Aisa


ブレッド&バターの岩澤幸矢とマナを両親に持ち、昨年末に1stアルバムを発表、
2005年12月「moment Xmas Session」に出演決定したAisaさんへのロングインタビューです。

(2005年11月29日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)









Aisa(アイサ)


神奈川県湘南出身。
ブレッド&バター・岩沢幸矢を父に、マナを母に湘南に生まれハワイで育つ。
帰国後、松原正樹with今剛「The Guiter Bros.」への楽曲提供を始め、
様々な作品にゲストボーカル、英詞等で参加。
そして2004年11月、Debut Album「7inches off the ground」(TERCL-1006)をリリース。
作詞作曲は勿論、アレンジまで自身でこなした本作品は、
彼女の高い音楽性が十分に発揮された作品となり、各メディアより絶賛された。
05年10月26日にはMini Album「Cradle town」(TERCL-1008)をリリース。
精力的にライブ活動も行っている。

Aisa Official Web Site → http://www.fabnet.co.jp/aisa/

 Aisaインタビュー

私の場合、常に家の中に音楽があった生活をしていたので、音楽は空気状態で、音楽がない環境はあんまり想像できないから。だからといって、音楽を仕事にしたいとか全然思っていなくて、反対に両親への反発みたいなのがあったし、小さい頃はね、だから、音楽やろうと思ってなかったんですよ。


TERA(以下:T):よろしくお願いします。


Aisa(以下:A):お願いします。

T:まず、生まれた場所から教えてください。

A:生れたのは、湘南の辻堂かな、鵠沼海岸とか、その辺の病院だと思いますが。

T:どんな環境だったんですか?

A:両親がミュージシャンだったことがあり、なおかつ最初に住んでいたのが湘南だったので、父の地元だから、すっごいいっぱいとにかく出入りの激しい家。いろんな人がいっぱいいて、小さいころから第二の父と第二の母がごまんといるような環境で育った気がします。

T:ご兄弟は?

A:一人っ子です。

T:幼稚園の頃は、どんな子だったんですか?

A:学校に行きたくなかった。幼稚園に行きたくなかった。毎朝、多分泣いてた。まだ覚えてるんですけど、電信柱にしがみついて、バスが来るんですよ、毎朝。お迎えのバスが、ぞうバスなんですけど、いろいろトラバスとかあって、ぞうバスが来ると、もう行きたくないって電柱にしがみついて、行かない日がほとんど毎日続いたと思います。(笑)

T:音楽的な記憶って、そのころはまだないですか?

A:一番最初に、とにかく両親がいつもピアノとかギターとか弾いて、何か歌ってたイメージがすごいあって、屋根裏みたいなのがあって、三階にフィツアが置いてあって、そこに父母がどちらかがこもって弾くか、歌うかだったりしてたのが一番最初の記憶なのかな。でも、多分81年にMTVが開局になって、そのときにマイケルジャクソンをすごく見てたらしくて、そのマイケルのビートイットがすごいはやって、それがすごい好きでしたね。踊ってました、おむつかさかさ言いながら。

T:それって、ビデオ見てたんですか?

A:そうですね。そのときちょうど全部やりましたね。

T:小学校入ると、どんな感じ?

A:小学校入ると、目の色が薄かったし、髪の色がすごい薄かったので、金髪じゃなくて白髪、しらがと言っていじめられました。その前に、多分母からピアノを少し習ったりもしましたね。

T:ピアノは、どんな感じだったんですか?

A:ピアノは、母が先生になって、多分週に三回ぐらいちゃんとよろしくお願いしますから始まって、ありがとうございますみたいな、いきなりお母さんじゃないモードで、ピアノをやっていたので、3年ぐらいで嫌になりました。で、やめました。(笑)もう、私はやらないって母に宣言して、そこから母から教わるピアノのレッスンはやめちゃいました。

T:お父さんは、何か教えようとしたり?

