MANNA (PART2)

 デビュー30周年を迎え、現在ベアフットコンサート開催や、時折、momentイベントでも素敵な歌声を聴かせてくれている、
 MANNA(マナ)さんのロングインタビューです。 そのPART2です。


(2007年4月4日/momentにて/インタビュアー:TERA@moment)





 MANNA (マナ)

  Talk&Interview PART2
 
  


    
 MANNA(マナ)・ロングインタビュー(PART2)

サッチン(岩澤幸矢)が主宰しているベアフット協会は「はだしで自由に歩けるきれいで安全な海岸の創造」が目標です。ビーチクリーンナップをして、そこで流した汗と拾ったゴミが入場券の「ベアフットコンサート」を26年続けています。最初は何も分からない事ばかりだったんですけど、イベントのプロデューサーっていう形で関わっていく様になりましたね。

TERA(以下:T):それで、日本帰って来て。ジャケット、あれは東京なんですか?

MANNA(マナ)(以下:M) : 『チャバコトリック』?あれは都内のスタジオで撮ったんじゃないのかなぁ。アンルイスさんが洋服のブランドを出していて、アンちゃんのお洋服を借りたんだと思う。多分。

T:で、アルバムが店頭に並ぶ。で、手に取って思う事って。その時は?

M:なんかねぇ。たまたまレコード店で他のレコード見にいったら、たまたま他のお客さんが私のアルバムを手に取ってて。それでうれしくてその方に「有難う!!これ私のです。」って声をかけたら吃驚してました。「買って下さい!!」  「Thank You!!」買って頂いたと思います!シングルのプロモーションの時出演したTBSのラジオ番組で、「最初にレコードが出た時にどうしてましたか?」みたいなの定番で聞くじゃない?実はその日、TBSのラジオのバイト君をしてて、「発売日にTBSでバイトをしてました」って言ったらラジオスタッフには大受けだったけど、アミューズのマネージャーだったイケジュンこと池田潤さんは倒れていました。(笑)きっと、渡辺プロのアーティストはこんなこと言わないのね。

T:プロモーションとかって?

M:ありましたねぇ。アルバムとシングル出来てから、大里さんとふたりで日本中回りました。ちゃんと覚えてないって感じ?何処にいたとかは解んない・・・くらい色々回ったの。

T:夜のヒットパレードとか出てたのは、あの頃でしたっけ?

M:(笑)そうですね。わぁ、懐かしいなぁ!

T:で、夜ヒットの話しなんですけど、テレビで歌うっていうのは?

M:あれが最初だったのかな?細野さんの『イエローマジックカーニバル』って曲を歌い終わって「有難う!!」っていったら、スタジオ中、大爆笑になっちゃって。「えっ!?何でここで笑われるの?」。テレビって、今は違うのかもしれないけど、その頃は「歌い終わったら、普通、有難うって言わないんだ」ってマネージャーに言われて、そういうものなのだと学習しましたが。恥ずかしかったです。凄く。

T:ライブとかは?

M:えっと、やってましたよ。最初のお披露目ライブみたいなのが、豪華でしたよ。サザンと同じ事務所だったのでサザンのメンバーが一緒に参加してくれて、バックが何と『スペルトラム』!豪華でしたわ。そこで、皆で盛り上げてくれたそんなライブでした。


T:場所は?

M:日本青年館って所で最初にやったのかな?九段会館かしらん?
その後は、スペクトラムがデビューしてしまったので、スペクトラムもサザンも、その頃、凄く売れていました。私は自分のバンドが欲しいと思っていて、それでキーボードの西本明君と、ベースの美久月千春君とか、キーボードは矢島マキさんとサポートバンドを作りました。ギターは矢島賢。スチールギターとかも入ったの。林さんもドラムで時々参加してくれたりして。だから、ツインドラムで、ツインギターでツインキーボードの変てこな編成。それで色々廻ったの。


T:で、二枚目までの流れっていうのは?

M:あのね、シングルも出して。京平さんがいつもここぞとばかリに難しい曲を書いてきて、すっごい大変だったけどトライになりました。京平さん多分、変な声の人が好きなのかも(笑)!
あとはね、ラジオをたくさんやってったの。多いときは七本くらいやってたのかも。月に!
面白かった〜。東京ではバンバン、ばんばひろふみさんや谷村新司さんと一緒だったり、チカちゃんこと、近田晴夫さんとやったりとか。それと大阪では笑福亭釣瓶ちゃんと一緒に『ヤングタウン』をやっていました。あと何か地方NETみたいなのとか。たくさんラジオやってたの。面白かったわ。みんな個性的なメンバーで。


T:じゃぁ、もう休む暇もない?

