『BABY BLUE』を気に入ってくれてた人たちは、『BABY BLUE』みたいなものを聴いて喜ぶかといったら、僕は喜ばないような気がするのね。聴いた時は、昔の銀次さんっぽくてと思うかもしれないけど、やっぱりこっちからきっちり突きつけていけるものをね、歌詞とかね。だから「ココナツ・バンク」を出して余計にそう思ったんですね。ココナツは、本当に僕のサウンド志向だったりするようなもの、ある種テーマパークみたいなものですよね。僕がつくった「テーマパークにようこそ」って感じで、中に入っていくと面白いトロピカルレイルロードが走ってたり。
TERA(以下:T):前回のインタビュー、1982年頃の続きから、お話を聞かせて下さい。
伊藤(以下:I):はい。わかりました。
T:まず、1982年4月の『BABY BLUE』というソロアルバムですけれども、このアルバムをリリースされたいきさつを教えてください?
I:きっかけは、沢田研二さんのアレンジをやってた時に、『P.S.
I LOVE YOU』『ストリッパー』と2枚やったんですけど、ちょうど『ストリッパー』は、ロンドンでレコーディングするって決まって、ロカビリーとかそういったレアな感じの音楽をやろうという事になってたんです。沢田さんもなるべくメンバーと一緒に、同時に歌をとりたいという風な事だったんですが、ちょうど『魔界転生』の撮影が入ってて、東京でのリハーサルに、沢田さんが来れなかった。で、こちらでリハーサルしたテープを、京都の太秦まで送って、沢田さんがそれを聞いて、それでロンドンで歌うという事になったのね。僕が沢田さんのかわりに仮歌を歌ってたんですけども、それを聴いた沢田さんのプロデューサーになった木崎さんという人が、沢田さんに曲を書かせてくれたりしてたし、それと同じく、松原みきさんのプロデューサーもやってたんですけど、その木崎さんのプロデュースやっていたアルバムで、僕も1曲『キューピット』っていう曲を書かせてもらったりもしてて。何か、僕のそういうポップのセンスみたいなのをちょっと気に入ってくれてたのがあって。『ストリッパー』の年に『ルビーの指輪』で寺尾聡さんがすごく注目されて。ちょっとソフトな感じのボーカルがいい。で、僕の声がそういう声してるから「今の時期には非常にいいんじゃないか」って言ってくれて、それで「ちょっとレコード会社を探してみるよ」って、木崎さんが探してくれたの。それでポリスターレコードが手を挙げてくれて。1977年にソロを出してから、5年目ぐらいで、僕としても、もう1回ソロ出せるとは思ってなかったんですが、ポリスターでやるという事になった。それがきっかけですね。
T:それで、『BABY BLUE』製作のスタートは、どんな思いで、どうゆう感じで作り始めたのですか?
I:1977年に『デッドリードライブ』を出した時っていうのは、76年に『ナイアガラトライアングルVo.1』が出て、翌年、ソロになった訳ですが、時期的に僕の中で、大阪から東京に出てきて、いろいろカルチャーショックがあったような時期だったんで、「自分の音楽として何を押し出していけばいいか」っていうところがはっきり決まってなかったり、ギタリストっていう側面が、まだ強い時期だったからね、1977年は。だから、アルバムの中にギタリスト的な側面とボーカリスト的な側面がない交ぜになってて、「ちょっと自分としては、はっきりしないアルバムだな」っていう気持ちもあった訳ですよね。それで「もう1回出せるんだったら、そこら辺をきっちりスタートラインからどんなものを作ろうっていう事を、はっきり定めてつくっていきたいな」と思って。で、木崎さんといろいろミーティングとかして。あとちょうど僕が佐野元春のバンドでずっとギター弾いて、佐野君のアルバムとかを一緒に作ったりしてましたから、世の中がちょうど80年代の頭、79年から80年ぐらいにかけて、60年代の音楽を80年代型でリメイクするようなムーブメントが起こってた。僕とすれば、60年代の音楽っていうのは、自分がちょうど思春期だった頃の音楽で、一番よく聴いた音楽なので。例えばエルビス・コステロとかああいう音楽を聞いても、元の音楽とつながって聞こえてくる訳ですよね。じゃあ、何かそういうものをつくってみようかなと思って。何ていうか70年代にあったようなフュージョンとかああいう音楽じゃなくて、自分の中にある60'sのメロディみたいなものとか、モータウンとかビートルズとかストーンズとか、バーズとか、キャロル・キングとか、そういったものをニック・ローとかがやっているようなああいう形でやると、時代にもマッチしてるものが出来るんじゃないかなと思ったんですね。サウンド的にはそういう風に考えて。どんなメッセージをアルバムの中に持っていけばいいんだろう?って。
T:なるほど。
I:で、前回アルバム作った時には、余り言葉のことを考えなかったのね。サウンドばっかり考えてて。言葉っていうのは、すごく大事なんだろうと思って。実際、佐野元春のバンドをやってた時、僕はもう30、31っていうぐらいの年齢だったんですよ。だけど、ツアーで全国を回ると、高校生の女の子、銀次ファンが出来てたりするんですよ。僕としては非常に不思議だったんですよね。お父さん、お母さんの年齢まではいかないかもしれないけれども、おじさん、おばさんぐらいの年齢の違いのある子たちが、そういう風に喜んでくれるっていうね。それで、ひょっとしたら僕たちっていうのは、実際の普通の世界に生きている30歳ぐらいの人とは違って見えるのかなとか思ったんですよ。それで、ちょうど80年に、70年代後半ぐらいから、『ポパイ』とかそういった雑誌がいろんなカルチャーを日本に伝えて、啓蒙してくれたせいもあって、例えば30ぐらいの人でもジーンズはいてたりとか、いわゆる大人だからっていうスクエアな人たちがだんだん減ってきて。大人でも確かに、ビートルズエイジだったりするような人たちも30に来てる訳で、「時代は変わってきたな」と思ったんですよ。だったら、ちゃんと社会生活も送ってているんだけれども、ちゃんとルールを守って、大人として生きてるんだけど、心の中にはそういった子供というか、少年の気持ちというか、そういった気持ちを無くさないで持っているような、そういうイメージはどうかな?と思って。ちょっとふざけて最初、木崎さんに僕が『中年バブルガム』みたいな、バブルガムミュージックはどうでしょう?って言ったら、木崎さんが「非常に面白い」って言ってくれて、『中年バブルガムミュージック』だと、キャッチコピーとしては余りにも自虐的過ぎるので、コピーライターの人にそのアイデアを言って、出てきたのが『はじめてなのに懐かしい』っていうのと、『アダルトキッズ』という言葉が出てきて、それで大体方針が決まって。それから曲をがんがん書くっていう事になりましたね。
T:当時、東京ディズニーランドが出来たりとか、スピルバーグの『E.T』であるとか、やっぱりそういう流れみたいなのがありましたよね。
I:そうですね。世界的にね。だから、何て言うんだろうな、こう、大人だからとか、ただまあ、それから20年ぐらいたった今思うのは、「おいおい」っていう大人はふえましたけどね。(笑)だから、子供の気持ちを持ってるのは、いいと思うんだけれども、それは、ひょっとしたらね、人と関わるところじゃないと思うんですよ。自分の心の中だと思う。例えば、社会に生きてて、色んな場所で人と接したりする。それも知らない人たちと接する訳だから、そういうところでは、ちゃんと大人の部分がないと、やっぱり変な世の中になっちゃいますよね。子供が騒いでても怒らないお母さんとかね、そういう風になっちゃうのはちょっと違うんですよね。
T:当時、久しぶりのアルバム『BABY BLUE』の仕上がった時のご自身の印象は?
