special issue : ''moment jam session #1'' 直前特集



7/30に初台ドアーズにて開催される''moment jam session #1''の、直前特集です。出演が決まった小野田清文氏の緊急インタビューと、関係者によるライブ直前メッセージをお送り致します。

 special isse : 特集1 緊急インタビュー/小野田清文(ベーシスト)


ベーシストとして、佐野元春(THE HEARTLAND)等のライブ,レコーディングメンバーとして活躍。その他、数々のアーティストのCD、ライブに参加。そして「moment jam session #1」に参加する事が決定したベーシストの小野田清文氏に、ライブの直前特集という事で、緊急インタビューをお願いいたしました。


(2003年7月5日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)




小野田清文
:Kiyofumi Onoda  

1955年9月30日生まれ。

1976年小坂忠・佐藤奈々子のバッキングでプロ活動開始。 その後ふきのとうのツアーを経て、1980年佐野元春デビューと共に佐野元春 with The Heartlandに参加。

1994年に解散するまでツアー、レコーディングに参加。 その間も山根麻衣、中川勝彦など多数のアーティストをサポート。

1994年以降もフリーのミュージシャンとしてライヴ、レコーディングに参加。

ライヴ:海援隊、財津和夫、VOICE、高橋ひろ、KATSUMI など

レコーディング:浜崎あゆみ、hitomi、Re:Japan、aiko、石川よしひろ、cannaなど



TERA(T):それでは宜しくお願いします。まず生まれから教えて下さい。

ONODA(O):1955年9月30日生まれで、生まれは東京です。

T:東京は、どの辺りですか? 

O:麹町です。生まれてから、今まで、ずっとそこに住んでいます。

T:小さい頃は、どんな遊びをしていたんですか?

O:割と家の近く、靖国神社とか千鳥ヶ淵とか。何かかけずり回っていたような気がするな。一番面白いのは、誰に言っても信じないんだけど。皇居の中で遊んだんですよ。なぜかっていうと、多分、小学校の低学年だったと思うんだけど、要するに同級生が宮内庁職員の息子だったんですよね。それで当時は宮内庁の職員宿舎って皇居の中にあったんですよ。同級生の家に遊びに行くには、門からチェックを受けて、皇居の中で遊んだんです。

T:もちろん、学校は同じ学校に行ってたんですよね。

O:小学校が一緒だった同級生です。その子は皇居の中から通ってたんです。誰に言っても「そんな馬鹿な!」って言われるんですよ。これは本当なんですよ。だから皇居の中を歩いていても、黒い車が来たら、お辞儀しなければいけないとか、色々あったんです。

T:小野田さんが、はじめて音楽にふれた頃は、いつ頃だったんですか?

O:小学校1年からピアノを習っていて、母親の影響でむりやり習わされたんですけど。母親が国立音大のピアノ科出てるんで。で、結構は嫌いじゃなかったから、6年生のぐらいまで習ってました。

T:初めて買ったレコードとかは?

O:結構家に、父親がビートルズとかが好きで、シングル盤だったけど何枚かあったんで、それ聴いたのが影響してると思うけど。小学校6年生の頃にはグループサウンズが出だした頃だったから、相当影響を受けたと思う。ピアノを習ってクラシックしか知らなかったけど、家にはビートルズのレコードもあったし、グループサウンズのブームっても非常に大きかったですね。

T:中学生時代は、どうだったんですか?

O:あの頃はグループサウンズが終わるとフォークがブームになっていったのかな?一緒かな。それで家に父親が持っていたクラシックギターがあったから、それで見よう見まねで弾くようになって、まあ中学に入学すると、アコースティックギターを買って。バイトして買ったんですけどね。

T:最初はどんな曲をやったんですか?

O:PPMとかが教則本とかがあって、小室等さんの。それでスリーフィンガーとかを弾くようになったんですけどね。

T:では、最初は楽器としては、ピアノ、そしてギターという流れですね。

O:楽器的には、ずっとギターですね。

T:その頃は、バンドとかは組まれていなかったんですか?

O:いや、中学の頃はバンドっていうか、ギターを持ち寄ってなんかフォークソング歌うみたいな。

T:周りには、そのような友人はいたんですか?

