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momentと交流のある方々へのインタビュー
#66
Talk&Interview
黒沢健一(PART1)
今年2008年、5年ぶりのソロ活動を再開して、
初のライブCD「LIVE without electricity」をリリースした
黒沢健一さんへのロングインタビュー。そのPART1。
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momentに関連したミュージシャン、バンド等を紹介します。
#66
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プラネタリウム(佐藤史朗、榎本高)
今年2008年ドイツにて、ベスト的なCD音源、
「天象儀」をリリースしたアコーディオンユニット、
プラネタリウム(佐藤史朗、榎本高)ロングインタビュー。
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#66 CLIP:「月刊:種ともこ」第五回 CLIP:「プラネタリウム:SPECIAL MESSAGE」 CLIP:「リクオ:アイノウタ」 LIVE:「moment strings quartet:2008夏」 連載コラム:TERA'S SOUNDTRACK REVIEW #66/ 「おもいでの夏」 |
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黒沢健一(PART1)
今年5年ぶりのソロ活動を再開して、初のライブアルバム「LIVE
without electricity」をリリースしたばかりの、
黒沢健一さんへのロングインタビュー。そのPART1です。
(2008年6月13日/momentにて/インタビュアー:TERA@moment)
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黒沢健一(Kenichi
Kurosawa) Talk&Interview
#66 |
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黒沢健一 ロングインタビュー (PART1) |
TERA (以下:T):それでは、宜しくお願いいたします。
黒沢健一 (以下:K):よろしくお願いします。
T:まず、生まれた場所を教えて下さい。
K:茨城県の日立というところです。
T:ご兄弟は?
K:兄弟は下に秀樹が居まして、弟二人居ますね。三人兄弟。男の。
T:小さい頃は、三人で遊んだりとか。
K:一番下の歳が離れているんで、僕と七つ離れているのかな。だから、三人一緒っていうのは殆どないですね。
T:なるほど。幼稚園頃の思い出。記憶に残っている事は、ありますか?
K:幼稚園ぐらいの時は、音楽が好きでしたね。凄く。洋楽が好きで。
T:何か家にそういうものが?
K:従兄弟が。丁度僕が幼稚園ぐらいの時に、従兄弟がもう大学生ぐらいだったのかな。丁度そのぐらいの人が周りにいっぱい居て遊んでもらっていたので、 その従兄弟の兄貴とかがやっぱりロックファンで、一人がイギリスものが好きで、一人がアメリカものが好きで、車も持ってて、みたいな。だからそういう従兄弟に幼稚園のときとか、色々遊びに連れて行ってもらったりとかすると、車の中でそういう音楽がかかってたりとか。そういう感じだったんで、自然にロックとか好きになったんですよね。
T:小学校の時は、何か習い事とか、思い出はありますか?
K:習い事はピアノとかは習ってましたけど、ジェリーリールイスとか、ロックンロールみたいなピアノを弾きたいと思ったんですね。ああいうのが好きで。 ピアノでやるロックンロールみたいな。習っていればいつかそういう授業になるんじゃないかと思ったら、あれは無いんですね。クラシックピアノの授業には一切(笑)これはちょっと、思ったのと違うっていう。だんだんこうバイエルとかから・・・こう・・・どう考えても自分が弾きたいものの曲じゃない訳ですよね。出てくる課題が。これはどうしたものかと。運指とかもやっぱりクラシックの運指とかだから。たまにテレビとかで見るロックンロールのピアノの人とか、どうやって弾いてるのかなみたいなのが分からなくて、そんな風なんで辞めてしまったりとか。
T:小さい頃、歌番組とか、漫画とか。テレビは観る方でしたか?
K:テレビとかは普通に観てましたね。ドリフターズとか、そういうのも観てたんですけど、やっぱりあの・・・銀座ナウとか、やっぱり洋楽の・・・当時MTVの前でそういうクリップがかかるような番組を、とにかくやっぱり凄く好きで観てて。『パートリッジファミリー』が出るとかね。『モンキーズ』の再放送だとか、誰々が新曲出しただとか。もう小学校の頃からそういうのが好きで。
T:では、小学校では楽器はピアノ?
K:と、あとね、やっぱり従兄弟がエレキギターを持ってて、それを貰ったかなんかでアンプに繋いで、六弦全部同じ音にして弾いてみたりとか(笑)ちゃんと習ったってことが無いですね。ギターに関しては。そんな感じ。あと、中学に入ってから吹奏楽部に入ってトランペット習いました。ハープ・アルバートとかが好きだったんだんで・・。でも譜面アレルギーがその頃からあって(笑)ドレミファ憶えたあたりで諦めました(笑)。
T:自分で欲しいなと思って初めて買ったレコードは何ですか?
