よしだよしこ

 「ピピ&コット」のギターとしてデビュー。間もなく、CD+DVD「地球に似た惑星にいるあなたへ」をリリースする、
 シンガーソングライター、よしだよしこさんへのロングインタビュー。


(2008年5月10日/momentにて/インタビュアー:TERA@moment)





 よしだよしこ(Yoshida Yoshiko)

  Talk&Interview #65
 
  


    
 よしだよしこ ロングインタビュー

いい人たちと出会いたい。それは音楽だけでなく。で、やっぱりこういう世の中ですから花だ星だっていってる時代じゃないわけで、やはり深いところでいちばん大事な人の幸せと、やはり世界が平和で、宇宙が平和であってほしいって想いが。これは私なりに、イコール私の生き方にかかるんですけど。

TERA(以下:T):よろしくお願いします。

よしだよしこ (以下:Y):よろしくお願いします。

T:まず、生まれた場所を教えて下さい。

Y:東京の大田区の池上という所で生まれて、育って二十歳近くまでいました。

T:ご兄弟は。

Y:一人っ子なんです。

T:小さい頃はどんな遊びを。

Y:一人だったんでね、あんまり家族構成に恵まれない家で。おじいちゃん、おばあちゃん子っていうか。昔すごく古〜い日本家屋でしたのでね。壁の漆喰をこうほじくったりとか、庭が広かったんで、庭でよくひとりで遊んでましたね。あんまり外に出してもらえなくて、自転車も廊下で三輪車乗ってましたね。

T:幼稚園の頃は。

Y:幼稚園もねちょっと遅く行ったので、すごい遅れた子でちょっと怪しい子でしたね。いつもひとりでいましたね。さみしかったな、幼稚園も。でも幼稚園の時に、その時代には珍しい「リトミック」っていうリズム体操をやる権威の先生が週に一回来て「リトミック」をやってくれるのね。ですから運動神経は悪いんだけどもそれでリズムをね、あれはすごく役に立ったなって思っていますけどね。

T:小学校入ると、例えば習い事とか。

Y:小学校はもっと悲惨でね、家族に恵まれなかったんですけど、じいちゃん、ばあちゃんが甘やかしてくれたんで、当時日本に6台しかないっていう「ボルボ」に。運転手さんが朝お迎えに来てくださって。みんなその頃ズックだったのね。それがね一人だけエナメルのお靴でね。でね、もう乗ったら5分なんだけど。でそれがあたし嫌で、ズックを内緒で買っておいてもらって、履き替えて学校へ行ってたの。でもあんまりいじめられたりはしませんでしたね。当時はそんなに、いじめるって事はあんまりなくてね、反対に疎外されてたっていうか。ちょっとあの子は特殊な子だって思われてた部分があって。だから小さい頃からみんなと一緒につるむとかいう事がなくて。よくトイレに女の子が手をつないで行ったりとか、そういう事する子じゃなかったんですよね。だからいつも人と違う事をしたいなっていう、そういうものが芽生えてきたのはその頃なんじゃないかしら。と思いますね。

T:上級生になると何かやり始めた事は?

Y:ちょうど1960年入って、オリンピックの時は5年生でしたから、ちょうど映画音楽?みんな「サウンド・オブ・ミュージック」とか「メリー・ポピンズ」とかああいうディズニーの映画?あれで音楽に目覚めたかもしれないですね。あとは叔母が教会に行ってましたから、よく日曜学校連れて行ってもらって。私はクリスチャンではないんだけども、賛美歌とそういう「ジュリー・アンドリュース」の歌かな、その辺から始まりましたね。それでラジオ。家はずっとラジオだったんですよ。大体家のタンスの上にラジオがあったんですよ。昔はね。どこの家も。背伸びしてタンスの上のラジオ、こうやってつまんで、色んな放送聞いて。それで音楽、ラジオもそれで知ったのかな。

T:歌を歌うとか、楽器を演奏するという事は?


Y:ピアノはちょっとやってましたけど挫折しました。音符嫌いだったから。

T:何か歌った思い出はありますか?

