自分に才能があるんだとか、何にもその深い事考えないで、
何か直感で「俺、ギタリストになりたい」って・・・
TERA(T):それでは宜しくお願いします。じゃまず、生まれから。
OSADA(O):神奈川県の川崎ですね。汚い所でした。
T:兄弟とか?住んでいた所は?
O:兄弟は1人。うん。お袋と親父と弟。川崎って労働者の街じゃないですか。港の方は割と工場地帯っていうか、工業地帯で。その働く人達のベットタウンで。本当にアパートというか、まあそういう所でした。自然とか全然なかったしね。
T:当時は、どんな遊びしてましたか?
O:普通でしたよ。野球好きだった。多摩川の土手あるじゃないですか。そこでよく遊んでいたかな?唯一自然っていうかね。だからよく行ったかな?今、川見るの好きだし、そういうのありますね。
T:音楽に初めて触れたのは?
O:まあ音楽は好きだったけど。小学生の5年生?4年生ぐらいかな?親父がギターを持ってて、まあたいしてそんな弾けなかったんだけどね。家にギターがあって、それで弾きたいと思ってギターを触りはじめたのが、小学生4年生くらいかな?
T:はじめて持ったギターで、何か弾こうと思ったんですか?
O:いや取りあえずギターが弾きたくて、弾けるようになりたくて、触ったら面白くて。なんか適当に弾いてましたね。うん。
T:何かのコピーとかするとかでも無く?
O:コピーするような音楽に触れていなかった、まだ。普通は逆じゃないですか。とにかくギターをポーンと弾いているのが、とっても楽しかった。うん。
T:じゃもう、遊び道具っていうか。
O:そうですね。うん。離さなかった。ずーと弾いていたかな?
T:ギター友達とか?
O:いや独りもいない。家の中で、もうボロいガットギターを。ガットギターと言える代物ではなかったけど。それこそベニア板で出来ているようなギターだったからね。ネックもそっちゃってて(笑)。
T:曲を作るというより、とにかく鳴らしていたと?
O:そうだね。あと、ちょっと譜面を読めたりしたから。あの親父が持っているギター教習本とか。「きよしこの夜」とか弾いていたよ(笑)。
T:友達の前とかで披露したりとかは?
O:えーとね。披露したのは中学1年になってからかな?その時はね、合唱コンクールがあって。伴奏をしたのね、ギターで。俺の時代ってギターを弾くってやつはあまりいなくて、ギター弾けると結構特殊だった。大抵はピアノで伴奏したじゃない?それが皆の前でギター弾いた最初かな?
T:ラジオとかレコードとかの音楽から憶えたり?
O:そうだね。あとよくあるじゃないですか、歌本とか。あれ見てやったりとか。中学1年からビートルズに出逢って、友達から色々教えてもらったりなんかして、いわゆるロックミュージックに触れたって感じかな。
T:中学時代は、他に部活とかは?
O:野球。野球部だった。3年間。でバンドもやってたけど。かたわら。
T:野球選手になりたかったとか?
O:いや、それはなかったですね。でも野球するのはとっても楽しかったし、高校3年生までね。小学校からずっと野球少年でしたから、チーム作ったりしてね。
T:で、家に帰るとギターを?
O:そうそうそう。でも親父が厳しかった。クラシックギター弾くのはいいんだけれど、エレキギターは駄目だから。エレキギターはもうそれこそ質屋でグレコの330を一番最初に買ったの憶えているんだけど。7千円で。それをベッドの下に隠して。で親父が夕方帰ってくるじゃないですか、それまではエレキを弾いてて、ビートルズとかバーッとコピーしてたりして。親父が帰って来たと思ったら、ベッドの下にしまって。で今度はガットギターでクラシックを練習したりとかして(笑)。結構せこかったね。でも、そうやってずーとやってたね。中学の時は。
T:ライブとかは?
O:あの高校の時はバンドっていうよりは、野球の方がメインだったかな?で、それこそ坊主で文化祭とかに登場してね。ギターに専念したのは高校3年からかな。
T:卒業してからは?
O:色々あったんだけど、新聞記者になりたいとかあったし。でもある時ね。キラーンと閃いて「俺、ギタリストになる」ってね。何の保証もないんだけど全然。自分に才能があるんだとか、何にもその深い事考えないで、何か直感で「俺、ギタリストになりたい」って。思った瞬間があって「これだ!」と。それで高校出てから、それに向かって行ったって感じかな?
T:その時は、もう東京に?
