三宅伸治/ Miyake Shinji


現在「ロックンロールジプシーツアー2003」を展開中の、三宅伸治氏の過去から現在までを辿ったインタビューです。


(2003年6月23日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)

ライブレポート「三宅伸治/ロックンロールジプシー2003」(6/4,11,18,25 at吉祥寺MANDA-LA2)







三宅伸治(Miyake Shinji)

1988年  MOJO CLUB デビュー。
1995年 MOJO CLUB の活動を休止、ソロ活動開始。
1996年 Maxi Single「パーティ・タイム」リリース。 三宅伸治 & THE TRAMP という名義で、忌野清志郎、仲井戸麗市、THE HIGH LOWS 等 交友関係から錚々たるメンツが参加。
1997年 Single「たたえる歌」Album「FREE TIME」Single「プリズナー」Video「FREE "summer" TIME LIVE」 Single「鎮魂歌」リリース。
1998年 Mini Album「SUN DOWN」「MOON RISE」Album「615」リリース。「615」アナログ盤をPHOENIXレーベルよりリリース。
1999年 アリゲーターズ(三宅伸治、内田勘太郎、新井田耕三)LIVE CDリリース。
2000年 Mini Album「淋しい人」二枚組Album「旅路」リリース。三宅伸治プロジェクト第一弾「Music Planet〜いいことがあるといいね〜」リリース。
2001年 Album「ハッピー・デイズ」リリース。
2002年 三宅伸治プロジェクト第ニ弾「Guitars' talk」リリース。
2003年 Album「MOSAW HARD TIMES LIVE!」(7/25発売予定)Album「Shinji Miyake and His BigBand LIVE!」(8/25発売予定)

*7/7より
website→http://www.miyake-nji.tv/good_news/index.htmlにて先行受付開始。
三宅伸治 オフィシャルホームページ →http://www.miyake-shinji.tv/

 

 


2004年かな?どこから数えたのかはわかんないんですけど、20周年という風にしようという事になったんですね。今んとこなってるんですけど『三宅伸治20周年』っていう。じゃあちょっとその前に、自分の作った曲をちょっと振り返ろうかなと思って。

TERA(以下T):まず生まれから教えて下さい。

三宅(以下M):九州は宮崎、宮崎県宮崎市ワチガハラ町っていう、今もうなんか名前変わっちゃったらしいんですけど。何病院だっけな?高千穂病院っていう、小さい病院みたいです。宮崎市内って、田舎を想像してると思いますけど、割と都会です(笑)。そうでもないかな?

T:家族構成は?

M:家族構成は、僕が次男で、二人兄弟で兄貴がいます。で、親父とおふくろと。

T:小さい頃って、どんな遊びしてたんですか?


M:パッチンとか。あとちょっと大きくなったら爆竹。爆竹で、悪いヤツは車のドアを爆破したりとか、壁に大きな穴開けたりとか、野原燃やしてるヤツもいましたけど、僕は自分の手を自分の手で爆発させるぐらいのもんでしたけどね。

T:小学校の時、音楽に触れてた事は?

M:家の親父が、流行りもの好きで、小さい時から何故かボーリングの玉があったりとか。マイボールってやつがあったりとか、何かそんなに家では飲まないくせにウイスキーがあったりとか、何でもこう手を出しちゃう。スチールギターあったりとか。それはハワイアンの影響だと思うんですけど。ベンチャーズの影響なのかな?と思うんですけど、それ風のエレキギターがあったり、ガットギターがあったり。ガットギターは親父も弾いてました。

T:三宅さん自身はガットギターに触れる事はあったのですか?


M:うん。あの、触ったりとかもしてて、小学校の時はそれこそ『明星』とか『平凡』とかに歌本みたいなのがあってコードがあって、ちょっとコードを鳴らしたりとかしてましたね。4つ離れた兄貴がいたんで、すでに兄貴はもうフォークとか弾いてたんで、友達の影響もあって、やってましたね。

T:本格的にギターを弾き出すのはいくつぐらいからですか?

M:本格的はわかんないんですけど、とにかく家の中で歌本見ながら『雪が降る』とか2つぐらいのコードなんでやったりとか、「オーマミ〜♪」とかね。何故かマイナーが多いですね。やってるうちに兄貴の影響で、日本のフォークの連中とか、要するに『RC(サクセション)』とか『古井戸』とか当時の70年代の『憂歌団』だったりとか。吉田拓郎さんとかも聴くようにはなりました。その中でもやっぱり好き嫌いっていうのは、そのうちはっきりしてきましたけどね。

T:それはもう中学の時ですか?

M:うん。中学校、そうですね。でも小学校6年の時に『RC』とかを観に行ってたことがあるんで、多分そん時はちょっとフォークが好きだったんだと思います。

T:『RCサクセション』を観た時の話を聞かせて下さい。

M:うん、それは小学校6年の時に、親戚が東京にいて、その親戚を頼りに一人で『ジュニアパイロット』ってやつで来たことがあるんですよ。一人で飛行機に乗って。それで日比谷の野外音楽堂で観たコンサートっていうのが、一番トップバッターが『RC』で。それはちょっと微妙な時期だったみたいです。そんで昼間から夜までのコンサートでいっぱい出たんだと思うんですけど、とにかく一番頭がRCで、一番トリが当時『旅の宿』がヒットしてた吉田拓郎さんだったんです。それはすごく覚えてます。それが最初のライブかな?観たのは。

T:その後、レコード買ったりとかギター弾き出したりとか、何か変化はあったのですか?


M:うん、当時はとにかく吉田拓郎さんを筆頭にフォークブームというのがあって、家でフォークギターをかき鳴らして曲を作るっていう事から入っていったんですよね。でも、その、またちょっと別の部分で『レッドツェッペリン』だったりとか、いわゆるロックっていう形体も少しづつ気になってはいるんですけど、なにせ宮崎だとバンド組むのが大変なんですね。バンドで音を出すっていうのが。だから友達と二人でギターをやったりとかするんですけど、結局そういうロック的なことにも憧れつつもあるんで、そういう所から『RC』だとか『古井戸』だとか、フォークの中でもロック寄りの皆さんとかにたぶん惹かれいったんじゃないだろうか?と思います。当時は。そんでなんとなく中学になってやり始めるって感じです。

T:具体的にバンドとか組むのですか?

M:うん、友達とやっぱり。ドラムが入るのは、まだ随分後になるんですけど。友達と3人でやったり2人でやったりっていうんで。自分で曲を作ってやってましたね。最初は『古井戸』のコピーバンドみたいなやつですね。僕がチャボさん役で。だとか中学校の時は、そんなもんだと思います。

T:何かバンド名とかはあったのですか?

M:『メイク』。ダセー(笑)。でも当時は宮崎で、宮崎のアマチュアバンド何組かでバスに乗って宮崎県内で、宮崎市だとかミヤコジョウ市だとか。何ケ所かツアーしたことがあんですよ。そん時に「サザン」のドラムの方とかもいましたよ。今考えると、そういう企画してくれた人とかも「凄いな」と思うんですけどね。

T:その『メイク』っていうバンドで、何年ぐらい?


M:いや、多分2年ぐらいはやったんですけど。そういうたまたま企画してくれた人のおかげでライブやらしてもらったりとか。あと楽器屋の中でお客さん相手にやったりとか。ラジオに出させしてもらったりとか。そんなことしてたぐらいです。ライブハウスっていうものも無かったですからね、宮崎市には。当時は多分。

T:中学の時は音楽にドップリですか?

M:ドップリでもないんですけど、全然普通の中学生だったんで。部活とかは卓球部だったんですけど、中学校2年までで辞めちゃったんですよね。ユニフォーム買うか買わないかっていう時で「お金出してユニフォーム買うぐらいだったらレコード買った方がいいや」っていうぐらいのもんで、そんなに面白くなかったですね。それで辞めちゃったんです。

T:中学出てからは、どんな感じだったのですか?

