河野道生


数々のアーティストのサポートを経て、最近は、プロデュースや、自らのユニット等、多岐に渡る活動を展開中の、ドラマーの河野道生さんへのロングインタビューです。
(2005年7月8日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)

氏名 :河野道生/カワノミチオ  
生年月日:1957年9月9日(宮崎県日南市)
活動内容:Drs・Perc・Cho・作編曲・プロデュース
主な経歴:1970年代後半よりプロとしての音楽活動を始める。
尾崎亜美のツアーサポート及びレコーディング等を始めとして、
数多くのアーティストのサポートに携わる。
そんな中で知り合った森園勝敏、天野清継、野力奏一等との
セッションバンドで若き血潮を滾らせながら?腕を磨く。
またその一方、ピカソ等のロックバンドとも活動を共にし
幅広く音楽に関わっていく。
その後、富倉安生、古川望、坂本昌之らと、マグリットヴォイスを結成、
鈴木茂氏との作品、またその後、オリジナル作を世に送る。
02年には自己のユニット 「Rough Diamonds」のアルバムをリリース、
平原綾香への楽曲提供、新人アーティストのプロデュースなど
クリエーターとしてもその幅を広げている。
   
  主なツアーサポート/尾崎亜美、鈴木祥子、中村雅俊、来生たかお、
江口洋介、宗次郎、山本達彦、田村直美、飯島真理、加藤登喜子、
柳ジョージ、中村あゆみ、加藤いずみ、小椋佳、加山雄三、
さだまさし、谷村新司、等多数。
 
  主なレコーディング/上記の下線の物に加え、比屋定篤子、平岩英子、
トライベッカ、和久井映見、杏子、福山雅治、かの香織、ピカソ、
平川達也、我那覇美奈、ELT、ブレス、柴田淳、平原綾香、等多数。


 河野道生インタビュー

スーパーになりたいんじゃなくて、いわゆる何というかな、歌に対しての音楽が好きなんで、そういうのでいいんだけど、歌に対しての楽器というのは、実はちゃんとやろうと思うとすごく難しい。本気でやろうと思うとね。それをどれだけ高いレベルでできるかということにチャレンジしたい。

TERA(以下:T):では宜しくお願いします!

河野道生(以下:K):はい。

K:生まれたのは、南のほう。南九州の日南市。宮崎県日南市というところです。

T:ご兄弟は?

K:弟が、1人いまして、でも弟の方の出身はなぜか東京ということで。というのも、父親が転勤族で、両親そして僕が生まれたのは確かに宮崎県なんだけれども、1歳になるかならないかぐらいのときに東京に父が転勤ということで・・・で、東京に。でもそこに長居したかというと、これまた3歳ぐらいで、今度関西に。で、関西の尼崎市って、結構いい感じなところに引っ越して。

T:物心ついた頃は、尼崎に?

K:そうね。子供時代の記憶っていうのは関西から始まったから。だから、その前にいた東京のことは覚えてるような覚えてないような・・・多分でも、親からあのころ何したとか、そういう話を聞いていてそれを勝手に自分なりに想像して、記憶してるのと勘違いしてるような、そういう感じがすごくします。

T:兄弟、仲よかったですか?


K:うーん。悪くはないけど、特にお互いに支え合ってっていうような兄弟愛はなかったかな。(笑)勝手にしろみたいな、お互いに。(笑)

T:小学校とかも一緒だったりするんですよね。


K:小学校はね、一緒だったな、あんまり覚えてないけど。よく、僕が小学校時代友達と遊びに行くと、うちの弟がついてくるのね、それが嫌で嫌で。でも、母親にちゃんと連れて行きなさい、お兄ちゃんなんだからとかって。(笑)そういう思い出はよくあるな。でも、小学校高学年ぐらいになってくると、向こうも友達ができて遊びにいったりして。それぐらいからはお互いの友達とそれぞれ遊ぶような感じになって。

T:小学生の時、何か音楽絡みの出来事ってあったんですか?


K:僕はね、子供の頃近くのヤマハオルガン教室に通ったことが少しあるぐらいで、それ以外にメインでやっている楽器はなかったんですけど、小学校2年ぐらいかな。クラスの担任の先生が指揮者で、ちょっとしたオーケストラみたいな、楽団みたいな小さなやつやってたんです、それぞれ違う楽器を持って。僕は担当が大太鼓。それで、本番のときに、ちょっとした事件が起きたんですね。どーん、どーんと始まって、どーん、どーんとたたいてるときに、一番先についてるビーターのまんまるいところありますよね、ぽとんと落っこちちゃったんですよね。棒だけになっちゃって。それで、先生どうしましょうって目で合図したら。大丈夫、そのままやりなさいって。その楽器にすごく強い印象がね。それで、それからしばらくして、小学校の高学年ぐらいになってきたときかな。に、いわゆるグループサウンズというやつがすごくはやってきて、僕の上に、例えばお兄さんとかお姉さんがいれば、もっと洋楽とかその前にいろんな、そこに至るきっかけになったいろんな洋楽があるわけじゃないですか、ビートルズとか。そういうものがあるはずなんだけど、僕はそういう情報がなくて、それまではテレビで流れてる歌謡曲、そういうのばっかり聞いてて。グループサウンズ、かっこいいな、いいなって。それを見よう見まねにはしか何かでテーブルとかたたいて。なんかそんなことやってましたね。

T:小学校の何年生ぐらいですか?


