青木ともこ


70年代からの「春一番コンサート」等のライブ活動後、15年以上の活動休止期間を経て、
近年、音楽を再開した、シンガーソングライター青木ともこさんのロングインタビューです。
(後半、共に新ユニットを結成する伊藤銀次さんも交えてのインタビューになりました。)


(2006年5月29日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)



 青木ともこ・ロングインタビュー

昔はね、「ぐわぁらん堂」でよくやらせてもらいました。それからちょっと後になって「のろ」ですよね、吉祥寺の。あとはウーマンズ・リブの女性の集会とか、女性たちが作ったお店がいろんな所にあったんですよ、そういう所に行って歌いましたね。


TERA(以下:T):よろしくお願いします。


青木ともこ(以下:A):宜しくお願いします!

T:まず、生まれと場所を教えて下さい。

A :東京都です。

T:東京のどの辺なんですか?

A :練馬です。

T:ご兄弟とかはいらっしゃるんですか?

A :3人姉妹です。の一番上です。

T:小さい頃は、姉妹良く遊んだりとか?


A:遊んでましたね。女の子どうしだから、遊んでましたね。

T:今覚えてる遊び方って、何かありますか。

A:3人でどんな風に遊んだかって記憶は、そんなにないんですけど、練馬って言っても当時は田舎だったんですよね。畑もあれば、自然が多かったので、真っ黒になって遊んでた記憶ありますね。草がたくさん生えてたりとか、近くに防空壕の跡なんかもあったんですよ。丘のようになってて、自然がそのまま残ってたので。大体外でもってよく遊んでましたね。そういう記憶はありますけど。

T:幼稚園のときの記憶って何かありますか?


A:幼稚園のときの記憶は、歌とお遊戯ですね。幼稚園のころだから、歌とかお遊戯が大好きで、だから、人の分までやってみたり、そういうのはありましたね。

T:小学校入ると何かお稽古ごととかは?


A:特にないですね、小学校は。ただ、歌が好きで、それから芝居、お芝居みたいなことが好きだったんですよね。小学校3年生ぐらいからは、小学校だから演劇部ありますよね。そういうところに入ったりなんかして。

T:何か覚えてるお芝居ってありますか?

A:卒業のときに、創作芝居みたいなのをつくってやりましたよね。

T:自ら何かお話を?

A:そうですね。大したものではないけれど、ストーリーをつくって、友達何人かと、自分も出て、それでやった記憶がありますけど。

T:どんなストーリーだったか覚えてますか?

A:もう覚えてないですね。ただ、何回か衣装変えをして、何役かやったような記憶はありますよね。詳しくはもう覚えてないですけどね。

T:音楽とかもそれはつけてるんですか。

A:音楽はつけてなく、それはもうお芝居だけで。

T:小学校のときに聞いた音楽で印象的なものは?

A:学校の音楽以外ですよね。


T:いや、含めてでもいいのですが。

A:音楽は好きで、学校でやる音楽も好きでしたけどね。小学校の時。その当時、流行ってた歌謡曲ですよね、残ってるのは。三橋美智也だとか、そういうのが残ってますよね。

T:これは良く歌ったなっていう歌謡曲は、ありますか?

A:うーん。あんまり歌謡曲歌ってなかったかもしれないですね。聴いたものの記憶っていうのは残ってるけれど、自分で歌ってたのは、やっぱり童謡ですね。あの頃は、松島トモ子さんだったり、ああいう童謡歌手っていうのがすごく沢山いた時期なんですよね。だから、そういう童謡歌手の女の子たちが歌う歌を自分も歌ったりとか、それから美空ひばりの歌を歌っていたような記憶があります。

T:耳にするのはラジオですか、それともレコード、テレビ?

A:ラジオ、それから途中からテレビもあったので、テレビから流れてくるのもありましたね、記憶に入ってますよね。

T:レコード買ったりとか、小学校時代は?

