佐山雅弘


数々のアーティスト、ミュージシャンとの共演、そして、ソロ、「PONTA BOX」等で名盤を生み出し、今、日本を代表するジャズピアニストである、佐山雅弘さんへのロングインタビューです。

(2005年3月31日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)





MASAHIRO SAYAMA
佐山雅弘
(ピアニスト、作曲家、アレンジャー)


■1953年兵庫県尼崎市生まれ。

■1984年、初のリーダーアルバムを発表以来現在まで7枚の
アルバムを発表。代表作に『Hymn for Nobody』等がある。
また、プレイヤーとしてのみならず、作、編曲家として、
コンサート、ショーの音楽監督、アレンジャーとして数々の
アーティストと共演し絶大なる信頼を得ている。
近年、その活躍ぶりは海外にも及び、1995年夏『モントルー
ジャズフェスティバル』 (スイス)にPONTA BOXとして出演、
海外からのファンからも大絶賛を受ける。

■1997年2月、ソロとして2枚目のアルバム『a Point of the Globe』
(ビクターJVC)リリース。4月より、PONTA BOXとしてCX系
『ニュースJAPAN』月一回レギュラー出演。
常に時代に敏感な感覚を持ったその音楽性はジャズのみにおさまらず、
あらゆる音楽形態に精通し、ジャンルを超えたトッププレイヤー
として、その活動はとどまるところを知らない。
 佐山雅弘インタビュー

今度出すとしたらライブ盤かな。か、6月にニューヨークに行くんで、その様子を見て、また行けそうだったら、ニューヨーク進出とかしてライブ盤するなり、その流れで知り合った向こうの人をゲストに入れるとか、何かそれはそれで僕の手を離れて、マサチャンズっていう団体だよね、個人活動というのはまたどうなるかわからないけど、今、またできつつある、50になってからの曲を煮詰めて、多分ね、ビッチーズブリューみたいな世界になると思うんだな。うん。方向としては。

TERA(以下:T):では宜しくお願いします!

佐山雅弘(以下:S):はい。

T:まず生まれた場所を教えてください。


S:生まれはね、兵庫県尼崎市。ここはね、今でいうと阪神電車ですね、それの向こう側があって、大阪から淀川を越えると尼崎、で、真ん中によも川というのがあって、次が武庫川、武庫川を越えると西宮なんですね。西宮から芦屋、神戸とハイカラな町だと言われる。大阪は商業の町で、尼崎だけがなぜかね、すごく身分が低くて。

T:ご兄弟は?

S:弟が一人。

T:仲はよかったですか?


S:仲すごいよかった。うん。

T:小さいころ、どんな遊びとかしてたんですか?


S:小さい頃は、手裏剣投げたり、キャッチボールしたり、俺の頃は、まだ広っぱありましたからね。石けりとか、野球もしましたよ。兄弟ではね、プロレスとか(笑)将棋はね、絶対勝つ。負けそうになったらひっくり返すから。(笑)

T:テレビは?


S:なかったですね。「赤胴鈴乃助」が小学校入ったか入らないかぐらいかな。それは近所に見に行ってましたね。うん。いつだったかな。「鉄腕アトム」が始まるっていうんでテレビ買ってもらって。

T:小学校の時、何か活動していたことありますか?


S:小学校は特にないかな。ピアノを習ってたことと、うん。ないか。思い出さないだけかも。

T:ピアノは、実家に?


S:いや、なくて、1年生で同級生になった子の中に、好きな子がいて、その子のかばん持ちとかやって。ストーカーなんだけど。(笑)こんにゃく屋のタカコちゃんっていうんだけどね。うちはお茶屋さん。タカコちゃん、すごいですよ、バレエやって、日舞ならって、お嬢様だから。で、何曜日かはピアノ行くわけ。それについていって。特にピアノがおもしろかったから、行くとお紅茶とケーキが出るの。30分レッスン見てて、終わったら、また帰る。そしたら、一学期が終わるときに、毎週来るんだったら、習ってもらわなきゃ困るって言われた。(笑)で、興味があったからね、お父ちゃんに言って。そしたら、やめないんだったらやっていいとか言うからさ、やめないと。で、習い出したら、割と向いてたみたいで上手になって。小学校、で、3年間はピアノ買えなかったんだ。 紙鍵盤で練習して、タカコちゃん家行ったり、先生のところで週1回弾いたりね、して。小学校4年生の始業式から帰ってきたら、ピアノがあったの。だからね、3年生まではどうだったかな。2年生のカワイ先生っていうのはよく覚えてるな。

T:発表会はあったんですか?


S:発表会、ありましたよ。割とあっという間にトリ弾くようになっちゃってね。3年生か4年生ぐらいから、ずっとトリ弾いてた。昔の先生だから、今みたいにきっちりと教えるんじゃなくて、とにかく自分の弟子にこんなに進むのが早いのがいるっていうのが自慢だったの。小学校4年生ぐらいじゃ、もう月光の曲とか、ショパンのエチュードとか弾いててですね、結構評判だったんだな。だから、4年生になってピアノを買ってもらってからは、ずっとピアノを弾いて。ほかのこと覚えてないぐらい。でも、運動だめだったから、よくね、かばん持ってやるって言ってね、そのままどっかに行かれちゃったり、いじめられてた。で、手裏剣ごっこすると、昔の子供はすごいよね。線路にくぎを置いてぺしゃんこにして、それを十字手裏剣にして、投げるんだよ。ささると死んじゃうんだよ。死なないにしても相当いたいわけ。痛いっていうかね。当たらないようにするんだけどね。こう、要するに、相手にじゃなくて。そういうときにね、張り付けとかいってね、ゲームやって一番負けたやつは張り付けで、壁向いてこうやってると、手裏剣を頭に投げるわけ。もうとっても恐い。そうやってよくいじめられてました。

T:小学校はピアノ中心に?

S:そうですね。後半はピアノ中心。そうだね、部活もやらなかったしな。うん。中学へ入って、これはいかんというので体操部に入るわけです。部活ってね、自分がやりたくて、上手になりたいことをやるんだと勝手に思ってたらね、違うのね。上手な人が集まるのが部活なの。だから、体育「2」の人が来てもらっちゃ困るわけですよ。5月ごろに先輩に呼ばれて、新人戦も近いから、「はい、頑張りますって」言ったら「やめてくれないか」って言われたの。(笑)練習がとまるからって。2か月ぐらいか、やっても、結局、蹴上がりもバク転もできなかったもんね。にぶいんだろうな。で、ブラバンに入ったんですよね。中学校で。歓迎式のあれが、トランペットの休日って、あれが格好よくて。体操部もやりブラバン。ブラバンのほうはね、ラッパやらせてくださいって言ったら、歯が出てるからだめだって。ね。で、「おまえはクラリネットだ」って。ラッパやりたいから入りたいんだからさ。あれはよくないと思うな。別にプロになるわけじゃないんだからね、やりたいと思ったものをやってさ、そのうち自分でほかのに興味が出たりね。はなっからクラリネットやらされて、やっぱり金管がいいなと思ってトロンボーンやって。でもね、ピアノが弾けるものだから身が入らないのね。で、中途半端に。ピアノもね、熱が入らなくてね、入らなくなってくるじゃないですか、中学ごろだと。いつかな、中学2年生で転校するんですよね、うちが引っ越して。

T:大阪ですか?


S:ううん。尼崎の中で。武庫川沿いに住んでたのが、今度小学校の時の真ん中のヨモ川沿いに住むわけです。中学の時に、神崎川っていうんだけど、大阪寄りに。尼崎の中で3か所。その頃に、グレンミラー物語を見るんだな、テレビでね。そうすると燃えちゃってですね、「もうこれがいいや」って、転校もしたから、先生ところもやめて、あとジャズ。それから、ジャズ。

T:最初は、どういう風に?

