永野かおり
高校からバンドを始め、1988年、サイケ系ギャルバンド「メスカリンドライブ」に加入。1993年上京以後、「The
3 PEACE」結成、2002年「サルサガムテープ」に正式加入と、さまざまなフィールドで活躍中の、ベーシスト永野かおりさんのロングインタビューです。
(2005年3月10日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)
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永野かおり(NAGANO KAORI)
1968年 3月23日の大阪生まれ。
1986年 高校3年の時友達にだまされベースを購入、
1986年 バンドを始める。
1988年 サイケ系ギャルバンド「メスカリン・ドライブ」に加入。
1993年 解散後、長野県で農業をしていたところを友達に
1986年 発見され上京。
1994年 「チャイナボウルズ」を経て
1996年 「THE3ピース」を結成。(現在、休止中)
2002年 「サルサガムテープ」に正式加入。
更には、桂 歌蔵と藤沼伸一とのユニット「かんかんのう」や、
今年、始動する「サイボーグ」等、意欲的な活動を続けている。 |
えとね、バンドやり過ぎた。アルバムも出したし、もう充分がんばった。ツアーもして全国回ったし、もう辞めようと思って、農業しようと思って、その頃からていうか、昔から自然と調和した生き方みたいのにすごく憧れてて、農業をやってみよう、いつか自給自足の生活ができる第一歩として、農業に行こうと。
TERA(以下:T):まず、生まれと場所と、教えてください。
永野かおり(以下:N):はい。1968年のことじゃ(笑)。神戸生まれの、大阪の堺で育ちました。
T:どんなお子さんだったんでしょうか。
N:生後間もない頃に、あまりにも泣かなかったんですって。で3人兄弟の、末っ子なんですけど。年子で3人兄弟で、母親も3人目やから手抜きなんですよね。赤ちゃんの私の口に哺乳瓶をぽいて入れて、この辺にタオルとか置いたりしたら、一人でチュッチュと飲んでると。それを見た兄に哺乳瓶ピッて取られても、ヘラヘラ笑ってて、「ちょっとこの子ヤバイんちゃうか」て、病院に連れていかれたそうです。なんか笑ってばっかりで、ニコちゃんと呼ばれてました。
T:御兄弟、仲よかったですか?
N:まあ、普通にけんかもして、仲もよくしてます。
T:どんな遊びしてたんですか?
N:なんかね、椅子をね、台所に椅子とテーブルがあるでしょ。5人家族だから椅子が5個あるわけですよ。で、3個、2個て並べて、縦に積み上げて、それで一番上に、1人乗ると。飼育係。で、二人オットセイ係とかいって、みかんとか投げてわーっと食べたりとか、そういうことしてました。バカ兄弟(笑)。
T:あとはどんな遊びを?
N:あとは、外では、なんか団地だったので、同い年くらいの子供がいっぱいいたから、10人ぐらいいたので、野球したり、探偵ごっこしたり、走り回り系の遊びです。テレビゲームとかなかったから。
T:小学校の時、なんとか係とか、スポーツとかは?
N:小学校の時は、活発な少女で、学級委員長やってた。なんか毎年やってた。それで、また放課後とかもクラスの子と探偵ごっこ、走り回って遊んでました。
T:音楽は、小学校の時期には、何かやられてたんですか?
N:全然才能なくて、かなりオンチの家系なんですよ。音楽の時間は、歌のテストとかあると、活発な少女だっただけに、すごいでっかい声でハーッて歌うんだけど、相当オンチで、周りのみんなが困るって、そんな感じでした。
T:では、楽器とかも特に?
N:課題のハーモニカとか縦笛とか、楽器はまあ、練習好きやからそれなりにやってたけど、そんなに興味もなかった、そんな感じ。
T:中学校入った時に変わった事は、ありましたか?
N:中学の時は、ちょっと反抗期でしたね。なんやったっけな、中学でしょ。中学の時ね、マンモス校だったんですよ。小学校の時7クラスだったのに、中学校上がったら、ひと学年20クラスもあったんです。1年生、2年生、3年生て、ひと学年ずつ校舎があるみたいな。それで急にすごい人数のとこにポンて入ったもんだから、それまで学級委員長とか、うわーって威張ってたのに、ちっちゃくなったら今度逆切れしてぐれちゃったんですよね(笑)。で、クラブとかも入らず、実は入ったんだけど卓球部に入って、そしたらそこつぶれちゃったんですよ。廃部になって、そのまま帰宅部で、そのままちょっとぐれてました。
T:そのぐれ具合って。
N:ぐれ具合は、でも自分らでは無邪気なもんで、教室にお菓子持ってきて食べたりとか、ちょっと学校行かずに、公園で遊んだりとか、お菓子食べたいけどお金ないから、ちょっと拝借したり(笑)とか、そんなに悪くなかったつもりなんだけど、よく親呼び出されて、親が泣いたりしてましたよ。でもそんなに悪いと思ってないから、反省しなかった。
T:3年間?
N:3年の時は、なんかね、勉強に目覚めて、そうそう、ぐれたり悪いことしてても、親にばれへんように、ちゃんと勉強していい成績をとってた。で、ほら、どう、これ、成績いいから、ちゃんとやってるからっていったら、親も安心するじゃないですか。超悪賢い(笑)。で、3年になったらそういうのも飽きちゃって、ゲームするみたいに、勉強するといい点取れるのが楽くて。で、勉強したりとかしてましたね。そんなにトップとかじゃないけど、中の上くらい。
T:それで、高校受験は?