Y:歌はね、ひとりで英語分かんないんだけども「ドレミの歌」とか「エーデルワイス」とかそんなのをひとりで歌ってましたね。

T:レコードとか聴いて?


Y:どうやったのかな。友達から借りたんでしょうね。でも確かレコードっていっても、こんな小さなレコードプレーヤーしか買って貰えなかったから、それで聞いてたのか、友達のとこでおしえてもらったのか、それ以上の事はしていなかったよう気がしますね。

T:中学生になるとどのように?

Y:中学生1年の時にちょうどビートルズが来た時で、日本に。ビートルズは興味なかったんですけど、同時にアメリカの音楽も入ってきましたから、フォークソング。「ピーター・ポール・アンド・マリー」とか知って。ちょうどアメリカでそういう音楽がなぜ発生したかっていう、裏を知りたい人間だったから、そういう本をいっぱい買って。当時「中村とうよう」さんて人がねでかい本をね、「フォーク・ソング」って本を作って。それは私にとってすごい役に立って。そのアメリカのフォークソングの成り立ちから、その前のヨーロッパのトラディッショナルから始まって、そして黒人音楽になって、そしてこうなっていう音楽の歴史を本で知ってね。だから歌も好きでしたけどその背景にある社会的な事とか歴史とか、そういうのを勉強するのが面白かった。だからフォークソングといっしょに社会の事もすごく気になりだした。

T:ギターは、まだですか?

Y:ギターはねなかなかやろうと思わなくてね、人と違う事をやろうと思う人間でしたから。一番最初中学1年の時にバンジョー買ったの。バンジョーがね弾き方分かんないんですよ。教則本ないから。1冊だけあったんですけど意味がよく分かんなくて。でもバンジョーっていうのはね、オープン・チューニングなんですね。GとかDとか。でテンテケテンテケやってると何となく弾けるのね。でバンジョーはじめて、で中学2年の時フォークソング・クラブっていうのに入って。そしたら「バンジョー弾ける中2の子がいるよ」っていうんで上級生が便利がって使われて。でギターもチューニング分かんないから、バンジョーと同じチューニングにしたら、「ジョ二・ミッチェル」みたいなの弾く人いるよって。あれおかしいよって、すごいよって事になっちゃって。なっちゃったのが運のつきで。でギターはじめたら難なく弾けたんで、あらまあ面白いと思って。最初はコピーですよ。「PPM」からはじまって。

T:中学時代はコピーバンドみたいなのを。

Y:やりましたね。中学はね。女子校だったから大体「PPM」のバンド作るっていってもみんながマリーさんで、だから私はポールさん、ピーターさん両方出来て、未だに出来る。(笑)でもそれがすごい楽しかったのと、どんどん、どんどん自分がギター弾けるようになったので嬉しくて、それで高校2年の頃、近所でバンドをやってた人たちと一緒になってやったのが、一番最初の「ヒッピーアンドコット」っていうバンドで。

T:その近所っていうのはどういう。

Y:東京大田区の、まさに池上という周辺でいた人たちなんですよね、男の人たち。私より一つ二つ上で。

T:どういう経緯っていうか、きっかけみたいなものは。

Y:あの頃はみんな学校同士で、文化祭とかで交流して、あそこにあんなのがいるよとか、ってギター弾ける女の子がいるっていので、それで声かけてもらって。だから男の人の中に、5人のバンドでしたけど、最初は。その中の一人に入って。で私歌が歌えなかったんですよね。歌が自分でへただと思ってたから。だから一生懸命ギター弾いてました。

T:じゃあ「ピピ&コット」は、最初はギターで?

Y:だってハモルとね、音痴って言われた。確かに歌へたでした。(笑)

T:入った頃の活動はライブ活動がメインでした?


