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#13 LIVE EVENT:「moment jam session #2」開催のお知らせ LIVE : 「Creole aMassA IX」2004.1.27 at FAB/出演:MassA 佐藤正治、斎藤ネコ他 LIVE : 「三宅伸治/MOJO CLUB 〜2004 新春歌絵巻 Vol.17〜」 Web site:「radiofish」http://www.tfm.co.jp/radiofish/ 連載 TERA'S SOUNDTRACK REVIEW /KEN'S BOOK REVIEW |
music
momentに関連したミュージシャン、バンド等を紹介します。
斎藤ネコ / Neko Saito
さまざまな活動を通して、誰にも分かる音楽の楽しさを魅せてくれるバイオリニスト、斎藤ネコ氏の過去から現在までを辿ったインタビューです。
(2003年12月21日/下北沢Lady Janeにて/インタビュアー:TERA@moment)
斎藤ネコ:Neko
Saito |
(高校)受験はやっぱりピアノなんですよね、作曲科って言っても。一年で適当に和声法とかでっち上げたら何か上手く、そういうところだけ運がいいので、うまく 入っちゃって、入ったらもう好きな事やっていいだろうっていって、もう色んなとこいってバンドとかやって、学校でタバコとか黙認なのに、よそでバンド活 動とかライブ活動をするとすごく怒られるんですよ。でも平気で活動を始めた。 TERA(以下 T):それでは宜しくお願いします。まず生まれと場所から教えて下さい。 斎藤ネコ(以下 S):広尾の日赤(病院)産院で生まれました。 T:育った所は? S:最初下落合に住んでて、その後、幼稚園入るぐらい前に狛江に越してきたって感じかな。20代で二子玉に10何年住んで、また今、狛江に隠居したぞ!みたいな。 T:兄弟はいらっしゃるんでしょうか? S:弟がひとり、キーボードやってますけど。 T:小さい頃って兄弟でよく遊んだりしましたか? S:遊びましたね。 T:どんなお子さんさんだったんですか? S:狛江の神童と呼ばれてた。嘘です。すいません。やっぱりバイオリンとか教わってたりしたから、人よりはスポーツは少なめだった。でも野球とかやってましたけど。そうですね、小学校も通ってたし、近所の子たちと遊ぶという感じではなかったですよね。 T:バイオリンを始めたきっかけは? S:きっかけは、親が習わせるという感じ。 T:兄弟二人共ですか? S:親にしてみれば、お兄さんバイオリンだよ、弟にはピアノ弾かせてクラッシックでもやらせて共演させちまおうっていうよく考えるパターンじゃないですか?でも思い通りにはならないぞっていう。結局バンドマンになっちゃったっていう。 T:子供の頃には素直にバイオリンを受け入れていなかった? S:やっぱり小さい頃から始めると、それをやるのが自然なものみたいになっちゃうから。親がそのとき一緒に英語も教そわらせてくれれば、英語とかに通わせてくれれば。子供の頃に音楽を始めると、それがひとつの言葉のように、思ったら弾いちゃううという、反射的になるように、何の音は何の音っていう、あぁいうのって訓練じゃなくて染み付いてくるものだから、英語もやらしておいてくれればね。語学堪能だったのに。つくづく思いますよね。そういう風に。言葉の一つだと思うから。 T:小学校時代は発表会とかはありましたか? S:ありましたね。 T:どんな感じだったのですか? S:桐朋の音楽教室に通ってたんで、その発表会、先生の発表会があったんじゃないかな?あと、2年生の時はバイオリンのお稽古っていうのをNHKでやってました。 T:どういう曲を? S:えー憶えてません。“なんとかのソナタ”だとかそういうのだったんじゃないかな。 T:ピアノでいうバイエルのようなものは? S:ありますよ。一番初めに教わった篠崎先生っていう人は、篠崎バイオリン教本っていうのを出してるし、エチュードもタイザーとかクロイツェルとかあるんですけど、すべて忘れてしまいました(笑)。 