special issue : 東京ガラパゴス/映画『ペット探偵シリーズ/CAT HUNTER』
【東京ガラパゴス】とは・・・・
南アメリカ赤道直下の太平洋に浮かぶ大小の島々ガラパゴス諸島には、そこでしか見ることのできない生物が、はるか遠い時代より独自の進化を続け今尚生き続けています。そこで我々は、ここでしか見られない役者達、進化し続ける役者達の集団!という事で、新ユニット名を”東京ガラパゴス”としました。このユニットは、樂演塾の役者を中心に結成、今後は年1〜2回の公演を続けてまいります。どうぞ皆様、暖かいご支援を受け賜りたくお願い申し上げます。(東京ガラパゴスweb
site より)
<東京ガラパゴスを主宰する星野東三男氏との出逢い/TERA@moment>
90年代初め、僕がまだTVCMの仕事をしていた時、某カレー商品のCMナレーションを女優の裕木奈江さんにお願いしました。その裕木さんのプロデュース兼事務所の代表をしていたのが、星野さんでした。その事務所『IMADOKI』は小さいながらも芸術肌の星野さんらしいパワーに溢れる環境で、シンガーソングライターの山崎ハコさんをはじめ、才能あるアーティスト達が所属していました。ある意味で悪しき芸能界に侵されてなく、当時の僕はとても新鮮な印象を受けたのです。その後の何年間かの活動の場を共にしたが、やはり出る杭は打たれてしまう。更に数年経ち、僕はCMを辞め、自由に映像や音楽の活動をしていました。
ある日、星野さんから電話があり、新たな劇団を作り舞台を行うという。それが、東京ガラパゴス公演『潜水艦物語』でした。舞台自体が感動的だった事はもちろんの事だったが、それに増して、久しぶりの星野さんの活動自体が僕を熱くさせてくれました。moment設立の経緯の中には、星野さんの様な「正直に/自由な」活動を続けている人達の多大な影響があるんです。
special isse : その1 星野東三男氏インタビュー |
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星野東三男:Tomio Hoshino
1944年3月25日横浜生まれ。
1963年県立神奈川工業高等学校建築科卒業。
1966年ダンスバンドのリーダーをやりながら楽曲発掘、演奏家育成に力を発揮。
1970年民社党議員の秘書をやりながら、民社党の鑑賞団体『神奈川新音』の音楽プロデューサーを引き受け、党の若者対策として横浜フォーク村をつくる。その中より山崎ハコを見い出す。
1976年音楽プロダクション『ニューサウンド』を設立、山崎ハコ、石黒ケイを育成しデビューさせながら、様々な音楽のプロデュースに関わる。
1989年事務所名を『IMADOKI』に変更、横浜博で音楽プロデューサーとして、ゼブラクラブ等の音楽イベントを手掛ける。
1990年祐木奈江を見い出し、育成しデビューさせる。
1999年役者育成塾『楽演塾』を開講。
2000年楽演塾を中心に役者のユニット東京ガラパゴスを旗揚げ。
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TERA(T):まず、星野さんが初めて映画にふれた頃の話を聞かせて下さい。
Hoshino (H):最初にね、映画っていうのは、おばあちゃんに映画館に連れて行ってもらった。まだその頃当然テレビなんてのはなかったんですよ。子供の頃おばあちゃんに連れられて。主に東映の時代劇ね。『笛吹童子』とか『紅孔雀』とかね。そういうものを観たのが最初ですよね。僕らの小学校の頃っていうのは、学校の校庭で白い大きな幕というかスクリーンを張って、夏休みに2回ぐらい上映するんですよね。それで観たのですごい印象に残ってるのは、山本嘉次郎の作品で馬を扱かった映画。あれが凄く印象に残ってるんですね。それが映画に最初にふれた部分で、その頃から映画三昧というか。僕が育った町は。昔ちっちゃな町にも映画館ってあったんですよ。僕は保土ヶ谷の天王町って所に、東映系の「保土ヶ谷東映」、日活系の「栄楽館」、それから東宝系・洋画系一緒にやってるライオン座、それから大映と松竹と五つ映画館がちっちゃな町だけどあった。やっぱり小学校時代は東映の時代劇で、中学に入ると生意気に日活の青春映画とか。あとは裕次郎とかそういう映画。その後はやっぱり洋画にいきましたね。僕の洋画の初体験ていうのは、実は『ターザン』なんですよ。横浜の、今もうなくなったと思いますけど。ニュース映画専門の映画館になってた記憶があるんですけど、そこで観た『ターザン』が初めてで。ワイズミュラーのターザンが洋画で初めて。
T:それは昭和40年代?
H :もっと前でしょう。僕が昭和19年生まれですから、多分小学校ですから昭和30年代です。
T:そうですね、30年代ですね。
H:そうですね、そのくらいだと思うんですよ。それが洋画での初めての体験で。その後高校で『史上最大の作戦』。あれを自分が非常に憧れた女の子とデートしたくて。誘った映画がね。
T:『史上最大の作戦』は1960年代はじめですね。
H:そうです。60年代の。その時に、今考えれば、あーいう映画に女の子を誘うこと自体がもう間違いなんだけど。こっちは自分が観たい映画をともかく誘うっていう事で、連れてって見事にふられましたね。こっちは興奮して「どうだった?どうだった?」って「わかんない。つまんなかった。長かった」とかって言われて、その後「映画を観に行こう」って言っても全然のってくれなかった。
T:じゃあ高校時代は映画三昧で?