M:中学出て、真面目に進学校の高校に入りました。そこは割と厳しい進学校で、ほとんど勉強してましたよ、高校1年は。高校2年ですね、その反動が来たのは。2年の時に修学旅行さぼって『ライトニン・ホプキンス』っていうブルースマンが来たんですけど、それを観に行って。それはもう自分の中じゃ大騒ぎ。大事件。最初の外タレで最初のブルースマンで、それがそのカントリ−ブルースの『ライトニン・ホプキンス』。何かもう高校生とかがおかしいですけど。中学の時から実はもうブルースちょっとハマってて、だからあんま友達もいなかったんですけど。そういう趣味が。高校に入ったら、原口君っていう唯一ブルースが、中学の時から好きな友達がいて。そいつはプレーとかしなくて、単純にブルースが好きだった。で、二人でレコード通販で、堺に『サムズ』っていうレコード屋があるんですけど、そっから注文したりして、お互いに貸し借りして。その時も原口君と行ったんですけど、大ショックでしたね、何か。

T:その『ライトニン・ホプキンス』の事を、もう少し教えてもらえますか?

M:それは名古屋の『愛知勤労会館』かな。それで、こないだその辺のやっぱり頼まれて文を書いたんですけど、随分記憶が違ってたんですけど『愛知勤労会館』だったと思います。要するに日本に来たのが最初かな。愛知が最初で。何年後かにアメリカに帰って死んじゃってるんですよ。だからものすごい自分の中で貴重で、すごい思い出に残りますけどね。

T:それを機に、自分の生活というか、動き、活動みたいなのは何か変わりましたか?

M:何かどっちが先なのか、どっちが後なのかちょっとわかんないんですけど、高校2年の頃は自分でもバンドが、そのブルースももちろんやりたいし、ロックもやりたいし、相変わらずフォークの流れで今度はラグバンドみたいな、ラグタイムバンドみたいなこともやりたいしっていうんで、ソウルバンドもやりたいしっていうんで、高校の学園祭で全部やったことがあるんですよ。一人、僕が今言った4つか5つかけもちで。体育館と裏庭で2ステージ組んでやるんですけど。ブルースバンドは3人のブルースバンドやって。ラグバンドはもうホントに瓶とかタライとか、いろんなのを友達にやらせて、全然音楽やりそうもないヤツに「これやれ!」って言って。そんで吹奏楽部のヤツをつかまえてはソウルやったり。かと思えば今度ちょっとロックバンドをやったりとか。どうしてもドラムっていうのがネックになってて。当時ドラム叩ける友達とかいなかったんですよね。ドラム持ってるヤツもいなかったし。しょうがないから先生の中で、やってる先生がいるっていう噂聞いて、昔セミプロで。職員室に訪ねてって「やって下さい」って。昔キャバレーでやってたとかいう話を聞いて。それでやってもらったんですよ。先生も楽しそうにやってたんですけど、学園祭が終わったら、その先生クビになっちゃいました。校長にこっぴどく怒られたみたいで。今でも責任感じてますけどね。だからそれが何か自分でプレーして、音楽が面白いっていうんでは、その辺からかもしれないなと思ってますけど。

T:高校3年あたりは、どういう風になっていくんですか?

M:もう大学に行こうと思ってたんですよ。それは、とにかく東京か大阪に行きたいと。もちろん「自分でバンドをやりたい、自分で演奏したい」って事もそうなんですけど、東京行って『RC』をちょっと観たいっていうのとか、大阪行って『憂歌団』をいっぱい観たいとか、単純にそういう事ですね。中学の時『メイク』っていうバンドやってる時に『古井戸』の前座をやったことがあって。チャボさんとは、すでに中学の時から知り合いになれて、文通っていうか始まりは僕のファンレターです。それに返事を書いてくれて、今考えたらそれだけで凄いな?と思うんですけど、返事をくれるって事は。そんで何ヶ月に一回、「こういうレコードを買いました」とか「こういうのを次聴いてみるといいよ」とか「こういう本を読んでみたらどう?」とか、そういうやりとりはしてて。だから東京に行ってまず「チャボさんに会いに行こう」っていうのが一コあって。なので、とりあえず高校3年はもう勉強して、こっから抜け出そうという。宮崎を抜け出そうというのが第一目標でしたね。

T:結果はどういう事に?


M:もう受験の時からライブ三昧で。受験は行くんですけど、夜はライブ観に行ったりとか。あげくの果てはずっと残って、卒業式もサボって今度は『オーティス・クレイ』っていうソウルの人を観に行ったりとか。そんな事やってるから1年目は失敗しました。そんでまた宮崎に舞い戻って1年間浪人をするんですけど。さすがに自分でやりたいんで、勉強してるフリして、実家のトイレのちっちゃい窓があるんですよ、ホントに昔の普通の。そっから抜け出すんですね、裸足のまんま。ライブハウスが当時やっと出来て、そこのブルース好きの、たぶん5つぐらい上の人だったと思うんですけど、そこで働きながら歌歌ってるヤツ。そいつとバンド組んで夜中演奏して。月イチぐらいかな?週末そこでライブやってっていう。

T:それはオリジナルですか?

M:それはうん。もう殆どその人のオリジナルのようなオリジナルじゃないようなブルースだったりとか、スライドやったり何曲か歌ったりもしてたんだと思うんですけど。まあ演奏内容はたいしたもんじゃなかったのかもしんないけども、とにかくそういう場所で演奏出来たっていう事は、すごく面白かったんですね。酒もバンバン飲みながら。

T:受験の方はどうだったんですか?


M:受験は、そんな事やってる割にはうまくいって。一浪して2年目には通ったんです。結局僕はどこでもよかったんで文系も理系も全部受けたんですよ、10コぐらい。結局理系が、国立が一コ通ったんで、東京農工大学っていう。国立の方が安いんで、親に迷惑かけないかなと思って。それだけで国立に行ったんですけど。でも入学しただけで全然行かなかったですけどね。

T:東京に出てきて、拠点はどこだったんですか? 

M:住んだ所は、最初が久我山。四畳半かな?っていっても、凄い狭い四畳半でしたね。風呂共同のトイレ共同のやつで。日曜日になると二階からサラリーマンが大ボリュームで『浅川マキ』さんを聴き出すんですよ。日曜日の朝10時ぐらいから。それで目が覚めるんですけど。で今度は12時ぐらいから隣の部屋がドア開けてドラムを叩き出すんですよ。それで僕は1時ぐらいから小さいギターアンプにエレキつっこんで大ボリュームで鳴らし出すんですよ。凄いアパートだったですね。

T:誰も文句は言わずに?

M:うん。言えないんじゃないかと思うんですよね、多分恐くて(笑)。あまりに堂々としてるんで。窓じゃなくてドア開けてましたからね、皆(笑)。

T:その頃、バンドとかは?

M:高円寺の『レッドハウス』っていうライブハウスがあって。出てきてすぐオーディションを受けて受かって、そこで何回かやらせてもらった事があります。そこはライブハウスっていっても飲み屋だったんですけど、単純に酒を飲みに来るお客さんに歌うっていう事で。でも3,000円ぐらいもらったのかな。それでそこのママさんに「あなたは今日からプロです」って言われて3,000円もらった。そん時僕は25,000円ぐらいの生ギター使ってたんですけど「プロなんだから良いギター使わなきゃダメよ」って言われて、いつもママさんのハミングバードを貸してもらって「これ使いなさい」って言われて。気にいってもらえたんだと思うんですけどね。何ヶ月かしてる内に、酔っぱらい相手に演奏する事がめんどくさくなってきちゃって、どんどんライブそこでやんなくなっちゃったんですよ。ある日電話かかってきて「あのハミングバード返しなさいよ!」って言われましたけどね。それで当分、生ギターのフォーク系のというか「とにかくドラムがあるロックバンドがやりたい、ロックンロールがやりたい」っていう感じだったと思います。そんでロックバンドを組んだりとかしてやってたんですけど、とてもライブには出れなかったんですよね。

T:大学は、行ってたんですか?

M:いや、行かなかったです。殆ど行ってないです。でもなぜか3年まで上がれたんですよ。明治大学の友達に変わりに試験を受けに行ってもらったりとかしてね。全然顔とか違うのに「よくお前バレなかったな」っていうぐらい。学生証とか全然違う写真なんですけど。僕が行ってる学科っていうのが、最終的になくなっちゃったんですよ。他の名前になっちゃって。そしたら学校側から「あなたがいるおかげで、この学科がなくならないんで、頼むから辞めてくれ!」って言われて。「あなたのせいで、この学科の名前がそのままなんです」って言われて。それで正々堂々と辞めさせていただいたんですけど。そん時はもう、要するに清志郎さんの運転手やってたり。

T:そのきっかけは何だったのですか?

