武田和大


先月の「moment jam session#5」では、飛び入りながらも、熱のこもった演奏を披露、
これまでにさまざまな活動を展開してきた、サックス奏者の武田和大さんへのロングインタビューです。

(2005年10月11日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)









武田和大(Takeda Kazuhiro)

  '67年東京生まれ。 ’91年ボストン留学中に
ジョージ・ラッセル楽団に参加。帰国後はあらゆる
ジャンルのステージ・録音にて活躍。
最近の編曲と演奏は、m-flo、Jazztronik、
Arvin Homa AYA、Double、紫苑、浜崎貴司、
鈴木雄大などのアルバムにて聴ける。
ライブではドデカコルドン(世界常春化計画)、
QUADRA(JazzのSax四重奏)、T.P.O.(FunkyBigBand)、
Taste Of Chocolate などがアクティブ。
Act Against AIDS in武道館には '01年より参加を続ける。
昨年は舟木和夫、和田アキ子、氷川きよし等歌い手の
サポートも多く経験。劇団キャラメルボックスなどの
サントラではオカリナやリコーダーも吹く。
CMやゲーム音楽での演奏も多く、知らないうちに
聞いているはず。

 武田和大インタビュー

ずっと人のために吹いたり書いたりしてきたけど、そうしてるとSaxの音を使わないことも多くなるわけ。でもせっかくこんな佳い音出すんだから聴いてヨって思うわけ。それに、案外と自分が聴きたいなって思う音楽に出会うのって難しい。どっちもなんとかしてみたらきっと楽しいし、それを楽しいって言ってくれる人も居るだろうなと思って始めたのが「ドデカコルドン」ってバンドなのね。


TERA(以下:T):よろしくお願いします。

武田和大(以下:武田):よろしくお願いします。

T:まずは、生まれた場所を教えてください。

武田:どうやらね、世田谷らしいんですよ。本籍はね、世田谷の代田って書いてあるのね。だから、そのまんまで引っ越さないでいてくれたら、僕はいい感じに都会っ子に育ったはずなんですよね。それがね、2歳のときに小金井っていうちょっと田舎に引っ込んで、で、それ以来ずっとそこで育ちましたね。

T:ご兄弟とかは?

武田:兄弟はね、お姉ちゃんが、3つ上のがいて。

T:どんな感じのお子さんだったんですか。

武田:自分はね、何だろう、あのね、いまだに理解できないことがあって、小学生ってさ、体育の時間になると、あるいは20分休み時間になると、特に体育の時間かな、こう、体操着に着替えたら、校庭にワー!って行って駆け出すじゃないですか。あれをね、自分ではね、自分の衝動ではあの行動に同じくすることができなくて(笑)。

T:落ち着いてたとか?

武田:落ち着いてたっていうか、アレが理解できないので、自分では。でもみんなワー!って行ってるから、この日本という社会はですね、とりあえずそこで一緒にしておかないと居心地悪いよなっていうのを子供心に感じてるんで、そう感じるような子だったんで、で、3歩遅れて、ワ〜〜、ってやってみたりしたんだけど(笑)。そう、わからないんですよ、あのワー!っていう気持ちが。でもね、もちろんドッヂボールやったりサッカーやったりしてれば、それはそれで大層エンジョイしてたはずですよ。いや、してましたよ。でね、そうなんだけど、中学校に上がっても、そのまま結構、やっぱりさ、スポーツっていいよねみたいなことに、みんな発展していくというか、洗脳されたまま育っていくんだけど、いやー、洗脳されなかったですね。ああいう、あのスポーツ至上日本教育界に。なんか気づいたらね、中学生になったらいつの間にか、休み時間にジャズの理論書開いてて。そんな子だった。

T:最初、楽器っていうのは何から入ったんですか。

武田:えっとね、小さいころに、そう、僕が3つぐらいのころ、うちのお姉ちゃんがピアノ教室に通ってたんだよね。弟を一人でうちに置いておくわけにいかないから、お袋は僕もこーやって抱えて連れて行くわけですよ。そうすると聞いてるわけじゃないですか。そのピアノ教室が一緒にバイオリン教室もやってて、いつのまにか幼稚園入るころにバイオリン初めてて。それが母親の誤算ですね。そのままこういうことになるんですよ(笑)。そのままね、素直にバンドマンになるんですよ。きっとね、親としてはね、その当時の親同士の張り合う気持ちと、あと一応建前としては、情操教育みたいなね、豊かな感性とか。色々ね、味わえる、判る子になってほしいとか言うわけじゃない、建前としては。でもね、3つ4つのころからそんなのやらせちゃうと、ちょっと1つ思春期に突っつくとバンドマンになりますよ。気をつけましょうね(笑)。