A:全然しません。(笑)父から教わったのは、湘南の海岸はすぐそこだったので、犬のアフガンハンド2頭と、あともう一匹小馬みたいな犬と、あとシャム猫を飼っていて、その辺でみんなで海にお散歩に行って、固い泥団子っていうんですかね、砂団子、固いもののつくり方っていうのを父から教わった感じです。そのぐらいかな。(笑)小さいころは。(笑)あんまり教えるっていう感じのタイプの父ではなかったので、とにかくいろんな人と友達で、飲めや歌えやみたいな、そういうイメージ。

T:小学校では、委員とかクラブとかの活動は?

A:小学校は、4年生までだったんですよ、鵠沼の小学校に行ったのが。その間にバレエやって、スイミングスクールに行ってとか、そういう習い事とかしたけど、あんまりイメージがないかな、小学校4年間は。その後、ハワイに行ってしまって。で、ハワイの学校のほうが、やっぱりもっと強烈だったんで。

T:ハワイに行くことになったきっかけは?

A:父の仕事が最初で、小さいころよく覚えてないんですけど、ラジオの仕事で定期的に行かなきゃいけないのがあるみたいなので、それでたまたま母の祖父が、すごくハワイが好きだったから、じゃあ行くなら行っちゃえばみたいな話になって、行っちゃったみたいです。よくわからないけど。

T:それはひとり?

A:それは、母と弟と一緒です。父は仕事で行ったり来たりして、私は母と一緒にハワイに住んで

T:それが小学校4年生頃?

A:はい。だから、9歳、10歳の変わり目ぐらいにハワイに行って、気づいたら言葉も通じない、文化も全然違うみたいな世界のところにぼんってやられて、えーんって泣きながら学校に行きました。(笑)

T:小学校はずっとハワイ?

A:そうですね。小学校6年生、8年生まで行って、卒業してから帰ってきました。
で、そのとき、15歳か。多分、それまで、そっか、4年生からバイオリン始めたんだ。学校が必修だったんですよ、バイオリンやらなきゃいけなくて。それでちゃんとやるようになって、レッスン受けてやってました。

T:向こうでよくやってた事ってあるんですか?

A:水泳をやってましたね。スイミングスクールで、バックの選手だったんですよ。背泳ぎの。今ついた、まだ筋肉残ってますぐらいな、そういう大会にずっと出てたりとか。あとは、カヌーやったりとか、ダイビングやったり。

T:日本で言うと中学生の頃は?

A:そうですね。ちょっと非行少女になりつつみたいな、ありがちな。危ない遊びして見つつ、ハロウィンになったら卵投げたりとか、そういうことしました。(笑)

T:音楽活動的には?

A:全然まだギターも、あったけどぽろぽろぐらいしかやってませんでしたね。

T:歌を歌ったりは?

A:全然ないです。学校のクワイヤみたいなのは入ってたんですけど、でも別にクワイヤだけだったから、そんなにね。

T:で、その後15歳で日本に帰ってくるんですか?

A:そうです。15歳で日本に帰ってきて、実は、日本に帰ってくるほうが行ったときよりも全然大変で、中学校の3カ月間ぐらい地元の中学校に、それは杉並のほうに帰ってきたんで、杉並のほうの中学校に行って、そのときは全然何が何だかわからなくて、カルチャーショックばっかりで、結構大変だったんだけど、いじめられつつも頑張って生きてきました。(笑)

T:そのいじめの程度っていうのは。

A:ルーズソックスを履きたくないって言ったことで、ちょっと総スカンみたいな。ごめんなさいみたいな感じでした。(笑)

T:高校入って。

A:高校、すっごい楽しかったですね。高校は帰国子女しか受け入れない学校があって、入学した時は1学年で44人ぐらいなんですよ。それでも全部帰国子女で、いろんなところから帰ってきてる人たちばっかりで、モルモット学校みたいな、帰国子女とは何ぞやみたいなのを研究する学校らしく、とにかく人数が少なくて先生と同じぐらいの人数で、生徒たちが暮らしてる学校っていう。そこでギターをやり始めて、軽音楽部をやって、室内楽みたいな部活にも入ってやってましたね。初めてエレキを弾いたのはそのときです。

T:ギターをやろうと思ったキッカケは?

