ありましの / Shino Arima


1999年4月、京都で在学中、ユニット「Nobody Knows」結成。2003年に上京し、ソロとして、全国をライブ活動しながら、現在、アルバムのレコーディング中の、ありましのさんのインタビューです。

(2004年9月29日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)





ありましの (Shino Arima)


鹿児島県生まれ。
本名:有馬 詩乃
生年月日:1979/04/04
血液型:O型
すきなもの:テニス/さんぽ/妄想/イソジンもしくはアズノール
だいすきなもの:焼酎/からいも普通語
日常:本を読んでいます。はなうたをうたっています。
フリースを着ては、静電気に腹をたてています。

何ていうんだろ?時間とか季節とか、すごく流れてて、その中にあなたも私もいるんだけれども、その大きな流れの中にいる私たちもその一つ一つのストーリーを作っていけて、かつそれが、それとして終わっても、まだ流れが続いてるみたいな。それが「だからいいんだよ」っていうのもあり、「だからやましいんだよ」っていうのもあり、それを私も歌う時々とか、聴く時々でも、自分でもどっちにとるかっていうのは違うので、何かそういうのはちょっとあいまいに、わざと残しておいたっていう・・・

TERA(以下:T):よろしくお願いいたします。

ありましの(以下:A):よろしくお願いします。

T:出身を教えてください。

A:出身は、鹿児島県鹿児島市です。

T:小さいころの話を。

A:小さいころは、振興住宅地に生まれまして、なので周りが子供ばっかりのいわゆる団地です。そうだな?普通に近所の幼稚園とかに、常々遅刻して行ってるような感じで、団体行動とかもとれずって感じで。2歳ぐらいの時から、リトミックっていうのかな、音楽とかリズムとかに合わせて、子供が体を動かして教育されるやつがあるんですけど、それを始めかけて、そのままモダンバレエの教室に行って、小学校の5年生ぐらいまではモダンバレエをやってきたので、あれをずっとやっていくだろうと思ってました。が、受験戦争に巻き込まれ、で、中学受験をしなきゃいけなくなったので、それでしようがないからバレエはやめて、2年ぐらいすごい勉強してましたね。

T:初めて音楽に触れたのって、記憶の中では?

A:初めて。うーん、父親が、アマチュアのバンドをやってて、だから、わからないですね。このときだっていうのはあんまりなく、何となく。

T:初めて聴いたレコードは?

A:何だろう?何かで聴いたとかよりも、お父さんが歌ってた何とか。ほんとは誰が歌ってるのかわからないっていうのが、結構多かったり。

T:初めて買ったレコードは?CDですか?

A:CD、こんなちっちゃいシングル盤だった気がしますけど、多分トシちゃんだった気がする。(笑)

T:曲名は?

A:わからないな。何か『ごめんよ、涙』とかそれ系のやつ。しぶいよ。(笑)

T:好きだった音楽のジャンルは?

A:その頃は、特に何が好きとかはなくて、歌謡曲もその時あふれてて、「光ゲンジ」とかも聴いてたし、でもお父さんが聞いてた「PPM」とかも聴いて、すごいごちゃごちゃでした。

T:小学校の時、部活とか何とか委員は?

A:部活は、バレエに行ってたから、あんまり学校の行事とかには参加しなかったんですけど、陸上競技会の前だけ陸上部。

T:バレエって、どのぐらいやってたんですか。

A:その時は、もうほんとに、何か中国雑技団まだは行かなくても、週5回ぐらいは行くぐらいの勢いだった感じで。踊ってました。

T:中学入ると、何か変わってきた事ありましたか?

A:中学に入ったら、なぜかテニス部に入り、やってたけれども、かといってすごいテニスしかやってないわけでもなかったし。あ、でも何か中学の時は、本を読んだり、詩を書いたりするのが多かった。

T:どういう感じの詩ですか?

A:結構、内省的なというか、痛い感じの、かわいそうな詩が多かったです。その頃は、中原中也とか、ちょっとセンチメンタルな感じにほれちゃってたからかもしれないですけど。

T:遠出した思い出ってありますか?