O:東京に出て来てっていうか。高校出る時に「お前、何するんだ」って言われて「俺はギタリストになる」って云ったら「ふざけるな」って話になるじゃないですか。それで「じゃあ」ってんで、まあ家を出て、それで友達2人で生活してたって感じで。やっぱり親父が認めてくれなかったっていうか。まあ考えられなかったんだろうな?ってね、今思うと。それで家にいてもしょうがないっていうか、自分の好きな事やるんだから、一人で出てくって感じで。で友達と2人で。そいつもギターをやってて、中学生時代の同級生で2人で生活しながらね。勉強してた時期かな?色んな事を。うん。
T:まず何からやったんですか?
O:何からやっていいのか解らなかったからね。でもそれこそ色々なバイトやったりなんかしながらね。まあ一緒にやるバンドもなかったし俺。ちょっとした学校なんかも行ったんですよ。音楽系の。半年しか行かなかったんだけど。それでバイトとかしながらずーっと。雑誌でギタリスト募集とか見つけては行ったりとか。その内、段々と友達が出来て来て。「バンドをやろう!」とか「バンドしない?」とかね。
T:方向的にはどんな感じに活動していったんですか?
O:まあ、最初はやっぱし、その高校を出てまあ、色々な所で知り合いや友達の影響とかもあって。その頃俺、ジャズにはまってたから。割とビッグバンドでギター弾いたりとかしたし、その頃知り合ったサックスの人とかと遊んでいたかな?
T:初めてギターで、、。
O:お金を貰った事?
T:そうですね。
O:何だっけな。何だろう。多分あれかな?レコーディングセッション。セッションって云っても「エンジニアの学校」ってあるじゃないですか。そこの実験材料みたいな感じの演奏。(生徒が)録る為の演奏。その演奏をした時かな。あとは動物園のぬいぐるみを着て、ギターを弾くとか(笑)、そういうのやったかな。19才の時かな。
T:20才過ぎた頃は?
O:その頃から自分のギターのスタイルとか、自分が出来る事というか、自分のあり方というか、そういうものをどんどん見つけていったというか探していった時期だと思うな。色んなジャズのセッションとかを。その頃セッションミュージシャンとしてジャズのライブハウス、ピットインとか殆どのジャズのライブハウスで仕事というか毎日ライブセッションをしてね。ライブセッションで「今日はいくら」「今日はいくら」ってね。うん。
T:で、その後は?
O:そうですね。その頃知り合った友達、例えば小林武史とか、あとまあ色んな人が居るんですけど、色んな形で遊んだりして、自分を膨らましていったって感じかな。本当友達ですよね。それで佐野君と知り合うようになったのは、割と後で28才くらいですね。
T:きっかけは何だったんですか?
O:オーディションがあるって電話で。その頃ジャズのライブハウスやっている頃に知り合ったやつがいて。何年も会ってなかったんだけど。その時全然仕事もなくてオーディションがあるっていうから。実はあんまり聴いた事なかったんですね。何曲かしか知らなくって。でも小林武史の家で「いいのあるから聴いてよ」って佐野君の『コンプリケーション・シェイクダウン』かな?「いいなあ」って思って、それともう1曲くらいしか知らなかったけど。オーディションに行きました。
T:どんなオーディションだったんですか?
O:事前にテープを渡されて、3曲くらい入ってるんだけど。「これをやるから」って。たいしてギターも入っていなかったんだけど。ちょうど佐野君があの銀次さんが辞めて横内タケが辞めて、ギターなしでやってた時期。『カフェボヘミア』ぐらいかな?「こういう曲やるから」って。3曲くらい。そこに行ったら、バンドのメンバーが、バーっと揃ってて。で佐野君も居て。
T:曲のフレーズとかは憶えて?
O:いや。どうしてたんでしょうね。そこには、この間映画で一緒にやった(西本)明君とかも居て。どうやら後で聞いた話だと明君「あいつはやめよう」って云ったらしいんだ(笑)。そう殆どのメンバーが「あいつはやばいんじゃないか」って(笑)。でも、佐野君が「あいつにしよう!」って言ったみたいだね。うん。それで入る事になったみたいですよ。
T:じゃあそれがターニングポイントに?
O:俺のターニングポイントっていうかな。そう強いて言えば、ハートランドに入った事と、その前にジャズのセッションを色んな所で出来た事になるかな。
T:ジャズというのは、長田さんの中では、どういう感じなんですか?