T:中学校入る頃って何かバイオリンに対して変化はありましたか? S:小学校は遠くまで通ったんですけど、音楽をやるっていうんで、家からもすぐのところの地元の中学校に移ったんですけども、練習するようになると思いきや、中学生はバンドとかいろいろ活動をしてて、私なんか堅苦しい音楽をやってるんで、今で言ういじめじゃないけど、なんでそんなひ弱な音楽をやってるんだとか言われて、ディープパープルとかやってる連中から、お前クラッシックやってんだからこれ譜面にとれんだろう、とか言って、アドリブのソロなんかすぐ書いちゃうよって言って、書いてあげたら、今度すごい尊敬されちゃって、一緒にバンドやんないか?とか言われて、ズルズルとそっちの方に引きずり込まれていくわけですね。悪い仲間に。リッチーブラックモアって譜面にすると、結構クラシカルに弾いてるじゃないですか、面白いなって思って、ビートルズ世代でもないし、その最後のビートルズを聞かされて、『レットイットビー』から入った感じで「ザ・ロング・アンド.ワインディングロード」なんて弦入ってるしね、「バンドに弦が入ってて面白いな」って、こっちの業種に友達を通り超えて、アレンジもおもしろいなって言って。もうぐらぐら。それまでの親の積み上げは崩れていき、その後ジェフベックとか聞くとまたこれが素晴らしくって。この時期にFENの11時くらいの番組で結構当時はジャズロックっていうのかな?そこからクロスオーバー〜フュージョン〜今コンビニのBGMに成り下がったようなタイプの音楽があるじゃないですか。あれのクラッシックとかをアレンジしているデオダードとかボブ・ジェームズとかに「こんなにしちゃっていいんだろうか」っていうのがあって、やっぱりそういう世界に興味を持ってしまって、自分のほうからだんだん裏方思考へ行って。もちろん曲とかも作りたかったから、曲とかも作ったりするし。専門学校でもよかったんだけど、一応親の助言もあって、専門学校に行くんだったら、学校の作曲科のコースを薦められて、入って。 T:当時はバイオリン一筋だったんですか? S:ううん、作曲科を受けるんだったら、ピアノとかをやらなきゃならないんで、中学校でもコードネームっていうのにすごい興味が出てきて、コードの本買ってきて一生懸命ピアノでポロポロ弾いたりして、それで受けたので、受験はやっぱりピアノなんですよね、作曲家って言っても。一年で適当に和声法とかでっち上げたら何か上手く、そういうところだけ運がいいので、うまく入っちゃって、入ったらもう好きな事やっていいだろうっていって、もう色んなとこいってバンドとかやって、学校でタバコとか黙認なのに、よそでバンド活動とかライブ活動をするとすごく怒られるんですよ。でも平気で活動を始めたって言う。 T:大学はすんなり? S:偶然ね。高校と大学ってつながってないんですけど、実は。高校は大学の受験校みたいなとこだったんですけど、うまく入れて、入ったとたんにもうスタジオとかに出入りするようになってきて、ほっとんど行ってないです。 T:いわゆるプロとして、仕事として活動するのは、いつ頃なんですか? S:19から始めてる。 T:一番最初の仕事って? S:ヤマハのポピュラーソングコンテストのアレンジで、録音したやつを審査してっていうのがあったんですけど、それで初めてスタジオで録音してみて、「スタジオってすげーいい音とれるんだなぁ」っていうのが最初だったですかね。 T:それは盤になっているんですか? S:なってないですね。その当時のは。どこに行ってしまったのか。 T:それからの仕事の流れは? S:ジャズピアニストの市川秀男さんっていう方のところに紹介してもらって、やっぱりそういう事やるならジャズの理論とかを教わりたいって言って行ったんですよ。ジャズピアノを教わりに行くはずだったのに、「君、作曲科なら譜面かけるだろ?」っていって、いきなり劇伴の譜面書くのを手伝わされたりとか、現場でディレクションするようになっちゃったりだとか、またそこもズルズルと。