A:中学生の時に遠出したのは、いきなりなんですけど、学校が中高一環で1回しか修学旅行に行きませんっていう学校だったんで、中三のときに学年90人ぐらいでいきなりイタリアとフランスに連れていかれ、連れていってくれるのはいいんですけど、行かれながらも、危ないから自由行動だめとかで、お決まりのところとか連れていかれた気がします。何でイタリアだったかというと、多分鹿児島市とイタリアのナポリ市が火山があるっていうだけで姉妹都市みたいな感じで、ナポリ通りっていうのが鹿児島市にあるんですね。ナポリにも鹿児島通りがあるっていうから見に行ったんですけど、鹿児島のナポリ通りは、二車線のすごいやつなのに、向こうの鹿児島通りは、すごいちっちゃかったです。(笑)

T:(笑)高校は?

A:高校は、大分、文学少女であった影響からか、何か内省的な高校生で、ちょっと体調的にもあんまりよくなかったので、こもりがちだったんです。ちょっとそこで私のおでぶさんの人生が始まったって感じです。て、そうこうしているうちに、これじゃいかんなと思って、アメリカに行こうと思って、高校二年生ぐらいにアメリカに行きました。で、1年ぐらいあっちの高校に通って、そこでもテニスをしたり、いろいろオーケストラをやったりしていたんですけど、でもやっぱりアメリカに行くと、おでぶさんの人生も変わらず、そのまま肥えていったみたいな。で、帰ってきて、みんな驚いたっていう・・・。

T:アメリカはどの辺ですか。

A:カリフォルニア州のちょっと北のヴァカヴィルっていう町で、ヴァカっていうのはスペイン語で牛という意味らしく、牛の丘みたいな名前の町でしたね。ほんとに田舎で。祐天寺の商店街ぐらいしか繁華街がない感じで・・・すごい・・・。

T:なぜアメリカに?

A:一番やっぱり一般的ていうか、交換留学がしやすかったっていう、そういう理由ですね。

T:そういう制度が学校にあったんですか?

A:なくて、学校自体も新しかったので、まず親と一緒に校長先生を半年ぐらいかけて説得し、単位を落とさないで卒業させるということに成功しました。

T:じゃあ、親はアメリカ行きには、最初から。

A:そうですね。結構何でも好きにすればって感じなので。やりたいと言えば、一緒に考えてくれる。

T:アメリカで得たものは?

A:一番目に見えてわかったのは、ちょっとは英語がしゃべるようになったっていうことと、あとは、世の中にはいろんな人がいるなっていうのがよくわかりました。

T:で、高校生活はその後、どんな感じに?

A:帰ってきたら、高校三年の夏で、また受験戦争に巻き込まれるのが嫌だったので、姑息な手を使って、一応1年高校留学してたら、帰国子女であるっていう認定があるんですよね、それを使って、そういう推薦でどっかに入学しようかなと思って、京都外大、10月ぐらいに推薦入試で決めて、のうのうとしてました。

T:高校時代、音を奏でる、歌う事は?

A:そうですね、ちょっとだけ、自分の中でやってたりとか、あとは1回だけ、1年生だったかな、ティーンズに出ました。けど、なんか県で2位ぐらいで、全国大会には行けませんでした。

T:それはどういう曲?

A:そうですね。今と比べると、もうちょっと明るい感じで、そのときはギターも全く弾けなかったので、ちょっとピアノが弾けたのでピアノでつくった曲で、バンドも女の子が出てギターがいなかったので、ピアノポップみたいな感じでしたね。

T:バンド名は?

A:バンド名は「トラフィック・ジャム」っていうバンドでした。だっせぇ・・・(笑)

T:どのぐらい続いたんですか?

A:それはもう、ティーンズ限定のドライなバンドだったので。でも、周りの子はみんな医学部の受験戦争に巻き込まれたので、そっちメインで。

T:大学に京都を選んだ、場所的なものですか?

A:そうですね、京都だったらどこでもよかったんですよ。推薦入試のおかげで京都に行く事ができました。

T:京都のどの辺が?

A:すごく日本らしいけど、今の日本らしくないっていうか、そこだけが孤立してる感じで、住んでみたいなと。

T:いつごろから?

A:中学二年生の時に、おばあちゃん、メメっていうんですけど、メメと一緒に、なぜか思い立って2人で2月ぐらいに京都に行って、すごい雪がふってる金閣寺だったんですけど、何かその時に「京都いいな」って思いましたね。すごい閉鎖的だっていうのは聞いてたから、多分、学生っていう身分を利用しないと住めなそう、と思いました。だから。

T:実際、京都に住み始めて、どんな感じでした?

A:うわさどおりでしたけど、実際、学生で行くと、ほんとの京都の人と触れる機会は、そんなに沢山なくて、それ以外も関西の人とか、四国の人とかもいっぱいいて、すごく学生らしい学生生活を送ったかな。

T:大学はどんな感じだったんですか?