O:結構いました。学生運動とフォークが一緒になった時だったから、全共闘とか。自分よりもちょっと上の世代が、ギターを持って新宿でフォークゲリラをやっていた時代だったんで、そういうのに結構影響受けたかな。学生運動がどうたらっていうのはよくわかんなかったけど、僕らは単純にフォークが好きだったからっていう感じで。

T:高校に入るとどういう音楽活動されていたんですか?

O:中学の時は、生ギターしか持ってなかったから、やるのはフォークだったけど、ツェッペリンとかがデビューした頃だから、ツェッペリンの一枚目を聴いて、ガーンとショック受けて。だって電気楽器が周りに何も無いから(笑)やろうったって出来なかったし。その頃からフォークよりロック系が好きになって、決定的なのは、中3の時に『ウッドストック』の映画を観た事かな。当時、映像として観るっていうのはテレビとかでも入ってこなかったし、初めて本物の『WHO』とか映画で観て、ものすごくショックでした。確か中3の夏休みだったと思うんですけどね、朝から映画館に行って、たぶんあの映画3時間ぐらいあったと思うんだけど、朝から行って、3回は観れたのかな、ずーと映画館にいました。それはもう物凄く影響を受けてますね。

T:『ウッドストック』を観て、まず何をしようと思ったのですか?

O:やっぱりロック系のバンドはやりたいなと思って、高校に入ったらちょうど音楽部っていうのがあって楽器も揃ってるし、それで、まあベースをやる人ってなかなかいないですよね。みんなギターだったから当時は。全員ギターを弾いてもしょうがないし誰かがベース弾かきゃいけないっていう事で、自分がベースをやり始めた。。僕が自ら「俺がベースやるよ」って。まあギター弾いたりベース弾いたり両方だったんですけど。僕らの時代はじゃんけんで負けたからっていうベーシストも結構いるんですよ(笑)。

T:そこは、バンドというよりサークルみたいな感じだったんですか?

O:音楽部の中に、色々なバンドがあったんですけど、ジャンルがちょっと違ったり。でも人数があまりいるわけじゃないからみんなとっかえひっかえみたいな。決まったバンドみたいなそういうのじゃなくて。文化祭がある時は、「俺とお前と誰々と何々をやろう」ってそんな感じで、決まったバンドという程の事じゃなかった。

T:高校2,3年の頃は、バンドのメンバーはどんな人達が集まっていたんですか?
 

O:高3ぐらいの時には音楽部だけじゃ物足りなくなってきて、ヤマハかなんかで知り合った連中と、バンドを組むようになったですよね。ツェッペリンのコピーとかが多かったんですけど。

T:それが初めての本格的なバンドだったんですか?

O:本格的なバンドっていうことではそれが最初かな。まあ学校でサークルで組んでいるバンドじゃない。

T:バンド名はなんだったんですか?

O:「クレブリン」。

T:その名前はどこから来たんですか?

O:『クリーム』と、『ヤードバーズ』のBかな、それと『ツェッペリン』のLINだったような気がする。

T:高3の頃は、ずっとこのバンドでの活動だったんですか?

O:そうですね。音楽部でやりつつ、外でもやってました。

T:この前里村さんのインタビューで同じ立教だったとお聞きしたんですが、何か思い出とかありますか?はじめて会った時とか。

O:応援団の先輩で音楽部じゃなかったから。最初はなんだったかな?彼は、ジャズをやってたからあまり一緒にやる機会はなかったように思うんだけど。

T:バンドとして里村さんと一緒にやったのはいつですか?

O:高3の時はもうやってたのかな?そうそう確か里村のインタビュー(#6interview)でも、勘違いしてると思うんだけど彼は(笑)全然そうじゃないだろっていう部分もあるんだけど、『スーパーオレンジサンシャイン』というような事を言っていたと思うけど、それ全然嘘で(笑)あれはただ「イブニングフォーク」というアマチュアの団体があるんですけど、それにマナが出ると言う事で、「じゃみんなでバックを付けよう」と言う話になって、多人数で日比谷の野音に出たのが、最初だったと思うんですよ。それはたぶんバンドっていうかみんな寄せ集めみたいな。

T:それは高校生?それとも大学の時ですか?

