本当最近になって自分の事がやれるように。自分のものが
ちゃんと発表する事が出来て。そしたらそれが当たり前の自分で。
TERA(T):それでは宜しくお願いします。まず生まれから教えて下さい。
NISHIMOTO(N):1957年。厳密には東京で生まれで、後は千葉の大網っていう凄い田舎町に、1才から高校ぐらいまでですかね。殆どそこに。
T:大網ってどの辺りですか?
N:千葉県があって、九十九里海岸のちょっとまん中ぐらいかな?海岸から直線で10キロぐらいの。外房線が下りてきて、曲がり角くらいの所で、上に行くと成東とか成東高校とかの分岐点にあるところ。高校を出るまでそこに。
T:小さい頃はどんな遊びをしていましたか?小学生の時とか。
N:僕は、末っ子だったし、両親が共働きだったんで、本当に一人で遊んでいる事が多かったみたいですね。ちっちゃい頃は。お袋は自分の家で商売をやっていたし、親父は東京の方に仕事行って。兄弟は皆もう上なんで、自分は一人で家に帰ってきて、独り遊びが多かったんじゃないかな。後は子供の頃、向いの肉屋の息子と引っかき合いの喧嘩をしてきたりとか。田舎ですから自転車に乗ってちょっと行けば山で。又、海岸までも行けたし。山に行ってこう何か石切場とかで、高い壁から飛び下りて、何とかごっことかそんな様な事してたのかな。
T:海もあり山もありで、両方の遊びを楽しめたと。
N:そうですね。海は子供の足だとちょっと遠いかも知れないけど、中学生位になったら、夏休みとかは自転車で海まで行ってました。
T:中学時代に音楽に触れていた事はありましたか?
N:家の姉が、その当時としては凄くませていたというか、その姉がギターを持っていて。田舎町にしては珍しく。姉のギターを兄が真似をして持って、その頃フォークブームでバンドをやってて、そういう兄の仲間達に影響されたんですよね。自分もギターを見よう見まねに弾いて。あと学校で吹奏楽部の先生から可愛がられていたから、色々な楽器をやったりして。でピアノとか。学校の先生にバイエルの簡単な譜面を渡されて「これちょっと弾いてご覧なさい」って言われて。僕は吹奏楽部でトランペットを吹いていたんで、譜面は読めたんで、左手で「ドミソ、ドミソ」って1日かけて弾けるようになって。はじめて鍵盤で弾ける曲だったんですよ。それから「あっこれってもしかして、兄貴がギターで弾いている曲を移し変えて、それで自分がトランペットとかで吹いているようなメロディみたいな要領で譜面を読んでやったら、もしかしてピアノのバッキング、ビートルズの『レットイットビー』みたいなのが弾けるかな?」とか新譜ジャーナルとかあの頃の譜面を見て弾けるようになって。それで兄貴のバンドで「お前来て、ピアノ弾け」とか言われて。
T:それはもう高校の頃?
N:高校の頃ですね、きっとバンドやるようになったのは。いわゆるニューミュージックが出来上がる頃のフォークとか。
T:高校の時は、どんな音楽を聴いていましたか?
N:田舎の少年だから、やっぱり日本の音楽ですね。荒井由美さんとかオフコースとか。洋楽っていっても、そんなに。サイモンとガーファンクルとか、ちょっとシャレた子はCCRとかアメリカの音楽とかイーグルズだとか。もっと硬派な人はツェッペリンだとかディープパープルとか。そんな時代ですよね。でもハードロックとかは難しいなと思ってたタイプなんで、仲間の連中はいっぱい好きな人はいたけど、あんまり参加しなかったんですよね。ちょっとソフティ系というか、分かりやすい音楽が好きだったんで。オフコースのコピーとかしてたりとか。
T:なるほど。それで最初に使っていた楽器は、ギターですか?それともトランペット?
N:どこまでさかのぼっていいのか。小学生の時、ギターを触って。中学生でトランペット。高校に行ってコントラバスを弾く事になって。その頃バンドでベースをやったり、中学の頃弾きだしたキーボードをやったり、ギターでバンドをやったり、とか。
T:割と何でも演れたんですね。
N:そうですね。結構便利なミュージシャンだったと思いますけどね。
T:そのバンドで、ライブとかお披露目はあったんですか?
N:当時ポプコンに出たり。高校を出る頃には色んな千葉の市川とか東京のライブハウスに出るようになって。色んな仲間が出来たのでライブハウスを回ったりとか。
T:高校を出てからは?
N:高校を出てからは、市川で友達と一緒に住んでて。板倉さんって、浜田省吾さんのバンドのキーボードの人で。今はユニットでやられていると思うんですけど。その人と何年間か2人で住んでいたんですよ。
T:板倉さんとは、どこで知り合ったんですか?