H:映画三昧ですね、やっぱり。高校時代に東京と横浜で十何回観た映画が『シベールの日曜日』ってやつ。あれモノクロ映画なんですけど、すっごいキレイでね。この映画はすごい自分で観て感動して、毎日映画館に。その頃からですね、ヨーロッパ映画に憧れて。ヨーロッパ映画たくさん観るようになったのは。それまでは、ハリウッド映画だったんですけど。ちょうど日本の国が映画を観るっていう機会に皆恵まれていたっていう、同じ歩き方をしてるっていうか。だから東映の時代劇が黄金時代には東映だったし、その後はまあ松竹とか。松竹の方がちょっと東映と時期がだぶってて、小津さんの映画なんか僕は逆に大きくなってリバイバル上映で観るっていう風になっちゃったんですよね。それで日活から東宝、それから洋画っていう風な歩き方してるんです。その頃にサントラ盤っていうか映画音楽にひかれて、結局音楽に目覚めて、高校出ると同時にバンドを組んで。
T:どういう形体のバンドだったんですか?
H:それがね、僕の時代ってハワイアンバンドかジャズバンドだったのね。僕はハワイアンバンドの方をやった。ビアガーデンとかそういうような所でって感じで。
T:『マヒナスターズ』みたいな?
H:その前ですね。ちょうどバンドやってる頃に流行ったのは『マヒナスターズ』。それから『東京ロマンチカ』『ロスプリモス』。結局ハワイアンやっても客喜ばない訳ですよね。例えばダンスパーティやなんかで、そういうのやっても。それよりも日本の歌謡曲やってた方がいいかな?と思って。どんな歌がヒットするかなーって。実はその頃流行ってない歌を探してきて、バンドでやり始めたらそれが偶然ヒットしたっていうか。例えば『ラブユー東京』が発売された頃、あれもすぐヒットした訳じゃないんですよ。それを自分達が演奏していくうちに、2、3ヶ月後にヒットしたとか。それから『小樽の人』?でしたっけ『ロマンチカ』の。あれは最初『粉雪のラブレター』っていうタイトルで実はシングル切られてたんですよ。それがまったく売れなくて、後でタイトル変えてヒットしたんですよね。その頃にバンドのメンバーから「アニキ」って言われてたんだけど「アニキが曲を探してきて、それがヒットすんのって面白いよね」って言われてて。自分の中でも「あ、これは当たるな」っていう予感めいたものっていうのが、自分が音楽プロデュースに携わるきっかけになったと思うね。いつの間にか映画を観てる人間がサントラ盤や映画音楽にひかれて、自分もそういうの演奏したいな?と思ったんですけど、僕はそのギターがどうも指が太くてうまく押さえられないんですよね。どうしてもミスタッチが多くて、それで思いきってウッドベースはハッキリ言って弦も太いし楽器も大きいから「これなら押さえられるな」と思ってウッドベースへいって。ただ僕らの頃は、今のようにベースがね活躍するというよりも、どっちかっていうとウッドベースはもうリズムの方に入ってたんで、割と簡単な弾き方ですんだんですよ。だんだんウッドベースから皆がエレキベースに持ちかえる頃に、自分もエレキベースに持ち替えたんですけど、今度はやっぱりついていけない。それで裏方の方にまわるようになって。それがたまたま、そういうヒット曲を探すのに皆からね「なんか今度流行りそうなのない?」とかって言われて「こういうの面白いね」っていうのを紹介するっていう。そんなこんなしてるうちに、「ある議員の秘書をやらないか?」という事で。その議員の目的というのは、僕の周りにいつも若い人がいっぱいいるんで「こいつに頼めば若い人の組織で票集めになるから」っていうんで頼まれて。立ち上げたのが全国的にフォーク村がありましてですね、一番有名なのが拓郎さんの広島高校が。僕らも横浜フォーク村っていうのを作ったんですよ。そこにある三百何人ぐらいの会員がいまして、そこで曲の指導とかそういうのをやってるうちに、たまたまいたのが山崎ハコさん。
T:それがいつ頃ですか?
H:僕が27才ぐらいの時でしたね。24才ぐらいから秘書やってましたんで。最初の頃はイベント的なものでね。例えばアイ・ジョージのコンサートとか。それから横浜で一番ちょっと有名だったのは『10時間ロングロングショー』っていうのがありまして、これはかなり有名なフォーク歌手が二十何組出てるんですよ。そういうのをやっていながら、フォーク村やってて。そこにまあ結構優秀な子達が集まってきて。ハコさんを見い出したのが、27才ぐらいの時で。
T:ハコさんの最初の印象は?
H:うーん。ともかく目が印象的だったっていうのですね。すっごい目が意志を持ってる。それから声が独特の声。それから彼女が歌うと、非常にロックの好きな人だったんですよ。でもいろいろ話してて、僕が彼女に感じとったのは土着というか土の匂い。それで彼女には「民謡とか演歌みたいなものをベースにした歌を作ってごらん」っていって出来たのが、山崎ハコの世界っていうか。要するに、演歌っぽいフォークですかね。
T:ハコさんは、その時は学生だったんですか?
H:高校生です。高校1年の時に彼女は横浜に出てきたんです。僕が知り合ったのは17の時ですから、彼女が、ちょうど高校2年生になったばっかりの時に出会ったんですよね。
T:じゃあ学校に行きながら?
H:そうです。高校行きながらずーっとウチに通ってきてたんですよ。曲を聞いたり、最初はホントに声が小さい感じの人で、僕はよく神奈川県庁の中庭に連れてってね、僕は庭のはじっこの方にいて「ここまで届くように歌ってごらん」っていうような感じで。ものすごいやっぱり才能があったっていうか、歌のうまさもホントに天才的な部分持ってたんですね。どんな歌でも歌える。「何とかこの子をプロにしてあげたいな」と思って。それでデモテープを作って、あちこちにやってるうちに、新譜ジャーナルの副編をやってた尾崎さんという方が「自分がプロデュースしてあげるよ」って。それであのエレックレコードを紹介してもらって、デビューしたんですよね。
T:デビューは何年ですか?