O:確か高校3年ぐらいだったと思います、確か。

T:そのマナさんとは、どういうきっかけだったんですか?

O:詳しくは憶えていないんだけど、佐野が、ポプコンに曲を出してて、確か「Bye Bye C-Boy」かな?そう佐野がバンドを組んでいて、その中にマナがキーボードやってて、コーラスなんかもしてたりして。それで「マナって、歌が上手いな?」って思って。その時、マナは立教の女学院でマナの兄貴が同級生なんで。そんな繋がり。

T:それで、クレブリンの活動は、高3の時の活動を終えて、大学に入る頃は?

O:うん、そのクレブリンというのが、基本的にやってたアマチュアバンドなんですけどね。何しろハードロック系のコピーばっかしやってたんだけど、歌える人がいない訳よね。楽器はいじれてもロバートプラントになれる人がいない訳よ。日本人には(笑)。それでこれは困ったな。方向結構変えてかなきゃと思ってたところで、「マナを歌わせたらいいんじゃないか」みたいな。まあ僕らもその頃はツェッペリンばっかじゃなくて、色んな音楽を聴いていたから、アメリカンロックとかも。だから、何しろ歌の上手い人が入ってもらえればみたいな。そんなんで、どんどん方向が変わってきちゃったって思うんですよね。割とアメリカンロック的な。マナには、ボニーレイットとか聴かせて。

T:それでは、クレブリンに、マナさんが参加した形になるんですね。

O:そうですね。形としては。でもメンバーとかバンド名も変わっていくんで。

T:次に落着いたというか、バンドとしては?

O:「ドロッピングパイ」ですね。

T:ドロッピングパイの活動は、最初はどんな感じだったんですか?

O:うーんと、クレブリンの流れで、ずっと来てて、YAMAHAとかでポプコンとかイーストウエストに出る曲を提供するとか言えば、スタジオがタダで使えたんですよ。「僕らポプコンなんかクソ」みたいなね(笑)。本当にそう思っていたから、そんな所に楽曲を提供するなんて、佐野もそうだと思うけど、そんな所に楽曲を提供するのは「ヤだ」と思ってて。でもスタジオをタダで使えるのは美味しいから、じゃあ捨て曲を提供すればいいんじゃないか?みたいなね。何しろスタジオを今みたいにね、リハスタが一杯ある時代ではないんで。とにかくヤマハに行くしかないんで。まあ僕らはポプコンっていうよりね。

T:その後の活動としては?

O:イーストウエストに1回目だと思うんですけど、その時に何の賞も取れなくて、帰ろうかな?と思ってた時に審査員に林立夫さんがいて、僕に声をかけてきてくれて、「連絡先を教えてくれ」って言われて「とてもいいじゃない」みたいな事を言われて、のちに電話かかってきて、「じゃあ、デモテープをとってみましょうか」という話になっていったんです。

T:その流れをもう少し教えて下さい。

O:バンドのオリジナル曲が結構あったんで、そこからピックアップして、「林立夫プロデュースでやりましょう」みたいな形で。

T:その後は、どういう活動になるんですか?まだ学生ですよね。

O:学生ではあったんですけど、某音楽プロダクションにバイトというよりは、準社員みたいな形で働いていたんで、確か大学2,3年で。「自分はミュージシャンでプロになるから、社員にはなりません」と言って、あくまでも準社員みたいな形だったんだけど、いよいよデビューすると言うバンドがデモテープ録りの段階で空中分解しちゃったんで、周りの会社の連中からは「そんなに甘いもんじゃないだろ」みたいなね。スタッフやるのは一番いいんだなみたいな事を言われちゃって、「そうかな、社員になるしかないかな?」って思っていたら、「今度、(佐藤)奈々子がデビューして、バンドでベースがいないから、オーディションがあるよ」って聞いて、「じゃあ行ってみようかな?」って思ってオーディションを受けたんですよ。それでそのまま受かって、それがプロの最初。

T:そのオーディションを受ける話をもらったキッカケは?

