古村敏比古(PART1)


1980年代からの浜田省吾とのツアー等、幅広く色々なアーティスト、ミュージシャンと交流を持ち、
多岐に渡る音楽活動を続けているサックス奏者、古村敏比古さんのロングインタビュー、そのPART1です!


(2006年4月10日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)



古村敏比古 (Toshihiko Furumura)

基本的には、Sax Player。 
それも、Jazz系ではなく、はったり型Rock系。(サイトより)

学生時代(明治学院大在学中)EastWestに出場。
その時にナルチョこと、鳴瀬善博氏にそそのかされ、この世界に入る。

そして、金子マリ&バックスバニーをはじめ、
数々のSessionに参加。様々なMusicianと交流を深める。
その後、織田哲郎、北島健二らと「9Th Image」結成。

1982年からは、浜田省吾の「On The Road」に参加。
その他、矢沢永吉、中島みゆき、竹内まりや、尾崎豊、B'z、
チャゲ&飛鳥、玉置浩二、吉田美奈子、Tube、相川七瀬などの
RecordingやTour等に参加。


現在、ソロ活動の他、古川村カンフル罪などのユニットで活動。
更に、織田哲郎、美久月千春、小田原豊らとD.L.B.(Don't Look Back)結成。 活動中。まだ解散はしてないはずである。(サイトより)



詳しいインフォメーション→オフィシャルサイト


    
古村敏比古インタビュー(PART1)

(竹内)まりやさんのところで舞台監督やってた人が浜田(省吾)さんの舞台監督で。今もやってるんだけど。その紹介でサックスのさし、「バンドはあるからサックスだけ、ちょっとセッションで来てくれない?」みたいな感じで。それがすごいんですよ、あの当時で倉敷と広島と島根、全部2デイズ。「えっ? なんでそんなところで2日も出来るの」って。

TERA(以下:T):では宜しくお願いします!

古村 (以下:F):はい。

T:ではまず、生まれと場所を教えてください。

F:高円寺南。でも、正確に生まれたのは荻窪の病院だったらしいんです。

T:ご兄弟は?

F:兄弟は妹が1人います。

T:小さいころは良く遊んだり?

F:というか、年離れてるから、別にけんかもない感じで。たまにありますよね、絶縁してる兄弟とか。そんな事は、ないです。

T:幼稚園の頃は、どんな感じの遊びを? 何か覚えてる事はありますか?

F:何やってたかな。女の先生のお尻ばっか追っかけてたんじゃないかな。幼稚園……。うん。あの頃は全然物騒じゃないですから、集団で動くこともなく、1人で。いや、1人じゃなくて友達と家に帰ってたような気がするな、歩いて。

T:小学校入ったあたりは、何かお稽古ごととかは? 何か覚えてる事はありますか?

F:オルガン習いに行ったのかな。ピアノじゃなくてオルガンだったような気がする。でもすぐやめたし。あと絵も習いに行ってたかな。そんな程度ですね。

T:じゃあ、音的なものはオルガンが初めて。

F:そうかな。多分そうですね。でも、全然弾けてなかったし。

T:絵かくのも好きだったんですか?

F:うん。高校の時は美術部で、目指す!芸大油絵!ぐらいのところまでいってたんですけど、でも同時に高校でブラスバンドも入って、両方入っちゃって。

T:なるほど。少し戻りますけど、小学校の上級生になると、何か活動は?

F:そうですね。小学校の4年の時に金沢に転校して、楽しかったんですよ、金沢。なんか面白くて。金沢の小学校で放送劇をやるのが楽しかった。結構ね。

T:それは、どういった内容なんですか?

F:小学生がやるようなやつですから、何か「ピノキオ」とか。多分、放送劇みたいな事をやる小学校、あんまりないんじゃないかと思って、結構すぐれていて、石川県の賞をもらったような気がします。

T:何年間か、してたんですか?

F:金沢にいたのは2年間だけだったんで。

T:それで金沢2年いて、それでまた。

F:東京戻ってきて。実家が大泉の方に。

T:東映東京撮影所のある。

F:ええ。そうですね、そこからまたずっと東京で。

T:古村さんは外で遊ぶほうが多い感じでしたか?