K:5、6年だったと思うな。でも、僕の時代はね、楽器を特にドラムなんていう楽器は、普通の人にはちょっと持てないのね。スペース的にもだけど、値段的にも。よっぽどお金持ちで家にスペースのあるような人だったらあり得たけれども、僕はそれを口にすることすらできなかった。買ってくれとかいうことはなかったな。やりたいとは思ったけど、漠然としてたしね。中学生入ると金持ちのやつとかは、バンドやってたりして、いいなと思って。そういう感じでしたかね。

T:じゃあ、たたくとしたら学校の音楽の時間とか?


K:そう。それで、中学校のときに、ブラスバンドってあるでしょう。ブラスバンド部にはドラムセットがあるんだけど、そこにはもういわゆる僕より先に決まってる人がいて、たたきたいなと思ったけど、そのスペースに入れないっていうふうな、あっち行けみたいな。だめだなと思って。そういう意味じゃ、割と遠慮深いほうなので、こう見えても。(笑)押しの強いところも少しあるかもしれないけど。なんだ、だめなんだなと。しゅんとして。中学校時代はね。音楽はそっちのけで野山を駆けずり回ってました。

T:テレビは、GSとかみたりとか?


K:GS、テレビで見て。でも、コンサートに足を運ぶほど熱心なファンでもないっていうか。音楽はすごい好きだったけど・・・でも、中学生入ったら、いきなり洋楽が、校庭で流れるでしょう、放送部とか。それで、もうその夕暮れ時に校庭で聞くそういう音楽、あのころは多感だから、すっごい深く入る感じがしました。

T:何から入ったんですか。


K:僕の当時はね、いろんな音楽、もちろんビートルズ、レットイットビーとかも流れてたけど、校庭で。ブラスロックっていうのが、どーんと出てきた時代で、シカゴとか・・・シカゴはすごく新鮮だったな。今、聞いてもポップなバンドだと思うけど。逆にBSTみたいなのは、ちょっと渋すぎて。僕にはちょっとまだ聞くのが早すぎたのかな、わからなかった。あと、チェースっていうバンドもあって。トランペットばっかりの。それもすごくはやってましたね。でもそれは今考えると、ちょっと企画入ってるんだけど・・・そのバンドが飛行機事故でほとんどメンバー全員亡くなってしまったりと・・・まぁそんな風にブラスロックっていうのにどーんと。

T:初めて買ったレコードは?


K:一番最初買ったの何だろうな。やっぱりレコードもね、うち決して裕福なほうじゃなかったから、小遣いでレコード買うっていう、小遣いがそんなになかったのかな。でね、ブラスロックとかいいながら、CCRだっかもしれないな。だから、レコードを買うという行為はあんまりできなかったですね、僕の場合は。人から借りて聞くとか、そういう。情報としてはすごく狭い。うん。だれかの音楽好きのお兄さんが近くにいたわけでもないし。

T:高校入ると、何か展開あるんですか。


K:まず、中学校3年のときに、東京に実は引っ越してきたの。

T:東京のどこですか?


K:東京の小金井市っていうところ。それで、関西時代の中学校は、その当時は甲子園っていうところに関西でも引っ越してて、西宮市っていうところに住んでたんだけど、甲子園時代の中学校の音楽の先生がちょっと変わった先生で、音楽の試験は筆記試験じゃなくてお前らの好きな歌を歌えと。おれがピアノをひいてやると。僕はその当時はやってたオザキキヨヒコの「また会う日まで」か何かを歌って、絶唱して。なぜか音楽5になって、何か勘違いしちゃって。それで、何でおれが5かなと思ってたりもしたけど、それで東京にうつってきて、いきなり次の通信簿では音楽2になってましたね。ま、筆記とか全然だめでしたね。やる気もなかったし。音楽の時間なんてつまらないじゃないですか。音楽好きな人にとって音楽の授業ってすごくつまらない、退屈な授業だったと思う。なんか、そういう感じでしたね。

T:東京は情報的にはいろいろと。


K:あったかもしれないね。なんかでも、まず中学生って音楽一辺倒っていう感じでもなかったし、僕の場合は。何となくぼんやり中学校時代は無目的な感じだったかな。意識が何かに集中してるという感じでもなく、漠然とした自分の将来に対する不安みたいなのも持ちつつ、学生生活を送ってたような気がする。でも転校したことで、その不安というか、孤独感というか、疎外感というか、そういうものがすっごくやっぱりそのときある種ピークに達したときだと思うな。いろんなことに対して、僕は一人で生きていかなきゃならないのかなって、漠然としたそんな気持ちになって。

T:高校入って、バンド結成とかってなかったんですか?


K:高校入っていきなりやりましたね、音楽同好会に。何でそうなったのか、きっかけは覚えてないんだけど、多分音楽やりたいとは表明してたんだろうね、自分で。で、何かそこの同好会みたいなとこに先輩がいて、その先輩から、今考えるとひどいセットなんだけど、それをとりあえず幾らかで譲り受けて。それを自分のドラムセットということで購入して、安く。それでやっと自分のセットが、そこで初めて手に入るんです。

T:それ、高校1年?