H:1975年ですよね。
T:最初に出会ってから何年後ぐらいですか?
H:えっと出会ってから75年ということは。2年ぐらいですよ。彼女は非常に早かったんです。29才の時ですから、約2年ぐらいですね。ものすごくやっぱり頭のいい方で、詩も独特の世界を持ってたし。ともかく彼女の歌聞いてると泣けてくるっていうか。「これだけ人の心を揺さぶる子っていうのは珍しいな」と思って。最初に出会った人がそういう感じですからね。ちょうどその頃に「仕掛け」っていうとおかしいんですけど、『ジョイナスフォークコンペテイション』というのをやったんですね。僕がプロデュースして。それで彼女が優勝して。その時のメンバーが非常に面白いのは、後で親しくなった吉川忠英さんがゲストだったり。まだ売れてなかった『ダウンタウンブギウギバンド』とか。僕はそれ最初に聞いてすごく気に入っちゃって、決勝大会の時にもまた彼等に来てもらったんですよ。その時に出てた中に実は渡辺真知子さんがいたり、そこから確か4組ぐらいプロになってるんですよ。決勝に10人残ってすごい確率でしょ?74年ぐらいですね確か。それはグレードの高いコンテストだったんですよね。そこには僕がデビューさせた石黒ケイも出てたんですよ。ですから、彼女含めて渡辺真知子さんとか、それからもう一組デビューした子がいるんですけどね。
T:ハコさんの1枚目の制作経緯を教えて下さい。
H:1枚目は、その時にすでに50曲近く彼女が持ってた中で、一番心に残る歌っていう部分で選んだんですけど。やっぱり大切にしたいってことと、もう一つはシングル盤をきらないでやっていこうと。ていうのは、彼女は体が弱かったっていうのがありますんで、歌のヒット曲の世界でテレビ出たり、そういう部分では多分もたないだろうという。まあ、医者にも言われてたんでね。「非常にデビューは難しいですよ」って言われたみたいですから。そういうことを大切にしてあげる為にアルバムだけで。それからライブ活動だけでやっていこうという形でデビューさせたんですよ。ですから移籍するまではシングル盤一切きらなかったですね。アルバムだけであれだけ売れた子なんですよ。だから逆に言うと「彼女に申し訳ないな」と思ったのはアルバムでデビューさせた時に、代表曲ってのはない。普通の方はシングル盤でヒットしてるでしょ?だけど彼女の場合はアルパムでやっぱりヒットしてるもんですから、色んな歌はあるんですけども、これといった要するにヒット曲っていうのがないんですよね。それは僕の責任ではあるかなと思うんですけどね。ただ、あの当時のやり方としては間違ってないと思うんですよ、シングル盤きらない話。彼女がブレイクしたきっかけっていうのは『パックインミュージック』っていうTBSラジオの深夜番組。あの中でプロデューサーが気にいってくれて、よくゲストに呼んでもらって、その頃一緒にいた人というのがユーミンとかおすぎとピーコさんとかね、あそこに出た人はもの凄く多いんですよ。その『パックインミュージック』の「パック祭り」ってのがありまして、その時にハコさんがゲストで出たんですけど、たまたまライブハウスに出てたんですよ。向こうは生本番で、生本番っていうか録音でやってたんですけど、会場にギリギリでかけつけたんですね。それがすごく感動を呼んだというか、そこで歌った歌で会場のお客さんの2/3近くの人が涙を流したと。そこにたまたま日刊スポーツのオダギリさんて有名な記者の方なんですけど、その方がいて。その光景を記事にしたんですね。「シラケ世代と言われている若者が涙を見せてる」というような記事で。それがハコさんがブレイクするキッカケでしたね。
T:そこで歌った歌というのは?
H :『さよならの鐘』『気分をかえて』。その『さよならの鐘』の時に皆泣いたんですよね。ものすごい感動的な場面で。その後『パックインミュージック』の中で、その時の場面のテープがよく流れましたね。これがもうホントに山崎ハコを有名にするという事件だったんですよ。その後エレックが倒産してキャニオンに拾われて、『藍色の詩』が20万近くヒットしたもんですから。ホントにあの頃シングル盤なしでアルバムだけで歌っている歌手としては。しかもテレビ出なくてという意味ではかなりの数字だったと思います。それからアルバムとしてはゴールドディスク、レコードなんですけど、何枚かとってるんですよね。それから僕も逆に言えば音楽プロデューサーとしての部分は、ハコさんで成功させてもらったっていうのが正直な所ですね。
T:80年代入って、活動はどういう風になっていったんですか?
H:80年入ってからはハコさんはその後、結局暗いというイメージで逆に正直な話レコードの売り上げも伸びなくなってたという部分もありまして。ただ結構面白い企画はずいぶんやったんですよ。例えば『幻想旅行』という日本全国の、今で言えばご当地ソングみたいなやつなんですけど、それぞれの地域の特色を生かした曲で、これなんか僕なんかすごく企画としては気にいってるんですけど。残念ながらやっぱりヒット曲を持たない歌手ということで、枚数はそれほど伸びなかったんですよ。それでも一応、何万枚という数字なんですけどね。ただ、まあ企画自体はすごく好きだったし。同じ頃、東映映画の『地獄』という映画の主題歌、あれで逆に言えばそういうアルバムを一枚作ってみようっていうんで、僕がちょっと考えて『呪い』とか。それで結局、それが変にラジオの深夜番組で釘を打つって、わら人形のあれで何か変な所で売れ方してるんですけど。ちょうどその頃の作品ですよね。
T:あと『青春の門』の主題歌もありましたね。
H:はい。『青春の門』も、あれで一枚アルバムを作りましたね。その頃からなんですよ。僕がやっぱり昔からその映画好きで、原点戻りたいっていうか映画音楽のプロデュースをするようになって。まあ、よくハコさんで組んで作らせてもらったんですよね。
T:80年代、ハコさん以外の活動は?