M:まずチャボさんに会いに行こうと思って行った所が、いわゆる『RHAPSODY』ってアルバムを録音した『日仏会館』。79年とか80年頃かな。楽屋に会いに行って。マネージャー紹介してもらって。清志郎さんと会って。実はその前にも一回会ってるんですけど。正式に。その年の暮れぐらいに、清志郎さんが凄い長い免停をくらったんですよ、6ヶ月とか。もっとかな。それで運転手を募集してるっていうんで。募集っていうか、持ち込み運転手ですね、自分の車を持って。当時1万円で買った車だったんで。その頃はもう『RC』は、すぐ武道館やるぐらいの人気でしたから。僕が運転して清志郎さんが助手席に乗ったような。普通運転手だったら後ろに乗るんですけど、ツードアなもんで横に乗ってるんですね。しかもドアとかをガムテープでくっつけてるような。会場入りとかする時、当時カメラとか入ると、入りの時からじゃないですか。すーっごいカッコ悪くてね。なんか悪い気持ちになったんですけど。でも凄い楽しかったですね、それも何か。 その内ね、そのスタッフっていう風になってきて「あ、ギターも弾けるんだ」っていうことで「チューニングも出来るじゃん」ってな事で、要するにローディーっていうか。で、ツアーまで行くようになったんですよね。そん時は事務所からお金をもらって行くようになったんですけど。

T:それは大学3年の頃ですか?


M:そうですね。うん多分。大学の中では止まってるんで。あんまり平行して覚えてないんですけど。

T:じゃあもう、清志郎さんの所で、ずっと活動してたのですか?

M:そうですね。ずっとベッタリだったんですけど。ツアーとかついてたんですけど、その給料も一応もらってね事務所から。もらってやってたんですけど、その内『RC』と事務所がうまくいかない時期があったんですよ。あんまりもうライブもやんなくなっちゃって。『RC』のアルバムでいうと『FEEL SO BAD』っていうアルバムの頃ですね。その頃はもう自分のスタジオがあって、事務所のスタジオがあって『RC』は毎日行ってて、レコーディングのような曲作りのような遊んでるような、そんな事やってる時があって。そしたら事務所も自然と僕には給料がくれないんですね。ツアーもないし。『RC』もそんなにその活動してないしっていうんで。それで「こりゃ困ったもんだ」って、何だか煮詰まっちゃって。その精神的にも煮詰まっちゃって。そんでバイトもちょっとしたんですけど。それは「アメリカに行きてーな」って思って。何を思ったか、金ないくせに。で借金して「アメリカのブルースの旅」ってやつに行ったんですよ。一回目ですね。今も多分やってると思うんですけど。

T:それはどんな旅だったんですか?

M:うん。むこうに行って「誰かの墓参りしよう」とか、「サニー・ボーイがやってたラジオ局を訪ねよう」とか、そういうツアーなんですけど。ライブが観れないと面白くないじゃないですか。で、シカゴに行ってライブを観るんですけど、あんまり動かないんですよ。それで僕ら若者2.3人友達になって勝手にどっか行っちゃったりとかしてたんですけど。それでニューオリンズだとか、『ファッツ・ドミノ』を町外れのクラブまで観に行ったりとか。勝手にどっか行って、それこそ危ない目とか相当あったんですけど。でもいろんなの観ました。その中で、シカゴで『マジックスリム』っていう人がいて、小さい凄いガラの悪い黒人しかいないお客さん中で、クラブで演奏してるんですけど、途中でバンッって演奏をガッっと静かにして、生声で歌い出すんですよ。会場内歩いて回って。すんごくて、それが。ものすごいリアルな感じしたんですね。それ観て「なんか俺にも出来そうな気がするな」と思ったんですね。全然根拠はないんですけど。それで日本に帰ってやりたくなったんですけど。やりたくなったんですけどメンバーがいなくて、帰ったら帰ったで相変わらず、まだ録音は続いてたりして。なんだかスタジオと家を行き来してる毎日だったんですけど。そんな時に『RC』で知り合ったタケダさんっていう人がいて「バイトでギター弾かないか?」っていう仕事があって。何だかジャニーズ系かなんかのOBの人ですね。グループサウンズかな?それで「そのバックバンドでギター弾かないか」って言われて。1万円もらえるっつんで、やったことはあるんですよ。その時にドラム叩いてたのが「杉山章二丸」なんですけど。打ち上げで「バンドやりたいんだ」って話して。「俺はシカゴ行ってきたんだ」って。「そのバンドやりたいんだ」っていう感じで。「ドラム紹介して…してくれないですか?」なんつって、敬語使っちゃったりなんかして。したら「いいよ、俺やるよ」って「俺やらしてくれよ」って。その頃アイツは、そのセミプロでしたからね。いわゆるキャバレーとかで飯食ってるヤツだったんで。その頃は、そんないい加減なヤツとは思わなかったんですけど。

T:それが、章二丸さんとの出会い?

M:はい。章二丸とそれで会って、電話はしたんですけど。ま、だいたい予想はつくと思うんですけど、全然つかまんないんですよ。電話に出ないんですね。「なんだよー」って感じだったんですけど。つまりその頃アイツは借金取りかなんかで電話に出れなかった状態だったと思うんですけど。まあ僕はもう全然やりたいじゃないですか。ベースを紹介してくれたんで、それも章二丸の紹介で「鈴木ノブ」っていう。スタジオもとって、曲はもうガンガン作って。それまでもいっぱい作ってたけど、またバンドが出来たからっていうんで、うれしくてどんどん作っちゃうんですけど。ただ二人ともリハーサル来ないし、スタジオの時間とっても俺一人でスタジオで曲作っては、うなだれて帰るような。そんな始まりだったんですね『MOJO CLUB』って。

T:それは80年代中頃?

M:83.4年かもしんないですね。多分ライブといっても1.2回やっただけだと思うんですよね。西荻の『ワッツ』っていう店。ホントに店員さんぐらいしかいない感じで。一番覚えてるのは、一番前の席に清志郎さんが観に来てくれたことですね。やりづらかったですね、あれは。一番前で。他にお客さんがあまりいないっていう。片山(広明)さんも遊びに来てくれて、片山さんも吹いてもらったりとか。それで当時『RC』と、泉谷さんのとこが企画してた『真夜中の雰囲気一発』っていうイベントがあって、渋谷の東映の映画館で一晩中やってるイベントがあったんですね。「それに出ないか」って、そんなライブとかそんなやってないし、メンバーもつかまんないような状態なんですけども「これはもうやんないと絶対後悔する」と思って。多分アイツ当日に来たんじゃないだろうかな?章二丸。そんで慌てて多分3.4曲だったと思うんですけど。どうしても『RC』の曲とかをやりたいな?と思って、そん時に僕考えたのがその『シュ-』っていう、昔のをロックンロールでやりたかったんですよ。それが多分一番最初で、皆なんか『RC』のメンバーとか、メンバーの奥さんとか、客席で観てくれたみたいで。多分俺よりか緊張してたんじゃないかな?と思いますけどね。

T:『MOJO CLUB』っていう名前の由来は?

M:さっき話したライトニン・ホプキンスの名盤に『MOJO HAND』っていうやつがあって、手のジャケットがあって、それですね。もちろんマディ・ウォーターズの『I Got my MOJO Workin'』っていうのもありますが。割とブルースの中のスラングっていうか、まあちょっと魔法にかかったとか、ブードゥーにちょっと似たようなもんだと思いますね。何か魔よけみたいな意味もあるみたいだし。卑猥な意味もあったりもするみたいだし。響きがいいなと思って『MOJO』って。清志郎さんに相談したことがあるんですよ『MOJO BAND』っていうのはどうだろうって話ししたら「いや『子供バンド』がいるからやめた方がいい」なんて言われて、どうしようと思って(笑)。「今、クラブっつーのないから『MOJO CLUB』がいいぞ」なんて。でもその頃『カルチャークラブ』があった(笑)。その後に『おニャン子クラブ』っていうのも出てたみたいだけどね(笑)。ただ、そん時は凄い目新しかったんですね。

T:さっき言ってたライブで3.4曲やった曲はどういう曲なんですか?

M:だから、その、あれですよ。「バックしよう」とか「ブギナイト」とか。それで「シュー」かな。くらいのもんだと思います。『MOJO』組んだ時に最初やったレパートリーが、その辺のものしかなかったんじゃないだろうかな?と思いますね。とにかくブルースバンドなんだけど、地味じゃなくて、スローブルースはやらないっていう事と、地味じゃなくて派手なブルースだとかブギバンドとか。楽しいやつがやりたいっていう、当時思ってたんですね。まあ分かりやすく言えば『RC』と『憂歌団』の間のような発想かもしれないし、『RC』が『ストーンズ』だったら、自分はその『ストーンズ』の前座で全米を湧かした『ジョージ・サラグッド』みたいなバンドをやりたいとか。多分その辺の発想ですよ。

T:そのなかなか来ない2人をどうにか集めて、どういう風に活動をしていったのですか?