A:大学は、外大だったんですけど、フランス語を専攻したばっかりに、フランス語ばっかりになってしまって、英語も役に立たず。でも、すごい面白かったですよ。いきなりギター部とかに入って、それでギターをやり出したんですけど。

T:ギターをやり始めた時、最初、どういう曲を奏でたんですか?

A:とりあえず、コードが3つぐらいしかない「スタンドバイミー」を練習しなさいって言われて、「スタンドバイミー」を練習しました。で、何となく弾けるかなと思って、ギターを購入して、でもすごいだまされたのは、その時「スタンドバイミー」には、バレエコードがなくて、それで何とか弾けるんじゃないのと思ったんですけど、でも実際やり進めていくと、ほとんど、こんなだから、ちょっと1回「あーっ」てなって、やめかけて、でも何となくまた、みんながやってたから、つられてやってました。

T:何か発表の場は?

A:そうですね。学園祭で、小さい教室でやったり、あとはストリートでやったりしてました。外で練習してました。すごい迷惑な話だと思うんですけど。

T:それはオリジナルですか?

A:最初は、いろいろカバーとかやっていて、3回生ぐらいからオリジナルをやったりしてました。

T:最初に書いた曲って?

A:最初に書いたのは、すごい暗い、いつも暗いんですけど、冬の曲でしたね。雪がすごい降ってるような、悲しい恋の歌をつくりました。

T:曲のタイトルとか覚えてますか。

A:曲のタイトル何だったかな。忘れちゃった。すごいライブとかでもやってたのに、最近やってないから。忘れました。

T:曲は量産タイプ?それとも、一つ一つゆっくり?

A:当時は、ほんとに量産してて、もうやってないのとかいっぱいあるんですけど、最近の方がちょっとおそくて、だめですね。気合を入れ直します。

T:大学後半の音楽活動は?

A:後半は、ほとんど週に2回とかストリートかライブハウスかで、ライブをやるようになっていて、そのときは「Nobody Knows」っていうユニットでやってたんですけど、カネゴンっていう先輩とユニットを組んでたんですけど、彼も最終的には一緒に卒業したんですけど、京都だけじゃなくて、大阪の百貨店のライブのちょっとメッカみたいなところがあって、そこでストリートをやって。そこで知り合った人とは、最近東京でまた見たりして、ちょっとびっくりしました。CHABAさんとか。

T:「Nobody Knows」結成のきっかけは?

A:とりあえずストリートでやろうかって時に、私も一人で行くのは嫌で、カネゴンも多分一人で行くのが嫌だったから、一緒に行こうって。多分ストリートをやりたいがためのユニットだったんですけど、最初は。だんだんライブハウスとかやるようになって、ちゃんとやろうかっていう感じ。

T:曲はどういう感じでつくってたんですか?

A:曲を大体私がつくって、カネゴンがギターアレンジとコーラスつけてくれた
りしてました。

T:そのときの音楽観は?

A:今とあんまり変わってなくて、シンプルな感じで。それこそほんとにギターと歌だけでも、結構、世界がつくれるようなのが理想だったんですけど。全体的に日常のことを歌にして、それに共感してくれる人が好きに共感してくれたらいいなっていうのが、一番の根底っていう感じなので、だから、曲でもこっちがすごく悲しい気持ちでつくっても、向こうがそれで楽しいなと思ってくれても全然いいみたいな曲です。

T:「Nobody Knows」の活動っていうのはどのぐらい続いたんですか。

A:2年はやったかもしれない。そんな長くない。それから、1人でもやったりしてましたね、学生時代は。

T:ソロでやるのと、ユニットでやるのとの違いは?

A:その時は、ライブやる時は単純に2人でやると一応決め事があって、曲の長さだったりとか、歌詞だったりとかっていうのは、コーラスをつけるから、絶対に合わせなきゃいけないところなんですけど、1人になると、ちょっと心寂しい反面、そういうのが好きに・・・気持ちだったんで。

T:「Nobody Knows」解散後は、どういう感じに流れていくんですか?

A:それからは、1人でやっていて、そのうち卒業して、1人でやりながら京都に1年ぐらい住んでいたんですけど、ずっといても状況が変わらないっていうのもあったし、京都はもういいかなっていうのもあって、その時、たまたま東京に行くきっかけがあったので、来ました。

T:「Nobody Knows」で1枚CDが出てますよね?