I:とにかく必死でつくりましたからね。僕が曲を作って木崎さんに聞いていただいて、木崎さんからアドバイスをもらって。中には、なかなか出来なくて4小節ぐらいしかないような曲を、木崎さんからいろいろアイデアをもらって一生懸命作りましたね。あのアルバムほど、しっかりメロディを詰めてつくった作品は今までなかったんですよ。割とちゃちゃっと作っちゃったほうなんだけど、やっぱり木崎さんは、凄い気が入ってくれたので、本当にあきらめずに、あるメロディができてても、もっと強いメロディを作ろうとか。考えてみたら、ごまのはえで73年にデビューして、それから10年ぐらいですよね。結局、その間に僕はアルバムとしたら、『ナイアガラトライアングルVo.1』の3分の1と『デッドリー・ドライブ』しか出してないわけだよ。その間に蓄積されてたメロディとか、やりたかったものというのは積み残したものはいっぱいあったという事は、確かにあるんですよ。本当だったらもっと前の時期にやっておくべきだったものを、ずっと自分の体内に溜めてたっていうのがあって。それが一気に出てきたっていう。それと、『BABY
BLUE』を作る時に、既にレコード会社、プロデューサーの方で、年に2枚出そうと。それを2年ぐらい続けようというのがあったんですよ。というのは、1枚で1年だとレコード屋さんの「イ」の所に入れられてしまうと。2枚、3枚あれば、ちゃんと「伊藤銀次」っていう枠を作ってもらえるというアドバイスがあったんで、「出来るかな?」とか思ったけれども、「行くしかないな」と思って。シャカリキにやりましたね。
T:「2年4枚契約」みたいな感じなんですか?
I:契約は交わしてないんですよ。製作サイドとして、今まで裏方的な、つまりアレンジャーが片手間に自分の趣味で出してる風に取られないようにしようと。「本気でアーティストやってるんだ」っていう事をわからせる為には、それぐらいやらないと駄目じゃないかっていうのがあって。それは「確かにそうだな」と思ったんですよ。1年に1枚だったらね。あの頃はシングルだって、アルバムに先行して出るだけだったでしょう。今みたいに年に3枚、4枚出なかったからね、僕らの世界は。だから、そうするともう活動がぽんと出して1年間、空いちゃう訳ですから、その間、また編曲の仕事とかやってると、やっぱり本気でやってるんじゃないなと思われるから、だから、春、秋っていう風にして出そうと。
T:半年毎っていうのは、曲作りは大変じゃないですか?
I:でもね、曲は幾らでも作れるんですよ。つまり、さっき言ったように、僕はある意味でレコードのコレクターでもあるし、それをBGMとして聞いているだけではなく、曲がどうなってるかとか、コードがどうなってるかっていうのを覚えてますからね。だから、「この曲は何でいこう」、「こういうタイプの曲をつくってみよう」とかというので、アイデアだけは幾らでもあったんですよ。ただ、今まではそのアイデアをしっかり形にするっていうところまでやってなかったっていうのがあって。『デッドリードライブ』から4年か5年の間に編曲の仕事もやったり、色んな仕事をやってる事によって、アイデアを形にするっていう事が、実践できた事。プロフェッショナルな仕事としてやれた事。それから、沢田さんの仕事とかそういうのを通して学んだ事というかな。あと佐野君のプロデュースを手伝った事が大きいですよね。そういう風にして。アイデアはすごくありましたよね。だから、2枚出そうと言われた時にも「よーし!」っていう気持ちになりましたね。むしろ『デッドリードライブ』があんまり売れなくて、ずっと裏方的な事ばかりやってたから、「今度は攻撃的にいくしかないな」って、「ここしかないな」っていう気持ちで作りましたけどね。
T:その2年間の4枚のアルバム、それぞれ特徴、コンセプトというのは?
I:そうですね。『BABY BLUE』は非常にロマンチックなアルバムを作りたかったんですよね。『Conguraturation』とか『雨のステラ』とかは割と最初の方に出来た曲で。既に『SHADE
OF SUMMER』という曲は、曲だけもうあったんですよ。木崎さんが映画『胸騒ぎの放課後』っていう東映の映画の音楽プロデュースを引き受けて、僕が曲づくりをやるっていう仕事があって木崎さんから僕に振られてきたんですけど、それでその時に『SHADE
OF SUMMER』のメロディを聞かせて、「これすごく甘酸っぱくて、『胸騒ぎの放課後』の様な高校生が主人公のに、すごくいい」。実はメーンタイトルとして既に使ってたんですよね。木崎さんがすごく気に入ってて、「じゃあ、あれも入れようよ」っていう話になって。『BABY
BLUE』は、佐野元春と一緒にやってたりもしたんで、そういうビートポップみたいなのをやりたかったんだけど。木崎さんが僕に、「銀次さんっていうのはボーカルのタイプで言うと、スプリングシーンとかそういうタイプじゃない」と。「ニック・ロウだったり、もっと言ってしまえばポールサイモンみたいな人だから、ガーっと張って歌うというよりは、もっと甘い声を生かして、唇をうまく使ったような歌い方でつくったほうがいい」っていう風に言われてて。木崎さんっていうのは、それまで山下久美子とか沢田研二とか、数々の人たちを育ててきた人なので、そういう意味で信頼出来る人だったから、「今回は、ぶつくさ言わずに、彼のアドバイス、僕よりも多分僕の事を客観的に見てるだろうから、彼のアドバイスに従って、取りあえず作ってみよう」と思ったんですね。そうすると、やっぱりしっとりとした、非常にロマンチックで潤いのある、すごくいいアルバムになったんだけどね。
T:2枚目の『SUGAR BOY BLUES』は、どんなアルバムになっていますか?
I:2枚目の『SUGAR BOY BLUES』を作る時には、木崎さんも同じ事を考えてて、少しビートポップみたいなものも入れようと。前作を継承しているんだけど、ビートポップみたいなものを入れようという事で、それで『NIGHT
PRETENDERS』とか、ビートルズっぽい『恋のリーズン』とか、少しバンドっぽい曲も入れようっていう。ただ『BABY BLUE』に比べると、『BABY
BLUE』は、本当に最初にコンセプトをバシっと決めて、この世界を作ろうっていう事で作ったアルバムで、そういう意味では横尾さんのジャケットも含めて、詞の世界もサウンドも全部含めて1つ伊藤銀次ワールドみたいなのが出来た訳ですよね。やっぱり半年後でしたから、それの流れの中で作ったっていう感じはありますね。新たに何か新しいコンセプトを立てたということはないんですよ。やっぱり『アダルトキッズ第二弾』っていうような感じで。だから、ワンツーパンチっていう感じですよね。ただ僕は、性格的に同じものを作りたくないのでね。やっぱり、そういうテイストは持ってても、多面的に色んなネタっていうか、自分の中ではダブらないように。もう2枚目で煮詰まったら、同じ曲をやってるって言われるの嫌だからね。色んなところから1枚目とかぶらないように出してきたつもりなんですけどね。
T:シングルの『雨のステラ』『恋のリーズン』っていうのは、どういうチョイスなのですか?
I:シングルに関してはスタッフに選んでもらうんですよ。というのは、実際、ポリスターの宣伝会議でも、シングル選考で、もめたんですよ。結構、同じ傾向の音楽が入ってないでしょう。色んなのがある。だから、『BABY
BLUE』をシングルにっていう人もいる、『雨のステラ』の人もいる、『ONE WAY TICKET TO THE MOON』を推す人もいたりして、喧々諤々、いろいろ分かれたみたいなんですよ。その辺が僕の特徴でもあるんじゃないですかね。やっぱりサウンドプロデューサー的な要素でアルバムを作るっていうのと、色んなカラーの曲が入っているでしょう。そういうアルバムを作りたくなる人だから。だから、いい事なんですけど「全部シングルなんじゃないか?」って言われるのは嬉しいんだけど、まだあの時代、一本、太いもので、どんとやっていた人の方が、分かりやすかったのかな?という気はするよね。それは佐野元春でも同じですよね。あの頃は、受け入れる側に色んな音楽的な受け皿がなかった時代だから、何かはっきりカラーがあって1枚のアルバムを全部聞けちゃう方がね。でも、そういう風には、絶対迎合したくなかったから、僕らは。それは貫きましたけどね。
T:3枚目の『STARDUST SYMPHONEY '65-'83』は?
