あらきゆうこ / Yuko Araki


「スガシカオ」「くるり」「CORNELIUS」等や「smorgas」のドラムスを経て、自らのユニットの「mi-gu」で、2003年4月に1stアルバムを発表し、現在の日本ロックシーンに欠かせない存在である、ドラマー、あらきゆうこさんの過去から現在までを辿ったロングインタビューです。

(2003年11月28日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)




あらきゆうこ  (Yuko Araki)



1高校時代にドラムに目覚め、卒業後、ドラムを本格的に学ぶために上京し、音楽専門学校でレッスンを開始。アマチュア・バンド時代から、彼女のドラミングは評判を呼び、96年頃、プロのミュージシャンとして活動をはじめる。98年、スガ シカオのバンド「The Family Sugar」に参加したことをきっかけに、これまでに、cornelius、杏子などのライヴや、くるり、COIL、Grapevineなどのレコーディング参加。とくにcorneliusとの縁は深く、数度にわたるワールド・ツアーにも参加。そのたびに各地のオーディエンス、ジャーナリストから大喝采を浴びる。なお、昨年のワールド・ツアー中にあらきゆうこと出会い、その才能に惚れこんだのが、イギリスのOchreRecords主宰のデイヴ・タルボット氏。彼の尽力もあり、あらきゆうこのソロ・プロジェクト『migu』はヨーロッパ全域でリリース。あらきゆうこがその音楽的感性をよりパーソナルに、より深く追求しているのが、「mi-gu」だ。03年4月、プロデューサー/エンジニアに清水ひろたか氏を迎えて作り上げられたファースト・アルバム『migu』(Atsugua Records)は、彼女の音楽的ヴィジョンの大きさが実感できる一枚だ。エレクトロニカ、アンビエント、アブストラクト・ヒップホップ、ドラムンベースさまざまなエッセンスと自在に戯れながら、それらを統一感のあるサウンドスケープにまとめる力量は見事。とはいえ、いたずらに実験に走るわけではなく、仕上がりはあくまでも愛らしくポップなところがいい。小山田圭吾や名越由貴夫など、彼女と交流のあるアーティストもゲストで参加し、“音による会話”を思わせるアットホームな空間を作り出していた。今年の春には、アルバムの発売記念イベントでREI HARAKAMI、Museum of Plate、ASA-CHANG&巡礼らとの共演を果たしたmigu。2003年8月のAugusta Camp 2003で、大観衆を前に美しい音響パフォーマンスを披露してくれたのも記憶に新しい。

あたしの場合、人生設計じゃないんですけど「ここでこうして、ここでこうする」みたいなものを決めないで「その時、こうしたいって思った事を、そこでその場でやる」っていうのが、割と自分に合ってると思ってて、それで今までも成功してきてるから、その直感というか、今やりたい事で進めていきたいんで。どうなるかわかんないんですけど、でも多分まだまだこれから、今、縁がなかった人たちともきっと接点が出てくるだろうし、それに伴って色んな事が進展していくといいなって。

TERA(以下 T):それでは宜しくお願いします。まず生まれと場所から教えて下さい。

あらきゆうこ(以下 A):昭和49年2月21日生まれで、生まれたのは対馬っていう、長崎県なんですけど博多の上にある小さい島なんです。島の出です。

T:対馬は、どんな島なんですか?

A:みんなよく言うのは「ツシマヤマネコがいるんでしょ?」っていう事と(笑)、あとは元寇(げんこう)があったっていう、それだけですね。

T:小さい頃は、対馬でどんな遊びをしていたんですか?

A:あ、違うんですよ。生まれたのがそこであるだけで、すぐに鳥取県境港市っていう、水木しげるの出生地なんですけど、そこに引っ越して、だから2歳から18歳までは鳥取県です。

T:なるほど。鳥取ではどんな子供だったんですか?

A:4歳ぐらいから足踏みオルガンを習ってて、小学校入ったらエレクトーンを習い始めて、高校まで続いたんですけど。

T:キッカケは何だったんですか?


A:お兄ちゃんが先に習ってたのを真似したんです。今となっては必然だったのかも知れないんですけど、その時はたまたまというか、お兄ちゃんがやってたから「ゆうこもやる!」みたいな感じだったんですけどね。

T:家にあったんですか?

