藤岡正明
2001年、シングル『交差点』でデビュー。先日、ニューアルバム『たとえば、僕が見た空』をリリースしたばかりで、
先日、「moment jam session #4」にも参加していただいた藤岡正明さんのロングインタビューです。
(2004年4月29日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)
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藤岡正明
1982.12.18 生まれ。東京都出身。
99.10〜11月 に行われたテレビ東京系『ASAYAN』超男子
ヴォーカリスト・オーディションにて、最終候補4名に残り高い評価を得、
Sony Music Japan Internationalと契約し、01.11.21「交差点」
でデビュー。
数々のライブ・イベントに出演しながら、02.02.20には早くも2ndシングル
「Rewind/Brand New Day」リリース。
02.07.24には日本テレビ系「AX MUSIC FACTORY」内のレギュラー枠『超藤岡DX』
を、CD+DVD化した完全生産限定盤「V.S.〜Various Sessions〜」をリリース。
その後、作曲やライブ活動に打ち込む充電期間を経て原点に立ち返り、
ヴォーカリスト藤岡正明として、ジャンルの枠に囚われない自分だけの音世界を
目指し、1st.アルバムのレコーディングに入り、1st.アルバム「Portrait」
(03.07.16リリース)を完成させる。
リリース後には札幌を皮切り名古屋まで、全国各地に歌声を届けるべくライブ・
キャンペーンを決行し、その時に必ず歌っていた、自ら作詞作曲した新曲
「Kirisame」が20代女性を中心に話題を集める。
04.12.浜田省吾、水谷公生、春嵐の3人のプロジェクト「Fairlife」
にヴォーカリストとして参加。
その中で歌った「Virgin」が話題となり、05.1.19.にシングルカット。
05.3.からは初となるミュージカル「レ・ミゼラブル」にマリウス役として出演。
そしてほとんどの曲を作詞作曲した2ndアルバム
「たとえば、僕が見た空」をリリースしたばかり。
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正直それまでは、歌っていうことは考えてなかったんですよ。歌い手というよりは、曲をつくるのが好きだったんで、作曲家になりたいなと。プロになってやるっていうのは、逆に作曲家になって、詞も当然書きますけど、そういう方でいきたいと思っていたので、表に立って何かやるっていうのも、多分だめだろうな、合わないだろうなと思っていて。
TERA(以下:T):よろしくお願いします。まず、生まれと場所と、教えてください。
藤岡正明(以下:F):よろしくお願いします。東京都町田市ですね。
T:ご兄弟は?
F:兄弟は兄貴が一人いますね。
T:どのぐらい離れてるんですか?
F:2つですね。
T:小さいころはどんな遊びを?
F:小さいころは泥んこ遊びばっかりでしたね。けがが絶えませんでした。
T:友達とか、結構みんなでわいわいって感じですか?
F:そうですね。高校の友達とはあんまりないんですけど、中学校の友達とかは、うん、いまだにずっと飲み行ったりとか、遊んでますね。
T:何か、小学校のときの部活動は?
F:小学生の時はサッカーばっかりやってましたね。
T:ずっとサッカーを?
F:サッカーですね。いろいろちょこちょこやってたことはあったんですけど、一番長かったのはやっぱりサッカーですね。
T:サッカー以外では?
F:サッカー以外は、水泳、小学校のときですよね、でもスポーツってそんなものかもしれないな。小学生のときは。中学生になってからどんどんいくんですけど。
T:何か音楽に触れた思い出ってありますか?
F:小学生の時は、合唱団に入ってたんですよ。うちのおふくろが合唱をやってて、その影響で半強制的に入れられて。でも、小学生って嫌じゃないですか、そういうの。バイオリンとかやってる男の子見ると、「おまえ、何バイオリンなんかやってんだよ」って、結構冷やかしたりしたんですけど、自分がいざそうなっちゃって、すごい嫌で友達に隠してましたね。
T:何か発表会みたいなものは?
F:ありましたよ。月に1回ぐらいとか、どのぐらいだったかちょっと覚えてないんですけど。月に1回か、2か月に1回か覚えてないんですけど、でもそのぐらいに1回あって、で、それこそほんとに翼をくださいとか、「天空の城ラピュタ」とか、そういうような曲をやってたんですけど。そうですね。うん。でも、今の基盤というか、音感、おれ絶対音感はないんですけど、相対音感だっけな、そういうのは多分合唱をやってたからでしょうね、多分。ギター始める前から、何の音がなってて、これでハモるんだったらこの音とか、そういうことは和音の固め方みたいなのは、わかってたんですよね。
T:6年生までずっと?
F:小学校4年だか3年から、4年だったと思います、4年生から3年間やってましたね。4年生から4、5、6年って。
T:中学校入ると?
F:えっと、中学校入って、いろいろスポーツはやってたんですけど、途中でぐれてましたね。(笑)
T:ぐれてた?
F:ぐれてました。
T:中一で、何か始めたことってあるんですか?
F:中一のときスケボーにはまってたんですよ。すごい毎日のようにずっとスケボーやってて。あと何だろう、バスケ部入ってバスケやったりとか、あと何だろうな、中一は……、ソリ入れたり。(笑)何だろう、すごい適当でしたけど。中学校はとにかく遊んでた記憶しかないですね、中一、中二あたりは。とにかくバカやって遊んでましたね。
T:何か楽器とか、音楽に関連することは?
F:やりはじめたのは、中三のときにギターを初めてやって。で、兄貴がふと急に触り出したんですよ、ギターを、ある日突然。で、弦を買ってきて弦を張ってて、それを見てすごい弾きたくなって、コード表とか見ながら弾いて、で、やってるうちに兄貴はすぐにやらなくなって、おれはそのまま続けてたんですけど。で、3か月ぐらいやったところでカバーというか、何かコピーしてるのが嫌になっちゃって、で、曲をつくり始めたんですよ。で、もうだから、ギターを始めて間もなくつくり始めて。
T:最初つくった曲って、どんな曲だったんですか?
F:いや、もう、恥ずかしいんでやめてください。
T:ジャンル的にはロック?
F:ポップスロックみたいな感じですかね。ポップスロックっていうか、何だろう、ポップスとロック混ざってるような感じの、何だろう……。ミスチルとサザンとシャムシェイドが混ざったような、イメージとしては。
T:その3つ好きだったの?
F:いや、別にそういうわけじゃないですけど、イメージですけど。尾崎豊さんが好きで、そういう感じでやってたんですけど、はい。
T:最初につくった曲の曲名とか覚えてる?