S:最初はね、「グレンミラー物語」のシーンの中で、オーディションでグレンミラーは譜面を持って、友達のピアニストがピアノで雇ってくれと。そこでブギウギを弾くんですね。後から思えば。それがすごくカッコよくてですね。タカ!タカ!タカ!って。それと、ルイアームストロングが出てるのがカッコよくてですね、「黒い瞳」っていう曲を。なじみの楽器屋があるじゃない、ピアノの譜面を買いに行く。そこに行って、きのう映画で、こんなんやってたんやって言ったら、「それはブギウギというんや」って言うんだよ、尼崎の小さい楽譜屋が。だから昔の店員は偉かった。今はね、本の製造番号とか言わないと出てこないから。そこに、なんと『カウントベーシー/ブギウギブック』っていうのがあったんですよ。その楽器屋に。こんな薄っぺらい本だけど。ほこりかぶってるわけ。仕入れてるけど、置いてあるんだね。昔の本屋は偉かった。売れないからといって絶版にしない。ちゃんとね、5年に1人買えばいいわけですよ、本なんて。愚痴になっちゃったけど。で、それを買ってきたら、ショパンやリストを弾くようなぐらいの譜読みはできる訳ですから、譜面は弾ける。そうすると、楽しいじゃないですか。そのカウントベーシーがどんなに偉い人なんて知らないけどね、知らなかったものだけど、とにかく、もう。10曲あったのかな、ブルースが。それをあっという間に弾けるようになって、学校で大人気じゃないですか。

T:それ、カウントベーシーの音楽を聞かずに、譜面だけで?


S:聞かずに譜面で。音楽は、とにかく「グレンミラー物語」のサントラ盤を買ってくれて、それをずっと聞いてたのかな。

T:それが中学校。


S:中学校2年生かな、東京に住んでる親戚のおじちゃんが、家に泊まりに来て、遊びにね。で、ピアノ弾いたら、「ジャズやるんだね」とかって。「これはジャズというのか?」なんつってさ。そしたら、ちょうどそのころ大阪に「オスカーピーターソンが来てるよ!」って。「明日連れていってやる」って言って、連れてってくれたの。いい大人でしょう。そしたら、もうしびれちゃってさ。その帰りに、梅田のサカネ楽器っていって、後から思い出すとすごく有名な、今の友達なんかが大阪時代に世話になった、ブルースのやつらがお金ないときに、そのまだレアだったころですよね、ブルースのレコードを仕入れては、地元ミュージシャンにツケで売って。狭い店なんですよ、ここぐらいの。でも、そういう店があったのね。あ、今もあるんだ。そこへ寄って、オスカーピーターソンを今聞いてきたんだけども、レコードくださいって。おじちゃんが、プレゼントしてくれようとしたら、「最新作はスイングジャーナルのゴールドディスクをとったのがあります」と。レコード屋の店員も偉かった、昔はね。そういうのがあって。それがウィリエットリクエストっていうやつなんですよ。それを家帰って聞いたら、まあ、しびれてしびれて。それをずっと聞いてたな。他には、タイガースと加山雄三が好きだったんですけどね。でも、それは何か結びつかなくて、音楽の中というよりは、タイガースのコピーバンドを中学生の友達とやったり、加山雄三みたいなことを、僕はギターを持ってなかったから、親父のバイオリンをやってでですね、ポロンポロンと弾いたり。それで、ピーターソンを聞いて真似してピアノ弾いたりしたの。フォークブームだから、ガッツとかですね、明星とかにコードネームがあって、バイオリンをギターのように調弦しようとすると、弦が切れるわけですよね。(笑)だから、そこでね、コードのこと覚えたの。コードブックで、ギターはこう抑えるっていったら、Aマイナーとこれで、これがミで、ミとドとラとミとドと、ラドミ、Aマイナーだったらラドミでいいなと思って、今度はバイオリンのラドミを抑えるわけですよ。で、そんなことしてたら、ピアノで弾けばいいじゃんっていうことで、やっと気がついて、ピアノでコードを弾いて、スパイダーズとか歌ったりしてた。

T:それは、文化祭とかで?


S:いや、うちで。自分だけで。

T:ジャズは、人と組んだりとかは?

S:全然しなかった。とにかくピーターソンのその1枚のレコードを、起きた、朝昼晩、夜中、1日4回聞くわけ。それがね、2年間ぐらい続くんだな。あんまり聞いてるからって、親父がもう一枚レコード買ってくれて、それはナイトトレインっていうんですけどね。オスカーピーターソンのブルースばっかりやってるやつ。で、今度はその2枚を毎朝昼晩、夜中と。ほかにレコードを広げるっていうことはしなかったんですね。高校に行って、秋の文化祭で何かやるかっていうので、それでね、そのときに見よう見まねでジャズピアノやりますっていってソロでやったの。

T:その時は、どんな曲を?


S:その時はね、「あなたなしでは」っていう曲でね、 「There Will Never Be Another You」、笠井キミコのデビュー盤が出てね、それに入ってる。それの一曲目だったの。格好いいなと思って覚えて。弾いたら、えらい人気ですがな。で、うわさの、1年生の、入学式のときに、あそこにきれいなのがいるぞってみんな見にいくような、マドンナがいるじゃないですかね。ヒロタキユキエさんっていうんですけど、このヒロタキユキエさんからイニシャル入りのハンカチをもらったの。いや、これは、やめられんなと。(笑)そこからね、そこからなんだよな。それを見た先輩たちが、「ジャズをやるんだったら俺ん家来い」っていって、レコード聞かせてくれたり、ちょっと音楽室来いとかいって、音楽室があいてるときは、その先輩も授業をサボるわけ。おれもサボらされるわけよ。スイングジャーナルにソーファットていう譜面が載ってるから、これを弾けとかいって。俺はピーターソンが好きだからって言ってるのにさ、ジョンコルトレーンとかさ、マイルスデイビスとかさ。だからわけわからないんだよな。ちょうど1年生の夏にね、三島由紀夫が自殺するんですよ。で、そのころにコルトレーンは前の年に死んでいて、69年だ、コルトレーンは2年前に死んでるんだ。マイルスデイビスのビッチーズブリューっていうのが出るのね。それもジャズをロックビートにしちゃったやつなんだけど。で、こっちはピーターソンだから、全然関係ないのに、いやジャズは意識をもってやらなきゃだめだとかさ、言うんだよ。そのころからそういうの嫌いだったから。(笑)いいじゃんな。思想はあるかとかって、そんなものないよね。楽しいからやってるのにさ。でも、思想的なことはともかく、マッコイ・タイナーとかビル・エバンスとかやっぱり新鮮だなと思ってね。中でもハービー・ハンコックがよかったな。で、そのころ周りでおれもジャズやりたいから、ジャズ研をつくろうなんて。で、学校に申請してジャズ同好会っていうのをつくるんですよ。

T:それは高校2年生ぐらいですか?

S:高校2年生だね。2年生の時に。後輩とか入って、うん。で、女の子でドラムやりたいなんていう子とね、そのときはまだ肉体関係っていう考えはないけど、つい手を握ったりね、いわゆるできちゃったりして、よくないな。どうも不純なほうに行く。そしたら、ほかの学校からも、珍しいじゃない、高校でジャズ研があるのね。結構みんな集まってきて、奈良のほうからトロンボーン吹きにくるやつとか、そいつは今ね、大阪でキタノタダオとアールジャズオーケストラのマネージャーやってる。だからね、灘甲陽っていうのがあって、すごい受験校なんですよ。そこからもね、いろんなやつがきて。その友達が広がるとね、いろいろ教えてもらって、理論的なことも割と覚えるけど。でも、山下洋輔トリオが全盛でね、テーマは何か格好いいなと思うやつを聞いてコピーするだけど、アドリブコピーできないから、テーマ弾いたらあとはフリー。(笑)

T:ジャズ研では主にどういう発表の仕方をしてたんですか?