A:なかったです。でもエレクトーンは、すぐ買いました。

T:わりと屋内で遊ぶほうだった?

A:お兄ちゃん子っていうか年子だったんですね。お兄ちゃんの友達たちと遊びたがってたんですよ。だから野球とか。よく友達のね、妹とか弟とかがなぜか一緒についてくる人っていませんでした?

T:(笑)。いました。

A:まさにそれでした(笑)。もうお兄ちゃんに「来るな〜」って言われてもずっとくっ付いてって。

T:いましたね。そういう友達(笑)。

A:いましたよね(笑)。まさにそれです、あたし。

T:自分より上の世代の遊びっていう感じだったんですか?


A:上の世代っていうか歳は1つしか離れてないので、いわゆる「男の遊び」っていうと聞こえが変ですけど、野球だったりテレビゲームだったりとか。ドラクエ1の時代だったので、まだコントローラーがゴムの時代(笑)。人形遊びとかは一切していないですね。

T:小学校の頃ですか?

A:うん。小学校ですね。

T:その頃に聴いてた音楽は?

A:全然ないんですよ。ただ、小学校5年生くらいの時に鼓笛隊に入ってたのを、最近思い出したんですよね。だから、その時にもう叩いてるんですよね、ドラムをね。マーチングで結構楽しくやってましたね。エレクトーンをやってたおかげで読譜力はあったんですね。ドラムってリズム譜だけじゃないですか。だから、何か「♪テッテケ テッテケ」やってましたね(笑)。

T:発表の場みたいなものはあったんですか?

A:マーチングだったので、フォーメーションというか、風車作ったりとか、そういうので柔道大会のオープニングアクトとかやってましたね。あ〜懐かしいです。

T:小学校高学年?

A:そうですね。高学年ですね。

T:中学校に入ると?

A:中学校は吹奏楽に入ってトロンボーンとユーホニュームをやってました。はい。ほんとはフルートがよかったんですけど、他の可愛い友達が「フルートがいい」って言ったんで「あっちの方が似合うな」って思って、「じゃあ、あたしいいです、トロンボーンで」って(笑)。

T:自分の楽器は持ってたんですか?

A:いや、持ってなかったです。学校のを借りてました。

T:演奏曲はクラッシックが多かったんですか?


A:エレクトーンで習ってた音楽っていうのが、実はビートルズのインストとかで。あたし、全くビートルズとか、洋楽聴いてなかったんですけど。「洋楽」っていうくくりは変なんですけど、先生が教えてくれるインストとしてのビートルズとか、インストとしてのカーペンターズとかを楽しく演奏している感じで、特に家に帰って聴くものとか、そういうものはなかったですね。元々はドラムを音楽としてとらえてないのかもしれないですね。単純に運動量があるから、ストレス発散にもなるし(笑)。結構体育会系的な感じでドラムを叩いているような気がしますね。

T:でも趣味というか、好きな事ではあるんですよね?

A:そうですね。単純に楽しい。うん。

T:他に中学生の時にやってた事ってあるんですか?


A:ん〜。何もやってないですよ。吹奏楽の日々でしたね。

T:それから高校では?

A:高校では、やっぱり吹奏楽って毎日練習しなきゃいけないじゃないですか。そ
の感じがどうにも出来なくて、吹奏楽には所属せずに帰宅部だったんですけど、でも何かに入れって言われてたので『タイプ部』っていうのに入って(笑)。

T:タイプ部?

A:何かタイプ部の先生に気に入られてたので、時々顔出すだけで「いい、いい」とか言われて(笑)。「は〜い、お疲れさまです!」みたいな。そんな感じで。

T:その『タイプ部』っていうのはどういう事をやるんですか?


A:あのね、ひたすら見本を見ながら、いかに誤字脱字がないように打てるか、みたいな。もうひたすら打つ、みたいな感じでやっていくんですけど(笑)。でもね、ほんとにたまにしか顔を出してなかったので、すでに最初の時点で出遅れている訳ですよ。もう最後の方はほとんど行ってなかったですね。そんな事をやりながら時々は吹奏楽のほうに借り出されて、みたいな事をやってましたね。

T:では、高校からは吹奏楽もやりつつという感じですか?