M:そう。なかった。なかったですね。

T:セカンドアルバムのレコーディングはどんな感じで?

M:オリジナル曲を入れて貰いたかったんだけど、プロデューサーの林さんにはコンセプトがあって。その頃、ちょっとアジアの香りがするものが少しずつ流行ってきていて。細野さん達も試していたりとかで、それをもっと歌謡曲っていって良いか解らないけど、ちょっとアジアンテイストのある歌謡曲みたいな、POPSみたいなのをやっていこうかな?というのが一枚目のアルバムでした。二作目はもっと等身大でいきましょう!ということに。私はオリジナル曲を入れて欲しかったけど、その頃4ビートの曲を書いていたのでなかなか採用されず、って感じでしたね。

T:ファーストとセカンドの間って?

M:一年ぐらいじゃないのかなぁ?その間にシングルとかやってるから。よく解らない日々が続きました・・・て感じでしたね。


T:その時期は楽しかった?

M:本当によく覚えてない。友達達は就職した人もいれば、卒業に向かっている人もいれば。それぞれ忙しい時期で、友達に会う事もできず。基本的に時間帯がもう、全然、合わなくなっちゃたから。だからマネージャーに遊んでたもらっていました。マネージャーのイケジュンがおしゃれな人でかっこいいお店に良く連れていてもらったの。あと当時スタジオミュージシャン全盛の頃だから、ミュージシャンが通うお店がいっぱいあって、夜中とか行くと誰かがいる、みたいな感じでした。

T:ファースト、セカンド、最近再発されてるんですよね?

M:はい。恥ずかしい。

T:再発のあのジャケットっていうのは?

M:あれは多分、二枚目のジャケットをそのまま使ったのかな?少し直して。ソニーのデザイナーが作ってくれたのかな。そうそう。この間ライブでも言ったけど、ソニーの再発チームのスタッフに初めて会った時、皆さんに喜んで頂けたのですが・・・「本物だ!」「ついに本物見た!」そういう感じで盛り上がっていただいて。シーラカンス扱いしていただきました。(笑)

T:エピックはその二枚。

M:そうですね。それと、シングル4枚。

T:エピックの後っていうのは何か特別な流れとかは?

M:キャ〜!!!(笑)結婚してしまいました!


T:成る程、成る程。で、もうぱたっと。で、音楽は生活の中ではどういう位置を占めてたんですか?

M:結婚して、それですぐ子供が生まれ二歳くらいまでは子育てを楽しみました。とっても楽しい時期だった。それから今度は『ライトハウス』っていうバンドを組みました。キーボードの矢島マキ、それと旦那さんの矢島賢、ジマヤンのギターと夫のサッチンと四人で夫婦もん二組で『ライトハウス』ってバンドを作って。レコーディングだけしてました。

T:じゃぁ、もう生活の中だけって感じで?

M:そうですね。忙しいのは私には無理って思ってて、ゆっくり音楽ができるようにしました。そうですね。週末の木、金、土だけスタジオに入って、アルバムを作ってポニーキャニオンから出して頂きました。オリジナルは二枚ぐらい出したのかな?ええと、あとはTVのポンキッキの音楽制作をしたり、筑波博のイベント音楽を作ったり、映画のサントラや、CM曲を歌ったり、楽曲提供用の詩や曲を作ったりしていました。

T:それは名義は?

M:名義はねぇ、ライトハウスです。多分、個人名は出してないと思います。そこで、スタジオって自分に合ってるなと思って。ステージで歌うって大変じゃない?スタジオはゼロから作っていくっていう面白さっていうか。そっちの方が合ってるなって思いました。そうそう、「ドラゴンボールZ」のエンディングテーマもこの頃歌いましたね。このスタジオで一回しか歌ってない曲で、日本でもアメリカでも子どもたちの人気者になれたのがうれしかった!あとは、ゲストボーカルでレコーディングに参加してたの。杉真理君のアルバムやライブに参加した時、アレンジャーの京田誠一君と出会いました。なんだか気が合って、音楽の好きな物が似てたのね。それから一緒にやることも増えました。

T:80年代はそのユニットが中心?

M:そう。それからハワイに移ったの。

T:それは何時頃なんですか?

M:何時頃かなぁ?91年?90年ぐらいかな?


T:それはどういうきっかけで?