H:やっぱり石黒ケイでしょうね。石黒ケイさんは、最初アイドル歌手でデビューしちゃったんですよ。このプロデュースは後の山下達郎さんのプロデューサーだったんですけど、筒見京平さんのとこでデビューしてんですよ。でも、もう一つブレイクしなくて。やっぱりハコさんていう同じ事務所の先輩がね偉大だった分だけ、ケイさんはどうしてもハコさんと比べられちゃうんですよ。本人も悩んでたし、僕もずっと考えてて。それで、思いきって彼女の個性を生かすっていう事で、ジャズの人に演奏してもらおうと。これがね。ジャズっていうのはすごく狭い世界で、女性ジャズシンガーっていうブームがあったでしょ?あの前なんですよ。しかもニューミュージックの歌手のバックにジャズのメンバーっていうのは。ジャズにこだわってると凄くプライド高いでしょ?それでやっぱり最初は断られたんですよ。はっきり言って。でも、たまたま知り合いが『アートペッパー』のコンサートを主催してたんで、彼の楽屋に直接カセットテレコを持ってのりこんで「実は僕はこの歌手のプロデュースをやっているものなんですけど」で歌を聞いてもらって、彼女とセッションじゃないんですけど演奏してもらえないだろうかという事で、2曲やってもらったんですね。同じ時期に『真夜中のカウボーイ』の彼がやっぱり来日してたんで、彼の楽屋にも行って同じようなやり方で。そしたら、非常に日本のジャズメンと違って気楽にね「あ、OKだ」って言って。ビクターのスタジオで2人とも来てもらってやったんですよ。セッション的にダーっと吹いてもらって。それが『アドリブ』という曲で。それだけのメンバーがやっぱりやったっていうことで、ジャズミュージシャン達が逆に参加してくれたということで。それきっかけにして変な話なんですけどニューミュージックと交流じゃないですけど、意外に壁取り払ってたというかね。
T:石黒さんにジャズを歌わせるっていうイメージなんですけれども、何かイメージあったんですか?
H:ないですね。それは全く無かったんです。新しいその日本の歌という形で要するにジャージー、ジャズではなくて彼女の場合。ジャージーでジャズまで行かない。ジャージーで、しかもちょっとブルースっぽいブルージーな色合いっていう。ま、その都会のジャージーな、ブルージーな世界って。これ僕が横浜育ちで、彼女も横浜に住んでてもらったんで、そういう所で横浜の夜をイメージさせるような、そういうような曲を彼女に書いてもらったんですよね。その時に聴いてもらったのが当然ジャズの、どの曲聞かせたのかな?多かったのは『ビリーホリディ』とかあの辺はかなり聴かせましたね。その中で彼女独自の世界を書いてもらって、それをジャズミュージシャン達が演奏してもらい、歌は彼女が歌うという部分なんですね。
T:石黒さんの1枚目は何年ですか?
H:1979年ぐらいでしたかね。僕もちょっと今、手元に資料ないんで。すごいヒットするはずだったんですよ。ビクターの方がこれね。出す時すごいこだわったんです。なぜかというと『アートペッパー』がビクターの洋楽だったんですよ。洋楽の方から「これ発売禁止だ」って言われてね。「アートペッパーのような大御所が日本の小娘のバックをやらせるとは、お前何を考えてんだ」と、「発売中止にしろ」って言われてね。すっごく怒られたんですよ。僕は「それだったらば、アートペッパー本人に確認してくれ」と。彼の了解をもらって僕はレコーディングしてるし、その頃奥さんがマネージャーやってたんですけど、ちゃんと契約書もあると。「それでも発売中止なのか」と。「だったら僕はこれ表に出しますよ」って逆ギレじゃないんですけどやって、それで出してもらったのね。ところが、そんな状態ですから、プレスが3万しかしてくれなかったんですよ。それが1週間であっという間になくなった。ところが今のCDと違って、プレスっていうのはローテーションが組まれてるんですね。よほど何十万枚ってヒットの場合は無理矢理開けさせるんですけど、いくつ伸びるかわからないじゃないですか。だから、それを待ってる間に終わっちゃった訳ですよ。ブームが。その時のプロデュースが作家の五木寛之さんだったんですよ。五木寛之さんがあちこちの雑誌に今書いてたりなんかして。やっぱり怒りましたよね。いくら書いたってレコードの原物がない訳ですから。結局再発売した時には、もう尻つぼみになってたから、その後数字があまり伸びなかったんですよ。そういう苦い思いがあって2枚ぐらいジャズっぽいものを出したんですけど、やっぱり数字が伸びないっていう事で。その頃、僕は『プリンス』のレコードを探してたんですけど、今でいう『タワーレコード』昔は洋楽専門で、僕はよくあそこで向こうの楽曲を探してたんですけど。それで、ふっと「なんか面白いアーティストいないの?」って言ったら、17才の男の子なんですけど、「全部自分でハウスミュージックでとってるのがあるんだけど聴いてみる?」って言われて聴いたら面白くてね。それでアレンジャーに「ちょっとこれ聴いてアレンジして」って言ったのが『横浜ラグタイム』ってアルバムで。要するにR&B系のオシャレな感じで、彼女のジャジーっていう風よりもブルージーな方を、R&B系のちょっとしたシャレたサウンドにしたんですね。「いけるかなー」と思ったんですけど、時代が早かったんでしょうね。なかなかこなくて。僕がそれをやってる頃に美人ジャズシンガーのブームが起きまして。その頃、石黒ケイはジャズから遠ざかってて、僕は日テレのプロデューサーから「あなたはプロデューサーとしては先見る目はあるけど、はっきり言ってイモなんだよ」と「時代を読めないね」って言われてね。「先どりしててもブームが来るまでやってなかったら何もならんのよ」って言われて。で『プリンス』やってる時は我慢しようと思ってやってたんですけど、なかなか来ないんですよ、ブームが。で、3年後ぐらいですかね、何とかの貴公子って、あの。
T:『パープルレイン』ですか?