A:その辺からはバンドを組み始めたんです。まずね、中学3年の時に学校でドラムセットを買ったんですよ。その頃はあたしはトロンボーンだったんですけど。それでドラムを買ったからって事で、みんなで順番に叩いてみたんですよ。みんなドラムなんて始めてわからないから出来ないじゃないですか。それが何かあたし叩いた瞬間8ビートができたんですよ。「あれ?あたし向いてるんじゃないかな?」って思って。それで、エレクトーンの先生に「今度の発表会ではドラムを叩かせて欲しい!」って言ったんです。その時、地元に凄く上手なエレクトーンの男の子がいて。その子がエレクトーン、あたしがドラムで大会に出たら、優勝しちゃって。「ちょっとドラムいけちゃうんじゃないの?」なんて思って(笑)。それからドラムも習い始めて、その内にエレクトーンが高度になってきて、メロ譜からコードを付けて、アレンジを3分間でやらなきゃいけないとかになってきて、そこでぶちあたったんですよね。その反面ドラムをやってると単純に楽しいじゃないですか。思いっきり楽しい時期だったので。どんどんエレクトーンをやめてっちゃって、ドラムに移っていったって感じですね。

T:実際バンドを組んだりというのは?

A:うん。ドラムが叩けるっていう事を言いたかったがために高校1年の時にキーボードで誘われたバンドで「ドラムが叩きたい」って言ってやったのが始めてでした。それが浜省でした。浜省だったんです(笑)。

T:浜田省吾のコピー?

A:はい(笑)。高校の時はコピーバンドしかやってなかったので。浜省で始まって、だんだんドラムが叩けるっていうのを認知してもらえるようになって。それからはZIGGYのコピーをやったり、当時バンドブームだったのでUNICORNのコピーをやったり、人によってはCOBRA、パンクと言われるような音楽をやったり。色々とやってましたね。

T:色々なバンドを転々としてる感じだったんですか?

A:そうですね。割といくつかのバンドを組みながら、色々やってたっていう感じですね。

T:その頃はオリジナルはやってなかったんですか?

A:やってなかったですね。コピー、というかカバーでしたね。

T:自分のドラムスっていうのは、その頃は持ってたんですか?

A:そう。持ってなかったんですけど、うちの父親がね「そんな女の子がドラムなんて」って思ってたはずなのに、ある日誰かからドラムをもらってきてくれて。うち、田舎だったんで思いっきり叩いても苦情とか来ないじゃないですか。一部屋をドラムの部屋にして、思いっきり叩いてましたね。お兄ちゃんに「うるさい」とか「リズムがおかしい」とか言われてましたけどね(笑)。

T:ドラムが上手に叩けるようになって、将来とかの事を考えたりしましたか?

A:それが考えなかったんですよ。元々「エレクトーンの先生になるものだ」と思って生きてきたんですね、小学校とか中学校とか。それが壁にあたって、ドラムが楽しくなってドラムに変わっただけで、これから先どうしようなんて不安みたいなものはなくて「何とかなるかなぁ」って思ってた時に、高校を卒業して入る事になったヤマハ音楽院の夏期セミナーを「受けてみるか?」って。習ってた先生に紹介してもらって行ってみたら、受かったんですよね。「受かったんだったら行ってみるか」みたいな感じで。それは必然だった感じで、「縁」というか「流れ」に逆らいたくないんですね。そういうものを信じてるというか。先生がそこを紹介してくれて「受かって」「行く」のかな?って思っていて、それで上京してきた感じですね。

T:音楽をやっていて、都会に対しての憧れみたいなものは?

A:あったかもしれませんね。ブランド名とか一生懸命覚えたりしてましたから(笑)でもね、あたし達の所だと都会に出るっていうと「大阪」なんですよね。みんな実際大阪に出て行ってたので。東京は視野に入ってなかったですね。その時は。でも、こうやって縁があって出てきた訳なんですけどね。

T:大阪を越えて東京っていう感じですか?


A:はい。あのね、ブルートレインだったんですね、夜行の。もう乗った瞬間に「やっぱり行きたくない!帰りたい!」って。すでにホームシックだったですね。

T:最初、東京に出てきたのは、どの辺りですか?

A:日吉。川崎の方にヤマハ音楽院があったので、東京って言っても川崎に住んでましたね。5年間。なかなかそこからはずれる事が出来なくてずっと住んでたんですけど。

T:学院時代はどのような生活だったんですか?