M:それまでライトハウスをやっていたんですけど。矢島ご夫妻のお嬢さんがご病気になってしまったので、バンドの存続が難しくなったの。それと、たまたまサッチンの、夫の仕事がハワイであるっていう事で、それで、行っちゃいましょうハワイへとなりました。

T:ハワイでの最初の生活っていうのはどんな感じなんですか?

M:凄く良かった。アメリカなので生活は大変なこともありましたけど、本当に自分のためになったいい時間になりました。結局、サッチンは日本でも仕事があるので、一ケ月の半分は日本にいるから私と娘と二人でいる事が多くてなったの。それで、私は日本では出来ない事をやろうと思って、教会のチャーチクワイアーに入ったり、ホノルルシンフォニーのコーラスに入ったりしました。楽しかった!ひさびさにクラシックを歌えて。
娘が行ってた学校が『シュタイナー学校』っていう所で、日本の人たちがとても興味が持っている特殊な学校だったので、日本人のサマースクールを企画したリしてました。そんな事をやっているうちに、ファンハウスから「デモテープ録りませんか?」ってお話しを頂き日本に帰ってきて冬にデモテープ録ったのかな?


T:それは90年?

M:どうだったかな?もうちょっと後だったと思う。93年とか。そこに入っていた『おなかすいたね』って曲が、ハウスのシチューのコマーシャルに使われて。社長が凄く気に入って下さって、「ハウスの社歌にしろ!」(笑)ってお話しがあったらしいですけど。すぐ決まっちゃったの。デモテープ作って一週間ぐらいにその年の秋・冬のシチューのコマーシャルが決まったの。小野田君とか、京田君が手伝ってくれて。そのあとハワイに戻って、夏に日本に帰ってきて、レコーディング録り直したのかな?


T:そのシチューのコマーシャルは長かったんですか?

M:いなかったから。日本でどれぐらい流れてたかは解んないわ。でも、かなり長かったらしいですよ。

T:皆、あのフレーズは聞いた事あるって。

M:本当?嬉しいわ!でも、友達とかは「マナ、日本にいないけど、うざい程聞こえてる」という事、良くいわれましたけど。ハワイにいたので全然流れてるのっていうの解らない感じ。


T:そのハワイ生活はまだ続いてるんですか?

M:そうそうそう。それで、ちっちゃいアルバム作ろうということになって。でも、どうせだったらハワイで歌いたいな。じゃぁ、ハワイでレコーディングしましょうということに。そこで京田君とハワイのミュージシャンに参加してもらって『子供の庭』を作りました。そんな事しているうちに、日本での仕事が増えてきたので日本に戻ろうかなぁと考えていたら、たまたま娘も八年生卒業するって時期が来て。それで、娘に今後どうしたいか聞いたら、「日本で高校の部活っていうものをやってみたい!」と言うのね。それが、日本に戻ろうって気持ちにさせました。

T:帰ってきたのが90年後半って感じなんですか?

M:帰ってきたの96年とかじゃないかな?

T:帰ってきて日本の様子はどう?

M:言葉が全然変わってて驚いた!あの、ギャル語?「超なんとか!」とか。ああいうものを皆が喋る世界になっていて。お話しではニュースとかで知ってはいたけど、こういう事なんだって帰って経験してみて驚いた。喋り方が皆変わっていた!他では、アメリカでよく聞いているテレビやラジオで流れている音楽っていうのが、日本ではぜんぜん流れてないって事が解りました。こんなに違うのね〜。
あと、大人は「何とかじゃないじゃないですか」ってフレーズ流行らなかった?すぐ意味が分からなかった。「えっ、それはダブルネガティブ?」「それはYesって事なの?」「NoでNoだとYesになるの?」「何とかじゃないじゃないですか」大人も不思議な言葉を喋っていた。5、6年の間にこんなに「違うのかな?」とびっくり。


T:2000年入って、娘さんも大きくなって。歌とかってどういう風に?

M:そうね。帰ってきてから海外の展示会用の音楽制作のスタジオワークやっていました。娘がずっと小さい頃は、ベビーシッターがいないと、スタジオへ一緒に連れていったの。時々私の代わりに彼女が歌って、それが最終的にOKになったものもあるのよ。日本へ帰ってからも、高校生の彼女をスタジオに連れていきました。今度はベビーシッターがいないからではなく、曲を書いてもらったり、歌ってもらったり、コーラス付けてもらったりとか。そんな事を彼女も日本に帰ってきてバイト君でやってたの。彼女はその後アルバムデヴューしました。その頃から私もシンガーというよりも、プロデューサーとして全体を見てお金の計算をして音楽をつくる・・・そんな事をやり初めました。

T:成る程。で、ベアフットの方もやり始めるんですよね?