T:それで、バイオリンからは、どういう楽器に。


武田:バイオリンいつまでやってたんだろ。小学校3年ぐらいまでやってたのかな。その頃にはやっぱりさすがにね、サッカーやら三角ベース(=狭小スペース野球)やらさ、空き地でみんなで集まってやるの楽しくなるじゃないですか。で、練習するのうざったくなるじゃないですか。そうするとね、いつのまにかやめてるんですよ。で、親も別に近所と張り合うのもナンダナみたいな。でも、お姉ちゃんはずっとピアノ弾いてたな。そうするとね、なんか僕もね、ピアノいじったりするようになると「あんた、今度はピアノやってみる?」とかなるわけね。そうすると「近所のピアノ教えてるところに試しに行ってみる?」とかって。なんだけど行ってみた先が、そう、そこのピアノの先生がね、あれは何だろう、今思うと歯槽膿漏だったのかな、口が臭かったんですよ。”歯が"っていうのは正確には判らないけどね。ピアノ教室とかだと自ずと「こうでしょ、こうでしょ」って近づいてくるじゃないですか。臭かったんですよ(笑)。それでね、み月でやめちゃって。

T:それ、小学校の時?

武田:そう小学校の4年か5年か。で、お姉ちゃんが中学校に上がったときにね、親にねだってギターを買ってもらったの。白いギター(笑)。スズキというメーカーの白いギターでしたよ。お姉ちゃん荒井由実が好きだったんだ。あれをジャンジャカやりたかったんだ。でも「お前ピアノ弾けるんだから、ピアノ弾き語りでいいじゃん」とか思ったんだけどね。案の定3日で飽きて、彼女は。で、そしたら僕がずっとそのギター弾いてるわけですよ。クラスでもそんな子たちが何人かいるわけで、最初に友達とギターならして歌ったのはね、アリスですよ。僕、小学校5年のときね、そのときちょうどザベストテンで流行ってたのがね、チャンピオンですよ。ヨーキンキンっていうあれ。指2本だけなんですよ、最初。Eマイナーっていうコードでね。ジャカジャカ。あんなのからね、ギター弾いて歌って「バンド楽しいよね」みたいな。ギター鳴らしてただけですけどね、友達で集まって。そう、そこら辺がとりあえずルーツかな。

T:それで、中学生になって、中学校のときは。

武田:でもね、多分今の僕(※アレンジャーとして)のルーツはその直前にあるんですよ。中学校上がる前に、あれは小学校、多分5年生のときだろうな。卒業式ってさ、卒業生がアリガトウを言うのに対して、在校生からも、何かねイッテラッシャイみたいなことを、大人が子供にカッコつけさせるじゃないですか。あの贈る言葉のときだったのか、それとも卒業式二次会の、イエーイって時の出し物だったのか覚えてないんだけど、そのときにね。山口百恵のね「いい日旅立ち」が流行ってたんですよ、アレを全部、音とって。小学生だから、アコーディオンとかトライアングルとか木琴とかリコーダーとか全部使ってね。音楽室にある楽器をダーって並べて、クラスに持ってきて、みんな楽器を、ピアノ弾ける子はピアノって。それでね、僕アレンジをしたんですよ。インストゥルメンタルで。

T:それ、独学で?

武田:うん。独学。それまでギター一生懸命弾いてただけで、でもね、何かいろんな楽器でやってみようよって思ったんだよね、そのときに。それ多分、小学校5年生のときのはず。それがルーツだわ、割と。で、こんな困ったことになってる。

T:じゃあ、まだサックスとかはまだ手にはしてない?

武田:うん。してない。でね、そう、小学校6年の時かな、そのときオーレックスジャズフェスティバル、いわゆるバブルの時代にいっぱいあったジャズフェスティバルのはしりですわ、が、始まって、そのときに最初に来たのがね、だれだったかな、ジャコバストリアスのビックバンドと、あとクラリネットの、名前忘れちゃった、クラリネットのね、ケンタッキーフライドチキンの前に立ってるおじさんがクラリネット吹いてるみたいなおじいちゃんがいて、あ、ベニーグッドマンですわ。あとね、全部で5グループぐらい来てたんだよね。それぞれがみんな寄ってたかって集まってのセッションっていうのも色々あったりして。その当時NHKで、まめに録画をやってたんですよ。当時アリスを歌うことしかしてなかった僕が、結構ねこう、スゲーなって見てた記憶があるのね。あとナベサダがね、パッソルか何かのコマーシャルで、「これ僕の、いいでしょ」とかってのも。あれがね、多分僕の小学校高学年のころなんですよ。もうメディアにばりばり洗脳されるわけですね、子供ってね。サックスやりたいと思うわけ。ナベサダかっこいいって思うわけ。

T:ラジオは聞いてました?