K:幼稚園のときに『ハードディズナイト』の映画を観た後に、誕生日のプレゼントにおばさんに『ハードディズナイト』のレコードを買ってもらったんですよね。それから後うちの従兄弟にもねだったりして、うちの従兄弟は詳しいんで『ビーチボーイズ』とか、そういうのも聴かしてもらって、最後には『このレコードが欲しい!』って言って貰ったりとか。何が欲しいかって、小学生のときはレコードを買うことしか考えていなかったかも知れないですね。他のものにあんまり興味が無かった。もうなんか次に欲しいレコードはこれだとか、次に聴きたい音楽はこれだとか。あんまり他に興味いかなかったんでしょう。
T:もう、お年玉とかお小遣いとかは、
K:もう全部(笑)もう殆どレコード買ってました。だからうちの親父とかが、この子ちょっと危ないんじゃないかって思ったらしくって。他にちょっと興味を持たせようと思って野球のグローブとかをね、買ったりとか。あとクラシック全集みたいな、うちの親父教員なんで他にも興味を持たせようとして、ロックとかじゃなくて、洋楽とかそういうのじゃなくて、色々手を尽くしたみたいなんですけど僕はそういうのはやっぱり・・・今はクラシック大好きなんですけど、そういうものより最初にまず洋楽的なものが大好きで。映画とかもそうだし、音楽もそうだし。何か、他にあんまり興味が無かったですね。
T:小学生の頃に観た映画で印象的なものは、ありましたか?
K:小学生のとき僕の部屋にテレビがあったんですよ。珍しく。置く場所が無くて僕の部屋に置いたらしいんですけど、それで洋画劇場とか9時ぐらいからやってるから。小学生っていうと普通は寝なきゃいけない時間なんだけど、11時位からやる深夜映画とかが結構カルトで面白いものやるじゃないですか。そういうのを良く観てたりしましたけどね。そこでフェリーニだとか、まぁ当然音楽もの、ビートルズだとか『ハードディズナイト』とかそういうの好きだったけれど、あんまり小学生とかが観ないイタリア映画だとか。理由は分からないんだけど、そういうのやってると観ちゃうんですよね。深夜の映画で。そういうのが好きだったというか。良く分からないなりに観てましたね。ハリウッド映画とかじゃない方。ウディ・アレンとかもそうだったし。ただ、吹き替えだったんですよね向こうの映画は。だから吹き替えでウディ・アレンの映画とかを小学生のとき観たりしたときに、台詞とかえらい面白いこと言ってるなと思ったりしてましたけど。
T:中学にあがって、何か「これができる!」みたいな事って?
K;中学校の時・・・。中学校のときも相変わらず音楽大好きで(笑)まだレコード買う事しか考えて無かったんじゃないかな。あと、ヒットチャートを聴くとかね。
T:中学校に入る頃には、レコードが一杯に?
K:うん。結構持ってました。
T:レコードを聴く環境とかは?
K:レコードを聴く環境は、子供の頃は家具調ステレオをうちのおじいさんが買ってくれたんですよ。幼稚園のときに。それで爆音で聴いてたんですけど。だんだんメディアがカセットテープになってきたりとか、CDはその時出てないからあれだけど。カセットを聴くために音の良いカセットデッキが欲しかったりとかして。いや、でもどうだったんだろう。なんかね、うちの親父も新しいものが好きで、カセットデッキとかそういうものに関してはちゃんと新しいものを買っていて、それをうちの親父が使う前に、もう買ってきた次の日から僕が横取りして聴き。もう壊れるまでずっと使い。壊れるとまたお年玉で違うのを買って、みたいな。そうですね。だから音響施設には自分なりになんか、高級オーディオとかじゃ無いけれども、当時から結構一番良い音で聴くにはどうすれば良いかみたいな事は考えていましたね。小さいラジカセでも配線変えたりとか、スピーカー変えてみたりとかして。
T:中学生の時とか学校で音楽の話の合う友達とかは?
K:音楽の話さえしなければ皆とは仲良かったです(笑)。音楽の話をした途端に、やっぱり本当にマニアなんで僕は。だからそれだけは意志的に・・・。自分でも相当好きだから。それ以外は全く、友達も一杯居ましたし。だからそういう凄くコアな音楽の話とかしなければ。逆に言ったらいきなり中学校で、『お前俺と趣味一緒だよな』って奴が居たら困るっていうくらい、そこまで好きだったから音楽が。それは無いだろうなってうのは自分でも思ってましたね。人より知ってるからとかそういう事じゃなくて。環境的に周りにそういう年上の人たちが居たりしたとかあんまり普通の環境じゃない中で、自分も洋楽とかに入り込んじゃってるんだなっていうのは何か意識はしてたんで。趣味が合うから友達になれるみたいな事は別枠として置いていて、中学校の頃とかは。
T:高校入るあたりって80年代で。その頃はもうMTVが出てきて。
K;そうですね。
T:実際にバンド組んだりとかは?
K:中学後半位から、ニューウェーブとかパンクとか好きな友達が増えてきて。その頃ってそんなにマニアックじゃないでしょ。ちょっとポピュラーなものになってきて。世代的に洋楽とか皆聴くようになってきてたし。MTVだけじゃなくてもうちょっとこうマニアックなパンク・ニューウェーブ系とかも好きな友達が多かったんで、そういう奴らと遊びで。バンド組む前にフライング・リザーズっていうバンドがあって、それはちょっと楽器が弾けなくても音楽ができるっていうジェームズホワイトアンドコントーションズとか。まともなバンドじゃ無い事だったらできるみたいな(笑)そういう風に思ってて、ちょっとノイズじみたものをテープに録って、逆回転させてループさせてみたりとか。最初はそんな事をして遊んでたんですけど、だんだんやっぱりエレキギターとかが欲しくなってきて、高校のときにバンドを組むんですけどね。
T:最初に組んだバンドってどんな編成だったんですか?
K:最初は3人組で、ベースと僕がエレキギターとボーカルであとドラムの3人で。
T:それはオリジナルもやっていたんですか?
