|
bbs
about moment moment member紹介/他 |
|
shop
talk & interview
momentと交流のある方々へのインタビュー
#39
福田裕彦 (PART2)
YAMAHA DX7用ソフト「生福」では業界を圧巻し、
1998年からの浜田省吾とのツアー等、多岐に渡る
音楽活動を続けているキーボーディスト福田裕彦さんの
ロングインタビュー。そのPART2です。
contact us
blog
music
momentに関連したミュージシャン、バンド等を紹介します。
#39
奥井亜紀 (PART2)
現在、ニューリリース、ライブイベント等、精力的に
音楽活動を続けている、シンガーソングライターの
奥井亜紀さんへのロングインタビュー、そのPART2です。
magazine |
|
#39 CLIP:「池上英樹」スペシャルメッセージ LIVE:06.04.26 「ありましの/レコ発ワンマンライブ『詩乃会/ヒカリノワ』」 (東京・恵比寿SWITCH) LIVE:06.05.21 「ザバダック/ZABADAK LIVE 2006」 (神奈川・川崎 CLUB CITTA') 連載コラム:TERA'S SOUNDTRACK REVIEW #39 散文詩:「#09」 KanaT |
short films |
||||||
|
奥井亜紀 (PART2)
昨年末「moment Xmas Session 2005」で素敵な歌声を聴かせてくれた、
今年1月にはニューアルバム、「トキノマニ」をリリースしたばかりの、
シンガーソングライターの奥井亜紀さんへのロングインタビュー、そのPART2です。
(2005年11月29日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)
奥井亜紀(Aki Okui) 1971年10月19日 兵庫県に生まれる 天秤座 B型 長女 色白だと言われたことは基本的にない 丈夫だね、と言われる髪 足は身長のわりにでかい 骨太 歯はかなり頑丈 そり爪 視力裸眼で0.02(コンタクトレンズ装用) とにかく辛いものが好き お菓子大好き ものすごい冷え症 ネットショッピングが好き 散歩はほぼ日課 整理整頓ができない 数字が嫌い スポーツよくわからない 熱しやすいがすぐ冷める、醒める、覚める 旅は好きなんだろうと思うが、自ら行かない マイ自転車はゲイリーフィッシャー 派手色好き 花、豹、迷彩柄が好き ふわふわ、てれてれ、つるつるのものが好き |
奥井亜紀インタビュー (PART2) |
T:PART1の続きですが、次のアルバムまで少し期間がありますが、その間っていうのは?
O:はい。その期間は、15、6歳の時にディレクターと出会って、結局10年間ぐらいですよね、ずっとそのディレクターのお世話になって、その人と一緒にお仕事をしなくなってから、できた曲に判断を下す人がいないっていうのがまずあって、あとは、単純に心のリハビリと、レコードメーカーがなかったので、事務所がすごく前向きに次のメーカーを探したりとかしてくれたんです。私も新しい何かをしたいと思ってて、ライブでバンド編成になると私の声が聞こえないっていうのがすごい嫌だったのね。裏声ばっかり使ってたから、やっぱり裏声って楽器に溶けちゃって届かないっていう。せっかくバンドで楽しくやってても、声が聞こえない、歌詞が聞こえないってなると、それこそ死ぬような思いで詞とか書いてるじゃないですか。聞こえないって、意味ないじゃんみたいな。訓練っていうか、地声を出すボイストレーニングをやってもらったりとか、本当に事務所で2年間修行させてもらったっていうか、でも別に目に見えて何か仕事を残したわけではなかったなあ。でも事務所の社長はすごくあったかく時期を待ってくれていたし、そのときつくった曲とかは今でも歌ってたりとかするんですけど、なんかリリースはしてないんだけど、つくれたっていうことで、結局その2年間ののち、98年になって音楽をやめちゃうんですけどね。4枚のアルバムまでで終わってたら、「えーっ」て思ったけど、ディレクターさんと離れて自分でつくれた曲がそれまでつくれなかったようなものがつくれたなって思えたから、まあ、「やめるっ」ていうか、仕事として音楽をやらなくていいんじゃないのっていう感じがしたんですよね。つくることっていうのが楽しいって思えた状態で、ただ仕事としてやるってなると、あまりにも歌う仕事以外の仕事をやらなくちゃいけなくて。私、どんくさいから、切り換えできないし、レポーターみたいなのをやらせてもらうと、そっちも楽しいから、そっちも頑張るでしょ。そうすると、もうなんか、音楽のこととかに、今だったら多分、それも込みで音楽を楽しもうって思えるんだけど、当時は許容範囲がなくて、「テレビ出る」ってなると1週間ぐらい前から胃が痛いみたいな感じで。(笑)だから、事務所の人には本当に、社長は最後もね、やめるって言ったときも、「歌うのをやめないのなら事務所やめていいよって言われて。」(笑)ほんとにいい人たちだって感じ。すごい円満にやめましたよ。
T:それからの、次のアルバムまでの流れというのは?