Y:そうそう。何かそういう、ほら学校の学祭とかそういうとこでやったりして。で、すぐにね、ところがそんな活動をしない間にテレビのコンテストに出てみようって事になって、冗談で出たんですけどそこで優勝しちゃって。で高校生の頃にプロになっちゃったんです。

T:それはレコードデビューという事で。

Y:エレック・レコード。

T:最初のレコーディング、デビューの流れというのは?


Y:何か分かんないんです。あんまりね覚えてないのね、その頃の事ね。だからあんまり楽しくなかったんじゃないかな。(笑)楽しかったらもうちょっと覚えてるんだけど。高校生だし、あれよあれよっていう間にレコーディングで、それでよく分かんないけど、大体当時はラジオ出演するか、有線とか行ってレコードかけてもらうとか。あとレコード屋さんの前で、今で言ったらイン・ストア・ライブっていうんだろうけど、昔は何て言ったんだろ。何とかサイン会、サイン即売会。全国行きましたよ。津々浦々。デパートの屋上から、それはそれは過酷な旅を。

T:それはアルバム?シングル?

Y:シングルですね。アルバム1個だして解散しちゃいました。レコード会社がつぶれちゃった。ソロでも出しましたけどね、1枚だけね。すぐに会社はつぶれちゃった。

T:「ピピ&コット」の最初のシングル曲は?

Y:「捨ててはいけないよ、大切なものを」これはね、今で言ったら名曲ですよね。「佐藤公彦」君。「ケメ」ね、当時ね。彼がソロになったんで祖の曲は幻の名曲(笑)。それは面白いメロディの曲でしたね。今やったら面白いかもしれないんだけど。みんな忘れてるかな、、。

T:アルバムは1枚?

Y:1枚。たった1枚。

T:それはシングルと時期をはずして?

Y:最後のほうですね、後半のほうですね。当時みんな売れていくわけですよ。吉田拓郎さんの「結婚しようよ」。で辞めていって、泉谷しげるさんとか海援隊とか古井戸とか。出すもの出すもの、ヒットするものは大体どっちかっていうと、イロものって言うと失礼になっちゃうけど、「さなえちゃん」とか「母に捧げるバラード」とか。ちょっとやっぱりそういう傾向にいっちゃってから、やる事もかなりイロもので、勝負する事になっちゃって。その頃はやる気なかったですね。で4人で、「ハーモニー」っていうタイトルなんですけど、4人はハモってなかったね。でも一生懸命やってた時期ですし、すっごい練習したから、あの頃の練習とあの頃のツアーが今になるとすごい力になっている。当時夜行でしたから、ホテルなんか泊まらないから。夜行で行って、朝着いて、休んで、レコード屋廻りやって、夜はどこかの市民ホールでコンサートっていうずーっと。だから旅は苦じゃないですね。

T:結局「ピピ&コット」の活動としては何年間に?

Y:3年ぐらい?でソロで2年。だから私5年くらいしか音楽活動してなかったですね。

T:ソロは、「ピピ&コット」が解散して?

Y:解散してすぐ。それで会社がつぶれたんで移籍をして、そこでシングルを2枚出したんですけど、やっぱりもうニューミュージックの時代にになっちゃってたから、とても私はその流れにどうもついていけなくて、自分の作りたい曲が作れないし、何をしていいか分かんなくてアメリカ行ったんですね。

T:ソロ活動の後、すぐアメリカへ行ったんですか?


Y:そうそう。

T:何年になるんですか?

Y:1976、7年の頃。

T:アメリカを選んだ理由は?

Y:だってそれだけ色々、アメリカとか外国の音楽を聞いてた人間にとっては、憧れでしょ。アメリカというのはね。で、ベトナム戦争もちゃんと終わっていませんでしたし。で、ヒッピーという人たちがどういう人たちなのかとか、その頃一緒に本もいっぱい、映画も全部アメリカのものでしたから。ビート詩人なんて何なのかしらとか。映画もいっぱいみましたしね、ニューシネマって、昔。今でもニューシネマって言うのかな。