K:高校1年。バイトもちょっとできるじゃないですか、高校になれば。それで小金少しずつためてって、ハイハット買ったり、スネア買ったりとかして、少しずつ充実させてって。で、高校3年ぐらいにはなんか、その当時TAMAって、今もあるんですけど、タマドラム。タマってのがすごいどーんと出てきた、その当時センセーショナルな。で、タマのドラムセット買いましたね。

T:それはバイトして?


K:バイトして。懐かしいな。

T:そのときはバンド組んでたんですか?


K:バンドやってましたね。

T:どんなバンドだったんですか?


K:結構ね、グラムロックはやってて、化粧して、デビットボウイのコピーバンドとかやってましたね。オリジナルとかもやってたけど、かっこ悪いオリジナルだったね。

T:バンド名とか覚えてますか?

K:バンド名ね、カサノバとかいう。(笑)結構笑える。そういうちょっとあざといこと考えてたのだと思う。

T:それ、何年か続いてたんですか?

K:高校卒業する、してちょっと後ぐらいまでやってたのかな。でもなんかやっぱりつまらなかったのね、僕はね。そのバンドがね。結構頭でっかちなやつがリーダーで、ちょっとだけ物知ってたりとか、なんというかそういう感じで。でも、やってる内容は音楽的にはつまらないなと思いましたね。だから、退屈だなと。

T:発表の場っていうのは文化祭とか?

K:やりましたね。文化祭とか、小金井公会堂で。アマチュアコンサートみたいなやつとか、そういうのやってましたね。でも、ぱっとしない、気分がぱっと晴れない、自分も下手くそっていうのもあるんだけど、高揚感はなかったかな。

T:それで、高校卒業してちょっと続けてるわけですよね。

K:高校卒業して、ちょっとしばらく途切れますね。車の免許とかとるじゃない。そうすると、それはそれで新しい世界で。うちはバイク禁止だったんで、友達のバイク借りて無免許とか、たまにはやったりしてたけど、基本的にはなかったから。高校卒業して免許とって、マイカー。とりあえず軽か何かで、親にねだって買ってもらって、そしたらやっぱり日本全国どこでも行けるわけですよ。驚異的な世界の広がり、僕にとってはね。で、やっぱりそれが楽しくてね、友達と遊びに行ったりとか。それで、大学時代はそうだな。それで、でもね、音楽はやっぱりどっか漠然と。大学のバンドとかは、あんまりいい人たちがいなくて、やってもつまらないなって。なのでそこは近寄らないで。それで、でもやってたな。自分の近所の多摩地区の近所の別の人たちと。その中の一人の人が有名な人になったりとか。そういう連中と、今度は降ったり降ったりフュージョンみたいなのがはやり出して、パットメセニーグループとか、いいねみたいな。そういうのをちょっとコピーしてみたり。できもしないのにまねごとをやってね。
それで、そのあるときね、大きな転機が自分の中に訪れたんだけど、要するにセッション、それまでバンドの中の1ミュージシャンというのが、セッションミュージシャンっていうのがあるんだっていう。そういういわゆる音楽の、自分として音楽をそいぶうにして音楽にかかわる方法があるんだということにある時気がついて、そういう情報がそれまてなかったのかもしれない、僕の中でね。それで、もしかしたらそれで食っていくことだってできるかもしれない、頑張ればねっていう、急にあるとき思ったんだよね。でもう全くめくらめっぽうに、それから自己流で練習してみたりして。それで、そうね。そっちのほうに、そのとき初めて自分も生きてる、何かどこかに視点が集中できるふうになったのかな。そうか、これをやりたいなってすごく思った。

T:それで、どういうやり方っていうか、どういう風に入っていったんですか?

K:それまでいわゆる教則本とかいうのも、そういうのがあるってこともあんまり知らなかったし、みたこともなかったんだけど、いろんな情報がそのどきどーっと入ってきたのね。僕が知らなかっただけかもしれないけど、多分情報がふえたんだと思う。こういうふうな練習の仕方をして、こういうふうにしたらこういうふうになるんだとか、いろんなことを。割といろんなふうな形で入ってきて。僕は、バークレーってボストンにある音楽大学、そこの人の書いた教則本かな、ドラムメソッドとかいう教則本を買って、すごく単純なことしか書いてないんだけど、それをとりあえず始めて、基礎練習みたいなね、始めたのがそれで、確か。それで、自分の好きな音楽をすごくいろいろ聞くようになったのは、そのころからのほうがなってたのかな。かなり遅いほう、そういう意味ではね。

T:その時はバンドは特に。

K:やってなかったね。パーマネントに。で、やっぱり音楽やりたいオーラは出てたんだと思うね。なんか誘われたところの中で、何か何となく大学の3年、4年ぐらいのころから、何となくそういう音楽の業界に関わるようなものがぽろぽろ、仕事と言えるか言えないか微妙なところだけど、あって。

T:最初に出てきた1つ、2つって具体的にどういうものだったんですか?

K:ちゃんとした仕事っていうのは、大学卒業して、まずそれまで家の中でごたごたあったんだけど、そんなものはやめろと。ちゃんと就職しろと、お前!。親にすっごい抵抗されて、特に母親に。父親はもうやりたかったら勝手にしろと。ただ卒業して、その年いっぱいは面倒みてやるけど、その後は知らんぞと。金稼いで家に金入れるなり、独立しろと。わかりましたって。それで、ただ卒業して運良く、その年の夏、夏はね、仲間のバンドでビアガーデンの仕事して、雨ばっかり降って、ほとんど何もせずにお金だけいただいた、お得な夏だったんだけど(笑)

T:いわゆるハコバン?