武田:小学校高学年だと、やっぱり歌謡曲なんですよね。日曜の朝のフジヤ歌謡ベストテンとかね、TBSの。その後に続くね、キャンディーズがやってた番組があって、それも楽しみで聞いてたかな、結構。スーちゃん好きだったの。中学校に上がると、ブラスバンドに行けばサックスできるんだなとか、思うじゃないですか、普通。でもね、うちのお姉ちゃんが同じ中学校で、ブラスバンドがないっていうのを僕は知ってたんだ。その当時めずらしいことにオーケストラだったの、ちゃんとバイオリンがいっぱいいるよーな。オーケストラにはサックスってないんですよ。仕方ないから他のやるかなんて、男の子だから、おのずとどっちかというとトランペットとか選ぶじゃないですか。でもジャンケンで負けたんですよ。でね、ホルンを3年間やりましたね。でもね、てっきりホルンだと信じて練習始めたんだけど、テレビでN響とかやってるじゃないですか。あれでホルン奏者が映るとね、違うんですよ、形が。あれ? 何でって。メロホンだったんですよ。トランペットを丸めたよーな奴でね。ガッカリ。でも、そのとき教育実習で来たのが今のN響の主席オーボエ、茂木大輔先生。今でも付き合いありますよ。ラッキーだったなぁ。

T:その頃、良く聞いていた音楽は?

武田:そう、グレンミラーよく聞いてたな。オーレックスジャズフェスティバルでベニーグッドマンが来てスイングっていう音楽を、かっこいいなと思って、それでそのスイング時代の音楽を。その当時ね、ラジオ関東、1424Khz。深夜0時か1時からかな、そこから数時間ね、古いジャズばっかりをかける番組をやってたの。多分ね1時〜3時、3時〜5時。だからオールナイトニッポンの裏ですわ。毎晩ね、日替わりで有名なジャズの評論家の人がDJやってて、毎晩デュークエリントンやら、カウントベーシーやら、トミードーシーやら、古い音楽をずーっとかけてて、それを聞いてましたね、

T:じゃあ、そういう自分で買ったLPとかは?そのあたりに。

武田:それがね、我が家にレコードを聞くマシーンっていうのはね、物心ついたときにはあったんですよ、小さいね、これぐらいの、コロンビアから出てた、木の枠でね。今、骨董屋さんに売ると高いだろうなっていう、真空管で。もちろん78回転までついてて。SP盤もかけられるような、そんなのがあってね。小学校低学年のころ我が家には、当然その当時の歌謡曲が結構あって、でもね、お気に入りだったのは、カーペンターズとね、ビートルズとね、中でも「レットイットビー」だったかな、あれはよく聞いてましたね。しかもシングル盤の。あのB面のYou know my name...が特にお気に入り。

T:それが、中学の?

武田:小学校中学年の頃、お姉ちゃんが荒井由実を買ってくるんだな。そのもうちょっと前の周辺の人たちも買ってきてほしかったな(笑)今思えば。はっぴぃえんどとかヤマタツとかね。その頃には洋楽はあんまり聞かなくなっちゃって、そうするとちっちゃいトランジスタラジオで歌謡曲を聞くようになって、あ、そこでさっきの話に戻ってくるわけ。テレビでジャズ、かっこいいよね、ジャコバストリアス最高だよねと思って、で、中学校上がると、その辺の続きでJazzを聴き始めて。そうやってテレビとかラジオで一生懸命僕聞いてるから、親父がジョンコルトレーンの最後のアルバムを買ってきたの、いきなり。コルトレーンっていうのはすごい人なんだぞって。コルトレーン死ぬ間際のアルバムって、ばりばりフリージャズなんですよ。いわゆるメロディを辿れない音楽で、リズムもなかなかどこでどうなってるかわからないタイプの音楽、それを買ってきやがって、これが最高だとかいって。絶対うちの親父、解ってなかったと思う、クラシックばっかり聴いてた人だったから。それと一緒にその当時出たばっかりのコルトレーンの解説書みたいなのを買ってきて、それが普通にコルトレーンの伝記とかエピソードを書いただけの本じゃなくて、分析が書いてあったの。このハーモーニーはどうだとか、このメロディはどうだとか、結構書いてあって、でもね、それを当時の僕は結構おもしろく読んじゃったのね、やばいよね。あれもうちの親の間違いの始まり。そしたらね、ギター弾いてたこともあって、理屈を勉強したくなるのね。で、もう、コードネームがなんだとか、音階がなんだってオモシロイんだ!と思っちゃったんだよね。 (後日談:えっと、オーレックスジャズフェスは中2の頃だった気もしてきた。そこら辺の前後関係とっても曖昧ですいません。)