K:そうですね。オリジナルでしたね。気持的には3人組だからジャムっぽい事をしようと思っていたんですけど、結果的にオリジナルをやるように・・・いきなり最初からそんな感じだったかな。
T:曲は全部自分で。
K:そうですね。書いてましたね。最初から。
T:バンド名は?
K:その時は『ラギース』とかいう名前にしてましたけど。
T:主にライブとか発表の場みたいなのは。
K:うーん、なんかね。市の、月に一回だったと思うんですけど、そういうバンドを集めた何かあったんですよね。なんというのかな。ホールじゃないんだけど、市のそういう集会所みたいな所があるじゃないですか。コミュニティーセンター的な所。コミュニティーセンターみたいな所の結構広い所があって、そこにPAを置いて。そこに住んでる若い連中だったら出ても良いよみたいなのがあって最初はそういうのに出てましたね。
T:普通のライブハウスは、まだ後っていう感じですか?
K:そうですね。最初はそこら辺に出始めて、そしたら何かオールディーズっぽいっていうか。例えばパンクとかニューウェーブとかジャムとかだったりとかモータウンのカバーだったりとか、あと自分のオリジナルとか、結構そういうのをやってたら、違う飲み屋さんっていうかライブハウス的な感じの飲み屋さんみたいなところからちょっと『良かったら出ないか』とか言われて、高校生の分際なんですけど。そこに夜出たりとか。そういう事はしてましたけど。
T:そのバンドは高校時代はずっと続いて?
K:いや、一年ちょっとぐらいじゃないですかね。やってたのは。
T:その次の音楽活動の展開は?
K:そのバンドを作った時の話なんですけど、そういうコミュニティーセンターみたいなところって、結構生音ですよね。そんなあんまりPAとかも無くて。 ドラムも直置きだし。ドラムでマイキングなんて無かったから。分からないんですよ、全然音が。で、何かモニターとかあるところで演奏するとどうなるんだろうって興味が出ましてですね。でもなかなかそういう場が当時無くて。僕らが高校生ぐらいの時って。モニターがあったり照明があったりとか。音響が良いところで演奏するとうちらのことはどう聴こえるのかなと思って。ヤマハとかでやってるイーストウエストとか、レコード会社とかのオーディションみたいなやつとかはモニターがあったりするんですよ。音響も良くて。ちゃんとホールだし、そこで演奏すると結構良い音なんじゃないかっていう。バンドがどう見えるかっていうよりどういう音なのかってことにまず興味があって、そういうとこでやるとベースとかもっとボンと出るのかなとか、ドラムとかPA通すとどういう風に聴こえるんだろうか、っていうのでそういうのに出たんですよね。そしたら、何かエントリーの条件っていうのがオリジナルを書く事だと。オリジナルの曲でエントリーって事だったんで。そしたら最初に出たら、お前の曲は良いからちょっとテープをくれとかいう話になってですね。地方のそういうコンテストだったんですけど。まぁ合格したりとか賞貰えたりとかして、それで曲を聴きたいからテープを送ってくれってオファーが何件か来たりとかしてたんですね。高校生の1年ぐらいの時に。何が何だか分からないみたいな感じだったんですけど。とりあえずバンドでリハーサルしたテープをそういう所で知り合った人に送ったりとかして、そうすると東京大会で、もっとでっかいPAのある所で演奏できるみたいな。照明も有るみたいな。そういう所で演奏したらどうなるんだろうかっていう、そういう興味で何かこう2次審査とか、オーディション的になっていくんですよね自然に。高校2年ぐらいの時まで何かそんな事をしていて。
T:次に組んだバンドは有るんですか?
K:いや、組んだというか、バンドのメンバーが抜けていくんですよね。ベースが抜けたりドラムが抜けたりして。だから自然発生的にバンドが変わってしまうというか。僕以外が変わってしまうという結構悲しい状況で(笑)
T:でも曲自体はメンバーが変わっても自分で書き続けて。
K:そうですね。メンバーが変わってもやりつづけて。その時はオリジナルをやるっていう意味がどうも、自分の好きな洋楽のバンドって皆オリジナルやってたから。それだけだったんですよ。自分がバンドをやる事はオリジナルをやる事だと思ってましたから。別にカバーやっても良かったんですけど。だからメンバーが変わると、また曲書いてみたりとか。でも皆受験があったりとかね。そんなに音楽ばっかりやってる訳にいかないから、自然に抜けたりとかなっちゃうとね。
T:その頃、進路的には音楽をやるっていうのは決めていたんですか?