A:小学校の時に自分で買った記憶はないですよね、もちろん。大体、レコードを回すもの自体が、電蓄みたいなそんな昔だから、自分で買って聞いたっていうものは、記憶はないですね。そういうところから流れている音楽よりも、やっぱりラジオだったり。ラジオですよね、昔は。

T:中学生に上がった時に、何か活動の変化はありましたか?

A:やっぱりお芝居が好きだったんですよね。お芝居も歌も好きで、芸事みたいな事が好きでしたね。歌ったり、踊ったり、お芝居したりみたいな事が大好きだったから、そういうことをしよう、しようと自分で、「したいな、したいな」と、そういう事をずっと。

T:実際、演劇部入ったりとか。

A:うん。演劇部入ってもいました。演劇部入ったり、それからコーラスですね。コーラス部も入ってました。

T:屋上とかで練習してたりするんでしたっけ。演劇部は。

A:演劇部は、その当時は屋上では練習しないんですけどね、ずっと後になってからは屋上で発声練習やったりとか、柔軟体操やったりとか、それはしましたけど。


T:何か発表の場みたいなのはあるんですか。コーラス部は。

A:NHKのコンクールありますよね。全国中学生何とかっていうのありますよね、そういうの。そういうのには出た記憶ありますけどね。

T:演劇部は発表の場というのは?

A:演劇の発表は特に覚えてないですね、中学になってからは。中学校に入ってからは、演劇部なかったので、コーラスだけやってましたね。

T:割と中学前後はその2つが中心に。


A:音楽関係の事はそうですね。歌が好きだったから。歌が歌える場所っていうとコーラスだったりするわけですよね。コーラスクラブだったりするわけですよね。

T:勉強はどうでしたか。ほかの学科とか。

A:英語はほかの学科に比べて好きだったような記憶はありますけどね。あとスポーツは好きでしたよね。どっちかというと体動かす方が好きでしたよね。

T:(スポーツは)特に部活とかは入らず。

A:特にはやってなかったけれど、陸上なんかも好きでしたよね。走ったり飛んだりみたいな。バスケットや何かも好きだったし。でも部活ではやってなかったですけど。

T:高校は普通校?

A:普通校でコーラスやってましたね。コーラスやって、あとスポーツが好きなので、体動かすようなことをやってましたね。

T:高校になると将来的な事も考え出したりすると思うのですが。青木さんはどんな感じだったんですか?


A:やっぱり芝居やりたかったですよね、すごく。芝居と歌とやりたかったですね、すごく。そういう機会がなかなかなかったし、親がやらせてくれなかったんですよね。女の子だから、ちゃんと学校出て、それでいいお嫁さんになることが一番幸せになる方法だっていう風に言われてたから。そういう芸事っていうのは、全くやらせてくれなかったんですよね。それやって何になるのっていう感じですよね。(笑)

T:高校になって音楽の趣味は変わってきましたか?

A:その頃は、弘田三枝子とか、それから坂本九とか、そういう時代だったので、それはよく聞きました。テレビもそういう番組を見てたし。それはよく聞きましたね。

T:特に誰かのファンみたいなのは?

A:ポール・アンカとか、そういう時代だったので、そのあたりの音楽はすごく好きでした。あと誰を聴いてたかな。

T:作曲とか、何か歌をつくったり、詞を書いたりっていうのは。

A:それはしてないです。その時は。そういう方法っていうのを知らなかったんです。そういう方法もあるんだっていうか、自分で曲を書いて歌うみたいな方法があるっていうことは知らなかったですね。

T:高校卒業する頃に変化というか、何か?

A:やっぱりお芝居したい、歌うたいたいですよね、ずっとそれは。もうそれをどうにか出来ないかっていう事をいろいろやっていたような気がしますね。

T:具体的に何かこういうことをやったみたいなのってありますか?