I:3枚目の『STARDUST SYMPHONEY '65-'83』の時は、『BABY BLUE』『SUGAR BOY BLUES』ともう自分の中のものは1回吐き出してきて、ちょうど1983年で、『E.T』やらああいうのがあると。『E.T』がすごく大人も見ている。東京ディズニーランドが出来て、大人も楽しんでると。そしたら、やっぱりそれをもっと押し出したような、だから、『BABY
BLUE』と『SUGAR BOY BLUES』があったら、その更にもっと濃いやつを1枚作ろうかな?っていうので作り始めたんですよ。
T:『STARDUST SYMPHONEY '65-'83』は当時、とてもユニークな印象でしたね。続く『WINTER
WONDERLAND』は?
I:そうですね。ただ、ロックンロールとかいうよりは、ポップロックみたいなものですよね。1枚目、2枚目出して、ファンの人たちが手紙をくれたりしてね、こんなに沢山の人が聴いてくれてるんだなっていうのがあって、だから、ちょっと自分の中で「この路線は絶対いいんだな」と思ってた、ちょっと確信がすごくありましたね、自分の中で。それで、続く『WINTER
WONDERLAND』っていうのは、実は『あの娘のビッグウエンズデー』とかの詞を書いてくれた康珍化さんが「大瀧さんが『ロングバケーション』で夏休みのアルバムを作ってるんだったら、銀ちゃんは冬休みのアルバムを作らない?」って言ってくれて、アイデアがあるんだと。バートバカラックの『雨に濡れても』って『RAIN
DROPS KEEP FALLIN ON MY HEAD』という曲があるから、あれをスキー場の歌にして、雪が空から降ってくるっていうイメージを持ってたんですよね。面白いなと思って。それで「じゃあ、冬休みのアルバムにしよう」と。これはリゾートで聞ける音楽だから、別にロックンロールで押す事もないし、何か本当に匿名性というか、伊藤銀次っていうよりは、環境になじむようなイメージじゃないかなっていろいろ考えて。だから『僕と彼女のショート・ストーリー』とかは、ナットキング・コールとか、また、イージーリスニングミュージックみたいなものも入れてみようかなって思って。当然、冬休みのアルバムだからクリスマスの曲も入れて。それは、どういう事かというと、『STARDUST
SYMPHONEY '65-'83』までの3枚を買ってくれて、コンサートに来てくれた皆さんに「ありがとう」という気持ちで、だから、番外編みたいな気持ちで、僕の中では作ったんですけどね。だから、あそこで一区切りなんですよ。
T:そうですよね。次の『BEAT CITY』になると、またがらっと変わって。
I:『BEAT CITY』の頃になってくると、日本の音楽シーンも変わってきて、ビートの強い音楽とかそういうものも、随分と浸透してきた時期でもあったんで、だから、もちろん佐野元春とかも評価されてる時期だったんで、『WINTER
WONDERLAND』で思いっきり保守的というと嫌な言い方になっちゃうんだけども、割とそういう安心して聴けるような音楽に振っちゃったんで、今度は反対にとんがってる部分を出してみようかな。優しい歌詞を歌うんだけど、やっぱり歌に甘ったるい優しさだけじゃない、何か視点みたいなもの、『彼女のミステイク』とかね、やっぱり何か自分自身で気づかずに人を傷つけたりとか、自分がよかれと思っている優しさに棘があってみたいな、そういう風な部分、表現としての新しさですかね。言葉がやっぱり、あの時期、色んな面白い歌が出てきたからね。例えば『そして僕は途方にくれる』だとか、やっぱりサウンド自体はそういう、僕のサウンドなんだろうけど、言葉に何かちょっと新しい表現方法みたいなものを導入できないかなというのと、やっぱりギタリスト銀次とか、ロックンロールやる銀次っていうのは、ここはちょっとやってみようということで、トライした作品です。
T:がらっと変わったんで、結構、ファンの間で戸惑った人とかもいたんじゃないですか?
I:そうですね。あのままずっと優しい伊藤銀次で行ってもよかったんだろうけど、何だろうな、やっぱりそれでいけないところが僕の部分だと思うんですよ。大瀧さんだって、やっぱり『ロングバケーション』出して、『イーチタイム』出してって、後、出さないですよね。あれは、やっぱりファンは常に角度を変えたぐらいのものを求めてるんだろうけど、やっぱり作る側っていうのは、それと同じものをずっと作り続けていくという事は、やっぱりなかなか出来ない事なんですよね。芸人としては失格ですけどね。(笑)
T:(笑)でも、当時びっくりしても、印象は強く残ってるものですから、割とファンの間でも印象は強く、一番残ってるんじゃないかな?という感じがしますね。
I:僕の場合『BABY BLUE』から最初の頃のアダルトキッズ的なやつと、それと『BEAT CITY』『PERSON TO PERSON』辺りのガツンとロックやってた時期と、それから東芝に行って、サイケっぽい事やった時期とで、ファンが拡散するんですよね。やっぱり『BABY
BLUE』の辺りから入って来た人達が一番多いんですけど、東芝時代から入った人もいるんですよね。だからね、面白いもんですよね、それは。通してずっとファンでいる人もいるけど、東芝時代が好きだって言う人もいたりね。
T:アルバム『PERSON TO PERSON』。これはどういうアルバムなのでしょうか?
I:これはね。『BEAT
CITY』でロックっぽくなって、それを更におし進めたようなアルバムですね。それと、音的にはその時代に合った、何て言うんだろうな、向こうのロックバンドとかが生ドラムじゃないリンドラムとか、そういったものを使ってたので、その響きみたいなのが非常に新鮮に感じたんで、生じゃなくて。だから『PERSON
TO PERSON』からその先っていうのは、何枚か打ち込みでつくった作品が多いですね。やっぱりその時に流行ってるものとか、その時の時代の感じっていうのに、自分もそうなっていないと、その頃は、すごく嫌だったんですよね。生が妙に古く感じた時代で。そこが単なる歌い手ではなくて、曲を作る時にサウンドを含めて考える人だったと思うんですよ、僕は。今聴くと、何か小さい事を気にしてたなと思うけどね。どっちでもいいじゃんって、今は思うけど、あの頃は本当にみんな「カラス族」でしたっけ、みんな黒い格好して。みんなテクノカットみたいのしてて、音楽界も生ドラムの音楽聞いてる人なんていなかったですもんね。僕は、トレーバー・ホーンとか、ああいうのすごいしびれてましたから。
T:『アート・オブ・ノイズ』とか?
I:そうそう。
T:タイトルの『PERSON TO PERSON』は?