A:それは、大阪市の青少年育成何とか基金みたいな、国のお金でつくった、スタジオとか劇団の人の稽古場とかが、すごい立派なのができて、そこでやりましょうっていうプロジェクトがあって、そこに知り合いがいたので、公募する前の実験台としてカネゴンと呼ばれていって、で、CDをつくりました。

T:なるほど。東京に行く決断はどの辺から?

A:結構、急にで。東京に出ようと思ってた年の1月ぐらいには、まだどうかなと思ってたんですけど、何となく行かなきゃいけないかなってなって。4月ぐらいには来ました。結構、周りはびっくりしてたかもしれません。本当に行ったって。

T:最初、どのあたりですか、東京は。

A:今と変わらず祐天寺。

T:まず始めたことは?

A:出てきてまず始めたこと。新しいことしてないな。(笑)でも、会社に行った事は、今までの生活になかったから、これは新しい!・・・これは新しいです。

T:会社に勤め始めた?

A:勤めてるってほど勤めてはないですけどね。

T:音楽活動はどんな感じで進めたんですか?

A:最初は、ほんとにライブハウスとかもわからないから。怪しげなお店に呼ばれて行って、ほんと、何だろう、あれは、ダーツバーみたいなところ。ライブをやって、カワノさんがスネア持っていったら「スネアがうるさい」とか文句言われてた気がしますけど。そんなライブハウスでもないと思ったら、やってたら、だんだんやっぱり知り合いが知り合いを呼んでくれてたりして、今、定期的にやってるルイードの人を紹介してもらったりして。そのルイードやり出したときには、渋谷ルイードが出来たばっかりだったんで。そういう感じでちょっとずつ定期的にライブをやるようになりました。

T:それがどのぐらい前?

A:それが去年の秋ぐらいです。

T:ソロのCDっていうのは?

A:あれは、こっち来てからとったわけではなくて、京都にいる時に、今の事務所の知り合いの音響屋さんの倉庫でとったので、レコーディングしてとったわけではないんですけど、結構前ですね。二、三年前です。

T:今年に入って、何か変わってきたことは?

A:レコーディングをしました。それは変わったことじゃないかもしれないけど。変わったこと、特にないな。友達もふえないし。

T:曲はふえたんですか?

A:曲は、そうですね、でも、京都にいる時ほどのふえは見せてないんで。ちょっとやらなきゃな・・はぁっ・・・て感じですね。

T:アルバムのレコーディングはいつ頃から?

A:8月の頭ぐらいから、徐々に始まった感じなんですけど、レコーディングに向けて曲を書いたとか、レコーディングに向けて訓練したとかっていうのもなく、今まで東京に出てきてライブでやっていた事を、なるべくやっていたとおり、そういうのを崩さずにCDをつくろうという事を決めてやってたので、そういう意味では東京に出てきた時からCDを作ってたっていうような感じでもある。

T:今回のアルバムの内容はどんな感じになりそうなんですか?

A:まずは6曲入る予定で、ライブ感を損なわず、でもライブでここは補いたいなとか、こうやったらおもしろいなっていう所を、ちょっと愛のある人たちに助けていただいて、ちょっとずつ埋めてもらってるって感じです。

T:楽器関係は?

A:ギターとちょっとコーラス、カワノミチオさんはパーカッション、コーラス、で、本業のドラムと、あとはギターの方が来てくださって、アコースティックのギターを弾いてくれて、あとシタールのような、エレキシタールっていうのかな、でも、エレキシタールを持ってくるって違うのを持ってきたのかもしれないんで、ちょっと名前がわからないんですけど。弾いてもらいました。それは「花の種」という曲の時、弾いてもらって、あとベースも弾いてもらって、ピアノの人も来てくれて、そのぐらいかな。

T:1曲ずつ、簡単に紹介を。

A:まず『花の種』。詞と曲は鼻唄のようにして出てきて、それを膨らますというタイプが多いんでけど、『花の種』は最初に詞を童話みたいにしてつくって、それにイメージの曲をつけようかなと思ってつくった歌なので、その他の曲とはでき方が違う、私の中ではめずらしい曲です。今、ライブでは、曲に対してよりは詞に対して、すごい好きっていう人と、全然わからないっていう人に分かれるので、そういうところを私の中では聞いてみたい。

T:それから?