A:学校から徒歩2分の所にアパートを借りていたので、あたしの生活は家と学校でしかないんですよ。どこか遠くで友達のライブがあるって言っても行かなかったりして。とにかく学校と家の往復だけっていう感じでしたね。江尻先生(※江尻憲和:ドラマー&マルチパーカッショニストとしてライブ、レコーディング、ミュージカル等多方面 で活躍)っていう、すごくいい先生だったんですね。教えるのにすごくいい先生で、卒業してから気付く事を最初にほのめかしておくんですよ。でもその時点では私達は理解できてない訳なんですよね。「何言ってるんだろう?わかんない、もっと説明してほしい」って思ってたりしたんですけど、卒業して何年かして、「あ!これ言ってたことだ」って気付くんですよね。ノリの事とかグルーブの事か散々聞かされていたので。いい学校でしたよ。あれ?こんな質問じゃなかったでしたっけ?(笑)。

T:皆、学校を卒業すると、どういう道に?

A:残念ながら何の保証もないんですよ。ただその中で気に入られた人はヤマハの仕事とかをするようになるっていう感じで。あたしは在学中に、パーカッションのペッカーさんという人と知り合う事ができて、その人が「女だけのラテンバンドを作りたい」という事があって、それに参加することになって、そこから始まったんですけど。

T:どういう編成だったんですか?

A:それは「10人だけの女の子のバンド」っていう文句で、CD-ROMデビューをしたんですよ。当時コンビニにCD-ROMを置き始めたばっかりの頃で、そこに並べるって事で売れるんじゃないかって言われたんですけど、売れるはずもなく、何かズドーンと落ちちゃったんですけど。そのバンドで原宿のクロコダイルでライブをやった時に、あたしの今の旦那(清水ひろたか氏)のデビュー前のバンドとなぜか対バンになったんですよ。ラテンと普通のいわゆるポップスが一緒ですよ。お客さんなんてバラバラじゃないですか。「よくこんなメニュー組んでくれちゃったなぁ」みたいな(笑)。それで、旦那があたしのビートを認めてくれて、それでそこから拾われて旦那、清水ひろたかのソロの初めてのマキシシングルをレコーディングする時に呼んでくれたんですけど、そこに森俊之さんが居て、その森俊之 さんっていうのはその後デビューするスガシカオのバンマスだったんですよ。そのスガシカオがデビューする時に電話をかけて来てくれて「ちょっとゆうこちゃん、やれへん?」って。「はい、あたしでいいなら頑張ります!」って言って、そこからがあたしの始まりっていう感じですね。

T:ではそのクロコダイルで出会った事からトントン拍子っていう感じなんですか?

A:(笑)。はい。そこから一気ですね。そこからそんなに間に「CORNELIUS」からお話があったり、今の事務所にも所属する事になったり、そこから動き出してますね。うん。

T:そのクロコダイルはいつ頃?

A:いつだろう?確かシカオちゃんが、ライブで「あらきゆうこ23歳!」ってメンバー紹介してくれたのをすごく覚えてて、それの多分2年くらい前だったような気がしますね。

T:旦那さまの清水さんのバンドっていうのは?

A:その時は「プラムス」っていうバンド名で、ちょっとオリジナルラブみたいな感じでした。それを聴いてて「パーカッション入れればいいのに」って思ってたんだけど。そしたら話しかけてきてくれて「すごいビート感が俺と合うと思うんだ」って言ってくれて「でも俺のところドラムいるからパーカッションでやらない?」とか言って。あたし全然パーカッションなんて叩いた所を見せた事もないのに、そうやって誘ってくれて。でも、学校の副科でパーカッションっていうのがあって。凄い好きだったからある程度は出来たのでそれに参加して、いつのまにかドラマーになった。みたいなそんな感じです。

T:なるほど。少し話しは戻りますけど、スガさんとのお仕事の次はどういう流れに?