A:別にきっかけとか、本当は多分やりたかったんだけど、やりたくなかったっていうのが小さいころからずっとあったと思うんですよ。両親がずっと音楽やってるんで、同じになりたくないなと思ったし、同じジャンルで見られるのも嫌だなのを思ってたみたいなんだけど、そういう高校って最初から、1からみんな同じところからスタートできるところだったから、じゃあ何でもゼロからっていう意味でいきなりやり始めちゃったのかな。わからない、きっかけって。

T:最初弾いた曲は?

A:スメルズライクティーンズスピリット。ニルヴァーナ。「ジャー!ララン、ツクツク、チャンチャン!」ってやつですね。(笑)

T:歌つきで?

A:いきなり出来ないんですよ、ギター弾きながら歌うなんて事は。でもね、初めて弾き語りで、ギター弾きながら歌うことができた曲は、ニルヴァーナの「ポーリー」っていう曲。(笑)あれ、でも今思うとすごい簡単なのに、昔はもう歌いながら弾くっていうのがこんなに難しいことかって、すごい練習してやっと歌えるようになった。でも全然歌おうと思ってはいなかったので、ほんとにバンドでギターを弾いている人でした。

T:それで、発表の場っていうのはどういう感じ?

A:基本は学園祭とか、後夜祭とか、あと軽音楽部だったんで、定期的にライブをしていて、そういうときかな。ガンズアンドローゼズやったりとか、ツェッペリンやったりとか、どんどんうまくなると昔物に走って、最初はビートルズやろうかみたいな、それぐらいなんだけど。もっと難しいことやってました。ドリームシアターやってみようかみたいな。(笑)

T:学校で離れてっていうか、外では。

A:全然やってないですね。そのときは学校がすごい好きで、学校が楽しかったから、多分朝行って帰ってくるのが8時ぐらいだったと思う、毎日。何やってたんだろう。(笑)だから、それ以外何もやってなかったですね。

T:でも、ギターで家の中で歌ったりとかする?

A:恥ずかしかったんですよ。今も恥ずかしいんですけど、家の中に何か歌うとか、弾くとかやるのが、絶対何か言われるから、それは何だとか、それは違うんじゃないのとか言われるから、家の中で何かやるっていうのは結構恥ずかしくて、部屋でこもってやるんだけど、ギターとかってアンプ通すと音聞こえるじゃない。だから、何かね、こそこそやってたんですよ。(笑)

T:高校卒業するころは?

A:まだほんとに音楽活動始めようとも全然思っていなくて、歌おうとも思っていなくて、でも大学入ろうと思って、文学勉強しようと思って、今思えば、ちゃんといつか歌詞がちゃんと書けるように、本いっぱい読んでおこうと思ったらしく、文学部に行きました。英文学に行って、昔の勉強して、戯曲とか、舞台劇を専攻してたんですけど。

T:じゃあ、演劇を。

A:私が演劇をするんじゃなくて、脚本とかのほうの作品を読んだりちょっと書いたりとかそんなのでしたね。

T:そこで、何か特にこだわってたこととか?