K:いやいやいや全く。決めていたというか、そんなのはもう考えても・・・将来どうするかって事も考えていなかったですね。だからとりあえずPA有る所で演奏できるからこのコンテスト出ようとか。あと、このレコード買いたいとか。目先の事しか考えて無いんで(笑)ギターの弦張ってるだけでも楽しいみたいな時期だから。真剣にプロになりたいとか、音楽で飯を食っていこうとかじゃなくて。モニターの有る所で演奏したらどういう音で聴こえるのかなとか、レコーディングスタジオでレコーディングしたらどういう音になるのかなとか、もうそういう趣味範疇の興味は凄かったですけど。だからそれが仕事に直結するとか、そうなりたいから仕事にしたいとかそいういんじゃ無かったんですよね。本当にそんなこと考えていなかったっていうか。
T:普通に受験するとか。
K:そう思ったんですけど、高校3年・・いや、2年か。ちょっと記憶が曖昧なんですけど、高校2年か3年のときに何かいっぺんに2つ3つくらいの事務所から『ちょっと歌を歌って・・・将来・・・』みたいな話があったりとかして、メーカーとかも。でもその時はまだ考えてない段階で、将来の事とか。何か楽しそうだなぁっていう風に思いましてですね(笑)。曲もちょっと書いてみないかみたいな感じだったんで。それで作家的なお仕事をちょっと頂いたりとかして。それで曲を書くと、お給料制とかで。ま、その内デビューもみたいな感じだったんで、高校3年くらいの時に。結局それはソロでデビュー出来なかったんですけど、それで仕事を始めた感じですかね。
T:高校3年生あたりから何となくそういう仕事的なものって言うのは?
K:そうですね。こういう所に曲書いてみないかみたいな話があったりとか。実際それでギャランティが発生したとかでは無いですけど、例えばこういう人に会ってみないかとか。だからレコード買いには良く東京に来てはいたんですけど、それ以外の事で色々な人にお会いしたりとかで良くこっちには来ていましたね。
T:高校卒業して、何か節目的な展開みたいなものっていうのはいつ頃に。
K:そうですね。お給料が出るようになって、仕事をするようになって、ラジオのテーマとか。匿名のような仕事ですよね。別に僕の名前が出るとかじゃなくて。あと歌手の方に、毎回何かしらのテーマがあって、レコード会社のディレクターさんからこういう曲を今集めてるんだっていうのがあって、それのコンペティションに参加して良い曲だったら採用されるみたいなものとか。そうすると人づてにまたこういう曲がとか、こういうの手伝えないかとかっていう。で、 当時なんか知らないんだけど歳が僕と同じぐらいな感じの人達がラジオ局とか、何か現場に居た人がそういう人が多かったような気がして、何か和気藹々とそういう仕事をしていた気がしますけどね。
T:一番最初にCD音源になった提供曲ってどんな曲だったんですか?
K:CDになったのは島田奈美さんの曲かな確か。そうですね。
T:それはどういう選曲だったんですか?
K:それは、確か僕のデモテープの中からこれが良いという事で、先方に選んで頂けた感じですよね。
T:それは詩、曲ともに提供って感じですか?
K:詩は違う。メロディーだけかな。だから別に僕は現場に行ってる訳ではないし、楽曲だけ。当時作家制度っていうのはそういうもので、メロディーがあって、メロディーが良ければもうあなた現場には来ないでっていう、もうプロデューサーさんに任してっていう感じだったから。
T:大学は進学はせず、もう仕事がガーっと来てた感じに?
K:ガーっとは来なかったですけど、ただあの、その時作家としては事務所と契約はしてたんで給料は出てましたし。
T:ある意味で、就職ですね。
K:そうですね。だから非常に有り難かったですね。それは。印税もあったし、給料もあったし。だから相当雰囲気的には就職した感じっていうか、フリーター的っていうよりちゃんと音楽の仕事をやっている感じが急にしましたよね。
T:その時は凄い満足な感じで。
K:うん満足というか。前例が無いんで、周りにそういう事やっている友達が居ないじゃないですか。だから会社に行ってボーナスいくらって話せる友達が居れば良いんだけど、何の情報も無いし、周りの友達も誰もそんな仕事してないから、比較のしようがないんですよね。自分がいまどういう状態なのかとかどう頑張れば良いのかとか。例えば会社に行くと先輩がいるとかね。でも僕の場合同じような仕事をしている先輩って言うと、ちょっと大御所になっちゃうから。 おいそれと飲みにいきましょうっていうのはまだ・・・。未成年だし、みたいな(笑)飲みにいって話聞かせて下さいよっていう訳にもいかねーしな、みたいな感じだったから。だから非常に特殊ではあったと思うんですよね。ま、そうは言いつつも色々なレコードメーカーの方とかも面白いと思ってくれたんじゃないですかね。高校卒業してそういう曲を書いたり、バンドやったりとかしてたんで、そういう人に会わせて頂いたりとか。レコードを貰えたりとか。『わーすげー、ボブ・ディラン全部貰えた』とかさ。良かったこの仕事始めて!みたいな(笑)相変わらず非常にこういい加減なというか。
T:バンドもその頃は。
K:いやいや、もうだからその時は僕はその契約でそういう風になってたけど、メンバーはそういう風にはなれてないので、ソングライターとしての契約とあとボーカリストとしての契約ってことで。僕は当時は何だか良く分かっていなくて。だから自分はその時は人に曲を書きながら、何かチャンスがあったらレコードデビューとかするのかな、みたいな感じでしたね。レコード会社に籍があったんでその時。事務所もあったし。だから作家としてはやっていて給料も出るんだけれど、将来的にはデビューさせるみたいな形でその事務所に入ってたんで。僕は。
T:それが何年続くんですか?
K:2年ぐらいですね。21、2ぐらいまでかな。
T:その頃は、アーティストとしてデビューをしたいという願望みたいなものはあったんですか?