O:今、ずっと一言で言っちゃったんだけど、その間には色々あって。自分のギタースタイルというか、自分が憧れているものというか。まあ言ってみれば最初の頃なんかアマチュアみたいなもんだから「こうなりたい」とか「あの人かっこいい」とかっていう、カッコから入っていったりとか。色んなまねしたりするじゃないですかコピーとか。コピーはあまりしなかったけど。自分が弾くものっていうかそのジャズからずーっと入ってきて、ブラックミュージックとか黒人音楽のカッコよさっていうか黒人になりたいっていうか(笑)。それこそ歩き方から真似するぜって言って(笑)歩き方を真似するとか。結構はまっていた時期があって。でもなんか「どうやったって、やつらにはかなわない所はかなわないし」って。それで自分としてのスタイルが変わっていったんじゃないかなと思う。だから今「そういうジャズのライブハウスとかやっていたんだ」って言うと、「えー」って言われるけど。まあそれで自分のスタイルっていうか自分を見つけていったって感じ。あと佐野君と知り合って、ハートランドでやらせてもらったっていうのが凄く大きかったなあって思ってる、自分では。
T:僕が初めて長田さんのプレイをみたのが、渋公のカフェボヘミアツアーでしたね。
O:そうか。でもあのオーディションがあって「はいじゃあ、あと1週間くらいでツアー始まります」って。確かもう1週間ぐらいか10日前くらいで。「1週間で30何曲、覚えて」って言われて。合宿があったんですよね、どこかで。合宿でそれこそ全部、40曲近かったんじゃないかと思うんだよね、それを憶えて全部。全部リハーサルして。それでやったんですよねツアーを。うん。
T:メンバーとのコミュニケーションは?
O:最初は全然やっぱり。そんなに。もちろん喧嘩とかはしなかったけど。最初は全然余裕なかったし、仲良くなろうというよりは「俺は俺でやる」みたいな。後から入ったっていうメリットかな。それはメリットかなと思って逆に。「俺は俺でやる」っていう感じで(笑)やってたと思うんですけど。
T:初めてのツアーはどうでした?
O:いやぁ楽しかったですよ。まあ結構余裕なかったんじゃないかな。自分で。1日1日って感じで。でも段々とメンバーお互いが「あいつはこういうやつだ」って解るようになってきて。うん。何ていうのかな?例えば、結構、驚きの連続だったっていうのが正直ありましたね。「ああ、こういう人がいるんだな」って。メンバーに対しても佐野君に対しても初めてだったから。「アーティスト」っていうかね。佐野君に対しての驚きっていうのは、何ていうのかな。本当にこう感情がステージの上でストレートっていうか、ああ見えて本当何て言うの、直情型というかステージの上で何をするか解らない人だから。そういうところが「凄いカッコいい」と思ったね。凄い。
T:その後、ハートランドとして、レコーディングとかにも参加していく訳ですね。
O:そうですね。
T:それから90年に入ってからの活動は?
O:色々とやりましたね。それこそ尾崎君とのツアーとかもね。うん。
T:その尾崎さんとのツアーのきっかけとかは?
O:きっかけは、尾崎君が「やって欲しい」ってオファーで。特に知り合いだったって言う訳じゃないんだけどもね。あの「Birth tour」が初めてで。
T:ツアーでの印象とかは?
O:やっぱり何するかわからないっていうのを感じたし。佐野君と比べるともう少しねじまがっている?ような感じがしたし。でも凄いピュアな感じがしましたね。そうだな、でも、思い出は色々とあるけれど、最初はバンドとしてもライブとしても凄いいい感じだったと思うけど。俺自身、彼が何をしたいのか、解らない部分があったりなんかもして。うーん、ただツアーの思い出っていうよりは、その後あった事の印象が強くてね。うん。
T:その後、ハートランド解散があって。
O:まあ独りになったんだなと。不思議なバンドですよね。バンドなんだけど、まあでもずーと佐野君とハートランドでやってて、まあ帰るところっていう感じだった。色んなアーチストとともやっていても、帰るところでまたツアーやってっていう生活だったからね。やっぱり帰るところを失って、独りなんだなっていうところかな。凄いいいバンドだったなあと思いますけどね、今考えるとね。また一緒に出来たらいいなと思ってる。いつかね。
T:その頃、初めて僕は長田さんと会って、(佐藤)奈々子さんのライブでギターをやってもらって。
O:そうだね。それでGREAT3のキヨシとか堅一とかとね。それと彼等は佐野君のライブとか観に来ていたりして、奈々子さんのライブを一緒にやって、その後プロデュースやってくれないかって話で。
T:それが、GREAT3のファーストの『richmondhigh』ですね。
O:そうだね。
T:はじめてのプロデュースはどうでしたか?
