鬼頭径五(PART1)

 ライブイベント「路地裏ダイアモンズ興行」シリーズを展開中で、独自のペースでロック活動を続けている、
 ブルース・ロックシンガー鬼頭径五さんのロングインタビュー。そのPART1です。


(2007年3月15日/momentにて/インタビュアー:TERA@moment



 鬼頭径五・ロングインタビュー (Part 1)

きとう・けいご 
1961年、横浜生まれ。10代の頃より地元京浜地区を中心にいくつものバンド活動を経験する。
1988年、CBSソニーよりデビュー。
その後、いくつかのバンド、事務所を経て、アコースティック、R&Rバンドと様々なスタイルにありながらも、
一貫してその圧倒的な声の存在感と詩の世界を持ち続け、常にフロントに立ち歌い続ける。
1993年、その後8年間活動を共にする「THE HARLEM」の前身となるバンド「鬼頭径五&THE HARVEST」結成。
東京・横浜での定期的なライブ、ツアー・イベント出演等、東名阪を中心に精力的にライブ活動を行う。
1999年、アルバムリリース。
2001年4月、「THE HARLEM」解散。
2001年9月より、ロックイベント[THE NIGHTS!]を開催。03年4月まで8回にわたって行う。
以後ソロとして弾き語りライブを行うと共に、長年の盟友平和夫率いるSAME OLD HEAVYZとのバンドセットでの活動も始め、2004年、「ケイゴ・ウィズ・ヘヴィーズ」名義で3曲入りの自主制作盤も発表。
2006年6月、弾き語りスタイルでは3作目となる『朱にピンクに銀のハンチング』発表。
現在は東京、横浜、愛知、大阪、京都での定期的なライブ活動とともに自身のプロデュースによるイベントも開催。
ギター1本でR&Rすべく、各地を回っている。


その頃に何となく評判にはなってて。そのメンバーでCD出しましょうって話も決まって、メーカーもすんなり決まって。だけど、そのスケジューリングって時に、俺、バンドを抜けちゃったんですよ。殆ど、原因は俺だったんですけど。どうも不自然な気がしてたのね。そのバンドでの演奏が。何ていうのかな……俺はずっとロックンロールやってたんですけど、、、


TERA(以下:T): まず、小学校に入った頃の記憶は?

鬼頭径五(以下:K): えぇっと。両親とも忙しかったんで、近所のおばさんとかが、入学式に来た記憶がありますね。


T:早く色んな仲間とか見つけるタイプだったんですかね?

K:いや。性格の悪いガキだったろうと思うんで。あまり、小学校、中学校まではそんなに心を許せる友達っていうのはいなかったかな? 一人、二人ぐらいしか。はい。

T:小学生時代って、どんな遊びをしてましたか?

K:川崎市にあった県営団地に住んでたんですよ。2DKなんですけど。目の前が今は鋪装されたもっともらしい名前の付いた奇麗な動物公園になってるんですけど、俺がガキの頃は、お年寄りが足でいくにはしんどいような丘。丘っていうにはちょっと大きい山のような。だから、何時も学校が終わるとランドセル家に放り込んでその山を「ガオー」って走り回ってました。


T:何か習ったりしてたんですか?

K:えっと、その山のふもとのお寺で3か月くらい習字、習ったかな?


T:小学校時代は、音楽に関係することはしていたのでしょうか? 楽器を持つとか?


K:団地に『田中さん』って家があったんです。自分は1号棟の3階で、その田中さんは、6号棟の1階。幼稚園の頃とか、よくそこに預けられてたらしいんですよ。そこのひとつ上のお兄ちゃんが『ツンちゃん』、ツネミ君っていって、彼に『キョウコちゃん』ってお姉ちゃんがいまして、俺の5つか6つ上だったと思うんですが。そのキョウコちゃんの影響でツンちゃんが、よく吉田拓郎さんを聴いてたんですよ。それが確か小学校5、6年の頃ですね。で、何かギターが「格好いいな」って、思ってて。親戚のおじさんにねだったら、買ってくれたんですよ。ガットギターってやつですね。クラシックの教則本かと一緒に渡されて。単音で、「禁じられた遊び」が弾けるようになって、ローコードが全部押さえられるようになったあたりで、放っといたんですよ。俺、小学校から大洋ホエールズに入団すると信じきってずっと野球やってて、それでしばらくギター置いといたんですけど……中学2、3年になると、ギター弾ける奴ってのがチラホラ出てきてですね。で、何か、やっぱり一目置かれてる感じってのがあって。それで俺ももう一度、触り出したんですけど。はい。

T:その頃、音楽は、ラジオ、テレビとか、どういう形で耳にしたんですか?