F:うん。いや、どっちも好きだったと思うな。プラモデルつくるの好きだったし。でもみんなは戦車とか、飛行機とかを作るんだけど、僕は、お城のプラモデルをつくって、城フェチなんですよ。旅行くと城があると嬉しくて。お城で一番好きだったのが、岐阜城っていう城があるんですけど、岐阜のキンカサンの上にある稲葉山城とも言われている、かつて斉藤道村がいて、織田信長が攻め落としたと言われる山城があるんですけど、それの模型をつくった時は嬉しかったですね。ちゃんと山をスポンジとか、おが屑とかを細かくして、緑色に塗って、それをジオラマみたいに。まだ実家にあるな。そういう変な子供でした。

T:城シリーズは、結構、つくったんですか?

F:市販されているものは、多分つくったんじゃないかな。あんまり今でもそんな増えてないと思うんです。そういう子供でしたね。でも、虫とり行ったりするのも好きだったし。練馬ですから。今は大分緑なくなったけど畑とか多いし、朝、くりの木を蹴っ飛ばして、かぶと虫とかクワガタとかとったりして。そんなやつかな。

T:中学校入ると、何か部活とかは?

F:中学は、最初バスケやって、あんまり上手くないなって、サッカーに移ってみたいな。陸上は高校入ってかな。音楽的な事は、中学校の音楽の教師が面白かったんですよ。明らかな日教組で。でもすごく好きなんですよね。ヨシナガ先生っていう先生が。大体、小学校や中学校の音楽教師というのは、ピアノとか習ってる子がどうしてもひいきになるじゃないですか。そういうのがなくて、いきなり全員リコーダー。同じリコーダー買わせて、自分の作った教則本を片っ端からやらせて。自分も昔オルガンやってて途中で挫折したものの、やはりピアノを習ってる子とかには、かすかな嫉妬心があるんですよ。(笑) でも、そういうのを払拭させてくれた先生がいて、そこでやっと「譜面というのはこんなもんだ」と。今でもあんまり読めないし、ごちゃごちゃした譜面見ると「うー、、」とかなっちゃうけど、譜面の読み方っていうのは、「あ、そうなんだ」っていう感じで、思いっきり日教組だけど、あの人は良かったね。でも何をもって日教組だと思ったんだろう。

T:曲は、どんな曲をやるんですか?

F:普通の、というか練習曲みたいな。どうだったっけな。普通のリコーダーはジャーマン式だったのかな。でもあの先生はバロック式。何か小学校で使ってた笛とは違う、ちょっと運指が違うんですよ。でも「これにしろ」ってね、みんなに買わせてね。きっとリベートもらってたんだろうと。(笑)みんな同じ楽器で、みんなでちゃんと吹くと音もあんまりばらつきがないから、結構いけてたんですよ。

T:その頃、レコードとか、何か自分で買ったり聴いたりとかしてましたか?

F:うん。中学校の頃にロックとか聴き始めてたよな。小学校の時がモンキーズぐらいだから。

T:モンキーズは何から入ったんですか。テレビショーですか。

F:テレビで。パートリッジファミリーとか、モンキーズとか。やっぱりおれ、長男だから、兄貴のいる友達とかは、やっぱり早いじゃないですか。そういう連中が、あの頃はレコードって高いし、中学生でLP盤なんて買えなかったんだけど、おれの友達が、何だっけな、クリームとか持ってきて、すげーひでージャケットで。「これほんとかよ」とか言いながら貸してもらってたけど。変なやつで、最初に買ったシングルは、多分カーペンターズの『スーパースター』なんだよね。で、LPはシカゴの『ギフトパック』だったかな。ブラスがもう既に好きで。その次にちゃんとしたLP買ったのは『原子心母』かな。

T:中学でピンクフロイドを?