T:そうですね。

Y:で、それで行ってみたらどんどん色んな人に会うんですね。「アレン・ギンズバーグ」とか「ゲーリー・スナイダー」とかそういう詩人の人たちに出会ったりして。そういう人たちの家に泊まらせてもらったりして。ところが自分はギター持っていったはいいんだけど、何も出来なかったんですね、圧倒されてしまって、アメリカのエネルギーに。で、すごくパラノイアぽくなっちゃって、かなり精神的に辛くって、自分でやる事がない。だからよく料理作ってましたね。日本食作るとみんな喜ぶから。日本人の女の子もてるんですよ。向こうの人たちは日本は神秘の国と思ってるから。だからどこへ行っても、天ぷら作って、そんな生活して1年くらい放浪してましたね、ひとりでね。今考えるとよくひとりで旅してたなって思うけど。

T:西海岸?

Y:西から東まで。

T:ビートの人たちと会ったのは西ですか?

Y:そうですね。西の山の中ですね。山の中にみんな住んでましたからね。

T:「ゲーリー・スナイダー」は日本に住んでたりとかしてましたよね。

Y:奥さんが日本人。日本語でしゃべりましたし、とてもすばらしい人だったけども。でも一緒に何かをやれる才能もなし、もう自分に全て自信を無くしてしまって。でもニューヨークまで行こうと思って、ニューヨーク行ったら絶対「チェルシーホテル」に泊まるんだって思って、チェルシーに行ったらばポーターのおじさんが「ようこそチェルシーに」ってチェルシーの洗礼を受けに来たねみたいに言われて。

T:チェルシーに行ってまずどんな感じだったんですか。

Y:やっぱり色んな人が、「O・ヘンリー」から始まって、「ジャニス」もいた、「シド・ビシャス」もいた、「ウォーホール」もいた。もう何か空気を吸いたかったんですけど、ただそれだけで私には何もする事がない。もうニューヨークで完全に爆発しちゃいましたね。それでこのままいたらだめだって、ひょっとしたら私、このまま野たれ死んでしまうかもしれないと思って日本に帰って来た。

T:で、日本に帰って来てどうでした。

Y:日本に帰って来てもね、今度はね社会復帰出来ないんですよ。よくあるパターンでね。で、もう歌やめる。で次の年に大阪の「春一番」に出たのが最後ですね。

T:何年の「春一番」ですか?

Y:78年。その「春一番」で歌わせてもらったのが最後で、やめる。で、いっさいやめて病気になる。

T:じゃあその後、歌っていうものは。


Y:全く。そういう状態じゃなくなって。病に伏してしまいました。

T:じゃあ社会復帰したのはそれから何年くらい。


Y:でも働かなくてはいけないから、病気であったんだけど、摂食障害っていう病気で「カレン・カーペンター」がそれで死んだけども。詳しく言ってしまうと、食べて吐くという。元々、母親の愛情とか恵まれない人だったので、大人になりきれない、大人になりたくない病。今で言ったらね、色々病名がついたんですけど、当時はそれはとんでもない、自分にとっては誰にも言えない病でしたから。10年間それで苦しみましたね。でも働きながら色んな仕事しました。

T:80年代は?

Y:80年代、真っ暗だった。

T:そして、世の中、バブルの時代になって。

Y:そうそう。MTVとか、テレビつけるとやっててプロモーションビデオっていうのが流行ってた頃だったでしょ。私の好きだったアーティストなんかが。だって「ジェファーソン・エア・プレイン」なんてさ、向こうで見た「ジェファーソン・エア・プレイン」じゃないわけよね、80年代のね。何でこんな面白い格好して歌ってんの。「ジャクソン・ブラウン」だってプロモーションビデオ作ってたような時代だったから。は〜どうなってるの、世の中はって思って。でも自分ではやる気はなかった。ギターも弾かない、曲も作って事はなかった。ただただ、食べて吐いて、自分だけが一人っているような状態でしたね。

T:なんか節目というものは?