N:そう。だから受験とか、楽しんでやったですね。高校受験は。で、姉が行ってた学校がすごい楽しいっていってたんで、そのままマネしてそこに入って。自由な学校っていうんで、そこに入って。
T:それも堺の近くなんですか?
N:それも堺。堺市立なんとか高校。
T:高校に入ると始めた事は?
N:高校に入って、元々スポーツ好きで、ジャッキー・チェンが好きだったので、柔道とかやろうと思って高校に入ったら、少林寺拳法部っていうのができたばかりのがあって、迷わずそこに入りました。一人で入りました。
T:そこでまず何をやるんですか?
N:いきなり軽い型から始まって、なんとかの拳、1、2、3、4、5みたいな。あとはストレッチと筋力トレーニングみたいな、空手みたいに砂にわーっとかっていうのはなかったです(笑)。
T:では高校の時は、ずっとそれを続ける?
N:そうですね。高校3年間は少林寺漬け。
T:じゃあ、音楽はまだ?
N:うん。音楽は、まわりはみんなバンド系の友達で、見に行く方だったんですよ。で、最前でオーッて大暴れする役だったんだけど。なんかメンバーが足りなくなったっていって、高校3年生の最後の文化祭のライヴで、メンバーが足りないからおまえやれと。おまえ勢いあっていいぞみたいな。で、ベースやったらとりあえず短期間である程度弾けるようになるはずだからって。ここがド、こうやって弾くんだよ、ここがレとかいって、こう持って押さえるって、それでなんかこう、えーっていってる間に、イエスとかノーとかいう間も与えられずに始めて。
T:それって高校何年生で?
N:高2の終わりですね。春休みぐらい。それも面白くて、はまっちゃって。で、高3の時は少林寺とバンドと平行して、そんな感じです。道着とベースしょって学校行くみたいな(笑)。
T:そのバンドは、ライヴとかは?
N:えと、その文化祭の、高3の最後の文化祭でライヴやって、それで楽しかったので、そのまま高校出ても、大学に入ってからも一緒にやってて、で、短大に行ったメンバーは2年間は一緒にやったんだけど、就職の段になって、もうやめるっていって、解散しちゃいましたね。
T:バンド名は?
N:バンド名? うわー、はずかし(笑)。高校の時のでしょ。あのね、最初組んだ時は「アスラン」って名前。それで、高校卒業してライヴハウス出るようになって、エルフィンていう名前にかえました。「ELFIN」。ファンタジー系の童話がすごい好きで、両方ともそこからとったんです。
T:へえ。エルフのエルフィン?
N:そうそう。「アスラン」はライオンの王様みたいなのがいて、その名前。
T:で、音的には?
N:音はね(笑)、その当時は1980年代中旬、86年とか87年とか、
T:まだバンドブームしてない時。
N:そうそう。ジャパン・メタル・ブームの終わり頃。世間は44マグナム、ラウドネス、アースシェーカーとか、そういう時代だったので、そんなような(笑)。まあ女の子だから、ポップな感じで。で、大阪だったので、大阪って地域性強いじゃないですか。それでプレゼンスっていうハード・ロック・バンドがあって、そういうのとかカヴァーしたり、ノベラとかも流行ってて、変拍子とか入れてみたりとかしてました(笑)。
T:編成は?
N:編成は、全員女の子で、ドラム、ベース、ギター、ヴォーカルにキーボード。
T:オリジナル?
N:オリジナルばかりやってましたね。高校出てからは。カヴァーで始まって、1年ぐらいでオリジナルやってました。
T:みんなで詩曲書くんですか?
N:そうですね。ギターの子と私で作って。恥ずかしいから、それは忘れちゃったけど(笑)。曲はまだしも、詞なんて、もう、恐ろしい、恐ろしい、くわばら、くわばらという感じ(笑)。
T:バンド名がフンタジー系だから詞も?
N:そうそう、もちろん、ファンタジーで。
T:どんな歌詞だったんですか?
N:えーっ、覚えてないなあ。なんかね、ファンタジーでもちょっとエログロ入ってるみたいな。水死体の曲とかいって、海の底に沈んでる水死体の曲作ってとかいって。で、まあ言葉は水死体とかいわんと、きれいな感じで。あ、英語はね、日本語大好きだったから、一切使わなかった。あとは地球滅亡の曲とかいって、太陽ががーっとなって、全部燃えちゃうみたいな内容の歌詞とか作ってた。恥ずかしい(笑)。
T:それで高校卒業して?
N:私は4年制の大学に入って。本当は少林寺拳法で推薦とかあって、少林寺きわめて四国の本部に行って、幹部になると思ってたんですよ。勉強しなくても推薦で入って。で、その推薦のオファーが来たのが全部、関西外語大学とか、英語系の大学で。日本語大好きだから、絶対国文科に行くっていってたのに、国文科なかったんですよ。英語全然ダメやから、じゃあ、行けないと思って、じゃあもう少林寺はいいやって、けっこうあっさり、国文科の大学に行こうと。で、4年制の大学に行って、少林寺は嘘のように忘れ、バンドに突入していきました。
T:じゃあもう、エルフィンの流れ。
N:エルフィンは2年生までやって、で、3年になった時に解散して、ふらふらしてたら、高校時代の友達が、メスカリン・ドライブっていうバンドに入ってんけど見に来てとかいって、それで見に行ったら、今日のベースはヘルプで、ベース探してるねんけど、一回オーディション受けへん?とかいわれて、やるやるとかいって、そのまんまオーディション受けて、加入。
T:メスカリンは大阪で結成されて。
N:そうですね。結成は多分ね、けっこう古いんですよね。83年とか、多分そのくらいやったと思う。ギターのひでちゃんが大学時代とかっていってたから。80年代初頭にできた。
T:CDやLPを作ってたんですか?