A:大学でオーケストラに入って、それで初めてすごい、500人単位のオケで、それはそれですごく楽しかったんだけど、オーケストラをやってみて、何かいわゆるすごいストイックなオケだったので、音楽が楽しいっていう以前に、「あなたは何メソッドでやってきたの」とか、「おれはどこそこのメソッドだからこう弾かなきゃいけない」とか、そういうふうにかちかちの世界に入ったところで、ああ、もっと自由にやってみたいなっていうのが生まれて、で、何かやってみようかなって。そのころ、多分高校生ぐらいのときから曲ちょっと書いてたんですけど、もうちょっとちゃんと書いてみようと思い立ったのが、多分大学生の2年生ぐらいになってから、ちゃんとやろうかなと思って、書き始めたのかな。でも、そのころは、まだ1曲、1曲書くのにすごく時間がかかって、何をやりたいのかも自分でわからないから、とりあえず出るものだけ出すみたいな。で、それをまとめてみようってなったのが大学2年生ぐらい。

T:自分で歌うとか、何か目的みたいなのがあったんですか?

A:やりたい曲が、すごい結構難しいことがやってみたいと思っていたたちだったので、それをやるのは、自分で書いた曲を自分で歌うのが一番簡単だなと思っただけで、それをだれか歌える人を、自分が思ったとおりに歌う人を探すっていうよりも、とりあえず自分でやろうかなという。

T:何か言いたい事とか、伝えたい事とかというのは、関係なく?

A:全然。(笑)ない。ただ、ほんとに私の場合、常に家の中に音楽があった生活をしていたので、音楽は空気状態で、音楽がない環境はあんまり想像できないから。だからといって、音楽を仕事にしたいとか全然思っていなくて、反対に両親への反発みたいなのがあったし、小さいころはね、だから、音楽やろうと思ってなかったんですよ。自分でぐちゃぐちゃになっちゃうんですけど。だから別に、言いたいことがあるとかそういうのよりも、自分の発散のためだったのかな。でも、そんなにすごくいっぱいがーってやったわけでもなく、悩みつつやってる感じ。何を書こうかとか考えて、すごい頭でっかちみたいですね。(笑)

T:一番最初、大学2年生の時に形になった曲で今も歌ったりしてる曲はありますか?

A:形になった曲は、ファーストアルバムにすべて入ってます。

T:その中でも一番最初に出来た曲は?

A:一番最初、何だろうな。「あしたのピアノ」かも。でも、そのとき大学生になってから、アマチュアバンドもちょっと組んで、それは高校時代の友達、女の子バンドを組んだんですよ。4人で女の子だけでっていうのがあって、そのときにいろいろ書いてた曲が、最初のアルバムに全部入ったのかな。

T:その時のバンド名は?

A:フォーローゼス。(笑)4つのバラでウィスキーが好きみたいな。バーボンとか。

T:それは、Aisaさんがつけたんですか。

A:何かすごい酒飲みバンド、女の子バンドだったんで、何かお酒の名前にしようって、みんなでお店行ってこれは、これはってやってつけました。(笑)

T:そのバンドはどのぐらい続いたんですか?

A:全然続いてないですね。1年に1回ライブをやって終わりみたいな。(笑)

T:でも、一応ライブハウスで?

A:そうですね。みんないろんな、ほんとにやりたいことと、ただ音楽を楽しむ場と分けていたので、音楽は楽しくあるべきだという理念のもと、楽しく遊んでました。

T:一人で歌おうと思ったんですか?

A:大学4年生の卒業近くなってやばいなと思い始めて、じゃあ私は何をやって生きていきたいのかなと思ったときに、音楽しかないかもしれないと思って、卒論が書けなかったので、もう1年留年して、5年生になって、その間にパブに拾っていただき、それでいろいろコツコツやって形にしていくっていうのを少しずつやり始めた感じです。

T:ご両親のOHANA BANDに参加したのは、そのずっと前ですか?

A:高校三年生か大学生のどっちか、それぐらいかな。18歳ぐらいかな。

T:それはどういうキッカケだったんですか?

A:確か、バンド内で、OHANA BAND内でもう一人ギターが欲しいっていうのがあったらしく、そのころはちゃんとばりばり軽音楽部でギターを弾いていたので、でも全然うまくないんですよ。(笑)まあ、おみそでちょっとやらせて見るみたいなモードになったらしく、行ってやってみたら、まあいいんじゃないのみたいになって、採用されました。

T:やってみて、何か?