K:ハコバン。川越のマルヒロデパートっていうところで。ただ好きな音楽やっていいっていうね。それまでやったことないようなカバーとかね、昔のボサノバのウェーブとか、そういうのやった記憶がある。それで、その年の秋に、急に友達から電話がかかってきて、パーカッションの人から「まだあいてる?」みたいな。もちろん仕事ないから、あいてるよって。いついつからいついつまでなんだけど、急なんだけどって。それでツアーの仕事、いきなりぽんといただいて。なんてラッキーっていうね。

T:そのものは何だったんですか?

K:ヤマハにいた、石川優子さんっていう人がいて、昔。で、その人が自分のバンドをつけてツアーをやることになったらしいんだよね。で、パーカッションの人がバンマスで。というのは、その人はヤマハの財団の人と昔から知り合いがいて、メンバー集めてくれって言われたんだと思う。それで、なぜか僕がそこに選ばれて。それでやることになって。初ツアー楽しかった。

T:どの辺回ったんですか?

K:20カ所ぐらいだから、結構回った、あちこち。

T:北海道から?

K:北海道も行ったね。主要なとこ20ぐらい。主要な都市は。四国もわたった記憶があるし。あのころは宇高連絡船っていうのがあったから、橋がなくてね。宇高連絡船乗ったりした記憶がある。もうかなり前のことなんで、記憶もちょっとあいまいだけど。

T:それが始めてのツアーで。


K:そうですね。

T:で、その流れって、何か続いていくんですか。


K:その流れでね、それでその次が尾崎亜美さんっていう方で。なんかね、いろんなものがつながってくるんだけど、どういうきっかけでそういうふうになっていったかよく覚えてないんだけど、それで石川優子さんがね、こちらが若かったっていうのもあるかもしれないけど、もちろん演奏能力も高くはなかったと思うけど、それだけじゃなくて人間的にも何か対処の仕方がまずかったりとか、もろもろがあって、まずバンマスとそれに声かけたヤマハの人が、ちょっと仲違いして、バンマスが外れることになって。それで、別の人を入れたりとか。それでやっても長く続かなくて、それが1年ぐらいで終わったのかな、1年半とか。その後に尾崎亜美さん。

T:尾崎さんはどういう活動を?

K:ツアーですね。ツアーやってて、運良くツアーバンドにごほうびということで、LAでレコーディングしようと・・・。

T:ついてますね。


K:すごくついてるよね。

T:ツアー終わってから、LA行って?

K:夏に行った記憶が・・・ツアーっていってもね、尾崎さんもそんなにたくさんはできるわけでもなく、まあ、10本とか15本ぐらいはやったのかな、それでも、ツアー1回やってから急にLA行くことになって行ったんだよね。初めての海外でね、新鮮だったね、全部。何もかもが。スーパーに行っても驚きの連続。(笑)こんな大きなピーマンあるのかよ、これ色ついてるよみたいな。その当時なかったからね、パプリカみたいな。こんな、何、これみたいなね。ばかでかいし。

T:録音自体はどうだったんですか?


K:録音自体はね、3日間ぐらいで、もう。要するに仕事としては今考えればやっつけだったような。企画ものだったから。人に書いた曲を再録したのかな、ちょっとそこら辺覚えてないけど、たしかベスト的な扱いのものを再録してやろうと。多分予算もそんなになかったしで。LAの、郊外のほうの小さなスタジオだったんで、多分安かったんだと思う、スタジオ使用料は。だから、多分そういうところでやりくりして、3日ぐらいで録りきって。その後ダビングは何日かやってたかもしれないけど。結構、そういうところは僕もあっさりしてるというか、だめっていうか、終わったらさっさと遊びに行っちゃってね。(笑)

T:アメリカは、どの辺に行ったんですか?

K:そのときはね、叔母がボストンにいて、遊びにきなさいとか言われて、行くよ、行くよとかって。飛行機を、向こうで国内チケットをとっていきなりボストンまで遊びに行っちゃって。勝手にやっといてねって。(笑)

T:それで何日ぐらいいたんですか?


K:ボストンにどれぐらいいたかな。結局みんなだらだら、ダビングチームがいたんだろうから、泊まりもモーテルだし、安いじゃないですか、滞在費も。多分、総日数で2週間ぐらいいたのかもしれないな。だから、その中の1週間ぐらいを使って遊びにいって、また帰ってきて一緒に帰ったような気がする。よく覚えてないんだけど。

T:それで日本帰ってきて、次は?


K:その当時はね、いわゆるバックミュージシャンをつけてやるシンガーソングライターという人たちがもてはやされた時代だったのね。なのですごく仕事量も、多分今より全然あったんだと思う。2つ、3つ掛け持ちでやってる時代がしばらく長く続いて。その当時そういう人が多かったと思う。できないときは、トラ立てていってよということもよくやってたし。だんだん、でもそういうんじゃいい音楽できないよねっていろんな人が思い出したのかな。パーマネントに一カ所でやってくれっていうふうになっていったと思うんだけど。そうこうしてるうちにね、ちょっとやってほしい仕事があると言われて、やっぱりツアーだったんだけど、それが当時キティレコードっていう、近かったから、すごく便利で。来生たかおさんっていう方がいらして。

T:それはもう80年入ってますか?