N:私の入ったのが88年の11月なんですけど、その年の10月にファースト・ミニ・アルバム。
T:そのタイミングでファースト・アルバムなんですか?
N:そう。入る直前に。その前にソノシートとかシングルを。ソノシートの時代なんですよね(笑)。出したりとかしてたりみたいですね。あとオムニバスに参加したりとか。で、単独でミニ・アルバム出したのが、88年の秋っていってましたね。
T:それに参加してる?
N:私が加入したのはそのあと。せっかくアルバム作って、けっこう売れたらしいんですけど、リズム隊がやめることになって、それで私の友達と私が入ることになった。
T:それはエルフィンの?
N:とは別のバンドの友達。男の子。
T:で、オーディション受けて入って、そのあとどうなるんですか?
N:えとね、11月にライヴ見に行って、一週間後ぐらいに、オーディションいうても、ちっちゃいスタジオで、じゃあ、よろしくとかいって、何曲かもらった音源コピーしていって、やって、終わって話す、飲みに行く、それでOKみたいな(笑)。そんなん。マネージャーとかおれへんし、そんなんやったんやけど(笑)。そしたら、一緒にやりましょうということになったら、ツアー決まってると。12月末に東京ツアー決まってて、その時期、学年末テストやんみたいな。3回生の。もうバッチリかぶってて。で、バンドとったんです。親には内緒で(笑)。で、だから11月末に入って、12月中旬、大阪でライヴ、もうすごいスケジュール決まってたから、入ったらもうすぐに初めての東京が豊島公会堂とか、もうわけわからんかった。ただの女子大生なのに、初めてのライヴが、もう今はないんですけど、エッグ・プラントっていう、西成の、モヒカンの人いっぱいおるような怖いライヴハウスで、メチャ怖かった。対バン、コンチネンタル・キッズ(笑)とグルーバーズかな。コンチネンタル・キッズっていう京都のバンドがあって、ベース女の人で、他のメンバーはみんなモヒカンで、入墨かーって。ベースのお姉さんは、股間にチョウチョ一個つけて、前ばりみたいに。全裸(笑)。必見(笑)。なんじゃ。こりゃ(笑)。普通の女子大生、もうわけわからんかった(笑)。
T:で、大学の方は?
N:試験受けられなくて、ころっとやめちゃいました(笑)。
T:で、東京の方に?
N:うううん、ずっと大阪でいまして、そのあとメジャー・デビューとかしても、住まいは大阪で、レコーディングとかいうと、東京に出てきたり、そんな感じで。取材とかも、レコーディングで出てきた時に一気にばーっとやるみたいな。
T:89年はどういう動きになるんですか。
N:89年は、春からレコーディングして、で、キングレコードと契約して、メジャー・デビューしたんです。で、アルバム、レコーディングして、シングル先行の、夏アルバムかな。で、ツアー、ツアー、レコーディング、ツアー、それからは5年ぐらい、バンド・ブームだったし。89年ぐらいからですよね。バンド・ブーム。
T:初めてのレコーディングは?
N:生まれて初めてするレコーディングが、その当時はまだコンピューターじゃなかったので、プロトゥールスとかなかったので、こんなでかい、バブルの頃やし、山中湖のリゾート・スタジオで、こんなでかい卓で、エンジニアさんはこういうころころした椅子でシャーッてやるみたいな。ひゅーってやって、ぴこぴこってやると、フェーダーが勝手にひゅひゅひゅと動くとか。それもその頃わけわからへん、ハタチとか21とかで、いきなりハードコアかと思ったら、いきなり今度は何ヶ月後かには、リゾート・スタジオみたいな。業界のレコード会社のこんな人とか来て、君達がなんとかかねみたいな。なんじゃこのおっさん、みたいな(笑)。めまぐるしく変わっていった。きつねにつままれたような感じでした。
T:最初にできあがったアルバムは?
N:タイトルが『スプーニー・セルフィッシュ・アニマルズ』っていう、フル・アルバムで、サイケ系パンク・バンドなんだけど、レコーディングの時のドラムは、その時一緒の事務所だった、ニューエスト・モデルというバンドのドラムの人にやってもらったので、早い曲が多かったかな。タテノリの。で、バンドが得意とするのはどろどろしたすごい後ノリのサイケ調の曲が、得意でしたね。ただヘタやから早く弾かれへん。実はヘタなだけなんだけど、なんかこう、後ノリだぜみたいな(笑)。ベースたまってるぜって。ついていかれへんだけやってんけど(笑)。
T:それは気づかれず?
N:それは自分でも気ぃついてなかったから、これがタメだぜとか思ってたから(笑)。
T:それで、レコーディングとツアーの交代、交代の日々ですか?
N:そうですね。だから大阪にあんましいなかったですね。一ヶ月レコーディング、ちょっと帰ってきて、ひと息ついたら今度は全国ツアーみたいな。で、一ヶ月出て。
T:90年に入ると、動きはどんなでした?