A:すごい学んだのは、そのとき小野田さんと里村さんと私のアルバムののプロデュースをしてくれた京田誠一さんっていうキーボーディストもそこで出会って、もちろんみんな前から知っていたんだけど、何て言うのかな、音楽業界の年功序列じゃないけど、上下関係っていうものも少し教えてもらった気がする。特に小野田さんは、一ミュージシャンというのかわからないけど、やっぱり、「アイちゃん下っぱなんだから、とりあえずコピーとってこい」っていうのを、別に嫌味じゃなくて普通にそうだろっていうふうに、わかりやすく、私もすとんと来るように言われて、「はい、コーヒー買ってきます」とか、そういうことをいろいろやったおかげで、何ていうのかな、いろんな音楽業界の世界を少しかいま見て、今も随分役に立ってるのかなと思います。感謝してます。

T:戻りますけど、歌しかないんじゃないかと、その後とった行動、動きはどんな流れに?

A:自分でデモテープをつくりました。パソコンが結構得意だったので、バンド組んで父とか母のレコーディング作業をずっと手伝っていたので、家にシーケンサーもあって、それで自分で全部オケとって歌ったのをつくって、いろんなところに送った。いろんなところじゃないけど、2つぐらいしか持ってってないけど。(笑)で、今に至るのかな。(笑)

T:じゃあ、二つのうちの一つが。

A:FAB(現オフィス)でした。(笑)実は、FABもハワイで知り合った、日本人の友人を通じて知り合った方が社長さんをやっているところで、私も小さいときから知っている方が社長さんっていうので、ちょっと拾ってくれたみたいな感じです。

T:FAB入って、まずどういう活動をしたんですか。

A:何してたんだろう。いきなりTOKYO-FMのパーソナリティをやってました、一瞬だけ。

T:それは初めて?

A:そうですね。いきなりちょっと鍛えられつつ、その後レコーディングしたのかな。

T:ラジオはどんな感じだったんですか?

A:わからない。ラジオって、特にそのとき一人だったんで、自分がしゃべらないと成り立たないものじゃない、だからもう頑張るしかないと思っていろいろしゃべってたけど。それがうまいのか下手なのか全然わからないですけど。勉強になりました。

T:すぐアルバムの制作に?

A:はい。すごい、最初のアルバムは、21日間でレコーディングからマスタリングまでやりました。21日間。しかも11曲とか、ちゃんとやったんだよね。でも、痛々しいよね、今聞くと。

T:その21日間の流れを簡単に教えて下さい。

A:午後1時にスタジオに行って、じゃあ、今日録るものを整理して・・・。例えばバンドのものだったら、バンドものを録って、ご飯食べて、そのあと私がコーラス入れますって言って、もうずーっとやって、大体朝5時ぐらいに終わって、帰って、飲んで、寝て、午後1時にまたスタジオ行ってっていう、そういうサイクルでした。

T:曲はもう大体すぐ並べられたんですか?

A:いや、全然。(笑)

T:どういう風に決めたんですか?

A:あるものから。曲を大量に書けるタイプではないようで、何を書こうかすごく迷ってしまうので、出たものから採用みたいな感じでした。

T:割と多めにとってそこから調整したりとか?

A:いや、全然ないです。ミニマムからミニマムをチョイスみたいな。

T:アレンジは?

A:それは、自分でデモ録ってたんで、アレンジほとんどできてたんですよ。自分でできてて。それを最終的にきれいに打ち込みをし直してくれたのが、京田さん。京田さんがいろいろプログラミングをしてくれて。もともとの大学生のときにつくったデモが、そのまま反映できたという感じです。

T:ほかのメンバーは?