だから人に恵まれてるんでしょうけど、そういう道に行くのに。で、学校卒業する頃まで自分のアレンジするのと並行して、市川さんの所に行って、ずいぶんお世話になってて、結局、手伝ったり、書くのを手伝ったりとか、アシスタント業務をずっとやってました。修行って言うのはそういうものだって思って、それを越えたらジャズピアノを教えてくれるんだろうって思って、何年かたったある日「市川さん、ジャズピアノっていつ教えてくれるんですか?」「えっ?」とか言われて、「え?ピアノ教わりに来たの?」って。「じゃあいい先生紹介するよ」って言って、徳山陽さんっていう人のジャズピアニストの教室を紹介されてしまう、みたいな。何、忘れていたの?この私の何年かの辛抱は何だったの?みたいな。そんなことがありましたね。でも、振り返ってみると、この前亡くなったジョージ川口さんのシェリーマンと対決するレーザーディスク、最初の時期のやつがあったんですけど、その譜面も手伝って、画面から見切れるところで指揮してたはずなのに、それに情けない姿で黒服着て映ってたりとか。それが二十歳くらい。それが結構レアなものですよ、きっと。もう今ないもんね。 T:先生を紹介されて、そのもうひとりの先生の所では? S:そこでは、ジャズのコードをきちっと、テンションの正しい使い方とか。そういうのを教わりました。それでもう二十代前半ぐらいであったかな。たまに自分の仕事が来るようになってきたかな、ボチボチとといった感じですかね。 T:具体的に、どういう仕事が多くなったんですか? S:でもね、やっぱりそんなに仕事が収入に繋がんなかったりするから、たまにしかアレンジないんで。ツアーというものに出ればまとまったお金になるというので、その当時、楽器屋に200万ぐらい借金もあったし、「よし!いっちょ行ったろ!」っていって、24、5歳で生まれて初めて行ったツアーがなんと「南こうせつツアー」。いきなり、グリーン移動一流ホテルみたいな、もうどうなってんの?!世の中みたいで、終わりは毎晩酒飲むし、それのちょっと前までは500のビールの缶が飲めなかったんですよ、全部。それが、訓練によっておかげさまでバンドマンの付き合い程度までには飲めるようになりまして。 T:何箇所ぐらいまわったんですか? S:30本セットが何回りか。2、3年やりましたか。あっ2年半くらいかな。 T:ツアーに出てる間は、それ一本で。 S:いや、その間にアレンジをやったりとか。あと、その頃じゃないかな『KILLING TIME』っていうバンドに誘われてやるようになったのも。 T:その『KILLING TIME』のきっかけは? S:橋本一子さんとライブをやったときに板倉文と知り合って、それでその後バイオリンほしいからって誘われて、最初四人で清水一登って言う人とMa*To(藤井将登)っていう四人で、下北ロフトで最初にやったかな。何年前ですかね?憶えてません。 T:80年代後半? S:80年代後半だと思いますね。 T:最初やってみてどうでしたか? S:面白かった。すごい良いメロディーを書く人なんで、面白くって、参加する事になって、そしたら『KILLINGTIME』は段々メンバーが増殖していって、ドラムの青山純とか、ベースのメッケン(荻原基文)。ベースはいろいろずいぶん入れ替わっていたけど。ドラムも青山さんになる前に亀ちゃんとか。何人か入れ替わってたけど。六本木のインクスティックとかで、結構レギュラーでやって、ベロベロになってやってましたね。 T:アルバムのレコーディングも? S:やりましたね。 T:『KILLING TIME』ではアルバムは何枚? S:3枚かな?うん。CDじゃなかった時代ですよね、多分。まだアナログ盤かな。 T:『KILLING TIME』は、ネコさんにとって初めての本格的なバンドなんですか? S:バンドっていうのは初めてで。あっでもその前に、『SUNSETKIDS』っていうとこで、大変風変わりなバンドをやっていました。