I:これは「メッセージは1人から1人へ」っていう意味ですね。『PERSON TO PERSON』って、向こうで電話かける時にね「パーソン、トゥーパーソン!」っていうあれなんだけど、だから直接1人から1人へっていう事ですね。
T:やはりあれですか、割と『BEAT CITY』からコミュニケーションのテーマみたいなものが、僕の中では聴こえてきましたが。
I:反動なんですよね、結局。僕が『BABY BLUE』とかそういうので持ち出したメッセージというのは、少年の心だとか、素直さだとか持ってていいんだけれど、世の中で生きていくにはやっぱり厳しい。だから、自分の中の甘えみたいなものも、人と共有しようとしてしまう。個になるというか、個の中の問題というのはずっとありましたね。結構、明るく見えてもそんなに僕は明るくないんですよ、詞の世界は。非常にストイックな物の考え方をしていたから。だから、例えば、性善説と性悪説があるとしたら、僕は性悪説の人だから。人間って、もともとはそんなにいいもんじゃない。だけど、自分が努力して、自分を良くしていく、そういう考え方の人なんですよ。いわゆる「少年みたいに」というのは、えてして残酷だったり、迷惑なものですよ。僕たちが言ってる「少年っぽい」っていうのは、子供のようになるっていう事ではないんですよね。だから、非常にちょっと誤解された所があるんだけどね。特に、東芝時代に作った『NATURE
BOY』に入ってる『THIS LOVE』っていうのは、「ディスラブ〜誰にもこの〜は救えない〜」みたいな詞なんですよ。でも、すごくきつい事を言ってるように見えるんだけど、もうそれはしようがない事だっていうね。やっぱり「1人っていうものを、ちゃんと認識してなければ集団はあり得ない」っていう。群れるの大嫌いなんですよ、僕は。それがだから、僕の作品の中にはちらちらあると思うんですよ。
T:銀次さんの楽曲からは、どこか男の子1人部屋の中で考えてたり、悩んでたり、でも最後に頑張ろうっていう風景が見えてきます。
I:僕自身もかつて中学の頃、音楽を自分がやり始める前は、やっぱり非常に『グローインアップ』とか、『アメリカングラフティ』に出てくる、そういうちょっと女の子に積極的に声かけられないような少年だった頃もあるんですよね。だから、そういう人たちにメッセージを送る時に、ちょっとおこがましいけど、いつまでもため息ついてたりしてても、やっぱり何も起こらないし。だったら、例えば何か自分が出来る事、別にイケメンでなくても、とにかく何か自分が出来る事、生まれて来て、俺はこれが得意だとか、そういう事を見つけて欲しいと。でもね、それって、例えばよく音楽、ミュージシャンになるんだとかって田舎から出てきたりする人いるけどね、楽じゃないですよ。夢を追いかけるなんて事は、全然楽じゃない。それこそ、それだったら嫌でも予備校通って、ちゃんとした学校行った方がが確率高いと思うね。やっぱり、そういう夢を追いかけるっていう言葉が、甘い言葉だけれども、実はその裏には戦いがあったり、それもね、他の人との戦いだけじゃない。自分との戦いだから。だから、そういう「いっぱしの男になって欲しいな」とか、『夜を駆けぬけて』とかは、そういうのがあるんだと思うね、僕の中にね。今までそういう風に僕の事を好きだった男の子たちが「よーし」とかね、思ってくれる。もちろん、そんな歌ばっかりになっちゃったら、「銀次さん、どうしたんだろう」って思う、ロマンチックなものとか、例えば『フラワーズ・イン・ザ・レイン』みたいなね。癒しですよね、ある種の。何の意味もなく考えてもしようがない事を考えてしまう時に、ああいう歌を聞けば、何か知らないけど風に吹かれたようなね、気持ちになれるじゃないですか。そういう曲もやっぱり必要だからね。やっぱり難しいですよ、そういうのは。
T:それで、東芝時代の『Hyper/Hyper』。これはどういう感じなんですか?
I:『Hyper/Hyper』から3枚、ロンドンで作るんですけど、ちょうどその頃、『ティアーズ・フォーフィアーズ』とかを聴いてて、「すっごいいいな」と思ってて。デーブ・バスコムっていうプロデューサーがやってるんですけどね。イギリス音楽がすごく面白くてね。ジュリアン・コープのアルバムを聴いたんですよ『セントジュリアン』っていうアルバムを。その『セントジュリアン』があの時、一番好きな音だったんですよ。プロジューサーがね、フェリックス・ケンドールっていう僕よりも若いプロデューサーで、クレジットを見ると、ロンドンの「リビングストン・スタジオ」っていうスタジオで録ってるんですよ。
T:なるほど。
I:ちょうどその頃、イギリスでジュリアンコープとか、スティーリーダンの影響を受けた人たちが出てきてて、非常にバンドが、物すごく面白かったんですよ。「ああいうものを作ってみたいな」と思って。スタッフに「リビングストン・スタジオ」でやりたいって言って。あの頃ちょうど、バブル全盛だったから、円高で、東京でレコーディングするより海外の方が安かったんですよね。でも、向こうのミュージシャンを使ってやるっていうのはちょっとリスキーだったんで。日本で自分のバンドのミュージシャンで録って、歌入れとミックスだけ向こうでやるという形で。『Hyper/Hyper』は、僕が生まれて、沢田研二さんの『ストリッパー』で行って以来、2回目のロンドンだったんですよね。
T:2回目のロンドンは変わってましたか?
I:全然違いましたね。今、またロンドンは景気いいでしょう。2回目僕が行った頃の、88年、89年あたりは、本当に景気が悪くて。すごい沈んでましたね、街が。沢田さんで80年に行った時は、ちょうどニューロマンティクスとか、パンクロック、あの辺が盛り上がってたんで、街はきらびやかでね、うん。もちろん70年代のあの辺は引きずってたから、まだそんなには景気はよくなかったと思うんだけど、街は華やかでしたね。でも、2回目僕が行った頃はほんと地味でしたね。
T:まだ、ダイアナさんとかの前ですよね。
I:そうですね。
T:そうですよね。ヨーロッパもまだバラバラで。
I:ユーロまだ出来てないし。
T:そうですよね。それで、ロンドンでの作業は?
I:トニーハリスっていうエンジニアでやったんですけど、すごく良かったですよ。ちょうど僕があの頃、気に入ってた音の感じなんですよ。
T:何の問題もなくっていう感じですか?
I:ただね、今思えば、『Hyper/Hyper』『Dream Arabesque』それから、『山羊座の魂』。この3枚っていうのは、言ってしまえばXTCの『デュークス・オブ・ストラトスフィア』みたいなアルバムですよ。趣味性でつくっちゃったかなっていう感じで。いわゆる音楽とかをあんまり深く沢山知らない人達と共有するには、余りにもデータが重いアルバムですよね。サイケとか、ああいうの知ってると楽しめる。だから、まるっきりあの3枚はデュークスですよ。だから、系統が違うでしょう。あの3枚あたり好きな人と、『BABY
BLUE』好きな人とでは。
T:そうですね。変わりますね。
I:『BABY
BLUE』の頃は、本当にオールディーズとかそういうのも知らないし、洋楽そかもそんなに深く聞いてない人が入ってこれたアルバムだから。そういう意味では下敷きの広いアルバムだったと思うし、そういうものを作りたいって思って作ったし。佐野元春とかと僕の違いは、やっぱりその間もずっとサウンドプロデュースを続けてましたから、どうしてもそういう精神的な部分だけでアルバムを、ずっと1つ作っていけないところがあるのね。やっぱり「音楽的な道具をどう使うか」っていうところで考えちゃう。サウンドプロデュース的な部分が半分入ってくるから。みんなが求めてたものは、サウンドプロデューサーの僕ではなかったのかもしれないね。でも、いかんせん、僕の中にサウンドプロデューサーと歌を歌う人がいて、その辺でどうしても、バランスをとって作ってしまう事はあるんだよね。やっぱり木崎さんが居なくなったっていうのが大きいかもしれないね。木崎さんがそういう意味では、サウンドへ走り過ぎないように僕をプロデュースしてくれてたんだと思うね。やっぱり木崎さんは偉大なプロデューサーだと思う。
T:でもサウンドは変わっいっても、やっぱり銀次さん独特の言い回しは、伝わり方としては繰り返し聴こえて来ますね。
I:ちょっと諧謔的だったり、何かたとえ話になってても、基本的な考え方は変わっていないという事ですよ、世の中に対するね。考え方は変わってないんだけど、やっぱりサウンドがね、千変万化変わっていくじゃないですか。そこは普通、ソロシンガーには、なかなかあり得ないですよね。よっぽど変わっていかないとね。僕は、言葉とメロディと同じぐらいに、サウンドっていうのが自分の中で重要なんですよ。
T:90年代に入って、何か変わりましたか?