S:ジャズ研はね、文化祭でコンサートをやって、一回自主コンサートをやろうっていって、文化会館を借りてチケットを売ってやったらね、前列の10人ぐらいしか来なくてね、800人のホール借りたのに(笑)学生だからってね、5万円とか3万円で借りられたんだよな。あれをしっかりできてれば、もうちょっとな。でも、違うほうにいったろうな。これはだめだっていって。で、やってて、3年生になった時に、うちも一応受験校だったんですね。進学相談でどこに行くかっていって。うちは商売があるから、大学行かないと働いちゃう。どっか大学で、早稲田にいいジャズ研があるっていうんで、東京に行くなら早稲田で、東京行けないんだったら、神戸大学にいいのがあるって聞いてて、神戸大学。おれは高校入ったときは1番だったんだよ、学校で。そのままマージャンとかジャズとかやって、試験とか受けないままに、全然受験の研究とかしてないから、「今はね、ビリから40番目ぐらいのところにいるんだよ」って言われて、「ああ、そうですか」って。何が神戸大学だとか言われちゃったの。どこの学部でもいいから、絶対浪人すると。1年勉強して入れるところはどこもないって言われたの。絶対浪人するから、今から志望を決めて2年間みっちり勉強すれば、どこの大学でも入れると。で、2年間飽きずに勉強できることってね、何だろう、うん。国語とね、大概のものは好きだったんだけどね、歴史も好きだし、地学っていうのが好きだったな。物理は好きなんだけど、ついていけないとかね。

T:地学って?

S:地学っていうのは、地質学っていうか、石みて何だって当てるやつ。で、そうだと思ってさ、そのころジャズはそこそこ弾けるようになってたんだけど、和声聴音、要するに譜も読めるから、楽譜はすぐ読むし、耳はいいからアドリブはコピーできるわけ。ジョンコルトレーンのジャンステップスとかコピーしてたもんね。とか、あれだ、あの「クレオパトラの夢」、ジャズでシングル盤があったんですよね。シングル盤を買ってきて、テープに入れて、ハムソクにして、タタタターって。でも、和音がわからない。だから、右手はすごくモダンなのに、左手はドミソで弾いてる。これはものすごい妙な音楽だったんだけど。で、ハンコックの格好いいのは、クロマッチックコンセプトっていうんだとか、そういううわさはいっぱい聞いてるから、「そうか、じゃあ、音楽だ」と思って、和声を勉強したい。勉強するならね。だから、そっちの動機が先で、それに合わせた目標を立てればいいやって、先生に言ったらば、じゃあ音楽の先生だって。山崎先生っていうんだよな、その人はコーラスを教える人でね、あんまり詳しくはわからないけど。「そうだね、ジャズは君には合ってる、刹那的だから」って。刹那的で享楽的なところが佐山君には合ってるって。でも、ピアノはだめだって。要するにもうこんな弾き方をしてるから、絶対入れないし、狭いから、勉強で入ってを和声習うんなら、作曲科か楽理科だっていうわけ。それは何だっていったら、作曲科は作曲。和声と対位法。楽理科は、美学、評論だっていうわけ。評論は別にね、嫌だから、じゃあ作曲。作曲志望にして、それから親がえらかったですよ。その作曲科にいきたいんだと。ついてはその先生につくわけですよね。ピアノも習い出して、ちゃんと、習わなかったのかな、習わなかった気がするな。神戸にいる芸大を出た中村先生っていうところにいって、1レッスン1万円なんだよ、当時で。週1回だか月2回だかね、1万円って結構な金だからね。それに通わせてくれて。で、1年行って、1年半ぐらいたって、浪人の夏のときに、そろそろ東京の先生に、行きたい大学の先生につくからって。「どこに行きたい?」っていうから芸大にいくとかって。芸大は無理だからって。芸大ってね、世界一難しいの。だから、芸大に入ったっていったら、ジュリアードでも、コンセルバタールでも、出たのと同じだけの地力としてはあるわけよ。それはおかしいんだけどね。日本のシステムですよね。要するにその大学で学ぶことを一通りわかっていないと入学できないわけだよ。それをわかりたいから入学するのにね。僕は対位法をね、割とサボって、先生も始めたのが遅いから、和声法がメーンで、和声法は全部おさめたんだよね、一応。芸大じゃなかったらどこでも入れるっていうので、どこ行こうかっていって、そしたら山下さんが国立だし、ホンダタケヒロ、イタバシフミオ、その順番に下っていくんだけどね、好きな人みんな国立だから、じゃあ国立行こうって。で、行ったんですよ。関和子っていう現役で国音ピアノ科に入っちゃう女の子に惚れてる奴がいて、そいつもオッカケで国立に行くってんで一緒に行こうかなんて話も手伝ってね。

T:そこから東京に。

S:ええ。東京に。

T:最初、どの辺だったんですか?


S:浪人のときは、桜新町の親戚の家。そこであんまり夜中までピアノ弾いてるからっていうんで。あ、違うか、久ヶ原にいたんだ。どっちも美容師なんだけどね、久ヶ原のおじさんが僕をそもそもピーターソンに連れて行ってくれた人なんだけど、そこに居候して、そこがパーマ屋さんでインターン何かが住み込みで働いている若者と同居する。そいつとうまくいかなくてね、向こうはほら、高校出て働きに来て、秋田のやつでさ、こっちはぼんぼんじゃん。ぼんぼんっていうか、向こうから見たらね。浪人して、親戚のところに不自由なく暮らして、大学行って、コンサートがあるっていったらオーケストラ聞きにいってさ。何かつっかかるんだよ。そこを出て、桜新町の親戚に行って。水道橋のね、尚美学園っていうところに、受験科ってあるんですよ。そこへ後半11月から2月ぐらいまでかな、通って、勉強とかソルフェージュ,ソルフェージュっていうのは、何ていうんだろ、音感教育。譜面を見てそのまま歌うとか、聞いた音を当てるとか。全部100点でしたよ。これはおかしいと。理屈から言うと、僕は歌がとてもうまい。譜面が読めて音の高さがとれてリズムを間違わない。これはほかに歌の、下手な要素がないじゃない。で、歌うのものすごく下手なんだよ。だから、歌のうまいというのはまた違うんだね。指が動いてピアノのくだらないやつも多いからな。全般にそうなのかもしれないけど。で、めでたく国立受かったのはいいですけどね、その前の年に現役で国立に入った関カズコっていうピアノの女の子がいるの。その子のことを好きだった清水君っていうのがいるんですよ、同級生にね。清水が何を途中でくるったか、おまえが勉強して国立行くなら、俺も行くって言って、無理だからって、ピアノ習ったことないし。でね、音楽は好きで、そいつヤナチェフもどうのこうのとか、ピアノが弾けるから周りにそういううるさいやつが集まってくるんだよ、自分じゃ弾けないくせにさ。で、ドボルザークの新世界を一緒に聞いたり、そういう意味ではいい友達なんだけど、でも作曲科は無理だからって。でも頑張ってさ、紹介しろって、おれの先生のところに来て受けたんだよね。受験番号隣だから、ピアノの試験なんか、どてどて、すいませんとかって。もう一回やりますとか言ってるから、可愛そうに。一緒に合格発表見に行って、俺としてはどうやってなぐさめようかしか考えてないわけですよ。そしたら受かってやがってさ。(笑)俺、自分が受かって一瞬嬉しいけど、こいつも入る、全然、なんかね、自分の合格が値打ちのないものに思えてきて、レベルの低い学校に入っちゃったなって。

T:それ、すごいですね。

S:彼のこけの一念を褒めてあげたいけど。

T:実際国立に入って、どういう動きに?