K:うーん。今考えるとどうだったのかなぁと思いますね。人に曲書いたりとか、レコーディングの現場に行ったりって言うのは好きだったし、バンドも好きで楽しかったんですよ。難しいんですけど、丁度その時ビーチボーイズの「スマイル」、そのブートレグが出たんですね。丁度20とか19とかの時に。かなりくらいまして。これだ、みたいな。この音楽は凄い、みたいな何でしょうね。ま、音楽ファンとしてあれを聴いて、なんかこう、ブートレグだったんだけどなんだか衝撃的だったんですよね。自分もやっぱりポップスって言うものを凄く好きであるけれども、何かものを作る上で、何を目標にしなきゃいけないか、みたいなものとか。同じ事を絶対にやってもしょうがない、っていうもの。過去のものは大好きなんだけれども、自分で発表するためには何を音楽の中に入れていくかっていう。そういう何か漠然としたものを子供の頃から感じていて、アーティストとしての理想型みたいなものがあの「スマイル」ってものの中に入っていて、それに影響を受けてデモテープとか作り出した頃からまわりの関係者との関係がギクシャクした事は事実なんですよ。最初の頃はキャッチーでポップスも僕好きですから、そういうものが凄く好きだったんだけれど、やっぱりなんでしょう。その「スマイル」って言うものを聴いたときに、何かこう自分の中で変わったのかも知れないし。それで何か『黒沢ちょっと不思議な方向に行ってる・・・』みたいな。で、アーティストデビューを前提とした契約みたいなのは、まあ、とりやめというか・・・(笑)。今考えれば「スマイル」的なものは少なくとも80年代の日本の音楽シーンでやりたいとか思っているソロアーティストなんていうのは、特に需要もないだろうって思うんですけど(しかもブートレグでしか聴けない音源だし)。役には立たないと思います、はっきり言って(笑)それは冷静に考えてショックだとかなんだっていうよりも自分はやっぱりそういうものが好きなんだし、子供の頃から。しょうがないんだろうなぁと思ってましたね。で、まぁそれは分かりつつ、自分のその当時やりたいものはそういうものなんだけれども、他のアーティストの人に歌ってもらえるようなキャッチーなヒット曲とか、そういうものを書いて音楽に関われたら良いなって当時は思っていましたね。21ぐらいの時。
T:そこからデビューまでの道のりっていうのはどういう流れだったんですか?
K:丁度その「スマイル」ショック以降、書いたデモテープが回り回って。高校生の時から四人囃子の岡井大二さんが僕のバンドの事とか見てくれてて、多分高校2年とか3年ぐらいの時から自分のバンド活動やってて、もう音楽業界の人が観に来たりとか聴いてくれたりとかしてたみたいなんですよ。で、そういう事務所に入ったりとか色々そういう動きをしている中で、僕の「スマイル」ショックの頃作ったデモテープがですね、岡井さんを経由してポリスターレコードの牧村さんに渡ってですね、・・・。僕が「こんな事やっててもなぁ」って言われてたようなレッテルの貼られた曲って結構あって。・・・・『想像の産物』っていう曲とか。だけど牧村さんはそれを聴いて『こういうことやる奴が居るんだったらデビューさせるべきだ!!』みたいになって。いきなり逆転になっちゃって。『えぇ!?』みたいな。今まで「こんな事やってちゃなぁ」って言われてたのに、急にそうなんだ、みたいな。本当かなぁ、みたいな。で、岡井さんとも話したらレコーディングも凄くちゃんと時間を使ってきちんとやって、いい感じにデビューが進みそうだっていう話になったんで。『ほぉ〜そうなんだ〜』 みたいな感じでしたよね。
T:デビューまでの準備期間みたいなものは?
K:一般的に言う準備期間ていうものよりも、いきなりレコーディングでしたよね。まずデモテープから始まって。結構ラフな当時出始めたシーケンサーで秀樹と二人で音色とかアレンジとかも決めて作ったヤツが結構あって。・・・あっ、そうそう、その頃は秀樹と一緒に宅録ユニットになってましたから。バンドはバラバラになっちゃってたので。それを最初にプリプロの段階でどこまで雰囲気が出せるかってとこから始まって。当時はまだプロトゥールスの時代じゃないんで、音もスタジオ行かないと分からないから、スタジオでかなりの時間プリプロしていましたね。プリプロに近いような形を。凄い時間かけてましたね。
T:曲的にはもう出来ていた曲もあったし、新たにっていうのもあったんでしょうか?
K:元々出来てた曲だったですね。曲によっては8割がた最初のデモテープに入っていた曲を、岡井さんはじめ、秀樹とか木下とか皆全員でなんとか面白いサウンドにしようっていう。何か凄い頑張ってましたね最初の頃。
T:高校時代からの曲が全て詰まっているっていう。
K:そう。そういうのを岡井さんがピックアップしていって、今こういうサウンドにして出したら面白いだろうっていう。だから最初は本当にレコーディングバンドでしたね。だから面白いのが、L⇔R初期は岡井さんがプロデューサーなんですけど、僕はボーカリストであるけどやっぱりソングライターであったというわけで。で、秀樹とか木下とか大二さんとか遠山さんとか皆エンジニアも含めて一つのチームというかプロジェクトみたいな感じで。この楽曲を素材にしてどういう風にして面白く出していくかみたいなのを大二さん筆頭に考えていく、本当にプロジェクトチーム的なバンドというそういう匂いはありましたね。
T:レコーディングはどのくらいの期間だったんですか?