N:90年か、なんかね、年に何枚アルバムを出さなきゃならないとか、そういうのがあったから、90年はそういうのの繰り返しでしたよね。で、だんだんお客さんも増えてきて、だんだんやる場所が変わってくるぐらい。ツアーの場所もライヴハウスも、少しずつ大きくなったりとか。そんな感じかな。以外に単調な繰り返しかもしれない。大きな目で見ると。レコーディング、ツアー、レコーディング、ツアー。ツアー、取材、レコーディング(笑)。そんな感じでしたね。
T:印象的なライヴ、ありました?
N:やっぱし初めてというのは印象的なので、最初の豊島公会堂かな。初めて東京に来て、初めてやったのが東京の豊島公会堂で、ニューロティカとか、一緒にやったんですけど、その時はすごい覚えてますね。なんかビデオになったんですよ。その時のライヴが。VOSかなんかの。で、楽屋の風景とかも全部カメラが回ってて、その時は基本的には普通の女子大生だから、まだメンバーともそんなに親しくないし、なんかニューロティカの人てすごい面白いなあみたいな、ちょっと遠巻きに(笑)。ライヴは、き、き、き、緊張してますみたいな(笑)。
T:トラブルは?
N:トラブルはね、ベーシストって滅多にないんですね。シンプルなベーシストは。いろんなエフェクター使う人とかは、あるやろけど。特にないかな。最初の頃はローディーさんついてなくて、自分で全部やってたから、自分の器材のことを把握できてるので、逆にトラブルなかったですね。それからローディーさん付き始めて大きな所でやり始めてから、最初ローディーがつくってことに慣れてないから、コミュニケイション取れずに、トラブルありましたね。ステージ出る時に、うちらがセッティングせずに、全部やってくれるじゃないですか。全部チューニングとかしてチェックして、「はい」ってくれるでしょ。で、それをあえて、もう一回チェックするのは悪いかなと思って、そのままポーンてやったら、4弦、半音低い!みたいな(笑)。うわーっみたいな(笑)。で、4弦大好きで、わざわざ3弦で行くとこも、4弦で引っ張って、ぐいーんと引っ張って、太い音で行くのが好だから、4弦ないとどうしようもないんですよ。しゃあないから、本当はここがFやけど、半音下がってるから、Eでしょ、みたいな。もう泣きそうなぐらいで、1曲なんとか。あれはつらかったですね。
T:それで、その次の年くらいは?
N:それが90年ぐらいかな。ローディーがつき始めたのが。90年か91年か、はっきりしたことは遠い昔で覚えてないですけど。
T:3〜4年するとすっかりバンドにも。
N:そうですね。それからキングと契約が切れたのか移籍したのか、その辺は事務所がやってたので、よくわからないですが、キューン・ソニーに移って、だんだんバンドも音楽性が少しずつ変わっていったりするじゃないですか。それで、ファンカデリックが初来日した時、あれ何年やっけかな、初来日するというので、ファンク・ブームがバンド内に訪れて、Pファンクとか、ファンカデリックとか、クール&ザ・ギャングとか、KCサンシャイン・バンドとか、はまっちゃって、スライ&ファミリーストーンとか。で、ファンクばっかり聴いて、ギターの人がコンポーザーだったんだけど、作ってくる曲もちょっとファンキーな。でも全員ヘタクソやから、できないんですよね。やりたいんだけど。で、必死で練習したりとかしてましたね。服装も、すごい吉祥寺あたりにいそうな、むげん堂とかはるばる屋とかの服で、布をまきつけたような服やったのに、ファンク・ブームが到来したもので、ぶかぶかのTシャツとか、短パンとか。チノパンとか、スニーカーとか履き始めて。お客さんがついて来れなくて、どうしたんだ、いったいおまえらはって、クレームついたりとかして。でも自分らではずっと同じことを変わらずにやっていくのは保守的、守りに入るのは楽しくなくて、変わっていくバンドがカッコいいと思ってきたから、ちょっと、ざまあみろみたいな。ついてこいみたいな。変わっていくんだぜ、バンドは生き物だぜみたいな感じでやってましたね。
T:で、レコーディングもそういう音で?
N:そうですね。それまでは60年代とか70年代の音が好きやから、そういう楽器を使ってたんだけど、オールドのヤツとか。アンプもオールドなヤツとか使って、60年代の音をいかに再現するかみたいなだったんだけど、ファンク・ブームが到来して、ジャズベ、購入みたいな。指弾き練習とか。結局その時できへんかったけど、そんな感じ。服も変われば、楽器も変わる。
T:そういう雰囲気で続くんですか?
N:93年に解散したんですよ。だからサイケ時代、60年代、70年代大好き時代から、ファンキー路線に入って、2枚目のアルバムが『イデオロギー・クッキング』というのを出したですけど、その時はちょっとファンキーみたいな。ちょっとファンキー、入り始めた? みたいな。で、そのファンキー・ブームがその2枚目ぐらいで、それから3枚目出す時に、間にシングルとかミニ・アルバムとかあるんですけど、あ、3枚目はベスト盤出したんだ。その次に93年頃に、今度は日本人としてのアイデンティティーってなんだろうみたいな。なんかロック大好きでやってるけど、結局自分らは西洋の模倣じゃないですか。で、日本人のグルーヴってなんだろうとか、日本人として何を表現していくのかという問題に行き当たり、わりと民族系のものを聴き始めたんですよね。あとはなんか、琉球とかアイヌとか、先住民族年とか近辺にあって、そういう勉強とか、本とかみんなで読んだりしてた影響もあって、民族系の楽器、それぞれの国の、アイルランドとか琉球音楽とか、日本の和物も聴いたりして、ちょっと和風になってきた。で、しかもサイケなところにちょっと戻ったりとかして。で、レコーディングして、そのレコーディングしてる段で、同じ事務所のニューエスト・モデルっていうバンドも、ほぼレコーディングっていうと、ふたバンドのメンバーが入り交じって一緒にやるような感じやったんですよ。ライヴも入り交じったりとかしたけど。で、発売する段になって、両方とも解散して合体しようぜっていうことになって、それでメスカリンでレコーディングしたアルバムを、その合体して新しく作ったソウル・フラワー・ユニオンという名前のバンドのファーストとして出そうということになったんですね。で、私はその時に辞めますっていって、解散を機に辞めました。合体するのはよかったんだけど、ちょっといっぺん離れてみたいというのがあって。すごくこう、濃い人間関係にずいぶんなっちゃってたんで、自分で客観的に自分のことが見れなく、音楽のこともわかんなくなっちゃったりしてたので、ちょっと一歩、離れさしてくださいと。ちょうどベースふたりいらんし、私辞めるから、後よろしくみたいな(笑)。
T:で、何人のバンドになったんですか?