H:『パープルレイン』が入った、あれがヒットしたのが3年後ぐらいなのね。その頃には、こっちはもう諦めてて。「これしょうがない、ジャパニーズポップスいこうか」って感じで、ポップの世界へちょっと入り始めちゃったんですよ。僕がこう、あっちこっち迷走するもんですから、他の人が「星野さんはまあ、ハコさんの方が合っててケイさんは違うんじゃないか」って言われてね。それで彼女は他の人にプロデュース任せるっていう形で。
T:80年代後半になると?
H:ちょうど86、7年ですかね。僕が彼女から手を引いちゃったのは。その頃に見つけたのが「裕木奈江」だったんです。実はその頃っていうのは僕はすでに音楽プロデューサーとしての自分の見切りの早さとか色んなものに自身を無くしてましてね。一回89年の横浜博の音楽プロデュースをやらしてもらって。そこで実験的なイベントを色々と組んでたんですね。その時に裕木奈江と出会いまして。その頃、奈江さんを教えてたというか、女優として。もう一度自分がやるんだったらば、今度は映像の世界をやってみたいなと思って。元々は音楽プロデュースですから、アイドル歌手として彼女の声がちょっと面白いんで売り込もうかな?と思ったんだけど、本人がどうしても「自分は女優をやりたい」っていうんで、映画音楽を作った時のツテを頼って。映像のプロデューサーとかディレクター達と会って奈江さんを売り込んだんですが、すぐには売れなかったんですね。
T:最初、奈江さんと会った時の印象は?
H:やっぱり目なんですよ。ケイさんの場合は雰囲気だったんですけど、奈江さんの場合は人を見る目が、ハコさんもそうなんですが「信じてないという目」。それがものすごい強い光なんですね。その目を見た時に「これだけ人を引き付ける目っていうのは凄いな」と思って。実は奈江さんの場合、直接本人に会ってないんですよ。写真なんですよ。僕の知り合いの写真のグラビアをやってるプロデューサーがいるんですけども、有名な方なんですけどね。その方が持ってた写真を見せてもらって。「この子まだ中学生なんだけど」って言われて「この子に会わせてよ」って言って。でも一年間ぐらい会わせてもらえなかったのね。本人がその気がないとかって言われて。それで一年後ぐらいに初めて新宿でちょっと紹介してもらって。「今はちょっとプロダクションはやってないけど、よかったら遊びにおいでよ」っていう事で。何名か事務所に遊びに来て。彼女はおばあちゃんと居たもんですから、おばあちゃんに「ぜひ彼女を役者としてやりたいんだけど」という事で。ちょこちょこっとした仕事はあったんですけども、ホントに食べていけないような状態でね。そんな時に、映画『曖・味・ME』を僕の知り合いが撮るっていうんで「脇でもいいな」と思ったんで連れてったんですよ。したら、佐藤監督がえらい彼女気にいって「彼女で撮りたい」ということで。ところが、ちょっと性的な描写があったりなんかして、本人ちょっとそれがあまりね。まだ10代だったし。ちょっと難しいなと。結構台本は過激だったんですよ。プロデューサーが何べんも横浜に奈江ちゃん会いに来てくれて、そこまで言われんなら思いきってやってみようよってことで。それでやった映画が『曖・味・ME』なんですよ。
T:それが90年位ですね。
H:90年ですけどね。上映した時は、一部のファンはあったんですけど、ブレイクしそこなってたんです。ただレーザーディスクとしてはかなりの枚数、確か一万超えてるんです。やっぱり邦画で一万超えるという事は珍しいらしくて。ビデオ合わせるとかなりの本数がいったらしいんですね。ここまで来てるならば何かあるはずだよなと思ったんですけど、なかなかその後の仕事がなくて。ホントにこれ難しいんだなと思ってね。歌手の世界であればね、一つヒット出せばその後なんとか。逆に言えば、ある程度時間稼げるでしょ?ところが役者の世界は話題になっても、仕事が来ないんですよ、なかなか。12chの深夜枠で『曖・味・ME』が90分くらいに監督自身が再編集して流されて。それをフジテレビのプロデューサーとか、ソニーの酒井さんなんかが、たまたま観てたんですね。で「この子に会いたい」っていうんで、事務所に連絡が来たんですよ。酒井さんとお会いして、僕も意気投合して。フジテレビの方も連絡もらって、深夜番組から始めたんですね。これがまあ段々評判呼んで『北の国から』なんですよ。これが大ブレイクしたという。『北の国から』で大ブレイクした後『ウーマン・ドリーム』。その頃寺澤さんとCMで知り合って。その後はもうトントン拍子で。でもその後なんですよ、僕の大事故で。一度死んでしまったというか、即死状態になってしまって。結局一年近くブランクが出来ちゃったわけですね。その間に、バッシングが起きちゃったんですよ。
T:TVドラマの『ポケベル』の後ぐらいだったですね。