T:ギターとかは?

武田:そう、小学校6年のときに親にねだって買ってもらったのが、三鷹楽器っていう楽器屋でなんだけど、ギターを買ってもらった、ヤマハのCJ8っていういい楽器。その楽器屋さんで書棚を見てね、理論書も数冊親にねだって買ってもらったの。あれ、お小遣い貯めて買ったのかな。わざわざ、写譜ペンも買ったんですよ、小学校6年生で生意気なことに。カリグラフィーペンですね。でもそれ、ちゃんと万年筆のやつで、すぐ壊しちゃったんだけど。そのとき買った理論書、バークリー音楽院っていうのがあって、アメリカのジャズの、そこ行けばアメリカの歴史も何もわかるよっていう学校なんだけど、そこに日本人で2人目に行った渡辺貞夫さんが、あの学校で教わったことを日本語でまとめて出したジャズスタディっていうのがあって、その当時3,000円。あとね、音階の話がとっても解りやすく書いてあった外人さんが書いた本で、ドレミファソラシドってこういうものなんだよって。その2冊だな。それをね勉強して、コルトレーンもおもしろくて、そしたら、そのジャズスタディっていうのは、単純に理論だけじゃなくて、アレンジの話もビシっと書いてある本で、それが「いい日旅立ち」に結びついてるんだな、きっと。あ、やっぱり自分が卒業する時に書いたのかなぁ、わかんないや。

T:初めて選んだレコードは?

武田:中学生の時。親父がレコード屋で「お前好きなやつ選べ」っていうから選んだのがね、リッチーコールっていうアルト吹きの。その当時えらく流行ってたの。ビーバップっていう古いスタイルの音楽があって、それは'70〜'80年代にはほとんど聞かれなかったんだけど、メインストリームでは、それをね、'80年代にドーンとまた正面に引っ張りだしてきたような立役者がリッチーコールっていう人で、まあ、芸人の才能もとても強い人でね、タモリとえらく仲よかった。日本のお祭りのハッピを着た写真でジャケ買い。レコード針を上げたり下ろしたりして、よくコピーしましたよ。無茶苦茶に早吹きな人で大変だったけど。あと、チャックマンジョーネにも夢中だったなぁ。Feel so goodってアルバムがえらく流行った。

T:サックスを手に入れるのは、いつぐらい?

武田:ずっとね、サックスほしいなって言ってて、でも、クラシック、オーケストラもエンジョイしてるし。ギターもずっと中学校のとき弾いてて。生徒会室にギター仲間が毎日集まってましたね。高校に入るとようやくブラスバンドがあるんですよ。今度はちゃんとジャンケンに勝って。っていうか逆。サックスっていう楽器はね、男の子あんまり行かないものみたいなのね。で、最初マウスピース持たされて。まずは身体造りからとかって、腹筋をやらされたり、走らされたりとか、そんな時代だったんだけど、親にねだってサックス買ってもらって。当時でセルマーの楽器、29万ぐらいしたかな。今、もっと高いんだけど、自分の子供にはそんなの買ってやる気、絶対起きないですよ、もう(笑)買ってくれって言われても。それは親に感謝してますね。でね、管楽器ってさ、一本一本違うのね。だから、必ず今だったら、自分の生徒とか楽器欲しいって言ったら一緒に選びに行ってあげるんだけど、そのときはね、たまたまもう全然そんなの知らないから楽器屋で吊してあるのを買ってきて、そしたらそれがよかったんですよ。今、25年たって、ずっとそれ使いっぱなしだもんね。25年じゃない、今、僕38だから、23年か。使いっぱなし。で、もうサックス買ってもらったからって、それからもう、よく練習しましたね、その当時は。