F:うん。中学生にしてピンクフロイド聴いてたな。だから、シングル盤も幾つか買ってたけど、LPじゃないと聞けない曲があるんだ、これはどうしても買わなければいけないって。ピンクフロイドのオンタイムは「吹けよ風、呼べよ嵐」が入って。シングルとか買って、あんなものシングル買ってもばかみたいなんだけど。『原子心母』はやっぱり買わなきゃいけないなと。あの頃、そういう風に蘊蓄があったんですよ。ロック史上に残る4枚のアルバムとか。『サージョントペッパーズ』と、何だっけな、人によっていろいろあるけど、『原子心母』かな。今でもピンクフロイドは大好きだし。初めてロックコンサートみたいなのも行ったのも中学校で、ツェッペリンを観に行ってるんですよ。

T:初めてのコンサートがツェッペリン。

F:初めてのコンサートは、武道館のツェッペリン2回目だった。

T:どんな感じでした、最初に行ったコンサートは。

F:中学校なんかで、もうロックバンドやってるような人たちいましたけど、何かもう、ただうるさいだけで歌なんか何も聞こえない。でも、ツェッペリン行ったら、ロバートプラントの声がスコーンと来て。「何だこれ?」って。いや、かなり衝撃でしたね。うちへ帰ってもずっと耳鳴りがしてましたね。寝つけなくて。

T:そこから何か変わった部分ってあるんですか。急にライブ行きだすとか。

F:そんなお金なかった。子供ですから。バイトもしてないような状況で。でも、それからいろいろ『ミュージックライフ』とかいろいろ読んでですね。あと、ツェッペリンはハードロックなんだけど、プログレが。やっぱりピンクフロイドから好きで、ジェスロータルとかも聴いて、フルートだとか思って、いまだにちゃんとふけないんですけど。サックスよりも先にフルートをちょっと試してたんですよ。

T:そうなんですか。買ったのは、いつぐらいなんですか?

F:でも、全然大したフルートじゃなくて。

T:中学ですか、高校?

F:中学の終わり頃かな。何か買って。楽器もよくなかったし、腕もなかったし。全然サックスっていう感じじゃなかったですよね。あと、エレキベースとギターとかやったりはしてて高校入って、最初はロックバンドみたいなことやってたんだけど。

T:高校でバンド組んだ感じですか。

F:1年だったかな。1年か2年か。その辺の記憶は何かごちゃごちゃになってて。でも、高校入った時点では、「もうおれは絵描きになりたい」みたいな感じで。

T:じゃあ比重は、音楽より、絵?

F:そうだったんですけどね。でも、美術室で絵描いてるといろんな音が聞こえてくると、そっちの方が気になるじゃないですか。ブラバンに入ったのも、美術室が2階にあって、その下がブラバンの部室で、ブラバンの友達と「部活いこうか」って、「同じ方向だから」って、「ちょっと寄れば」みたいな感じで。それで「サックス、今、吹くやついないんだけどさ、吹かない」って。「は?」みたいな感じで、そんなところから始まっちゃって。済みません、いいかげんで。

T:最初、吹いた曲はどんな曲だったんですか?普通のブラスバンドの?

F:ブラスバンドの、ブラパンのサックスって、つまらないんですよ、はっきり言って。クラリネットとか、ああいう。サックスも木管なんだけど、木管系と同じ動きする場合と、単独の時もあるけど、あと金管系のパートに合わす時とあって、金管のところでいくと金管に押されて聞こえないし、クラリネットとユニゾンで動く時は、「サックスうるさい、もうちょっと下げて!」って。割とストレスがたまる。ちょっとジャズっぽい曲やると、やっぱりそっかみたいな。でも、もともとロックは好きだったんだけど、サックスとロックって全然結びついてなかったし、そのころ管の入ってるバンドっていったら、シカゴとかグラスロックみたいな、ほんと。あと僕好きだったのが、トラフィックっていうバンドだったんだけど、知ってます?

T:ええ。

F:スティーヴウィンウッド、死んじゃったんだけど、クリスウッドっていうサックスとフルートのやつと。デイブメイスンも一番最初いたんだけど。ものすごい名前が出てこない、あいつも死んじゃったんだよ。サックスとそういうエレキバンドっていうか、ロックバンドっていうか、そういうのが結びついたのは、ブルースなんだね。あの頃、『ブルースフェスティバル』っていうのがあって、一番最初にやって来たのが、スリーピンジョンエスティスとかで、次に来たのがバディガイで、バディガイの後ろでACリードっていうサックスがいて、こうやって参加できるんだって感じで、そこからちょっとブルースに、はまって。

T:高校の終わり頃ですか。バンドは?