O:多分、奈々子か佐野かどっちかだったと思うんですけど。奈々子とは一応佐野と活動してたから。すでにポプコンとかコンサートとかやってたと思うんですよ。さっき、一番最初にマナが野音でやってたイブニングフォークっていう団体で、アマチュアのフォークソングばっかりやっている団体が「もっとロックにしていこう」という流れで、割と立教の僕らの下の代の連中が、そういう事をやりだして、自分たちで製作するみたいな事やっていたんで。その時にドロッピングパイも出ていて、佐野と奈々子はジャズみたいな曲をやってた感じで、そういう交流があって、奈々子とは一緒にコンサートをやってて知っていたし「あっ、デビューしたんだ、凄いな!」みたいな。

T:奈々子さんのファーストアルバムには参加されたんですか?

O:いや、アルバムには参加していないですね。アルバムが出来て、ライブをやるというので、ベースがいないって事でオーディションになったと思うんです。

T:そのライブは、どういうライブだったんですか?

O:どうだったかな?事務所が小坂忠さんの事務所だったんで、忠さんのイベントの時にはくっついて出るみたいな、そんなのが何本かあって、ワンマンのコンサートというのは、やってない気がするんですよ。

T:その時期、そのバンド以外の活動はしていたんですか? 


O:他はまだ、それがプロなりたてで、オーディションに受かったばかりの一番ぺーぺーなんで、周りは何年も活動しているプロの人達だから、その人達が色んな仕事をしてた訳なんで、ある時、「ふきのとう」がバンドをつけるという時期で、バンドを探しているという話がきたんで、確かメンバー全員で移っちゃったんですよね。4,5年はやってたかな?周りがプロの連中だから、やりながらちょこちょこスタジオやったり、ライブをやったりしてたと思うんですね。

T:その頃は、70年代後半ですよね。

O:ですね。まあ、何しろ本数が凄かったんでね。一番多い時で、年間250本やった事あるんで、そうすると他に何も出来ないんですね。

T:大学は?

O:大学は、3年の時にはもう、中退しちゃいました。

T:じゃあもうしばらくは、「ふきのとう」で?

O:そうですね。4〜5年はやっていましたね。まあ、それがいわゆる大きなツアーに出る最初の事だったんでね。

T:初めてツアー出て、何か思った事、感じた事は?

O:もう本当、東京から出た事がなかったんで、修学旅行で京都しか行ったことしかないんで。いやもう、色んなところに行けるんで、「これは楽しいな」と。しかも飯は食わせてもらえるは、酒はたらふく飲ませてもらえるは、とにかくもう、酒好きな連中だったんで、250本やって、250回必ず、2次会、3次会で、朝まで飲むんですよ。それでギャラを貰えるなんて、何て楽な商売だなみたいなね。20才そこそこだから、甘く考えちゃった。っていう。後に色々ガツーンというのも経験してますからね。まあ、なるほどな。だんだんと大人になっていくんですけどね(笑)。

T:80年代に入ると、どういう活動になっていくんですか?

O:結局、佐野が80年にデビューしたんで、その時はもちろん「ふきのとう」をずっとやってて、佐野が大学出てから、、サラリーマンやってたんですよね。「あーもうやらないのかな?」と思ったら、80年にデビューして。電話がかかってきて、「ライブをやるから、バンドを組まなくてはいけないんで、やってくれないか」というような話で。ふきのとうのスケジュールもいっぱい入っていたから、取りあえずやりたいんだけど、どうしようかな?と思って。同時には出来ないし。でも佐野がせっかくデビューしたから、やりたかった。ふきのとうには、ごめんなさいして、完全に辞めて、佐野のバックやるようになったんです。

T:その頃のバックメンバーは?

O:会社が、ヤングジャパンっていう事務所の方でメンバーを揃えるという話で。「でもベースだけは僕に」という事で、佐野から電話が来たと思うんで。一番最初にリハーサルスタジオに全員集まりますよね。そのメンバーでその後にいるのは、阿部ちゃんとダディさんだけで、ドラムとギターは違う人でしたね。

T:実際のライブのはじめは何でしたか?

O:一番最初は、TVKのファインティング80's。それにレギュラーで出るというのが始めだったと思います。

T:「THE HEARTLAND」となったのはいつ頃ですか?

