚目『水曜の朝、窓を開ける』ですけど、このアルバムは? M:もう、30過ぎてたんですよ、その時。でも全然音楽業界の事をわかってないというのもあったし、とにかく流れに乗ってと思ってたら、あっという間に物事が進んでいて、プロデューサーの意向がやっぱり強く出てたアルバムでしたね。実は当時から私はすごい夜型で、低血圧でどっちかというと「けだるい、朝が似合わない」人間だったのに、アルバムは「朝です、さわやかです」ってなっちゃったんですよ。だから、そのイメージに関しては、すいません、申しわけございませんっていう話になっちゃいます。(にが笑) T:アルバムが完成した時の印象は、どうでしたか? M:自分のイメージの違いにはちょっと心地悪かったけど、アルバムとしては心地よい素敵なものができたと思いました。すばらしいプレイヤーや作曲家、アレンジャーの方たちでしたし。朝水彼方さんの詩のセンスも好きでした。やっぱりどっちかというと、「私はこう思ってるんです」っていうアーティストタイプではなく、いかに楽曲があって、それをどういう風に伝えようかという「歌い手」というスタンスの方が大きいんですよね、当時から。だから、「楽曲が出来た、こんなメロディの曲があって、じゃあこれにこんな感じの詞をつけて、センスのいいアレンジで、」っていうプロデューサーの意向があって、こういうものが出来たと。それをいかに自分が歌うかという風に行っちゃうんですよね。だから、持ってこられた世界を、自分なりにいい形で出そうという働きになり、そういう意味では本当にアーティスティックじゃないって言われたらそれまでなんですけど、歌い手としてアルバムをつくってきたなという感じはすごくありますね。 T:1枚目の中で、特に気に入ってる曲とかは? M:みんな好きですけど、COOLの心地よさがいいですね。さわやかにはちょっと遠いタイプだったんだけども「自分にもこういう面は少しはあるのかな」っていう感じも、ちょっとその時、思ったりなんかもしましたね。客観的に見るとそういう部分も。それはそれでいいのかなっていう。『水曜の朝、窓を開ける』とかサウンド的には、おしゃれというか、センスがいいなと思ってたので、気持ちよかったのは気持ちよかったですね。『キスしても平気』とか、雄大の曲に甘ーい歌詞がついた曲があって、自分のキャラを考えると全然そんな感じではなかったんですよね。今、正直に言いますが。曲としては好きなのはすごく好きなんですよ。でも自分のキャラとしては「ええー、」って感じだったんです。(笑)歌詞の内容もスイートなんだけど、彼方ちゃんの書く詩はセンスがいいから歌えちゃうんですよね。そうやってそういうものをつくり出そうとか、自分も普段こんなタイプではないけれども、こういう瞬間はやっぱり好きな人といてあるよねっていうところで、その曲をつくり上げるっていう作業ですよね。ほんとに役者的な感じだと思うんですけど。 T:2枚目の『幸せのスケッチ』ですが、ちょうど1年後。これは? M:(笑)プロデューサーと最初、意見が合ったのは、アニタ・ベイカーの"スイートラブ"とか当時流行ってたじゃないですか。もともとストレートなロックが好きだったけど、その頃はジャズとか聴きだしていて、カーリー・サイモンが出した"トーチ"というアルバムで、スタンダードナンバーを歌ったのがあるんですけど。それとかマイケル・フランクスなんかが好きで。ああいう大人っぽくて、渋くて心地いいものがやりたかったですね、デビューにあたって。あとはボサノバとかも聴くようになってたんで。ジョアン・ジルベルト、ガル・コスタ、ミルトン・ナシメントとか。タニア・マリアなんかも好きでした。大人っぽくて心地よい物をやりたいという話を、私なりには自己主張しているつもりだったんですが、結局2枚目の方がもっとポップなものになっちゃいました。ポップだけどのんびりとした心地よさは外れてはなかったと思いますが。 