I:そうこうして、「イカ天」があって、『山羊座の魂』の頃にちょうど「イカ天」だったんですけど、たまたま軽い気持ちで出た番組が大ヒットして、それで世の中的に知られるようになったっていうのはあったんだけど、イカ天が終わった後ぐらいに、自分の事務所がつぶれたんですよ。それで、今のブルーワン・ミュージックに来る訳ですけど。それで、レコード会社もキューンソニーの方に移籍して。91年か92年ぐらいの事で。はっきり言って、東芝の後期の頃って、本当に自分の好きな事、趣味性のあるものを作ったでしょう。年齢も40過ぎてたし、やりたい事やったし、いいかなっていう感じもちょっとあったんですよ。でも、キューンソニーで1枚出してもらえるんで、その時のスタッフが、昔から僕のナイアガラの頃から、ずっと観ていてくれた人でね。だから、今回は原点に立ち戻って、バンドっぽい音楽とかじゃなくて、もう1回、詞と曲をしっかり作ってしっかり歌うっていう原点でつくってみませんかっていう話があって。それで、サウンドプロデュースをほかの人たちに、何人か複数の人たちに任せて、僕はとにかく詞と曲をしっかり作って歌を歌うっていう形にしようっていうんで、大村憲司さんとか、ダニー・ショガーに。
T:それが『LOVE PARADE』。
I:『LOVE PARADE』です。佐野君にもやってもらおうと。
T:製作期間はどのぐらいだったんですか?
I:そんなに長くなかったですね。東京レコーディングとロンドンレコーディングがあったんで、そんなに詰まってはいなかったと思うんだけど、僕はいつもアルバム製作期間は半年かけたりとか、全然しない人だから、ニック・ロウですからね「早どりの銀次」で。やっぱり嫌なんですよ、僕。時間かけていくとね、時間たってくると、もう古く感じたりしちゃうから、どんどんね。そうしないと10曲目録った時、もう1曲目録り直したくなっちゃうから。きりがないんですよね。
T:タイトルでもある『LOVE PARADE』というのは?
I:タイトル曲の『LOVE
PARADE』ですけどね、ドリームアカデミーの『ラブパレード』のタイトルがすごい好きだったんですよ。『LOVE PARADE』って、イメージ的には幸せなカップルたちが、ずーっと歩いてるような感じがあって、『山羊座の魂』は特別な場合で。やっぱり「アルバムの中に入ってる曲の中から、タイトルつけたいな」っていうのがあるんですよね。ちょうど『LOVE
PARADE』の前に曲を作ってる時に富士山の近く、ペンションがあって、そこでカンヅメになって作ってたんですよ。そこ、土曜日に演奏会、講演会があったりするんです。そこに有名な先生の講演会があって、食後にみんな泊まってる人で集まって講演を聞くんですよね。「今、家を買おうと思ってる人はやめなさい。何かやり残してる事があったら、すぐやるようにしなさい!」っていう話なんですよ。何かっていうと「小隕石が地球に向かってる!」と。「これを発表したらパニックになるから発表されていないけれども、自分の知っている、研究している人が間違いない!」と。「NASAもキャッチしている」と。「回避する確率もあるけれど、当たる確率も高い!」と。何月何日っていう日にちまで出てるんですよ。パニックでしたよね。「過去に恐竜が滅んだのは、恐竜が肥大化して重力に耐えられなくなって、食料がなくなったっていう説があるけれども、そうではない」と。「小隕石が地球に激突して、海面が上がって、一気に地球上の温度が上がって絶滅したんだ」と。「まだ人間の祖先なんかも背が小さくて、みんなどこかの石と石の間に入って助かった」と。「今回の場合、そういう風になったら、海面は上昇して多分人類は滅びるだろう」っていう話で。それでちょっとパニックで。こればっかりは回避できないですよね。そうなったらそうなった時だし。それが頭の中にあって、でもその日は何もなかったんですね。(笑)「よかった!」みたいな感じだったんですよ。でも、その一言があって、『LOVE
PARADE』の中の歌詞にそれはちょっと反映されてますね。
T:かなり恐い話ではありますが。
I:製作中にその日は過ぎちゃったから、なんだけど、つまりいずれはあるかも知れないっていう事ですよね。だけど、あるかも知れないけど、それをあるかも知れないものを恐れて生きていてもしようがない訳で、自分の力で何とか出来るものだったら、それはしてもいいけど、ならないもの、例えば人間はいつか死ぬっていうのと同じですよ。ああ、死にたくない、死にたくないって、秦の始皇帝みたいに不老長寿の薬を探しに配下のものをやるなんて事をしたってしようがない訳で。それは『BEAT
CITY』もそうなんですよ。多分ずっと僕の中にあるものだからね。「〜こんなすてきな朝に〜世界の終わりが近づいている〜君は信じられるかい〜」っていうね。「Beat
city あきらめない巻き込まないでくれ、終わったのは僕たちの世界じゃない」、そういうことで。これはね、カートボネガットの影響だと思うんですよ、僕は。カートボネガットの作品が本当に好きで、何て言うんですかね、しらけてる訳じゃないんだよね。だけど、あるがままのものをすべて認めてしまうっていうもので。多分、僕の中の考え方に共鳴するものがあるんだと思う。
T:いつ頃からですか?
I:僕が、はまったのは74、5、6年ですかね。『スラップスティック』とか、『プレイヤーピアノ』とか、『ネコのゆりかご』全部読みましたね。どれも同じようなものなんですけどね。似たようなものだし、キルゴアトラウドとか、共通した人物が出てくるんですけど、何かその感じがいいんですよね。別に絶望的でもないし、楽観的でもないっていう感じ。それがすごい好きでね。僕が自分で書く詞の中にはそういうものがあるかもしれないね。熱いようでいて、ばかみたいに熱いわけじゃないっていう。「バック・トゥー・ザ・'60、すべてが良かったわけじゃない。イントゥー・ジ・'80、すべてが悪くなるわけじゃない」っていう、こういう考え方ですよね。
T:その90年代、『LOVE PARADE』以降は?