S:入って、関カズコを訪ねあてて、そしたらすっかり彼氏なんかいて、もうラブラブになっちゃっていて。その友達が悪かった。そいつはね、マージャンがすごく強いの。高校のときに浅田テツヤの『麻雀放浪記』っていうのが流行っててね、高校の時はよくやってたのマージャンは。そいつと組んでさ、要するにイカサマだよね。イカサマして町の雀荘行ったりして、大人にはばれるから、ちょっと来いとか言われて、こてんぱんにやられたりしてたの。国立っていうから国立にあるんだろうっていって、国分寺にアパートを借りたんですよ、そいつと2人で。4万5000円、2万2500円ずつ出してね。仕送り4万円ですからね。それで、貧乏に暮らしてるはずが、国立は俺が入ったときから引っ越したの。玉川上水に。それも調べないところがすごいけど。国分寺まで歩いて行って、立川まで電車のってバス乗っていかなきゃいけない。オリエンテーション行っただけでくたびれちゃってさ、面倒なんだよ。国分寺に行く前に、雀荘があるんだよ。トリデっていうね。ちょっと寄ってくかなんて。行ったらおしまい。その年ずっとマージャン。

T:大丈夫だったんですか?大学は。

S:大学は留年ですよね。で、そいつは強いの、ほんとに。買ったり負けたり。僕は必ず負けるの。負けては仕送りを。仕送りの分がなくなったら終わりじゃないですか、現金ないと打たせてもらえないから。僕は持ち金ゼロで、うちでそいつの買ってくる飯炊いたり、マージャン屋行ったり。よくしたもんでね、お金は絶対取るんだけど、要するにタクシーの運転手とか、その辺の学生とか、ヤーコウとかが集まってるわけです。金はむしりとるんだけど、飯は食わせてくれて。ちょっと飯行くかって。若いからさ。結構かわいがられて。いつもみんなが行く定食屋に行ったり、スナック行って飲んだり、ピアノのあるところがあったら弾くわけ。みんな喜んじゃってさ。ちょっとお小遣いなんかくれて。そしたらまたマージャンやって、そいつにしたらいいカモだよね。小遣い渡したら、絶対マージャンで返ってくる。しょうがないからマージャン屋がしまったときに、うちの下宿でチンチロリをやらせて、寺銭取って、それで米買ったりしてたんですよ。さすがにこのままじゃ自分はだめになるなと思ったんですよ。でね、何だかんだでマージャンの借金が30万だかになったんだな。それで、周りも人生の落伍者ばっかりなんだけど、それだけに心配してくれて、清水はいいと、あいつは別に音楽の才能もないしね、こういうつき合いで就職していくだろうから、おまえは才能があるんだから学校へ行きなさいと。ついては、これのさ、うちの兄貴が相模原でやってるキャバレーでピアノに穴があいたっていうから、そこに行けと。身売りに出されて。(笑)

T:で、そこにいくんですか?

S:そこに行くんですよ。国分寺から相模原に通ってね。終電で帰ってくるわけ。終電で帰るとそのマージャン屋に行って、ちょっとこう。そうすると誰かかにか、その日買ったやつが飲ませてくれるの。だから、仕送りで暮らすよりよっぽどいい暮らししてましたよ。寿司屋とかね。

T:そこのキャバレーで弾いてたんですよね。

S:そこのキャバレーに行くと、テナーサックスのバンマスがいて、40ぐらいかな。で、20ぐらいのベースとドラムがいて、おれがいる。要するにバンマスがこれとってるわけだよね。おれらの月給9万円だか10万円でね。そこで3か月働くと、働くと。その金はマージャン屋に行くわけよ。で、仕送りの4万円で暮らす。すごい規則正しい生活。

T:そこではどんな音楽を?

S:そこでね、客がいないとジャズができる。お客さんが入ったら、演歌やる。演歌とかそういうの。ダンスとかね。そこで結構曲覚えて、ジャズの勉強はしてたから、何だろうな、森進一の何とかとかやるんだけど、そのコードでジャズのコードを、その日覚えたコードをやって、「曲違う!」とかって、ホステスに怒られたりして。12月まで働いて、借金返したの。で、もう清水とは別れるってって、「俺は家を出る」って言って家を出て、そこのベーシストの家に居候に行ったの。

T:そこの働いてた?


S:働いてた中野君っていうんだけど、そいつはどこだったかな、八幡山だかどっかに住んでてね。居候。そいつはもうプロで働いてたからね、居候して、勉強すると週に1回彼女が来る時は、いちゃいけなくて、新宿で夜明かししてジャズ喫茶行って、電車が走ると山手線で寝てっていう浮浪者してたんですよ。目が覚めるたびに人が増えてるの。明くる年はちゃんと大学に行こうと思ってですね。玉川上水から一本の上石神井というところにアパートを借りて。そう、エレキピアノを買ってもらってたからそれで練習して通ったんだけどね、だめだったんだよな。

T:なぜですか?

S:ドイツ語の試験がさ、どうしても身が入らない。今なら一生懸命勉強するのにね、当時はもうセッションもしてるしね、女の子とも遊んでるし、勉強に身が入らないんですよ。あれ、おかしいね。一番勉強に身が入らないときに勉強しなきゃいけない。だから、いったん遊んで社会に出て、勉強って必要だなと思ってから大学行くシステムになればね、一生懸命ね。大人になってから調べたい資料ものすごくいっぱいあるのにね、それは今やもうお金出して買わなきゃいけないわけですよ。オーケストラのスコアとかね。学生時代だったらね、図書館に何でもあるじゃん。もうね、ドロップアウトしちゃった。でもね、その1学期間だけ行ったときにはね、すごく友達ができてですね、よかったですよ。だから、1年目の1年生か2回目の1年生か忘れたけど、その2年間、2年じゃないね、4月から7月の2回分でできた友達が割と有名になっててね。RCサクセションのね、ゴンタ2号っていうのがいるでしょう。あれが、あれは2回目の1年生かな。1回目か。で、そのころはやってたチックコリアのこととかそいつに教えてもらったり。あと、バンドマンの息子でカワダっていうのがいてね、そいつはビル・エバンス詳しいわけ。僕はピーターソンばりばりじゃないですか。安田っていうのがいてね、そいつは今もジャズの教科書いっぱい出してるんだけど、エロール・ガーナーからジャズ全般に理論が詳しいわけ。滝口っていうのがね、今、高校の先生やってるんだけど、そいつはピアノ全然弾けないの。でも音楽好きで好きで、勉強で作曲科に入ったやつなの。それがキースジャネットが好きでね、その友達とみんなでがやがや言ってはやるのがすごい勉強になった。細川っていうのは、2回目の1年生で入ってきたら、もう天才なの。タケミツ(武満 徹)の新曲が出たみたいだからさって買ってきて、図形なんだけど、うーんと弾いて、割とおもしろいねとかって。すごいな、おまえって。何でそんなとこいるんだって。いや、芸大にすぐ行くのもつまらないからね、ちょっとって。1年いたら芸大に行った。いや、すごいのがいるなと思って。今、有名になっちゃってるの。何か日本の現代音楽の偉いさんになってる。

T:大学では、バンドは?

S:はね、バンドやってる友達がいっぱいいて、芸術祭には飛び入りでやったんだけど、僕はバンドは学内ではやらなかった。キャバレーで知り合ったほうの、プロの仲間の、そこそこ弾けたからね、結構仕事あったんだ。横浜でセッションだとか、バンドだとか、そうこうするうちにね、八王子にアローンっていうジャズ喫茶があったのね。そこはね、生活向上委員会なんかの根城だったの。だから、フリージャズ系そこで生活向上委員会っていうのが入ったり、自分でトリオやればって自分でやったり、し出したら学校いかないですよね。

T:それで、もうプロとして。

S:そのまんま。2年目ジャズ喫茶とかやりだしたでしょう。そしたら、ぶらぶらしてるんだったらハコバンにこいって言われて、キャバレーのハコバンをやるわけ。半年ぐらいかな。やりながら、ジャズ喫茶に出るときは トラ(エキストラ、代役)を入れてをいれて、それも持ち回りなんだよね、仲間がいて。とかやってるうちに、ピットインに出るようになって、そのころはピットインに出るって言ったら、あとはいいわけ。要するに朝の部に出て、一生懸命やってると昼の部の人が見にきて、うちのバンドをやるって引き抜かれて、昼やってるうちに夜のバンドの人が見にきて、おまえ、うまいからうちにって。始めて夜のバンドに入ったのが、向井さんっていう人のグループで、そうなるとツアーがあるわけ。全国ツアーとかできるわけ。そうするともうやめられないじゃんね、酒はうまいし姉ちゃんはきれいだから。

T:そこで、向井さんのツアーが初めてのツアーになるんですか?