F:何だっけ、忘れちゃった。曲は覚えてるんですけどね。
T:まだ残ってたりするの? そういうのって。
F:残って、いや、ないんじゃないですか。頭の中で残ってる感じですかね。
T:録音しなかった?
F:録音しましたよ、当時は。それこそ、ほんとに、いわゆるピンポン録音っていうんですか、ラジカセ2つあって、こっちでダビングして、今度ギター録るじゃないですか、ギター録ったやつをこっち持ってきて、こっち入ってたやつをこう持ってきて、歌入れて、今度コーラス重ねてとか、そのうちどんどん前にとったのとか、全部が後ろになってて、何だか音が聞こえないものになってくるんですよね、あれ。残ってないんじゃないかな。ある日カセットって使わなくなるじゃないですか、だからある日がーっと捨てたような記憶があるんですよね。
T:全部でどのぐらいつくったの?
F:今までですか?
T:そのとき。
F:当時ですか。そうだな……。覚えてないですけど、でも、ほんとにやってたときは毎日つくってましたからね。一時期は1日一曲つくってましたね。
T:それで、バンドとかは?
F:バンドもやったんですけど。中三でもやったし、その後もやったんですけど、どうも続かなかったですね。多分おれが協調性がなかったんでしょうね。今になって、すごく、逆にバンドでやるっていうのがすごく楽しいし。
T:中学卒業するころはどんな感じになってくるんですか?
F:卒業するころは、でも、相変わらずギター弾いて歌ってましたね。曲つくって。うちのおふくろによく言われてましたね。その、ね、もう、ほんと受験なんだからって。ちょっとだけ今我慢して、高校受験終わった後にいっぱいやればいいじゃないって言われたんですけど、でもずっとギター触ってましたね。
T:受験は?
F:おれ、公立の学校に入ったんですけど、1校しか受けなかったんですよ。受かる保証もなく、でもそこしか行きたくなかったんですね。だから、そこしか受けないで、何とか受かったんで行けたんですけど。
T:何が理由だったの?
F:校則がやさしかったんですよ。あと家から近かったんで、楽だなと思って。早起きだけがしたくないんです、嫌いなんですよ。
T:で、そこの高校行き始めて、何か。
F:行き始めて逆にギター触らなくなっちゃったんですよね。初めは触ってたんですけど、また遊びのほうになっちゃって、友達と遊んだり、やっぱり高校生ぐらいだから女の子とか気になるじゃないですか。だから、いろいろ遊んでたりしてましたね。で、高校入ってすぐやめちゃうんですよ。高校1学期ほとんど行ってなくて、そしたら1学期の終わりとかに、夏休みだったかな、ダブるよって言われて、ちょっと行き出したんですけど、2学期に行き出してすぐ、先生とけんかして、「もう授業出ねえ」って言い出して、ほんとに出なかったんですけど、その3日後に留年が決定して、じゃあやめるって。
T:何月ぐらいに決定するの?
F:その時点で、出席日数が足りてなかったので。10月ぐらいだったかな、9月ぐらい、中間テスト前だったんですよね、とりあえず。
T:夏休み明けて。
F:そうですね。だから、かなり早い段階で。1学期はほとんど行ってなかったんで。
T:ほとんど行ってないってこと?
F:ほとんど行ってないです。行く日があったとしたら、昼休みとかに行って5時間目出て帰るとか、遅刻しなかった日は3日とかだったかな。でも絶対途中で早退してたんですけど。(笑)
T:それで高校出て何かしようとかってあったの? やめて何かしようとか。
F:なかったですねで、とりあえず、仕事してて、それは瓦屋の職人やってたんですよ、屋根瓦の。
T:おもしろそう。
F:そうなんですよ。中学校からすぐ近所の知り合いの人のところで手伝いやってて、そのままそこに半分就職みたいな感じでやってたんですけど、高校行こうと思って、ちょうどみんなが高二になる年に通信制の高校に入って、その高校に行きながら、そのころからまた少しずつ音楽やり始めて。で、また曲つくるんですけど、高二の冬ぐらいにつき合ってた女の子がいて、付き合って3か月ぐらいだったんですけど、すぐ振られちゃって、それがショックでたまらなくて、すごく好きだったんで、で、チキショー見返してやるみたいなので、音楽始めて。絶対プロになってやるって。そのときはすごかったですね、曲つくって。毎日のようにギターばっか触ってたし、で、ストリート、路上ライブみたいなことをやって。
T:どの辺で?
F:町田ですね。
T:地元で。
F:はい。ずっとやってて。そのころに、もう高三なんですけど、そのまま。そのころにオーディション、ASAYANというオーディションの話があって、兄貴の友達がそれを受けたくて、兄貴に付き添いを頼んでたんですね、その友達というのが。でもその日は実はおれと兄貴で下北に古着屋めぐりに行くってなってて、そうなってたのに、兄貴が5000円で手打っちゃったんですよ。それで、何だよおい、って言ったら、「すぐ、終わるからさ、半分あげるし」とか言われて、行こうよって言われたんですよ。で、ほんとちょっとだけらしいって言ってたんで、とりあえず行って、サクっと終わらせて古着屋めぐりに行こう、買い物に行こうってなってたんですよ。いざ行ってみたら、場所が東京ビックサイトか何かですごい遠くて、しかも夏だったんですごい暑かったんですよ。すんごい暑くて、しかも付き添いの人は中には入れませんって言われて、外で暑い中待ってるのは嫌だと思って、履歴書に写真と、アカペラで歌うということだったらしいんで、近くでプリクラ撮って、プリクラをぺたっと張って、いいじゃん、これで。とりあえず受けるとなったらクーラーで涼しい部屋に入れるんでしょうっていうことで入って、受かっちゃったんですよね。
T:結構人数いたんでしょ?
F:そのときは1万人ちょっとだったかな。
T:何段階かあるの?
F:1次審査、2次審査、3次審査終わって5人になって、その後4人になってっていうような感じですね。
T:4人、5人になった時って、どういう風な感じ?
F:もう変な感じでしたよ、何でだろうっていうか。正直それまでは、歌っていうことは考えてなかったんですよ。歌い手というよりは、曲をつくるのが好きだったんで、作曲家になりたいなと。プロになってやるっていうのは、逆に作曲家になって、詞も当然書きますけど、そういう方でいきたいと思っていたので、表に立って何かやるっていうのも、多分だめだろうな、合わないだろうなと思っていて。だから、不思議でしたね、何で自分が残ってるんだろうって。歌うまいとも思ってなかったし。
T:その時って、どんな歌を歌ったの?