N:高校を出て、色んなライブハウスとか出てる内に、いつの間にか知り合って、いつの間にかに気が合って、彼の家に遊びに行ったりしてて。でも色んな人が入り乱れていて、よく憶えてはいないんですけど。彼が「友達が出ちゃうんで、(6畳一間に二段ベッドで)2人で住まないか?」って言って。それで彼が色んな仕事を紹介してくれたりして。
T:じゃあ、高校を出た時は、既にミュージシャンになろうと思っていたんですか?
N:そうですね。高校3年の頃には、自分は音楽で食っていこうという決心だけは固まっていて。
T:反対とかはされなかったんですか?
N:親は一応「まあ、やるだけはやってみろ」って感じで。末っ子ですから。上はひと通り進路も決まってるし、僕は「音楽だったらそういう大学に行かせて欲しい」と。でもまあ音楽大学もそこから始めて突然に入れるもんじゃないし。実は大学を一浪してる時に、もう何浪しても入れないと思ったんで、辞めちゃったんですけどね。それでアルバイトとかやって、その時に行く気がないから家を出たんです。それで板倉さんと一緒に住むように。それまでは親は応援してくれてたんですけども、出ちゃったんで。自分で好きにするからと。お袋にはしばらくスネをかじってましたけど。
T:その板倉さんと一緒に色んな活動をして、バンドとかは組んでいたりしたんですか?
N:流れ流れて色んな事をやって、自分の事を発表するって本当にやってなかったんですね。高校を出てプロになるまでの間にやってたバンドが、CSNY、クロスビースティルナッシュ&ヤングとかをコピーしたりしてたりするバンドをやってて。それが浜田さんのバンドのベースの井沢くんとかと一緒にやったバンドで。そのぐらいですかね。
T:お仕事としてのはじめての活動は?
N:板倉君に紹介されて「甲斐バンドのツアーにツインキーボードで参加しないか?」っていう話が、最初だったような気がします。あと竹内まりあさんとか。でも多分、甲斐バンドのツアーが最初のちゃんとしたプロのステージをしてギャラをもらった仕事だったと思います。80年に入って、22才位の頃だと思います。
T:はじめてのツアーは、どうでしたか?
N:もうそれは。当時甲斐バンドは、もうちゃんとしたメジャーなバンドで動員数もあって、日本中何十ケ所ってツアーをやっていて。とてもびっくりしましたけどね。新幹線で移動してコンサート会場に行って、コンサートやって終わったらみんなでドンチャン騒ぎして、また次の会場に行ってっていう「ああ、こんな暮しがあるんだ」と思って。ちゃんとホテルに泊めてもらって、飯も食わせてもらえるし、凄いなと。
T:その甲斐バンドのツアーの後はどういう流れに?
N:あまり詳しくは憶えていないんですけど、浜田省吾さんのバンドに誘われて。1ツアーぐらい回って。そうこうしている内に、伊藤銀次さんと知り合って、佐野元春さんのレコーディングに顔を出すようになって、それでそのバンドも僕はやりたいなって思って。それと平行してベースをやってた江沢くんがきっかけで後藤次利さんのバンドのオーディションを受けたんです。それで後藤さんとしばらく。そのバンド『GOTO'S
TEAM』でアルバムを作って、後藤さんのアレンジしたスタジオでいわゆるスタジオミュージシャンとして、その頃はじめてレコーディングを。ツアーはツアーミュージシャンとして出て。
T:佐野元春さんとは?
N:2ndですかね。1stアルバムを作っている時に、板倉君が参加してて、それも銀次さんの関係だったんですけど。僕は板倉君と一緒に住んでたんで「面白い人がいるから」と言われて見に行って。見てて「この人は面白いな」って僕は思ったんです。みんな多分そう思うと思うんですけど、とても佐野元春という人に興味を持って「この人に近づいてみたいな?」と。何だかんだして用がなくても出入りするようになって、自分で積極的に。それで仲良くなって。何かの時に「この曲弾いてみる?」って、レコーディングに参加させてもらえた。
T:レコーディングに参加してどうでしたか?
N:この頃はもう自分も若いながらも「スタジオミュージシャンだ」っていうプライドを持ち出してて「佐野君以外にも、沢山スタジオでプレイしているんだから」みたいなプライドでやってたと思うんです。妙なね。でも自分の持ってるスタイルが出せる人だなって思ったんです。レコーディングやって自分が好きな音楽で自分が思った通り弾いて「絶対に合う!」って勝手に自分で思ってたんですけど。『ハートビート』とか『ナイトライフ』とか、自分の好きなピアノのスタイルで。「そのまま弾いてて合うんだ」って思ったんです。
T:それで、ツアーにも出るんですよね。
N:そうですね。ただその頃、僕はスタジオミュージシャンとしての自分の活動の方に興味があったんで、スタジオプレイヤーとしてのスタジオでの作業がすごい好きだったので、人前で弾く事よりも本当に生意気ながら。あるところ変で。「ツアーは基本的にやりたくない」と。「そういうミュージシャンです」って宣言しちゃったんですよ。なので佐野さんのツアーに入るまで、しばらく期間があったと思うんです。レコーディングしてから。自分でアレンジとかをし始めて、そっちの方に興味が向いてて。
T:佐野さんとのツアーは、3rdアルバム『SOMEDAY』の後くらいですか?