S:そうですね。いわゆるプロっぽい活動としてはむかいさんの。その前から、アマチュア時代の本多俊之っていうのとやってて、彼が卒業してバンドつくったときも一緒にやったり。で、当時のジャズマンは掛け持ちが当たり前だから10個ぐらいバンド入ってて、金にもならないんだけど、何か忙しい。キャバレーもやってる暇ないから、売れてくるに従って貧乏になって、そのときどきのおねえちゃんに食わせてもらうわけですね。楽しかったな。で、もう大学やめるとかいって、親父が失敗したーとか言ってさ。東京やるんじゃなかったって。こっちはさ、家業があるから、ジャズなんか食えないからですね。楽しいだけ、最初は学生の期間、23までと思ってたんたけどね、もうちょっととかって。いい加減なところで見切りをつけて帰るからっていう約束でずるずるとやってたんですよね。で、幾つのときかな、まだ弟が大学にいたからね、21、22かな、のときに家がちょっと左前になって、店が1件の店を2件にし、3件にしたところで失敗して、撤収しなきゃいけないと。今帰ってくれたら、これがいいっていうから、そのころはツアー始めて楽しいわけですよ。今はちょっと帰りたくないねんって言ったら、弟が新潟大学行ってたんだけど、休学して帰ってくれて、偉いやつなんですよ。「おにいちゃん、じゃあね、商売もだめだから、おれが行く」って、弟が帰って、しばらく店番をして、相談をして手放して、要するに撤退をきれいにして、店を。2件目の店を1件にして、きれいに商売をしてくれたと。1件の店で、弟も嫌だから、ちょっともう大学に帰る気もないし、放浪してくるって言って、バックパッカーじゃないけど、旅行するわけ。旅行して何するかっていったら自衛隊に入りやがった。体が弱いから自衛隊にでも入って、だから今、すごい少林寺拳法とかできるようになっちゃってさ、もうけんかできないの。(笑)

T: (笑)

S: 大型二種もってるしね、偉いんです。こりゃいいんだっていうんでずっと、プロ。そしたら28のときにね、古沢っていう人のバンドをずっとやってて、リーオスカーが来て、全国ツアーをしてた。そこにいるカワバタっていう人が、もうすごい、もう死んだんだけどね、その人のビートがすごいよくってね、どうも真剣にやってるんだよ。おれはもう学生気分だから、28だけどね。もう子供もいるんだけど学生気分。いつやめようかなって、いつお茶屋になろうかって、30かなと思ってたの。たまたまその人とね、どこだっけな、釧路か、終わった後に飲みにいったら2人だけになっちゃった。その人はほとんどしゃべらない。おれ酔ってしゃべる。でも、なんだかしゃべらないでおこうと思ったんですね。沈黙を味わおうと。そうすると、1時間たっても2時間たってもしゃべらない。いい感じなの。でも何かあるわけ。すると、だんだんほつぽつと、実はおまえを見てて思うことがあるみたいなことを言うわけよ。もうちょっとリズムをがっちりと考えてやったらいいんじゃないかとか。僕が気に入ったのはね、気に入ったというのもおこがましいけど、思想はあるかとか、そういうことじゃないわけ。要するに音楽を大事に、音を出すんだからその出す音を丁寧にっていう、そんなふうにあんまり考えたことないからね。その時はレゲエビートの曲が多かったのね。ドッドッドって。すごいビートですよねって言ったら、音っていうのはね、出すときと伸ばしてるときと切るとき、1つの音に3か所注意しないといけないから、笑ったり何とかできないよって言うわけ。「カワバタさん、笑いませんね」とか言ったんだろうね、おれが。それは何ぼ何でもおおげさだろうって。だってさ、ね、120っていったら1秒間に2拍あるわけですよ。もっと早いのだってある。それのドッドッドっていうのに、これとこれとこれで、全部に集中っていうのはできないから、どこにポイントを置いたらよくなるかって言ったら、全部だって言うわけ。俺はその時はセカンドキーボードで、シンセでシロタマだから、最後は明日弾かないでもいいから、とにかく明日1日は彼のプレイを見ていろっていうわけ。バンマスでもないのに。古沢さんにこんなこと言われたって、いいよ、いいよって。多少弾くんだけど。そしたらね、もうほんとだったの。その日、1日2時間ぐらいのステージで1音としてゆるがせには弾いてないわけ。音を出すとき。いつどの音を弾くか、どんだけ伸ばすか、どのように伸ばしてるか、どう切るか、こうやってね、そのときは音楽がすごい立体的に見えてね。その晩お父ちゃんに電話したんだよね。ちょっと感じるところがあって、一生音楽やりたいんですけどって。失敗したとか言って。あの時に連れて帰ればよかったって。それからちょっと音楽を真剣にやるっていうかね、真剣にやったらやったでね、またつらいのよ。一拍目がずれたの、そのぐらいのことでさ、死んだ方がいいんじゃないかとか。それは自分の人生観には反するんだけど、半分はそう思いつつですね。

T:父親に告げたときから意識は?

S:意識としては28歳からプロだね。プロになったときは、向井さんのところも本多のところも、フュージョンの出始めでしたからね、どうもね、ずれるんだよな。ピーターソンが好きなのに、コルトレーン聞かされたように、ジャズがやりたいのにフュージョンやったり。ちょうどその頃は、ロックからフュージョンに向かうのと、ジャズからフュージョンに向かうの仲よくなってたから、プリズムなんてやってね。プリズムの前にRCサクセションがありますよ。大学にぽつぽつっと顔出してたころに、国立にあの3人は住んでたんだよね。初期メンバーが、『僕の好きな先生』のヒットも、もう遠いことになって、グループやってるんだけど売れない。陽水さんと仲いいから、清志郎は。陽水の前座で回ったり、ポリドールの関係で矢沢の前座行ったりっていうのに、おれサポートメンバーで入ってた。だから、それが大きいステージだけとね、矢沢さんの前座はつらかった。一曲おわるたびに、「はい、終わり」とか「もう帰れ」とか。

T:ソロの矢沢さんですよね。

S:ソロですね。もうあれは終わってた。キャロルは終わってた。だから、全盛っちゃ全盛だよね。サウスツーサウスの前座はおもしろかったな。キーボードが中西なんかとみんな知り合ったし。その辺は今でもつき合ってるな。

T:プロになって、何か音源的に形になったものは?


S:でもまあ、やることは一緒ですよね。バンドいっぱいやって、そしたら、サウンドデザインっていうレコード会社が、喜多郎さんで当たってね。会社が大きくなったんで、ちょっと大手ではないジャズシリーズをやるっていうんで、ライブハウスの人気者たちっていうシリーズを始めるんですね。その第一弾がおれに声かかって、レコードデビュー。そのときやってたトリオのメンツとか、古沢さんとか、で、ブルースのほうでつき合ってた山岸とか、そういうのをいろいろアラカルトにして。ピアノがメーンでゲストがあるっていうのを出したんです。

T:タイトルは?

S:タイトルは「スバトット」っていうんですけどね。

T:どういう意味なんですか?

S:これは擬音です。スバトットバーンって始まるの。それはプリズムがやってたときに、プリズム用に書いた曲で、でもジャズのトリオでやると割とおもしろかった。そのころから、オリジナルを書いてはいたんだよね。あ、プリズムをやるっていうんで、25のときかな。で、僕がプリズムに入った最初の仕事がライブレコーディングだったんですよ、郵便貯金で。で、ロックバンドって、ジャズバンドは曲書かないじゃない。ロックバンドはみんな曲書くんだよつって、作曲科じゃないかとか言われて、いわゆる作曲、サブジェクトとしての作曲は、和声法と対位法を習うだけで、作曲自体はしないんですよ。で、作曲したことないとかいってさ。でも、せっかくだからとかいって。ピアノソロを書いて、ロックバンドなのに。(笑)2枚組みの2枚目の1曲目が僕のピアノソロ。それにつながって、渡辺ケンのベースソロがあって、みんなの曲になだれこむ。初めて書いたのはその曲でね。初めて書いた曲がレコーディングされるんですからね、いいですよね。また、いい曲なんだ、これが。ちょっと甘っちょろいバラードで。サマーアフタヌーンっていうんだけどね。で、そのままプリズムに曲を書いてて、「スバトット」っていうのが、ややこしくてガーッとした曲なの。それでレコードデビューをして、そのままプロデューサーになっちゃったわけ。要するに僕が友達の、まだデビューしてないおれと同じぐらいの30以下ぐらいのやつを呼んできては、アルバムデビューさせる。

T:そのシリーズでですか?