T:どういうところで練習したんですか。

武田:授業中学校の屋上で。基本的には3階建てで建物が二つ並んでて、4階に、ちょっと突き出した離れたところに音楽室ってつくられてるんですよ。その音楽室の脇に楽器倉庫みたいな、軽音楽部の練習室みたいなのがあって、そこだと結構昼間授業中に吹いてても、あんまり迷惑にならない。廊下で吹いたりすると学校じゅう響きわたるけど。屋上でもよく吹いてた。小さい音で。授業いつ出てたんだろ。休講の時、駅前の喫茶店に行くとその先生に逢える。そんな学校だったの。だからね、結構、屋上で練習できた。1日8時間とか10時間とか、ずっと吹いてた。実は屋上からね、その当時好きだった娘が見えたんだな、もちろん授業中。換気塔の上でよく昼寝もしてたな。

T:高校はサックス三昧?

武田:うん。あ、でもね、そのとき演劇部もなぜかやってたの。最初ね、曲つくったり、音響いじったり、そんな約束で入ってたんだけど、気づいたらいつのまに走らせれてて、アメンボアカイナアイウエオなんて言わされてて、で、衣装つくってきたからとか言われて。何か気づいたら踊ってたりするし、そんなことやってましたね。あと、吉祥寺TVって有線テレビがあったの。各家庭にも配信されてて。そこでなぜか喋ってた。週1回。高校生じゃん、そんなお茶の間におもしろい話なんて、なかなかできるわけないですよ、1時間枠もらっても。でもね、そのときね、週刊吉祥寺の配達のバイトとかもしてたから、そこで拾った話とかしたりね。

T:その中で音楽はやらなかったんですか。

武田:もうひたすら喋ってたのね。そのとき、一緒に喋ってたのが、クラスメイトで佳きライバルだったオクデラタケシ君。今、フジテレビのめざましテレビで喋ってる。あいつと出会ったのがね、充実した高校生活のスタートだったかな。とっても刺激的なやつで。そうそう、あいつに限らず色んな奴と、レンタルレコードからダビングしたテープを交換したな。その中に村松健さんの「夏のポケットに」ってアルバムがあって、それこそドデカコルドンのルーツかもしれない。その10年後くらいに聴いたゴンチチにもずいぶんインスパイアされたけど。

T:サックスは、どんな感じのものを演奏していたんですか?

武田:高校入って吹き始めて、ナベサダかっこいいって、ナベサダ一生懸命コピーして、そのときスクエアっていうバンドも売れ始めてたけど、あんまり聞かなかったな。サックス買ってもらって3日目に、いきなり連れてかれてスタジオ入って、そのとき初めてバンドらしいバンドって始めたの。それがね、RCサクセションのコピーバンドだったの。バンマスがベースの吾妻君でアズマズband。そのメンバーで今でも一緒にTaste of Chocolateってバンドを一緒にやってる玉木正昭の仕業かもな、結局こんな暮らししてるのって。

T:それで、高校出るころの話を。

武田:ずっとバンドやってて高校出て、音楽の学校に行くんだと思ってたわけ。クラシックのサックスの先生にも付いて、雲井雅人先生、ずっと習ってる間「お前ジャズ、やれよ、ジャズやれよ」って言われながら、音楽大学行きたいからって習ってて、受験して、落ちちゃったんだな。あ、日芸は受かったけど、それで、どうしようかなと思って、何故か1年だけ明治大学の二部仏文科っていうところにいって、仏文科に行ったというか、軽音楽部に行ったというか。今はRockin'on Japnの編集長やってる鹿野さんが部長だった。明大らしくバンカラなサークルだったな。その時の仲間の幼馴染み、スガシカオ氏とバンドやったりもしたなぁ。

T:明大の後は?

武田:明大っていうのはうちか電車で1時間かかる学校だったのね。で、昼間ずっと、もう月金でアルバイトして、それが週間吉祥寺。あのときに文章書くのを鍛えられましたね。そう、週吉はね紙面が狭いんですよ、とにかく。これぐらいのサイズの紙を四つ折りにしただけの紙面なんで。とにかく無駄な文字は使わないっていうのを鍛えられて。でも喋るとね、それがね、文字が溢れるんだよね、その反動で。__置いといて、っと__気付いたら自転車で5分の学校に移り住んでて、それが学芸大学の音楽科ってところで、学校の先生になる学校なんだけど、そこでね、一応木管楽器を教える先生がいたんだけど、クラリネットとか、めんどくせえやと思って、どうせジャズやるんだからって割り切っちゃってたんで、歌で入ったの。声楽で。なぜか歌えたんだよね、ちゃんとね。シューベルトとか勉強しましたよ、イタリア歌曲とかも。なんだけど、ほとんど授業にはやっぱり出ず、そこのジャズ研っていうのがとても優秀なというか、いいグルーブのジャズ研で。今でも沢山プロで活躍してる連中がいて。
(後日談:ちなみに声楽の卒業演奏は中田喜直の現代日本歌曲。香ばしく焼かれたサンマを描写したような歌詞だったよーな、、その選び様に既にドデカコルドンの萌芽が! 担当教官は二期会の大野徹也先生、今思えば勿体なかったなぁ。)

T:学芸大には、何年ぐらい?