O:そうですね。1年間は、味噌汁もつくれなかったから、世の中で言う家事一般を苦がなくできるようになりたいって思って、とりあえずそれをやれるようになったんですけど、やっぱね、一人で歌ってたり、一人で曲つくってても、楽しくないなっていうか、たとえ売れてなくても、音楽について話をしたり、私そんな音楽のマニアックな話はしないけど、このメロディいいねって言って、ほんとだねって言ってくれる人がいるだけで、どんなに世界が明るかったんだろう。ってことに、休んでる間に気づいて、ちょうどインターネットの波が「わーっ」と来たんですよ。私もiMacとか買っちゃったりなんかして、でかいやつ。そしたら、インターネットで私のことを私設ファンクラブみたいにやって待ってくれてる人がいたり、奥井亜紀はどうしているんだろって言ってる人がいたり、悪口書いてる人もいるんですけど(笑)でも、なんかそういう人もいるんだっていうのが、すごい近く感じれたりとかして、友達のミュージシャンの人のところで連載で文章を書かせてもらったりとか。でも日々は何もなく過ぎてたんですけど、20世紀最後のときにですね、「ターンAガンダム」の歌を歌わないかっていうのを菅野よう子さんからお話をもらって、それもインターネット経由だったんですよね。で、一応オーディション受けたら、歌わせてもらえることになって。あのときね、何年かぶりかでいわゆるスタジオで歌えただけで、別に本番とかじゃなくてもいいんですけどっていう感じなぐらい楽しくて、またそれがすごくいい曲だったのもあって、私、休んでる間も、テレビとかでいっぱいいろんな人が歌ってて、私も歌いたいなとか、こんな音楽やりたいな、あんな音楽やりたいなって勝手に思っていたけど、この「ターンAカンダム」で、やっぱり「あなた要らないわ」って言われたら、私は歌い手のレベルじゃあないのかもしれないと思って、これでだめだったらほんとにアカンし、でもこれを歌わせてもらえたことだけでも、一生の思い出っていうぐらい、すごく楽しかった、オーディションの日が。(笑)で、本番も結局やらせてもらえることになって歌ってみたら、やっぱりすごく、私、別に自分の曲を歌おうとかじゃなくても、こういう場所に出入りしてたいっていうか、声を使って何かしたり、歌うっていうことで私を必要としてくれる人たちと一緒にいたいんだなっていうのをすごく思って、だから自分の曲が歌いたいということよりも、名前とか出なくても、CMの仕事とかあるなら、そういうのどうしたらやれるのって思い始めたりとかしてたんですよ。で、「ターンAガンダム」のおかげで、メディアにちょっと名前が載ったりとかして、また私が歌ってるのがわかったりすると、「やっぱり自分の曲を歌え」と言ってくれたりする人も出てきて。インディーズでもう一回出す話になっていくんです。
T:次のマキシは?