M:そう。サッチンが主宰しているベアフット協会は「はだしで自由に歩けるきれいで安全な海岸の創造」が目標です。ビーチクリーンナップをして、そこで流した汗と拾ったゴミが入場券の”ベアフットコンサート”を26年続けています。それを少しずつ手伝い、最初は何も分からないことばかりだったんですけど、イベントのプロデューサーっていう形で関わっていく様になりましたね。今ではそっちの方がメインですわ(笑)。

T:あの、活発にイベントに関わっているのは2000年に入ってから?

M:そうですね。私にはずっと無理だって疑ってたんで。簡単にいえばお金があっての仕事ではないので、なかなか他の人には頼みにくいって状況があったの。それでもう、「私がやるしかない!」と思って色々スタッフワークに関わっていきました。そうしたら、気持ちに賛同してくれる人達がどんどん集まって、ベアフットコンサートを色んな場所でやる様になったの。それにプロフェッショナルスタッフがボランティアペースで協力してくれてるようになりました。おかげさまで、随分、ベアフットの活動は広まりました。

T:音楽とは切り離せない事だとは思うんですけど、このコンサートとかでマナさんが歌ったリだとかは?

M:やってましたよ。鵠沼のベアフットの時にサポートのミューシャンを入れましょうって年があって。あれは1999年かな?2000年にはなってなかったかも。それで、小野田君とか、里村美和君とか、キーボードの京田君とか。親しい人達に「ちょっと海で演奏してよ」ってお願いして手伝ってもらって。その時、久しぶりに彼等と演奏して歌ったら、凄い気持ち良くて。それで何か「バンドやろうよ!」ってのがあって『OHANA BAND』が出来ました。

T:何時も出てる?

M:そうですね。最近はOHANAでは出演していませんね〜。

T:あれはどういう風に作ってる?

M:OHANAのアルバムは、殆ど自宅で作ってるんですけど。期間的に一年ぐらいかかって作ってるかも。で、あれも一枚ポニーキャニオンから出して頂いてるんです。ポニーキャニオンの契約が最初にあって始めたんじゃなくて、この時間ならたまたま皆が暇だっていう時間が二か月ぐらいあって。レコーディングを始めたの。スタジオは最後!一番最後に借りたのかな?それで、ドラムとか入れなきゃいけないからスタジオで録ったの。それがポニキャンから出るようになったんです。ちょっとハワイアンを意識して。京田先生がプロデューサーです。

T:そうですよね。

M:はい、そんな感じで。

T:じゃぁ、あの、ソロ音源っていうのは近年あんまり出てないんですけど、そういうのは構想とかはないんですか?

M:はい。何かそういう意味では凄く野心家ではないので。私にとっての音楽っていうのは、まず、人に聞いてもらいたいとかじゃなくて、自分が楽しいのがありきなの。実は自分の家でピアノ弾いて歌ってるので満足しちゃうの。夫のサッチンにも言われるんですけど、そこがよろしくないと。アルバム出すとライブもやんなきゃいけないでしょ?ライブ全然、嫌じゃないんですけど、今の私にとってみれば別の銀河系なんです。そこにシフトするにはかなりエネルギーがいるの。何となくそこが(笑い)ソロ活動に私が二の足を踏んでいる所かも!

T:momemtでは時折、歌って頂いたりとか。

M:そうね。

T:これからも、時折、聞かせてもらおうかと。

M:そうね。まぁ、曲がたまったらアルバム作りたいと思ってますけど・・・。今の私の生き方ではソロミュージシャンが最優先事項ではないのね。どうしても夫がレコーディングしている、娘がレコーディングしていると彼等のサポートにまわる事のほうが多いから、彼等が一段落ついたら自分の事を考えたいなと思ってますけどね。

T:じゃぁ、最後にファンの方に。

M:いるかなぁ?

T:いますとも!

M:シーラカンス歌手じゃないぞ〜(笑)!

T:(笑)

M:ファンの方がもし、いるとするならばとても嬉しいです。momentが時々、歌う機会を作ってくれていますけど、もし、聞けそうな時があったら是非、聞いて下さい。そして、今までもこれからも考えていきたいと思いますけど、私の歌う事で誰かが幸せになってくれたら嬉しいなと思います!マナでした(笑)!



PART1へ>>>>>>>>>>


MANNAさんが活動しているベアフットオフィシャルHPは、コチラ(http://www.barefoot.jp/)まで。