F:何歌ったかな?
T:オリジナルじゃなくて、カバーだよね?
F:カバーですね。アカペラ、久保田利信の「ラ・ラ・ラ_ラブソング」です。
T:それで、5名になりましたというところで、その後は?
F:その後、結果として落ちて。落ちてというか、不合格というか、合格者が決まって。別に普通に戻るかなと思ってたんですけど、テレビなんでやっぱりすごく反響もあって、レコード会社とか、事務所からいろんな話をもらって、そうですね、でもそのときはあんまりやりたくなかったんですよ。すぐには、この世界には入りたくないっていう。そのオーディションを通して自分が足らないものをすごく感じたので、ライブをとにかくいっぱいやって、ギターだけっていうのに当時ちょっと限界を感じてたんで、ピアノを覚えたいなとか。後は、曲もいろいろつくって。打ち込みもそこで覚えたのかな、もうちょっとたってからかな。でもその時期に打ち込みもやり始めて、だから全然知らなかった世界へ入っていこうっていう気持ちになって。オーディションを通してシンガーとしてもやってみたいっていう、やろうっていう気持ちが芽生えましたね。だから初めはすぐにはデビューしたくないと。とにかく2年はおれは何もしたくないと思ってたんですけど、でも、まあ、多分タイミングだったと思うので。
T:そこで契約みたいな形になるの?
F:そうですね。オーディション落ちてから、4か月後ぐらいに、4か月とか5か月弱ぐらいで契約しましたね。
T:今のSMAに?
F:そうです。
T:最初、どういう連絡とかがあったの?
F:アサヤンっていうオーディションは吉本なんで、吉本を全部通して連絡が来るんですけど。
T:最初来たとき、どんな感じだったんですか?
F:いや、なんかね、変な感じでしたよ。しかも、今のSMAって幾つかセクションがあって、今のセクションじゃないところからも声がかかってて、一番初めに来たのはSMAだったんですけど、違うセクションの人が来たんですよ。で、一回、何となくごめんなさいみたいな感じで、そのときは一番初めなので、自分的にもその世界に入るつもりがないので、すみませんって断ったんですよ。とりあえず会うだけ会って断ったんですけど、その後、何かね、横入りみたいに違うセクションが来て、おれはまんまと違うセクションのほう、今のセクションにいるっていう。今だに言われますね。一番初めに手挙げてくれた人がいるんですけど、ニシオカさんっていう。おまえ、なんだよ、おれのところ入ればよかったのにとか言われて。
T:それで、CDを出すまでの経緯みたいなのは?
F:そうですね。とりあえずは契約して、とにかくいろんなことをやってたんですよ。とりあえず音録ってみようって、デモテープみたいなの録って、それもなんか馬鹿みたいに、今考えたらもったいないっていうぐらいお金かかってて、スタジオちゃんと取ってやってたんで、そのとき録ったのが、おれのオリジナル一曲と、ベイビーフェイスの、というかエリッククラプトンのチェンジ_ザ_ワールドと、バブルガムブラザーズのウォンビーロング。何でだろうって。ただ、すごいかっこいいじゃないですかオケ。だからこれ歌いたいなと思って。ファンキーだと思って。
T:自分で選んだの?
F:選びましたね。
T:オリジナルは?
F:オリジナルは中学校のときにつくった曲を新たに変えてやったんですけど、今でもライブではやりますね。その曲だけですけど。
T:まだ盤にはなってない曲?
F:なってないですね。でもいつか、それは記念にやりたいですね。
T:それで、3曲録りましたと。それで?
F:あとは、変な、いろんなことやってましたね。仕事でフジロックフェスティバルを見に行ったりとか。全然仕事じゃないんですけど。ただ、名目でフジロックにいる藤岡を撮影しますみたいな名目なんですけど。1日目のグリーンステージの一番初めのケムリが出てたんですよ。ケムリが出てて、夜にオアシスが控えてるっていうのに、ケムリで思いっきり暴れまくってムチウチやっちゃって、オアシスまで寝てたんですよ。パティスミスとか観れなかった、確か。で、オアシスで何とかちょっと復活しつつ観たりしてて。あと何だろうな、いろいろやってましたね。「藤岡正明@THE
MOVIE」っていって、デビュー前のプレイベントみたいなもので、いろんな近況を映像で撮って、それを東京はAX、大阪はマザーホールっていう所で上映したんですよ。
T:キャパ的には狭くはないよね。
F:狭くないですよ。今、AXでライブなんか出来たらもうね、最高ですよ。それで、まあ、夏、ちょうど2001年の夏にずっとレコーディングも並行してやっていて、10月の何日だったかな、覚えてないんですけど、デビューイベントみたいなこともやったんですよ。ライブ。それも代々木の野外ステージでやったりして、で、まあ、何とか晴れて11月にデビューして、21の時だ。
T:デビューシングルの『交差点』。
F:はい。
T:この録音というか、レコーディングはどんな感じだったんですか?
F:レコーディングは、どんな感じなんですかね。おれもあんまり。
T:初めてのレコーディング?
F:いえ、その前にもやってましたね。でも、そうだな。いろいろ結構ああでもない、こうでもないと楽しくやってましたけど。そうですね、やっぱり今と明らかに違うのは、すっごい時間掛かってましたね。変な話ですけど、時間もお金も無駄に掛かるというか、多分おれ、今回のアルバム、絶対デビューシングルの交差点と同じぐらいの時間でアルバムを仕上げて、多分お金も半分以下ですね。当時はそういうのを知らなかったので、とにかくスタッフがやってくれることをただやるみたいな。
T:沢山の曲をレコーディング時にチョイスした感じ、それとも。
F:決め打ちですね。これと、これとこれでっていう。
T:その『交差点』、今思うことありますか?
F:そうですね。うん。曲はつくってないんですけど、でもあの当時、詞を書くのに、すごく苦しんでたんですね。2週間ぐらいずっとこもって書いて、初め自分で書いてたんですけど、どうも全然オーケー出なくて。結局会議室にこもって書き始めて、2週間まるまる、昼に会社に行って、夜中の三時ぐらいまで書いて、当時は、バカみたいに、もったいないことに、タクシー代とか出してもらっちゃってたんで、そんなことがありながら、夜中にまたタクシーで帰って、また昼に会社来てみたいなことを毎日やってて。そうですね、正直ね、いいつくり方ではないなっていう、いい制作の仕方ではないなって、今思うと、そう断言できるんですけど、でも、多分すごいそういう経験は大きいかなっていう。詞で苦しむというのを初めて知ったし、それが逆に詞を書く時に、今だったら苦しむのわかってて、その苦しみのまだ先に、でもこう来た、これだ、この言葉だったみたいな、その快感じゃないですけど、そういうものが得られるようになったし、すごくいい経験だったなと思ってます。
T:初めて自分の名義のCDが店頭に並ぶじゃないですか。それってどんな感じなんですか?