H:そうです。僕はその『ポケベル』の撮影が始まった時に、入院しちゃったんですよ、事故でね。それで結局その為に奈江ちゃんのフォローも出来なくて。契約もコマーシャルも恐いもんでね。そういうスキャンダルめいた事実はホントにないんですよね。何にもね。例えば、女性に嫌われるなんてのも、実際にアンケートとるとさほどでもなかったり。インタビューの仕方ってのは例えば、いきなり街頭で「嫌いなタレントさんいますか?」って言われても、いきなり出てこないですよね。すると例題が出るんですよ。「例えば裕木奈江ちゃんとか」っていうと「あー、私もあの子嫌いね」っていう。誘導尋問じゃないけど、そういうことでひっかかったりする。ある女性誌が読者アンケートとったんですよね。要するに嫌いな女性ベスト20に入ってないんですよ。自らが書くという嫌いな女性の中には入ってないってこと。だからホントにある部分で芸能界の、そういうもので潰されたっていうような。それで本人もすごく嫌気さしてて。もう一回地道にやってきたいんだっていう事で。僕もそれで自分も何かホントにホトホト嫌気さしてたんで。まあ精神的にもね。
T:奈江さんは、歌で数枚のアルバムを出してますよね。
H:酒井さんと夢をもう一度じゃないんですけど。これは皆さんよくわかってないんだけど、実はオリコンのチャートにアルバムが2枚ベスト10に入ってるんですよね。それは非常にいいもんだし。それから、もう一つはホントにこれは世に出したかった『水の精』というCD。これはもうホントに傑作なんですよ。これは素晴らしいんです。松本さんにプロデュースお願いして。
T:松本隆さんですね。
H:はい。細野さんなんかとね、作ってもらったCDなんですけど。
T:『水の精』は、大滝詠一さん以外の『はっぴいえんど』が揃ってましたね。
H:みんな揃ってます。そうなんです。あの松本さんが皆さん集めていただいて作って。ホントに裕木奈江の世界としては素晴らしい世界だと思うんですけどね。ただソニーにしてみれば、アイドルで彼女を売りたかった訳ですよ。その為に結局、こうアートの世界に見えたんでしょうね。全く宣伝してもらえなかったという。プロデューサーの松本さんからもやっぱりかなり怒りましたからね。あれはね。でもレコード会社っていうのは、その頃からもう販売の形態が違ってきたんですよね。イニシャルで決まってしまう世界に段々なってて。そういう良いレコードなんかが。アルバムとかそういうものが出なくなってしまう。
T:もったいないですよね。音楽も完成されていたし、確かジャケットは駿東(宏)さんが手がけていて。
H:そうですね。とても完成度としては奈江さんのアルバムの中じゃ最高でしょ?あれは。だから、もし機会があったら、多分中古のレコード屋さんでも非常に出てる枚数が少ないですから手に入りにくいとは思うんですけど、あれはホントに皆に聴いてもらいたい世界なんですよね。だから裕木奈江のアルバムといったら、やっぱりあのアルバムを押しますよね。そういう意味でもね。ただ僕の場合、音楽プロデュースっていう仕事はハコさんの時もそうなんですけど、ある世界を作ってしまうっていうやり方。それから、人がやらないこと、そのニューミュージックにジャズを持ってくるとかっていう発想。そういうのがやっぱり受け入れられなかったっていうのが、自分が音楽業界から遠ざかっていった原因にもなってんですよね。ですから、石黒ケイのさっき言い忘れてたんですけど、『アキラ』で有名になった漫画家の大友さんに作詞してもらってる作品があるんですよ。それから、カメラマンのアラーキーが作詞したりとかって。多分、大友さんが作詞なんてのは、おそらく無いでしょう?とってもいい詞でね。そういう作詞家じゃない人達に書いてもらった作品が『ストーリー』って、これは荒木さんの写真のジャケットです。これもすごく完成度高いんですよ。でも、こういうアルバムがホントに売れてないんですよね。『水の精』も枚数的にはホントにいかなかったし、その『ストーリー』っていう作品も業界の人に言わせると「えっ、ぜひ聴かせて」って言われんですけどね。これもCDにもなってないし、残念なんですけど。アートペッパーの作品とかホントはもっともっと皆に聞いてもらえたらっていうのがあるんですけどね。難しいですよね。自分としてはマスメディアに結構いろいろ出したつもりなんですけど、大きな組織力っていうか、レコード会社が動いてくれないとヒットには繋がらないという。今のようなインディーズの時代にやってたら、また違ってたのかもわかんないなと思う時ありますね、逆に言うと。その頃はホントにメジャーのレコード会社が全てだったから。レコード店に置くにもインディーズコーナーってなかったし。そんな時代にプロデュースやってたんで、結構不本意な部分が多いんですよ。まあハコさんはホントに音楽プロデュースとしては成功してるとは思ってるんですけど、ケイさんとか奈江さんでは残念ながら自分の中では悔いが残るものが多いっていうかね。
T:あの交通事故の後、ハコさんや奈江さんを手放す事になって、その後は何をやられていたんですか?