A:レコーディングは、ミック(美久月千晴)さんと、松原(正樹)さんと、カースケ(河村智康)さん。カースケさん、うまいよね。
あと、土方隆行さんっていうゴージャスなメンバーを京田さんが集めてくれました。もう、松原さんは、もともと父のバックをやっていただいていて、一緒にアルバムに参加させていただいたことがあるんですよ。そのときが、それが起点かもね。申しわけないけど、すごい編集の仕方で。(笑)

T:それはいつ頃ですか?

A:それが、多分大学生の一、二年生ぐらいのときに、松原さんは年末の鎌倉プリンスでのブレバタのライブで弾いていて、
そのライブの後に鵠沼海岸のちっこいガラスっていうお店で、打ち上げをしてたんですよ。そのときにアイサ歌えよみたいな話になって、歌ったら、松原さんがすごく気に入ってくれて、それまでほとんど面識がなかったのに、その後いきなりちょっと何かつくらないかっていう話になって、曲を持ってきなさいって、とりあえず一緒にうちに来なさいみたいな、遊びに来なさいとか、いろいろかわいがってくれて、で、マツバラさんと今剛さんの『The Guiter Bros.』っていうアルバムに自分の曲を3曲入れていただいて。それとコーラスをやったりとかしてから、あ、ちょっと嬉しいっていうか、何となくミュージシャンとして認められたのかなっていう感覚が出てきて。今までそんなこと全然なかったし、両親が何だそれっていうタイプなので。それで松原さんに救われたっていう感じなのかな。それからちょっと本気で頑張ろうって思ったのかもしれないですね。

T:さっき言ってたデモテープっていうのもその頃に?

A:そうですね。そのころの。でも、ちゃんとつくった、そういう事務所とかに渡す前の段階を松原さんが聞いてる。    

T:ファーストアルバムに関してなんですけども、仕上がり、出来上がった印象はどんな感じでしたか?

A:当時、ほんとに嬉しくて、今までスタジオでつくったことは何度かやっぱりあって、でもそれまでは自分の曲じゃなかったし、自分が好きなようにやれるなんて感覚は知らなかったから、自分の曲を自分の好きなように、自分の思うとおりに、時間はすごくなかったけど、できたっていうのはすごく嬉しかったですね。ずっと聞いていたから、いいか悪いかとか、自分ではわからなかったけど、ただ嬉しかった。

T:周りの反応は?

A:「何やりたいの?」って言われましたね。(笑)好きなことを全部詰め込んじゃったみたいな感じだったので、どういうジャンルをやりたいのかなっていう疑問に最終的になったみたい、いいなって言ってくれる人も。でも、それは自分でもわからなかったから、まだ。だから、まだ地に足がついてないぞというアルバムだったので、「7inches off the ground」っていうタイトルにしたんですけど。      

T:タイトルは割とすんなりと。

A:はい。(笑)

T:それで、ライブ活動も始めるわけですが。

A:はい。ライブも実は全然経験がなくて、数をこなさない限り、経験値はどんなに人のライブを見ても上がらないなっていうのを去年実感しましたね。だから、人に見せるのって、わかるけどわからないっていうか・・・。見てくれる人との呼吸をとるっていうのって、最近すごくわかってきた。それまでただ自分が演奏するだけみたいな、一方通行っていうか、一方通行にもなってないかもしれないけど。それがちょっとずつこっちからも発信して、向こうからも発信して、何かになれるっていう感覚がでてきましたね。

T:去年の末から今年にかけて、ライブを続けて、何か変化は?

A:レコーディングでやっていくものとライブでやるものの違いさを感じました。レコーディングでやったものは、そのときすごくよくできて、打ち込みとかやったとしても、ライブで打ち込みは、やっぱりちょっとできない環境にあるので、そうじゃなくてもっとライブでもできるようなことをしたいなと思って。ギターを自分で弾くので、ギターサウンド中心のレコーディングをしたいと思って、セカンドをつくったんです。あんままとまってないけど。(笑)

T:ライブメンバーはどういう風に集ったのですか?