F:高校の半ばぐらいかな。よくわからないな。中学の時、やってたっけ、俺。やってたか。

T:その時はギターですか?

F:うん。ベース。ギャバンってベースがあってさ。(笑)

T:それも自分で買って。

F:レコード屋でバイトして買ったかな。それで、ベースとエルクの100ワットのベーアンも持ってたんだけど、ベースは盗まれて、ベーアンは火吹いて。電気楽器めんどくせえなと思って。(笑)

T:(笑)なるほど。

F:うん。サックスでちゃんと出来なかったけど、クリムゾンとかもやってたな。完奏できなかったな。

T:じゃあ、高校生活1週間の内、美術部とブラバンやバンドやってる割合っていうのは半々ぐらいですか?

F:そうですね。最初はそうだったけど、だんだんバンド、ブラバンの方になっていって、色んな事をやってたね。あと高校の時は陸上部も入ってたんだよな。

T:結構活発な。

F:そうですね。活発なやつですね。

T:好奇心旺盛で。

F:うん。まあ、でもどれも中途半端だったんだけどね。

T:絵はあれですか。割と課題も、自分の好きなものも?両方とも描けたんですか?

F:うん。割と地味な絵でね。僕の描いてた絵は。セザンヌとか好きだったからね。そんな感じ。先生がそうだったのかもしれないけど。静物画とかも好きでしたね。

T:木炭、デッサンとかは?

F:デッサンも。やっぱ美術部入ったら、美大目指すんだったら毎日、毎日放課後にデッサンしなきゃいけないわけで。でもやってると気になっちゃうわけで。音楽が。

T:高校卒業で、どういう感じの動きになってきたんですか?

F:「やっぱり美大は無理かな」みたいな感じで。高一の時は芸大、2年になって多摩美か武蔵美で、3年になったらもうどうでもよくなって。そんで、高校時代にサックスでバンドやるようになって、高三になったらもうドロップアウトしたいぐらいな感じで、セミプロみたいなバンドにも何か入って、ディスコバンドだの、そういうののオーディションとか、いきなり受けに行って。「これでうまくいったら学校なんかやめちゃおうかな」みたいな感じでいたんだけど、そこまで世の中は甘くなく、親にも説得されて、「大学行きなさい」と。そんな感じですかね。受験なんか行ったって、だめで。一浪して代々木ゼミナール行って。で。またバンド組んじゃったんですよ。(笑)代ゼミで。代ゼミいくと、何か変な、髪長くて、一部メッシュ入れてる、当時の人はかなり目立つやつがいて、今、ソニーのディレクターやってるアベってやつなんですけど、それなんかと、そいつはどうもトッドラングレーを気取ってたらしいんだけど。(笑)

T:そのバンドっていうのは、本格的に。

F:アマチュアなんですけど、ドラムのやつが、またいいかげんなやつで、明治学院に友達がいるらしくて、「明学の練習場が使えるから」みたいな事で。それで浪人時代から明治学院に行ってるうちに、「この大学いいな、入ろう」とかいって、うまい事入っちゃったんだけど。誰がいたっけな。そんな感じで、もう学校も決めて、社会学部社会福祉学科という、一応頑張ればソーシャルワーカーとかの免状とれるはずだったんだけど。一応卒業はしたんだけど、なんにも免許は持ってないな。

T:大学時代は、そのバンドが割と中心になってくるんですか?

F:そうですね。バンドがやりたくて、その学校行ったみたいな感じのところあるし、うん。そこから色んな学校のサークルの連中も会ったけど、当時の明学って強力だったんですよ先輩が。1コ上が岡野ハジメいまして、知ってますよね。あとその人はもう卒業してやめちゃったんだけど、高橋さんっていう、マービンゲイっぽい歌歌う人がいたんだけど、その人がやってるアソカっていうバンドがあったんですよ。そのバンドっていうのが、ドラムが渡嘉敷さんで、ベースが渡辺モリオさんで、ギターがカタヤンで、キーボードはミミちゃんって、小林イズミっていう。サックスに、なんと清水靖明さんがいたんだよ。それをなんか普通の教室で見まして、圧倒されまくって。「もの凄いなこれ」って。そっからもう夢中ですよね、そっちの方に。

T:バンドは幾つか組んだりとかしてたんですか?