F:結構、普通だったんですよね。それは、何だろう、当時は何もそういうことを考えてなかったんで、別に何か自分のCD出てるけど、それは関係ないみたいな。おれはおれだ、みたいな感じで、はい。でもそうですね、うん、変な感じではありますけどね、確かに。CDが並んでるっていうのは。
T:で、セカンド『Rewind』も翌年すぐ。
F:そうですね。約3か月後に。
T:セカンドは、どういうシングルですか?
F:これは、当時デビュー前からずっと一緒にいろんなことやって来て、おれのピアノの先生でもあったんですけど、川口大輔さんっていう。で、川口さんの曲で、それはもうデビュー曲を録るぐらいのあたりにもうあったんですよ。その曲自体は存在していて、で、まあ、出そう、それを出そうみたいなことになって。もう一回歌録り直して、一回歌は歌ってたんですけど、もう一回録り直して、歌詞は2人で一緒に書いて。はい、っていう。面白いことができましたね。あんまりそういうことって、おれは他にやったことないんですよ、後にも先にも。
T:コラボレーション?
F:コラボレーションはあるんですけど、一緒の空間で、ああだよね、こうだよねっていうのは経験したことがないんで、今でも。その「Rewind」という曲に関してだけなんで、すごく面白かったですね、それはそれで。当時は全然普通だと思ったんですけど、今よくよく考えてみたら、例えば自分の曲に歌詞を書いてもらうにしても、一緒に行って何かやったりとかしないんで、やっぱり曲だったら自分がつくって持っていく、詞だったら詞で、つくって持っていくみたいな感じですね。だから、面白いつくり方しましたね。
T:その夏、限定版の。
F:そうですね。他には、テレビの企画でおれが一個の楽器とボーカルで一つの曲を完成させるみたいなことをやってたんですよ。例えば、もうわかりやすく言うと、ギターとかもあるんですけど、そういうことだけじゃなくて、トロンボーンとおれの歌、声とか、ハーモニカと歌とか、そういうことをやってましたね。ハモンドオルガンと歌とか、スティールパンって、こうスティールドラムっていうのがあるんですけど、ポロロロロンみたいにやるんですよ、それと歌とか、そういう何か変なことやってましたね。
T:それ、曲自体は?
F:カバーです。それが「V.S.」っていうカバーアルバムですね。
T:どんな曲を?
F:洋邦問わずやってたんですけど、ジャンルも全く決めず、邦楽だと、「川の流れのように」それからサザンの「太陽は罪なやつ」尾崎豊さんの「forget me
not」っていう曲とか、あとは、山崎まさよしさんの「セロリ」。あと、洋楽だと、ティモシービーシミットの「SO MUCH IN LOVE」、ビートルズの「HERE,
THERE AND EVERYWHERE」、あと何やったっけな。あと、「MORE THAN WORDS」ですね、エクストリームの。この7曲だったと思うんですけど。ちょっと不思議なことやってましたね。でもすごくこれに関しては、今聞いて一番俯瞰で見て、以外とちゃんとしてたんじゃんみたいに、まだ思える出来になってますね。
T:映像も付いてるの?
F:付いてましたね。それは、もう。
T:各曲の映像を。
F:各曲の映像と、おれがバカな事をやってる映像と。
T:で、アルバムに向けての動きが。
F:そうですね。そこが一番大きいかな、デビューして。
T:何かありました? その期間で。
F:ありましたね。カバーアルバム出してから、すぐサードシングル出したいねっていう話で、その時は逆にいろんな曲を集めて、いろんなものをデモテープで録ってみて、何がイイかってやってたんですけど。その時、ちょっと時間的にもズルズル延びていっちゃって、結局、夏ぐらいになっちゃったんですよ。夏前ぐらいに。それで、何もやってないじゃないですか。何もやってないから、いろいろ経験にもなるし、何かやってた方がいいんじゃないかっていうので、路上ライブツアーみたいなことをやったんですよ。おれがギター一本持って、もう一人ギターの人が付いてたんですけど、2人でギター1本持って全国車で回ってっていう。当時まだおれ免許持ってなかったんで、マネージャーが運転してたんですけど。で、ずーっと回って、初めは和歌山から始まって、京都や奈良のほうに行って、大阪行って、四国も行って、広島だったりとかそっちのほうも行って、九州行って、九州全部回って福岡から一回東京に帰ってきて、そこから東北に行って、岩手とか。で、岩手とか秋田とか山形とか行って、その後北海道行ったんですよ。北海道の後が新潟行って、名古屋行ってもう終わりだったんですけど、北海道でバイクで事故を起こしちゃったんですよ、おれ。それは、そのギターの子っていうのが北海道札幌出身で、札幌でバイクが実家にあるっていうので、バイク乗ってきてたんですけど、それで事故を起こしちゃって。結局路上ライブツアーっていうのが中止というか、全部飛ばしちゃったんですね。事故なんで警察にも行くし、そうですね。その後、東京帰ってきて、とりあえず3か月間活動を自粛するということになって。で、自粛っていっても、実際はもう一回復帰できるかどうかわからないっていう状態で、事務所側も検討させてもらうっていうことだったんですね。そうですね、そこがすごい恐かったですね、辛かったし。
T:でも、事故までの道のりの中で何か得るものっていうのがありますよね。
F:いろいろ得てたんですけど、事故を起こしてアルバムつくって、今考えたら前やっていたモノなんていうのは得てたと思っていた勘違いというか、自分は成長してるぞみたいに多分勘違いしてたんでしょうね。多分ね、何もできていなかったですね、当時は。
T:で、アルバムに向けてどういう動きを。
F:で、3か月活動を自粛して、何とかできるようになって。当時一回、多分精神的なものなんですけど、声が出なくなって、それこそ2か月ぐらいほんとうに声が出ない状態だったんですけど、それもやっと治ったときにアルバムをつくろうって。今じゃないんですけど、その当時のレコード会社のおれの担当の、レーベルのボスが言ってくれて。で、やっとアルバム制作始まったんですけど、アルバム制作も、やっぱり気持ち的なものもまだ乗れてなかったし、やっぱり今まで甘えてきた分、そこでしっぺ返しが来たというか、やっぱりうまくいかなかったんですね。求めるものに達していけないっていうか、ほかのスタッフが求めるものに自分が到達できないっていう。
T:最初、アルバムづくりって、どういう段階から入っていくの?