K:80年入ってますね、全然。僕、仕事始めたのが79年とかそんなもんなんで。80年代の、多分半ば過ぎたぐらいかな。僕も調子こいてたころだと思うけど、で、来生さんのところの。実は音楽的にはもうちょっと、ロックよりっていうか、そういうもののほうをやりたかったから、どっちかというと地味な印象があってね、来生さんには。最初興味は持てなかったんだけど、何しろそれでボリュームがすごくて、1ツアー60とか70本あったんで、ほとんど1年丸々つぶれるような量で。その間にイベントとかあると、もう。まあ、ほとんどそれだけになっちゃうというか、仕事としては。それで、やっぱりやってると何となくね、居心地いいし、音楽的にもなるほどというのもあって、そういうので。3、4年やってましたかね。その間にいろんな人たちと知り合う中にピカソという人たちがいたんですけど。

T:同じキティですよね。

K:そう。それで、結局なぜピカソと知り合うことになったかというと、キティのマネジャーやってた中野さんという方が、ピカソのマネジャーもやってて。それで、最初オーディションって言われたのね。ピカソのツアーがあるから、メンバーが気に入るかどうかわからないから、オーディションということで顔合わせにって言われて、ヤマハのエピキュラに行ってリハしましたね。で、その当時はよくわからない、僕は不思議な人たちだなと思って。

T:キャリアからすると、河野さんの方が先輩?


K:もしかすると、仕事としてはそうかもしれない。僕のほうが。年齢はほとんど同じなんだけど。始めたのは早いかもしれない。でもほとんど同じじゃないかな、わからないけど。それで、そうだね。ときどきピカソのレコーディングものとか、アレンジものとか、でもほかの人も、ドラムはほかの人がやったりとかもあったんで、僕も呼ばれたり呼ばれなかったり。僕もほかのこと入っててできなかったりとかもあったし。そんな時代がしばらく続きましたね。

T:それまで河野さんがやりたかったロックっぽいものっていうのは?

K:ロックっぽいというのは、言い方が間違えてたかもしれないな。うーん。派手なものがやりたかった、もうちょっとね。地味なものより、ぱっとした感じのね、そのときキラキラ見えるような、かっこよく感じたなんだね。でも、来生さんやってみてね、ちゃんとした、すごくいい曲やってる方なんだと、歌がすごくいいなと思って。それもあってね、すごく気に入ったのかもしれない。やってみると、外からぱっとみた印象と、中入るのはまた変わるなという感じで。そういうころから少しずつ変わってきたというか。じっくり何でも味わってみないとわからないなと、ほんとのところは。そういうふうに少しずつ思ってきて。それで、そう。だから、僕その当時はロックというよりもフュージョンだったかもしれないな。ちょっとやっぱり自分がプレイヤーとして、スーパーなものをやりたい、漠然とね思ってたんだけど、結局それは無理だなと思うようにはすぐなったんだけど、やっぱりね、世界陸上出るような人は最初からそういう才能があるわけですよ。(笑)幾ら頑張ってもなれないものはなれないから、
それと同じようにスーパープレイヤーっていうのは、そういう100メートル走とかにたけてるとか、そういうような。でも音楽って別にそういうことではなくて、表現者としてはアプローチの仕方が色々あるから。

T:80年代、来生さんとかピカソと、あとどういう。

K:いっぱいありましたけどね、よく覚えてないけどね。来生さんやってる間はほかの方はできなかったよな。来生さん離れてからかな、その前と。

T:離れたのが中盤? 後半ですか。

K:来生さんの前に飯島真理ちゃんっていう人も、それは僕がバンマスみたいなのやって、やってましたね。それは尾崎さんと並行してやってたかな。うん、それはたしか。

T:80年代の前半。

K:そうかもしれないな。彼女がぼんと売れて、そのツアー20数本を何年かやった。でも、なんかなかなかね、ずっとやっていくというのは難しいものだなと。それで、そう、次に来生さんのところにやって。来生さんを離れて、最初は中村雅俊さんっていう、俳優の、でもなんかちょっとあわなかったらしくて、そこは一回のツアーで。で、柳ジョージさん。その後・・・なんかプロフィールみたいなの持ってくればな、これやった、やったって思い出すんだけど、自分でも数でいうとすごい数だと思います。いわゆる短い、長いは別にしてやらせていただいたというか。

T:でも、ピカソやるころになってくると、だんだんバブル時期に?