N:そうだと思います。『SOMEDAY』を録ったあたりかな?アルバム『SOMEDAY』の頃は自分はスタジオミュージシャンだというつもりで。僕の尊敬するアレンジャーの大村(雅朗)さんがやられているんで。
T:大村(雅朗)さんは、大きな存在ですか?
N:今となってはそうですね。この後、大村さんの仕事はどっぷりと。大村さんのスタジオワークにはとても自分は影響を受けたと思う。
T:この後、色々なアーティストのレコーディングに参加されていくんですね。
N:本当に覚えられないくらい色んな人と。それで佐野君の『ビジターズ』の前ぐらいに、尾崎君のアルバムとかをアレンジさせてもらうように。そういう流れに。
T:尾崎さんとは、1st『十七歳の地図』ですね。そのきっかけは?
N:そうです。それは浜田さんのプロデューサーである須藤晃さんからで。須藤さんの方から「西本にやらせてみよう」って。当時ギターの町支君とほぼ半分ずつ作ったんです。
T:当時、尾崎さんの印象は?
N:うーん。強い印象はなかったですね。ただ須藤さんがおっしゃるには「本当に詞が沢山ある人だ」と。でまだまだ沢山あるんだと。そういうのを聞かされて、デモテープも聴いて、それはアコギ一本でやってたりとか、まだ原石みたいな状態で、とにかく歌いたい事がいっぱいある人なんだなっていうのはわかって。そんな中で「じゃ思いきってアレンジさせてもらおう」と思って、自分のセッションしてた仲間と、実験的なアレンジをさせてもらって。
T:1stのタイトル曲の『十七歳の地図』は?
N:あれは僕がやっています。あの曲は佐野さんの影響もあって。自分の中のものと彼がやりたいロックみたいなものの両方かな。
T:あと『I love you』のはじまりは、ピアノですね。
N:あれは、何でそうしたのか今でも思えば変わった曲の構成なんだなって思う。自分の好きだった音楽のスタイルで、この曲のイントロを付けて、こうやって始まって、当時の周りにあった「はい!始まります」とか「聴いて」みたいな音楽にはしたくなかった。自然に始まって、伴奏を付けたくなった所で、ドラムが入ってきてみたいな。そういうのがやりたかった。それはすごく出来たって感じはした。ここまで普通にピアノでこのくらい盛り上がったら、みんなでバッと入ればいいみたいな。そういう自然な流れのアレンジって当時なかったと思うんですよ。自分の中でそういう意識だったんで、それはやらせてもらえた。
T:初のアレンジの仕事として、完成後、何か思った事は?
N:そうですね。「自分の中でやりたいものをやって、ちゃんと認めてもらえるのかも知れない。楽しい事が出来たぞ」って。ただでも正直いうとしばらく結果は出なくて。最初売れなかったんですね。そんなに。その時は「どうせわかんないのかな?」と。うだった考えなんですけど「自分が一番フィットした一番楽しいものをやったのに、売れないな」ってのはあって。あとは尾崎君が自分の力でツアーやって楽曲を広げて。徐々に売れてきて。それは嬉しかったですね。時間が経ってもちゃんと売れ続けていくっていうのは自信になった。
T:尾崎さんのツアーには参加されていないんですね。
N:そうですね。例の宣言の流れもあって僕は尾崎君のツアーも「ツアーはやらないんです」って。本当にスタジオで、こうやってちょうほうがられている中で生きていきたいと思ってたんで。
T:でも、その後、NYから戻ってきた佐野さんの『ビジターズ』のツアーには参加されていましたよね。
N:やってますね。「ロックンロールナイトツアー」にも参加して。それまでライブも見に行ってて、すごい好きで。何か自分としては感じるものがあって。特別のものがあって。最初に観た時から「自分のスタイルで出来る人かも知れない」と。彼に帽子を脱いだ瞬間があって。「もうわかった!この人と一緒にやっていこう!」と思った。そういう瞬間があって。実はあのツアーの最中に「これは特別なバンドなんだ」と認識しまして「THE
HEARTLAND」というバンドっていうのは。これは自分のスタイルの例外で「僕は佐野さんのツアーは、やります!」っていうことにしたんですよ。何か特別なものを感じて。この人について行こうって。何か一緒に出来るなって。何かやらせてもらえるなって思って。
T:「THE HEARTLAND」って、西本さんにとってはどんな存在なんですか?