F:うん。杉山卓夫って知ってる? 昔、マザーアースにいた人。そいつ同級生で、それとアマチュアバンド組んで、「バイオニックマッスル」ってバンドやってたんだけど。

T:バンドっぽいバンドは、初めてで。

F:そうかな。バンドっぽいバンド。高校の時にやってたバンドも、一応バンド「ウカレキントキ・ブルースバンド」っていうのでね。それで、「バイオニックマッスル」っていうバンドやって、それと並行してサークルの中で「所沢コンフォートステーション」っていう、グラスロックのバンドやってて。それがさ、この間。話ごっちゃごちゃになるけど、織田哲郎も、実は明学で一緒だったんだよね。そこで知り合ったんだけど、織田とこの間久々に花見じゃないんだけど、三宿の朝までやってるロック飲み屋で一緒で。その昔、所沢コンフォートステーション、実はイーストウエスト出たんですよ。サザンの翌年に。一緒に出たのはウシャコだとか、シャネルズとか、テンソーもいたな。そこにそのレコードがありやがって、ひどい演奏だったな。(笑)あれで、もう悪酔いしちゃったんだよな、翌日も気持ち悪くて。だから、そこでいっぱいいろんな人と会って、その所沢コンフォートステーションでイーストウエスト出たら、福田(裕彦)もいたんだ。福田は「ウメショクニン」っていうバンドで出てて、鎌田ジョージってギター。そいつの「ゼロ」っていうバンドもあったし、とんでもない78年の。それでなんか審査員にナルチョとかいて、そこからなんか、大学いるうちに「バックスバニー」の丁稚奉公みたいな事をやりまして、今思えば、それがね。

T:いきなり凄い流れですけど、大学在学中にすでに仕事に?

F:バックスバニーやってたし、でも、バックスバニーは丁稚だから。大学の在学中に竹内まりやさんのツアーサポートみたいなのやってて。

T:それはもちろんサックスで。

F:サックスで。うん。

T:サックスで最初からいってたんですか?

F:「ウカレキントキブルースバンド」の頃は、まだベース。「バイオニックマッスル」っていうバンドで完璧サックスで。まだフュージョンと言葉がない頃のグロスとか、ジャズロックみたいな。トムスコットとかやってたんですけどね。

T:大学入る頃はサックスっていう?

F:そのサークルには、おれは、やっぱり「サックスでロックっていうのもな〜」っていうのあったみたいで、「ボーカリストで入れてくれ」って言って。新入生同士でバンド組めって言われた時にウィッシュボーンアッシュ歌って大失敗した覚えがある。

T:じゃあ、歌も割と?

F:いやいや。大変ですね、歌。照れくさいっすよ。カンフルとかで歌ってますけど。

T:それで仕事っていうか、ツアーとかその辺回るようになって。大学もちゃんとクリアしながら?

F:うん。5年かかったんですけど、4年生ぐらいの時から、まりやさんやってて、まりやさんも慶応大学8年生で後がないっていう。「大学なんてやめちゃいなさいよ」とか言われながら。

T:あの頃は、杉(真理)さんとかも。

F:そこまでよく知らなかった。(山下)達郎さんに会ったのも、楽屋に汚い兄ちゃんがいるみたいな。だから、僕なんかね、竹内まりやさんがそれっきりツアーをやってませんので、今、貴重な体験をさせていただいた訳ですけど。その時、西本明も一緒で。

T:他はどんなメンバーだったんですか?

F:ドラムがグッちゃんで、野口明彦で、ベースが最初、チビタっていうのがいて、その後、後藤君。ギターが青山トオルさん。で、もと愛奴の。その辺から浜田省吾の影が、その辺にあるわけで。

T:その辺って、何年ぐらいですかね。

F:80年ぐらいだと思うな。78年がイーストウエスト、79年ぐらいにバックスバニーとかやって、80年だったかな。まりやさんやり終わってからかな。前後わからないんだけど、織田と「9th Image」っていうバンド、ちゃんとしたレコードデビューっていうのは、その「9th Image」なんですけど。

T:メジャーでデビューですか。

F:うん。一応。

T:どこからだったんですか。

F:キャニオン。

T:その結成の経緯みたいなのは?