T:特に印象的だった曲とかは? M:雄大や景家や山田さんの曲も好きなんですけど、赤塩さんの曲が特に好きでした。詞が有賀君で、『雨より孤独な夜』っていう。赤塩さんの曲を何曲か聴かせてもらって、その中ですごい心に残ってて。あと『幸せのスケッチ』もそうなんですよ。赤塩さん、海外から帰って来て、すぐだったと思うんですけど、英語で歌ってたバージョンがあって、それを聴かせてもらって、すごいかっこよかったんで、これはぜひ歌いたいという事で、これは自分で入れたのかな、確かそうだと思います。 T:アルバムジャケットとかは? M:2枚目のジャケットの打ち合わせの時に、どんな感じがいいかというときに、カーリーサイモンのシースルーの下着のジャケット、ちょっとひざをついて。「あんな感じがいい」って言ったんですけど、とてもじゃないけど却下されましたね。(笑)「それと、この楽曲かい!」みたいな感じ。すいません。 T:サードアルバムが、その半年後ですね。 M:そうですね。どんどん行きましたね。 T:『眠る記憶』というサードアルバムに関しては? M:ようやく少し、大人っぽいイメージに近づいていけたと思うんですよ。ここから本当にもっと渋い感じでいきたいなと思ってたんですけどね。個人的には3枚目がだんだん自分に近づいてきたなっていう。 T:1枚目、2枚目より3枚目のほうが自分らしさというのが。 M:そうですね。 T:プロデューサーも。由衣さんの事がわかってきたという事ではなく? M:うーん、どうでしょう。最初から良く分かってたんだろうとも思います。今井美樹の最初の頃の、さわやかな感じが好きなプロデューサーで。だからそういう方向に行きたかったというのもあったと思いますが、ただ客観的に考えてみると、私の声って、線が細くてどちらかというときれいな声じゃないですか。だから1枚目も2枚目も、絶対そういう意味ではね、間違ってないというか、作品づくりを考えると、プロデューサーはそういうところをちゃんと見てて、「こういうのが絶対合う」という事で、作られたんだと思うんですけどね。今聴くと、私自身もあの頃よりも客観的に聴けて、もっと好きになってますね。(笑)3枚目はなんてったってリズム隊がJINSAKUさんですから。リズムがタイトで気持ちよかったです。他もすごいミュージシャンばっかりですし。アレンジも、詩も、曲もセンスのいいものばっかりが揃ってますよね。 T:その次が、ベストアルバムですよね。このセレクトはご自身が? M:プロデューサーの意見と混ぜてって感じですね。私が1人で決めちゃうと、多分すごい偏っちゃうと思うんで。 T:これまでに、シングル8枚、アルバム4枚をリリースしたわけですけれども。 M:ソロ活動をやりながらも、コーラスをやってたんですよ。事務所にお金がない状況だったので。ライブもあんまりやってないです。ライブについて言うと、生ピとギターと歌だけの形で、3か所か4か所やったんですけど、結構大変でしたね。それぞれに負担が大きくて。でも2人とも、いいプレーヤーだったので、それはそれでね、楽しかったですよね。 T:当時、コーラスの仕事で、何か印象的だったものは? M:清志郎さんのコーラス。 T:それはどういう流れで? M:マリーンの舞台監督が、清志郎さんもやっていて、声をかけてくれたんです。 T:どうでしたか? M:最初は、何かよく覚えてないんですけど、とにかくすごく緊張してました。現場の雰囲気だったりとか、清志郎さんの音楽がすごい好きで、ほんとにすごーく楽しかったですね。途中でコーラスとして2人が残る事になって、しばらくやってたんですけどね。曲も大好きだし、詞も大好きですから本当に楽しかったですね。 T:その頃、「天才トノサマBAND」結成になるんですか? M:うん。アルバムの活動をしている中、ラジオ番組をやるようになったんですね。