M:そんな華やかな楽しい瞬間とかあったらもう「よしやろうぜ!」って普通はなるじゃないですか?でもならないんですよ、あの二人は。何でだろうと思って考え込んじゃうんですよ。結局それまでに引きずってたもんが彼等にはあって、やはりいろんな家庭の事だったりとか、いろんな事があって、結局デビューしてちゃんと安定した収入が得て、なるまでずっとそうでしたね、結局。

T:そこまで、どの位かかったんですか?

M:うーんと、要するにツアーもやったんですよ、そのメンバープラス、今度は奥津光洋さん、『J・J・koyo』っていうハーピスト。その人は昔チャボさんの古い同級生で、だから年令も僕よりか10コぐらい上なんですけど『古井戸』の時からその人は『古井戸』の元メンバーで。僕が観た宮崎のコンサートでも一緒にやってる人で。その人にやってもらってた事があるんですよね。その4人でライブもやったり、ツアーもやったり。当時デビューもしてないのに、年間で150本ぐらいライブやったりしてたみたいなんですよ。後で調べたりすると。もうめちゃくちゃでしたけど、そうこうしてる内に、今度は「キーボードが入れたいな」って『ピアニカ前田』さんに入ってもらったり。今度は「サックスが入れたいな」って、サックス入ってもらったりして。一時期、大編成になりましたね。その頃に、コーヨーさんの時代に一枚シングル盤はインディーズから出してるんですけど『バックしよう』と『くさっちまうぜ』ってやつですか。その後に『MOJO』大編成になった時に今度は『RC』の野音があって、それの前座をやったっていうのと、それはその嬉しい事なんですけど、ちょうど『RC』の録音を、ライブ音を録るんでテープ回しとくから『MOJO』も録れるよっていうんで。ま、もちろんその野音ですから、野音の『RC』だったらもうすんごい満杯に入ってるし。お客さんも『RC』を観に来てるんだけど、ね。だからすごく緊張しながらも楽しかったですけど。

T:あ、それがあの『A LIVE』というLPですね。

M:そうですね。ライブ盤で4曲入りっていうのが。そん時も多分、章二丸は当日来たんですよ、アイツ。つかまんなくて、リハーサル出来なくて。曲は大体こういうのやろうとか思うんだけど、リハーサルしてないから、多分当日午前中にどっかでリハしたとか、そんなんじゃなかったのかな?と思いますね。

T:そのライブ盤が出た辺りからの活動は?

M:それでライブとか都内でやったり関西方面とか行ってやったりするんですけど、あんまりうまくいってなかったんですよね。結局お客さん的にも全然うまくいってなかったけども。やっとワンマンをやれるぐらいになったのかな。そんなこんなしてる内にメンバーとうまくいかなくなってきちゃって今度は。それぞれの理由はあるんですけど、結局ベースも辞めることになって。残ったのは章二。それでも章二はいるんですよね、どういう訳か。絶対不思議ですよね、一番先にどっかいなくなっちゃっても不思議じゃないんですけど。むしろいなくなってもらった方が良かったんですけど(笑)。でもアイツ一回いなくなったことあるんですよ。どうしてもつかまんないって時があって。その時はドラムセッティングしたのに来なくて、初めての『MOJO』のワンマンでノブと二人でやったことあります。後ろにドラムセットバックにして。あ、もう一つ思い出した(笑)。京都に行った時にあったツアーで、アイツいなくなって。さすがにそれはもうあれだったんで、ドラムを用意して、ドラムの人に来てもらって朝までリハーサルして、その足で車で行って京都3日間やったことあります。それは前座だったんですけど。そんなこともありました。それで、結局話戻りますけど。サックスの秋山さんは、僕らやっぱサックス好きだったんでしょうけど、いて。ドラムとサックスと僕と、つまりベースですね。だからベースを誰かっていうんで、それで探して。で、谷ちゃん(谷崎浩章=現プロペラ)に来てもらったんですけどもね。谷ちゃんには『ダイナマイトバップ』だっけな、っていうバンドやってて、昔。そんで関西に『キングサイズ』ってバンドがあって、そのバンドと、その『ダイナマイトバップ』とか、いくつかその渋谷のなんとかっていうアマチュアのバンドのコンテストがあって観に行ったんですよね。優勝したんじゃないんですかね多分その『ダイナマイトバップ』は。優勝したんだけども解散したんじゃなかったか、多分なんかそんなような感じだったと思います。ちょうどバンドもなくなってっていうような時期だったと思うんで、その後会って飲んで、それを覚えてますね。僕らはもうツアーをブッキングしてて、そのまま九州まで、そのまま連れていったような感じだったと思います。旅の途中で曲を覚えていったような感じだと思いますね。それ考えると、この間の『MANDALA-2』もなんとなく似てるかもしんないな。

T:そうですね。それでデビューまでの話っていうのは?

M:あんまりそんな覚えてないんですけど。ライブとか旅してるっていうことの方が僕はすごく覚えてて。結局、谷ちゃんになって九州まで旅して。これはなんとなく覚えてますけど、今回もやってる『MANDALA-2』で2DAYSやって、それでもお客さん入りきれなくなっちゃって、3DAYSってやったことがあるんですね。そん時にいろんな人が観にもう来てくれてて。キティの森川さんだったり、東芝だったり、じゃないかな?その辺かな?とは思うんですけど。なんとなく東芝からデビューってのは決まってたんですよね。決まったっていうか。 『カバーズ』に参加させてもらったり、清志郎さんと二人でFM大阪の番組を東京で毎週とってたりとかして。そんなこんなしてるうちに、『タイマーズ』っていうバンドが出来上がっちゃったんですよ。これは覆面バンドといって、僕じゃないとか清志郎さんじゃないという話なんですけどね(笑)。だから『MOJO』がデビューして、もう大(だい)忙しくなった時に、同時にその『タイマーズ』も大(だい)忙しくなっちゃったんですよ。それはもう狂気の沙汰でしたね、もう。

T:ほとんど『タイマーズ』と『MOJO』は同時期に?

M:その年の学園祭っていうのは、『タイマーズ』と『MOJO CLUB』っていうのは、よく対バンでありましたよ。ひどい時になると1日に2つ学園祭を回って、昼間にその方式で、夜その方式でやるんですね。だから1日僕4ステージやるハメになったり。もうねー、そんなんが毎日続いてたから、なんか頭もグチャグチャになってましたね。「コノヤロー!」って言ったかと思うと「ロックンロール!」って言う(笑)。

T:『MOJO』の1stアルバムは、すぐに録音したんですか?

M:『MOJO』のレコードは、アルバムでは間に合ってないんですよね。いわゆるレコード盤っていう時代の。だからレコード盤の時代はシングル盤が『ブギ・ナイト』っていうシングル盤があって、それは何年になるかわかんないけど多分10月ぐらいに発売で。シングル盤は間に合ってるんですけど。そん時にすでにその『社会復帰』っていう1stのレコーディングは全部終わってて、トラックダウンはロンドンまで行ったんですよ。谷ちゃんが一人でロンドンブラブラ散歩して「あそこ行ってきた」とか。「僕らは寝てたよ」とか、そんな事よく覚えてますね。

T:時期的には、レコードからCDに変わった時代?

M:うん、そうですね。それが『社会復帰』かな。

T:手応えっていうか、周りの反応っていうのは?

M:もちろん、その時代ってこともあるけど。さっき言ったんですけど、僕の狙ってたブルースとかブギとかの、僕はその前にシカゴとかで観たブルースとかいう事じゃなくて、その夜ワーッて皆が楽しくやってるような音楽っていうブルース、ブギとか、そういうのが『MOJO』はやりたくって、やったんですけど。宣伝とかになってきちゃうと、やっぱりブルースバンドだったりとかブギバンドだったりとか、ジャケットとかチラシとかポップに考えてはくれたんだと思うんですけど、当時はどうしてもそういうジャンルを出した事で、ブルースバンドかって買うとCD聴いたら「え、何これ?思ってたブルースじゃないじゃん!」っていう人も多分いたんだと思いますね。だから、そのそういうお客さんも確かにいたんだろうな?っていうのは、後で何となく思いましたね。ただブルースとかブギとかソウルとか関係なく、ただ楽しいっていう風に飛びついてくれたのは逆に若い子達。最初は女の子で、どんどん男の子達ってのが増えてきてましたね。それはそれで正解でしたけど。僕が思ってたのは、そういうブルースブギっていうのを、楽しいやつをっていう狙いだったんですけど。そこまで、今ちょっと難しかったのかなって今思いますけどね。

T:当初やりたかった事ではなかったけれども「『MOJO CLUB』としてやりたかった」って事ですか?