N:4人4人がひっついて、メスカリンがドラム安定してなくて、けっこう変わってたんですよ。で、まあ3人。で、ベースふたりいらんから。だから多分6人じゃないかな。
T:じゃあ、かおりさんが抜けたの?
N:いや、ドラムの子も辞めるって。こっちのリズム隊抜ける。あ、違うわ。メスカリンのドラムが残ってこっちが辞めたんだ。
T:ニューエストの?
N:そうそう。合体する前に辞めたんやったっけな。メンバーが、仲良くなり過ぎたところで煮詰まっちゃってて辞めたり。
T:で、辞めて欠けたところで一緒になろうかみたいな。
N:そうですね、そうだった。思い出してきた。で、6人残って。それからもドラムがけっこう変わったりして、今はコーキ君ていう子が安定してやってるみたいですけどね。
T:辞めて、かおりさんはどうするんですか?
N:えとね、バンドやり過ぎた。アルバムも出したし、もう充分がんばった。ツアーもして全国回ったし、もう辞めようと思って、農業しようと思って、その頃からていうか、昔から自然と調和した生き方みたいのにすごく憧れてて、農業をやってみよう、いつか自給自足の生活ができる第一歩として、農業に行こう。家出なきゃいけないとかいろんな問題もあって、住み込みで八ヶ岳に農業に行きましたね。8月の16日とかお盆の時期に解散して、27日にはもう八ヶ岳に住んでました(笑)。行動が早い。
T:で、どういうとこに行くんですか?
N:アルバイト情報のケツの方に、リゾート地での住み込みバイトみたいな。
T:ああ、ありますね。
N:うん。似たようなのがバーッと並んでて、ここって電話していい感じやったから、じゃあ、いついつ行きます、長野県南佐久郡川上村ていう。小淵沢からモノレールみたいな高原列車みたいなので、何個か目のちっちゃい駅に、いつの何時に待ち合わせ、そこの電話で話した人と。ベースとかばん持って。
T:あ、ベースは持って(笑)。
N:うん、一応持って(笑)。で、ベース持って待ってるんで、すぐわかると思いますとかいって。で、そこの家に住み込みで。トータルていうか、期間として2年間かな。
T:農業っていっても、いろんなもの作りますよね。
N:うん。レタス中心に高原野菜。標高3800メーターとかに畑あるんですよ。虹とか、下におるやんみたいな。雨降ってきた、虹が出てるやん、下やんみたいな(笑)。すごいよかったですよ。虹が自分より下にある。
T:どういうふうな?
N:私は最初の年は後半戦から入ったんですけど、八ヶ岳の高原野菜の農業というのは、だいたい5月くらいに雪が溶けてから、畑耕して、畑の整備して、それから苗を作って、6月くらいから芽が出た苗を畑に植えて、ひたすら植えて、一ヶ月くらいで最初に植えたヤツはでかくなるんですよ。で、収穫しながら、収穫終えたあとにまた苗を植えて、ていうのが7月から8月の上旬まで、収穫と苗植え。で、8月の中旬からはもう、植えるのなしの収穫だけで、レタスとキャベツと白菜と大根やってるうちに、あるいはチンゲンサイ、ターサイとか、グリーン・リーフとかサニーレタスとか、それを10月の下旬か11月の上旬、霜が降りてくる時期までやるんですよ。で、標高が高くて雪がすごいんで、11月の下旬からもう野菜は育たない環境になるんで、12、1、2、3、4、5ヶ月間お休み。
T:その間には何やってるんですか?
N:その間に東京に来て。93年の年末くらいに東京に。友達はいっぱいいたから、居候して、東京生活開始みたいな。
T:農業やってたのはその1年間?
N:93年と94年の5月になってまたそこのお家に戻って、それで冬の間にバンドに正式加入することになって。でも農業する約束してたんで、行ったり来たりして。月1回ライヴの時だけ一週間ぐらいまえに東京に出てきて、リハやってライヴやって、新曲の音源ももらって、長野に帰ると。で、次行く時までにそのアレンジとか考えといて、また行くと。94年はそんな感じかな。
T:そのバンドはなんていう名前?
N:「チャイナ・ボウルズ」っていう。もう解散しちゃったんですけど。
T:どんなバンドだったんですか?