K:凄く長かったですね。最初のファーストミニアルバムの「L」っていうのは足掛け1年ぐらいかかってたんじゃないですかね。たかだか6曲ぐらいに。凄いかけてましたね。今考えると信じられないですね。4月ぐらいに、丁度「L」っていうミニアルバムが出た頃に「Lefty in the Right」っていうアルバムのレコーディングに入っていたんですけど、やっと出たんだって思った覚えがあったんで。少なくともやっぱり1年ぐらいはミックスをやり直したり、オケをやり直したり。歌を録り直したりとかそういうことじゃないんですよ。サウンド感というか。あの当時、サウンド感とかミキシングだったりとかどうやったら面白い音に出来るかとか、そんな事ばっかり考えていまして。
T:「L」が出た頃もう次のアルバムとか?
K:もう作っていましたね。
T:初めて「L⇔R」の形になった時って気持ち的にどんな感じでした?
K:全く次のフルアルバムに頭が行っていて。今やっている事に対して、例えば「Lefty in the Right」の先の先の事とか楽しみではあったんですけど、感動したとか自分がこのアルバムを出してどうのっていうんじゃなくて、その先にあるものっていうのが何かこう大きいもののような気がしていて。イメージ的に。これは何か面白い。っていう確実なものがあって。でも今それは、実現されていない確信に満ちているもの。なんでしょう、そういう感じでしたね。だから出たときに『あぁ、出来たな』とかそういう事ではなくて。何かが始まったなという事ではなくて、今は完璧ではないけれどもこれはいつかは必ず形になるものだって確信がそのときはあって。それがだんだん、「Lefty in the Right」を作っていったりとか、「LAUGH +ROUGH」を作っていったりとか、という中で何となくだんだん実感として出て来たのはあるかもしれないですけど。
T:ライブはプロモーション的な活動の中であったんですか?
K:最初の1年間は全く無かったんですよね。もうレコーディングでフルアルバムが2枚とシングル2枚とミニアルバム2枚を最初の1年で出したんで。だからもう「L」っていうミニアルバムを出してすぐ次の年に「LAUGH +ROUGH」があるから。兎に角全く1年の中でフルアルバム2枚、ミニアルバム2枚シングル2枚っていうのは。「R」っていうのは発売されて無かったと思うんだけど確か。モノラルの。でもそれも制作に入れるたらそのくらいの物量は作ってたんですよね。1年で。だからライブが出来なかったし、スタジオに籠りきりで。
T:かなりハードでしたね。
K:ハードでしたね(笑)。
T:でも、楽しんでっていう感じですか?
K:楽しかったですね。どういう風なサウンドになっていくのかが。皆楽しかったんじゃないですかね。岡井さんなんかも始め。
T:2年目からはどんな動きになって行くんですか?
K:「LAUGH +ROUGH」っていうアルバムを出したときに、やっと初めて人前に出るプロモーションっていうのを始めて、その時にライブをやる事になったんだと思うんですよ。ちょっと詳しく覚えていないんですけど。で、リハーサルスタジオに入って、当然レコーディングの時にいるメンバー全員。岡井大二さんと遠山さんと僕ら3人。いやそうだ、嶺川も居たんだ。嶺川はファーストアルバムの時にもう加入している訳だから。でも「LAUGH +ROUGH」を作っていた時は、彼女はスタジオにはいるんだけど、ライブを一緒にやっていなくて。だから4人組のバンドとしてそれでライブステージをやるんですよね。多分。渋谷クアトロかなんかが最初で。
T:最初のステージはどんな感じだったんですか?
K:凄かったですね。お客さんが一杯来てくれて。クアトロが満員になっていたのは覚えていますね。あと、凄くラッキーだったなと思うのは、木下も前にスタジオミュージシャンとかやってたヤツだからライブ慣れはしてるし自分のバンドも持ってたし、僕もライブ活動はそんなにしょっちゅうはしてないけれど、 ライブは嫌いじゃなかったし、秀樹も自分のバンドを持ってたし。あとリズム隊がね、岡井大二さんとキーボードが遠山さんとくれば、僕らは多少若気の至りで演奏があれでも十分グルーヴは出してくれてるってバンドだったんで。かなりレコーディングは緻密であっても当時ライブをやらないバンドって多かったんですよ。レコーディング凝ってるバンドはライブやらないみたいなイメージがあって。うちらなんかレコーディング凝ってたから、当然ライブもそんなにやらないで何かスクリーンとか投影して誤魔化しちゃうんじゃないだろうか、という予想を覆しつつ、全部生でやったんですよ。そしたら結構評判が良くて、こいつらちゃんとしたロックバンドだなっていうそういう印象を持ってくれたみたいで。当時。それでちゃんとお客さんが認めてくれたというかね。それでライブでだんだんお客さんが増えていったんですよね。
T:で、2年3年経って、L⇔Rはどういう風に変わっていったんですか?
K:そうですね。ライブとレコーディングを平行してやるようになったっていうのが、まずデビューの時の違いと、アメリカにレコーディング行ったりとか。 どう変わっていったんでしょうね。どうなんでしょうね。
T:サウンド的に実験的な事は。
K:ちょっとそれはやってる本人は分からないっていうか。一生懸命やっていたので。次のアルバムをこういう風にしようっていう。だからその時その時で興味のあるものだったりとか、やりたい事だったりとかに全力を投球していたというか。なにか明確なヴィジョンがあってやっていたというよりは、ツアーがあってレコーディングがあって、全員が音楽に対してその瞬間やりたい事をやってあるものにしていったとしか言いようがないですね。
T:アルバムを作る過程のなかで、小さい頃から聴いて来た音楽がどこかで作品に生かされたりっていう事は?