I:それで、『LOVE
PARADE』を出すとき辺りから、もう僕は言いたい事も言ってきたし、作りたいものも作ってきたし、どういうものを作っていっていいのかな?っていう事ですよね。実際に42歳になってましたけど。42歳になった人が、ほかの同年代の人を見渡すと、みんな僕もそうだったけどね、あの輝きは消えないとか、いつまでも僕たちの何とかは続くとか、嘘じゃないですか。(笑)僕は嘘だと思ったの。というのは何故かというと、ランディーニューマンとか海外のかなり年齢のいってる人たちを見ると、非常にシビアな事を歌ってるんですよ。シビアな事を歌っていながらあったかい目線でね。ちゃんと年齢の歌を歌ってる訳ですよ。僕もそういう歌を歌いたい。『LOVE
PARADE』の中で『いつもそばにいるよ』っていう歌は、あれは息子に捧げた歌なんですよ。「〜いつも見守っている〜初めて恋をして、それにやぶれた時、落ち込むだろう〜」みたいな、それは自分の子供が将来そうなった時に、僕が生きてるかわからない。「生きてなくても、いつも俺はお前の事を見守ってるよ」という風な歌で作ったんですよね。少しその兆しは見えてるんですよ。つまり自分が父親であるっていう事を歌にしたりとかね。やってみたんだけど、かなり考えないと出来ないなと思ったの。今でもそうなんですよ。伊藤銀次でソロ出すんだったら、『BABY
BLUE』とか、ああいう音楽は合うかもしれないけど、例えば現実に僕のファンだった人も、みんな30代になったりして、かつては学生時代、聴いてたりするでしょう。でも実際に社会に出てみると、色んな複雑な状況に巻き込まれたり、中には結婚して子供もいるけど不倫してる人もいたりね。さっき言ったように僕は性悪説の人だから、性善説の概念で言ったら、不倫なんてとてもないですよね。だけど、なぜ不倫するのか。ひょっとしたら何も奥さんに不満も感じてなくても、別の女の人を好きになってしまう、それがやっぱり僕はリアルに感じるんですよ。人間ってそうなんだ。何かそういう事を歌にしたいんですよね。
T:なるほど。
I:そう大人の歌ですよね。僕は『BABY BLUE』を作った時っていうのは、別に子供達に喜んでもらいたくて作ったんじゃないんですよね。子供ににじり寄っていって、高校生に僕は物分かりのいいおじさんだよっていう風に作ったつもりはないんですよ。32歳の時に考えていた事なんだよね。32っていったら立派な大人だけど、そういう本を読んだり、映画を見たり、仕事以外の自分の心のよりどころみたいなものを、ちゃんとバランスとって生きていかなきゃいけないんじゃないかなっていう。あれから今度は現在に至れば20年経ってる訳ですよね。そうすると、もう50歳ですよ。50歳で甘っちょろい事を歌えないと思うんですよ。50年生きてきたっていう事が、ちゃんと歌詞の中にっていう風に僕は考えちゃうんですよね。サウンド志向でいた人間が、何でそんなに変わるんだっていうのはあるけどね。でも、それを受けとめたいなと思うんですね。それと、過去の自分の再生産をただやってても、もうある訳だし『BABY
BLUE』みたいなものを作ったところで、『BABY BLUE』は既に存在しているし、『BABY BLUE』を気に入ってくれてた人たちは、その『BABY
BLUE』みたいなものを聴いて喜ぶかといったら、僕は喜ばないような気がするのね。聴いた時は、昔の銀次さんっぽくてと思うかもしれないけど、やっぱりこっちからきっちり突きつけていけるものをね、歌詞とかね。だから「ココナツ・バンク」を出して余計にそう思ったんですね。ココナツは、本当に僕のサウンド志向だったりするようなもの、ある種テーマパークみたいなものですよね。僕がつくった「テーマパークにようこそ」って感じで、中に入っていくと面白いトロピカルレイルロードが走ってたり。ココナツを出して思ったのは、東芝時代にやってた『ロックスターの悲劇』っていうのは、ココナツ・バンクでやれば良かったなと。
T:その辺り、面白いお話ですね。
I:30年後に再結成しようとした時は、この曲もやっているんだけど、駒沢君はポップというより、ちょっと神がかったような音楽を作ってるから、ちょっと誘えないなっていうのと、当時、ライクーダーみたいなストライドギターをやりたかったんだけど、まだあまり自分で学習し切れてなかったのね。だから、そういう意味でライクーダー的な誰かを入れようという事で、駒沢君が入ってきたんですよね。今回は僕もスライドできるから、駒沢君を誘わないで、あと現役でやってるのは僕と裕だけだから、僕と裕がオリジナルメンバー中心になって、新しいメンバーを入れて、割と若いメンバーも入れようという事で、作られたのが再結成のココナツ・バンクだよね。
T:それで、どうゆう動きに?
I:そうこうしているうちに、はっぴいえんどの影響を受けたような人たちが随分出てきてると。「キリンジ」だとか、色々と。『ストレンジデイズ』の岩本晃一郎さんが、「はっぴいえんどブームだけども、若い人たちのはっぴいえんどフォロワーみたいな、そういうものからはっぴいえんどの事を知って、逆にはっぴいえんどの旧譜を手に入れていいなって思ってる若い子たちもいる」と。「だけど、はっぴいえんどを見る事は出来ない。生で見る事は出来ない。今、必要なのは、生で見れるそういう伝説のバンドですよ」って、岩本さんが。それで「ココナツ・バンクやりませんか?」って話だったんですよね。言われた時点では、僕はココナツ・バンクというのは、ずっと封印してたから、自分の頭の中で焦点が定まらなくて、「どうなのかな?」と思ったんですよね。今さら僕がココナツ・バンクみたいな事をやった時に、若い子たちに「古いんじゃないの」って。「おじさんたちが古い事やってるよ」って言われるんじゃないかなと思ってたんですよ。でも岩本さんは「そうじゃない」と。若い子たちがビートルズ聴いてて、ビートルズを見られないように、ビートルズ見れたようなそういう効果があるんだっていう話で。でも、確かに僕の場合って、やめててココナツ・バンクやる訳じゃないし、ずっと「ウルフルズ」のプロデュースしたり、最前線でそういう作品づくりをしてるから、多分視点は今の視点を持ってるから、ちょっとマニアックな自分の好きな昔の音楽をやっても、極端におじさんしかわからないものにならないだろうなっていう読みは、自分の中にあったんだけどね。でもね、ココナツ・バンクと伊藤銀次ってどう違うんだろう?っていうのが、その時にあった訳ですよ。ちょっと考えさせてくださいと。実は4年ぐらい考えたんですけど、それを。実際にココナツ・バンクをやろうという話があってから、あれは4年目なんですよ。
T:1998年辺りからのお話ですか?
I:そのぐらいから、最初は「ソロやりましょう」って話があって。踏ん切りがなかなかつかなくて、一昨年ですね、岩本さんが色んなところで「ココナツ・バンクやるんですよ」ってお話をしてたら、タワーレコードのスタッフに情報が入って、「ココナツ・バンクやるんですか?!」って。結構、ココナツ・バンク知ってる人もいるんですよね。幻のバンドっていう事で。そしたら「実は喫茶ロックのイベントを日比谷野音で7月にやるんですけど、出ていただけませんか?」っていう話になったんですよ。でも、その時点で、まだメンバーが決まってなかった。ユカリと僕しか決まってない段階で「えー」って思ったんですよ。まだ曲も書いてないし。でもその時に思ったのね。「これで、出ちゃったら、自分の中でも踏ん切りつくよね。やってみよう」と。自分で既成事実を作ると。後々あれが、アルバムの予告編だったんだなっていうね。いきなりアルバムが、ポンと出るより、そういう喫茶ロックを支持してる人たちのカラーってある訳じゃない。そこに出ちゃうっていうのは、ちょっとかっこいい事かも知れないぞと思ったんですよね。それで「出ます!」って言っちゃったんですよ。それから、僕とユカリと「あと2人、ベースとギターを考えなきゃいけない」と。ベースは、僕がプロデュースしてる時に、バンドじゃない時に弾いてもらってた井上富雄君、彼の事、すごい好きだったのね。「彼しかいないな」と思って。もう1人は、久保田光太郎君っていうんだけど、僕と同じくブルーワンミュージックに所属してるアーティストで、『スーパートラップ』っていうバンドを組んでたんですよね。ギターも上手いし。そのころ僕、ブルーワンミュージックの中で若い作家たちを集めて色んな歌手から曲の依頼があった時に、みんなに曲を書いてもらって、まとめてプレゼンしたりするような仕事もしてやってたんですよ。その中で、僕がプロデュースしてレコードデビューさせようかなと思ってる女の子の為に、久保田君に曲を書いてもらったんですよ。その作業をしてる所に久保田君が遊びに来て話をしてたら、当時28才ぐらいだったけど、信じられないぐらいに、アメリカンミュージックを知ってるんですよ。聞いてみると、大学出たか出ないかの頃にアメリカに渡って、ギター1本持っていって、向こうでギターの先生見つけて、アルバイトしながら勉強してたらしいのね。それで日本に帰ってきたのね。だから今のJポップやってる若いロックミュージシャンたちは日本の音楽を聴いていて、洋楽聴いてもオアシスぐらいだったりとかだけど。久保田君は音楽的な知識があるし、考え方もすごくいいのよ。彼がいいなと思ったの。僕がココナツでやろうとしてるような、アメリカンルーツミュージックみたいな事も、彼みたいに若い視点でやれる人が欲しかったの。みんな同年代の人でやっちゃうと、まったりしちゃうかもしれないから、1人ちょっと視点の違う、年代が下の人とやりたいと思って。
T:それで実際イベントでは、どのように曲を?