O:「大樹」ですか。(笑)これは、コテツ&ヤンシーのプロデュースで、ヤンシーがすごい頑張ってやってくれたんです。まあ、びっくりしましたね。あの、自分のできなさ加減に(笑)やっぱりジャンルの違う人とやると、ジャンルの違う人っていうか、リズム感が全然違うっていうか、コテツ&ヤンシーとか多分同世代なのに、っていうか私のほうが年下なのに、なんかね、私、旧世代の人みたいって感じで、それがリズム感から何から、やっぱり洋楽を聞いて育った人たちっていう感じがしたし、でも、私、こっちの音楽やりたかったのに何でこんなにできないの?っていうのがあったりとかして。でもいっぱい勉強させてもらって、マキシシングルつくる間に。髪型で自分がやりたいのと似合うのは、違うよって言われるのと一緒で、やりたいこととできることが違うっていうこともわかったし、いろんなことを学ばせてもらいました。
T:次のアルバム、久しぶりで。
O:結局「大樹」を出したことで、私はまた歌いだしますって言ってしまったんですよね(笑)インターネットで自分のサイトを立ち上げた事もあったし、ここにいますよってお店を広げたら、やっぱりね、ただ広げてるだけでもどうしようもないので、声をかけてもらったらライブとか出たいじゃないですか?「弾き語りからまた始めよう!」みたいな感じでやってたんですけど、「東京百歌っていうイベントに出ませんか?」って、ある日突然メールが来て。それでぜひぜひみたいな感じになって、で、東京百歌のツアーに一回出て。今のマネージャーさんからのメールなんですけど、私のアドレスを教えたのは昔、キャンペーンでお世話になってた人で。この頃は何かにつけ、人のありがたみを感じてました。
T:それから?
O:話が前後しますけど、一回荷物を全部東京から、実家のほうに戻してるんですよ。で、それをまた東京に戻して、「大樹」のマキシも出し終わった後で、それぐらいだったと思うんですけど、荷物を東京に持ってきたっていうところで、母親がガンになっちゃって、その後、半年間ぐらいは行ったり来たりを繰り返してて、東京百歌に出してもらってる間とか、売れっ子タレントみたいだったよ、私。東京に来て、歌って、そのまま実家帰ってって。これから一緒に音楽活動をやろうと言いながらも、そんな感じを繰り返してたんですけど、その間も嫌な顔もせず、皆さんアルバムをつくろうねっていう状況で百歌のスタッフは待っていてくれて。夏に母親が死んじゃって、四十九日も終わってみたいになってから作り出しました。なので、「DENIMUM」の中には、母親のこととか、母親を看病してた間に思ってたこととかと、リリースを休んでいた何年間か、結局結構な年数分の思いのたけが詰まっています。
T:新たなスタート?
O:私にとっては「DENIMUM」からが今の奥井亜紀だと思ってるところがあって。メジャーでやってたときは、あのときはあのときでちゃんとやってたつもりなんですけど、今思うとただただ育ててもらっていたような感じがするんですよ。心の中はもうむちゃくちゃ覚悟がなかったなって思う。口ではいっぱいえらそうなこと言ってたけど、全然。なんかね、鉢巻き締めて「行くぞー!!!」とか言ってるけど、いざ敵がわーっと来たら、「逃げるぞーっ」て、でも逃げきれなかったっていう感じ。(笑)30歳超えてから、今世紀になったのね。私ね、21世紀は見ないと思ってたんですよ、本当に30歳で死ぬと思ってたんですよ。本気で思ってたから、別に自殺するつもりとかそういうことではなくて、30歳以降の自分なんて全然思ってなかったし、小学生のとき、「21世紀の自分」を作文で書いたときにね、「私は死んでます」って書いたぐらい、自分の年老いた姿に、夢も希望もなかったの。