O:いつぐらいかな?佐野の頭の中には、入っていたんだと思うけど、いつ付けたのかは憶えてないんですけど、銀次さんが入って、ドラマーも入れ替わりがあったんで、多分その頃から、固まってきたかな?と。何か自然にそのまま流れで付いていったような気がするけどな?TVKに出ている頃レギュラーで毎週出ていたんで、後半くらいからもテロップに「THE HEARTLAND」と出てたかもしれませんね。

T:レコーディングは? 


O:レコーディングに参加するのは、『SOMEDAY』からですね。それまではライブで。アルバム全曲のレコーディングというのは、初めてだったと思います。何しろ僕の他は皆、スタジオミュージシャンなんで、ハートランドで録っている曲もありますけど、他の曲はみんなスタジオの人で。どうしていたかな?レコーディングの前の日とか、佐野の所に行って、ベースラインを作り上げたとか、うん、割とベースラインを決めて、翌日スタジオ行って、スタジオミュージシャンの人達とセッションする感じでしたね。

T:その後、佐野さんがNYに行った後、メンバーの活動というのは?

O:ちょうど、銀次さんが再デビューみたいな形だったんで、そのまま皆銀次さんの方に流れて。普通にツアーして、後TVとかもありました。あとはライブハウスですね。

T:それから、佐野さんがアルバム『ビジターズ』を仕上げて帰ってきますよね。

O:そうですね。はっきり言って、出来上がった『ビジターズ』を聴いて、「これは凄いものを作っちゃったな」と思って、これをはたして、ハートランドで再現出来るのかな?みたいな。まあそこでブラスセクションを入れて、里村にパーカッションやってもらってみたいな形で、人数が増えていったんですけど。

T:そのリハは、どういう感じだったんでしょうか?

O:出来るかどうかわからなかったけど、まあやるしかないんでね。再現は出来ないかも知れないけど、形にはしなきゃいけないんで。確かに完璧に同じには出来る訳ないし、多少のアレンジ的な「ハートランドの『ビジターズ』」という形を作っていった気がするんですけどね。

T:ブラスセクションが加わった事で、ハートランドに変化は?

O:後々、ずっとブラスセクションは入っていた訳なんですけどね。結構音楽性は凄く広がったかな?ファンクだけじゃなくて。それが『カフェボヘミア』に繋がったんですけど、色んな事が出来ますよねブラスがあれば。

T:その『カフェボヘミア』のツアーでは、スタジアムライブがありましたね。スタジアムは初めてだったんですか?

O:どうだったかな?でもアーティスト単独でやるのは初めてだったかな?イベントとかでは何回かありましたね。多分、ふきのとうでも野外のイベントとかあったし、佐野の初期で甲士園でやった事があったね。

T:あのライブはどうだったんですか?

O:ライブ盤で残っている方ですよね。あの頃、結構バンドもまとまってたような気がするから、何か苦労したとかいうのは、あんまりないし、割と上手くいったんじゃないかな?だからライブ盤に残せたと思うし。

T:その頃は、ライブとレコーディングの繰り返しというか、そういう活動ですよね。

O:そうですね。他にもありましたけど、中心はもうそれですから。『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』は、イギリスで録ったやつで、僕らは参加していないんです。その後、『TIME OUT!』になるのかな?その頃からは、レコーディングもずっと、僕らだけでやるようになってきたので、自ずからライブやるにも、割とすぐ、まとまるみたいな。まあ佐野がアレンジをいじると、大変な事になるんですけど。

T:その後は?

O:『sweet16』は一番、時間もかけたし、大変なレコーディングだったと思います。それで、『サークル』では、その反省からも、プリプロをやるようになりました。もちろん『sweet16』もプリプロをやっていたとは思うんですが、それ以上にしっかりやるという形が出来てたから、割と早く出来たんですよね。

T:解散のスタジアムライブ『LAND HO!』は、どうでしたか?

O:複雑といえば、複雑なんですけど。『サークル』ツアーの武道館で僕らもう解散して終わったという認識が皆に中にあって、4月終わって、5ヶ月後くらいに集まってコンサートをやるっていう。何と言うか複雑で「でも1日やろうよ」っていうね。

T:最後の武道館がハートランドとしては、最後のライブという気持ちだったんですか?