N:それはね、爆音ロック・バンド(笑)。4人編成で、ギター・ヴォーカル、爆音ギター、ドラム、ベース。男の子のバンドって感じ。(ダミ声で)「オレ達がチャイナ・ボウルズです」みたいな(笑)。で、「オレもチャイナ・ボウルズです。ベース、永野」みたいな(笑)。新宿ロフトにお世話になって、そこの何個か一押しバンドがあって、そこのことつとしてやらしてもらってて、まだ西口の方にあった頃、その辺界隈でやってました。
T:で、農業2年目で。
N:うん、それで、あのね、農薬バリバリ使うんですよ。で、自分はアトピーとかアレルギーとかあって、それで自然の生活とか自給自足とかいってたんだけど、違うやんと(笑)。近くに千曲川っていう川が流れてて、そこにはイワナとか生息してるんですけど、奇形になってたりするんですよ。それが農薬のせいで。これはちょっとやっぱり違うぞって思ってきて。「北の国から」で、草太兄ちゃんが農薬撒きに行くじゃないですか。あの感じね。どこのお家でもやってて、これは違うと思って。どんな感じで作物っていうのは育っていくのかって、なんとなくわかったりしたんで、もういいや、ここじゃないやって。バンドもまた楽しくてやめれねえと思ったのもあって、ちゃんと腰を据えて東京に住もうと思って、荷物全部山に持ってってたんですけど、全部また器材車で来て、94年の11月頃には全部引き払って、東京にアパート借りて。
T:「チャイナ・ボウルズ」は?
N:チャイナ・ボウルズしばらく、95年かな6年かな、ぐらいまでやりましたね。
T:音源は?
N:日本晴レコードっていうレーベルがあって、そのオムニバスで『晴者』っていうのがあって、藤沼伸一さんがプロデュースやってたんですけど、そこのオムニバスに参加したり。あと自主制作で、営業終了後の新宿ロフトの場所借りて、自分達で録音して、マキシ・シングルを3枚作りました。自分達でっていうか、私はあんまりやってないな、ボーカルの外丸健児くんがいろいろ手配して作りました。
T:解散が?
N:ていうかね、私は脱退という形だったんですよ。音楽性が変わってきて。爆音なんだけど、わりとヨコノリっていうか粘っこいのが好きだったんだけど、パンクとかも好きだけど。でもバンドがタテノリ志向になってきて、べース考えて行ったけど、そこはルート弾きで、ピックでガンガンガンガンていってほしいとかって。でもそういうの飽きてたんですよ、今更やりたくないなみたいな。まだ若かったからそのへん融通きかなくて、自分がやりたいのはこれだけみたいになっちゃってたとこもあったので、一端辞めようっていうことになって。御互いなんか違うと思ってて、じゃあ、辞めるかって辞めました。
T:そのあとはどういう動きになるんですか。
N:で、音楽性がちょっと違ってきたなっていう頃に、現在の「スリー・ピース」っていうバンドなんですけど、セッションしようよって誘われて、ヴォーカル・ギターの原クンと、ちょうどブルーハーツが解散して、間もなくだったんですけど、かじクンが暇らしいって。その原くんの友達でかじクンていうのがいるらしいて。ブルーハーツもよくわかってないから、へ〜みたいな。暇な人がいるのかって。じゃあ、今自分のバンドで煮詰まってるし、セッション、するするとかいって。で、スタジオ入って、やり始めたのがうまく転がり出して、スリーピースのバンド結成みたいな感じで。96年だったかな。
T:最初の活動としては、どんな感じだったんですか?
N:そうですね、あんましなんのビジョンもなく、まだその当時28やったけどなんかひと山越えた、かじクンもブルーハーツひと山越えて、私もメスカリンとかひと山越えた人が集まったんで、そんなにこれで売るぜみたいなのはなくて、なんか自分の音楽を追求したいて、そういう感じで曲作り始めて、そしたらいいい感じの曲が何曲かたまったので、ライヴしよか。で、ライヴやってみたらいい感じで。やってみないとわからなくて、やってみたらいいいじゃんて、なんかわからんけど、こいつらなんかわからんけどすごいなていうようなことしようぜって、3人で話して、それでガンガンライブに出さしてもらって。
T:新曲は?
N:基本的にギター・ヴォーカルの原君が書いてきて、それをスタジオでバンドでアレンジする。
T:音源は?
N:音源は、すごく運がよく、結成して間もなくポリグラムの中にペット・サウンズ・レーベルというインディ・レーベルができて、それの第一弾でマキシ・シングル2枚、出させてもらって、「輝く未来」と「太陽の子供たち」という3曲入りのをふたつ作って、その次が97年の春と秋に1枚ずつ出して、そのあとキング・レコードから話が来て、でも1年はリリースしなかった。で、99年に第一弾でフロモーション的にシングルをキングから、レーベルはインディーズで、ゴールドディガーズ・オーガニゼーションとかいうレーベルで出して、で、2000年にフル・アルバムを出しました。タイトルは邦題が『新しい世界』で。アルゼンチンから、なんでアルゼンチンやねんいう感じやけど(笑)、『レボリューション・デ・ラ・メンテ』ていうタイトルで出して。
T:音的には?
N:えと、「レイジ・アゲインスト・ザ・マシン」に影響受けてます、とか。あとはヒップ・ホップ好きのヴォーカルで。ペースもヒップ・ホップ系の、ちょっとループするようなベースとか、でもねっこはサイケやったり(笑)。よくどんなバンド?ってきかれるんですけど、ロック(笑)。なんやろうみたいな。ヴォーカルは本人はラップのつもりなんだけど、ラップっていうよりか詩の朗読に近い感じで。ちゃんとメロディーはあるんやけど。ちょっとラップぽいような、韻を踏んだような。
T:じゃあ2000年は、そのアルバムを引っさげて活動が進んでいくみたいな?