H:結局、あの頃は自分も精神的にかなり追い詰められてた部分もあるんで、ともかくこの業界を辞めたかったっていうのがすごいあったんですよ。非常に無責任な言い方なんですが、逃げ出したっていうのが正直なとこなんですね。その頃もう年令が年令だったし、芸能界にいると潰しがきかないというか、一応ネクタイを締めて履歴書持っていくんですが「営業経験は?」「ありません」「パソコンは?」「できません」「帳簿とかそういうのは?」「いや、全くダメです」「あなた、そのサラリーマンは」「いや、サラリーマンの経験ないです」っていうと、なぜウチに応募してきたの?っていう怪訝な顔されて。二十何社回って、ことごとく全滅なんですよ。結局入れたのが警備員の会社で。そこで実際的にはガードマンっていう。最初やっぱりどっか恥ずかしかったですよね。特にその繁華街でやってる時なんて、この業界の人にあったら嫌だなみたいな感じでいたんですけど。これをやっぱり一年近くやってましたよね。たまたまその頃に、かつて石黒ケイの宣伝の課長をやってた方と出会いまして、その方が「ちょっとプロダクション手伝ってくれないか」っていうことで参加したんですよ。そこで「養成所をやらないか」っていう話があって。養成所みたいなのは苦手なんだけど、塾形式で役者志望の子がいればっていう話で。そこでまあ段々集まってきたもんですから、何人かの面倒をみてるうちに、やっぱり発表の場が必要だなと思って。発表会一回やったんですね。どうせだったらこれをユニット形式の劇団みたいなね、形にしてやってみようかという事で、それで『東京ガラパゴス』っていうのを作ったわけです。これが今、僕が活動の場にしてる、劇団というには規約も何もあまり縛らないというか、それぞれの役者の個性を生かそうという形でやってるのが『東京ガラパゴス』。要するに見せながら成長させていくっていうやり方なんですよ。個性の強いメンバーを集めようと思って。今、僕が彼らに不満なのは、もっと際立った個性。それは僕がかつてハコさんに会ったりケイさんに会ったり奈江さんに会ったりしたような、そういうインパクトがまだ彼らからは残念ながらもう一つ感じてこないと。ただ、成長途上という意味では、「だいぶ役者らしくなってきてくれたかな?」っていう気はするんですよね。
T:僕も久しぶりに連絡があって『潜水艦物語』の舞台、結構感動しましたね。
H
:結構ね。ハッキリ言って舞台の世界って歴史が長いし、僕らのようなその新参者が入っていくには、非常に狭き門なんですよ。そうするとやっぱりそういう小劇場の伝統とは違うものをやっていかなかったら舞台が成り立たないと思ったんで。ライブスタイルをとりながら、元々音楽をやってたもんですから歌をともかく舞台の中でたくさん出していきたいと。音楽をふんだんに使いたいと。よく笑われるんですけど、小劇場でやってるには音響効果がすごいとか、スピーカーをボーンと据えてね。それからマイクを何本も使ってみたいな形でやってて。演劇関係者からみると邪道だって言われたんですけど、ちょっと映像を意識した作り方に。お客さんに背中を向けてしまうような、まあ僕らでいう下品な言葉でいったら「ケツ向け芝居」っていうんですけど、そういうのを平気でやらせてしまうという形で。舞台っていうのは基本的にはお客さんの方に向かって観せていくのが舞台ですよね。ウチはそれを無視して、映像的な発想でやっていこうということと、出来るだけ生身をみせていこうという形でナチュラル演技って言ってんですけど。リアリズムよりもナチュラルでいこうと。ナチュラルってのは必ずしもその自然体でそのままやればいいよっていうことじゃなくて、あくまでナチュラルにみえるんだけど。僕はハコさんも奈江さんもケイさんもナチュラルだと思ってるんですよ。ただ、個性が際立ってるんで観せるだけの価値があると。だから『東京ガラパゴス』の役者のメンバーにも、それを僕は望んでる訳ですね。今段々一人ずつそれぞれの個性が出始めてきたかなっていう所なんです。はっきり言うと最初に撮った『KISS』というドラマがあるんですけど。八反田(勝就)さんに監督してもらって撮ったんですけど、やっぱりこれなんか正直言って観ててかったるいなと思うの随分あるんですよ。その次に今回取り上げてもらった『ペット探偵シリーズ』の前のプロモーション的なもの撮ったんですが、これもやっぱり正直な所、もう少しで。それを勉強しながら段々良くなってきて、やっと今回少しは観れるものが出来たのかなっていう。
T:『KISS』とか『ペット探偵シリーズ』はビデオ作品ですが、舞台との連動とかは?
H:してないですね。『KISS』では小さい劇団の劇団員達の話にはなってます。ただ『ペット探偵シリーズ』は全く違う発想でやり上げたものですから、ちょっとそれは入ってないんですけど。ただ次にちょっと僕が撮りたいなと思って書いた本を秋の舞台に繋げたいんですよ
T:それは映画と演劇を結びつけると言う事ですか?
H:今構想を練ってるとこなんですけど。僕は東映の健さんの映画がすごい好きで。ウチの舞台にもよくそれが出てくんですけど。その健さん達が、ヤクザがですね、年とってったらどうなるんだろうと。まあ老人ホームってのは彼らにとっちゃどうなんだろうと。いずれヤクザも年とる訳ですね。そこでヤクザの老人ホームがあったらどうだろうな?という発想で。それはまあ出来ればの話なんですけどもね。上演前に健さんの名場面を映してみたいなと。この人が老人ホームに行くとなるとどうだろうなというような、そこに非常に興味があってそういう話を書きたいと。舞台で。実は次の映像作品としては、それの前章線じゃないんですけど、そういう老人ホームを作りたいという話なんですよね。出来上がったものが実は舞台であるという。今回初めて映像から舞台へ転形していくという部分。今までも映像取り上げたかったんですけど、なかなかやっぱり。まあ、はっきり言っちゃうと予算の関係もあって、その貧乏劇団なんで、色んなものがなくてね舞台に映像を生かすというとこまで。よく小劇場の人達がやってんですけど、ちょっとキツイ言葉で言わせればちょっと中途半端じゃないかな?と。やるならもっと思いきって、映像と舞台っていうもののね違いじゃないですけど、ちゃんと境をわかった上で入れたいなというのがあるんですよね。
T:今一番やりたいのはどの辺りの活動なんですか?