A:次は、『アイノウタ』っていう曲があって、これは、ライブでやるのにハッピーな曲がないと申しわけないと思って。聴く人にも。それで、そういう要素もあるんだっていうのを絞りだしてつくった曲で、そういう意味ではすごく頑張りました。頑張った曲です。でも、テンポも私にとっては結構、マックスなんですけど、早くて、ルンルンルンって感じなんですけど。そのルンルンぐあいがレコーディングで出すのはとても大変で、戦いがあった曲です。次は・・・『Still up there』という曲があります。これも結構、マックスで、早いんですけど。実はこっちにきて、作曲とか、作詞とかのコンペがあるじゃないですか。それにちょっと出してみないって言われて、わかりましたって。ジャニーズのコンペだったんですけど、それに書いたという事がノートに記してあって、「なんていう事でしょう」って思って。そんな人さまの為と思って書いた曲が、自分の身となり、ありがとうございましたっていう感じの曲です。歌詞的には、すごく前向きっていうか、わかりやすいかな。目標に向かって頑張りましょうっていう歌。で、(笑)何あったかな。

T:既にマックス?(笑)

A:(笑)私、6曲しかやってないのに。そう!最近『別れた日のうた』という曲をやりまして、これは、それこそ「Nobody Knows」時代から歌いに歌いまくって、もういいやっていうぐらいで「Nobody Knows」のアルバムにも入っていて、お客さんの中でも、「まさか今度は入らないだろう・・・」と。「思ってるだろ!?入れてるんだよ!」って感じの曲です。だって「好きなんだもん」なんですけど、この曲は、ほんと「Nobody Knows」時代、実家のアマチュアバンドのお父さんの知り合いとことかで、鹿児島レコーディングをして、それはおもしろい歴史のある曲なんで。そのころからすると、ちょっとアレンジは変わってるんですけど。大事にしている曲です。それから、『四条通』っていう曲。これは、その名のとおり、京都でつくった曲なんですけど、京都で言う四条通っていうのは、ほんとに目抜き通りで重要な通りなんですけど、そこで行われる祇園祭っていうお祭りがあって、その祭りはほんとに暑い京都の夏を代表する、すごい、ある意味ちょっと居心地の悪いお祭りなんですよね。そんな蒸し暑い中、人がいっぱいいて、でもこんなに人がいっぱいいるんだから、いろんなドラマがあるかもしれないと思って、妄想を膨らませた挙げ句、祇園祭の雑踏で、もし私の恋人に会ったらどうかしらっていう、具体的な内容なんですけど。この曲は、京都にいる時もやってたんですけど、その時の曲よりはちょっとコードとかサイズとかが変わってて、こっち来てからまた改良したバージョンなんですけど。あと・・・『三日月』っていう曲があります。これは毎回ライブの最後にやってる曲で、東京に来てからつくった曲なんですけど、結構、のほほんとしてる私でも、一応引っ越したり、土地を変わったりすると、それなりに周りの環境も変わるので、リセットをするという喜びの反面、ちょっと不安があって、そういう自分が何か置いてきたものっていうのについて考えつつ、且つ、それをどう自分の中で扱うかっていう思いが鬱積してたのを、曲で洗い流して、それを毎回歌うことでみんなにもっていう気持ちをわかってもらうっていうよりは、多分東京っていうところはそういう色んなところから出てきてる人がたくさんいるから、同じような境遇だった人はいっぱいいるんだろうなと思って、そういう人たちの1人
として歌って。

T:今、レコーディングは終盤で?

A:そうですね。もう、基本的に入れなきゃいけないものとか、素材はそろったかなって感じで、あとはちょっとだけコーラスを見直したりとか、バランスを見直したりとか、専門の方がやったりとか、そういうところまで来てます。

T:『花の種』の歌詞の中で、「背中に穴を開け」とかいう変わった詩がありま
すね。

A:そうですね。フレーズの、「君の背中に小さく穴を開け、一つ一つに花の種を植えつけよう」っていう歌詞なんですけど、特にそれにすごく意味があるっていうわけじゃなくて、童話を書こうと思ったので、まずその絵がちょっと出てきてしまって、別にどこに種を植えつけても・・・足とか、腕とかでもいいんですけど、こうなって、この背中に、背骨に沿って1列1列種を植えて咲くみたいな絵が出てきたので、その表現を使ったんですけど。

T:ストーリーは?