A:学生の身分では、親からお金をもらって学校に行ってるわけで、好きな事が出来ないですよね。だから、なるべくその中でもって、例えば学生の時に演劇部に入るとか、機会があれば。で歌も歌ってなかったですね、その時は。演劇部には入ってましたけど。芝居をちょっとやってました。なるべくそこでどうにか歌を歌う方法がないかとか、芝居が出来ないかみたいな事でやってましたね。学生の時にはね。例えばバイトして、そのお金でどうにかしようなんていう事は考えてなかったんですよ。親からもらったお金で、学生でいて、学生の身でどうにか歌ができないか、芝居ができないかみたいな事を考えてましたよね。

T:演劇は、例えば、ミュージカルとかいろいろジャンルがあると思うのですが?

A:芝居がやりたかったんですよ。役者になりたかったんですよね。

T:舞台役者。

A:舞台役者ですね。

T:映画とかテレビではなく舞台。

A:ええ、舞台をやりたかったんですよね。

T:ほかの人の芝居も観に行ったりとかは?

A:あまりないんですね。演劇部では、なかなか役にはつけなくて、衣装やったり、メイクやったり、小道具やったりみたいな、スタッフばっかりやってましたね。

T:高校卒業して、どういう感じの生活に。

A:卒業してから、学生芝居をやってたんです。

T:学校に行かず、もう芝居に没頭。

A:学校も行ってましたけどね、適当に。適当に行きながら芝居をやって。

T:一応、大学に。

A:そうです。短大ですけどね。

T:2年間。

A:私たちの年頃の時には、お嫁に行く条件として「女の子は四大に行っちゃいけない」って親に言われたんですよ。「男の人よりも利口になっちゃいけない」って言われたんですよ。「短大出ておけば、いいところにお嫁に行ける」っていう。それで、「短大行け」とみんなに言われて。一応そこに行っていて、「行きながら編入すればいいや」みたいな事をずっと思ってたんですよ。だけど、結局編入はしませんでしたけどね。学校行っても勉強をあんまりしなかったから、あんまり学校に残るっていう事に魅力を感じなかったので。

T:ずっと芝居を続けて、短大終わる頃は?

A:それからは、仕事をして、お給料が入りますよね。それで歌を自分でやり始めたんですよ。

T:何かきっかけはあったんですか?

A:いろんな事をやりましたけどね、どういう風にしたら歌が歌えるかみたいな事を。その時はいろんなチャンスを狙ってましたけどね。いろいろやってはいたけれど、結局、「歌をやる」って言えばみんなに反対されて、「やめなさい」って言われて、で、「やりたいんだ」って言って。それで結局「趣味でやるんだったら、じゃあやってもいいだろう」という事で、それで紹介してもらって、キング・レコードの作曲家の先生に付いて、歌のレッスンをしていましたけど。

T:それは、大学を出て?

A:そうです。仕事してお給料も入るので、自分で好きな事が出来るようになったので、自分のお金でもって習いに行ってました。趣味でやるならば、反対もされなかったので、歌のレッスンをしてた。でも自分では趣味のつもりもないし、「何かどうにかならないかな」という事をいつも思ってたんですけどね。

T:その頃、歌を歌うのは舞台とは関係なく。ステージとかライブというニュアンスですか?

A:その頃は、もう歌のレッスンだけ行ってたんですよね。仕事しながらレッスンに行って。

T:歌を歌う場っていろいろあると思いますが、どうゆう感じだったんですか?