それは、本当にお父さんとお母さんには大変申しわけないんですけれども、やっぱり自分の周りにいた大人がろくでもないと思っていたのがあって、こんな大人になりたくないって本気で思ってたんだと思うんですけど。だからなんかね、そこまで生きたっていうことと、その30歳の節目の年に、母親が身代わりみたいに死んじゃったのを目の前で見て、私はやっぱりこの先に残すものを自分でつくりたいと思うんです。死んでいくのをすごい愛情をもって半年間ぐらい一緒に抱えていたから。芽が出るかわからなくても、先にいく何か、未来に向かってのものを、何か確かに持ちたいなっていうのが心にあって。それは私にとっては音楽なのかもしれないなと思って。以前は口では「10年先、20年先」って言っても、やっぱりピンと来てなかった。それがね、脳味噌の構造がね、30歳ぐらいから、物忘れがたしかにひどくなったんですけど、物の切り換え方とか、30歳超えてからすごく楽になったんですよ。確かに今でもネガティブにいっぱい物事を抱え込むし、どうでもいいことをいっぱい考えるんですけど、でもそのどうでもいいことの中にしか私が大事だと思ってることはないんじゃないかって、開き直ることもできるようになったし。私ってだめだって思ったりとか、自分にがっかりすることは日々あるんですけど・・・。いわゆる家事をやったりとか、お友達と会ったりとか、そういう日々の生活を普通にしていたら、私、別に切羽詰まらなくても曲がつくれるっていう安心感がどこかにあって、「どうしよう」って思わないし。確かに期限が迫ってきたりすると、「あ、できない。」と思ったり、ここのメロディーがどうにもならないとか、そういうのはありますよ。レコーディングしてて歌えなかったりとかするのもあるんだけど、なんかね、そういうことではなくて大きい意味で、できなくなるかもしれないとか、だめになっちゃうとかね、そういうふうには全然思わないっていうか。
T:なるほど。
O:うちの家のベランダのところに、クワズイモを栽培してるんですけど、クワズイモの根が腐ってしまって、クワズイモの骸骨化みたいになっちゃって。本当に元気ならイモみたいなんですよ。さつまいもが一個、ずぼって土の中に半分埋まってるのを想像してもらうといいんですけど、で、そのさつまいもの先から緑の葉っぱが出てるんですけど、そのさつまいもの部分が完璧にえぐれちゃってて、腐ってだめなんですよ。で、私何回も、もうこれだめなんだなと思って、捨てようって思うんだけど、一応命あるものだったりするから、そんなゴミ捨てに捨てられなくて、「もしかしたらまた復活するかも。」と思って放ってたりとかして。そしたら、3カ月間ぐらいその骸骨状態のまんまだったのに、ある日突然緑の芽が出て、すごい元気になって。今、がんがん元気。しかも、その骸骨の状態で元気なの。なんか人生こういうこともあるよねっていう、毎日「おまえ、偉いなーっ」てしゃべりかけてるけど、私って、そういう感じっていつも思う。だめなときは確かに骸骨状態にもなるし、多分うんともすんとも言わないし、どうしようもないんですけど、でも大丈夫、お日様があるからっていうか、お日様がお客さんなのか、スタッフの人なのか、それはわからないんですけど、雨の日とかも、そういう日もないと生きていけないし、そういう日々とかね、人生の中で、相当悲しいできことがもう終わったので、この先悲しいこととかって、まあ同じぐらいだろうなと思うと耐えれるっていうのもあって。しかも、その悲しいことで曲をいっぱいつくってるじゃん、私。って思うの。(笑)相当自分に対して「どういう神経の人っ?」て思うんだけど、でも、そういう職業選んじゃったし、うん。それをさらけ出すことが私に与えられたラッキーな仕事なのかなと思うから、うん。
T:じゃあ、「DENIMUM」のアルバムから、流れっていうか、ここ最近まで。アルバムをたどって。