F:織田哲郎は、大学一緒に入ったらしいんだけど、全然学校で見かけたこともないし、学校ではすれ違いの状態で。1年目の学校の「現音」っていうサークルなんだけど、現代音楽研究会っていうんですよ。合宿の時、僕は行かれなくて、なんかだめだったんだな。でも織田は行ってて、っていうすれ違いで。1年の学祭で初めてあって。生意気なやつで。「おまえ、いいじゃん」って、「やろうやろうよ」って、「おれとやったら間違いないから」ぐらいな感じで。「でも僕、君のこと、知らないんだけど」っていう感じで。(笑) その時、「ホワイ」っていうバンドをやってて、北島ケンジとか、中田シュウスケっていうのとやって、その後にバンドをつくり直す感じで「9th Image」組んで。それは北島がギターで、ドラムの小沼は後にバービーボーイズ入るやつなんですけど、ベースが松井って、後にボウイに入るやつなんですけど。で、あとジュンイチ君ってキーボードいたけど、基本的にレコーディングはその時は難波さんがやってて。ブイブイ言ってましたね、あの頃ね。ちょうど、やっぱりスプリングスティーンとかはやりつつあって、佐野さんとか、もうがーっと来てる頃で、佐野元春、織田哲郎、高橋研みたいな、こういうラインがあったりとか。

T:織田さんとは、ソロでは。

F:織田がソロになってからも、ずっとやってたんですけど。

T:バンド自体は何年ぐらい。

F:「9th Image」自体は、2年ぐらいじゃないかな。で、松井はボウイに行って、小沼はバービーに行って、みんなよかったねっていう感じになるんだけど。おれと北島は織田のところに残って、その後ベース、ドラムが山田ワタル。関マサオっていうベースがいるんですけど、関マサオはその昔、しーたかと「クライシス」ってやってた。そのギターがまた青山さんなんだけど。

T:織田さんやってるときに、また並行して違う人とも?

F:いろいろやってたと思う。「オトボケキャッツ」なんかもやったりとか、バックスバニーも続いてたかな。あと、マルチノセッションとかもやってたし、中村雅俊のツアーもやったり。


T:じゃあ、結構、がーっと忙しくなってきたっていう感じですか?

F:うん。それで、雅俊さんのツアーを首になって、ぼーっとしてるところに、浜田さんの話が来て、それが82年の終わりぐらいだったかな。

T:最初はどういう感じのアプローチだったんですか。

F:いや、うーんと、まりやさんのところで舞台監督やってた人が、浜田さんの舞台監督で。今もやってるんだけど、その人の紹介で、サックスのさし、「バンドはあるから、サックスだけちょっとセッションで来てくれない?」みたいな感じで。それがすごいんですよ、あの当時で倉敷と広島と島根、全部2デイズ。「えっ? なんでそんなところで2日も出来るの」って。お客さんもがんがん入って、ロックやって盛り上がってるから、「何でこんなに入ってるの、何?」ってびっくりしつつ、楽しんでやって。「ばっちりじゃん!」みたいな話で、それから翌年もやるようになるんですね。

T:じゃあ、その数日間が、浜田さんとの初めてのツアー?

F:それもリハも何もなしで、テイクだけ送ってきて。「何?これ」って。

T:全曲?数曲?

F:ううん。何曲か、5,6曲だったと思うけど、1ステージで。

T:最初、浜田さんとライブやってみた印象って、どんな感じだったんですか?