M:うん。明確に「ブルースはそんなにふさぎ込んで聴くような音楽じゃないよ」とかいう事は音楽通して言いたかったし、まあ楽しくやろうっていうのはあったし今もありますね。それがやりたかった事かな?

T:東芝時代に『MOJO』3枚ですよね。3枚に関しては順調だったのですか?

M:要するに年に一枚出すっていうペースで。やっぱり一枚目は、いわゆるブギバンドという意味もあってバンドも楽しいしお客さんもいっぱい入るし、ライブやっても何やっても楽しいって感じですかね。今度はもうちょっと売れなきゃっていうのが、メンバーじゃなくてスタッフ側にありますよね。ちょうどその頃キティでマネージャーも変わって、キティの人がマネージャーになって、皆でこう考えて。今思うと考えてくれてたんですよね。いわゆるコマーシャルだとかあって、ポカリスエットのCM(『君が降りてきた夏』)で、宮沢りえが(ブレイクした)っていうのあったんですけど。当時はその曲を出すことで、取材もいっぱいやんなきゃいけなかったし。テレビに出させてもらっても、その曲をやるっていう事で。思ってたそのブギの曲とか、全く違う訳ですよ。僕はその位で、ちょっと思ってた方向と違ってきたな?と思いつつも、これで売れたらいいだろうな?っていうのは思ってましたけど。谷ちゃんだったりとか章二はどうなんだろうな?章二も多分めんどくさがり屋だから、単純に取材とか多いからイヤだったんだと思うんですけど。谷ちゃんとかは、もう相当取材とかになると凄くイヤそうでしたね。ライブとかでも何となくやんなきゃいけなかった時期にその曲やんなかったりとか普通にしてたし。今考えると不思議な時期でもありましたけど。それが二枚目のアルバムですかね。でも二枚目のアルバムは僕そういうの含めて凄く好きです。僕はその中で今度は結婚しちゃったりとか。三枚目のアルバムの時には子供が生まれる事ら辺で自分の作る曲が、前から個人的な曲が多いんですけど。もっと多くなった気はしますね。だから三枚目のアルバムは、バンドっぽくないのかもしれないですね。実際スタジオも、どんどん二人来なくなっちゃったし。僕と森川さんっていうディレクター二人っきりっていう事はよくありましたよ。まあリズム録り終わったら、そんなやることもないから何ですけど。何となくつまんなかったんじゃないだろうかな?と思いますよね、その時期はね。

T:この三枚目の頃はライブとかは?

M:ライブは相変わらずやってました。二枚目の時に、そのポカリスエット(『君が降りてきた夏』)出した後ぐらいにどんどんホール展開みたいになってきちゃって東京郵便貯金ホールまでいったのかな?その前に後楽園ホールっていうリングの上にステージ組んでやったりとか。結局ライブハウスで観たお客さんっていうのはホールになったらつまんないバンドなんですよね多分。僕らはホールはホールで面白いけど、そのライブハウスの方が手ごたえが大きいな?っていうのは感じてましたね。そんな時期だと思います。三枚目はタイアップとかもあったけども、そんなたいした事もなくライブも、そんなお客さんは全然減ってないんだけど、そっからバァーッと売れて武道館に行こうなんて事は全然なくなって。うーん、どこでやってたんだろうな?ま、割とデカめのライブハウスみたいなとこに落ち着いたじゃなかろうかな?と思いますね。

T:東芝から移籍しますよね。

M:東芝3枚終わって、僕らその『キティアーティスト』っていう所にいたんですけど『キティアーティスト』が怪しくなってきたんですよ。要するに、事務所としてあんまり成立しなくなったのかな?何かわかんないですけど。すぐ三枚目を出して、僕は子供、ミクちゃんって女の子が出来て、それでちょっとたったら家の親父が死んじゃったんですよ。その頃に親父の事でずっと宮崎に帰ってたんですけど病院にいたんで。そしたら「キティが怪しい」みたいな感じ。東京に来て社長のとこに挨拶行って。お花とかもらったんで「ありがとうございました」っていう挨拶したのと「お世話になりました」っていう挨拶するのと一遍にドドッと来ましたね。その何年間っていうのは。結局、もちろん家族はあって、僕らはバンドでしかなかったです。どこに所属することもなく。そっから誰かマネージャーしてくれる人とか探して。やってくれる人がいては、またいなくなってっていうなね。それが最初ベースでやってくれてた鈴木ノブユキが、音楽事務所をやってる。アイツにやってもらおうっていうな事になったりとかね。

T:それで移籍したんですね。

M:そうですね。その間1.2年あると思うんですよ。その頃、毎月スタジオに入っては月イチでライブハウスやるぐらいで他には何にもやんなかったですね。とにかくその東芝の最後の時代に皆がつまんなくなってきたような。メンバー間っていうのもね。逆にそういう不遇の時代に入ったら仲すごく良くなったですよね。うん。その東芝の時も仲悪いっていうんじゃないけど、こう皆が役割分担というのがちゃんと出来てなかったのかな?と思って。不遇の時代になったら「これもやんなきゃいけない」とか皆一人づつ役割分担が出来るじゃないですか?そういう考える事とかも考えるし。そうこうしてる内に『メルダック』かな?ライブ観に来てくれて2枚出すことになったんですよね。

T:『MOJO』として新たな展開で?

M:やっぱりライブバンドだったんで、ライブやったらお客さんが盛り上がって、ドーッとお客さんが減ってるっていう事もなく、そんなにバンと増える事もなかったんですけど。その時期に入ったら定期的にやっても皆ちゃんとライブを楽しめるっていう。ホーンセクションで片山さんに入ってもらったり、佐藤(春樹)さんに入ってもらったりっていう楽しみもあったし、白井(幹夫)さんにピアノで入ってもらったりとか、そういうのもあったし。役割分担じゃないですけど、色んな事をバンドをうまくいかせる為に。その2枚目なんかは谷ちゃんがジャケットを考えたりデザイン考えたり、自ら女装してみたり。そういうアイデア出してきたりとか。1枚目の時のなんかは、ノブの紹介でニューヨークのエンジニアの人にやってもらって、ニューヨークまで行ってやったりとか。とにかく全然楽しかったですね。

T:この2枚、僕もプロモーションで参加させてもらって。1枚目の時に100曲ライブっていうのを企画して。

M:正式には101曲だったと思います。渋谷の公園通りで、駐車場のとこでやってて、今も覚えてますけど。今でも何かの取材とかこう話す時にその話題は出すんですけど、あれは面白かったですね。あの、結局時間にしたら何時間ぐらいなんですかね?

T:午前中から夜までですよね。

M:10時間ぐらいのコンサートになるかな?で、色んな人に出てもらって「101曲やる」っていうんで、結局1曲出来ないのか2曲出来ないのか、99曲か100曲かで最後警察が来て止められてっていうライブだったですね。

T:そうですね。

M:覚えてます。あの『MOJO CLUB』1枚目のアルバムかな。

T:そうですね『メルダック』1枚目の第1弾のイベントですね。

M:それの何かキャンペーンを含めてですね。多分やりがいはあったんですけど、もう終わってメンバーとその後、居酒屋に行ったら皆、口聞かないんですよね。疲れ果てちゃって。そんなこと今でも覚えてますね。俺は結構企画の段階では「もう、そういうのやめようよー」って多分言ってた部類なんですけど、今思い返したりするとすごい面白かったですね。もう今後は多分やんないとは思いますけど(笑)。

T:メルダックから出したアルバム2枚があって、その後の展開は?