A:私が習いに行ってたキングの先生は、歌謡曲の先生なんですよね。だから、自分が歌を続けていくとすれば、歌謡曲の歌手になるということだったんですよ。私の中では。そのときには。歌謡曲の歌手としてデビューするということだったんですよね。

T:それがどのぐらい続くんですか。

A:2、3年、途中で先生も変わったんですけど、2、3年やってたような気がしますね。でも、やってても、「これでものになるだろう」っていう気はしなかったんですよね、自分で。歌謡曲の歌手にもなれないだろうなと思っていましたけどね。

T:そう思い始めた頃に、自分なりにやり始めた事ってあるんですか。例えば今で言うライブハウスなんかに出てみようかとか。

A:自分で歌をつくって、楽器を弾きながら歌うみたいな事があるんだっていう、実際にそういう事をしようと思ったのは、それは中川五郎に会ってからですね。彼がそれをしてたわけで、そういうスタイルで歌を歌うこともできるんだっていうのは、その時に気がついたんですよね。だから、自分で歌をつくったり、ピアノを弾きながら歌うとかいうのは、彼と一緒になってから始めた事ですから。

T:それはライブやコンサートで偶然会ったりとかしたんですか?

A:私が勤めていた会社で知り合ったんです。レコード会社に勤めていたので、そこで会ったんです。

T:中川さんの所属していたレコード会社で働いてた?


A:所属じゃないんですけど。私が働いていたレコード会社に彼が来て。知り合いになったんです。

T:レコード会社ではどういう部署で働いていたんですか?

A:洋楽の宣伝ですね。

T:そのころ何か担当してたアルバムとかって、どんなアーティストが?

A:サイモンとガーファンクルとか、シカゴとか、その時代ですね。

T:それは試験で入って。

A:そうです。試験というか、一応書類っていうか、そういうものを出して、通ったんですけどね。

T:社員として。

A:社員です。

T:レコード会社は何年くらいですか?

A:レコード会社は2年半ぐらいかな。多分2年半か3年ぐらいだったかな。

T:やめるきっかけは、歌を自分で始めるということの理由ですか?

A:歌が歌いたかったから、レコード会社に就職したんですよ。で、やっぱりいつもチャンスがないかな、どっかで自分が歌うところがないかなっていつも思ってたから、それでレコード会社に就職したんです。でも、全然そういうの関係なくて、仕事は仕事ですから。で、仕事といっても女性なので、事務職ですよね。だから、それは面白かったけれど、歌うっていう事とは全然関係なかったんですよ。だから、やっぱり自分で歌をつくって歌うという方法があるんだっていうのを知った時には、やっぱりそっちを選びましたよね。それをやってみたいなあっていう風に思ったので、思った時には辞めてました。

T:レコード会社を辞めて始めたことっていうのは?

A:しばらくして、ちょっとダブってるところあるんですけど、ダブってなかったかな。辞めてからしばらくして、ちょっと練習をして、で中川五郎のバックを始めたんですよ。「演ってみる?」って言われて。演りたくてしようがなかったわけで、それでもう、すぐ練習して演り始めたんですよ。

T:楽器は。

A:ピアノとアコーディオンですね。

T:初めてっていうか。

A:初めてです。人のバックつけるのは。

T:最初に演った曲って、中川さんの曲?


A:そうです。ずっとライブの時にはつけて、演らせてもらってたって感じですけどね。

T:じゃあ、ある期間、いろんな曲を集中して覚えて。

A:そうですね。

T:初めてステージに上がって演奏した時って覚えてますか。

A:初めては覚えてないですね。ライブの時には、大体一緒に演ってましたね。


T:最初から割とうまくいきましたか?

A:どうでしょうね。それは中川五郎に聞いてみないと(笑)。満足にできたかどうかわからないですね。

T:コーラスとかも?

A:コーラスもつけてました。

T:そのうち、自分の歌を歌うチャンスは?

A:そうなんですよね。それで、「歌ってみる?」って言われて、春一番の彼の持ち時間の中で1曲だけ歌ったのが、初めてだったような気がするんですけどね。

T:それは一緒にサポート始めてからどのぐらい期間がたってるわけですか?

A:いや、何年かたってましたね。多分1年ぐらい、1年半ぐらいかな。

T:その間っていうのは、自分のオリジナル楽曲みたいなものをつくったりとか、そういうことは。

A:まだでしたね。初めて春一で歌った曲も、ベロニク・サンソンの曲に詞をつけた歌でしたから。私が詞をつけたのはそれが初めてですね。


T:それをきっかけにオリジナル楽曲をつくったりっていう事に?