O:まあ必死でしたよ。というか凄く楽しかったよね、やっぱり。
T:彼等からの最初のアプローチとしては?
O:うーん、わからないな。多分俺のサウンドが欲しかったんだと思うんですよね。ギタリストとしての。でも俺はそれプラス全体的なテイストっていうかそれを何処に持っていくかっていう所を目指したっていうか。面白い作業だったと思うけど。
T:レコーディングはどの位かけたんですか?
O:一ヶ月くらいかな?
T:GREAT3とは、その後も続けてやってますよね。
O:そうだよね。3枚目の半分くらいやったのかな。ライブもずっとやったね。
T:同じ頃、バンド作りましたよね。DSL
(Dr.StrageLove)。
O:DSLね。そうね、ずーとバンドやりたいと思っていて、佐野君とこで知り合ったしーたかと、岡村君のとこで知り合った根岸と「やろうよ」って話になって。それがDSL。まず自分達でスタジオ借りて、リハーサルやって楽しかったね。曲作りとかセッションとか。
T:バンド名は誰が?
O:えーとね。映画のタイトルとか、話をしてて、皆キューブリックが好きだから。まあネギ坊が言い出したのかな。それでDSL。結構適当でした。もうすぐ早めに付いたね。あっさり。
T:最初の活動は?
O:ライブをやりつつ、曲持ち寄ってという感じで。でも最初はなんかバンドって感じではなかったんですよね。まあ一人一人曲を。バンドのサウンドって感じでは無く、俺の作った曲は俺のカラーで、ネギ坊のはネギ坊のカラーで、しーたかはしーたかので。
T:確か当時エッグマンで観たんですけど、結構バラエティに富んでる感じだったなあと。
O:そう、バリエイション富んでて色んなタイプの曲をね。「自分達、ドクターストレンジラブのこういうのをやりたいから、こういうバンド」ってよりは「3人集まって何か世界が出来たらいいね」っていうので集まっているから、自分達のサウンドっていうのがどれがいいかなっていうので色んな曲をやったんじゃないかな。
T:1枚目の話というのは?
O:いや、結構レコード作るまではね。難しかったね。皆もう30いくつだったからね。なかなか会社とかも振り向いてくれないとか(笑)。相手にしてくれないというか。自主では1枚作って。それからポニーキャニオンかな。その位からDSLのサウンドっていうのが少しずつ出来てきて。
T:DSLをやっている頃は、他のアーチストとの活動も忙しくなってきたのでは?
O:凄く忙しかったね。今思い出すと。あんまり忙しすぎるのは、よくないです(笑)。本当に。休みとか殆どなかったんじゃないかな。うん。まあ、いい時期だったっていうか。でも忙しすぎるのは良くない。
T:そういう時、バランスとか、どこに比重を置くとかって。
O:バランスは取りつつやっただろうけど、取れていたかどうかはわからない。まあその時その時をこう入り込んでやるじゃないですか。自分を見失う部分ってありますよね。やっぱし。でも色んなアーティストとやって、まあ与えつつもらいつつっていうか。それをバンドにフィードバックしたりとか。それでまた新しいものが出来てとか。あそこでこうアイデアがあって、そこで出来なかった事をまた別の所に持って行ってやったりとか。そんな感じでね。
T:忙しい中でも新しいものが生まれて行くという?
O:そうだね。
T:あと、奥田民夫さんとの活動は長いですね。
O:民生とは、長いですね。
T:DSLとしての参加なんですか?
O:そう最初はDSLとやりたかったのかな?って感じで。しーたかがユニコーンの解散する直前にドラマーとして入ってて、すでに民生と知り合ってて。それからDSLで民生が出るイベントで一緒に出る事があって、それからかな。DSLでやるといっても、民生のサウンドは違うものだったし、まあギタリストとしてっていう事だったんじゃないかな。多分3人とも。DSLの時はその独自のサウンドというかそれを求めてやってたしね。
T:奥田民生さんとの活動の印象は?
O:民生はやっぱりのんきに見えるけどね。面白いやつです。音楽的にも非常に男気あって、飾りッ気ない感じ。目線が一般ピープルに近い感じがするし、大衆に受ける感じが凄く解る。でも大衆に媚びていないし。その辺かな。自分のやり方を貫いているっていう所あるじゃないですか。
T:プロデューサーの話に戻りますが、アーティストを手掛ける時はギタリストの目線からなんですか?