早稲田大学フォークソングクラブ出身の聖飢魔IIとか爆風スランプとかと同世代にでてきて、ドラムのれいちとか、ギターの大津真ととか、キーボードの江藤直子とか、伊藤ひとみっていうボーカルがいて、むっちゃくちゃ変わったバンドで、超アングラって感じの、白衣着て、当時まだ若いから16Uのラック作ってエレキヴァイオリンとかでやったりしたのが最初かな?バンドの。 T:『SUNSET KIDS』の盤は何枚? S:2枚。自主制作で作ってる。 T:今で言う「インディーズ」になるんですか? S:私は「インディーズ」っていう言葉は、一切使わない。インディーズっていう事は今や"お仕事"なんで、ずっと「自主制作」と呼んでおりますが。 T:『KILLING TIME』の方は何年ぐらい続いたんですか? S:まだ続いてるんじゃないんですか?何かやると捕まるからやんない。そんなこと言っちゃいけないな。なんか、天に昇ったと言われてますが。いつぐらいまでやりましたかね? T:メンバーは交代しながらいろいろ続いているという感じなんですかね? S:まぁ、バブルと共に天に昇って行ったんじゃないかな?っていう。はい。 T:80年代後半から90年代にかけてはどういう活動に? S:CMの仕事をする事になってきて、ツアーとかだと、私は毎回違う事をやりたい性格で、飽きっぽいのかもしれないけれども、7本ぐらいやると、何か違う事をやんなきゃなんない、気がすまなくなって、いろんな事をけしかけると現場で事故ったりとかですね、歌手が歌えなくなってしまったりと、そういう事になってしまうんでどうもこれは向いてないっていうんでツアーミュージシャンを辞めまして、CMとかの方にうまく拾って頂いて、ホントずーっとCMやってましたね。80年代後半は。CMの仕事メインでたまにアレンジをするっていう形がずっと続いていました。バブルの終了と共にCM業界は音楽を作んなくなってきたから、だんだん隠居的な生活を結構好きに今やらせて頂いてますけど。 T:CM音楽というのはネコさんにとって、音楽的にどういうとらえ方なんですか? S:本当は映画音楽とかをやりたいんですけど、日本だと映画ってとても難しいし、人脈の事もあるんで、結局タイアップ曲だったりするんで。映像をくくっていけば映画もCMも、CMなんて特に35ミリで撮ってて、すごいカメラマンが撮って、オールラッシュ見てると映画みたいだったりとかする世界なんで、映画をやっているような気分で、例えばその30秒どう勝負するかっていう時に音楽で勝っちゃったら、もうそのCMは負けで、「あのCM、あぁあの音楽だったね」っていうのが分からないで映像があって、「ん?どんな音楽がついてたの?」っていうぐらいの方が正解かなっていうつけ方を狙って、音で何とか勝負するっていうのもあって、それは監督次第なんですけど、やっぱり、プロデューサーのとこ行ってのやりとりが楽しいし、何せ短いからそこに集中できるし。でも30秒ひとつにアルバム半分作れちゃうような予算をかけてた時代だったんで、そんなCM集を最近発売しましたので(笑)宜しくお願いします。いい時期のところ、この仕事ずっとやっていけたらいいなというぐらいに思っていたのですが、世の中そうではなくなってしまいました。結構大掛かりな事を僕はやらせてもらっていたので、とても今はそんなの出来ないって言って。それもあって、その時期が良かったんだよ。そのCM集をまとめてみたんですけれども。すごい自伝みたい、今の。上手! T:『ネコかる(斎藤ネコカルテット)』はいつぐらいからですか? S:『ネコかる』も古いですね。今年でもう16、7年目ぐらいですから。もともと「ゴンチチ」っていうグループの『KILLINGTIME』時代のレコーディングのために弦カル(テット)を入れたいっていうので組んだのが始まりで、その時チェロが溝口肇っていう男だったんですが、彼がコマーシャルに出てピースくわえてチェロを弾く人になって独立して行ったんで、彼と活動できないって事で、別のセッションの時に来たのが今の藤森亮一っていうチェロなんですけれども、四人でやったら結構面白くって、今日このインタビューしている「Lady Jane」ですよね。