N:そうですね。アルセンチンからメキシコ、アメリカってツアーしたりとか、ヨーロッバ行ったりとか、3人で日本全国車で回るとか。
T:2001年以降はツアー?
N:2001年は、ヨーロッパ・ツアーして、2枚目のアルバムを作ったんですけど。2000年にアルセンチンでツアーした時に、一緒に回ったバンドのヤツラが、アルゼンチンのレイジ・アゲインスト・ザ・マシンて呼ばれてるような人らで、すごいカッコよかったんだけど、すごい人気あっちの世界では。日本では誰も知らんけど。そいつらがツアーていうとバスの中でキッチンとかベッドとかあるようなので回るんですけど、ずーっとレゲエ聴いてるんですよ。カセットで、ずーっとレゲエ聴いてる。で、一緒に聞いてるうちに、しまいにレゲエ、すごい大好きになっちゃって、レゲエとかダブとか、すごい好きになっちゃって。で、2枚目はそのハード・ヒップ・ホップ路線から、ちょっとレゲエ・ベースのダブっぽいような感じ、テンポも遅くなって。
T:始まりとしてはすごい順調ですね。
N:そうですね。あれよあれよという間にいろんな人とつながっていく不思議なバンドで、そのポリグラムの人も、見に来たら偶然知り合いの知り合いでどうのとかいって、その人のつながりがまずあって、それでリリースしてもらうっていう。で、キングで2枚出したのもそんな感じだったし、アルゼンチンにツアーしたのも、たまたまフジロックに出さしてもらった時に、うちらの前にやったのがトドス・トゥス・ムエルトスで。カッコいいなあとかいってたら、向こうもうちらを見てて、その場では話しなかったんだけど、あとでアポ取りたいとかいってきて、そのつながりでツアーにいく事にまでなっちゃって、そいつらと仲良くなって、アルゼンチンからアメリカに行った時に、そいつらのつてで友達になったやつの友達がヨーロッパにいて、そいつらが日本に来るってことになって連絡してきて、なんか一緒にやろうっていうんで仲良くなって、ほんでまたヨーロッパに行くことになって、アルゼンチンの人よりヨーロッパの人達の方がすごく仲良くなって、2回行ったのかな、ヨーロッパ・ツアーは。2002年に向こういった時に、レコーディングとかして、向こうのミュージシャンも参加してもらって。
T:それが3枚目?
N:それはマキシ・シングルなんです。で、それをリリースしたあと、2003年に活動休止(笑)。
T:理由としては?
N:理由はね、またこれが結局7年間同じ3人でやってきて、ちょっと煮詰まったところがあって、曲がイマイチできなくなってきちゃったんですね。3人ともが納得しないと、ヴォーカルが持ってきた曲でも、できましったっていうふうには絶対しなかった。だからすごい曲を作るのが遅いバンドだったんだけど、その一致ポイントがなかなか見つからなくなってきて、けっこう持ってくるしアレンジするんだけど、なかなか噛み合わない、カッコよくないねってなってきて、で、ちょっと休もうかと。無理にやってしんどい目するのもよくないから、大人やから、それぞれ休んで、客観的に見てみようよ、バンド、それぞれの活動してみようということになって。
T:解散(笑)。
N:解散してないからー(笑)。昨日もミーティングしたから(笑)。休止。お休み。
T:で、お休みになって、
N:えと、最初休止して、2002年の11月末に最後のライヴをして、その後はバイトしてた。
T:どんなバイトを?
N:あの、介護福祉士なんですよ。それはずっとやってて、96年ぐらいからやってて。丁度そっちでいろいろあって、すごい人が足りないっていうんで、たまたま休止になったし、すごい働いたよ。9時から夜の9時、10時まで働いて、また9時からとか。月曜から土曜まで、何やってんだろう、何もできひんやんて。そうそう、それを1年ぐらい。びっしりやってた。
T:じゃあ、2003年はほぼ。
N:そう。で1年ぐらい経って落ち着いたので、もう勘弁みたいな。新しい人早く入れてみたいな。それで、2003年の夏ぐらいに藤沼伸一さんが誘ってくれて、ちょこちょこ誘ってもらってやったりしてて、バイトの合間に。で、やっぱしバンドしなきゃなって。なにかしないとなと思って、で、伸一さんとはハード・コアのバンド作ろうぜみたいな感じで、じゃあいつでも呼んでっていって、バイト先にも、すごいギターの人に誘ってもらってさって、それが始まったら全然出られへんから、その時は言うわて。で、まだ始まってないんですよね。いつやんねん!(笑)。
T:で?
N:それで、伸一さんとそんなこといってたけど、始まれへんなと思ってるうちに、スリーピースのドラムのかじクンからの話で、かじクンの友達がプロデュースしてる新人ちゃんのプロモーション・ビデオのあてぶりに出ようよとかいって。あ、やるやるとかいって。それが大塚愛ちゃん
で、その仕事をしたら気に入ってもらって、デビューして、最初のテレビの仕事とか、ライヴとかやらせてもらったりとかして。そしたらすごい売れちゃって、びっくりしちゃった。最初の頃とか、スタジオとか電車で来てたのに、愛ちゃん。今そんなことしたら、大変。
T:じゃあ、その大塚さんとの仕事が2003年。
N:そう。2003年の暮れに、「さくらんぼ」のプロモーション・ビデオを撮影して、2004年の春にどんと売れて、ライヴやろうっていうことになって、2004年去年1年は、愛ちゃんの春の何本かのライヴ、夏の「エイネイション」という大きなフェスティバルのサポートと、秋の学園祭ツアーをやった時もサポートで、11月末まで、愛ちゃんの年でした。びっしり。ちょうど1年ですね。2003年の夏から。で、去年の12月24日にテレビで1本生演奏のライヴをやって、以上私は終わり。で、今は全部変えて違う感じでやってる。
T:今年に入って?