O:どうかな?最初はそういう人もいたけれど。GREAT3をやった時はギタリストとして参加してたみたいな所が多かったけど。最近は全然プロデューサーとしてというか、やっぱしギターを弾き過ぎちゃうと俺の色が強くなっちゃって、プロデュースっていう意味合いのバランスが取れなかったりとかしてね。本当プロデュースというのは、される側のいい部分をどうやってピックアップするかというか自分を殺す部分も持っていないといけないという部分もあるし。なんていうのを勉強しつつって所かな。もちろんギタリストとして参加して欲しい、なおかつプロデュースもというオファーがあったらそれなりのバランスでやったりするけれど、もっともっと幅広いプロデュースというか、そういう仕事も増えているような気がするね。
T:最近プロデュースした中で、印象的なバンドは?
O:そうですね。今終わったんだけど、「スクリーミングソウルヒル」というバンド。ミクスチュア系バンドなんだけれど、凄いいいバンド。楽しかったですよ。何か凄いピュアなものを持ってて、色々新しいアイデアを持っているやつらで。彼等と自分のやりたいものとをぶつけ合うというような作業が面白かった。
T:プロデュースのオファーが重なって来た時のチョイスとかは?
O:どうするんでしょうね(笑)。やっぱり自分がプロデュースしたいと思う方を選んでる。自分のバイブレーションが合うというか、逆に「俺がやらなくてもいいんじゃないか」と思う人もいるし。「プロデュースしてみたい」というアーティストもいる訳で。興味をそそられる所でいった方が正解かなと思う。順番で受ける事はまずないですね。
T:これからやって行きたい事は?
O:そうだな。バンド、DSL。2人になっちゃったけど、前のアルバム以降作っていないので、またやりたいと思ってるし。出来たら僕はソロを何らかの形で発表出来たらと思ってる。うん。あと色んなミュージシャンとまたやってみたいなっていうのが。昔、ジャズのミュージシャンとなんかやってたりしてる訳じゃないですか。また色んな時期を経て、そういう人達とやって、全然若い人とかでも。例えばジャズドラマーなんだけど、凄い新しい感覚を持っている人とか。そういうのを考えたりするけれど。とにかく色んな人達とやりたいね。ツアーとか回っていると同じやつらばっかしだし、それもいい所はあるんだけどね。あと、この間やったああいう映画の仕事みたいのも面白いですよね。どんどんやりたいな。
T:どうでしたか?ドキュメント映画の音楽をやってみて。
O:本当、なんか凄く面白かったよね。彼、そのトランティーノさん自身も、発する言葉がポエティックっていうか、会話自体が凄くリアルな詩だったりするし、凄く触発されたと思う。そういう感じでギターが弾けたっていうか音楽を作れたっていうのが、楽しかったね。うん、良かった。で彼に感謝しなきゃいけない。会った事ないけれど。
T:話が変わりますが、ギターの話で。何本ぐらい?
O:30数本くらいかな。
T:一番古いものでは?
O:中学生の時のかな?最初に買ってもらったガットギターかな?まだ持っているのは。
T:まだライブとかで使うんですか?
O:いやライブでは使えないなあ。家で弾いている感じかな。たまに出してきて。弾いたりはするんですけど、結構いい音がするんですよ。まあ良くいうけど、女性みたいなものっていうか。ギター個人個人っていうか一本一本っていうかね。言ってみれば、ただの木なんだよね。木なんだけど動くし、鳴る時は鳴るし、鳴らない時は鳴らないし。凄い気象条件とかによっても全然違うし、面白いですよね。まだこう木から削り取られて何十年も経っているんだけど、まだ生きているような感じするもんね。でもやっぱり死んでるんだろってみたいな。うん。やっぱ今使っているストラットとかでも、塗装が禿げているんだけど、やっぱ雨の日とか駄目なんですよね。湿気が多くてあんま鳴ってくれない。そんな風なのもあるし。ずっとほったらかしにしているギターだとやっぱりね「あれこんなに鳴らなかったっけなあ」って感じで、ちょっと弾いていると戻ってきたりして。そういうのが不思議で。どんどん変わるし。
T:やっぱりあるんですね、そういうのが。
O:あるんですよ、これは。あるんです。うん。
ラストは『今、長田さんにとってギターとは?』を伺ってみました。これはムービーで本人の言葉を聴いて下さい。
|