A:そうですね。何曲か書いたりとか。最初は中川五郎がつくった曲を歌ってたりなんかもしてましたね。彼が詩人の人の詩に曲をつけて歌ってた歌が何曲かあるんですよ。それを歌ったりしてましたね。そうですね、ソロもとらせてもらったこともありますね。コーラスだけじゃなくて。しばらくバックを演ってたんですけど、あと(中川)イサトさんなんかも加わってもらって、一緒にバンドをやってた事もあるんですよ、ちょっとの間。

T:それはどういう編成なんですか?

A:ベースとか、ドラムとか、イサトさんのギターがついたり、そういう時期もあったような気がします。

T:オリジナル曲は、その頃は何曲ぐらいに?

A:1人でやり始める前は、一緒のステージの中で何曲か歌わせてもらうみたいな感じだったんですよね、しばらくは。だからそんなに自分のオリジナルっていうのはなかったんですけど。

T:歌うことに関して満足せずに、もっと歌いたいとかそういう感じだったんですか?

A:そうですね。それでだんだん、一緒に演ることじゃなくて、1人で演っていく方向にどんどん行ったんですね。

T:そのためにはオリジナル楽曲を書かなきゃいけないと。

A:そうですね。

T:オリジナルの楽曲は、少しずつ?

A:そうですね、徐々にっていう感じでしょうか。

T:1人のソロのステージでいうのは、春一番になるんですか。

A:あんまり覚えてないんですよね、その辺。ただ、春一の前に、春一番ツアーみたいなのがあって、何組かでいろんな人と組んで、風太がハイエースで、ずっといろんなライブハウスを廻るっていうのがあったんですよ、春一の前に。春一に向かって、そういうライブがずっとあったんです。今もそういうことしてるみたいだけれど。それで、その時に、1人でそういうツアーに組んでもらって、何ケ所か廻って歌いましたね。そのあたりから、割と1人で歌うことが多くなっていってましたね。

T:よく歌ってた曲とか、初期の代表曲、自分で気に入っていた曲は?

A:その頃は、ウーマンズ・リブの盛んな時代だったんですよ。ちょうど。すごくそれで、何というのかな、女性の自立とか、女性の立場だとか、そういうメッセージの歌が多かったんですよね。そういう歌を歌ってました、随分。その頃は、「そうだ、そうだ」っていう風に思っていたので、自分の中でも。それから、自分の生活の中で連れ合いとの関係みたいなものもあったりして、そういうところでやっぱりそういう歌が多かったですね。で、その頃には、そういう女性の集まりみたいなのも多くて、そういう女性の集まりや何かで歌ったこともすごく多かったです。それから、女性で「選挙に立候補するんで、歌を歌ってくれないか」とか、そういう場も。

T:あれですかね、春一番が結構活動の中で目立ってるんですが、拠点は大阪ではないですよね。

A:じゃないです。東京ですね。

T:東京は、どの辺でライブとかを?

A:昔はね、「ぐわぁらん堂」でよくやらせてもらいました。「ぐわぁらん堂」とか、それからちょっと後になって「のろ」ですよね、吉祥寺の。あとはウーマンズ・リブの女性の集会とか、そういうところに行って歌いましたね。 、女性たちがつくったお店がいろんなところにあったんですよ、そういうところに行って歌いましたね。

T:その頃、歌ってた曲って、今も歌ってたりとかするんですか?

A:歌ってないですね。特にメッセージ、そういう女性の問題が含まれたような、すごくメッセージ性の強い歌っていうのは、今は歌ってないです。

T:音源が残っている70年代後半、77年、78年ぐらいに残されている音源はメッセージソングでは、、。

A:ないですよね、あれは。

T:ですよね。あれはどういう曲ですか?