M:M:僕は『MOJO』やりながら、清志郎さんと何だかんだとやってたりとか。でも一時期、清志郎さんとやらない時期もあったんですよ。それは、やっぱりこう色んな人に言われて。「ちょっとやらないでくれ」って言われた事があって。それは『MOJO』の為にもなんないし、三宅のためにも外側から見てどうしてもこう一人立ちしてるようなイメージがつかないからみたいな事言われた。俺とか清志郎さんの中では、もうそういう次元はなくなってたはずなんですけど。どうしてもやっぱり『MOJO』に悪いしとかいう事もあったりして、一時期離れてた時期があって。それがたぶん『ニーサンズ』っていうバンドの頃かな?と思います。それで『ニーサンズ』がなくなって、また一緒に何か始めるんですよね。今度は『スクリーミングレビュー』ってバンドだったりするんですけど、その時に2枚目を出した後か前かぐらいに一緒にナッシュビルに行ってレコーディングするんですけど。それは向こうのミュージシャンにも演奏してもらって、僕もギターで参加させてもらったんですけど。いわゆるプロデューサーでやらしてもらうっていう仕事であって。それが非常に自分の中で大きくて清志郎さんとやることの新たな楽しさみたいなの思った時期でもあるんですけど。そんな楽しさも覚えながら『MOJO』もアルバム出してライブやってくんですけど、皆やっぱ思う所はあって。そろそろなんかこう『MOJO』としてやるべき事はやったかな?っていう風には多分誰もが思ってたと思うんですよね。結局なんとなく終わっちゃったかな?その解散とかいう名目を打った訳でもなく。今でも思い出せるんですが、新潟のライブ終わって打ち上げで、いきなりその話。そのライブでちょうどツアーは最終日だったんですけど「これから何をやりたい?」っていう風な話。それは『MOJO』としての話じゃなくて、各個人「何をやりたい?」みたいな話しをしたような記憶あります。谷ちゃんは「新しいバンドやりたい」っていう風に言ったし、僕はなんか違うようなことを言ったような気もするし、章二何て言ったかは覚えてないですけど(笑)。とにかく当分は「もうやんないだろうな」っていうかやれないだろうなと思いましたね。そんな感じです。

T:ソロアルバムを出すことになる経緯は?

M:要するにバンドもなくなっちゃったし事務所もなくなっちゃったし、残ったのは自分と家族だけでしたから。どっちにしても「やろう」というのは思ってて。でもソロっていうのは出したくなかったんですよ。バンド終わってすぐにソロを出すっていうのは凄くカッコ悪いなっていうイメージがあって。カッコ悪いし、なんだか『MOJO』に対しても失礼な気はしてたんですね。結果的にはソロみたいなもんなんですけど。いわゆる『THE TRAMP』という風にして、メンバーをいろいろ替えながら『TRAMP』っていうのは昔のアメリカの漂流しながら暮らしてるような連中の事を言うんですけど。メンバーが流動しつつ遊びながらやっていけるっていう都合のいいバンド設定ですか。ていうことを始めたんですけど。それでドラムは新井田耕造さんって『RC』の。ベースは橋本潤で。それで最初の頃は『MANDALA-2』でもやったんですけど『ハイロウズ』のマーシー(真島昌利)にギター弾いてもらったり、白井さんにピアノ弾いてもらったりして。あそこでギュウギュウでやった事ありますね。だったり『プライベーツ』のショーネン(手塚稔)にギター弾いてもらって、『プライベーツ』のヨシさんっていうキーボード弾いてもらったりした事もありますし。とにかくどんどんそうやってやっていったんですけど、ツアーをやっていくっていう事で。『FREE TIME』っていうアルバムを出したんですね、ソロアルバム。その前に『PARTY TIME』っていうのがあって。それはコロムビアから出したんですけど、それも『FREE TIME』もいろんなメンバーの人に入ってもらってやったんですが、『FREE TIME』のツアーに出る時にどうしても固定メンバーっていう事が必要になってきちゃって。それで、キーボードに伊東ミキオ。ギターに高木克っていう。それで『THE TRAMP』が出来上がったんですよね。

T:ツアーの為にメンバーが固まったという?

M:うん。ツアーに出るっていうんで、結局ツアーに出れるようなメンバーっていうことで紹介してもらって。初めてだったんだけど「よろしく」ってんでやったらもうすごいバッチリで。とにかくバンドはね、一回バンドを解散した人は、もしかしたらあるかもしれないけど「バンドは、ちょっとやりたくないな」って思う時期がいつかあるんですけど。僕はその時期だったのかもしんないんですけど、そのメンバーでツアーやった時に「やっぱバンドって面白れーな」ってすぐ復活しちゃいましたね。また新たなバンドの楽しみも覚えながらツアーやったり、ミニアルバム作ったりとかする事になるんですけど。

T:しばらく『THE TRAMP』が続くんですね。

M:そうですね。それで、こないだの『MANDALA-2』で言えば2週目になるんですけど『FREE TIME』を出した後が、ミニアルバムの『MOON RISE』で、2枚同時で今度『SUN DOWN』っていう、月が上ったら今度は日が沈むっていう。日が沈む方はわりと今度はソロの部分っていうのを。清志郎さんのスタジオで清志郎さんプロデュースで、ほとんどタッチとしては『ザ・バンド』みたいなタッチで作りたくて、2枚同時発売っていうのをやったんですよ。それでまた『THE TRAMP』でツアーやったり、必ず年に3回、春・夏・冬っていうのはやってたんで。東京は下北の『Que』で、京都は『磔々』っていうのも定番になって。ライブビデオ出したりとかしてたんですけど。もう一つ今度は自分の中でやりたいことが多い人間なんで、こと音楽に関しては。今度は、昔からブルースとかソウルとかはまってる以外に『ボブ・ディラン』とか『ザ・バンド』とかを通してなんですけど、いわゆるシンガーソングライターの世界だったり、70年代のスワンプロックの世界だったり。要するに『ボブ・ディラン』でいう『ナッシュビルスカイライン』とか『ブロンド・オン・ブロンド』とか。ナッシュビルの連中と一回レコーディングしたいっていう夢がちょっと出てきちゃったんですよ。それで、98年かな?夏ぐらいに行ってレコーディングするんですけど。その時期は清志郎さんと『リトルスクリーミング』ってのをやってて。そのレコーディングが終わってすぐナッシュビルに飛ぶような。

T:ナッシュビル録音は、どのくらいですか?

M:えーと3週間ですね。録音は多分、1アルバムでリズム録りが2日間とか、かぶせも入れて4日間ですね。もうめちゃくちゃ早いんですよ。むこうの『チャーリー・マッコイ』っていう頼んだのがバンドリーダーなんですけど、もうカントリーの世界じゃ大御所中の大御所なんですけど、その人が「僕らは世界中で一番うまくて安くて早い」って、吉野屋みたいなことを言ってましたよ(笑)。でも確かにその通りで、もうビックリしましたね。その時点で夢みたいなのが結構、実現出来たなって思ってるんですけど。必ずその夢が実現出来たりとか、良しと思ったら必ず落とし穴があるのが僕のあれで、日本に帰ってきたら今度は『コロムビア』がどうも怪しくなってきたんですよ。それで『コロムビア』を離れて。自分のとこで作った『SO SO』って事務所があって、そこと今度は、もちろん『THE TRAMP』はありますけど「CDをどうやって出そうか?」みたいなとこに入ってきちゃうんですよね。それから色んな事になるんですけど。

T:でも、その頃ってメジャーだのインディーズだのっていう壁がだんだん無くなってきて。

M:そうなんです。メジャーの意味がそんなに無くなってきてはいたんです。ただ『キティ』の頃や『東芝』の頃から思ってたのが、メジャーとかインディーズとか何でもいいんですけど、人と会ったり別れたりするのが嫌になってきちゃって。その「よろしくお願いします」「じゃあ、またどこかで」みたいなくり返しっつーのがホントに、馬鹿々々しいっちゅーか。それまで一生懸命やってきた事とかが一瞬になって消えちゃうみたいな寂しさみたいなのは常にありますね。とにかくそういっても何とか頑張んなきゃいけないみたいなところで。それからいろんなバンド、清志郎さんとやりながら、自分でもやりながら。(甲本)ヒロトと『ヒューストンズ』っていうバンドをやったりとか。

T:内田勘太郎さんとトリオでライブ盤を出したり。

M:そうですね、それがその時期ですね。それは内田勘太郎さんと新井田耕造さんと3人でベースで『アリゲーターズ』っていうバンドやって、1枚出したんですよ。それで、ちょっとしたツアーやったりとか。『TRAMP』は、その間もずっとやっていくんですけど、今度は『TRAMP』の中で忙しくなってきた人とかあって、メンバー交代を余儀なくされたんですね。まず不思議な事にその時期にドラムに杉山章二丸がまた戻ってきちゃうんですよ。

T:どういう事が、きっかけだったんですか?