A:「smorgas/スモーガス」ですね。その頃、清水ひろたかがソロとしてデビューして年越しライブに参加して、そこで初めてDSLも見るんですけど。その時に、いしだ壱成の「THE BIG BAND」とも対バンになっててね、そこのベースの人がビートを見てくれて「今度何かあったら一緒にやろうよ」って言ってくれて、それでちょっとたったら「俺の友達が今度ライブやるんだけど、ドラムとベース募集してるんだけど一緒にやらない?」って言われて行ったんですよ。それは1回きりのライブだったんですけど。それで下北沢Queに行ったら、そこにsmorgasのリーダー、アイニがDJ的なものを入れるってサンプラーとして来たんですよ。それであたしが叩いているのを見て「ちょっと俺の曲でも叩いて欲しい」って言われてsmorgasのデモテープをもらったんですね。で、テープを聴いたら凄いかっこよかったんですよね。「何これ!凄いかっこいいじゃん」って思って「ちょっとこういうのをやっておくと勉強になるかな」ぐらいな気持ちで最初は始まったんですけど、やってみるともう楽しくて。メンバーもどんどん面白い人が入ってきて最高のバンドでしたね、うん。まだオーガスタと契約する前で、シカオちゃんとsmorgasが同時期だったと思います。一気に動き出したって感じだったので、ほぼ同時期でしたね。うん。それでsmorgasから発展していって、「スパノバ」っていう、あたし今、凄い大好きなアーティストに出会って、そこでちょっとサポートさせてもらったり。どんどん一つのところから枝別れしていって、今に至るって感じなんですけどね。

T:それからは関わったアーティストを全部挙げると大変ですね。

A:何か脈絡がないようにみえて、どこかで繋がってるんですよね。あたしを誘ってくれる人って。どこかで繋がってて、何ていうか、いい流れで。突然呼ばれる事はないですし、あたし自身すべての音楽が出来るって思ってないんで、何の脈絡もない所から、たまに誘われるっていう事もあるんですけど、そういうものには残念ながら縁を感じないというか「あたしじゃないのかなぁ」って思ったりもするので。

T:なるほど。「CORNELIUS」との出会いは、どんな感じだったんですか?

A:CORNELIUSは、元々は清水ひろたかが所属していた「Bridge」っていうバンドがあるんですけど、そのBridgeのプロデュースを小山田圭吾さんがやったアルバムが1枚あって。うちの旦那と小山田さんが知り合いだったんですよ。清水ひろたかのソロとCORNELIUSのエンジニアが、高山さんっていう同じ方なんですけど、その高山さんが「CORNELIUSが女性ドラマーを探してる」っていう事で紹介してくれたみたいで、なおかつ事務所の社長さんが、スガシカオのライブを見てくれたみたいで、それでスタジオに呼ばれたんですね。実質CORNELIUSのオーディションっていう形になったんですけど。それで一曲叩いて、その後小山田さんに「ライブやらない?」って言われて。「CORNELIUSのライブですか?やります!」って。そしたら「今決まってるのがヨーロッパと、アメリカと」って。それで「ちょっと待ってください。海外ですか?あたしをそれに誘ってくれてるんですか?」って。あたしパスポートも使った事なかったんで(笑)。それでね、決まったんだけど、始まるまで凄い不安で、しかもヨーロッパツアーが始まる1週間前からリハーサルが始まるっていう、それまで何の音沙汰もないんですよ。前に武道館でやったライブビデオを送ってもらってたんで、それを見ながら譜面とって、一生懸命、曲を覚えて、アムスに発つ1週間前にメンバーみんなと会って「ほんとにあたしは行くのかな?一緒にやるのかな?」っていう感じで始まって、そしたら最初にリハやったあとに小山田さんが「大丈夫な気がしてきた」みたいな事を言ってくれたので、あたしも頑張れる気がして。それからほんとに1週間後にアムスに行きましたね。

T:どのくらいの期間行ってたんですか?

A:えっとですね、1回が3週間から1ヶ月ですね。帰ってきたらもう次のアメリカツアーも2ヶ月後とかに決まってたりして。「もう、どうなっちゃうんだろう」っていう感じですよね(笑)。

T:それから、どういう流れになるんですか?