A:何ていうのかな?時間とか季節とか、すごく流れてて、その中にあなたも私もいるんだけれども、その大きな流れの中にいる私たちもその一つ一つのストーリーを作っていけて、かつそれが、それとして終わっても、まだ流れが続いてるみたいな。それが「だからいいんだよ」っていうのもあり、「だからやましいんだよ」っていうのもあり、それを私も歌う時々とか、聴く時々でも、自分でもどっちにとるかっていうのは違うので、何かそういうのはちょっとあいまいに、わざと残しておいたっていう・・・。

T:楽曲を聴いて欲しいターゲットは?

A:特にはないですね。みんな。でも、みんなでも、何か全員に聞いてほしい、ん、聞いてほしいっていうか、みんなにわかってほしいっていうのともちょっと違う感じではあるんですけど。でも、きっとどの世代の人とか、どのカテゴリーに入れられる人とかでも、きっとちょっとした「きゅっ」っていうので、「あっ」っていうのがあるのかもなっていう感じですね。何か、そういう裾野の触れぐあいがいいかなっていう感じですね。

T:これから、生まれていくだろう歌については?

A:そうですね。1つには、もっと自分の中で、出しやすい部分ばっかりを出して、眺めて、いいかな?、嫌いかな?ってやってるところがあるんですけど、もっと自分の中から「よいしょ」って出す音楽とかがあってもいいかなと思ってます。

T:具体的には何か?

A:そうですね。やっぱり曲としては『アイノウタ』だったりとか、そういう感じの、もっとオープンな曲もたくさんつくっていけるんだろうし、あとは前提として、ギターを弾いて歌うという世界にちょっと限定されてみてるっていうのがあったんですけど、今回のレコーディングも含めて、こういうのも面白いな、色んな人が来て、いろんな事をやってくれても面白いな、ありがたいなっていうのがあったんで、そういう音の意味でもいろいろ広がっていったらいいなと思います。

T:最近、何か見た夢は?

A:最近見た夢? 夢はすぐ忘れることが多いんですけど、でも大体よく覚えてるとすれば、階段踏み外し系のが多いです。で、起きるみたいな。あんまり楽しい夢で、もっと見ていたかったのにっていうのはあんまりないです。大体ビビらされて終わるって感じです。

T:レコーディングに小さな可愛いプロデューサーがいたんですけど、彼は?

A:彼は、一応名前がついてまして、「ラパンカワノ」っていうんですけど、かといってカワノさんがくれたという訳でもなく、一応、友達がですね、会社の。お誕生日にくれたウサギなんですけど、ああいうのがいると和むかなと。ほんとあの人はプロデューサーなんですけど、ラパンカワノ。そして、カワノさんはプロデューサー補佐です。(笑)

T:ほかに何かレコーディングのエピソードって?

A:レコーディングをしたスタジオが、新しいスタジオで、「湾岸音響」っていうんですけど、品川にあるんですけど、もう、サンダーバードみたい。何かね、倉庫にあるんですよね、すごい大きな倉庫にあるスタジオなんですけど、車ごと「バーン!」ってエレベーターに乗って、「ウィーン!」って。そのエレベーターから楽しいみたいな感じで。スタジオの中入っても、すごいぬくもりの、木のぬくもりのある空間で、ほんとに全然レコーディングかしらねみたいな、緊張感の全くないレコーディングになってしまいましたね。それがよかったんだと、今は言いたいですけど。

T:最後に。音楽以外で、夢はありますか?

A:うーん。小さい事はの都度いろいろ思いつくんですけど、あんまりでっかい野望みたいなのはなくて・・・そうですね。でも、いろんな国には行きたいかなと思いました。何か前、学生のときにブラジルに行ったときに相当衝撃があったので、多分ブラジルよりもすごいっていうのがいっぱいあると思います。でも、宇宙には行きたくないです。何か地球の外とかに出ちゃいけなさそう。「何で出るの?」みたいな感じがします。・・・やってみたい事。結構、現実的な話をすると、もっと詩とかをたくさん書いて、詩をまとめたいなと。でないと、すごい色んなところに散乱してて、せっかくやってるのもったいないなっていうのもあって、作業もしたい。

T:ありがとうございました!

A:ありがとうございました!

-end-

 ありましの・ライブインフォメーション

『Shino Arima Presents/ありましの&吉沢梅乃ツーマンライブ』

出演:ありましの/吉沢梅乃
日時:2004.10.11(月)
会場:渋谷SPUMA
料金:\1200+order
問合せ:http://www.spuma.jp/


ありましのさんの詳しいインフォメーションは、
「ありましの/オフィシャルHP」(http://www.sip-planning.com/shunon/) まで。
























【DISCGRAPHY】


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有限会社PIS音楽出版



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