S:シリーズで。シリーズの常として、第一弾が一番売れるんだよね。次はちょっと落ちて、5作目ぐらいになると、もうだれでもいいんだけど人材がいないなみたいになってきて。そのうち、あれはね10枚ぐらいまで続いたのかな。10枚続いた時点でサンプラザでコンサートをやってね。10枚目ぐらいにね、菊池コウセイっていうのが出てきて、そいつはね、僕は呼んでないわけ。呼んでないんだけど何かやるからって言って、一応ディレクションはしにいかなきゃいけないじゃん。何でって言ったら、自分でお金を出してメンツを集めるから、レコードをつくらせてくれって言ってきたんだって。だからね、会社としては痛くないから、おいしいし。やるっていうから、怒ってですね、それじゃいけないんじゃないのって。ミュージシャンもそういう売り込みをしちゃいけないし、そう言ってきても、それはできません。お金は払うからいいものをって言わなきゃいけないのにさ。で、これは名前伏せておいたほうがいいですね。でもまあ、いいアルバムにはなって、ただ菊池君はフュージョン志向なんですよ。連れてくるのは、ポンタさんだったり、グレッグだったりするから、目つぶって、まあ、仲いいし、いいんだけど、このコンセプトとは違うわけよ、僕に言わせれば。つらかったな。そのつらさがずっと今日まで続く。(笑)

T:何年間で10枚なんですか?

S:1年間。毎月出してたの。だからね、結構よかった。で、シリーズはそれでとじようと。そういう事件もあったし、人材の。で、ついては佐山君、2枚目をどうするって。で、2枚目つくれるのはおれなわけですよ。で、そこの会社の社長は外人好きだから、当時出てきてたデーブウェックルと、チェルットウォーヘッドというのでやればどうだって。外人とやるのは嫌だって。だって、やってあげてるみたいなレコードばっかりじゃない。やるんだったらね、自分でやりたいやつと知り合って、セッションしてからやると。って言ってたときに、山岸の連れでソロベース弾くね、エイジっていうのがいるんだ、何エイジっていったかな。中平だ。そいつがね、不良のくせにね、ビクターに入社しちゃったの。契約社員とかで。入社して、そいつのついたディレクターが田口サンっていって、渡辺貞夫とか売った人なの。それが、デジタルマスターシリーズっていって、すごいいい録音方法ができたんで、まだLPの時代だけどね、できたんで、それの音のいいシリーズを出したい。ついては新鮮味のあるアーティストを探してるんだけど、来ないかっていってビクターに引っ張られたの。で、ね、世話になったこっちをとるか、大手のビクターをとるかっていって、お金のこととか出して、こっちは外国にいける、こっちはポンタとやれる。でも、こっちをとった。で、ビクターに行って。ポンタさんとグレッグと。そのころティーファイブトリオっていうのをやっててね、下北沢にティファイブっていうのがあって、そこに月1回だけ集まってトリオをやる。

T:メンバーはどんな感じなんですか?

S:メンバーは村上ポンタとグレッグリースとおれと。すごい楽しかったね。で、そこでやってる曲とか、ヨネキっていうベースが、おれ、すごい好きだったからそいつにも入ってもらって。だから、ドラムとピアノが一緒で、ベースがウッドとエレキと半々のやつを出したんですよ。それもシリーズの1回目だからすごい売れてね、1回目はゲーリーバートなんだ。日本人第一作がおれ。で、それからビクター時代になっちゃうんだね。で、それはプレミアリトルミュージックっていうLPで、結構売れたんで2年目にこれは自分のトリオにしたかったから、そのヨネキと小山ショウタ、山下洋輔さんのところの。で、やって、すごい本格的なやつをやったら、本格的なジャズをやると売れないのね。今まで一番ジャズっぽいアルバムなんだけど、売り上げは一番低い。

T:何か名前あるんですか、バンド名は。

S:そのころはね、まだ佐山雅弘トリオ。うん。で、ティーファイブトリオも、これはPONTA BOXっていう名前になるんですね。ティーファイブトリオとミズノのポンタなんとかっていうのがある。これは島健と水野。で、面倒だから、ポンタとミズノがおれを雇って、ミズノのバンドなんだけどポンタの名前を使ってPONTA BOXっていうふうにしたの。それでツアーをやって、自分名義ではそれをやって。

T:「PONTA BOX」になったのは何年ぐらいですか?


S:何年だろうな。あれはね、94年がアルバムデビューでしょう。84年だ。デビューまで10年かかってるからね。CDつくるつもりはなかったんだけど。で、おれは当時ポンタが「イカ天」とかやってたから。バンドっていいなと思ったから、ピアノトリオも何枚か出したから、バンドやりたいと思って、ゴンボっていうバンドをつくるんです。テナーとアルト2管編成にしてトリオで。で、僕のオリジナルをやる。

T:ゴンボってどういう字ですか?

S:字はなくて、ゴボウのことを大阪で「ゴンボ」っていうの。

T:じゃあ、ひらがなで「ゴンボ」ですか。

S:ひらがなとカタカナとか、「GOMBO」って書いたりね。ゴボウっていうのはね、ダイコンと違ってこう抜けないの。要するに細いのに、ひげが生えてる周りの土までこう開けてあげないと抜けないから、やっかい者のことをゴンボとか言ったり。ジャズっぽいでしょう。それはね、結構いい  とかやって、1枚、2枚だしたのか。2枚で終わりか。3年かかって2枚だして、全国ツアーも2回やったんだけど、全然目が出ないわけ。ポンタボックスのほうがいいわけ。それはそうだよね、華やかだしさ。で、売れなくってって言ってるうちに、ソロにするんだな。バンドを維持するのは大変だからっていって、ソロアルバム。ピアノソロだったり、ゲストを入れたりとかやって。で、1年に1枚ずつやってるうちに、ポンタボックスがすごい人気出てきたから、これは何かしようって言って、で、デビュー作をつくるわけですよ。それが94年。そしたら売れたね。ポンタさんもね、自分名義はなかったからね。あれは変なんだよ。水野のバンドだったの。水野トリオでポンタの名前を出したほうが客が来るっていうんで、馬鹿だよね。レコード契約した途端に、ポンタがバンマスになっちゃって。アルバム2枚だして、まだ売れて、あのころ全盛期だったかな、演奏もぴちぴちだったし。で、モントル呼ばれてライブ盤だしてDVD出て。帰ってきて、そうすると水野が変になってきちゃって、変っていうよりはね、ポンタさんに欲がでてきたんだね。名前も出たし、バンドの勢いはいいし、テレビはあるし。で、こう、有名になると、今度は歌とやらされるわけよ。ポンタボックスでだれかとやってくれとか、そういうゲストものが多くて。水野っていうのは、すごい作曲の才能はあるんだけど、伴奏がだめなの。自分のための音楽しかできないの。おれ、そういうやつのほうが、いいと思うんだよね。そういうやつを大事にしたほうがいいのに、ポンちゃん悪いくせで、フレキシビリティのある活動をしたかった。水野はクビになって、自分のバンドだったのに。(笑)おかしい。どっかおかしい。でもね、十二、三年やってね、結構印税も稼いだし、いいかななんて。そこでバカボンが入ったんで、で、ポンタボックスは水野の曲がほとんどおれがときどき曲を書くのが、今度は僕がいっぱい曲を書かなきゃいけなくなって。それでも結構僕の曲もふえてたからね、やったんだけど、今度はカバーものが多くなってくるわけですね。ジャコの曲とか、ブレイカーブラザーズとか。佐藤竹善が来て歌うとか、シークレットライブで山下達郎が来るとか。泉谷と一緒にジャズフェス出るとか。その後どんどん有名になるんだけど、つまらなくなるんだよね。バンドじゃないじゃんね。バックバンドで。ポンタにしたら、もう最高なわけよ。もともとあった自分の器用さと、ちょっとした有名人好きだから。さらにバンドごとでいきたいんだけど、ポンタほどはできないわけ。おれも相当器用だけど、ポンタさんほどはね、あるときはハービーメイソンであるときはスティブダッドというふうにはさ、チックコリアとハービーハンコックぐらいはいけるけどマイケルマクドナルドとかさ、佐藤ヒロシとか、そういうふうにはならないから。バカボンもそうで、岡沢章とマーカスミラーをやらなきゃいけないわけですよ。それでだんだん変になってきちゃって。テレビのレギュラーとかもあるからね。だから、売れたバンドがやがて解散するというのはわかるね。そっちのニーズに合わせなきゃいけないし、もともととは違うし。そうすると、こっちとしてはメンバーに不満が出るしっていうんで、だんだんね、バカボンをトラに差しかえることが多くなっちゃった。おれもなるべく歌だったら、だれか呼んでとかいってやらなくなっちゃった。だから、末期的には僕とポンタさんのユニットだということにして、ニューヨークに言ってアンソニージャクソンとウィルリーを使い分けてっていうアルバムがあるんですけどね。あのときはもう事実上終わってたな。