O:「DENIMUM」は、自分の等身大という意味の造語でデニマムってつくったんですよ。マキシマム(最大)とミニマム(最小)と合わせて。デニムをいつも着てたので、当時ね。私ね、ジーンズ姿で歌うっていうのを全然してなかったんですよ。太ってたっていうこともあるんですけど(笑)ジーンズとTシャツみたいな姿でライブとかに出るってあり得なくて。スカート長めで足まで隠してみたいな感じで、あまり動かずに歌っていたんだけど、インディーズになってから、ジーパンとTシャツに近い格好でライブをするようになって、それがすごく嬉しかったんだよね。痩せたこともあって、ジーパンが似合う自分っていうのも嬉しかった。(笑)最近ほんと親バカじゃなくて、自分バカになっちゃったんですけど。で、自分サイズって意味の「DENIMUM」ができた後が、10周年記念アルバムの「COCOROTO」っていうのをつくったんですけど、「ココロト」のもとになっているのは、お母さんがまな板でコンコンってやっていたり、お家がキシキシガタガタいってる音だったりとか、日本人にしかない擬音語、擬態語、「かたかた」、「がたがた」とか「かさかさ」とか、そういうのって、すごく私にとって大事な感覚で。日本人に生まれて、奥井亜紀として生まれて、小さいときから絵本を読んでもらって育って、小さいときから歌を歌って育ってる私にしかない感覚がメロディーや言葉をつくるんだっていうのがあって、ころころころとか、からからからとかそういう音の感じっていうのが、アルバムをつくるときにね、「わー、なんかこれやな。」ていうのがあって。で、心と心がつながってるから、歌が人の心に届いていくんだなっていうのがあったのと、コロコロっていうかわいらしい言葉とを掛けて、「ココロト」っていうのをつくったんですけど。
T:これ、ベスト?
O:ベストというか、私がこの先10年も歌っていきたいし、あと、楽器編成が少ない状態でも歌える歌。あと選曲はスタッフセレクトなのよね。(笑)でも、一応セルフカバーアルバムです。この後につくった「うたの素壱巻」っていう、ギターの宮脇てつやさんと二人だけでつくったアルバムと、すごく選曲が似てるんですけど、ワンマンイベントの「うたの素」っていう、ギターと二人だけのイベントを始めたこともあって、その編成でアルバムをつくろうっていうのでつくったんですけど・・・。「COCOROTO」と同じ曲が入っていたりするのは、ステージで宮脇さんと二人で演奏していたりすると、良くなっていったりするんですよ、レコーディングしたときよりも。(笑)それもあって、「うたの素壱巻」でもう一回聴いてもらおうっていうのもあって。編成は違うので。その次何でしたっけ?
T:サイクロング
O:「うたの素壱巻」を出して、そのすぐ後からもう「cyclong」のレコーディングが始まってて、それ2004年の夏、梅雨ぐらいかな。「COCOROTO」のとき2003年に弥吉淳二さんという若いカミソリギター弾き(笑)にプロデュースしてもらったんですけど。渋いところのカミソリギターの人は?っていうことで、このアルバムで長田進さんが登場するわけですよ。(笑)
T:そういうことですね。
O:これは別に私が長田さんを指名したというよりも、ディレクターさんが、「この人はどうかな?」ていうので、名前が出てきて、びっくりした。「鮫肌男と桃尻女」この映画、まともに見てないのに、サントラのあの最初のイントロダクションの音楽が忘れられなくて、「なんじゃこりゃかっこいい!!!」と思ってて、そこでそれを調べないところが私なんですけど・・・。それをやってた人だっていうことを知ったときはびっくりしましたね。どおりで、「ぎゅいーん」ってやるとき、音が似てるなと思って。(笑)
T:長田さんの最初の印象って、どうだったんですか?