F:初めはデモテープとか、人につくってもらった曲ばっかりなんで、それにちょっと歌を合わせてみたり、キーを決めたりして始まったんですけど、普通によくあるパターンだとは思うんですよ。曲をつくらない人だったら。で、始まったんですけど、本当に普通だったら、例えば普通の人がどんだけでやってるか分からないですけど、大体1日1曲は録れると思うんですね。だけど、本当に1日1曲なんてとれなくて、全然今日もだめ、昨日もだめ、とかっていう状態で。
T:それは歌の部分で?
F:歌ですね。曲はほとんど、2曲ぐらいしかつくっていないんで。
T:それで、完成までに。
F:半年ぐらいかかりましたね。で、やっぱり、そこがもうとにかく苦しくて。毎日毎日、今日もできなかった、明日はどうなんだろうってずっと思ってて、半分ノイローゼみたいになっちゃって。で、実際終わってマスタリングしてる時とかだったかな、すごく安心したし、寂しくなっちゃって。つくった時に、「もっと、ああ出来てたらよかったのに」とか、「もっともっと自分の意識がしっかりしてれば、高いところまで行ってればもっといいものになるんじゃないか」とか、すごくそういうことばっかり考えちゃって、「すぐ曲をつくりたい」と思ったんですよ。で、すぐ曲をまたつくり始めて、それで3枚目のシングル「Kirisame」っていう曲ができて。そうですね、ここでやっぱり初めて自分の中で気持ちが開けたというか、いい意味で図太くというか、神経が図太くなったというか。アルバム出すまでは、とにかく自分の中でかなりキツかったので、うん。だからそうですね、すごくそこで楽しいなと思うことだったりとか、ちょうど「Kirisame」のときに水谷さんなんかとやり始めて、そうですね。
T:アルバム「Portrait」に関して、今、思うことって何かありますか?
F:そうですね。名盤じゃないですよ。自信を持って出せる名盤じゃないです。その代わり多分、おれが10枚ぐらいアルバムをもし今後出すことがあっても、10枚目でも、すごーく残ってるでしょうね。1日1日覚えてますよ。1日1日というか、あんなに1分1秒が長く感じたスタジオの時間はなかったんで、そのスタジオにいる時間はすごく覚えてます。でも、すごく印象深いし、事故とアルバムがなかったら、今、多分自分はいないんだろうなと思ってますね。いないっていうか、その事故とアルバムがなかったら、多分、その他の曲は出せなかったと思います。
T:「Kirisame」を書いてる時っていうのが、ちょうどそれを考えてる時?
F:「Kirisame」を書いてる時は、ちょうどもうレコーディングが終わってたんで、逆にもっとやりたい、次は絶対こうしてやろうとかっていう気持ち。逆に燃えてる時で、だからガンガン曲が出てきて、その中で1曲、このKirisameっていうのができて。
T:選んだ理由っていうのはある?
F:いや、もう何でもよかったんで、自分的にはこれがいいっていう気持ちはあっても。でも、普通にみんないいって言ってくれたし。自分自身もこの曲はいい曲になりそうだなっていう予感はしてましたね。
T:それで、次がFairlifeの。
F:「Virgin」ですね。
T:そこまでに行く、何か。
F:そうですね、Kirisame録った後は、ずっと全国をキャンペーンで回ってたんですよ。それはアルバムのキャンペーンだったんですけど、そのときにKirisameも一緒にキャンペーンで歌ったりとかして、それ帰ってきてから、また曲づくり始めたんですね。一昨年の9月ですかね。10月ぐらいから曲つくり始めて、なんかどんどん出てくるんですよ。気持ちが乗ってるせいなのか分からないですけど、2か月で70ぐらいつくったんじゃないかな、曲。60とか。
T:その60っていうのは、フルサイズで?
F:いや、フルじゃないです。ワンコーラスとか、ワンコーラスプラス、例えば大サビとかそのぐらいなんですけど、それでつくって、それで結局、今回のアルバムの基盤が出来てるんですけど、そこでほとんど大体基本的なアルバムの核が出来たから、音録ろうみたいになって、音録り始めたんですよ。2003年の12月には、もうほとんどそのレコーディングも終わってたんですね、録りものに関しては。終わって、だったんですけど、リリースができなかったんですね、去年。去年の春とかにしたいねって言ってたんですけど、リリースができなくて、そんな中で、春ぐらいとか、5月ぐらいに、ちょっとこういう企画というか、こういうことをやるんだよねみたいなことを水谷さんに聞いて、あ、そうなんだっていう。ちょうどそれがFairlifeが出したシングルですね。そのシングルの時、すごいな、いいな、いいなとか話してたら、アルバムをつくるっていうことになって。そのときに春嵐さんが一曲おれをイメージして詞を書いてくれたっていうことを聞いて、ちょっと歌ってみろよみたいなことを言われたんですよ。歌ってみろよっていうのは、ほんとにおれもアルバムの制作終わりつつも、時間がすごくあったので、効果的に1曲とか2曲新しい曲をつくりたかったんですね、録りたかったんですよ。レコーディング。そのレコーディングの合間に、それ終わった後にちょっと歌ってみろよ、これって言われて、歌ってみようって歌ったんですよ。それがすごく水谷さんとかが気に入ってくれて、やってくれよみたいなことを言ってくれたんですよ。だから、それで去年の夏にレコーディングして、そこで浜田さんとも初めて会いましたね。
T:で、「Virgin」ですよね。「Virgin」に関して何かありますか、楽曲に関して。
F:そうですね。やっぱり久々に自分のつくった曲じゃないものを歌って、さらにそれが浜田さんの曲とかになるとすごい緊張しましたね。レコーディングの何日も前から、すごいやばいやばいと思ってたりとか、時間取っちゃわるいなとか思ってましたね。もう一発、二発で決めちゃおうと思ってて、酒も断って、すごいのどのケアをして挑みましたね。でも、実際のどがすごくよかったとか、悪かったということもなければ、すごくスタジオの空気と、歌と、おれの声と、その日の体調ということですけど、その声の体調が多分マッチしたんでしょうね、すごくいいテイクになりましたね。
T:水谷さんのスタジオで?