Y:節目はねありましたね。35歳でこどもを産んだんですね。それも奇跡に近い、そんな状態で産んだこどもだったから。この子を産まないと人間として、これ以上生きてはいけないんじゃないかって思って。で、36の頃に病気を治した。よく自分で治した。奇跡に近い。で、そこからこどもを育てる為にひっちゃきに毎日をおくって。で、45、6ぐらいになってこどもが少し大きくなって、歌いたいっていう元気がでてきて。普通に何か結婚しました、子育ても落ち着きました、だから歌いはじめますっていうのとはちょっと違う。本当に沸々と。これは歌しか出来ないかもしれないと思って。色んな仕事しながらある時に、あるお友達から好きな事して生きていかなきゃいけないよっていう一言でお尻叩かれて。で、好きな事って何だろうって思って。で、CDとかの中に書いたりしてますけど、プロフィールにも「高田渡」さんから勧められていうのがあるんですけど、強く歌うたえって言われたわけでもなく、何でやんないのっていう形で。それで少しづつはじめた。

T:それが何年ぐらい。

Y:7、8年前なんですけど。

T:2000年に入る頃。

Y:ですね。でも最初の頃は、全然人前で歌っても緊張してちゃんと歌えなくて、歌うたんびに自己嫌悪で、すごい戦いましたね。でもこれしかないって決めたんで、どんな仕事やってもいいんだけど、好きな事ってこれしかないっていうのと、あと逃げたわけですから、一回。それをひとつ落とし前をつけないといけないなっていうのがあった。逃げたままはいけない。あと何で音楽に興味を持ったかっていったら、サウンドとか音楽的な事ももちろん興味があるけども、やはり何の為に歌うのか。みんな色々あるでしょうけど、有名になりたいとか、お金持ちになりたいとか、色々あるだろうけども。やっぱり歌の本質って何だろうって思った時に、それは何か自分の事を人に伝えるとか、何か世の中の事を人に伝えるとか、そこが本質であるわけで。それは中学1年の時に読んだ本、同じ。遠いところにいる人に聞こえるように先住民の人がすごい響きで呪文のようなお祈りを。やっぱりそれと同じで、自分の中から湧いてくるもの、人に伝えて。もしそれを聞いてくれる人がひとりでもいるんだったらやろう。その辺から変わってきて。だから上手く歌えたとか、上手く弾けたかとか、どうだったかとか、そういう事が段々気にならなくなったのは本当にこの2、3年ですね。

T:ファースト・アルバムを作った経緯ってうのは?

Y:ファースト・アルバムはね、とにかく歌作ってませんでしたから、歌おうって思ってから作った曲がほとんどなんですね。よくそれだけ作ったなって思うんですけど、何か今まで自分のたまってたもの、凝縮されて作られたもので、歌も上手く歌っていませんし、いっぱい失敗してるところもあるんですけど、とても思い入れのあるもので、タイトルも「ここから」。

T:録音はどういう感じで?

Y:録音はね、本当に宅録ですね、お友達のとことで、すばらしい「近藤達郎」さんていう、キーボードプレーヤーであり、アレンジャーでもあり、すばらしい事をしてくれる人なんですけど、彼の家でやったり。で、その後3年ぐらいそのアルバムを持って旅をする。今度は初めてひとりで旅をする。

T:それはライブハウスを。

Y:そう。自分で探して、電話して。最初はね、何も分からずに。でも今は月の半分ぐらいは旅ですか。

T:ギターとCDを持って。

Y:あと、マウンテン・ダルシマとね。すっごい荷物。

T:一番北、南って?

Y:北はね、旭川、北見、釧路の最先端の方に行きましたし、南は沖縄、八重山の最南端まで行きましたし、奄美大島も行ったし。まだまだ行ってないとこあってね、呼んで欲しいんですけどね。旅は過酷ですけどやっぱりすごいですね。何人の人にあったのかなって思ってね。名簿だけでも4千人近い人のがあるから、すごいですね。

T:そういう旅を続けて2枚目の「アシオト」に。

Y:「アシオト」は高田渡さんが亡くなられた1週間後ぐらいに出来た曲「アシオト」という曲で、そのオマージュという意味もあって、どうしても作りたかったアルバムだったんで。

T:内容的にはファーストとまた違ってる部分が?