N:仲間ですね。家族みたいなもんだったんで。それはでもツアーの時に感じて、ダディの事を「おとう」って呼んだりして。「みんな一つの釜の飯を食ってる家族なんだな」っていう意識があって。これは僕のやってるスタジオワークとかアレンジャーですっていう顔とは違う自分なんだっていう風に勝手に思っていたというか。そういう意識で。
T:「ロックンロールナイトツアー」と比べて「ビジターズツアー」は、当時とても衝撃的なツアーの印象でしたね。アルバムが当時、とても先をいってて。
N:そういう意味では、アルバム『ビジターズ』は、ショックな出来事ですよね。バンドとしては「やってくれたな!」って感じで「アーティストとして素晴らしい!日本人としてやってくれたね!」っみたいな、大絶賛してた。自分で行きたい所に行って、本当にやりたい人とやってきたんだから、素晴らしいと思いました。自分のやりたい人と直接交渉して、自分の曲を作りたいように、しかもちゃんといいものが出来て帰って来て凄いと思いました。
T:その「ビジターズツアー」はどうでしたか?
N:大変でした!めちゃくちゃ大変でした。あれを再現するんだっていうプレッシャーもあって、ニューヨークのトップミュージシャン達がやった事を僕らがやんなきゃいけない、とてもプレッシャーありましたね。でも楽曲の完成度高いし、めちゃくちゃ楽しかったですけどね。どこまで佐野さんが満足してくれたのかはわかんないけれども、すごく楽しかったです。自分達も「それだけのクオリティ作った人とやっているんだ。その人のツアーをやっているんだ」って部分でも楽しかったし。ただその頃から「彼のやりたい事は、バンドだけでは再現出来ないのかな?」っていうのがあって。その後『カフェボヘミア』とかで彼の本当の音楽の広さが見えてきて。これは自分だけじゃカバー出来ないかも知れないとも。色んな所があるのかな?って思って。
T:僕から観て『カフェボヘミア』の頃は「THE HEARTLAND」の成熟期とも思うのですが。
N:そうですね。バンドとしては成熟して、ライブとしてもとても楽しかった。充実していた。ただ、自分は「これは自分じゃなきゃいけないんだろうか?」って思い出してました。その頃。多分それでか自分は一時距離をおいて。「彼の行きたいところは僕のカバーしてるところと、ちょっとズレてるかな」と思い出して。自分も今で言うアレンジャー、プロデューサーみたいな仕事がメインになってきたんで、そっちは自分は自分の思い通りの事が出来る。そういう仕事の場があって何となく「佐野さんは自分じゃなくってもいいのかな?」って思い始めちゃったんです。それで距離をおいたっていう。
T:その頃、アレンジャー、プロデューサーとして活動のフィールドをかなり広げていくと思うんですが、いろいろやりつつも、また「THE
HEARTLAND」に戻って来ますよね。
N:僕は佐野さんを決して嫌いではない。そう。離れてみれば良かった部分が良く見えて来る。そうなんです。やっぱりこれは自分がとてもやりたい数少ない人なんじゃないかって。当時「自分がやれる、関われる人の中でも上質な事が出来る仕事の現場なんだ」と思って。そう認識が新たにあったっていうんですかね。自分のバンドマンとしてのやりようだけで、最初くっついてやって、それで一旦離れて、音楽ビジネスの中で色々やってきて、その現場からみても「この人は凄いんだな」って。「どうして距離をおいているんだろう?」と思った。「やっぱり一緒に仕事を出来るんだったらしたいな?」って。
T:他に何か決定的な動機はあったんですか?
N:横浜スタジアム。外から観に行って。その時に楽屋にいったりして「明、お前いいなあ」って、みんなに言われて。「『佐野元春 WITH THE
HEARTLAND』を外から観れるのはいないんだ」って。そのコンサートで佐野さんがMCで「明君、いつでも戻ってきてくれていいんだよ!」って言ってくれたのを、良く憶えている。それも自分の中では大きな動機でもあったんです。こう、呼び掛けてくれたのが、すごく嬉しくって。
T:明さんが今、ターニングポイントを考えた時、それは何ですか?
N:自分の今までの中でのターニングポイントっていうのは、あの話最初に戻っちゃうんだけど、板倉さんに逢って一緒に住んだ事。甲斐バンドに知り合えた事。浜田省吾さんに会えた事。次利さんに会えた事。そして、佐野さんのバンドに参加出来た事。尾崎君のレコーディングでアレンジャーとしてキャリアステップアップ出来た事。そしてまた、佐野さんを離れて自分の中で自分はアレンジャーだっていう意識で、音楽ビジネスの中で生きてきた。そしてまた戻った。そして尾崎君のツアーに参加する。尾崎君が亡くなっちゃった。美里のツアーやったり。それらの中で、ドンドン自分の思い通りにできるようになってきて、ドンドンわがままになっていったっていうか。何で人の為に弾くんだろうって思うようになっていったんですけど。
T:それはソロとか、個人的な作品を生み出そうとする意識からなのですか?