K:そうですね。それはありますね。それが無かったらやれて無いかなと思うし。だから最初の頃は僕はこういう音楽が好きなんだよって意識的でそういうものを入れ込んだりとかね。サンプリングとか入れたりとかしてましたし、あと思ってたのは、好きなミュージシャンって過去に沢山いるんだけれども、自分が今何かやるのであれば、それをそのままやっちゃいけないって事だけは思ってたんですよ。だから何か、新しい解釈っていうとちょっと変なんですけど、自分がその人のファンだからこそ出てくるものを、サウンド感だとか、少なくともミキシングであるとか、そういう所に入れなくてはいけない。漠然とした言い方で申し訳無いんだけど、そういう風に思ってましたね。
T:当時の大きいメディアはCDで。CDで再生されるっていう条件で最高の形を作ろうとしたという事に。
K:そうですね。最高というか最低限というか。アナログでコンプのかかったドラムの音とかは、今は随分マスタリングが良くなったから良いけど、 当時はコンプのかかったローファイな感じのドラムの音とかを作ろうとすると、それはそれで「せっかくCDなのにどうして音が裏に隠れちゃうんだろう・・・。」って思ったりだとか。あとレンジだけは異常に見えるから、レンジだけは凄く広がっているんだけれども、音としてのダイナミクスが無くなっちゃうとかね。かといってコンプで上下切ってそういうサウンドで出していくと(ちょっと前のプロトゥールスの傾向だけれど)、どうしても迫力がある感じに聴こえるんだけど奥行きが無いとか。だからデジタルって絶対一長一短で、本当にそれに関してはCDというフォーマットになってからは僕は凄く苦労してますね。アナログだったら良くも悪くも、結構再生装置と色々な物でなんとかなったりする。聴こえ方が変わったりとか、聴く人によってカスタマイズするってかなり可能なんだけど、デジタルになると結構そこら辺が難しいんで。そこら辺が悩みどころだな、L⇔Rの頃から。
T:当時、アナログも出されてるんですか?
K:アナログも出てますね。L⇔Rからは。カッティングはイギリスでやったりだとか、初期のサウンドはイギリスで。あ、そうだ。いや、あれは全部アメリカなんだ。カッティングは。確かそう。全部向こうでカッティングしてもらって。でもオリジナルのマスターはアナログなんで、こう起源をさかのぼる、みたいな。これだ、一番正しい音は!みたいな。だから僕のファーストアルバムなんかも、アナログのマスターで聴いたりすると、もうストリングスとかバランスが違って聴こえるんですよ。CDになるとやっぱりバランスが変わっちゃって。だからアナログで聴いてもらうのが一番正しい音だったりするんですけどね。
でもやっぱりそこら辺はどうしてもCDで再現出来ない。それは凄くあるなぁと思いますけれども。
T:L⇔Rからかなりのヒット曲も生まれて、休止が来ますね。その後半戦の活動はどういう感じの動きに。
K:そうですね。まず滅茶苦茶忙しかったっていうのと、94年ぐらいから、ツアーもあったし曲も書くし、みたいな所で。で、そのスピード感というのが如実に違って来てるって感じはあったんですよね。初期はやっぱり岡井さん含め、本当にスタジオでずーっと皆で居て、あーでもないこーでもない、ここがこうだ、これどうしようか、っていう。なんかそういう事をやってバンドを作っていった感じ。だから僕らはデビュー前にバンドでライブもやってないし。仲は良いんだけど、デビューするまでにライブを一回もやったことの無いバンドなんか無いじゃないですか。それでもデビュー出来ちゃってたりとかするっていう非常に不可思議なユニットというかグループだったんで。だから最初にそうやって皆で何かコツコツ時間かけて作りながら、バンドのバンド感だったりとか自分たちとは何かみたいなのを考えられた時間が初期はあったと思うんですよ。アルバム前に。だけど、ツアーが始まってラック・オブ・リーズンの頃とかになってくると、本当に沢山の時間をレコーディング以外に使うようになって、それはそれで僕はバンドとしては良かった事だと思うんですけど。そうすると次のアルバムに対するアプローチっていうのが時間が短くなっていくんですよね。そうすると最初の「L」の時の、殆ど体感上3分の1ぐらいの感じでレコーディングを済ますという感じになってくる。曲も必要になってくると、とにかく曲を早くかくことが必要!みたいなことになって。
T:ええ。
K:そうすると、ここらへんのリミットまでで曲出そうよみたいな感じになってくると、皆各自L⇔Rというものに対して愛情もあって、こういうバンドにしたいなと思うんだけど、それぞれの思いがあるがゆえにバランスが難しくなってくるというか。例えば次はこういうようなアルバムにしてっていう話合いもなかなか初期の頃みたいに出来なくなってきたりすると、お互い皆不安になりますよね。このバンドどうなっちゃうのかなとか、 どんな作品になるんだろうとか。だから「LACK OF REASON」なんかは取材したりプロモーションしたりとか、ライブをやりながらスタジを行き来しながら作ったんで、結構出来上がってから皆『あぁ、こういうアルバムが出来たんだ』って。でも初期の頃の僕らって『こういうアルバムにするんだ』っていうのが毎日目に見えて分かってたんだけど、「LACK OF REASON」の頃から何か色々忙しい中で一生懸命やったらこういう物が出来上がった。はい、出しますよ、みたいな。決して批判じゃなくて、逆に言ったらバンドとしては凄く良い事だと思うんですけど、でも逆に言ったら初期とはスピードが違って。それに乗っていかなきゃいけないところって絶対あると思うんですよ。諦めるとかじゃ全然無くて。そこでも上を目指すっていうか、良いものを作るっていうのは忘れずに時間を使うっていうこと。