Y:うん、全く違います。プロデュースも違いますし、1枚目は「近藤達郎」さんにお願いして、2枚目は「松田幸一」さんというハーモニカの方と、「西海孝」さんというギタリストの方と。だからちょっと何て言うんだろ、奇麗かな?ファーストよりも。ファーストが手作りっぽい形であるのに対して、ちょっと奇麗な感じになってしまったかもしれない。あと入れたかった曲が2曲ばかりあったんですけど外国曲で。私は外国の曲を日本語にして歌うっていう事がかなり多いんです。3分の1ぐらいがレパートリーの中で、それはライフワークとおもってますけど、これがやっぱり難しいんですね。許諾を取るのにね。なのですごくいい日本語の詩をつけたんだけど、ちょっと使えない曲が何曲かあって、随分ご本人にもメールしたりしたんですけどね。本人がいいって言ってもだめだってね、だから残念だった。だから使用許可を取るっていうのがすごく敏感になっていて、もう作ったらすぐに本人に送る事にしてる。

T:なるほど。

Y:そう。作りました、こんな内容ですっていうのを英語ソフトを買ってきて直訳でメールして。でも本人にメールするとびっくりするんですね。えっ今頃そんな30年ぐらい前の私の歌を日本語で歌ってくれる人が日本にいるの?って言って驚いてくれてくれる人もいるし。ああびっくりですっていう出版社の人もいたり。やってみるもんだなって思って。これはライフワーク。(笑)いつかお金がいっぱいあったら、使用料を皆さんに払えるようになったら、それだけのカバーアルバム作りたい。

T:では、それを楽しみに。

Y:ちょこっちょこって1枚に2曲づつくらい、そういう外国曲も入れてます。

T:で、初のDVDが。

Y:それは去年ね。「虹の根っこ」っていう。「虹の根っこ」っていうものがあるのかどうか分からない。あると言えばある、無いと言えばない。その辺を言いたかったので。映像自体は静かーにただ歌ってるだけで、そんなに面白くないんですけど、その中にはリーフレットが入っていて、そこに今も話したような自分の事が書いてあって。でも初のDVDというか、映像に残しておいてもいいかなって思って作ってしまいました。

T:割とライブに関して「残したい」って言うか、自信というか、その時点で。

Y:うん。ありましたね。ただやっぱりね、ドキュメンタリーで作りたかったから、絶対に3枚目はCDとDVDと2枚組、ジャケットもこう、みたいなイメージがあったんですね。すごくお金がかかるんだけど、何とか作りたいっていうのがありましたね。

T:で、今年。

Y:そう。6月6日発売。タイトルは「地球に似た惑星にいるあなたに」。長いでしょ。

T:長いですね。映像はどんな感じの内容に。

Y:タイトルが「ソング・ライン」ていうんですけども。小さい時にラジオで聞いてたものからずっと、どんどん、どんどん色んな音楽を知っていった中で、一番影響を受けたのが70年代の音楽で。70年代って言うのは、すごく音楽のヒットチャートなんか混沌としてて、「ヘンリー・マンシーニ」の歌があったかと思うと、「ポール・モーリア」があって、その間に「ビートルズ」があったり「PPM」があったりとかね。今のJ-ポップ?みたいなのとは全く違う、色んなものが聞けた時代。で、その時に出会った歌っていうのは素晴らしいものがいっぱいあって。そういうアメリカの70年代の歌、その人たちがもっともっと昔のトラディッショナルな歌?民謡とか。元々は民謡だったわけだから。そういう歌の道のようなものがあって、私の中にも私なりの歌の道があってね。えっ、この人こんな曲歌ってるんだ、この人の曲じゃないし、誰が歌ってたんだろうって思うと、すごーい古いーいアイルランドの歌だったり、アメリカ先住民の歌だったりするわけ。で、旅をしてる間に、ツアーをしてる間にアイヌの人とあったり、沖縄の南の果ての人とあったりすると、またそこで面白い歌に出会うわけですよね。で、私これ聞いた事あるなっていうので、今回はアイヌの歌を伊豆大島で歌ってみたりとか。そこでまたその歌が広まるわけじゃないですか。私もそうやって誰かから口移しでおしえてもらった歌がほとんどだから。それは歌の道であり、イコール私が歩いてきた道であり、歩いていこうとしてる道であるって言う事をね、今回DVDは、半分以上がレコーディングのメイキング、レコーディングの風景なんですけども。そういう自分なりのソングライン、歌の道をちょっとこれから、まだあと20年ちょっとは歌いたいよって思ってるから。そういう道を歌で作っていきたいなあって。