O:インディアンみたいだと思った。だって、なんかしゃべり方もそうだし、私、インディアンの本とか、言い伝えの本とか読むのが好きだから、そういうのに出てくる「鷹を呼ぶ男だと呼ばれた」とか、「イーグルの何とか」とか、まさに長田さんと思って。(笑)長田さんってさ、すっごい疲れたりとかして、みんなね、レコーディングって、だんだん体力がなくなってくるでしょう?私は基本的に冬は寒くてだめだけど、夏もクーラーにやられて、だめなんですよ。で、もうふらふらになってたりとかしたら、長田さんは「疲れちゃったの?こんなに楽しいことしてるのにさ。」みたいな感じで笑って言ってるの。もとの持ってる体力が違うとは思うんだけど、でも長田さんってそういう人なんだなと思って。「こんなに楽しいことしてるだんから、しんどいわけがない。」ていう、それ自分に対する呪文に近いと思うんですよ。だって、あの人むちゃくちゃ働いてるから、しんどくないわけないから。「おれは疲れ知らず」って言ってるのを見て、「あ、そうだな。」と思って。一生のうちにこうやってこの時間を使えることは今しかないんだから、死ぬ気で頑張って、頑張ろうじゃなくて、死ぬ気で楽しみたいって、そのときすごく思って。確かにふらふらなんですけど、もっと楽しくしなくちゃいけない、「楽しくていいんだ」と思った。しんどいときはしんどいって寝ててもいいし、歌えないときは歌えないって言って、今日はお休みって言ってもかまわないんだし、もっと楽しくやるために音楽をやりたいって。もっと楽しく物事が動くように、何で私はできないんだろうと思って。だって、しんどいと思ったら、「だめだわ、こんなことじゃ!」みたいな。何で私そっちにいくんだろうと思った。「しんどいから3時間、悪いけど休憩」って言って、そんなふうに言ったことはないけど(笑)そんなことを言えたりとかできればいいのにって。だってこんな楽しいことをやってるんだから、楽しい状態でやったほうがいいに決まってるっていうのをね、思った。長田さんの姿勢がいつもいいお手本っていうか、とってもいい背中を見せてもらったっていう感じがする。「お父さんの背中を見て育て」みたいな。(笑)
T:アルバムの内容的には?
O:アルバムは長田さんが集めたミュージシャンの人たちがいて、その人たちがみんなが、すごい楽しんでやってくれてて、その人たちとも私は初めましてで、聞いたことあるけど、ちゃんと知らなかった人たちだったのね。なんか、同世代に近い同い年ぐらいのミュージシャンの人たちって知らなかったのね。great3とか名前聞いたことあるけど、見たことないなって感じで。(笑)高桑君がいたりとかして。で、なんかああいう同じぐらいの年の人たちが出す音が、長田さんが描いているものをつくろうとする感じとかが、なんかね、大学を思い出したっていうか、みんなで一緒に何かをつくろうとしてる、学園祭のときの雰囲気とか思い出したし、「なんか、いいな、いいな」って。私も歌じゃなくて、楽器ができればいいのにってすごく思った。ギターも弾きたいと、あのとき思ったのよね。別に長田さんみたいにうまくなれるところまでやりたいとかじゃなくて、もっと音楽を楽に楽しくやればいいのにって、自分に思った。やっぱり全部をね、歌みたいにやりたいって思うのよね。でもそうじゃなくて、これ面白い音がするよねっていって鳴らしてみたりとか。「レスキュー」って曲のときに、長田さんが、ハープのソロを入れるところがあって、「亜紀ちゃん何かやる?」て言うから、「別に今、コーラスとかは思いつかないんですけど。」って返事したら、「じゃあ俺が入れちゃうよっ、入れたもん勝ちだからね」って言われたときに、ああ、なるほどって思って。なんか、その感じが、私には全然なかったなって。このアルバムは、私にとっては、「DENIMUM」から連なってなんですけど、やりたい方角が定まった感じで、そして私にはまた課題ができたんですよ。何でこれができなかったんだっていう曲が一曲あって。