その中の1つで鈴木雄大と一緒に「カムコムミュージック」っていう番組をやってたんですよ。で、雄大と仲よくなって。雄大はアルバムの時に関わっていて、一緒にラジオやるようになってから、音楽の話をいろいろするようになって、日本のアーティストの中では吉田美奈子さんと山根麻衣さんが好きなんだ(ぜんぜん違うタイプですが‥)とか話していたら「じゃあ、もうちょっと違ったものもやろうよ」っていう話になって。最初は、雄大と私ともう1人ギターの子を誘って、3人でやり始めたんですね。でもすぐギターの人が出来なくなり、「どうしようか」って言ってる時に、今、天トノで一緒にやってるかっちゃん、佐藤克彦君にやってもらう事になって、かっちゃんと3人で1、2回リハをやり出した時に、持っちゃん(持田ヒロツグ)や、トモちゃん(今福知己)とか、秀ちゃん(平島秀信)とか、雄大が別に活動していたバンドと合体するような形になったんですよ。それで「天才トノサマBAND」っていう。 T:バンド名はどういう経緯で。 M:その持っちゃんがボーカルで入ってたバンドが、もっと長い名前だったんですね、「天才満開何とかかんとか」っていう、みんなそれぞれが勝手な、一番トップみたいな感じのを全部つけた名前だったのかな。それがちょっと短くなって。 T:ボーカル、ギターと。ギターはかなり? M:いえ、なんちゃってです。(笑) T:やってみようかな?という感じで? M:そうですね。昔好きな人に、ギターが似合うねって一言言われたのがきっかけで。(笑)でもその人にふられてしまって、多分。で、貸してくれていたギターを見るのさえ辛かったんですけど、しばらくしてそのギターを返して欲しいといわれて、余計ギターがいやになっちゃって、いったん挫折しました。天トノでアコギをやりだしたんだけど、何曲かはやってたんですけどね、最初は。ちゃんとステージでギター弾いて。ちょこっとだけ…。ここんとこ、やってないんで、また復活します。 T:ボイスインストラクターのお仕事を始めたのは? M:マリーンのコーラスをしていた頃、無理をした時にできたポリープが少しずつ大きくなっていて、その清志郎さんの仕事が終わった後に、手術したんですよね。そしたら、入院して大人しくしていたから、体の筋肉とかがみんな落ちちゃって、腰が悪くなって動けなくなっちゃったんですよ。当時、コーラスの仕事の話もあったんですけど、とにかく動けなくて、仕事一切キャンセルして、何もしなかった時期があったんですね、ぐあい悪くて。ようやく直ってきた頃、「何かしなきゃ」っていう時に知り合いのベーシストが、「実はこんな話があるんだけど、教えない?」って話で、「教えるなんてとんでもない。私がもっと教えてもらいたいよ」って、最初断ってたんですけど、「いいからとにかくやってみて、3か月で辞めてもいいし、出来るだけやってみれば」って言われて。ずっと何もできなかったので、リハビリも兼ねてと思ってやり出しました。若い子、十五、六歳のバンドやりたいっていう子がいっぱい来てるような学校でしたね。 T:教える事は、今までの活動とは異なる事ですが、ご自身に合ってたところはありましたか? M:ありますね。「私は無理だろう」とか思ってたんですけど、さっきも言ったように自分の思ってる事をちゃんと伝えたいタイプって言いましたけど、ほんとにこれを、いかにこの子に伝えようかっていう、色んな角度から「じゃあこうやってみて、こうやったらこうやるんじゃないかな」とか、意外とそういうのが向いてたっていうのかな。だから、面白かったですね。責任があるから大変だと思ってたんですけど、教えるっていうよりも、「こうしたら、こうなるかもよ」みたいな感じでやり出してったら、すごいいい形で結果が出たりとかすると、本人も喜ぶし、私も嬉しいっていうのがあって。「これは性格的に、もしかしたら合ってるのかな?」って。