T:なるほど。
K:でも、そういう事の中で消耗して来た部分っていうのは各メンバー大きかったと思うんですよね。自分がプレゼンした曲がどうしてもこういう形ではまらないとか。次に曲書こうと思ってもなかなか時間が無いとか。そういうストレスが溜まってくると、自分の理想型のバンド・・・L⇔Rっていうバンドは3人にとっても大事なバンドだったから自分の理想のバンドにしたい訳じゃないですか。で、俺の理想はこういうバンドにしたいって各自各自バンドの運営論じゃないんだけれど、音楽的なものも含めて、俺はこういう風にしたいっていう。アイディアがあるのは良い事なんだけれども、そこら辺が合わなくなってきている感じはしましたね。忙しいからね。もっともっと時間をかけて話し合えばなんとかなったのかも知れませんけど、最終的には音楽的にも、じゃぁソロで各自書いて来た曲を聴いたりとかしても、バラバラになってくる訳ですよ。音楽的に。別に仲悪い訳じゃないんだけど。あ、秀樹はやっぱりこういう路線でいきたいんだなっていう。だからバンドのアルバムとして入れるともの凄い浮いちゃうとか。それだけ個性が強いとか。僕もそうだし、木下もそうだし。だからそこら辺のなかで、バンドとしてまとめるのにどういうジャッジメントをつけるのかとか岡井さんとか凄い大変だったと思うんですよ。プロデューサーとしては。 3人バラバラのものを1つのバンドに見せようとしなきゃならなかった岡井さんは、結構大変だっただろうと。悪い事したなと思うんですけどね、今思うと。
T:休止する事に決めて、最後はアルバムですか。それともライブで締めたという感じですか?
K:ライブかな。doubtのライブをやって、それで。別にそれは活動休止ライブとかじゃなかったんですけど。
T:過程の中っていうか流れの中で。
K:そう。なんとなく。で、ツアーは楽しくて。良かった、みたいな(笑)
T:(笑)でも、みんな残念がってませんでした。周りの人とか。
K:いや、だからそのとき僕も含めて、別にそんなに長い活動休止になるとかあんまり思ってなかったのかも知れないですね。結果的にこんなになってるんですけど(笑)。
T:ちょっと時間を置いて、みたいな。
K:そうそう。
T:へえ。そうなんですか。
K:で、各自3人アルバム作ってみたら、これは僕側の話ですけど、秀樹は秀樹で素晴らしいもの作ってるし、こういうことやるんだったらやっぱりさ、バンドで皆で音作っても、こういうサウンドにはならなかったよね、みたいな。僕のファーストアルバムもそうだし、木下のファーストもそうだし、モロやっぱりそういう作品が出てきて、もう、成る程!みたいな。これはなんか3人そろって1つの事をやろうとすると、どうも誰かが我慢する事になっちゃうねみたいな。そういう事っていうのは、あんまりよろしくないから。3人ともB型だから。譲り合わない所が良いみたいなところも非常に良くあって。でもたまに気を遣うとわかるんですよ。まぁまぁ・・・みたいな。なんからしくないなってところが。じゃあそれぞれ思いっきりなんかやろうよみたいな感じですかね。なんか。
T:話が戻りますが、L⇔Rの名前って、どこから来てるんですか?
K:あれはね、家で大二さんとかとバンド名は何にしようかってレコードかCDを聴きながらこう、『どうしようかな』って考えてて。LとRってあるじゃないですか。L⇔Rっていうのは良いなぁっていう話になって。右と左だし、みたいな。何かそれで決まったんじゃなかったっけかな。
T:あの真ん中の矢印っていうのは、どこから来てるんですか?
K:あれは当時岡井さんとか僕たちでレコーディングするとき、サウンドの音像とかね、こんなサウンドにしようかっていう事で良く聴いていた当時の昔のレコードとかにステレオってこう大げさに矢印があって、ステレオって書いてあって。今は誰もそんな事気にしないと思うんですけどね。ステレオなんていうのが凄く貴重だった時代で、昔のレコードは矢印でもう、『ステレオ版です!!』って書いてあって、『これ笑えるよ』みたいな。で、そうこうしてたらL⇔Rのファーストアルバムのレコーディングの時にミキシングが下から上に積んでいく音のやりかただと、レンジは広くて良く音聴こえるんだけど、それじゃもう聴こえない音が出てくるから、こっちドラムにしてドラムとベースはこっち。こっちボーカルとコーラスみたいな。本当に無茶苦茶な60年代初期のステレオみたいなミックスにしたんですけど。そういう風なキャラクターのサウンドもあるし、これ面白いだろうってことで矢印を入れたんですよ。
T:あ、成る程。では、ここから「PART2に続く」という事にしましょうか。
K:はい。
PART1 END>>> <<<PART2へ
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