T:それの曲は何ですか。
O:まさに「レスキュー」なんですけど、今は、ライブで自分で思い描いてるものも近くできるようになったんですけどね。レコーディングのときは全然わからなくて。ライブで何回もやってて、やっとリズムとかがわかってきたり、リズムに乗りながらわざと乗り外れて歌う感じとか。やっぱり私って感情を込めて歌いすぎなんだなとか。あとね、この時期に、これがどこがいいの?て思うものが、みんなにとっては良いっていうことに気づいた。例えば私が小さいときから当たり前に食べてる食べ物が、みんなにとってものすごく変わった食べ物で、実はすごくおいしいものだったっていうのに気づいた感じっていうか。それを「cyclong」をつくり終わってからわかった気がした。
T:で、新しい。
O:「トキノマニ」。ミニアルバムの「pp(ピアニシモ)」があって、「トキノマニ」というフルアルバムなんですけど、「pp」も「トキノマニ」も同時に去年の夏からレコーディングしてたので、やっと出たって感じです。ライブで「新曲です」って「うたの素」とか、他のイベントで歌ったりとかしてたのが、音源になった感じなので、新曲状態から1年間以内に作品になりました。なので、なんか、ちょっとずつ出来上がっていってたっていうか、無理なくつくったというか、レコーディングは過密になったりはしましたけど、でも、曲をつくることに関しては、レコーディングするときは出来上がってたし、今回「トキノマニ」用に2曲つくったんですけど、それも、「ちゃちゃちゃ」ってつくれちゃった。(笑)だから、楽しかった、曲づくり。しかもね、ギターでつくった曲が2曲も入ってるっていうのは、これは私にとってはものすごい快挙なんです。「cyclong」の時にね、長田さんのギターを触らせてもらって、長田さんいいギター持ってるんですよ。アコギとか私が弾いてもいい音になるようなギターが。(笑)弾いてると指が痛いからもういややと思っていたところもあったんだけど、こんないい音になるかもしれないんだったら、ちょっと頑張ってギターやろうって。私ね、2年前の10周年の年に、父親にもらってたんですよ、ギターを。私は、時々眺めるけど、コードとかわからないし、しまってたんですけど。でも、一応、父親に弾いてるところを見せてあげたいなっていうのもあったりして、密かにやりたいなって思ってたんだけど、でもコードをとにかく覚えれない。しかも決まってることやらされるのが全然だめだから、もう無理よね。私って習っていたピアノでさえも、曲をつくるために使うものとか、道具に近いものの感覚があるから、演奏をして、きれいに聴かせたいとか別に思ってなかったりするので(笑)ギターもとくに何かの曲が弾きたい、とかないわけですよ。だから、ギターで曲がつくれないなら弾く意味がないと思ってて。ところが、2005年1月の新年会で、お友達の家に招かれて、で、オープンチューニングっていう素敵なものを教わって、指一本で弾けるという・・・。そんな素敵なことがあるならって、それから練習を始めて、夏ぐらいには、一曲できて、ライブのときにみんなの前で初披露とかして調子に乗っちゃって。でも、オープンチューニングのままだと、気づいたら弾き方忘れてるんですよ。オープンチューニングなだけに、だれに聞いてもそんなの自分で考えてる弾き方だから自分で思い出しなさいとか言われて、「だめだこりゃ」と思ってね。普通のチューニングでも何かつくらなくちゃと思って、2作目は普通のチューニングでつくりました。(笑)なので、なんかすごく楽しいし嬉しい。うん。「こんなのやってみて、これができた!」とか、そんな感じでやれて。で、私にオープンチューニングを教えてくれた、ギターの師匠がいるんですけど、オオニシユウスケ君っていう・・・。そのオオニシユウスケ君が、結局私がオープンチューニングでつくった曲のギターをレコーディングで弾いてるんですよ。「トキノマニ」で。
T:ニューアルバムは?