F:違うんですよ、すぐ近くのスタジオなんですけど、そこで録って。一発で録っちゃったんですよ。ドラムとベースと鍵盤とボーカルで。で、後からレコーディング、歌はしようねっていう話になってたんですけど、そのままそこで録っちゃって、もういいやっていうことになって。一発取りで何も編集なしらしくて、なしというか、リズム録りなんて2、3回やって終わりなんですけど、そのリズム録りでそのまま使っちゃってるんで、だから何もやってないらしくて。
T:ほぼワンテイク。
F:そうですね。だから、レコーディングは長くなかったですよ。すごく短かったですよ。イヤってほど短かったですけどね。そうですね。だから、印象というんじゃないですけど、すごい緊張した覚えがあります。
T:で、ミュージカルの話になるのかな。
F:ミュージカル。
T:初めてですよね。
F:はい初めてです。
T:これは、どういうきっかけで出ることになったんですか。
F:ちょうど、去年の春過ぎに、何も、リリースも止まっちゃっててできないっていうときに、何もやってないじゃないですか。レコーディングちょこちょこはしながらも、ほとんど何もやってなくて、ライブぐらいかな、やってたのは。そのときに、どうしよっかなと思ってて、そしたらそんなオーディションというか、そういう話があったんですよ。で、聞いて、やってみれば、やってみろよって言われたんですけど、正直見たこともなかったし、え、芝居?みたいな感じだったんですけど、とりあえず何もやってないしなっていうことで、ちょっとやってみようと思って。で、受けたら合格というか、だったんで。
T:出てみたかった? ミュージカルに。
F:いや、全然。
T:じゃあ、受かったときは、どんな感じ?
F:嬉しくなかったですよ、嫌だなと思ってました。これから稽古始まるんだとか。やってみて、初めてうわ、すげーとは思いましたけど。
T:でも、おもしろかった?
F:おもしろかったですね。うん。
T:でもいっぱい覚えたりとかしなきゃいけないんじゃない?
F:そうですね。だから、初めは歌覚えるの大変だったんですけど、立ち稽古って芝居が始まると、何だろう、すごいその世界の中の一員になって、誰かを演じてることがすごい気持ちよくなったんですね。今は藤岡正明じゃないっていう。それがすごく気持ちよかったですね。本来ミュージシャンは、すごくすっぴんのまま、いつでも出して、これがおれだ、どう?っていうような、それを受け入れてもらいたいっていう、感じてもらいたいっていうことをやってると思うんですね。だから、当然、キャラをつくる人もいるかもしれないですけど、おれなんかは基本的にあんまり何もつくらないで、おれはこのまま、ありのまま、おれはこれだけ、これしかできないみたいな。いいと思ってくれるんだったら嬉しいけどぐらいの気持ちでやってたんで。でも、ミュージカルはやっぱり自分じゃないから、自分じゃない誰かを演じるっていうのは、またそれもすごく快感でしたね。
T:じゃあ、すごい貴重な経験になった?
F:そうですね。すごいいろんなものを教えてもらったなっていう。
T:で、セカンドアルバム。「たとえば、僕が見た空」これは?
F:やっとですね。1年半かかって。
T:「たとえば、僕が見た空」、一曲ずつ教えてほしいんですけど。一曲目「雪割草」この曲はどんな曲ですか?
F:そうですね、当時、ちょうど曲づくりをしていて、2か月で60曲とか。その時に、おれの地元の友達の彼氏が死んじゃったんですね。亡くなっちゃって。その時に自分は何も言えなくて、言えるはずないですよね。そんな時に、自分がもし死んだら、自分が残していった人は悲しむんだろうかというか、悲しむんだとしたら、何かその、残していった人に何か言えないだろうかと思って。死って、去っていくものと去られたものしかいないんですよね。第三者はなくて、去っていったものは死んでしまったらそれで、そこに感情はないわけだから、で、去られた人間は悲しみに溺れるわけじゃないですか。でも、友達に元気出せよって言われたからといって元気出るわけじゃなくて、それは去って行った側と、去られた側しかなくて、だったら、自分が伝えるのに少なくともどっちかにならなければいけないというか、そういう意味で自分が死んだという仮定のもとで。その上で、そうですね、その去られた人に、多分0.001%ぐらいの気持ちだけでもね、伝わればいいなと。その元気になってくれたらいいなという気持ちですね。ただ、歌詞の中に死とかということは言っていないし、それだけがメッセージではないと思っているので、個人個人が感じる雪割草を逆にイメージしてつくりあげていってくれたらいいなと思う曲ですね。
T:2曲目「埋没した恋心」。
F:2曲目「埋没した恋心」はですね、kirisameのシングルに入っている、「僕は一人で海に行った」っていう曲を僕がつくったときに、歌詞をふと新しい自分ではない感覚で、何かトライしたいなと思ったんですね。だから歌詞を書いてもらいたいな、誰かにと思ったときに、サンプラザ中野さんを紹介してもらったというか、何というか、書いてもらえばみたいなことで。私が相談してみるよって言ってくれて、それはディレクターの丸山さんなんですけど、その紹介で書いてもらったんですよ。書いてもらって、すごく自分の中で面白いな、いいなと思ったんですね。で、「埋没した恋心」は曲をつくったときに、これはサンプラザさんに書いてもらいたいってずっと思っちゃってて、その流れで、何でもいい、書いてくださいみたいな。この曲に対して書いてくださいって。でも、すごく、何だろう、エキゾチックなというか、何というんだろう。おもしろい曲になったなっていう。ちょっと幻想的であり、ちょっとセクシーであり、そしてちょっと不安定な要素を持ってる曲になったんじゃないかなと。
T:3曲目「 告白のうた」。
F:3曲目は「 告白のうた」。これは、これも一つあるのは、そうですね、このアルバムの中で自分の中で3本の柱をつくったんですね。よりメロディアスなバラードと、アッパーな、ちょっとバカな曲と、あともう一曲はすごくJポップでかわいらしいというか、楽しい気持ちになるような曲3つ。自分の中で3本の柱をつくったんですね。で、その3本の柱の一本になっているのが、Kirisameのカップリングに入ってる「君でいっぱい」っていう。それをヒントに3本の柱の1本をつくったんですけど、それを一度体現してみたいなと思って。それが「告白のうた」。一番わかりやすい曲なんじゃないかなと思いますね。