T:映像と写真は「井出情児」さん。

Y:そう「井出情児」さん。

T:もともと、どういう感じの流れなんですか?

Y:ある時に、今回太鼓をやってくれてる「永原 元」って「ゲン」ちゃん。が「井出情児」さん大好きで、私もあるフェスティバルで「井出情児」さんに会って。で、思い切って電話して、まさか撮ってくださるとは思わなかったんですけど「やりましょー」って。で、本当にすごかったですね。レコーディングなんか一日中、12時間、5日間っていうのをやったんですけど、カメラ持ちっぱなし、回しっぱなし。フィルムだけで40本。(笑)どうしよう。でもすばらしかったのは、ひとつもやらせ無し。全部ドキュメント。最後お楽しみ映像有り。はい。(笑)

T:それは何でしょう?

Y:これは買わないと分からない。

T:色々ライブもそれに合わせて。


Y:うん、あります。今度はね、大変です。いつかホールでコンサートをやりたい。いつでも小さいライブハウスで。私はライブハウスでやるのも好きなんですけどね。何か食器の音がしたり、煙草のにおいがしたり、でみんなお酒飲んでゆっくりと。でもあんまり私のライブは、ライブハウスぎゅうぎゅう詰めでゆっくりしてもらえないのと、煙草嫌いな人も多いですし、この頃。で、お客さんに負担かけるでしょ、飲食でね。私はそれが、あんまり自分がお金持ってない人ですから、人のコンサート行っても、えっ、何でこんなにって思っちゃうのね。コンサートだったらチケット1枚で行って帰れるじゃないですか。なんで、6月21日に新大久保の「アールズアットコート」という小さなホールですけど私にとっては200名、まさかの200名。まだまだいっぱい空いてます。4時半からっていうちょっと面白い時間なんですけど、主婦の人も来れるように、遠い人も来れるようにと思って。本当に来てください。

T:はい。是非。最後に何か一言。アルバムの事とか、これからの事とか。

Y:やっぱり休んでた時間があまりにも長過ぎましたから、音楽仲間とかいないんですよね。で、ちょっとした事聞きたいな、ギターの事で。昔はみんなワーってやってるうちに出来た。だからそういう仲間の人といっぱい、いい人たちと出会いたい。それは音楽だけでなく。で、やっぱりこういう世の中ですから花だ星だっていってる時代じゃないわけで、やはり深いところでいちばん大事な人の幸せと、やはり世界が平和で、宇宙が平和であってほしいって想いが。これは私なりに、イコール私の生き方にかかるんですけど。やはりそういうメッセージがこもった歌でなければ私は嫌だと思っているし。あとやはりもうちょっとギター弾きたいなって。「ダレシマ」もっと弾きたいなっていうのがありますけどね。そしてやはり聞きに来てくださる人、それからCD買ってくださる方、この一対一の関係ですから、やっぱりそういう人たちの幸せを願っていきたい。いっていますし、この人たちが元気でいてくれないと私も歌いにいけない。若い人とやりたいですね。何か誰か面白い人いたらおしえてください。

T:はい。是非。

Y:うん。すごく若い人とやりたい。若い人にも聞いてもらいたいし。

T:じゃあ、そんな感じで今日は。

Y:いいですか?

T:ありがとうございます。楽しいお話を。


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