A:あのね、不思議な縁でイギリスのレーベルの人と知り合いになったんですね。ツアー中にね、外国って何か不思議なんですけど、レーベルの社長さんが普通に機材とかを積んでるトラックの運転手とかやってたりしたんですね。レーベルの社長さんがリハからずっと、あたしが叩いてるのを見てたんですよ。それである日、夜にみんなで何となくバーで話す事になった時に、あたし、英語そんなに出来ないんで、辿々しくしゃべってたんだけど。その頃CORNELIUSの他のメンバーってみんな各々ソロで活動してるんですよね。あたし一人だけサポートで頑張ってるっていう感じだったんですけど、そのイギリスのレーベルの社長であるデイヴ(OchreRecords:デイヴ・タルボット氏)に「ゆうこは他に何かやってないの?」って言われたんですけど、その頃、smorgasを休止中だったんですけどね。それを英語でどうやって上手に伝えたらいいかわからなくて。その時「ソロで作りたいな」っていう感覚もちょっとあったりして、その方が表現も楽だなって思って「ソロをメイキング中」みたいな事を言ったんですよね(笑)。そしたらデイヴが「どこで出すの?」って言うから、ちょっと色々考えて「出すのは日本で、インディーです」って。なんて全然話なんてなかったんですけど、そんな話を勝手にしてたんですよね。そしたらニコニコしながら、こっちを見てるんですよ。その時、ハッとね「あ!目の前にレーベルの社長!」って思って。そしたらデイヴが、両手広げていっぱいくらいの量のCDをドサッて持ってきて「これはね、ゆうこが出す予定のレーベルの他のアーティストのCDだよ」って。「え〜!嘘でしょ?」みたいな。あらためて日本に帰ってきて、英語のわかる人にその時の会話を聞いてもらったら「出そうよ、出そうよ。いつ出す?来年早々にでも出そう」みたいな事になって。もう信じられなくて。でも、せっかく作るんだったら日本でも出したいって思って。結局、ウソをついてた事になるじゃないですか、日本で出すって言った事を。それで日本の事務所の社長に「日本でも出したい」って話しをして。そんな流れで今回のリリースに繋がったんです(笑)。

T:レコーディングは、どういう形で?

A:レコーディングは、ほぼ、うちで録ったんですけど。うちでね、清水が最近すごくマニアックに色んな事やってて、エンジニアもできるので、2人で成り立ったんですよね。他の人を入れなくてもほぼ2人で出来たんですよね。リハスタにドラムだけレコーディングしに行って、それを持ち帰って、家で音を聴いてて、「あ、このドラムにこの音を乗せたい」っていう閃きを全部入れていったっていう感じで。それを最終的に、清水が削ぎ落としていって、ちょっと足してっていう形で。それでその時に、あたしが周りで凄く大切にしていた名越ゆきおとか、この話をする時にはかかせない小山田圭吾さんにも「ぜひ参加して欲しい」って思ってて、ある意味、集大成というか今のあたしを全部表現したかったんで、そこに参加してもらって。もともとデモの段階で小山田さんに聴いてもらってたんですよ。そしたら「すごく良かったよ」って言ってくれて。何かそれ聞いて、自信が持ててどんどん曲が作れたから、そういう事もあったから絶対に参加してもらいたかったので、もうね、ちゃんと夫婦で出向いて「あの先生。なんとか参加してもらえないですかね」って。そしたら「いいよ、いいよ」って簡単にOKしてくれたんですけど。もうほんとにありがたいなって思って、それで1曲「Train run」っていう曲をやってもらったんですけど。ほんと、いい縁だと思っています。

T:『migu』はユニットになるんですか?

A:『migu』=あらきゆうこ、だったんですけど、ユニットみたいなもんですよね。Every Little Thingみたいな(笑)。一人後ろにまわったちゃった、みたいなね。清水とあたしで『migu』っていう感じです。はい。

T:『migu』のネーミングはどこから来てるんですか?


A:もともと落書きをしていた時に『migu』っていうキャラを生んだんですよ。何かグミぽいから『migu』って名付けて大事にしてたんですよね。「何かこれでサンリオから話こないかなぁ。キティちゃんみたいな存在にならないかなぁ」(笑)なんて思ってたんですけど。そうやってあたためている内に、ソロの話になって、もうその時に「絶対ジャケットはmiguでいく!」って思ってて。その時に名前も『migu』にしよう、みたいな感じで。うん。そうなんです(笑)。

T:『migu』アルバムの満足度はどうですか?