O:「トキノマニ」は1月27日に出ました。
T:最近、CDだけじゃなくて、iTuneとかネット配信等も当たり前の時代ですが。
O:配信は「pp」からやることになって、iTuneのストアに出るっていう日に、どきどきしながら見てみたら、今回のリリースみたいなコーナーで、J-POPのところを押したら、上の動くところに出てて、「あーっ、すっごーい」と思った。どきどきするよね。なんだろ、やっぱりレコードで出したいと思ってたのに、気づいたらCDになってて、レコードで出せなくて、いつのまにかCDシングルもなくなってたりとかして、私的には時代の流れにいつも、こう、いつのまにか知らない間にっていう感じで、時代の流れに置いていかれてるのが、今回やっと、配信、ちょっと早めなうちにできたりとかして、自分と同じ速度で目の前で現実になってるっていうのは、すごく新鮮だった。みんな大事なCDを手元に持っておく感覚がなくなっていくっていうけど、私は、特に、私の音楽を好きな人は、きっとCD大事にするタイプなんじゃないかなっていうのがあって。あとは歌詞を読んで欲しかったりするから、歌詞が知りたければジャケットが欲しいって思うなと思ってます。「今は歌詞はダウンロードできるよ」って言われて、「そうなんや?!」と思ってんだけど。(笑)あとは、世界中の人が、もしかしたら見て聴いてくれるかもしれないっていうのは、それはすごく嬉しいなと思いますね。一番最初の「銀のスプーンで」のときに、ユーミンのリリースとタイミングが同じだったんですよ。彼女のポスターと私の「銀のスプーンで」のポスターが並んでたんですよ、仙台で。私、それみたときに、「あ、こういうことなんだ、デビューするって。」って思ったんですよね。そう思うとね、i
Tuneってもっと幅広いわけじゃないですか。別にだれもそう思って見てないよって言われたとしても、同じ枠組みの中にいるっていうことが、すごいことっていうのがCD出せる当人にしかわからないこと、ラッキーって思う。よかった、この仕事しててって。(笑)だって、マドンナと一緒に買ってくれるかもしれない、とか思うだけで、すごいなって、単純に思うから、うん。
T:で、2006年、またライブが幾つか。
O:そうですね。とにかくライブがね、すごい楽しみっていうか、私、ライブやってるときに気づいたんですけど、日常生活のほうが夢の中だなっていう感じがすごくするんです。11月にワンマンライブをやったときも、バンドで編成で12周年記念みたいな感じでやったんですけど、ああ、なんか、私ここを生きてるために残りの生活やってるなっていう感じ。昔はどっちかというとライブが特別で、ライブが夢の中みたいな、夢のようだったからお化粧もとったら夢が覚めると思ってたけど・・・。最近、逆だなっていうか。だからね、確かにあれ欲しい、これ欲しいとか日常生活では思うし、あれ食べたい、これ食べたいも思うけど、なんかね、どんどんそういう欲求が減っていってるっていうか、どっちでもいいかなっていうか。そういう意味では、もっともっといっぱい歌の世界のほうが、いっぱいになったらいいなと思って、そっちがもっと現実になったらいいなって。あの人日常は全然だめだねって言われるぐらいになりたいっていうか。「かすみ食って生きてるの?」て言われるような感じになったらいいなと思って。それはこの間のライブをしたときに思った。
T:最後に、ファンの方々に対して、メッセージを。
O:そうだな。私、30歳からきっと生まれ変わってるので、今年5歳になるのかな。(笑)なので、5歳ぐらい、5歳って言ったら、私がピアノはじめた年ですよね。幼いころの1年間ってすごく内容が濃いような気がするのね。いっぱい成長するし。で、30歳超えたら成長もしないかもっていう感じもするんだけど、「私はする」って信じて日々生きようと思ってるので、余り見た目とかは変わらないかもしれないけど、それが作品とかに現れるかもしれないので、温かく見守っていただければなと思います。あとは昔から奥井亜紀を聞いてくれてる人たちとは、一緒に年を取れてることがすごくうれしい。昔はそんなにこの曲好きじゃなかったなっていう曲とかが、今になって好きになってきたとか、思ってもらえたりとかしたら最高だし、そう思ってくれたときに、例えばその人に子どもができていたりとかして、「お父さんこれ好きだったんだよ、お母さんこれ好きだったよ」で、「この人どうしてんの?」「あー、今何してるんだろうね?」って言われるのはやっぱりつらいなと思うので、いつでも望めば観にきてもらえる状態っていうのを、これから先もつくっていけたらなと思うので、何をっていうわけじゃないんですけど、健康管理に気をつけて歌っていけたらなっていうのは思います。はい。
T:以上です。ありがとうございました。これからの活動を楽しみにしています。
O:ありがとうございました。
- end-
インフォメーション |
奥井亜紀さんの詳しいインフォメーションは、オフィシャルHP(http://www.okuiaki.com)まで。 |