このオーナーの大木さんが六本木に「ロマーニッシェス・カフェ」っていうお店を持ってて「ライブやってみない」って、仕掛け人なんですよね。その号令のもとにライブを始めて、バンドって解散するのは簡単なんで、続けてみるかねって思って。10年やったあたりからはもう惰性ですけど、いつでもやめていいんですけど、やってみるかねぇっていう感じで。 T:CMが終わってきたっていう頃は? S:業界が面白くないから、ちょっとのんびり行こうかっていう感じで、自主制作もの作るのに凝ってやってたり、自分のレーベルみたいなものを作ったりとか、それはもう最近の話ですよね。去年からは、ポップのできるアマチュアがいてもいいんじゃないかっていって『のらねこ合奏団』って、早稲田の学生が中心なんですけど、指導したり。指導ってもたいしたのじゃない、学生に遊んでもらってるようなもんなんですけど。 T:レーベルっていうの何ていうレーベルなんですか? S:『斎藤ネコレーベル』。 T:実際いつ発足なんですか? S:「相曽晴日」っていう人がいて、彼女のアルバムをうちの自主で作ってたんですよ。それを世に出すにあたって、単にレーベルって名乗っただけで、そんな真剣なものじゃないんですけど。 T:レコーディングとか、自分の盤を出す時は、どこで録ったりするんですか? S:意外とウェストサイド、MIXER'S LABの協力を得て、ウェストサイドを貸してもらって、ラボっていうぐらいなんだから実験したっていいじゃないっていって、意外とこう無茶いって、すいませんお世話になってます。 T:そこで何枚ぐらい? S:4枚。 T:タイトル名を教えていただいてよろしいですか? S:一枚目は、相曽晴日の『月の子供』。これを出すためにやったんですけど、9年もかかっちゃって、自主だからお金なくなるとできないから、お金貯まるとまた作って、2枚目は斎藤ネコカルテットの自主制作のがまた別に2枚あって、その1枚目の『FRIENDLY GAMES』っていうアルバムがとっくに無くなってたんですよ。1000枚限定でつくったアルバムで。当時は自主制作で作ったCDって珍しかったんですけど。90年だったかな?で、大吟醸限定1000本!みたいな感じで「もうあと作んないよ!」って言ってたんですけど「聴きたい!」って方も多かったんで、じゃあ今度はもう紙パックみたいなお酒の感じで、またジャケットとかデザインを変えて、レーベルせっかくあるから、そこで2枚目を作って、3枚目は相曽晴日の弾き語り『しあわせになろう』。Pro Toolsの一番新しい192KHz24Bitっていう録音をして、自主なのにちょっとこだわってるよっていう感じでね。4枚目はその『CM作曲集』まとめてみたのね。じゃあ「新しいもの作ってないじゃないか」って言われると、単にお金がないから次作れないだけで、また作りたいんだけど、作る時に安直に「DATで録りました、出しました」っていうのはしたくないんで、また貯金ができたらまた。働いても働いても・・・。 T:現在、色んな人と色んな事をやってると思うんですけれども、一番軸になっているものって何でしょうか? S:職業はアレンジャーなんで。生活の軸ですか?曲書こうと思ってても、バタバタ忙しいから、そのアレンジの仕事が先に来ちゃうから、それが軸になっちゃうんですかね?で、道楽でライブ活動をするという。アレンジする時は絶対お酒飲まないですけど、ライブやる時は必ず飲んでるとか。自分の中で仕事の音楽と趣味のとを、結構切り分けてやってる部分はあるかもしれない。 T:スケジュールは、自分でやられているんですか? S:基本的には。管理してくれてるところもあるんで、新しいお仕事はそこに問い合わせがいって、出来る出来ないとか予算の話とかはしてもらうんですけど。 T:今後の予定されている活動は? S:(2003年)12月末は「斉藤ネコカルテット忘年会ライブ」っていうのがありまして、忘年会ライブは皆様よく忘年会ライブっていうと、そういうタイトルのライブかと思うんですが、違います!私たちの忘年会ライブっていうのは、夕方に入って軽くリハをして、6時から忘年会をする。