A:最初のファーストアルバムをレコーディングするときに、幼なじみの徳武孝音君っていう子がいるんですけど、幼なじみなんだけど、ずっと小さいころ以来会っていなくて、きっかけは両親同士がミュージシャンでお互いが演奏を一緒にしていたときに、子どもたちは裏で鬼ごっこしていたみたいな、そういう関係で、小さいころから知っているんですが、たまたまその孝音君が海外に行っていたっていうのが帰国して、今、ぷらぷらしてるぜって噂を聞き、ちょっと知らないけど、やってみないみたいな話になって、ギターを聞いたことないのに、徳武さんの息子だから、ギターうまいだろうと思って、レコーディングに誘ったら当たりだったので、一緒にやるようになりました。

T:ここから一緒にしましょうか。徳武さんの方から。最初のバンドを組んだ印象を。

徳武:印象は、初めは十何年ぶりかに再会して、ちょっとギター、私レコーディングやるからやってみないっていう感じで。僕も全然どんな子とか知らないで、いいよって言っちゃったんですよ。それで、レコーディング前のデモが、「あしたのピアノ」と「雨がふりだした」のデモを渡してくれて、すっげーいいじゃんこれってなって、おれやりたいっすよって。

A:でも、音源を渡したときに、譜面とれなくて、お父さんが代わりに音聞いて耳コピしてくれたっていうのを、私は知ってるもんね。

徳武:「雨がふりだした」っていう曲、途中が四分の三が入ってるんですよ。

A:変拍子なんですよ。

徳武:それで、あれってなっちゃって。

A:「おい、ちょっと貸せー」みたいな。

徳武:おれが、がんがんやってたら、親父もうるせーなと思ったのか知らないですけど、違うよーって言いにきて。とにかく僕にとってそういう本格的なレコーディングは初めてだったので、すごい緊張しました。

A:すごい緊張してたよね。

T:過去にバンド組んだりとか、音楽活動は?

徳武:バンドは組んで、ライブを何本かやっては解散みたいな感じで、高校生のときとかやってたんですけど、全然それはまじめではなく。

T:今、Aisaさんのバンドはやっぱり1年ぐらい続いてるわけで。

徳武:そうですね。初めのライブやるときに、リハーサルやったんですけど、すごいでかい、体育館みたいな。

T:立派な。

徳武:そこに行って、また僕は緊張しましたね。うわーっ、これはほんとやばいんだと思って。で、その次の日のライブハウス行ったら、こんなの余談なんですけど、リハスタの3分の1より小さい、「あれ?」みたいな。A:最初は、全然実はお互い知ってるようで知らないんで、サウンドとか近年の話は。だから、どんなことやるのか知らなくて、でもやっぱりお父さんの血を彼も受け継いでいるから、すごい渋いんですよ、ギターが。それがライブでやるにつれ、最初は爆発少年かなと思ってたのが、ちょっと渋めのところもあるんだなというのがあって、いいんじゃないのみたいな話になって、いろいろやってみようねって。徳武:特にファーストアルバムでつくったやつは、エレキも入っててバンドっぽいけど、ライブでどうやってやるかっていう、アコースティックでライブやってるので、その辺はすごく。A:そうですね。結局、ライブをどういうふうにやるかっていう指針を決めなくちゃいけないのは私だから、そのままレコーディングし終わったものをそのまま再現するのか、そうじゃなくて、もっとライブ仕様に違うことをやっていくのかっていうのを考えるのがやっぱり難しかったかな。私は違うことをやっていきたかったので。というか、レコーディングのものをそのままできなかった。レコーディングの人たちがうま過ぎて。(笑)なので、アコースティックで、まず自分が弾けるように、ちゃんと。自分が弾いて歌って、それで成り立つものはどういうふうにやればいいのかと思って、アコースティックでやるように、最近はしています。

T:バンド的なまとまりって、1年たつと変わってきたりとかするんですか?