I:色んな人たちが出るんで、曲数は5、6曲あればいいっていう事だったんでね、幻の『9.21ライブ』で演奏した『日射病』とか『無頼横町』とか、その辺を中心に選曲して、幻のバンドなんだから、新曲やらなくてもいいだろうと。(笑)で、『ココナツホリデイ』をやったら、すごくよかったんですよ。たった2日ぐらいしかリハーサルやってないのに、すごくいいバンドなんですよ。今まで僕はずっとバンドやってなかったんだけど、バンドの一員になれるんです。その時点で僕は固まったんですよ。「このメンツでやろう」と。それからもう、曲がすいすい出来てきて、うん。ある意味で、伊藤銀次らしくいなきゃいけないというしばりから、今度は大手を振って解放されるというか、「一回、自分の中でも封じ込めてあったもので、楽しもう」っていう感じかな?だから、詞の世界も、ココナツというのは非常に変な詞だったですよね。変な詞というのは、はっぴいえんどとかが当時、非常に洋楽的な音楽に日本的な言葉をぶつけてきたり。「こたつ」だとかね。その辺の不思議な独特な空間みたいな。何か異次元というか、東京であって東京でない世界が、はっぴいえんどだから、僕の世界っていうのは、ココナツというのは、トロピカルなんだけど、妙なねじれた空間みたいな事をやろうと思って。光太郎君も、すごく良く理解してくれててね、ココナツ・バンクに誘われた時に『日射病』聴いてくれたらしいの。すると、「〜めらめら阿修羅〜」ってすごいですねって言うんだよ。阿修羅って不動明王みたいなあの阿修羅ですかって言うから「そうだよ」って言ったら、「すごい面白い」って言ってくれて。だから今回、思い切って日常生活でラブソングだとか、そういったものからちょっと離れて、すごくユニークな曲が作れたらいいなとは思ってて。最初に浮かんだのが、『MAD冬景色』だったんですよ。あれは映画『ファーゴ』のね、コーエン兄弟の『ファーゴ』のDVDのジャケットあるでしょう。真っ白な雪の中に人が倒れて血が出てるやつ。あれを見てる時に『MAD冬景色』っていう。あれ、見終わった後だったんですけどね。あれって、何て言うんだろう。「悲劇」と言っていいのか「喜劇」と言っていいのか。
T:「日常」と言っていいのか。
I:そう。でも、あれはあり得る話でしょう。ごく普通に田舎町で過ごしている人が、あるキッカケでどんどん、どんどんバッドに、とんでもない世界に入っていくから。そういう事の相乗効果があって、理屈じゃなくて『MAD冬景色』という言葉が浮かんで来て「これ何か面白いな?」と思って。「津軽海峡冬景色」みたいだし。(笑)あれが最初に出来た。それから『東京マルディグラ』とかいっぱい出てきたんだけど。ただ『MAD冬景色』は、なかなか曲が出来なくて、どんな曲にしていいのかわからなくて。「じゃあ、何か1曲、「いとしのレイラ」だとか何かああいうね、ギターミュージックみたいなのをやってみようかな?」って。実はあれイントロ、タイトルの次に出来たのがイントロなんですよ。イントロが出来てから、しばらく曲が出来なくて。詞も、なかなかあそこまで思い切った詞が出来なかったんですよね。でもすごく面白い作品です。
T:アルバムが完成して、ココナツ・バンクの、これからのビジョンは?
I:そうですね。2枚目は出すつもりでいます。本当は、今年の夏に1枚出したかったんだけど、ちょっとタイミングが悪くて出せなかった。つまり、いろんな製作する時の条件を考えた時に、フルアルバムを作るのは非常に難しかったんですよ。ちゃんとバンドでもやりたかったから、しっかりアイデアが練れてるものをやりたかったからね。だから、いろんな諸条件を考えると、6曲ぐらいがいいところかな?と思う。そのかわり、6曲でもちゃんと聞き応えのある6曲で出そうと思う。そうするとでも、6曲だと「もうちょっと聴きたいな」と思ってる人も沢山いると思うので、次のアルバムもそれぐらいの分量で、ちょうど2枚で1つのフルアルバムぐらいの感じのものを作ろうとは思ってます。既に出来てる曲もあります。
T:ソロ名義というのは、さっき言っていたような感じのものが自然と生まれてきた時に?
I:そうですね。作ってみようかな?とは思ってますけどね。
T:それは楽しみですよね。それから今、ライブに関しては、どんなビジョンがありますか?
I:そうですね。ずっとプロデュースばっかりやってきて、僕も一応Jポップシーンの中にいたんですよね。今、Jポップシーンがある意味でちょっと停滞していたりする部分もあるんですけども。色んなね。CD−Rが焼けたりとか、コピープロテクターが入ってるんだけど簡単にコピーとれたりとか。やっぱり「実演」という事が、すごく大事な時期に入ったのかな?という気はする。実演はコピー出来ないからね。それと何か今、Jポップシーンに毎週、毎月のように新人の男性、女性シンガーがどんどんデビューしてますよね。でもすごく実体がないんですよ。ものすごくバーチャルなのね。確かに服装はスタイリストつけてね、向こうのヒップホップファッションみたいなのを身につけてたりするんだけど、実体がないんですよ。何か根っこの部分がないというか。だから、あまり若い人に期待してもしようがないのかなと。まだこっちの方が熱いかな?こっちの方が熱いんですよ。僕も年齢的な事を考えて、若い人達に、色んな事を教えて、自分を乗り移らせて、そして育ててどんどん音楽をよくしていこうとか考えていたんですけど、モチベーションがすごく低い。僕らがシュガーベイブだとか、ごまのはえやってた頃とか、モチベーションを高くしなければ出来なかったからね。環境がないから。だけど、今は環境があるじゃないですか。誰でもデビュー出来そうじゃない。でもデビューしても1年でいなくなる人が多いという状況に、皆、目が向いてないんだよね。ライブハウスでノルマさえ払えば歌えるでしょう。求められてるのかどうかもわからない。でも自分でノルマ払えば、ずっとお客が5人でも10人でも歌う気があれば歌える。ストリートで誰も聴いてなくても歌える。コンピューター買えば自分でCD焼ける。そうすると、誰でもアーティスト気分になれるじゃないですか。そんな幻想の中に若い子たちのほとんどがいるような気がするのね。門は開かれてるかもしれないけど、誰でも出入り出来るようになってるんだけど、席が決まってるからね。その席にちゃんと座って、私だって言わないと、そういう人になかなか出会えないっていうのがあるんだよね。佐野元春とかそうじゃなかったからね。ものすごいモチベーションだったからね、うん。やっぱりね、モチベーションを高く持たないと、どんな音楽ジャンルも埋まっちゃうかな。やっぱり、もうそういったJポップシーンもつまらないし。ちょっと自分の音楽、ギターを弾いたり、そういう事もやっていきたいなって最近、思ってますね。今度、8月8日に布谷文夫やるんですよ。どんなステージになるか、ちょっとわからないんですけど。大人なステージやろうかな?と思って。本当に若いバンドとは違うぞっていうね、人間の力っていうかね。
T:それで、来年頭には、杉さんとライブを?
I:ええ。『マイルドでいこう!』っていう。
T:どういう感じのライブになるのですか?