N:今年はね、それでね、サポート・メンバーっていう仕事を初めて1年やってみて、やっぱりバンドの人なんだなと、自分ですごく、ひと仕事終えたところで、やっぱり自分で自分のバンドを、自分の作品を作らないとみたいな。ベースのフレーズを作るのが、誰かが作ってきたものに対してベース・アレンジとかするのがすごい大好きなんですよ。サポートやとそういうことは一切できないから、演奏するのは楽しいんだけど、自分のやりたいのは違うなみたいな。けっこうすごく、はっきり見えたとこあって、今年は自分のバンドをやろうと思うんだけど、自分のバンドはないんですけどね(笑)。まあ、でもバンドのフィールドでやろうかと思って、まあどう動いていくのかなと。
T:例の女の子と二人で。
N: そうですね。今年に入ってからは、愛ちゃんの終わったよって、わりとみんな誘ってくれたりとかして、ワン・ショットとかなんだけど、ちっちゃい高円寺の稲生座で友達とライヴ、アコギの人とやるみたいな、好きなようにベース作っていいよっていう感じのヤツを、昔のチャイナ・ボウルズのヴォーカルの子とアコースティックでやったりとかしてて。今年に入って動き始めたのが、女性ヴォーカルの小野塚桂ちゃんという子とドラムの若い女の子と3人で、サイボーグというバンドを作ろうと。
T:そのバンド名はどこからきたんですか。
N:なんか、ヴォーカルのけいちゃんが夢に見たんだって。寝てたら、サイボーグのチラシがライヴハウスに貼ってあって、自分のバンドなんだって。サイボーグっていう名前で、すごいカッコいいチラシで、すごいお客さんいっぱい入ってたんだって。それで、これだ!と思って、決めた、サイボーグにしようというメールが来て(笑)、サイボーグ? そういう服着んの? いや、そうじゃないけど、みたいな。
T: で、音は?
N:子供が聴いたら泣くね。今は怖い。もうちょっとポッブにしたくて、試行錯誤中だけど。最初コントラバスでやってたんですよ。エレキ・ギター、ヴォーカル、コントラバスで、わりとね、くらーい曲作る子で。ふだんあっかるいのに、曲暗いんですよね。ああ、ベルベット・アンダーグラウンドみたいな感じで、こうやったらどうかなってやってて、ほんま怖い(笑)。リハのMDとか聴いたら、やばいかもぐらい暗い。
T:歌詞は?
N:歌詞の明るさ? は、曲によりけりかな。
T:バンドは「サイボーグ」ですよね。
N:そのサイボーグっていう名前は、全然関係ないから。全く関係ない。まあ、恋愛ものとか風景ものとか、世界を変えようとか、楽しく絵を描こうとか、なんかそんなシュールな感じ。だるまがころがってみたいなヤツもあるし。それが怖い。片目のだるまがニヤニヤ笑ってる……とかいうて(笑)。ちょっと考え中。
T:じゃあ、今年はそのサイボーグが、
N:サイボーグが大ブレイク(笑)。今年になってドラム入れたんですよ。で、なんでドラム入れようと思ったのって聞いたら、友達でタロットやる人がいるんだって。その人から年末に急に電話があって、けいちゃん、サイボーグに女の子のドラムを入れるとすごい売れるよ、ヤバイといったらしくて、で、年末までは、コバンさんと一緒にやろうとかっていってて、コバンさんに前二人フロント女って、ごっついカッコいいんちゃうんとかいって、いつやるとかいってたんだけど、あっさりその話はやめて、女の子のドラムを入れると大ブレイクするらしいって。まだ1回しかリハやってないんですけど(笑)。大ブレイク。今年はもう、すごい取材が大変。サイボーグで(笑)。
T:他になんか今年チャレンジしたいこととかは?
N:そうですねえ、その藤沼さんと2年ぐらい前からいってるハード・コアのバンド。私、ハード・コアって通ってなくて。回りにはいっぱいいたけど、聴いたことなくて、ちょっと聴いてみるかって聴いたらカッコよくてわりとはまっちゃって、すごくやりたいんですよね。今年はハード・コアのベースを弾けるようになりたい。今は伸一さんの方がベースうまいんですけどね。
T:それ以外は? それに集中する?
N:したいですね。音楽に集中。音楽で、自分のプレイに集中したい。サポート・バンドは、話があったら喜んでやるけども、働きすぎず、自分がステップ・アップしたいかなって感じかな。ちょっと内側に戻る感じで。毎年なんかあるんだけど、なかなかその通りにならないんだけどね。多分また、人とのつながりであれよあれよときたから、ずっと、メスカリンに入る段からハタチの時から。こうしようと思ってやると、うまくいかないんですよ。で、ちょっと、こうしたいなあぐらいで、なんとなくそっちに向かおうとしてると何か来るんですよね。そういうタイミングとか、人のつながりとかをひょいとキャッチして、ひょーという感じでいけたらいいなと。
T:これからも活動、楽しみにしています!今日は、どうもありがとうございました。
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