A:2曲しか入ってないから。1曲は『私の自転車』だと思うんですよ。あれはGWANさん(佐籐GWAN博)が書いてくれた曲なんですよ、私に。もう1つの『心のままに』は、それはさっき話に出てた、べロニク・サンソンの曲に私が詞をつけた歌です。

T:その頃って、レコードとか、「形にしないか」みたいな話っていうのは?

A:どこからもなかったんですけど。

T:自分としては。

A:やろうっていう風にデモテープをつくったりはしてました。

T:それは何曲ぐらいあったんですか。その音源自体は。

A:音源にして、それは4曲ぐらいかな、録ったのは。

T:それはちゃんとしたスタジオっていうか。

A:いえ、「のろ」で録ったんです。

T:ライブ録音?

A:じゃないんですけど、「のろ」を借りて、同時録音で録ったんですね。全部一緒に。

T:編成って?

A:いろんな人を紹介してもらって。

T:弾き語りも?

A:ピアノが入ってるのもあれば、でも多分楽器はあまり弾いてないですね。

T:その音源ってまだ残ってるんですか?

A:残ってますよ。昔はね、テープで録ったんですよ。それで、カセットで今その音は残ってますね。すごく音悪いけれど。

T:それ以外に何か録音されたものってあるんですか。

A:その後、ちゃんとしたものはないです。ライブハウスで録ってもらったものとか、そういうのはありますけど。

T:その後の活動に関してなんですけれども、80年代入ってどんな感じになっていくんですか?

A:それからずっとやめてたんです。

T:何か理由とか。

A:病気になったので、1年ぐらい静養が必要だって言われて、それで歌いに出る事ができなくって、それをいい事にやめちゃったんですよね。それでお休みしてたんだけれど、お休みしてたのがそのまま歌わなくなっちゃったんですよ。それから、子供を育てなきゃならないのも、やっぱりありましたよね。

T:なるほど。でも歌を歌いたいっていう気持ちは割とそのままで。

A:やっぱりいつもどっかにあったんですよね。だけれど、やっぱり毎日、毎日、いろんなことに追われて、追われていくうちに、何年もたってしまったという感じでしょうか。

T:2000年入っちゃう感じですよね。

A:そうですね。2000年前後ですね。

T:何が起こったんですか?

A:きっかけですか。

T:ええ。

A:久しぶりに中川五郎に「歌ってみる?」って言われて。一緒にやるのはもう20年ぶりぐらいだったんですよ。西岡恭蔵さんの追悼の日比谷野音で演ったコンサートの時に、恭蔵さんの歌を歌ってみるかって言われて、コーラスをつけてちょっと歌ったんですけど。それがずっとお休みしてて、久しぶりに歌った初めですね。その野音が初め。

T:かなり練習、リハーサルしたんですか。

A:全然してないです。本当に全く練習も何もなくて久しぶりに歌ったのがその時です。

T:どうだったですか。久しぶりで。

A:よかったと思いますよ。(笑)いや、間違いなんですけど、練習しなくても歌えると思ったんですよ、その時は、久しぶりでも。でもちゃんと歌えたと思います。歌だけでしたけどね。

T:これはいけるぞと。

A:いけるぞというよりも、それよりも「歌いたい」っていうのが先ですよね。「また歌いたい」っていう、そういう感じですよね。

T:直ぐにそのチャンスはあったんですか?

A:それで、初めて歌ったよみたいな感じで、人前に出ていって、それから下北沢のラカーニャの岩下さんに「やれば?」って言われて、やってみたらって、また歌い始めてみたらっていう事で、「やってもいいよ」って言われたんですよ。お店でね。だから、ちゃんと歌い始めたのはそれが初めですね。その時には、1人じゃなくて、中山ラビさん、それから今は歌ってないですけど片桐麻美さん、そして宮武希(みやたけのぞみ)ちゃんと、私の4組、女性ばっかりで演ったんですよ。

T:何曲ぐらい歌ったんですか?