N:そういう風にいければ良かった。もっと早くにしてれば良かったと今は思いますけどね。人のバッキングが好きでバッキングの仕事ばかりやってて、ただ自分が物すごくわがままになってて「怪獣」みたいな存在っていうか妙な力を持ってて。で、人の言う事聞かなくなって。自分の仕事は自分のもので、自分の思い通りに出来ないとイヤだって、どんどんそうなって行ったんですよ。
T:それが一番大きくなってしまったのは、いつ頃なんですか?
N:それは90年後半あたりかな?その頃は自分でも手に負えない感じですね。
T:周りの友人達から言われたりとか、何か影響あったんですか?
N:それは今だから気づくみたいなね。その頃にちょうど佐野さんのツアーから僕はまた抜けたんですよ。たしか「HOBO-KING BAND」の純粋に彼等だけのバンドになって。「THE
HEARTLAND」が解散して、その頃から自分が自分の事をやっていればよかったのに、コラボレーションする事にだんだん苦痛になってきて、人のバックで弾くのがだんだん苦痛になってきたのはあった。まあだんだん熱心じゃなくなってしまったっていうか何とも難しいですね。今改めて自分の中できちんと把握してないんで。
T:でもそれでも、明さんとしてはやりたい事はある訳ですよね。
N:それが、かなり見えなくなっていましたね。「自分のやりたい事はなんだろう?」みたいな時期になっちゃいました。自分のやりたい事をやれば良かったのに。それが自分のビジネスのシステムの中に本当に無くて。それでもやれば良かったんですけどね。システムとしてはもう凄い完成されててマネージメントもちゃんと完璧にケアされてて、それで仕事を進めていけば、完璧にビジネスとしてなりたっていく。だけど自分のやりたい事をやる場所を作れなかったんですよね。そういう訳で自分のやりたい事がどんどんと解らなくなってきて。新しい音楽にもどんどん興味がなくなって。新しい音楽というか音楽自体があまり好きではなくなってっちゃった。事務的に新しいものは聴かなきゃいけないし、聴いてはいたけど、何か音楽が楽しくなくなっちゃったなって。プレイしてても自分の為に音楽する時間が本当に無くて。
T:それは、仕事としてのみの音楽になったという?
N:仕事としてしか音楽をしなくなっちゃったのかも知れない。自分がピアノを弾く時「ハッ?どう弾くんだったかな?」って感じですよね。「自分で楽しむのってどうするんだっけ」って。ちょっと極端な言い方ですけど。それに近いような状態になったような。「ただ自分も何とか抜け出したいけど、今の状況じゃ何にも出来ないな、自分の事できないな、どうしよう」みたいな。
T:そこから、自分が本当に楽しむ為の音楽をやろうというきっかけみたいな出来事はあったんですか?
N:自分の仕事のエリアがどんどん狭まってきて、相手にされなくなって来るっていうんですか。自分は孤立していくし。そうして行く内にマネージャーともトラブったりして、自分がもう自分の事やるしかないんだっていうか。たまたまこのアルバム作るにあたって、プロデュースしてくれたトミーが声をかけてくれて「HOBO-KING
BAND」のKYONさんとライブをしてみないか?っていう話をくれて。その辺りからですかね。プロになってから小さいライブなんてやった事がなくて、そういう事は自分はしないんだって思ってたし。ライブをやっている内に「自分って、音楽って、こういう事だよね」って、もう一回最初から思い出させてもらって、人と接してセッションやって、対バンとか色々一緒にやる人がいて、お互いに批判したり、ぶつかったり、「いいね」って気があったり。そんな事から自分の事やっていけばいいのかなって。自分の曲やってうまくいったら、お客さんが聴いてくれるし、うまくいかなきゃ途中で席立っちゃうし。
T:そのライブを始めたのはいつ頃ですか?
N:これは4年ぐらいになりますかね。98年くらいからかな。
T:その頃から、また正直に音楽が明さんの中で鳴り始めたというか。
N:そうですね。自分の曲を自分で弾いて、当然自分でしかない、人の為にやっている訳じゃない、自分の事を人に聴いてもらって、それが良ければ、また聴いてくれる。そしたら、本当最近になって自分の事がやれるように。自分のものがちゃんと発表する事が出来て。そしたらそれが当たり前の自分で。そしたら人とコラボレートできるようになった。「自分はこうだけど、一緒にやります」っていうスタンスが取れるようになって、そしたらどんどんと人との関わりが楽しくなって来て。
1st
ソロアルバム『WISH』について
T:それでは、1stソロアルバム『WISH』の話ですが。このアルバムを作るきっかけを教えて下さい。
N:そんなに劇的な事はなくて。ローディーとかもやってくれているトミーが「ピアノマンライブ」っていうツアーを全部コーディネートしてくれて、企画してくれて、全てのケアを。彼がたまたま、ミディレーベルの社長の大倉さんに、彼がたまたま酒をのんだ時に「西本さんのアルバムを出してみたいんですけど」と思いきって言ってくれたのがきっかけだったんです。僕はあんまり話した事もなかったんですけど、まあ面識だけは。「じゃあ作った事ないんだ」「実はないんです」っていう。それからトントン拍子で。
T:収録されている曲は、どういう風に作られて行ったんですか?