M:いっつもアイツの場合、突然現れるんですけど。下北の『Q』やってる時にいきなりいて、その何年か前にアイツ、新宿で浮浪者やってて本当に(笑)。家に来ておにぎり2つ渡して帰したことがあったんですけど。『FREE TIME』のプロモーションで新宿のレコード店の中でラジオのブースがあって、そこにゲストで僕が公開放送で。むこうの方にどっかで見たようなやつが(笑)、章二で。「何してんだよ」って。「いやー、凄いね!」って。金借りに来てんですけど(笑)。サイテーで、サイテーなやつで(笑)。そんなこんなの後だったんで来てもあんまり相手にしなかったんですけど。「いやー、やっぱいいね!」なんつってんですけど、あんま相手にしなかったんですけど。どういう流れでそうなったか。上手いんですねアイツはそういうとこが。フェードイン・フェードアウトが上手いんですね(笑)。

T:章二さんはアルバムには参加されてるのですか?

M:いや、アルバムにはアイツ参加してないですね。その後に。それは『TRAMP』としてではなく、結局『TRAMP』としてはそこで終わってるんですCDに関しては。ツアーに章二がドラムになってやってたんですけど、今度は伊東ミキオが忙しくなってきちゃって4人になって、そこの時点で『HOME WORK』ってアルバムを作ったのかな?もちろんアルバムにはミキオも参加してくれてますけど。『HOME WORK』ってアルバムを作ったり、『旅路』っていうアルバム。それは僕のソロアルバムなんですけど、2枚組で。それもかなりレコーディングを時間かけて、二ヶ月ぐらいずーっとスタジオ入ってやってましたね。

T:『旅路』で、その2枚組っていうのはなぜですか?

M:つまり、その時期に40曲ぐらい録っちゃったんですよ。楽しくて。レコーディングする事が。スタジオ行っては作った曲ををやって。実はその時期に『HOME WORK』の曲、何曲かはその時期に入ってるし、その後に出した『ハッピー・デイズ』っていう中にもそういうのが入ってる。ほとんどは『旅路』ってアルバムに入ってますけど。その辺から今回『MANDALA-2』でもやってる『every wednesday』っていうシリーズで、ちょっと一人で歌おうっていう事をやり始めるんです。もちろん「一人でどんだけ出来るか」って事もあるんですけど。レスポールがニューヨークで『every manday』かな『every tuesday』かな?どれか忘れちゃったんですけど毎週1回やってて。その姿勢っていうか毎週同じ場所に来てやってるその姿勢を見習いたいな?っていうのと、自分もやっぱり勉強っていうか。東京でそれやり始めてから、今度はちょっと関西でやってみようとか九州でやってみようとかいう風になっていくんですけど。それが多分、2000年ぐらいの話だと思います。99年か2000年か。

T:その辺りで『三宅伸治プロジェクト』のアルバムですね。

M:そうですね。その頃にレコード会社も転々としてて。そのレコード会社が提案してくれたのが、多分始まりはそうだと思うんですけど、自分の曲で結局一人で歌う時に作った曲があって「いいことがあるといいね」っていう単純な曲なんですけど。それが自分の中では何かあったんですよね多分。「皆に歌ってもらいたいな」っていうのもあったりとか「せっかくその一曲を皆に歌ってもらうんだったら、その人達と別のロックとかブルースとかで一枚作れたら嬉しいな」っていうんでスタジオに来てもらって。今度はスタジオでセッションしようっていう。楽しい事の延長ですけど全部。それで『Music Planet』っていうアルバムを出したり、今度は「ギターとか歌うたいの人と二人だけでリズム隊がなくてもやろう」っていうアルバムが『Guitar's Talk』っていうアルバム。だからバンドでもなければ、ユニットでもなければ、ソロアルバムでもなければっていうんで考えた名前が『三宅伸治プロジェクト』っていうことだったんですけど。

T:やってみてどうでした?

M:もう、もちろんめちゃめちゃ楽しいし、僕が逆に誘われたら、やっぱちょっと俺とか腰重いヤツだから、ケツ重いから、行く前になんとなくためらいがちだったりもするんですけど、皆何か快くやってくれたし、嬉しかったですね単純に。全部そんな感じだと思うんですけど、バンドやろうとして誘っても、やっぱすごい来てくれるっていう事だけで凄いなと思うし。

T:これはライブは、やってないんですか?

M:それが結局やりたかったんですけど、スケジュールがまず大変だって事と、さんざんレコード会社と話合ったんですけどスケジュールですよね。そん時も101曲ライブの話とかももちろん出たんですけど、そういう思いきった事が結局出来なかったんですよね。僕は個人的には凄いやりたかったんですけど。それはもう結局CDを出しただけでしたからね。あの『Guitar's Talk』っていう2枚目の方は一人づつだったんで、それは都内と横浜と交代交代で一ヶ月の間に色んな人とやりましたけども。鮎川(誠)さんとロックやったかと思うと、友部(正人)さんと有山(じゅんじ)さんと二人でやったりとか、花田裕之くんと二人でやったりとか、清志郎さんと今度は『アルカイダーズ』っていうヒゲはやして。最近の話ですけど、『アルカイダーズ』っていうバンドやったりとか。あとはその『TRAMP』の流れで今度は『SWAMP TRAMP』いう風に、ドラムが今度はGRICO(富岡義広)さんになって、4人になってやったバンドに久しぶりにショーネンがギターで来てくれたりとか。そういう事はしましたね。

T:それで、今回のツアーに。

M:そうですね。

T:一人で全国を回るっていうのは、完全に一人なんですか?

M:うん。もう随分最近の話になるんですけど、『TRAMP』が『SWAMP TRAMP』という名前になって『Happy days』というアルバム出した後に、『SWAMP TRAMP』でもライブやっていくんですけど、やっぱりなかなかしょっちゅうは出来なくなってきちゃって。それと平行して僕は『every wednesday』を皮切りに一人で全国やり始めて。去年は170箇所一人でやりましたですね。『ロックンロールジプシーツアー』って。足踏み使ったり、リズムボックス使ったりエレキ使ったりもしますけど。一人で、沼ユウキってヤツと。スタッフで時にはロードマネージャーみたいに。ヌマと僕と二人で車で回ったりとか。