A:多分各々30分ぐらいだったと思うんですよね。みんな30分、30分、30分だったような気がします。

T:今までに作った楽曲、歌ってきた楽曲を歌ったんですか?

A:そうです。昔演ってた歌を演ったんです。

T:その後、何か変化っていうか?

A:それから今に至ってるんですけどね。2年前に(伊藤)銀次さんと始める以前、また歌い始めた頃はバンドで演ってたんですよ。バンドって、私のバンドじゃなくて、お手伝いしてもらうっていう形の。演るときには「一緒に演りましょうか」って言ってくれる人と演ってたんですけどね。主にベースの岡嶋ブンさんとか、それからギターの今井忍さんとか。それから、パーカッションのANNSANもやってくれたこともあるし。大体そのメンバーで一緒に、しばらくやってたんです。何年か。

T:東京ベースで。

A:東京ですね。

T:場所はどの辺で。

A:下北の「ラ・カーニャ」だったり、今お店なくなっちゃったんですけど、渋谷にあった「ツインズ・よしはし」なんかでやったりとか、ですね。

T:銀次さんと会ったきっかけは?

A:きっかけは、(福岡)風太が「やってみない?」って言ってくれたことですけどね。ただ、その前に、何年だったか忘れちゃったんだけど、何年だっけ、銀次さん、日比谷のココナツバンクの。

銀次:ココナツ・バンクのアルバムが出る前の年。


A:前の年に、日比谷の野音で銀次さんも久しぶりにライブだったんですよね。

銀次:ココナツ・バンクのライブって、例の「喫茶ロックイベント」。

A:あれに銀次さん出てて、風太が「見に行かない」って誘ってくれて、見にいったんですよ。その時に銀次さんと再会したんですよ。久しぶりに再会して、風太が「最近また青木さんが歌ってるよ」って銀次さんに紹介してくれて、改めて。それで。で、そうしたら銀次さんが「一緒に演ろうか」みたいなことを言ってくれたんですよね。

銀次:そのときはね、僕は青木さんのアルバムを出したかったんですよ。実はその時、インディーズで1つレーベル持ってたんですよ。それで、1つバンドを出してたので、ほかのアーティストもやりましょうよってなってて、それで折から森山良子さんとかが人気出てたりして、それなりの年齢の女性で、大人の歌を歌える人がいいかなって、社長さんに話したら、面白白いですねって。それで、実は昔のデモテープ、青木さんのデモテープを僕が持ってたんですよ。それを社長さんに聴かせたら、「いい声してますね、この女性は」って、やりましょうよっていう話になってたんですよ。それで、そういう話だから青木さん出しましょうよって。だから、僕はプロデューサーとして彼女のCDを出したかったんですよ。それと、再会したって青木さんが言ってたように、実は以前「のろ」でつくった青木さんのデモテープに僕もギターで参加してたんですよ。おまけに、そこに西本明君もいたんですよ。

T:なるほど。

銀次:僕は持ってたんですよ。そのデモのカセットを。なぜかっていうと、すごい気に入ってたんですよ。歌が好きで、青木さんの声とかが。それで、いずれはCD化っていうか、アーティストとしてどっかでデビューするだろうと思ってたのに、全然それがなかったから、このカセットがなくなったら青木さんの歌がなくなるわけですよ。ずっとカセットで持ってたのをDATに移しかえて持ってたんですよ。だから、最初はバックつけるっていうのは、バンドでやりたい、プロデュースしたいって。そしたら例のその会社がつぶれちゃったんで、それで残念なことになくなっちゃって。そうこうしてるときに、2年前かな、風太の方から「青木さんを、ちょっと手伝ってくれないか」って。

A:2年前の春一に「銀次さんと一緒に演らないか」って。

銀次:「一緒にプレイしてくれないか」って言われたんですよ。

T:春一はどうだったんですか?