T:それが何年ぐらいですか?

S:それが3年前ですかね。

T:2000年に入ってからですね。

S:そうそう。2000年に僕はやっと外人とやるんですよ。ニューヨーク録音をして。ミノ・シネルとマーク・イーガンっていう。で、2001年にポンタボックスがニューヨークでとって。

T:サンポーニャの瀬木貴将さんとの活動話も教えて下さい。

S:そうそう。そう思ったの。「PONTA BOX」が全盛で、ポンタさんがカザマツとかやって、91年。そのころですよね。

T:出会いから教えてください。

S:出会いはね、香津実から電話がかかってきてですね、ちょっとこういうやつがいるんだけど、やらないかって。おまえがやるならやるよって。で、ほかだれだって言ったら、青木とポンタって言うから、「すごいじゃん」って言って、そんな人なのって言ったらね、みんながそうなの。みんな、ほかそのメンツだったらやるよって、みんなでやるんだけど、中心となる看板のことはだれも知らない。で、仙台のコンサートに行ってですね、大きいホールで。こんなところでやれる人なんだって、みんな思ってるわけ。そのときにキドとね、イッソ(一曾幸弘、和笛)がいたんだな。コバはいなかったな。その次か。キドとイッソにびっくりしてですね、あとフクオカユタカ君。すばらしいコンサートで楽しくて。もうね、曲もいいじゃない。あのころ、今と曲質がちょっと違ったかな。うん。今のほうがより何だろう、大自然に近くなってるのかな。でもまあ、みんなで気に入って、で、リフレクラブと称してね、ツアーしたり。で、瀬木はその後バデランテになるんだな。ヤヒロとかとやるようになって、おれがその、スーパーセッションですよね、それはね。そっちのほうは。やらないんだけど、明くる年にペドラーズマーローを呼んで、六本木ピットインやって、やっぱり仙台行って。そのときにコバもいて、まだ小林なんとかって言ってたね。髪も染めてなかった。(笑)けど、すごいよかったしな。で、そうこう、瀬木はそうやってバンド活動をするんだけど、何となく相性がよくってレコーディングは、日本のレコーディングは必ず呼んでもらってたんだね。やってるうちに、あれだ、ラブラブツアーが始まったんだね。

T:それはどういうツアーだったんですか?

S:デュエットで回ろうと。バンドはコンサートホールとか大きいライブハウスでやるけど、デュエットだと公民館の中ホールもあれば、ライブハウスもあるわけ。とにかく瀬木の車の助手席におれは乗って、二人で全国。日本一周するの。長野に出て、名古屋に下りて、ずっと表日本いって、鹿児島まで行って、裏日本通って北海道まで行って、仙台に下りてきて東京に帰ってくる。これはいいやって。僕、ツアー好きだし、ホールライブ好きだし。運転しなくていいし。それが最初の年50本ぐらいやったんだよね。で、行くと当然好評でしょう。で、またって行って、明くる年は70本だったりして。でも例年続いてて、去年が4年目か、5年目か、去年で4年目。4年続いたしね、おれ去年で50になったの。そしたらね、北海道のね、どっかのね移動でね、6時間ぐらい走ってるときに、途中でガソリンスタンドよったときに、疲れたなーと思ったの。で、疲れたなと思うことなかったから、疲れたなと思った自分にびっくりしてしまって、セギッチ、もうことしでやめようって。(笑)もう十分やったしね、ネイチャーワールドがすごいよくなってきて、来年はもうネイチャーワールドにして、ラブラブツアーは少なくとも1回は休もうとか言ってたんだけどね、結構オファーが多くてね、それはそれで、5月6月の名物になってるわけよ。そこのところで。ことしもいく。

T:ボリビアもね、何かツアーを。

S:そう。念願のボリビアね。ボリビアをね、セギっちはね、リブレクラブのころから言ってたの。行きたい。要するに、彼はしょっちゅうボリビア行ってるし、向こうで演奏もしてるけど、あくまで向こうの音楽にゲストで入るから、こっちでね、人気のあるセギワールドっていうのは、まだ行ってないわけですよ。向こうの人の恩返しもあるし、自分の成果の見せたいのもあるから、行きたいって言ってたんだけど、どうも行かなかったんだね。何か満を持してたのがあるんでしょうね。今、ポンタボックスと一緒で、今、リブレクラブを集めて行っても、あのサウンドの一体感はないもんね。今は3年がかりでよく育てたと思いますよ、あのネイチャーワールドをね。で、それで行ったら、本当にオールスターで行くよりよかったと思う。すごい過酷な条件でも一体感があるしね。そしたらね、好評でね、また来いっていうんだって。1回行ってよかったなと思うけど、もう一回行きたいかといったら微妙なところだな。(笑)どうしようかななんて。高山病になっちゃうしね。

T:ツアーを記録した小冊子を見せていただいたんですけど。

S:いいでしょう。

T:自ら本をつくる動機というか。

S:僕はね、ファンサイトをやってくれてる人がいて、それはファンサイトだから何もしてないんだけど、自分で仕事日記をつけてるのね。要するに弾いたピアノは何で、共演者が誰で、○△×みたいなのを書いてたんだけど、で、コンピュータを使うようになった3年ぐらい前かな、から手書きのをやめて、こっちで打つようになったの。こっちで打つんだったら、送信したら送れるから、ファンサービスで自分用の日記だけど載せるよって。そうするとね、載せるからね悪口が書けなくなったのね。それからはよかったときは書いて、メンバーは必ず書くんだけど、よくなかった人にはコメントなしっていう、そういうやり方を今してるんだけど。これ、ちょうどいいからですね、そのときはコンピュータは持っていっていなくて、手書きにね、最近こってるの。コンピュータで打つよりも、手で書く文章は違うのね。手で書く、しかも縦に書くっていうと、いい文章が生まれやすいなとちょっと思った時期なので、ちょうどいいからこうやってたの。ボリビアってあんまりうろつくと高山病になっちゃうから、着いた日は部屋でじっとする。ちょっと動いたからじっとするときが多かったの。やることないから、ずっと書いてたら結構長くなっちゃって、おまけに事件続出なわけよ。これはおもしれえやって、どんどん書いていたらこうなっちゃって、そしたら一緒に行ってた人が、デザイナーなんでね、で、これを仕事日記ように、自分で打ち直すのも嫌じゃん、そしたら、原稿を預からせてくれたら清書するからって言って清書してくれて、結構な分量になるから、そしたら彼女は本にして、行った人みんなにいいプレゼントじゃないですか、っていってしてくれたの。で、ワープロで直したのは仕事日記のところに上げて、みんなも読めるようにしたんだけど、これは行った人限定。

T:何部つくったんですか?