そのまま8時ちょっとにステージになだれ込む。もう出来上がってます。ステージでも延々と飲む。そこにいろんなお客様が登場して、忘年会をお見せするライブ。忘年会ライブだと思って聞きにきちゃいけない。人んちの忘年会を見てるという状態を作っているライブなんですけれども。今年も7,8組、登場するみたいで。 T:お客さんはそこに「飲み」に来る? S:はい。 T:忘年会の席の横の席で演奏してる感じになるんですか? S:一応私たちステージにいますが、ステージにお酒があって。もうお客さんとゲストは客席にいて、ぱーっと飲んで。不思議なもので、ステージが飲んでると、お客さんも飲んじゃうんですよね。「なんだ、お前らが飲んでやってんならこっちものんじゃうか」って言って。皆様もとってもたくさん飲んで頂いて、ひどい事に1時くらいまでいたりして。そんなのをやったりしております。 T:何年くらいやっているんですか? S:まぁ5年くらいはやってるんじゃないですかね?ネコカルもずっと続いてると、それだけ見りゃいいやって言って、その時だけこう毎年来るって方もいて楽しいですけど、ぐったりと。だんだん年なんで。 T:忘年会ライブをやって年が明けていくって感じですか? S:そうですね。年の締め括りは。だんだんオールナイトのなんか大晦日は、体力的にきついって事になってくるから、じゃあ30日で終わりっていう。 T:2004年にやりたい活動は? S:既にやんなきゃいけないアルバムはいくつかあるんですが、さっきも申しましたように、貯金ができなければアルバムは作れませんので、皆さん宜しくお願いします(笑)。2004年もその合奏団が1月に早稲田校内でセミナーとライブをやったりっていうのがあったり。単発の仕事はそれぞれ先のスケジュールなんで入ったりっていうのはありますが、今は覚えてないんですけども。何か宿題はいっぱいあるんですけども、さぼってばっかりで。でも、やるって決めてるアルバムは3,4本並行してるんですが、ちょっとでも実現できていければいいなって。政治家よりはちょっと実現度が早いかなっていう感じでね。 T:momentで作らせていただいたDVDの、先日の打ち上げで。メンバー全員で見て。何か感想みたいなものありましたか? S:面白かった!いきなりのライブセッションを、映像で記録するだけだって油断してたら「DVDにして出しましょう」って言うんだもん。で、良く出来てましたよね。すごい。普通のライブ映像と違って、それぞれの抜きの絵がパシパシパシパシってきて、何かミュージシャンにとっては「拷問」のような。「あっお前ここでこんな顔してる」とか「ここ決めがあるのにお前休んでるじゃないか」っていうような編集になってて、私なんか結構休んでる時にアップになってたりして(笑)。あの編集がちょっと異様で面白かったですね。アートしてるんですかね、あれは?普通は弾いてる人が映りますよね。 T:そうですね。普通は歌ったりしてる人が7割ぐらいなんですけど、割と全員、均等に見せるように編集してます。 S:でも井上富雄さんって方も、今年知り合った方なんですけど、ネコかるにも来てくれて、その次の日もライブで。本当にうちのやってる音楽のジャンルってミューミュージックのようなニューミュージックで、ロックに弦を入れるとか、真ん中がないんですよね。芸能ものが。そういうところにいるロックミュージシャンって事じゃないですか。いわゆる「王道ロック」っていうのをやってる方たちと共演するのは楽しいし、本当楽しいライブ。でもね、相当出来あがってましたね。失礼致しました。どうせ、飲んでやってますからね。すいません。でも、本当に楽しんでるんですよ。あれは。ぜひ売りましょうよ! T:そうですね。 S:是非!みなさんお買い求めください!(笑)。 T:是非!本日は楽しいお話ありがとうございました。 -end- 齋藤ネコオフィシャルホームページ→ http://saito-neko.com |
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