N:ほとんど20年前からのストックです。本当に古い曲ばかりで。20代前半に作った曲が多いですね。
T:そうすると、ストックとしてかなり前から、曲を溜めていたんですか?
N:自分の好きなように弾いて、何となく曲になったもの。それが残ってた。それを「いつか発表してやる」とは思ってたんですけど、形になるほど分量もないし。自分が曲を提供出来るような人間じゃないと思ってたし。そういうの20代から作ってた。本当にフラフラと弾いてて形になった。作ろうと思って作ったものじゃないんです。
T:アルバムを作るにあたって、20年前の音源を聴き返してみて何か想う事ありましたか?
N:自分で気に入ったフレーズは弾いていたんですよね。楽しく無かった頃もたまに弾いていたと思うんですけど。そういう曲はまずまっ先に入れようと思って、ライブでも弾いて。で、アルバムを作れる事になって、「他にも曲を作ってたかなあ」って自分でカセットを引っ張り出してきて、22,23才の頃の曲を聴いて、「結構いけるじゃん」なんて。その頃のスタイルはとても古いスタイルだけど。「20いくつでも良く作ったね」って自分でも思ったりしてね(笑)。すいませんね。自分で自分を誉めてあれなんだけど、そういうのもあって。「ああこんな事も出来たんだ」っていうのもあって。あとはちょっとずつ、興味を持って色んな音楽に影響を受けた10年ぐらい前の曲、5,6年前の曲とか。本当にプロになってから、ストックしてきた曲ばっかりですね。まだいっぱいあって本当は。またすぐにアルバム何枚かは作れるぐらいのストックはあって。作りたいんですよ、すぐにも。
↑↓アルバム「WISH」より(クリックすると拡大します)
T:タイトル曲の『WISH』をアルバム名に選んだ理由は?
N:『WISH』というタイトルが「希望」みたいな。この先開けて行く自分が「今まで煮詰まっていた自分が、ココ行けばいいんだ」っていう時期だったんで、それもあって『WISH』というタイトルになった。『LIFE』とかも考えたんだけど、『LIFE』だとちょっと重いんじゃないかなって、希望のある『WISH』の方がいいって思って。
T:ここから、アルバム『WISH』の各曲毎の解説をお願いします。まず、1曲目の『Wind』については?
N:これは、引っ越す前の家に住んでいた時に、天気のいいある日、イントロ部分を思い付いたんですよ。その朝、子供は学校に行ってて、奥さんは仕事に行ってて、一人でピアノに座って、突然ね。それが『Wind』の始まりなんです。
T:じゃあこの『Wind』は割と最近の曲ですか?
N:そうです。でも影響されている音楽は80年代のアメリカ音楽ですね。
T:なぜこの『Wind』を、1曲目に?
N:曲のはじまり方が導入的にもいいかな?って思って。これはいつの間にか頭にイントロが始まって、70年代のプロになる前に影響を受けたミュージシャンとか、その後好きになったミュージシャンの音楽。そういう人達に影響を受けた若いミュージシャンが最近出てきて注目されてて、また新たな解釈でこれをやっていいんだって自分で思って「僕も出来るよ」っていう感じで思った曲ですね。
T:2曲目の『Air』は?
N:これは、もうちょっと丁寧に弾きたかったんですけど本当は。とてもいい曲で自分の中では。やっぱり20代中間ぐらい、デビッドフォスターとか、いわゆるアメリカのAORが出だした頃に作った曲です。
T:タイトルの『Air』も、昔に付けたタイトルですか?
N:実はこれは新たに。なんとなく『Air』っていうのが、80年代っぽいかなって。自分の中では。
T:3曲目の『他の誰かではなく』ですが。このタイトルは?
N:これは、自分がプロデュースした相沢友子さんのアルバムに提供した曲で、彼女が詞を書いて、それを新たに自分で歌い直したものです。凄い恥ずかしいんですけどね。自分の歌が。
T:ボーカルを録られたのは初めてですか?
N:初めてです。ライブで何回か歌っている内に、本当に恥ずかしいんだけども「いいね」って言ってくれる人がいて、何とかレコーディングさせてもらったんです。いい所をすくってもらおうと思って。
T:初めてスタジオで歌った時は、どうでしたか?
N:もう幸せでしたね。自分の曲がレコーディング出来て、設備も申し分ない状況で、一応プロで色んな事をやってきてるんで、これは申し分ない状況だって分かって。しかも自分で歌が歌えて。歌った事ないのに。凄い幸せだったです。
T:なぜこの曲を選んだんですか?