T:4曲目「Kirisame」これはさっき伺いましたね。で、5曲目。「Libero」。
F:「Libero」は、おれがサッカーやってて、サッカーの何ていうんだろうな、ふと浮かんだのがリベロっていう言葉で、このリベロっていう言葉を使って曲をつくりたいなと思ったんですよ。サッカーでリベロって知ってたんで。すごくこのアルバムの中で、自分のコンセプトにもなってるんですけど、「たとえば僕が見た空」の空っていうのは夜明けの空なんですね。その夜明けをイメージさせるというか、前に進んでいくこと、決して臆さないこと、後ろに戻らないで、とにかく前に進んでいくことっていうようなものを、そのリベロはすごくストレートに表現した曲ですね。あとは、その曲があったから、3本の柱がすごく中和されて、自然な形になったような気がします。ちょうど自分の中でいいところに持ってきたなと思ってるんですけど。
T:6曲目。「三匹の猫」。
F:「三匹の猫」。これは曲つくってて、すごく適当に、おもしろい、何かワンループで曲つくりたいなと思ってたんですね。曲をつくっててネコがうち3匹いるんですよ。この3匹のネコの、こいつらの曲つくりたいなと思って。かわいいな、こいつらとか思ってて、3匹のネコっていう曲つくっちゃおうと思って、詞を書きはじめて。でも、3匹の猫がかわいいんです、ポポちゃんとモモちゃんとビビちゃんっていうんですって言ったって、曲にならないじゃないですか。だから、自分の中で空想の3匹の猫をつくり上げて、主人公はサラリーマンの男の子。OLさんでもいいんですけど、やっぱり自分はこれでいいのかな、自分がしたいことってこれなのかなって思ってる人はたくさん、いっぱいいると思うんですよ。たくさん、いっぱいってすごい日本語ですね。たくさんいると思うんですよ。で、そんな中でトボトボと歩いて帰っているときに、路地に電灯というか、街灯の灯の、暗い灯の下に3匹の猫が自分を見つめていて、そこで君はそれでいいのかい? 君の夢はそんなものだったのかい?とかっていうふうに言っているイメージだったんですね。だから、そういう、自分でもう一度自分を見つめなおして、またさらに、それで歩き出そうっていう気持ちでつくりましたね。でもそれは決して空想でなくてもいいと思うんですよ。疲れて帰ってきて、猫触っててかわいいな、おまえらっていって、そしたら急に我に返って、おれってこれでいいのかなと思う瞬間ってあると思うんですよ。これでいいのかソングです。応援歌です、これは。
T:じゃあ、次の7曲目「君でいっぱい」は?
F:7曲目は「君でいっぱい」。これはさっきも言ったように、これはすごく1つのヒントになったんですけど、これは川村結花さんがつくってくれたんですけど、自分の中に新しい風をもらったというか、新しい発想、新しい感覚、こういうこともおれはやっていいんだ、できるんだ。できるっていうか、してもいいんだっていうのをその曲で教えてもらいましたね。すごくいい曲だと思います。
T:8曲目「Happy Birthday」。
F:そうですね、これは、すごくシンプルなことをやりたいなと思って、誰かにおめでとうとか、ありがとうとか、ごめんねとかっていう言葉は、すごく一番大切なものだと思うんですね。その中で誕生日って、すごく伝わりやすいし、きっと誰しもが「誕生日おめでとう」って言われたら嬉しいと思うんですね。それを自分なりにつくりたいなっていう。「happy
birthday to you」のあの曲を、自分の曲としてつくりたいなと思って。でも決してそれはすごく現実味のある、ポップスとしての「Happy Birthday」ではなくて、童謡みたいな気持ちで。子供のころから歌ってるような、そのぐらいの気持ちでつくりたいなと思って。だから、あえてオケは絶対入れたくなかったし、さらに歌詞もすごく現実味を帯びていないというか。抽象的というか。本来、言っていることは具体的なんですけど、でも、例えば「三匹の猫」みたいにおはようございます、係長みたいな、そういう具体的なシチュエーションがないというか、でもそこが逆におもしろいのかなと。聞いていて、ここで一回1呼吸置いて癒されてもらえたら嬉しいなっていう。それで、新しい気持ちで次の曲聞いてくれたら、また嬉しいなっていうような感じですね。
T:9曲目は?
F:9曲目は「雲雀」だ。「雲雀」は、このアルバムで最後にレコーディングした曲で、実際、曲ができたのは去年の春だったと思います。それで、録ったのが、「Virgin」よりも後だったんですよ。歌を録ったのが。で、そうですね、自分で今回のアルバムのある意味道しるべというか、方向性をすべて語っているような曲なんじゃないかなと自分では思っていて、本当はそのままタイトルにしてもいいぐらいな気持ちですね、おれの中では。「たとえば、僕が見た空」って、おれが曲づくりをしてた時に、朝になって、うわー、朝になっちゃったな、ちょっと煮詰まったなと思って、ベランダ開けてタバコ吸おうと思って、タバコを吸いながら外に出たんですね、ベランダに。ちょうど太陽が上るか上らないぐらいの薄暗い感じの。その空を見ていたときに、あ、あしたも頑張ってみようかなみたいな、もうちょっと頑張ってみようみたいな気持ちになったんですね。その、そういう意味でその空があったんですけど、その気持ちをみんなにこのアルバム聞いて、あ、今日もちょっとだけ頑張ってみようかなと思ってくれればいいやっていう気持ちなんですけど、いろんなそういうものを曲で表してるし、その中にあるのは、自分が子供のころに父親に言われた言葉と、自分が子供が生まれてみて初めてわかった気持ちみたいなのを表現してるんですよ。実際、おれ子供なんかいないんですけど、でも自分がもし結婚して、子供を産んだらって、おれは産めないんですけど、子供ができたらこういうことを言いたいなっていう。
T:10曲目「僕は一人で海に行った」は?