未熟ながらも、そうやって一緒にいろんな事を考えながらやっていくと、やっぱり自分も自分の楽器をどういう風にしなきゃとか、自分の事ももう一回考え直すし、楽器の違いとかもあるじゃないですか。ほんとに100人いたら100人みんな違って、同じ楽器を持っている人はいないので、そういう意味では勉強になるというか、「ボディーが、楽器」で、どういう風に使うのかなっていうのは、すごい面白かったです。 T:そこから現在まで続いてると思うんですけど、2000年のニューヨークというのは? M:「勉強したいな」って、ふと行って。行く前に友達なんかにも、「誰か向こうでボイトレのいい先生がいたら教えて」って、1人は聞いてたんですけど、3人の先生に習ったんです。1人はソニー系列の人の紹介で教えてもらって。もう1人は、ニューヨークに行って新聞の広告で見つけて電話をして。もう1人はホテルのラウンジで弾き語りでベーシストとドラマーと3人で、トリオでやってたジャズの人がいて、すごくいい感じだったんですよね。その人に直接話しかけて、「ボイトレやってますか?」っていう話をしたら「やってる」と。「じゃあ是非!」と。ダイレクトに。 T:由衣さんにとって、ニューヨークは場所としては? M:その時は安ホテルに泊まったんですけど、その前に行った時、確か87、88年頃だったと思うけど、一緒に行った人がSOHOに住んでいる画家さんの知り合いだったんで、その人のロフトに泊まらせてもらったんですよ。今のSOHOってすごいおしゃれな街になっちゃったみたいなんですけど、昔のSOHOっていうのはアーティストがいっぱい集まってるところで、すごいいい感じだったんですよね。そのロフトもすごく天井が高くて、広々としてて、彼の絵がそこらじゅうに張ってあったりして。あと2人、そこに住んでて、1人はカメラマンで世界中、飛び回ってるって言ってました。もう1人は何の仕事してた人か分からないけど、ピアノを一生懸命練習してたな。ちょうどクリスマスから新年もそこで過ごせて、色んなアーティストの人がいっぱい遊びに来たりして、すごい刺激を受けました。ニューヨークに住みたいなって、その時は思ったんですよね。自分自身、すごくテンション上げて生活していたけど、それが心地よかったし、すごく自分らしくいられたし。でも2回目に行ったときはなぜかそう思わなかったんです。きっと少し安全になって、東京とあんまり変わらない感じがしたんですよね。 T:戻ってきて、どういう動きに? M:ヴォイストレーナーの仕事に復活で、三、四か所のスクールに教えに行ってました。そして「ウィズアーツ」に辿りついたのが3年前ですね。それまではいろんなところに。 T:どんな流れで「ウィズアーツ」設立に? M:私の姉とその講師仲間で、「独立したいね」という何気ない会話があって、そこに私が加わって、「じゃあ、フレンドリーで居心地がよく、でもちゃんとレッスン内容は充実してて、音楽を通して元気になってもらえるようなスクールを創ろう」っていう話になって。「ウィズアーツ」っていうのができたんですけど。 T:ウィズアーツで、コーラスのお仕事をやり、最近は? M:そうですね。「アドゥーア」の話もありますね。自分の歌を考えたときに、ストレートなロックが好きだったり、それからちょっとジャズっぽかったり、ボサノバが好きだったり、後から好きなものっていうのがどんどん広がって、ほんとに好きだなとか、心地いいなとか、歌いたいなとかという物がいっぱいあるんですけど、自分が持っているもの、自分の中に流れている自分が意識していないところで出てくる音楽性というのが、やっぱりすごいアジアなんですよね。例えば、フェイク1つするにしても、やっぱり日本的なこぶしになっちゃったりとか、すごい日本人だな、アジアだなっていう意識があったんですよね。