A:今はもう、その時点ではないんですけど「次にこうしたい」っていうのはあるんですけど、あの時にできることは全てやっているので、もうすごく可愛いです。自分の子供みたいなものですね。すごく満足しています。ただ、次にやりたい事は生まれてるんですけど、あの時点で出来たものとしては、もう「大好き!」っていう感じですね。

T:アルバムが出てから、ライブとかはあったんですか?

A:アルバムを出すにあたって『migu』のイベントをやりたいと思って、それも今のあたしを作ってくれた人たちを呼びたかったんですね。その頃、くるりのお手伝いもしてて、どんな形でも参加してもらいたくて、DJとして来てもらったり、そのくるりのお手伝いをした事によって知り合うことのできたレイハラカミさん、ほんと「凄くかっこいい」って思ったんですよね、音楽聴いた時に。「うわぁ、絶対に仲良くなりたい」って凄く思ってて。それでCD化する前にMDで「まだ全然途中なんですけど、ぜひ今後仲良くしてもらいたいんで、これ聴いてください」って渡して、その後電話して「あの。イベント出てください」って(笑)。京都の方なんですけど、「今、忙しい時期だけど京都だけだったら出てもいいよ!」って言ってくれて。結構豪華なイベントになりました。

T:それはどこで?

A:京都メトロと、青山CAYの2ヵ所です。

T:第2弾は考えているんですか?

A:そうですね。ただ、全てを仕切ることは大変だというのが良くわかって、結構気合いがいるというか、でも、定期的にやりたいなとは思ってるんですけど、『migu』としての活動も、ドラマーとしてのあらきゆうこの活動ありきのものなので、優先順位は自分なりにちょっと考えてて、『migu』のイベントをやるのも、もうちょっと先になっちゃうんですけど、また絶対にやりたいし、その時は、その時の時点で、一緒に新たに楽しみたいという人たちをどんどん呼んで、またやりたいと思っています。T:今年、比重が大きかった活動は何ですか?
A:今年?『migu』の他にはね、今年はくるみちゃんとかやってたかな?うん。結構パワーのある女の子で。例えばあたしとしては、「後ろでそっとやってあげる」っていう気持ちの人と「この人は戦いを挑まなきゃダメだ"っていう人がいるんですけど、くるみちゃんは後者で。こっちが戦いを挑んでいかないと、その人の、あたしの考える100%がでないというか、なので戦いを挑んでいく感じで演奏できた、いい子です(笑)。でも、そういう意味では一番パンチがあったのは、やっぱりsmorgasだったんですけど。

T:今、smorgasは?

A:辞めました。あたしはやっぱり自分を伸ばしたいから。一つのバンドで伸びるタイプじゃないんですよ。一つのバンドで集中してやるのはもちろんなんですけど、そこで得たものを別のところに持っていって、更にそこが上がっていって、更にそれをまた別のところに持っていって、どんどん成長していくような形が、今自分では一番ベストだと思ってるんですね。そうなると、smorgasの活動になると他が出来なくなっちゃってきたというか。後はあたしが休んでいた間に入ったサポートドラムの智恵子ちゃんっていう女の子がいるんだけど、その子も結構パンチがある子で、かっこいいんですよね。あたしが休んでいる間に、割とロックな感じでガッツリやってたんで「世代交代かなぁ」みたいな感じとか。ただ、やっぱりあたし的にはsmorgasでやることはすっごい魅力的だったんで、結構、辞めるのは悲しかったというか、そんな簡単に「じゃぁね!」みたいな形ではなかったんですけど、でもみんなでちゃんと話し合って。うん。「お互いにベストな感じだったらいいね」っていう感じで。「でも辞めても俺らは伸びるからね」って。「あたしもあたしで頑張るから」って。そんな感じです。でも機会があったら呼んでくれてツインドラムとかもやりたいですけどね。でもまだもうちょっと時間がかかると思いますけどね。まだそういう時期じゃないっていうか。うん。

T:今後はどういう風な活動を?