A:その時には、時間もなかったのでただ私の弾き語りに、ギターをつけてくれただけなんですよ。銀次さんはそのまま私の演り方にギターをつけてくれたっていう、そういうライブだったんですよ。

T:そこでは何曲ぐらい。

A:4曲ぐらいだったような、3曲か4曲ですね。それで、去年も一緒にやったんですよ。それから、その春一以降は、バンドじゃなくて銀次さんと一緒に、それまでドンベイ(永田純)とはちょっと演ってたけどね。ドンベイとは3回ぐらいライブやったけれども。

銀次:ショーン・コルビンの編成なんですよ。ギターとベースで。

A:ギターとベースと。

銀次:最初はこの編成を理想形として始めたんだけど、僕は、プロデューサー的な立場でもあるので、とにかく青木さんの音楽や歌をよくしていくことに、労力を割くこと、まずそこが原点で、青木さんがいい曲を書けたり、いい演奏できるように、まずそれが出来てからバンドにしてもいいかな?と思って。今、5、6人でやってもいいけど、やっぱり5、6人になったら、5、6人になった時に、5分の1のボーカリストになったらつまらないじゃないですか。やっぱりそれだけパワーアップしたものに、バックがついても負けないような存在感のある歌になるまで、やっぱり2人で頑張りましょうという事でやってきてます。

A:ずっとそれから2人でやってるんですよ。去年の春一も2人で。ことしの春一も2人でやりました。

T:そして、ユニットの名前が。

A:「クラウディ・ベイ」です。

T:その話は?

銀次:気がついたんですよ。一番青木さんと再会して驚いたのは、青木さんも結構、僕らぐらいの年代の人なのに、(さっきの)ショーン・コルビン聴いてるしね。おおよそ僕と同年代の人で、ショーン・コルビンなんて誰も知らないんですよ。ちゃんと新しい音楽聞いてたのね。実は、最初盛り上がったのはそれだったんだよね。

A:銀次さんが、何が好きみたいなことを話をしているうちに、「何が好き、最近何を聴いてる?」みたいなことになって、「ショーン・コルビンが大好きなのよ」って話したらびっくりしてて。

銀次:最初、音楽好きの高校生が、「それも持ってるのとか、じゃあ、あれも持ってる」とか、そんな感じだったんですよ。こんなの久しくなかったの。

A:私も銀次さんの事をロックの人だと思ってるから。彼もきっと私のこと、フォークの人だと思ってると思うんですよ。

銀次:そしたら、カーズが好きだったとか。

A:好きなものがね。

銀次:余りにも好きなものとか、感じ方とか、音楽的な感じ方が似てるんですよね。全然違う場所にいたのに。前、一緒にデモテープつくった時は、本当に何日間、3日とかそんなもんですよ、正味。しかもあのときは岡島ブンちゃんっていうベーシストが仲介になって、彼がどっちかというとまとめ役だったんですよ。彼が青木さんを知ってて、ブンちゃんは僕のバンドのメンバーだったので、どっちかというとあんまり話もできなかったし。青木さんのいろいろ音楽の話を聞くのは初めてで、本当に好きなものとか、共通してる。あ、おもしろいなと思って。それで始めたんだけど、とりあえずは青木さんの今の音楽とか、過去の音楽でCD化されていないものを形にしたいというのが、初動の目的ですよね。でもそれとは別に、高校生の同好会みたいな、それも楽しいなと思って。久々に。それが反映されるようなユニット、青木さんも本当に自分のポリシーとかそういうものにこだわらない、音楽同好会みたいな、やれるような、それがあったら楽しいかなと思って、クラウディ・ベイでいこうかと。

T:了解です。じゃあ、これから青木さん的にやっていきたいって事は?


A:この年で歌える歌を歌っていきたいと思っています。今の自分が感じている事が歌に出来て歌えたらいいなって。

T:今日は、ありがとうございました。

A:ありがとうございました。

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青木ともこさんの出演するライブが、2006年6月22日、新中野・弁天にて行なわれます。
詳しくは「Special Issue」にて。