A:なれました、基本は。過酷かもしれない環境にもなれたし、とにかく演奏することになれたし。

徳武:そのときだめでも、次に生かせる。

A:でも、毎回戦いですよね、ライブは。(笑)緊張、昔ほどしなくなったけど、でもやっぱり、その瞬間は非現実のものだから、現実的なものを見ちゃったら、お客さんはそんなの見たくないし、つまらないから、どうやったら非現実として正攻法のものなのかというか、抽象的だけど、それをつくるのはどういうふうにやればいいのか、日々戦いです。

T:これまでのライブで印象的だった思い出に残る事はありましたか?

A:タカちゃんが、二人でやるときは、タカちゃんが間違えると、あ、間違えちゃったっていう顔を結構するんですよ。それが少なくなったっていうのは、ことしの大きな収穫だと思います。(笑)間違ったとしても、間違った顔をしなくなりました。(笑)

徳武:やっぱりなれてきたっていうのが、一番でかいですね。

A:今、私の曲で、専門的な話になってしまうと、コードとかがすごい少ないんですよ。だから、ギター1本でずっとやってると、実はすごいつまらない曲になってしまうから、そこで何かもう一つプラスアルファでもう1本ギターが入るとかしないと、一人じゃできないものが、できなくはないんだけど、つまらないっていうことが出てきちゃうから、そういうときに、やっぱタカちゃんがいると、音楽として完成度の高いものができる気がするから、そういうのがもっと追求できればいいんですけどねと思います。

T:この間、ミニアルバムが出て、ライブって、ライブのときに新曲が生まれたりとかっていうのは?

A:してないです。

徳武:でも、たまにアルバムに入ってない曲も。

T:それは、どういう曲なんですか?

A:それはOHANAで書いた曲があって、ちょっとハワイアンテイストがある曲とか、そういうのを自分のときもやっちゃったりします。OHANAが開店休業バンドなんで、あんまりアルバムとか出すとかしないんで、じゃあ自分のほうで使っちゃおうとかって。

T:新しいミニアルバムについて簡単に教えて下さい。

A:『Cradle town』というミニアルバムは、私の生まれ故郷の湘南をテーマにしてつくった曲がメーンになっているもので、さっきもちょっと話したんですけど、小さいころ湘南でいろんな人が常に出入りをしていて、そこにはミュージシャンもいたりとか、近所の本当にお花が好きなおばさんとか、犬同士のお散歩で知り合う人とか、あともっとアーティスティックな染色家の人とか、海の冒険家とか、そういう人たちもいっぱい出入りをしていたんだけど、その人たちにすごく小さいころ守られて育つ、見守られて、すごく愛されて育ってきたなっていうことを、今思うと感じるので、今もう大人になったから、そういう注がれていた愛を、今私が頑張ってほかの人に愛された分、愛する番かなと思ってつくったのが、故郷への歌っていうのがあります。あと、全体的にギターサウンドでつくって、それはライブでもできるように、自分が演奏しても成り立つようにと思ってギター、つくったままに、自分でデモをつくるのと同じようにレコーディングをやってみました。そういう感じかな。今の等身大のものができたと思います。

T:ライブは、このアルバムの曲がメインで?

A:そうですね。はい。それと、前のやつもやったりとか、よくしてます。

T:今後、この先の目標とかはありますか?

A:バンドで、バンバンガシガシやるロック系の人になりたい。(笑)ボニー・レイトみたいになりたいと思っています。(笑)
徳武:ギター弾きまくって歌って。

T:新しい音源も、また。

A:そうですね。また、もうどんどん書いていかなきゃなと思っています。次は、ボニー・レイトのようになるはずです、多分。(笑)




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 インフォメーション

Aisaさんの詳しいインフォメーションは、
オフィシャルHP(http://www.fabnet.co.jp/aisa/)まで。