A:『migu』はもちろん続けていくんですけど、縁のある人たちともドラムとして一緒にやっていきたいし、今お休みしてる「ash-ray(アシュレイ)」っていうバンドがあって、それは清水と、ギターの名越ゆきおと3人で組んでるバンドなんですけど、そっちもやっていきたいなと思ってて。ただ、あたしの場合、人生設計じゃないんですけど「ここでこうして、ここでこうする」みたいなものを決めないで「その時、こうしたいって思った事を、そこでその場でやる」っていうのが、割と自分に合ってると思ってて、それで今までも成功してきてるから、その直感というか、今やりたい事で進めていきたいんで。どうなるかわかんないんですけど、でも多分まだまだこれから、今、縁がなかった人たちともきっと接点が出てくるだろうし、それに伴っていろんな事が進展していくといいなって思ってて、そうしたらまた新しい形の、もしかしたらバンドを組むかもしれないし、一人のアーティストをサポートしていく事になるかもしれないし、何かそれはあたし自身わからないから、楽しみにしてるっていうか、出会いを求めてる感じですね。

T:あらきさんのターニングポイントは?

A:あったかな?わかんない(笑)。ごめんなさい。全部自然に流れてる気がしますね。全ては出会いがきっかけだと思ってるんですけど、それがターニングポイントだとは思ってないですね。忘れてるだけかもしれないですけどね(笑)。全部自然の流れだと思っています。

T:なるほど。音楽以外で何かやりたい事は?

A:えっと(笑)、2つあるんですけど。『migu』のキャラでいろいろ。ニットだったりTシャツだったり色々作ってるんですよ。それで、アーティストとしての『migu』ではなくて、キャラとしての「migu」をみんなに広めたいんですよね。キティちゃんくらいに愛されたいんですよね(笑)。「miguだ!」って小さい子とかに言ってほしい。「そうだよ、miguだよ」みたいな感じになりたいですよね。
もう一つは、化粧品が大好きなんですよ。だから、なんか化粧品に携わる仕事というか。あたし、化粧品を作ってるんですね。化粧品っていうか化粧水なんですけど。あたし自身が敏感肌だってこともあるんですけど「どんな化粧水を使っても肌が荒れて全然ダメじゃん」って人にも、みんなに使ってもらえるようなものを作りたいんです。実際ね、何人かの人に作ってるんですけど、それぞれの人の状態を見てね、そんな調合方法はそんなに変えないんですけどね。でも結構いい感じですよ。今まで、evian水しか使えなかったっていう人でも使える化粧水なんですよ。いいでしょ(笑)。

T:オリジナルブレンド?

A:そうなんですけど、それもなんか感覚でやってるんで、商品化となるとマニュアルを作らなきゃいけないじゃないですか。そうなると大変なので、口コミで、肌が荒れて困ってる人にあげたいっていうか、そんな感じです。

T:名前は考えてあるんですか?

A:え〜(笑)。今度考えておきます。

T:(笑)。本日は素敵な話をありがとうございました。

-end-


あらきゆうこさんのインフォメーションは、
オフィシャルサイトHP「ArakiYuko Official web site」
http://office-augusta.com/araki/
清水ひろたかさんのHP「GOLDEN MIC STUDIO」の「ash-ray」ページまで。
http://www2.odn.ne.jp/~cbn42570/








【mi-gu】





「migu」
2003.4.16/ATS-003
アナログ盤 2003.10.1/ATS-002R

























































































 

 


【Discography】


「主な参加作品」



「FAMILY」
スガシカオ
1998.6.24/KTCR1480




「Hiromix '99」
Hiromix
1999.5.8/PSCR-5753




「ハムスター」
Chocolate
1999.8.21/ESCB-2020




「不敗の恋人」
ビビアン・スー
2000.3.23/BVCR-11018




「Eject」
オセロケッツ
2001.9.5/SRCL-5116


 


「君ヲ想フ」
元ちとせ
2002.5.22/ESCL-2307




「夜明けまえ」
CHARA
2003.3.19/ESCL-2394




「EXTENSION」
ISSA
2003.5.21/AVCT-10127




「いくつもの川を越えて生まれた言葉たち」
森山直太朗
2003.6.18/[限定盤] UPCH-9060
2003.6.18/ [通常盤] UPCH-1271




「SUMMER of LOVE/ALL OVER AGAIN 」
福耳
2003.7.23/AUCK-19603




「HOW TO GO 」
くるり
2003.9.17/VICL-35569




「OUTCAST B-SIDES+RARITIES」
GRAPEVINE
2003.9.18/ PCCA-01937

 

 

 











































































【smorgas】




「INTERACTIVA 」
smorgas
2001.9.19/FLCF-3893
















































































Message Movie

『あらきさんにとってドラムとは?』


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