K:初めて買ったレコードは、たしか小学生の時買った『フィンガーファイブ』だったと思うんすけど。俺は鍵っ子だったんで、テレビとか見ようと思えば、夕方見放題だったんですが、あの頃「ギンザNOW」って番組があったじゃないですか?何曜日だったか憶えてないけどバンド合戦とかやってて、そこに俺の中学校の先輩が、いわゆる革ジャン&リーゼントのスタイルで「ジェイルズ」ってバンドで出場したんですよ。それでもう、「俺等の街の先輩がテレビ出ちゃった!」、「ロックンロールバンドでテレビ出ちゃった!」って感じで、凄いショックでしたね。その頃の俺にとって、最もロックンロールに"ニアピン"だった出来事です。


T:中学時代はどんな音楽を聴いてたのでしょうか?


K:結構、雑多でしたね。やっぱり、その、自分は家庭の事情で兄貴とすっごい小さい頃、別れてるから。友達のお兄さんお姉さんとかいう人達が聴いてるものを吸収する機会っていうのが多かったですね。で、自分達の時代っていうのは、ロックンロールだったら、キャロルだったり、クールスだったりダウンタウンブギウギバンドだったり。ファニーカンパニーってバンドがあるらしいぞ!とか。あとは、自分、あんまりハマれなかったですけど、アリスとかかぐや姫とか。フォークブームでしたよね。その辺も聴いたし。お兄さん達からは、ビートルズとかウイングスといった洋楽も聴かせてもらいました。何でも聴いてましたね。ディランもその頃が聴きはじめ。バッドカンパニーとかエアロスミスとか。あとはストーンズ。『LOVE YOU LIVE』のD面、あれこそがいまだにロックだと自分の中では思ってるんですけど。あれを聴いたのは中学2年か3年か。ショックでしたね〜。


T:高校に行くと何か活動とか、変わりましたか?

K:高校1年生の時にエレキギターを手に入れたんですよ。サンバーストのストラトキャスターをヤマハのアンプと一緒に友達から安く買ったんです。京浜急行の蒲田の駅で受け取って。裸のストラトキャスターとヤマハのアンプを持って電車で帰ってきたんだけど。めちゃめちゃ重たかったな。

T:高校時代、バンドは?

K:高校2、3年の頃からバンドらしきものはチョイチョイやってて、高校3年生の時、俺にはちょっと恥ずかしい過去なんですけど、ヤマハのコンクールで、神奈川・山梨大会で優勝しちゃったんですよ。その出来事が、何ていうか、ちょっと野球がうまかったりちょっと駆けっこが速かったりする、憎たらしいただのガキだったのに、いろんな地域から沢山のバンドが出たコンテストで「君達が一番です」っていわれて、吃驚しちゃって。あんまり大きな声では言えないんですけど。勝ったら、週三日3時間ぐらいタダでスタジオ使わせてくれるっていう話しで。で、結構、本気になってやっちゃった。オリジナルもその頃からボチボチ書き始めてました。

T:
最初は、どんな感じで作り始めたんですか?

K:大声でフェイクして「あっ、何か今の声の感じと音の並び悪くないなぁ」って思うと、そこから何かくっつけていく、そうやってたんだと思いますよ。まぁ、歌詞は作文みたいなものじゃなかったのかなぁ?

T:高校時代、音楽以外の思い出って何かありますか?

K:音楽以外の思い出? 高校時代……? うーんと、そうっすねぇ。音楽以外? 両親や周りに思いっ切り迷惑ばっかりかけて……いい思い出はあまり無いな。T:話が戻るんですけど、コンテストで優勝した後は、どういう動きになったんですか?K:色々と形を変えて、音楽やるっていうよりもバンドをやることに一生懸命になるっていうか。自分は演奏とか全然へたくそだったんで、スキルアップしようと常に思ってましたね。……22、23歳以前に自分が作った曲っていうのは、自分のアルバムにはひとつも収録してないんですよ。身も蓋もないけれど、それまでは全然話になってなかったんじゃないですかね?きっと。

T:その22、23歳からの転機って?

K:あの、恥ずかしいことに、俺、自分で部屋を借りて『一人暮らし』っていうのをしたことがないんです。20歳過ぎたくらいからは滅多に実家に寄り付かなかったんですけど。友達の家に居候したり、その友達と実家に米盗みに行ったり(笑)ひどいでしょ?、後はその時々付き合ってた女性の家に転がり込んでたり。自分は音楽しかやってなくて、要するに『ヒモ』ですわ。その頃から段々「ちょっとこれはどうにかせんとまずいぞ!」と。およそアーティスティックじゃないんですけど、「一発当てないと、相当、格好悪いぞ!」と。『BLACK BOOTS』って曲、出来たのがやっぱりその時期にある女性と暮らしてた頃なんすけど。19歳の時に初めて「屋根裏」に出て、その時から自分はプロのバンドマンだって思ってたんですが、その『BLACK BOOTS』って曲が、CDとかレコードのリリースという意味でいうと俺のデビュー曲だったんすよ。もとはロックンロールでやってたナンバーでしたが、88年に自分がソロとしてデビューした時にはミディアムテンポの感じに変わりました。3年前にSAME OLD HEAVYZってバンドと、その頃のロックンロールでやってた時のアンサンブルでレコーディングしてリリースして、今はまたそれとは全然違う感じのトーンで、懐メロとしては無理だから昔のナンバーはあまりやらないんだけど、あの曲は不思議とリアルタイムのアイデアが湧くんでよく歌ってます。