F:面白かったし、っていうか、びっくりだよね。ロックやってこんなに客入るんだっていうかさ、僕は洋楽志向だったから、聞いてないですから、「歌詞って大事なんだ」って。音がかっこよきゃいいじゃんぐらいなところでいたんだけど、「そうなんだ、ちゃんと歌詞を聞かせると客はついてくるんだ」みたいな。

T:そのツアーのメンバーって、知ってる人もいたんですか。

F:誰もいない。

T:じゃあ、全く知らない。

F:全く知らないところに。舞台監督しか知らない。いや、よくありましたもん、そういうセッションで、ツイストにも入ったことあるし、その頃から、鮫ちゃんとはその頃から知ってるし。ジョーさんのもやったし。館さんとかにもね、あの頃、恐かったから。「ユー、今度音出そうよ」って。クロコダイルが一番恐いころ。そういうの呼ばれればどこでも。それを考えると、逆にそのころ浜田さんのバンド「THE FUSE」っていうんだけど、全然人当たりいいし、今、町支君しか残ってないけど、板倉とか、ベースが江澤。キーボードがいて、ドラムのシュンちゃん(鈴木俊二)もやめちゃったけど、シュンちゃんすごく仲よかったな。

T:じゃあ、このツアーから「THE FUSE」のメンバーに。

F:そうですね。

T:83年から。

F:そうですね。織田もそこ並行してやってたんだけど、やっぱりどうしても重なって出来なくなっちゃって、織田とは一時離れた時期があって。おれの後に入ったのが、勝田っていう、今をときめく「ディメンション」のサックスなんですけど。そうですね、だから、織田とやってて織田のあれから見てチューブの仕事もやったりとか。去年いきなりミュージックフェアか何かでチューブに呼ばれて20周年。「え、君たち20年も経つの?どうすればいいんだよ」って感じでしたね。

T:浜田さんのツアーは、毎年、本数が多いですね。

F:あの頃は多かったけど、他もやってましたし、物理的に可能なら何でもやりたいほうでしたから。来るものは、ほとんどこばんでませんし、今でもそうなんですけど。

T:83〜85年あたりは、ずっと?

F:あの頃は毎年あったですね。

T:レコーディングにも。

F:そう。最初にやったのは「サンドキャッスル」ってアルバムなんだけど、その次が「メインストリート」と「J-BOY」。「メインストリート」あたりから、バンドでレコーディングやらせてもらって、その中で、水谷さんがずっとアレンジやってたんだけど、あの頃は、もうイタさんもオレも、ブイブイいってましたから、ステージで。曲とか先に作って、やってく感じで、それでいざレコーディングになるとスタジオミュージシャンにふられる感じが、みんなかちんと来てた部分があるんだけど、逆にオレらでやらせてくれるっていうんで、そうなったらそうなったで、いろいろ生意気いうわけで。

T:それが、「ダウンバイ〜」あたりなんですか。

F:「ダウンバイ〜」じゃなかったかな。「J-BOY」とかもそうなんですけど。

T:「J-BOY」は、とても強力なアルバムですよね。

F:あれも基本的にはバンドでアレンジでやって。

T:2枚組で。当時、ガツンと入ってきましたね。

F:あれでもう確固たるものを築いてしまいましたからね。あの時のレコーディングも、メンバーでやったり、トラックダウン、ロサンゼルス連れて行ってもらえなかったりとか。いまだにそんな事を言うなよって。(笑) あの時は、グレグラダーニーっていう、フリードウッドマックとかやってるエンジニアのところに行ったんだけど、その後、別の人ので会ったけど、グレグラダーニーには。吸血鬼みたいなやつだったね。時間が来るとコート着て帰っちゃうんだもん。あの人、なんだろうね。

T:80年代後半も、浜田さんが続いたんですか。

F:うーん。浜田さん一色だったのかな、あの辺は。80年代は毎年のようにツアーやってたし、あと中村あゆみもやってたし、それで中村あゆみをやってから、しばらくして(中島)みゆきさんとかな。

T:浜田さんのバンドのFUSEって、一時から「FUSE」って言わなくなりましたよね。

F:FUSEっていうのは。うーん。シュンちゃんとイッペイがいなくなった時点で、もう「THE FUSE」じゃないんだよね。「J-BOY」の後は、もうFUSEって名前じゃなかったと思うな。

T:「On The Road」というツアーは、80年代から?

F:僕が参加した時かららしいんだよね。「On The Road」ってライブアルバム。僕は入ってないけど、81年ぐらいに出してるのかな。そこからみたいで。

T:じゃあ、かなり前からなんですね。

F:そうなんですよ。おいしい名前をとりましたよね。

T:メンバーは、少しずつ変わってるんですか?