O:うん。もう気持ち的には、あの武道館2日間が最後だという気持ちでやっていました。ファンの人達に発表はしていなかったので、『LAND HO!』という話になった時に、1日ファンの人の為にも演奏しなきゃと。

T:それ以降は、そういう流れになっていくのですか?

O:その後は、色んな人達とやって、もっと忙しくなりましたね。例えば、高橋ヒロ君っていうチューリップの最後のキーボードが、ソロでデビューしたんですけど、彼のライブとレコーディングを全部やって。あと、佐野がプロデュースしたヒートウエイブというバンドのベースが抜けて、山口君から電話があって、それもツアーを2,3年やったかな?あと、大きいのは、武田鉄矢さんの海援隊は、90年か91年に夏のイベントを何本か一緒にやったりしてメンバーもよく知っていたので、ベースが抜けたと言う時期に入ったんですね。ちょうど武田さんがソロツアーをやっていて、その翌年に海援隊の再結成があって今に至っているんですけど。

T:ツアーとなると重なったりとかは?

O:そうなんです。本当結構ツアーが多くて、高橋君とかヒートウエイブも全部掛け持ちでやってたんで、忙しがしくなったたんです。

T:あと、PEKEさんというアーティストを育てられたという?

O:あれは、まあ弟子なんですけど、94年に人から紹介されて、「どうしてもベースを習いたい」って言ってる女の子なんだけど、「どうにか弟子にしてやってくれ」って言われて、「まあいいかな」と思って、ローディーをやらせつつ、ベースをちょこっと教えてみたいな。2年間ぐらい僕についてきました。その後、バンドやったりとか路上で歌っていたみたいですね。デモテープ出きる度に僕の所に送ってきたりとか。僕も出来るかぎりレコード会社の人だとかにデモテープ渡したりとかしてたんですけど、なかなかくい付きがなかったんですね。そしたら今年マクセルからね。弟子がミュージシャンになるというのはあるけど、弟子がアーティストになるというのはね、はじめてのパターンじゃないかな?

T:でも嬉しい事ですよね。

O:まあ嬉しいですよね。レコーディングも僕がベースでいってますから。

T:あと「OHANA BAND」というバンドをやってますよね。

O:そのはじまりは、岩澤達也(ブレッド&バター)がベアフットコンサートっていう夏のビーチでやるんですが、もう10何年やっているのがあって。要するに「砂浜のゴミを拾って裸足で歩けるようにしようよ」それが、ベアフットっていう裸足という意味なんですけど。ゴミを拾って裸足になって音楽を聴いて楽しく過ごそうよという主旨のコンサートで、それに手伝ってくれないか?という話が何年か前に来て、参加したのがきっかけなんですけどね。

T:そこで結成されたのですか? 


O:いや、たまたまミュージシャンを集めてみたんですよ、そのまん中に僕が参加して。久しぶりにマナとか里村とかが、集まったんで「このままバンドやった方がいいんじゃないか」と思ったんで、そんな流れです。

T:毎年「OHANA BAND」は参加して?

O:そうですね。毎年そのベアフットコンサートというのが何ケ所かであるんで。自分達でライブハウスでワンマンコンサートをやるみたいな形です。

T:「OHANA BAND」は、CDをリリースされていますね。内容は?

O:とうとう作ってしまいました。もちろん「CDを作りたい」というのもみんなの意見だったんで、インディーズで当初作ったんですけどね。まあ、色々と制約があったんで、あれもこれもという感じではなかったんで。結構、みんなで曲を持ち寄って、チョイスして。そういう作業から始まったんです。でも結局採用された曲は、マナとかさっちゃん、マナの娘のアイサというフロントの3人の楽曲になっちゃうんですよね。里村の曲がおまけで1曲入ってますけどね(笑)。

T:マナさんの娘のアイサさんは、ボーカルをとられているんですか?

O:えーもう、マナとそっくりな声なんで。二人ではもると、非常にキレイで、どっちがマナかアイサか分からないくらいで。

T:では最近はそのようなスパンでの活動ですか?

O:そうですね。レコーディングが多いかな?海援隊も続いているし。でも何しろ今、アコースティックバージョンというのが、大流行りでね。

T:今回「moment jam session #1」に参加していただく事になって、懐かしいメンバーとの演奏ですが?