N:これは自分の中でも思い入れのある曲で。それにちゃんとした歌詞を付けてもらっている状況なので、詞の世界も自分の中でどんどん理解が深まって、人に聴いてもらう、自分の歌でやれる曲としては、これが最初でいいかなと思って。
T:『他の誰かではなく』を聴いて「もっと歌を聴きたい」っていう人が結構いまして。
N:ありがとうございます。歌える範囲でどんどん歌っていきたいです。ただやりたい事と出来る事に、どんどん気がついてくるし。自分で歌えそうな曲は今後も歌いたいなと思っています。
T:4曲目の『New Country Age Player』は?
N:これもめちゃくちゃ古い曲で、20代の前半ですね。プロになった頃に作った曲。アメリカ音楽が好きで、このタイトルは自分がカントリーが好きで、ニューカントリーって新しいニューエイジな感じで、カントリーのプレイヤーっていうゴチャまぜなただ気まぐれに単語を並べただけなんです。けど、メロディがカントリーじゃなくて、リフはカントリーなんです。けどイントロはね。
T:5曲目、アルバムタイトル曲の『WISH』。
N:これは10年前くらいになるのかな?結婚して家庭を持って、自分の音楽で生きていくんだって頃の曲で。新しい和音のつみ方、誰もやった事もないのを、やってみたくて。自分の中では、凄くこう、画期的な響きでスタートしているんです。曲始まったら結局自分の好きな音楽。影響されたアメリカ音楽だけど、環境音楽みたいな事も好きで。多分。でも日本人で歌のうまい人に歌ってもらえたらなって。いつか詩をつけてもらえたらいいなと。
T:明さん自ら歌うとかは考えていない?
N:俺は、歌のうまい人に歌って欲しい。この曲を歌うのはちょっと難しいので。うん。
T:次は、6曲目の『茜』。この曲は、いつ頃のものですか?『WISH』と綺麗に繋がっていますね。
N:多分『WISH』に前後した頃だと思うんですね。20代後半から30代前半くらいかな?バリにハマっていた頃の曲ですね。「THE HEARTLAND」の阿部ちゃんとバリに何度も何度も行って、その頃環境音楽とかイーノとかにハマったりして。そういう影響もあって出来た曲です。
T:タイトルは?
N:何となく自分で茜の空が見えるなあって。結局響きは日本。何か自分の子供の頃、家に帰る頃の空とかが、自分で弾いている時に見えたんで。千葉の田舎の夕焼けですかね。茜の空の茜色ですかね。
T:7曲目、『Night』。
N:これは、何て言うのかな?これは違うんじゃないかなって言う人もいると思うんですよ。っていうのは、自分の中でピアノのスタイルで、誰もやった事のない和音を作りたくて、作っちゃったんですよね。実はそういうピアノの弾きとか、ものをもの申したいって言う人は、これは亜流で作られたって思うかも知れないですね。音の変わった響きでは、ないっぽいんだけど。実は本格派じゃない。ただ自分の中で当時とても画期的で、これをブラスセクションでもやってみたいなって思ったりも。ラウンジジャズみたいな感じにしてみたい時期もあったし。これも10何年前の曲です。
T:次は、8曲目の『Margarita』ですが。
N:これはライブハウスのピアノで。あの「ラカーニャ」というお店で録らせてもらったんですけど。実はもう1つアウトテイクがあって、それはもうちょっと歪んだタイプで、がさつな、ちょっと裏ぶれた感じで、それは案外一緒にやってくれた人は皆「やり過ぎた」みたいで。自分のイメージとしては、こう、場末の凄くおんぼろのピアノだったら、良かったんだけど。何て言うんでしょうね。この曲には思い入れがあって。簡単な曲で、誰にでも弾けそうな、多分こう誰にでも弾けると思うんですよ。でも何だかこの曲を自分がずっといつの間にか作って弾いていて。悲しいピアニストみたいなピアノ弾きの曲で、自分の中のピアニストの思いみたいのが出せる曲なのかなあって。ピアノ弾きの部分のこだわりみたいのがあってね。酒場のピアニストみたいな、うん。これがもっとね、枯れるように、枯れて弾けるようになれるまでピアノを弾けたらいいなと。
T:次の曲は、9曲目の『across』。
N:『across』。これは、比較的最近の曲。といっても7,8年前。どこか簡単なメロディの曲を作りたいなって。でも響きは何か新鮮な響きがいいなって。
T:タイトルの『across』っていうのは?
N:これは、あるアーティストを手掛けている時に提供したもので。その本人が詩を書いてくれて、その時についたタイトルが『across』なんです。でも色んな経緯があって、その人とは一緒にやっていないんですけども。それでこの曲も発表はされないままだったんです。でも凄い『across』ってタイトルの響きが好きだったんで、そのまま付けさせてもらって。このボーカル入りのものも、どこかの機会で発表できればと思っているんですけど。
T:10曲目の『華』ですが?