H:はっきり言ってやっぱり、音楽を聞かした映画。これはやっぱりやりたいんですよね。もう20年近く前になりますけど、若い時に『横浜グラフティ』っていうね、横浜はそういう意味では音楽としてははっきり言って日本のトップを走ってた場所があって、そこでジャズかどっから全て向こうから入ってきたものは横浜からっていう部分がある訳です。そういう時代に生きた話を映画にしたかったんですよ。でも残念ながら非常に難しいという部分がありましてね、その映画をするというのが。だから僕はもう『アメリカングラフティ』ってすごく好きで、あそこに流れてくるように60年代・70年代そういう音楽をふんだんに取り込んだ映画を作りたいんですよね。いつか自分が、まあホントにそういうものが作れる時代があったらね、やってみたいなと。用は映画ってのはもう、僕らも『東京ガラパゴス』で撮っててわかったんですけど、とても一人二人の力で出来るもんでもないし。今回も僕らが作って、KENくんなんかにも撮影手伝ってもらったんですが、最終的にはmomentで編集してもらった『ペット探偵シリーズ』が、はっきり言って全然質が違うんですよ。僕は今まで撮った出来上がったものを観るっていうものがほとんどだったでしょ?撮影現場にはいたけども、編集の段階で、つなぎ方とかそういうの僕らも見てたことは見てたんですね。で、自分達でも『KISS』でもそうだったし、プロモーション的に一度撮った『ペット探偵シリーズ』もそうなんですけど、まあ編集を一応やってみた訳です。一つの作品にはなってんですよ。でもどっか自分達でも何かもう一つね。こう「なんかちょっとまだ弱いな。まあ三つ目の作品だからこんなもんかな?」なんて思ってたんですけど。今回、寺澤さんに観ていただいて「ちょっと編集やっていい?」って言われてね。「どういうもんかな?」と思って。でももう、はっきり言って別もんですよね。編集の恐さっていうか。
T:ホントに今は技術も機械も発達して、PC上で編集出来たりとか誰でも映像が作れる時代ですから。
H:そうなんですよね。考えてみるとね。うん。だから僕がその映画に憧れてて。僕の時代っていうのは、その撮影所ってのは狭き門で入れなかったんですよ。はっきり言って。もし今のような、ホントに助監から入っていければ、簡単にね自主映画的なものがあったらもっと簡単ですけど。僕らの時代は8ミリでさえも凄い高くて、とてもじゃないけどフイルム買って現像するだけでも大変だったし。まして、そういう風にして作るなんて発想なくて。だからフォトっていうか写真の方いっちゃったんですけどね。写真はずっと高校時代から部長やりながら結構作品は撮ってたんですけど映像の夢が捨てきれなくて。僕は音楽やってても常にその映像と近い所で作りたいと。ですから僕がプロデュースしたアルバムは映像が見えてきそうなアルバムが多いんですよ。やっぱりその物語になってる。ドラマになってるという。そういうものが多いんですよね。ですから今後そういう意味では『東京ガラパゴス』っていうのも同じように、常に音楽が後ろに見えてる、そういう役者達を育てていきたいし、映像もそういう風にしたい。だから僕はmomentに期待してるのは、やっぱり自分が参加してて、やっぱりmomentって僕が好きなのは音楽に密接してるじゃないですか、映像がどれもね。すごく良い音楽が使われているし、今までの作品を観ても、常にやっぱり音楽がいいポジションにある訳ですよ。自分が参加しながらやっていくっていうことは『東京ガラパゴス』にとってもプラスだし、僕自身にとっても非常に期待できることだと思うんですよね。
T:これからも『東京ガラパゴス』と一緒に楽しんで行きたいと思っています。
H:はい。
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バンド時代
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79年『ニューサウンド』時代
82年のスナップ
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↓(クリックすると拡大します)
裕木奈江さんと
ドラマ「ウーマンドリーム」より
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special issue : その2 映画『ペット探偵シリーズ/CAT HUNTER』 |
あらすじ
通称ペット探偵の明石は、中村警部から猫捜しを依頼される。調べてみると近所の猫が次々といなくなっている。インターネットに載っていた猫を喰う話を馬鹿にしていた明石だったが、猫をエアガンで撃とうとしていた男を見かけたり、ヤクザが猫を捜している事を知り、事件を予感する。本当に猫は食べられるのか?やっと依頼されていた猫を捜しあてた明石にヤクザ達が襲いかかる。
しかし叩きのめしたヤクザ達は、いなくなった猫を食べていないと言い張る。いなくなった猫達は何処に? |
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作品をみる(320×240pix:約20分)|Mac
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special issue : その3 moment作品に観る『東京ガラパゴス』 |
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八反田 勝成 |
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紅湖 |
或る男
/ THE MAN WHO
DVCAM作品/2003年/伊藤正治 |
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斉藤 修(左奥) |
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宮崎 智康/荒井 隆人 |
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八反田 勝成 |
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石川 智美/紅湖/
持田 綾/松田 瑞穂 |
ROCK WILL NEVER DIE?
DVCAM作品/2003年/鴨川 哲郎 |
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浅倉 成人 |
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大野 紀子/鈴木 雪絵/
宮崎 智康/安本 樹里 |
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