K:そう。バブリーなころはだれだったのかな。とりあえずバブリーなころは嫌だなと、僕は思いましたね。みんな変なこと言ってるし、何かわけのわからないこと言ってるし。しかも道路は混んでるし、どこ行くのも車だらけだし。そう、そうだ。バブリーのころはね、僕、鈴木祥子さんっていう方やってました。そこで(西本)明君とも一緒になったり、そういうこともあったけど。そう。で、そのときは一番最初、鈴木祥子さんのときは、最初バンマスが佐橋君という人で、その佐橋君というのは、元はといえば石川優子のときにも、彼は10代でギタリストで、天才ギタリストと言われてそこでやってましたね。(笑)その流れで僕は祥子ちゃんに呼ばれたのかな。それで鈴木祥子さんをやって、それでそのときも海外ツアーとかあってね、楽しかったですけどね。

T:バブリーな感じで。

K:ちょっとバブリーでしたね。香港、タイとか行ってましたよ。(笑)

T:それで、90年代入ってきますよね。

K:入ってきますね。祥子ちゃんは、ちょうどその前後かもな。80年代後半から90年代。音楽界ってね、バブル弾けてもしばらく余韻が残ってたのね。今はその分大変な思いしてると思うけど。かなり遅くにそうなっていったんで。それで、そのころにちょうどキティ自体は力がうすらいでいったんだけど、いろんな理由で力がなくなっていったんだけれども、ピカソの人たちが、その前に出してたアルバム等は、僕はその頃彼らとかかわることがあんまりなくて・・・ある時彼らがつくったものを聞いて、すごくいいなと思ったんだよね。すごく興味あると。僕も音楽的にフュージョンとかそういうものはつまらないなと、何でつまらないのかわからないけど、つまらないなと。仕事もいろんなことやって、それはそれでいいんだけど、だけどなんか物足りないっていう、充実した感じがないなと。そこら辺の隙間を埋めてくれるかもしれないっていう、そういう気持ちになれたというか、彼らのやってることを聞いて。それでこっちから急接近していった感じ。いいから僕にやらせろ!みたいな。強引な感じでね。
(笑)そんなに言うなら、しようがないな、入れてやるかみたいな感じで。(笑)それはうそだけど。快くね。そう、じゃあやろうかっていう感じで。で、箱根のキティの持ち物で昔ロックウェルっていったかな、スタジオが箱根にあって、そこをキティが買い取ってリハーサルスタジオ、合宿リハに使うための場所みたいにしてたところに、ちょっとしたタスカムっていう、まあ、録音機器としてはプロフェッショナルが使うよりちょっと一つ下ぐらいの、16CHのテレコがあって、卓はAPIっていう、昔からの、好きな人は大好きな卓。でもかなりぼろぼろのやつがあって、ブースがあって、録音出来るじゃん、ここでっていうことになって、金ないならここで録音しようと。なかばそこを乗っ取るような感じでピカソ軍団がそこにずーっといて、だらだら録音して。それでつくったのが「チャンピオンのノスタルジー」っていうやつで。楽しかった、それはね。音楽やる楽しさっていうか、つくっていく楽しさみたいなのを味わえたかな。だから、そこら辺が90年代の前半だったかな。で、そのころにピカソの人たちがプロデュースっていうことにも乗り出してっていうか、そういうことが多くなって、そういうレコーディングとかもやらせてもらって。その間にツアーいろいろ、多分やったんだよな。どなたをやらせてもらったか覚えてないけど、覚えてないというか、思い出せば思い出せるかもしれないけど、今すぐに出てこない。そうですね。ライブをやりながら、レコーディングして。80年代までは僕はスタジオミュージシャンにすごく憧れてたのね。花形に見えたし、ミュージシャンの頂点のようなふうに一時見えたときがあって。でも、90年代に入るとだんだんそういうのも、あんまり興味なくなったというか、別にっていう、そういうことじゃないじゃんっていうふうにすごく思ったというか。音楽を表現するというか、何かをクリエイトする、原点にいたいという気持ちがすごく強くなってたのかな、ますます。だから、プレイヤーとしてうまいプレイヤーになるっていうんじゃなくて、ちゃんと音楽として何かにかかわれる、何か作品としてつくりあげる中の一人として、プレイヤーだったらそういう形でかかわるとか、もうちょっと踏み込んだ形で音楽をつくっていくということにも興味をだんだん持ちだしたころかもしれないですね。そういう視点でいろんなことが見えるようになってきたというか。

T:それが90年代中盤。

K:そうだと思う。90年代の、音楽つくるということは昔から多分興味があったんだけど、漠然としててね。そういう意味で、いろんなプロセスが楽しいんだということを教えてもらったのがピカソの人たちだと思うんだけど。普通のレコーディングだと、インペグの人に呼ばれて、わけわからないうちに終わったりとかいうことが多いでしょう。CMなんかだとほんとにわけわからないまま終わっちゃうから。後で聞いたらこういうことだったんだということが多いから。そういうのだとあまりに希薄でね。そういうんじゃなくて、もうちょっとクリエイトしてるっていう感じ、生み出してるんだって、自分の中でちゃんと一回かみ砕いて、咀嚼して吐き出すというようなことができないと、すごく欲求不満たまってきちゃう感じがあって。そういうスタンスでなるべくやっていきたいという意識が強くなっていった。

T:バンドとか組んだり、ユニット組んだりしたんですか。


K:それ、90年代の終わりなのか、2000年代入ってか、ちょっとはっきり覚えてない。多分そのとき「いとうゆうこ」さんっていう方、その前から知ってたんだけど、興味あったけど、その当時はまだキティで契約があって。その後、何か忘れたけど、その辺になって、ポリドールとか。しばらくいて、その契約が切れたっていう話で、興味があったんでちょっとやってみる?とかいう話をして。それでいいよっていうことで。それでなんかだらだら、録りためた曲の素材を一つにまとめて出したのが、「Rough Diamonds」というアルバム。あれも、だからすごい長い期間のものを集めて、それにリアレンジというか、書き加えたりとか、ピカソの純二君に弾いてもらったりとか。