N:これは佐野さんの、AJIレーベルで1回発表した事があって。その時は、ドラム、ベースとかが入ってて。ブラジル音楽にハマっている時に作った曲なんですよね。ライブでもこの曲を何回か発表する機会があって、自分の中でももう一度発表したいなって思ってた曲だったんで。
T:11曲目の『SA MI DA RE』。これは、なぜローマ字で『SA MI DA RE』になったんですか?
N:ひらがなとかでもいいとは思ったんですけどね。22,3才の頃の曲で、プロになりかけの頃だったと思いますね。タイトルは、最近です。
T:12曲目は『Melody』。
N:この曲も、ブラジル音楽に傾倒している。『華』とかを作った後くらいに出来た音楽です。でもとても良く似ている曲があって、ブラジルのアーティストで。とても影響を受けたアーティストので。「これ何かにそっくりだよ」って、阿部ちゃんに指摘された事があって(笑)、でも自分ではそれは良く分からなくて。「あるかもなあ」って思ってて。
T:13曲目に、再び『Wind』ですね。なぜバージョン違いで?
N:これは、バンドバージョンで。バンドでやってみたかったんで。うん。やっぱりバンド構成でやるのがこの曲の本来の姿だったんで。ただ思わぬ方向に色んな事が起きていて。ここで集まったメンバーは、尾崎君のファーストアルバムの時、一緒に録ったメンバーで。でもまあ、ひさしぶりに会うので、その後の彼等はどうしているのかなって意味も含めて、セッションしたくて。この曲に対して、新たな意味みたいなものを付け加えられて。凄くこれは満足しています。精神性みたいな部分でプラスアルファーされて。これに歌を乗せたのもまたいつか出せたらと思っています。
T:次は、14曲目の『LIFE』。
N:これも比較的最近のもので、7,8年前くらいで。とても影響された音楽があって70年代ぐらいの曲がモチーフになっていて。人生に対しての事を歌いたかったんですけど、内容的に詞がまとまらなかったのと、ただあまり自分の精神状態的にも、あまりハッピーになれなかったし、重くなりすぎたらいけないと。歌ってみたら、自分の言葉も整理できないし、難しかった。でも実はこのインストロメンタルの方が完成度が高いと思って。
T:最後の曲は、15曲目の『彼方』ですね。
N:はい。これは20年振りに発掘したっていうか、カセットを聴いていて「こんな事してたんだ、自分が」って。タイトルは遥か昔に作った曲なんで、自分の中でも記憶の彼方にあったので『彼方』って曲に。自分がもう若造の自分がいっぱい見れて。自分が持っているものが少ししかないのに、それ全部を守っているみたいな曲なんですよ、自分の中で。
T:最後にした理由は?
N:曲調と、昔のもう自分でも忘れているくらい昔のものなんです。けど、でも変わっていない部分は変わっていない自分で。昔の彼方のものなんだけれども、でもこの先に繋がっていければいいなあって思っているんですよね。
T:ずばり、このファーストアルバム『WISH』への想いを教えて下さい。
N:自分の核みたいなのが、やっと表に出す事が出来た。あの、出来た当時は、自分の曲をレコーディング出来て、とにかく嬉しくって「嬉しいな、やっと出来た」って。佐野君とかに「出来て良かったね。でも、あの、まだ作りが甘いけどな」みたいに(笑)言われたりして、自分でも確かに今、冷静に聴くとまだ甘い部分もあって。ただ今後この先、自分がまだこれを核にして、進んでいける最初のいいスタートを切れたなあと思います。気負っていないし、これからって感じの自分の記念すべきスタートです。
T:今後の活動としては?
N:人とのコラボレーションがすごく楽しくなってきたんで。こういう自分の事を純粋にやれたお陰で、それがやれるようになって来たんですけど。あと実験的な事もしたいし、この間やった映像に音楽を付けるみたいに、それをセッションでやれたらとかね。そういうような事が本当に楽しめるようになってきたんです。まだ沢山あるストックを歌のうまいボーカリストとコラボレーションして、どんどん発表していきたいですね。ライブもやっていきたいし。昔からの友人とか、お世話になっている人とも、今まで以上に友好な関係を築いて、また色んな楽しい仕事が出来たらいいなと思っています。新しいアーティストを発掘したいし。あと最近、オーケストラを使った音楽もやってみたいなって気持ちも出て来たんですね。それもちゃんと試しておきたいですね。まあ本当いろいろな事をやりたいですね。
T:本日は、いろいろお話聞かせていただいてありがとうございました。また機会を作って、楽しい事やりましょう。
N:そうですね、楽しみにしてます。ありがとうございました。
ラストは『今、西本さんにとってピアノとは?』を伺ってみました。これはムービーで本人の言葉を聴いて下さい。 |