O:当日、全員集まると嬉しいかな?というのがあるけど、メンバーはそれぞれに色々とあると思うんでね。

T:何か考えている事はありますか?

O:今は、バラバラにやってて「10年ぶりぐらいに一緒にやる」という事なんで、取りあえずやってみないとね。何が出来るかとかはあまりね。楽しみではありますけど「絶対、こうしたい!」というのはないですからね。

T:今回、どうぞ宜しくお願いします!

O:はい。わかりました。


ラストは『今、小野田さんにとってベースとは?』を伺ってみました。これはムービーで本人の言葉を聴いて下さい。


 

 

 

 

 

 

 

【主な参加作品】



「桜の木の下」
aiko
00.3.01/PCCA-01777/PONY CANYON


「秋 そばにいるよ」

aiko
02.9.04/PCCA-01777/PONY CANYON



「永遠の虹」

石川よしひろ
00.8.19/PCCA-01457/PONY CANYON



「I am...」
浜崎あゆみ
02.1.1/AVCD-17037/avex trax



「look up to the sky〜明日があるさ〜」

Re:Japan
02.3.27/AVCD-17062/avex trax


「新世界」
canna
02.4.10/SRCL-5312/SONY RECORDS



「殺風景」

熊木杏里
03.3.26/VPCC-81447/VAP


「今という時間」
カブ
03.05.21/EQCA-5006/maxell E cube





「陰陽師」
オリジナルサウンドトラック
01.926/BVCR11035/BMG


「こころ」
オリジナルサウンドトラック
03.5.21/PCCR-00395/
Leafage・PONY CANYON

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【主なTHE HEARTLAND 作品】



『SOMEDAY』
佐野元春
1982.05.21/ESCB1322


「Cafe Bohemia」
 佐野元春  
1986.12.01/ESCB1325


「HEART LAND」
佐野元春
1988.04.21/ESCB1131



『SWEET16』
佐野元春 
1992.07.22/ESCB1308



『The Circle』

佐野元春
1993.11.10/ESCB1456


「The Golden Ring」
佐野元春
1994.08.26/ESCB1516-8


 

 

 

 

 

 

 

Message Movie

今、小野田さんにとって
   べースとは?

メッセージムービーを観る
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【'Aha/OHANA BAND】




「’Aha」
OHANA BAND
2002/PCCA-01720/PONY CANYON



01. Aloha Kakahiaka
作詞:Icy&Manna/作曲:Satsuya Iwasawa, Manna
編曲:OHANA BAND
 
02. The Islands of Hawai'i
作詞・作曲:Icy/編曲:OHANA BAND

03. BABY ALOHA
作詞:Icy&Manna/作曲:I'Z/
編曲:OHANA BAND
   
04.(OIi)Kyoko Kubokawa
編曲:OHANA BAND
   
05. Fire Ball
作詞:I'Z/作曲:Satsuya Iwasawa/
OIi:Kyoko Kubokawa
編曲:OHANA BAND
   
06. KU' U PUA KENIKENI
作詞・作曲:Mamina/編曲:OHANA BAND
   
07. First step
作詞:Icy&Manna/作曲:Manna/
編曲:OHANA BAND
   
08. HE PUA MOE WALE
作詞:Manna, Kyoko Kubokawa/作曲:Manna
編曲:OHANA BAND
   
09. Sing!Sing!
作詞・作曲:Manna/編曲:OHANA BAND
   
10. MITAKE(Mele)
Adapted From:Leina' ala Heime Kalama/
編曲:OHANA BAND
   
11. MITAKE 
Adapted From:Leina' ala Heime Kalama/
編曲:OHANA BAND
   
12. LOCO MOCO SUNSET
作詞:Kyoko Kubokawa/作曲:Yoshikazu Satomura
編曲:OHANA BAND



 



 special issue : 特集2 スペシャルゲストその1 杉真理メッセージ



今回のライブに出演決定しました、
杉真理さんよりの映像メッセージをお届け致します。
杉さんが参加された、あの、アルバムからの曲、カバー等、
このライブでしか聴けない曲目をお楽しみに!
  Message Movie