T:「Rough Diamonds」というバンド名はどういう風に決めていったんですか。


K:その「Rough Diamonds」要するに、彼女に対して感じたことが。そのまんまがそのバンド名になったというか。「Rough Diamonds」という言葉というのは、要するに宝石の掘り出したままのダイヤモンドというような感じでしょう。そのままの。磨いてないダイヤモンドはただの石ころのように見えるかもしれないけど、磨いていくとちゃんとすごくきれいな宝石になっていく、そういうような気持ちがあったんで。彼女に対しては、すごい磨きをかけて初めて、最初は全然粗削りで、そのままだと粗削りで扱いにくい、なんというか、聞いてる側にもどういうふうに彼女を受け取ればいいか分からないのではというのが、もしかしたら僕の視点だけど、もう少しわかりやすく整理して、こういうふうに見てください、見るのはどうですかという、そういうような気持ちもあって、そういう名前にしたというか。で、出したのがそのアルバムで。でも結局、ライブ活動、いとうさん自身もなんか、割といろんな意味で起伏のある人なんで、ライブを、何ていうか積極的にやっていこうとかっていう気持ちは、そのころはね、なかったようで、あんまりそういう気分でもなかったみたいなんで、ライブ活動というのはなかなかやりにくいというか、できなかった。というのはちょっとね、心残りっていえば心残りですけど。

T:2000年に入ってて、次の流れは?

K:それでその音楽をトータルでつくるという意味では、プロデュースというか、プロデューサーというか、というふうに何かにプロジェクトにかかわっていきたいなという。あと、曲を書くというのも、ある種そういう部分の一つなんで、そういうことはそういうことで別の窓口に籍を置いて、そういうことをやりながら、それも運良く採用された作品なんかもあって、そっちも少し、そういうこともありつつ、で、とある人を介して知り合った人に、「ありましの」っていう、シンガーソングライターの人がいて、その人の声にまず、僕のすごく好きなタイプの声質の持ち主というか、その歌の感じが。すごくいいなと思って。上京してきて顔合わせしましょうということになって、それで実際に生で聞くというか、その存在に触れてみると、彼女の音楽にね、よりまあ、僕の好みというか、すばらしい、僕にとってすばらしく感じれる人だったので、ぜひともと思って。それで、それから2年半ぐらいですかね、今はたちますけど、それに関してはこの先自分のライフワークにしていこうって思ってます。彼女に関してはそういう感じのスタンスでじっくりといろんな、音楽の方向性というのはさまざまなので、ただ何でもそうなんだけど、ある程度すぐれている人は、なに着てもそれなりに見えるように、すぐれたスタイルを持っている人は。そういうふうにいろんな形で音楽も多分表現できると思うから、特に形には強くこだわらずに、彼女の中から自然に出てきたものを整理して、よく聞こえるようにしてあげるようなことをやってあげようというふうな意識で。で、と同時にステージ上では僕もプレイヤーとして一緒にやってるんで、それはプレイヤーとして喜びを感じながらやるっていう、いろんなふうにして、その、そうですね、それにすごくとても深くかかわっているというか、僕の音楽の中での大きなポジションをしめていますね。

T:アルバム「アイノウタ」は、どういう感じでつくってたんですか?


K:あれはね、要するにもともと彼女自身が関西で学生時代、京都のほうの、出身は鹿児島なんですけど、なんかちっちゃいころおばあちゃんに連れて行かれて京都か何かに旅行して、京都がすごく気に入ってたらしいのね。大学はぜひとも京都にいきたいというのがもともとあったらしくて、念願かなって京都で学生生活を送って。で、お父さんがまた音楽好きな方で、地元でパパスアンドパパスっていう、ちょっとなかなかいい感じの名前のバンドで、そこそこ有名になってて、いまだにやってるぐらいの強者で、地元では有名だし、そういう父親の影響もあってか、結構昔の音楽もそれなりに知ってたりとか。音楽は何となくかかわってて、で、大学入ってギター部入ったらしいんだよね。で、ギター部に入ってそこで、それまてギターというのは弾いたことはなかったらしいんだけど、ギターを弾いていくうちに、その当時はやってた、シェリルクローとか、そういうのコピーしたりして。ストリートでやるようになって、まずNobody knowsっていう、それと同じ名前の別のバンドもあるけど、という二人のユニットを男性とつくって、それでちょっと活動してアルバムを1枚出したらしいんだけど、それはそれでいろいろうまくいかなくて解散して、1人になって。で、大学卒業して1年ぐらい京都いたらしいんだけど、その当時知り合ってた大阪の事務所のSIPというところから、東京に行ってみればと。おしりを押されて上京してきて。それでそういうところの人づてで僕が知り合ってっていう。それで、東京でいろいろライブ展開していく中で、曲もいろいろできてきたりとか。共作というのもあったんですけど。それで、そういう中でステージで曲を磨いていくみたいなことを、2人でやってたんですけど、それでもある程度基礎はできるんですね。その基礎の上にほかの楽器を入れるというような形でもってつくってたのが「アイノウタ」。で、不思議なものでアルバムを一つつくろうかと。スタジオはどうしようとか、そういうところから始まるわけで、とりあえずそこら辺のいきさつがあってスタジオとかは僕が探すという形になったので、ちょうどそのときにメールが懐かしい人からきて、どうしてるんだ、おまえみたいに言われて、彼曰くおれは今、都内でスタジオ任されてるから一回見に来いとか言われて、ほんと、そんな話あるかなみたいな。見に行って、まずはそういうやろうと思ってることがあるとは言わずに行って。エンジニアの人はこの人にお願いするって決まってたんで、次にその人に見てもらって、大丈夫そうですよということになって、今、こういうプロジェクトあるんだけどっていうところから話して。いいよ、協力してあげるっていうんで、随分協力してもらってね。それで、そこで録ったんですけどね。湾岸音響というところで。新しいスタジオで。なかなかそれも気持ちのいいところでね。ある種ラッキーなんだよね。まあ、何でもつくるのは大変だからね、それなりの苦労はあったけど。無事終了して、ことし2005年1月26日にリリースされたという、そういう感じですかね。