F:10曲目はそうですね、これはさっき言ったようにサンプラザ中野さんにつくってもらった曲で、これはすごく化学反応が起こったというか、良くぞこんな詞を上げてきてくれたなっていう。おれだったら書けなかったですね。おれだったらこの曲は、こういういい曲にならなかったんだと思います。
T:受けとった瞬間、すんなり自分の中には。
F:そうですね。すごい方ですよ。
T:で、11曲目「Virgin」ですね。
F:「Virgin」はもう言うまでもなく、さっきのあれがあるんですけど。
T:最後、「月の光」。これは先日の「moment jam session」でもね。
F:はい。やってました。
T:メッセージソングですか、これは。
F:うーん。何なんですかね。当然メッセージではあるんですけど、うーん。これは一番おれがやりたかったことでもあり、言いたかったことでもあり、そして多分一番主観的に書いてますね。多分。っていうのは、本当はこれ、入れるのを迷ったんですけど、当時つくっていた時は、イラクの自衛隊派遣問題の時だったので、その気持ちも含めて、月と地球というものの、というか、地球が汚いんじゃなくて、人間が地球を汚しているんだっていう、それは大気汚染だけではなく、心のものですね。地球の心を人間が汚しているんではないかっていう、そういう一つの仮定のもとに。月には人間はいないし、月はいつでもあんなに光ってるんだっていう意味でやったんですけど、実際これをリリースする時になって、実際、イラクの派遣問題は、意外とあんまり問題になってなくなっちゃって、逆にスマトラ沖の地震があったり、新潟で地震があったりっていう、いわゆる天災が起きているときに、こういう曲を出すべきなのかどうかっていうことをすごく悩んでいて、本来は自分の中でアルバムとしては「Virgin」で完結できていたと思うんですね。だったんですけど、この曲、多分リリースしなかったら、ここでリリースしなかったら一生入れないだろうなと思ったんですよ。というか、入れちゃいけないなっていう。入れる責任をおれは背負えないなと思って。だから、アルバムの中で、たった一曲、そうですね全く違うものとして。だから、「Virgin」の後8秒ぐらい間が空いてるんですけど。だから、全然別のものとして、アルバムの一曲ということではなくて、そうですね、さっき言ったように自分の一番主観的、自分勝手につくった曲ですね。自分の気持ちをただ表しましたっていう。これで何かを分かれっていうことよりは、分かって欲しいとかということよりは、とにかく聞いてくれ、おれの気持ちっていう。それに対してどう思うかは、逆に反対だったら思いっきり反対してほしいし、賛成だったら思いっきり賛成してほしいし、どっちつかずには絶対なってほしくないような曲ですね。でも、これを聞いて何かを考えるきっかけになってくれたらいいなとは思ってます。
T:トータル的に、このアルバム、どういう、一言で言うと、自分にとってどういうアルバムになってますか?
F:自分にとって、難しいな。でも、自分の教科書でしょうね。自分が何て言うんですかね、多分、何か音楽に迷ったときに、このアルバムに戻ったら、きっと少しずつ答えが見えてくるんだろうなっていう。自分が言いたいことって何なんだろうとか、自分の音楽って何なんだろうとか、自分の声って何なんだろうとか、自然体でいること、自分が力を抜かないで音楽を好きでいて、そして音楽と素直に向き合っていくことっていうのを、きっと自分の中にいつでも思い起こさせてくれるアルバムになったと思います。
T:で、同時に出たシングル、これ選曲というか、この曲でシングルをいくっていうのは、みんなで決めて?
F:うんとね、みんな、うん、みんなですね。みんなというか。一人一人、これがいい、あれがいいなんて聞いてないんでわからないんですけど、でもそうですね、みんなで。自分自身は、逆に「雪割草」っていう曲は、すごくアルバムの中で密かにみんなに愛される曲になってくれたらいいなっていう。やっぱり人の死を扱っているし、題材にしているし。それは別に言わなくても、やっぱりどっかで、静かな勇気がわいてくる曲になってもらえたらうれしいなっていう気持ちでいたんですけど。結果としてこういうふうにシングルになって、シングルにみんなしようっていう話を聞いた時に、すごく自分の中でも、変な話なんですけど、この曲はクリエイターとしていい仕事をしたなっていう自信があるので、そういう意味でやっぱりよかったんじゃないかなと思って。
T:今年、何かこれからまだ半年以上ありますが、何かやりたいこととかありますか?
F:特にないですね。やりたいことはいっぱいあるんですけど、目標はないですね。もともと目標をいっぱい立てる人間だったんですけど、目標っていうよりは、もっと素直に自然でいたいなと思って。やりたくて、やれたら儲け物だし、幸せだよねって。とりあえず今年はライブをやりたいなっていう、ちょっとだけでもいいんで、1回でもせ2回でもいいんでライブをやって、あとはまた曲をいっぱいつくって、サードアルバム、できるものならそれに備えたいし、でも出せようが出せまいが、曲をつくることに多分変わりないし、ずっとつくっていくんだろうし。あとは、そうですね、休みを利用して小説でも書こうかなと思ってます、また。
T:それは、前から思ってたの?
F:もともと小説を趣味で書いてるんですよ。
T:発表とかは、まだ?
F:発表は全然してないんですけど、そのうち何か形になったらいいなと。出版とかできたらいいなと思って。ぜひ、おれの短編小説を出してください。
T:今度、掲載したいですね。
F:はい。結構、幾つか書いてるんですけど、最近ずっとミュージカルが始まって全然できてなかったんですよ。半年ぶりぐらいなんですけど、書いてみようかなと。
T:それはすごく楽しみですね。
F:すごい、ハマるとヤバイんですよ。1日半書いて半日寝て、1日半書いて半日寝てっていう生活してて、一番ひどい時だと3日間全くノンストップで一睡もせずにずっと書き続けて、だから長編を書いた時が一番早かったんですけど、1週間弱で書きましたね。
T:どのぐらいの長さ?
F:結構長いですよ。百何十ページだっけな、140とか150とか。
T:じゃあ、1冊なるね。
F:なりますね。今、小説短いの多いですもんね。一番書いた日で、1日4万文字書いてますね。だから、100ページ。原稿用紙100枚。
T:ほかに何か、それ以外は。
F:そうですね、やりたいこと。ちょうどミュージカルも終わるというか、この時は終わったですよね。もうミュージカルも終わったんで、早くサッカーやりたいなっていうのと、あとはスノボにいっぱい行けなかったから、8月から稽古だったんで、去年しか行けなかったんですよ。4回ぐらいしか行けなかったのかな。だから、来年というか、次のシーズンは10回は行くぞって思ってますけどね。あと、いろいろやりたいことはいっぱいありますね。あと、キックボクシングやりたいです。
T:それは前から思ってたの?
F:思ってました。あと何だろうな、新しいギターが欲しいとか。おれ、基本的にあんまり今、明確な目標とか固いこと考えたくないんですよ。今、やりたいことが一個一個形になればいいやと思って。だから、例えばギターを買って、ギブソンの335を買いたいと思ってて、335を買ったら、これ持ってライブやりたいなと思って、それでもってライブができたら、もう最高だなっていう。曲ができて、いい曲できたな、これCDにしたいなってCDにできたらもう最高だなっていう、あとはみんな聞いてくれたら、それでいいやっていう。はい。
T:これからの活躍を楽しみにしています。
F:頑張ります、ありがとうございます。
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