S:16部。一行16人だからね。

T:貴重というかね、すごいですよね。


S:いいんですよ。やっぱり本になるとね、コンピュータで読むのと全然違う味わいがありますね。

T:もっといろんな人にね、読んでもらえたらおもしろいと思うんですけどね、これもね。おもしろかったですね。

S:ほんと。そうか。DVDを見ながらね、これを読んでもらえたら最高ですよ。

T:スペシャルボックスを(笑)50ボックスぐらいね。いいですよね。本つきでね。

S:これは結構手間とお金がかかってるけど、お金のかからない印刷ってできるはずだもんね。つくってもいいかもね。でもね、これ書いておいてよかった。この間久しぶりに読み返したんだけど、忘れてるしさ、エルアルトの新鮮な感動がよみがえるもんね。

T:で、ちょっと話が戻るんですけど、今年活動はどういう形になっていくんですか?


S:最初の年に回ったときにね、結構ホールが多かったの。僕はライブハウス上がりでどんなピアノでも弾くっていうのが売りだったんですが、何かホールいいなって。で、どっか、真ん中ぐらいでね、九州のヒビキホールっていうところに行ったの。いや、もうすばらしかった。だって、ぽんと弾いたのが、フワンとして。そのときに、今まで思わなかったんだけど、夢ができたんですよね。自作自演をするコンサートピアニストになりたいと思った。というのは、紆余曲折を言うと、プリズムからポンタボックスでオリジナルをやってたじゃない。ジャズっていうのは、もうオリジナルよりもスタンダードのほうが王道で、結局そのほうが受けるのね。だから、ジャズ活動としてはスタンダードにするんだけど、ふつふつと自分の曲をやりたい気持ちがあるわけ。自分の曲には癖があって、あんまり人気が出ないのもわかってるんだけどね、ゴンボでやったように。でも人気出る、出ないとは別に自分のね、作品というのはかわいいし、いいじゃない。で、ホールとか連れてってもらったら、ラフマニノフとかベートーベンなわけですよ。瀬木君は、頑としてコンドルは飛んでいくやり出したのはこの1、2年のことですからね。絶対その線ではしない。自分の音楽で勝負するというのに感銘を受けてたし、だから僕のほうが10個以上年上なんだけど、影響を受けて最後にはね、自立したミュージシャンとして自分の曲をちゃんとしたホールでやる。もうセギはとっくにやってるわけですよね。そういう人におれもなりたいなと。自分の名前でやるときはね。と思って、外で、夢は人に言うに限るね。そんなことを言うの。できないけど、見果てぬ夢でそういうのいいな、何ていってたらね、ぽつりぽつりと、それもセギ周りの人なんだけど、ヒビキホールでやってくれる人とか、新潟でやってくれる人が、やりたいんだったらやりなさいよってやってくれたりして。でも、やるんだけど、自作じゃ受けないの。受けないし、自作ばっかりやってもね、自分が飽きちゃってだめで、試行錯誤があって、で、その試行錯誤の途中なんですけど、そうこうしてるうちに小原タカシっていうクラシックの人から声がかかってデュオをやったり、松田マサっていうエレクトーンの人とデュオやったり、だから言っておくと夢はかなうっていうか、夢は半分かなうんだよ。自作自演のコンサートピアニストの自作がないだけで、コンサートピアニストにはなりつつある。で、48歳にはリサイタルをしようと決めてたんで、クラシックに挑戦して、バッハのゴールドベルク変奏曲をやった。そのころには、さっき言ったポンタボックスがずっと終末に向かってたから、あれはほんとに楽しいバンドだったからね、その後寄席みたいなものだなと思ってたんだけど、そっちのほうが仕事としても伸びてきたし、自分としても上手になってきたから、それがね、どんどん今実を結んでて、マサチャンズっていうスタンダードトリオも、ことしの後半から来年にかけてホールコンサートばっかりやるし、ソロで呼ばれてるところも多いし。そうこうしてるうちに川崎にクラシックホールがたったら、そこの音楽アドバイザーに呼ばれて、そこでこの間ジャズミュージシャンを6人集めて2000人の小屋なんだけど、コンサートをやったの。それが当たって、クラシックはすごい、再来年の2月にサントリーホール。山下洋輔が生きてたらやりますとか言ってさ。それがね、ニューヨークのエブリフィッシャーホールでやるかみたいな話まで広がってて。そんなことをやってたら、名古屋音楽大学にジャズ科ができるので、教授にっていうんで。おれは卒業してないからね、先生になれないよって言ったら、客員教授はいいんだって。学歴とかじゃなくて。その教授になって、だからでも横浜のドルフィーとか、銀座のスウィングシティーとか、昔ながらのジャズクラブもやるけども、っていう感じ。

T:楽しみですね。


S:楽しみですよね。どうなのかな。ちょっと好みが変わってきて、いいピアノが弾きたくなっちゃいますね。前はどんなピアノでもどんなふうにでも鳴らす自信あったけど、今はね、ちょっとだめなピアノだとちょっとだめになったり、人間が贅沢アンドやわになってるね。反面、ピアノのことがよりわかってきたということでもあるから、あんまり気にしてないんですけどね。

T:今後、そういう活動を。


S:そうですね。今の流れだと、スタンダードジャズのピアノトリオでホールを回して、ホールったって300から500じゃないですか。1000、2000のところでは、プロデュースないしイベントチックなことをやって、で、ジャズクラブなんかではね、実験的なことをやるの。だから、ホールだとさっき言ったソロみたいに、あんまりオリジナルでもあれだから、結局は主催者とお客さん向け。それで、いかにいいことをやるか。で、小さいところは小さいことらしく、まだやったことない曲をやるとか。今ね、改めて2管編成のジャズがね、好きなの。アウトブレーキーとジャズメッセンジャーズとか、ブレッカーブラザーズとか、スタイルは全然違うんだけど、管がいてリズム隊があって、オリジナルでっていうのにちょっと音楽的な興味がある。と思ったら、曲もぽつぽつでき出してて。バッハをやってからね、3年間曲ができなかった。ピアノモードになるのね。そのバッハがすばらしいからです。やっとその影響もちょっと抜けてきて、できる曲がね、ややこしい。とても受けるような曲じゃない。

T:じゃあ、盤にもしたりするんですか?

S:盤にしたいですね。でもさせてもらえないみたいね。マサちゃんが売れてるから、スタンダードでばんと行って、食いつきがいいんですよ。1枚出したら売れて、2枚目出して売れる、今、3枚目で、3枚目で軌道に乗っちゃって全国ホールライブするでしょう。当分その線は崩せないから、今、ゴンボみたいなオリジナルやるって言ってもね、レコード会社が許可してくれないから。

T:出すとしたら、マサチャンズの流れの。

S:うん、でもそれもね、もうそろそろかなって。旬じゃないものを出してもしようがないからね。だから、今度出すとしたらライブ盤かな。か、6月にニューヨークに行くんで、一回ニューヨークライブして来るんですよ。その様子を見て、また行けそうだったら、ニューヨーク進出とかしてライブ盤するなり、その流れで知り合った向こうの人をゲストに入れるとか、何かそれはそれで僕の手を離れて、マサチャンズっていう団体だよね、のこととして、個人活動というのはまたどうなるかわからないけど、今、またできつつある、50になってからの曲を煮詰めて、多分ね、ビッチーズブリューみたいな世界になると思うんだな。うん。方向としては。ただ、あの手の音楽をやるのに、キーボードがリーダーじゃだめなんだよね。キーボードはやっぱりサポート楽器だから、ジョーザビルがやってたけど、やっぱりジャコとショーターじゃないですか。うん。チッコリアもあったけど、やっぱりスターは違うしな。何かいい形でね、自分の。ピアノは離れてもいいなと思うんだよね。シンセサイザーで僕だけの音、何をやっても僕はこの音でやるっていうセギ君のサンポーニャに匹敵するような自分の音色があったらですね。音が優秀なキーボードもいるし、バンドリーダーとして何かやって、好きにやるみたいなことができないかなとかね、夢想してるんです。

T:では、今後を楽しみにしています。ありがとうございました。

S:ありがとうね。

-end-

 インフォメーション

佐山雅弘さんの詳しいインフォメーションは、オフィシャル(http://www.masachans.com/)まで。