T:じゃあ、今後も少しずつ曲をためて?

K:曲、そうですね。ためてって、たくさんあればあるほど選択肢はふえるんで、いいものをピックアップしやすくなるから、多いにこしたことはないですね。と同時に今、カバーも少しずつして、いわゆる可能性、自分だけの世界だけじゃなくて、いろんな人の残してきたすばらしい作品がいっぱいあるじゃないですか。そういうものもやって、レパートリーを増やしていくと、自分自身、彼女自身も広がるし、いろんな。そういうこともやって。ライブをとりあえず中心に。この先もそうだと思うんですけどね。ライブは。多分、レコーディングというのは、すごく楽しくていいんだけど、人によってはCDと言うスペースに収まり切れない人もいるんでね。ありまさんもそういう人なんだろうなって。アルバムに収めるにはちょっと、ダイナミクスが大きいというか、何というか。もっとライブのほうがよく見えるんじゃないかなと。それもそういうふうに。レコーディングしてる最中も思ってたし、その前からもそう思ってた。なので、そういう意味でもライブを見てもらったほうが、よさがわかるというか。

T:最近、「南桴舎」という事務所を?

K:それはね、いろいろ人には出会いもあれば別れもあるというようなことで、もろもろあって、関西で知り合ったSIPという事務所を彼女が離れることになったんですね、5月いっぱいで。で、6月からどうしようかっていう話になって。今までもずっと一緒にやってきて、とてもそれなりにいい感じでやってきてるから、2人でそういう何かやっていこうと。で、そのためには何か窓口はここですというものが必要だよねということで、じゃあ南桴舎にしようって。最初、南の風としてたんだけど、それじゃあまりにも楽しくないというか、単純なので。それで、風に変わる何かものでいい字はないかなというので、漢字辞典でずっと調べてたんですね。そうしたら、このフウという字は、木偏に浮くみたいな、さんずいのない浮くみたいなのがついてる字があって。これには、要するにドラムのばちっていう意味とか、あと海に浮かぶいかだみたいな意味とか、なかなかぴったりくるなということになって、これにしようかなって。それで、ほんとうはフウじゃなくて、フだと思うんだけど、一応フウと読ませて、南桴舎と。舎も会社の社じゃなくてね、こっちのシャ。

T:ことしの新たな展開としては、この「南桴舎」をスタート。


K:まず、ここからスタート。仕切り直しを今まさにしてる最中。音楽的には今までのことを進めるという形で。

T:じゃあ、ありまさんの活動はそういう感じで進み、河野さん自身は、ことしほかに何かやってみたいこととか、これから、今後何か。


K:僕はね、とりあえず音楽、今、自分の中には幾つか柱があって、やりたいことの柱が。まず、それは一つは、僕ちょっとプレイヤーとしてはある種一時怠けてて、自分を磨くことをしてこなかった時期がちょっとあったのね。で、それをやっぱりもう一回ちゃんとやろうと思ったのが2、3年前で、それをまずちゃんとやりたい。プレイヤーとして。ドラムプレイヤーとしてね。さっきも言ったように、スーパーになりたいんじゃなくて、いわゆる何というかな、歌に対しての音楽が好きなんで、そういうのでいいんだけど、歌に対しての楽器というのは、実はちゃんとやろうと思うとすごく難しい。本気でやろうと思うとね。それをどれだけ高いレベルでできるかということにチャレンジしたいというのが一つの柱。で、もう一つは、今、ありまさんとやってるような、こういうありまさんはもちろん別格でライフワークとしてやるとして、プロデュース、音楽を全体でつくること。それから、何足もわらじを履いてるようでなんだけど、あとは自分のクリエイターとしてというか、自分は一体何ができるのかということを含めて、作家という部分。その3つの柱で、最初の2つの柱は特に大きな柱で、今言った3つ目は、柱として置いておきたいという、それを一応この何年かの、この先はそれを軸にしていく。多分、プロデュースという部分では、今いったナンフウシャをどれだけちゃんとしていくかということも、もしかしたら含まれるかもしれない。全体を大きな意味で見るっていう、俯瞰できるような立場でいたいなと。そういうポジションも持っていたい、そういう感じですかね。

T:ありがとうございました。

K:いえいえ、こんな感じでいいですか。

T:大丈夫です!どうもありがとうございました!

K:ありがとうございました。


-end-