杉真理さんからのメッセージを観る
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 special issue : 特集3 ''moment jam session #1''について/ TERA@moment/ 2003.07.25更新



chapt-1/ライブの企画の発端についての話

この企画のはじまりのはじまりは、今年の1月30日になるのかも知れません。「LAND」という駿東宏氏主催のイベントにmomentは映像関係で参加をしました。その時に「momentならば、どのようなイベントになるのだろう?」と考えていました。またその頃、short film project#3,4 『JOURNEY to LOCK THE LOCK』の企画が、まさに実現されようとしていて、その音楽として3人のミュージシャンの事も、頭に浮かんでいました。その後、今年3月7日に、3人の素敵なセッションが実現しました。その日の事、西本明氏との雑談の中で、明氏が「昨日『ラストワルツ』を、中古ビデオ屋でね、見つけておもわず買ってしまったんだ」という話をした瞬間、何かが頭をかすめた気がしました。そしてセッションの録音が終わった時に、皆が「これをライブでやったら、面白いかもね!」と話していました。多分ですが、その辺りのポツポツした出来事が始まりではないかと思います。

chapt-2/企画の進行についての話


当初、練っていた企画とは違う方向に動き始めて、映画のセッションライブという企画が、 違う方向に「歩き」始めました。その事を上手く説明は出来ないのですが、今考えると出演者の方達が皆、同じような事を考えていたのではないか?と思います。
「音楽を演る楽しさ」を「懐かしい仲間との再会」を、自由な環境において、何も別な事は考えなくていい「ただ音楽を奏でる場があれば」と。「どう?元気だった?あれからどうしていたの?」という言葉を交わす代りに、「また一緒に演る?」って気持ちで仲間が集まって来た。そんな感じかな?と思います。ピュアな気持ちを抱えて活動しているアーティスト達の久しぶりの再会ライブです。

chapt-3/参加アーティストについての話


映画で素晴らしい音楽セッションを披露してくれた、西本明、里村美和、長田進の3氏。彼等が発端になり始まった企画なので、必然的にその周りにいる友人達が集まりました。まず、里村さんとユニットを組んでいる小野田清文さんとマナさん。そして、長田さんと は、PPDというユニットで一緒だったnanacoさん。nanacoさんに関しては、今から、10年前の2月1日に彼女が久々のライブを行って、その時サポートを務めてくれたメンバーのGREAT3の高桑さん、白根さん、そして片寄さんにも今回参加していただく事になりました。あと長田さんのDSLの仲間である根岸さんも参加してくれる事に。そして、里村さんとの話の中で、杉真理さんに打診したら、すぐ了解してくれました。また、杉さんとの打合せの中で、堂島孝平さんの名前が上がり、緊急決定しました。皆さん、忙しいスケジュールの合間に参加していただける事となり、感謝しています。他にもシークレットゲストや彼等の友人達が、当日かけつける事になると思います。

chapt-4/''moment jam session #1''の内容についての話


映画のセッションは、少しだけ演ります。当初それだけと考えていたのですが、映画の音楽は「その時点でその音楽に相応しい場所に納まっていた」と言う事でした。それが皆の今の意見です。でもそのスピリットは残したまま演ります。#1のテーマは『We'll meet again』としています。名曲のタイトルからです。仲間が仲間に向けてのリスペクトするという、今回ここでしか観られない内容です。70年後半から80年代辺りの懐かしい音楽があります。仲間同士のカバー曲もあります。新しい音楽もありますし色々あります。だから本当に贅沢な時間になると思います。是非、夏のひととき、楽しんでいただけたらと思います。

chapt-5/''moment jam session #1''のリハーサルについての話

初日は、GREAT3のリハから始まりました。彼等の楽曲とカバー曲等を、1曲毎に、丁寧に仕上げていきました。当然、彼等3人に長田さん里村さん西本さんなどが加わり、今回のセッションライブの音になります。初日の後半は、nanacoさんのブロック。彼女のアルバムからの曲、また皆で歌うカバー曲などを、進めていきました。2日目はDSLやnanacoさんの楽曲を中心に。3日目は西本さんの曲や杉さん、堂島さんとの楽曲など、と続いていきます。まだ、真っ最中ですが、皆、楽しく、じっくりと、リハに望んでいます。