F:うん。えーっと、そのシュンちゃんとイッペイ抜けた後はリョウ君が入って来たり。その前があったんだ、岩崎ハジメちゃんとか、グッちゃん(野口明彦)も一時入った時あったし、ホウダイサム君ってギターがいた時期もあったし、その後かな?「J-BOY」の時に梁邦彦とか。リョウ君は知ってる?

T:面識はないですが。

F:梁邦彦と、ドラムは高橋ノブユキと、で、また関マサオがここで出てくるんですね。

T:その後、85、86、88年と続いてますね。最近、その頃のライブDVDを見たんですが。とても壮大ですね。

F:はい。

T:毎回、かなりの台数のカメラが?


F:最近はすごいね。何か、この間のツアーも、いきなり最近の話になっちゃってあれなんだけど、毎回撮ってるし、カメラマンが1、2、3、4人。
もっといるか。何かステージにいて、後ろのでっかいスクリーンに出すので、そういうのもありつつ、毎回ビデオ撮ってるみたいで、スタジオ行ったら整理するのにフィルムが山の様になってて、「いやにならない?それ。そんなに撮って、どうするの?」って聞いた。みんなどこもそうなんだろうけど。整理大変ですよね。

T:すごいですよね。だって、見えるだけでも、かなりの台数のカメラが入ってて、ステージ周りだけでも多い。


F:ドラム用のとキーボード用のと。

T:アングルが、上から引きからすごかったですね。渚園のとか。それまでの他の球場ライブとか比じゃない。


F:渚園って何年だっけ。


T:渚園は88年になってますね。88年の8月ですね。


F:野外イベントにこだわりがあるみたいで、海の中道も、渚園もそれまではライブバージンなんですよ。他の人がやったところではやらない。

T:話が変わりますが。90年代ってバブルが弾けて。っていってもあんまり影響はないですか?

F:あったんですよ。やはりバブル期だったからこそ、僕のようなものがソロアルバムをつくれたわけで。

T:そう、ソロアルバムですね。ソロアルバムをつくるきっかけの話を。

F:水谷さんですよ。水谷さんが「やればいいじゃん」って事で、それで紹介してくれたのが、キミヤさんっていうユイのディレクターなんですけど、それまでにパーカッションのぺっかーさんなんかと、いろいろまたバンドっぽい事をやって、その中で僕のデモテープなんか作ったりしてたんだけど、そういうのも含めてキミヤさんにあれして、フォーライフから4.5枚だしたんですけどね、3年間で4枚。契約どおりで。

T:最初出したのが。


F:91年かな。91、92、93年で出したはずです。

T:内容的にはどういう風に構成してたんですか。

F:1枚目は、やっぱ90年代ですから、シーケンスとか全盛でね、マックのパフォーマーとか、あの頃だな。

T:そうですね。

F:それまでは、ヤマハのこういうやつで、シーケンスがだんだんコンピューターに変わってくようなところなんだけど、うーん、まだループって感覚もなかった時代で。その中で、ループっていう言い方はしてなかったかもしれないけど、サックスの多重録音みたいな、全部バリトンからソプラノまで使って、音を作るみたいなのから最初は始まったんだけど、全曲それやってるとちょっとつらいんで。あと今だにソロでやってる曲もありますけど。今だとその場でフレーズをサンプルしてループ出来る様なやつあるじゃないですか、そういうのでやっと遊べるようになりまして。ソロではそういう事をやったりもするんだけど1枚目は割とそういう感じで。2枚目は「もうちょっとポップにしなさい」って言われて。それでその頃もう、みゆきさんやってたんだ、だから瀬尾さんとか知ってたんだ。何と瀬尾一三さんにも手伝ってもらいながら、当時にしてはものすごく金がかかったらしいんだけど、たかがインストのアルバムで。

T:そのアルバムについて、色々と教えて下さい。

F:はい。

次号、PART2に続く >>>>>>>>>>

古村敏比古さんについて詳しいインフォメーションは、オフィシャルHP(http://www.meg-pro.com/hocuspocus/)まで。