T:デビューはどんな感じで決まったんですか?

K:「NO BOXERZ」ってバンドをやってた頃に、「めんたんぴん」の佐々木忠平さんと出会ったんです。俺にとっては初めて出会った、昔からプロミュージシャンとして活躍されている方だったんですよ。彼は俺達の地元で「リンデスファン」っていう飲み屋やってて、その店に忠平さんの友達のミュージシャンや出版関係やプロダクションの人とかが集まってたんです。その辺で、僕等のことを押してくれる人達っていうのが出てきて……バンドブームの2、3年前じゃないですかね?

T:80年代中盤ですか?

K:そうですね。その頃に何となく評判にはなってて。そのメンバーでCD出しましょうって話も決まって、メーカーもすんなり決まって。だけど、そのスケジューリングって時に俺バンドを抜けちゃったんですよ。殆ど、原因は俺だったんですけど。どうも不自然な気がしてたのね。そのバンドでの演奏が。
何ていうのかな……俺はずっとロックンロールやってたんですけど、ストーンズの感じとかでやってたんですけど。ニューウェーブとかテクノとかいったあの頃、一番正統派なはずの俺等が、一番珍しいみたいに見られてたあの頃も、ずっとロックンロールやってたんですけど、わりと毛色の違うドラマーが入ってきて。そいつもそれなりに実力者だったり、スタジオとかではお金を稼いでるミュージシャンだったんですけど、そいつの感じがね、どうも俺には合わなかったんですよ。何か、全然R&Bじゃないし、ロックンロールじゃないし。俺、16ビートも大好きなんですけど、自分が魅力を感じない部分の16ビートをバンドに持ち込んできた感じだった。で、ずっと一緒にやってたメンバーがその感じに付き合って啓蒙されてくのが、見てらんなかったんだよね。きっと俺が無知だったとこもあっただろうし、そのドラマーと今やったらいい感じにやれそうな気もするっちゃするんだけど、残念ながらその頃は無理だったな。


T:メーカーはバンドのどういう部分が良かったんですか? 変わってきちゃった部分なのか。その前なのか。

K:どうだろうなぁ? たしかに評判になったのはその頃だったから、露出が多くなったのもその頃だったから、でもそれ以前に色んな業界の人達と出会ってなかったんでね、全然今そんな分析はできないですよね。T:解散後はソロみたいな形を?K:そうですね。バンドしかやりたくなかったんですけど、レコード出してくれるんなら「やりましょう」ってことですよね。たしか26歳の時にデビューアルバムが出たんですけど。そのバンドを解散して2年半後ぐらいかな?


T:デビューアルバムの収録曲は、バンド解散後に作った曲ですか?

K:中心になったのは、そのバンドが解散後に作った曲です。

T:選曲はどう進めていったんですか?

K:管理社会を壊したくてゴリゴリのことしかやりたくなかったんで、わざとゴリまくった所しか出してないんじゃないのかな?昔、RCサクセションの『FEEL SO BAD』ってアルバムあったじゃないですか。今でも俺はRCサクセションの中では、あのアルバムが一番好きなんですけど。事を荒立てるようなことばっか歌ってました。


T:今思うとそのデビューアルバムっていうのは、どういう感じ?

K:うーん、竹を割ることしかたくらんでないような(笑)、良い所は良いですけど。うーん、俺だけの物じゃないからな。当時レコードを買ってくれた人達が今それを聴くと、ある時期のことを思い出したりするモノじゃないですか。だから、その方達の物でもあるから、あまり悪くはいいたくないですよね。でも、当然、今の自分の方が、今、生きてる自分の方が、今の自分にとっては自分じゃないですか。だから、「おまえ余計な所でカロリー使ってるなー」っていう気はしちゃいますね。良い所は良いですけど。

T:なるほど。この辺りでPART1の終わりです。次回PART2も宜しくお願いいたします。


K:宜しくお願いします。


PART2へ続く>>>>>



鬼頭径五さんの詳しいインフォメーションに関しましては、
鬼頭径五・オフィシャルHP(http://santa-no-site.meganebu.com/index.html)まで。