その時に、知り合いがヴォーカリストを探してるんだけどと、紹介してもらったのが、アドゥーアの朝倉さんで、彼もやっぱり大学の時からアジアの音楽が自分のテーマにある人で。そこで共通点が出来て、歌を聞いてもらったら、気に入ってもらえて。自分が何もしないで、素で出てくる節回しであったりとか、血に入っちゃってるというのか、それはやっぱりすごい素直にできる歌、作り出そうとかじゃなくて、自然にそうなっちゃうみたいなところの音楽が、自分の血で歌えるというと変なんだけども。他のものが嘘かというと、そういう訳でもないんですけど。「じゃあ何かやろう」という話になって。最初は、彼が作った曲の仮歌とか歌ってたんですけど。そのうち『天誅』というのにたどりついて、これはクライアントさんがいたんで、オーディションとかもあったんです。民謡の歌手の方とかもいたらしいんですけど。そのとき「これは絶対私が歌う」「私でなきゃおかしい」って思ってましたね。その1曲目が「addu'a」っていう曲なんですけど、その「addu'a」を、タイトルをとってユニットでライブ活動をしようという話になってるんですよ。アルバムの話もちょっと出てて、朝倉さんがプロデューサーであり、キーボード(コンピュータプログラミング)なんですけど、ベースが樋沢達彦さんで、ギターに天野清嗣さん、ボーカルが私っていう4人編成です。何かそろそろ動きがあるかな?みたいな。 T:それも楽しみですね。 M:ですね。私もそうやってずっと今までいろんな音楽を聞いて、いろいろ続けているうちに、そういう血に流れているものはアジアだなと思いながらも、やっぱり洋楽がすごい好きだったりとかで、今の子にしてみれば、洋楽も日本の音楽もそんなに大して変わりはないんだろうと思うけれどもね。あと浜田美樹ちゃんと今、一緒に始めた事があって。彼女はどちらかというとブラック系なんですけど、すごく一緒にいて心地いいし、やっぱり声を合わせるのって、その人と波長が合わないと絶対無理だし、プライベートですごい波長が合ってるし、「一緒にやろうよ、何かやろう」って。私はどっちかというと白っぽいっし、アジア的な方なんだけれども、ブラックもすごく好きになってきて、そういうのも今までやってないから、鈴木雄大と一緒にやってる「天才トノサマBAND」の中ではそういうテイストもいっぱいあるんですけど、本当にそれを離れたら全然やってないので、2人ではブラック系をやってみようかなと思っています。 T:名前は? M:「名前、どうしようか」って言ってたんですけれども、2人とも合わないところはすごい合わなくて、好みが全く違ったりする事もあるんですけど、気持ちは合うっていうのかな、波長は合うっていうか、別個でも認め合えるっていうか、そういう風にいい関係でいられてて。一番合うところは、2人とも「いい加減なところ」だよねっていう話になって、それじゃ名前はもう「いい加減シスターズ」にしようっていう事で、「いい加減シスターズ」って。E・K again Sisters と書きます。 T:それと、今、スクールと「アドゥーア」と「天才トノサマBAND」。 M:「アドゥーア」と「天才トノサマBAND」と、ジャズライブと、あとソロもちょっと考えてます。 T:ソロも? M:はい、オリジナルを増やして。 T:是非ですね。 M:そうですね。1つだけ、やっぱり歌にしないと伝えられないかなというのがあって。それは何とか形にしたいなと思ってるんですけど。 T:それが形になるのを、楽しみにしてます。今日はありがとうございました。 M:こちらこそ、ありがとうございました。 -end-
出演:天才トノサマBAND
村瀬由衣さんのインフォメーション等は、 「天才トノサマBANDオフィシャルHP」(http://homepage3.nifty.com/tentono/) 「Wis ARTS/ウィズアーツヴォーカルスクールHP」(http://www.wisarts.net/)まで。 |
|