T:『ロックンロール ジプシーツアー2003』、6月入って『every wednesday』始まってますけれども、その話をちょっと聞かせて下さい。

M:はい。去年170本回ったっていうこともあって、今年も実はそんくらいやりたいなと思ったんですよ。まあ『ロックンロール ジプシーツアー2002』という風にしてやってたんですけども、要するにそんだけ本数やっても「そんなにたいした事ではないな」と自分で思ってて。これを10年とか20年とかやってる人が日本にはいるんですけど、それは凄いなと思いますね。そんな風になりたいなと思う反面、色んな事がやりたくなってきちゃうんです。去年は例えば170本の中には、一人じゃなくて、その中の3本は『BIG BAND』といって12編成ぐらいの大編成のバンドでやったり、あとは『MOSAW』っていう3人のヘビーなロックバンドもやったりしましたし。それから去年は清志郎さんと泉谷さんとLeyonaと、あとKANAMEさんと阿部(耕作)さんと、それも大編成ですけど。『スパイスマーケット』ってバンドやったり。いろんなことやっていっちゃうんで、今年は一人で回りつつもそういう事ちょっと形にしたいなと思ってて。ちょっとライブ録ってみたりとかしていたんです。それで曲を作る、相変わらず昔から曲作り趣味みたいなもんなんで、趣味と実益を兼ねてるってよく言ってたんですけど、相変わらず今年になっても随分曲書いてて。それで清志郎さんとも曲を書いてて。それを形にしたいなっていう事と。それで東京にちょっといようと。そういう事もあって。旅はやっと好きになりましたけど、やっぱり家は好きだなとかね、単純にそういう事。家でボーッと『ザ・バンド』のDVDでも観ながらっていうのもいいなとか。相変わらずそういうな発想があって、じゃあ6月は久々に何年か前にやってた『every wednesday』っていう、どうせ雨も降るし、あんま外にも出ないだろうし、近所でちょっとやろうという事になって。それで、今までの『every wednesday』っていうのは毎週曲を作っていって、毎週カバーの曲を作っていったりとかして、そこが自分のポイントだったんですけど、今年はちょっと見方変えて。2004年かな?どこから数えたのかはわかんないんですけど、20周年という風にしようという事になったんですね。今んとこなってるんですけど『三宅伸治20周年』っていう。じゃあちょっとその前に、自分の作った曲をちょっと振り返ろうかなと思って。そんで1週目は『MOJO CLUB』の曲を片山さんとやって。2週目はドラムのGRICOさんとそれ以降の曲をやって。3週目はそれ以降の曲をジュンちゃんとやって。4週目はリクエストでっていう。ホントにちっちゃいなんかこう細々とやろうと最初は思ってたんです。それで1週目行ったらいきなり章二のヤロウがいやがって(笑)。で何か10年振りぐらいにリハで最初のベースのノブに会ったり、その本番前には谷ちゃんが来たりとかして、本番は結局ね、久々に『MOJO CULB』をやっちゃったもんで、もう何か自分の中でちょっと『every wednesday』の流れが1週目にして変わってきちゃって。「じゃあこの時期にはこの人を呼んで、ちょっと一緒にやってもらおう」なんていう、どんどん欲が出てきちゃって。2週目は予定になかったミキオにピアノ弾いてもらったり、3週目には予定になかったGRICOさんとかタカちゃんに来てもらったりとか。それでちょっと自分の曲を振り返りつつ、皆と久々に飲んで一杯やろうっていう。それだけで実は十分だったりして(笑)。そんな感じの毎週だったんで、3週間楽しかったですね。4週目は、いわゆるリクエストで、僕のファンのリクエストっていうのは、ものすごいコアなんですよ。だから自分も忘れてるような曲だったり、ライブ的にどうなんだろう?っていうリクエストが非常に多くて。だから今週はね、違うもんになると思うんですけど、基本は一人でやろうと思ってるんで、そんな姿も逆に今回あんま出来なかったんで、映像に残せたらうれしいな?とはちょっと思ってますけど。

T:今年後半は『ジプシーツアー2003』は続いていくんですか?

M:でも、減らしますね、確実に減らしますね。夏はちょっと清志郎さんとっていう計画もありますし、秋以降っていうのはまたちょっと別の計画もあったりするんで、なかなか一人のライブっていうの逆に出来なくなってきそうなんですけど。ただ色んなとこに行くと、去年とか特に年2.3回行く場所とかあって、そこの場所に行くとやっぱり「今年は来ないじゃないの」って事になって。それでメールもらったりとかするんですよ。6月はずっと『every wednesday』で東京にいたら随分メールもらって「元気ですか?」みたいな。「ちょっとこっちに来て下さいよ」みたいなのがあるんで、どっちにしても行こうとは思いますけど。

T:やりたい事がいっぱいあって、いくつか夢は叶って、三宅さん的には今一番の夢っていうのは何ですか?

M:こないだ『ロジャー・ティリソン』っていう『ロックンロールジプシーズ』っていう曲を作った人が日本に来たんですけど。僕が歌ってる『ロックンロールジプシーズ』って曲なんですけど、その人が62才で。30才の時に1枚目を出して71年の時に。2003年に2枚目を出したんですよ。それでライブを観たんですけど、もうギターもそんなに流暢には出来ないし、やっぱりどう見てもバッチリっていう感じじゃないんですけど、何かこう、何だろうなって思うぐらいグーッて迫ってくるもんがあるんですよね。旅の歌とか、ずっと旅してる人だと思うからやっぱり、そのぐらいまで出来たらどんな気持ちになれるかなっていうのはちょっと思います。それが夢なのか、わかんないですけど。夢はもちろん自分でスタジオ持ちたいとか、レコーディングスタジオ自分の部屋に持って、ナッシュビル行った時みたいに。その人は自分の家の横にスタジオ作ってたんですが、そんな所で好きな曲を録音して。みたいなそういう夢はあったり。例えば『ビックバンド』みたいな、今回のようなのをもっといろんなジャンルをやりたいとか、カントリーバンドやってみたいとか、純粋なブルースバンドちょっとやってみたいとか、もちろんいっぱいあるんですけど、自分個人としての夢とか目標は、あの位までやったらどう思うのかな?と思いますよね自分で。「よーし、俺はここまでやったぞ」と思えるのか、それか「いや、なにヒットチャートをまだ狙えるぞ」なんつって曲作ってるかもしんないし。「まだまだモーニング娘。には負けないぞー」みたいな(笑)、なっちゃうかもしれないし。なんかそんなジジイになりたいなっちゅーか、なれたらすげーなと思いますね。それかな。


ラストは『今、三宅さんにとってギターとは?』を伺ってみました。これはムービーで本人の言葉を聴いて下さい。
三宅伸治さんの詳しいインフォメーションは、HPをチェックしてみて下さい。
三宅伸治オフィシャルホームページ 
http://www.miyake-shinji.tv/








【Discography】


『MOJO CLUB』



A-LIVE(LP)
SWICH/PSW-1004



社会復帰
1990.3.01/TOSHIBA EMI/TOCT-5637



ホーム・シック
1990.11.7/TOSHIBAEMI/ TOCT-5845

THE MOJO CLUB
1994/05/21/meldac/MECR-30048

HOUSE PARTY
1995.7.21 meadac



『三宅伸治』

パーティ・タイム
1996.11.21/NIPPON COLUMBIA/
COCA-13961 

615
1998.10.01/NIPPON COLUMBIA/
COCP-30084

SUN DOWN
1998.02.21/NIPPON COLUMBIA/
COCA-14864

MOON RISE
1998.2.21/NIPPON COLUMBIA/
COCA-14864

淋しい人
2000.08.25/Phonix/UKPX-00

旅路
2000.09.22 /Phonix/UKPX-0006

ハッピー・デイズ
2001.08.22/ENSENBLE・mindbox/
ENCM-2011




『三宅伸治プロジェクト』

Music Planet〜いいことがあるといいね〜
2000.12.06 /ENSENBLE・mindbox/
ENCM-2010

Guitars' talk
2002.04.01/ENSENBLE・mindbox/
EMCM-2013



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Message Movie

今、三宅さんにとってギターとは?

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【Discography】

『ザ・タイマーズ』



ザ・タイマーズ 
1989.10.11/TOSHIBA EMI/TOCT-5581

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【ALBUM「615」PV】



615
1998.10.01/NIPPON COLUMBIA/
COCP-30084


















君が欲しくてたまらない/
三宅伸治&Nashville Cats
(ALBUM「615」COLUMBIA RECORDS)PVより
ナシュビル録音風景



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【every wednesday no.2】

 
















『every wednesday』より(2003.6.11 at吉祥寺MANDA-LA2)


 

 

 

 

 

 

【every wednesday no.3】

 
















『every wednesday』より(2003.6.18 at吉祥寺MANDA-LA2)


 

ライブレポート「三宅伸治/ロックンロールジプシー2003」(6/4,11,18,25 at吉祥寺MANDA-LA2)



every wednesday no.1


2003年6月4日(水)小雨がふり続ける夜の吉祥寺。MANDA-LA2。外の陰鬱なムードとは異なり、会場は数台のテーブルが並べられ、しごく親しい友人のライブを観にふらりと立ち寄ったかのような人々の、温かな空気が開演前から感じられる。8時を過ぎて三宅氏がステージに現れる。観客同様にリラックスした雰囲気である。
「んじゃ、始めるよー」という三宅氏の一言でますます客席とステージとの距離は緊密になる。杉山章二丸氏の不可思議な打楽器(?)とともに前半はアコースティックなライブ。そしてトーク。リズムに乗りながら酒を飲み笑いあう客席。撮影で来ているものの、そちらに仲間入りしたくなってしまう。
そしてライブも半ばにさしかかる頃、なんとBASS谷崎浩章氏とSAX片山広明氏が登場。ん・・・これはまさにMOJO CLUBじゃんか!客席は予想外のゲストに興奮状態。バンド編成となってMOJO CLUB時代の曲をじゃんじゃん演奏してくれた。

三宅伸治 MANDA-LA2 ライブ [every wednesday no1]。第1弾から豪華メンバーによって大変な盛り上がりをみせ、そして、終了後によいライブだったなと心から感じさせてくれるものであった。

text by Rin


Live Movie

every wednesday no1,4

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#6magazineでお届けした「every wednesday no.1」の続きと、「every wednesday no.4」の模様を
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