I:杉君も、もう50歳でしょう。2人あわせて100歳ですから。別にね、おじさんくさいっていうんじゃなくて、大人っぽいライブをやりたいですね。もちろんハードな曲もあったりするんだけど、「マイルドでいく」っていうのは、今、癒しだとかはやってるけど、「癒し」っていう言葉はあんまり好きじゃないのね。「マイルドでいこう!」ですよ。「とんがらないで、マイルドでいこうよ!」って。何か大人な感じがするでしょう。だから、あんまり伊藤銀次名義でロックロックしてた頃にはやらなかったような曲とかもやろうと思ってるし。杉君と僕と一緒にやるから、杉君とハモったり。杉君の曲で僕がソロ弾いたりとか。今アイデアを出してる段階なんですけど。バンドの編成も、杉君のバンドでもない、僕のバンドでもない人とやろうっていう話でね。
T:面白そうですね。
I:だから、今回のモーメントのイベントっていうのは、そういう意味ではちょっと僕と杉君のライブの予告編みたいな感じなんでしょうね。
T:僕的には、もっと銀次さんの曲をね。
I:そうすると11時回っちゃいますよ。(笑)
T:(笑)唐突ですが、僕はロイオービソンとか好きで、実際ライブを見れなかったけど、何か今の日本で銀次さんのライブで、そういうのを体験したいですね。
I:そう、多分『マイルドでいこう!』は、そういう風になると思いますよ。僕も甘い感じのボーカルを中心に選曲すると思うし。ココナツ・バンクがあるという事は、僕にとって非常にやりやすい。本当にロマンチックでやさしいものというのを、やっぱり僕のボーカルを生かした優しいものを伊藤銀次名義でやっていきたいしね。ココナツはすごいガツンとロックでいくっていう感じで、ギタリストの銀次が出てきたりとか。
T:個人的には、男性の方にね、そっと聴いて欲しいなって。
I:そうですね。
T:50代の銀次さんの歌を、若い男の子1人で来て聴いて欲しいみたいな感じがありますね。
I:そう、フジテレビの「FACTORY」という番組に出た時に、「くるり」がメインで5,6組出てたんですよね。僕たちはトップだったんだけど。オーディエンスは10代とか20代ですよ。すっごい不安だったけどね。のってくれましたよね。それがすっごい嬉しかったね。だから、あんまり考える必要はないのかな?っていう。それとこびる必要もないし。やっぱり日本って縦線が途切れますよね、歴史の。いつも横線しかないじゃない。常に途切れていく。例えばアメリカでは「トムペティ&ハートブレイカーズ」みたいなのが出てきた時に、若いやつも見てるじゃないですか。そういうのが日本もそろそろ出来て来るといいですよね。もちろん一番支持している人たちは、近い年齢の人たちなんだろうけどね。年齢がいろいろいるっていうのはね。そう考えるとね、やっぱり音楽の中に年齢とか世代とかの共通項だけで作られてる音楽っていうのは、やっぱり何年かたったらやりにくくなってくるでしょう。パンクなんてそうじゃないですか、やっぱり。年取ってよぼよぼになって、あの闇の向こうを突き抜けろとかっていうのはね。だから佐野君なんかは非常にファッショナブルな時代を取り込んだ詞だったりするけれど、佐野君も杉君も、僕も山下達郎も、この辺の人たちっていうのは、何かファッションじゃない「人間のあり方の王道」みたいなところを歌ってるのかな?っていう気がするけどね。ちっともファッショナブルじゃないと思う。ファッショナブルなものっていうのは、その時だけだから。時間が経つと恥ずかしいのね。だから、そこが1つ、これからものを作っていく時にヒントかな?と思うのね。今まで僕は流行を追いかけるのが好きだったから。あるところまできて、ヒップホップ、ラップ、テクノとか出てきて、コンピューターミュージックみたいなのが出てきたでしょう。あれは僕たちの考えている音楽概念からいくと、違う音楽なんだよね。それは何かというと、もう「音楽の周波数」を楽しむ、体で。体感として気持ちのいい音楽を楽しむ時代に来たんだと。詞は別に何でもいい。面白い言い回しだったり。だんだんそうなってきてると思う。みんながコンピューターゲームをやるようになってくるから、どんどん前頭葉がペらぺらになってくるし、本も読まないし。そうなると肌で感じる音楽になってきてるから、僕がやりたい音楽ではない。でも、昔の僕だったら、かっこいいねとかって打ち込みやったけど、今はやらないね。音楽を機械を使ってやったんだけど、今はもう違うんだもんね。もう完全に周波数だよね。だからそういう「王道」みたいなところを見据えたような音楽が出来ればいいなと。佐野君なんか、どんどんそうなってきてるよね。何か昔に比べると。煽情的な人をあおるような言葉づかいをしてたけど、今すごくノーマルな歌でしょう。ちょっとびっくりしちゃうよね。
T:そうですね。
I:それは年齢もあるんだと思うね。まあ、僕は佐野元春ファンだから。
T:割と夫婦の話とか。
I:でしょ。僕、佐野君と打ち合わせなんかしてないけど、同じ事考えてるんだよ。やっぱり自分がもう四十幾つだっていう。「つまらない大人になりたくない」っていう風な、ああいう歌は歌えないんだよっていう人なんだと思うね。でも僕はね、佐野君のクレイジーなところが好きだから、40になってもクレイジーな歌を歌って欲しいね。40になってもクレイジーでいられるっていうのはいいよね。あんまりみんなが自分に対してちゃんとしてるって事を期待してるっていう風に考え過ぎないで、やりきれないような歌もあってもいいなと思うんだけどね。やりきれない歌を歌ったら、日本で一番表現力のある人だから。「♪死んでる噴水」みたいなね。あれはすばらしいよね。出来ないですよ、普通ああいう風には。ああいう風に曲はつくれても表現は出来ない。「何でなんだよ!」みたいな、そういう表現が、一番彼は上手だから、そういう歌も作って欲しいけどね。
T:でも、ライブはいいですね。今はやっぱり生で伝えるのが有効だって思いますね。
I:そう思う。それとね。大人が行けるようなライブハウスがちょっと増えて来ましたよね、最近。
T:そうですね。もっと増えて欲しいですね。
I:6時からじゃなくて、ちょっと始まるのが遅くて、食事が出て、お酒もちょっと出て。何かああいうのがどんどん増えてくるといいんじゃないですかね。ライブハウスっていうと、オールスタンディングで、それでコンクリートの質感のする、ああいうお店が多いでしょう。ドリンクだけしかでなくて。でもちゃんと座って食事して、食事が出てお酒が出て、それでゆっくり見れるライブハウスがもっと増えて来るといいんじゃないですかね。
T:そうですね。
I:スイートベイジルとかね、ああいうのが出てくるといいね。
T:銀次さんにも、いっぱいライブやって欲しいなって。
I:今、リハビリ中ですから。練習してる。ライブの勘が、前に比べれば随分戻ってきたからね。2年前の7月にココナッツバンクやった時は、やっぱり最初はちょっとね、出来んのかな?と思いましたよね。何年ギター弾いてても、しばらく人前に立ってやってないと、なかなか思うようにいかないから。でも、最近はなるべくギターを練習したりとか、かんを早く取り戻すように頑張ってますよ。
T:すごく期待してます!今回は、どうもありがとうございました!
I:どうもお疲れさまでした。
-end-
伊藤銀次・ライブインフォメーション
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『マイルドでいこう!』
出演:伊藤銀次(Vo.G)、杉 真理(Vo.G) ※バンドメンバーは近日発表!
日時:2005.01.28(Fri) Open19:00/Start19:30
会場:グリーンホール相模大野 多目的ホール
料金:¥3,800 (税込、全席指定)
主催:財団法人 相模原市民文化財団
問合せ:チケットMove 042-742-9999
チケットぴあ 0570ー02ー9999
ローソンチケット 0570ー00ー0403
CNプレイガイド 03-5802-9999
イープラス(http://eee.eplus.co.jp)
伊藤銀次さんのインフォメーション等は、
「ブルーワンミュージックHP」(http://www.blueonemusic.com/)まで。
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