武田:それがね、そっから人生壊し始めたんだな。そう。学芸大入ってすぐ「ばちかぶり」っていうバンド入ってね、田口トモロヲさんの。そう、そこからいかにも、そういう「Bandイェーイッ!」みたいなところにハマり始めて、で、そうこうしてるうちにね、

T:最初組んだバンドが「ばちかぶり」?

武田:僕はね、手伝いで入っただけですよ、ばちかぶりには。最初いかにもパンクなバンドだったんだけど、やがてファンク方向にシフトしてって、ブラスセクションちゃんと人数増やそうって。それが'88年かな。

T:ナゴム系ですよね。

武田:そうそう。イベントでケラさんとか、筋少とか一緒で。でね、まあ、普通に色んなバンドやってたんだけど、で、気付いたらバークリー音楽大学っていうところが、奨学金やるから来いって言うんで、じゃあ行くよって行ったのが、2年。大学2年行って、半年休学して9月から行ったの。その、始まるのが9月ですからね、あっちの学校。

T:じゃあ、続きで。バークリー。

武田:バークリー行って。結構ボーっとしてるのね、今振り返ると。当時はものすごく具体的に、はっきりくっきりと頑張ってた気がするけど。でね、写真が1枚も僕残ってないの。人が撮ってくれたのは、きっといろんなところにあるんだけど。まず、既に先に行ってた友達に迎えにきてもらって、とりあえずその学校のそばに彼は住んでたから、ここ学校だよとかいわれながら、ホットドック買ってこうかって言われて、で、こんな、サブですわ。サブウェイスタイルのでっかいホットドックというか、なにかと挟んだパン。こんなでっかいの。これでアメリカというものを初日に実感して、それを3日かかって食べたんですよ、最初は。そのうち3人前位のパスタと共にペロッといくんだけどね。でね、翌日学校へ行って、学生証の写真をとられて、すぐクラス分けテストとかいうのがあるわけですよ。で、そう、日本の学校だと、1年から4年まではみんな同じカリキュラム、ほとんど同じカリキュラムでいくわけじゃないですか。そこそこ選べるけど。あっちの学校はね、もうオッケーっていう奴は上からいくわけですよ。授業の系列が、大体これをとってれば、これをとれる、これをとってれば、これをとれるというのが、だんだん枝葉が分かれていくんだけど、これをっていう下のあたりは、オッケーと思ったら省けちゃうんですね。クラス分けのテストを受けたら、日本の学校で言うなら、3年次ぐらいから始めなさいみたいなことになって。もちろんそっから始まっても8年は居られるくらい懐の深い学校ではあるんだけど、1年経ったら「あと半年で卒業しろ」って言われて、なんだか馬鹿らしくなって中退に至るんだけどね。本当は、現金でくれるはずのない2年目の奨学金を現金で貰っちゃって使い込んじゃったってのが半分、1年で帰るって約束があったのが半分。でもね、その使い込みで買ったバリトンサックスのお陰で今、喰えてるようなもんだから、ま、いいかな、と。

T:バークリーでは、主に何を?

武田:音楽の勉強をしに行くつもりで、当然行くわけですよ、楽器の演奏と。で、アレンジとか作曲とか対位法とかのクラス、ギチギチにとって、宿題がいっぱい、とにかくいっぱい。毎日ひたすら宿題をやってましたよ。数年前に改めて遊びに行くまで、ボストンが美しい観光地だなんて全然知らなかった。でね、やっぱり演奏して小銭稼ぎって、ちょくちょくあるわけですよ。サルサとか、あの当時流行り始めたメレンゲとか。ペルー人とかプエルトリカンの集落があるわけですよ。そこでね、もう四六時中音楽をみんなやってるんだけど、週末の晩になるとね、いつもダンスパーティーなの。でね、そのサルサとかのね、演奏の仕事よく行ったんだけど、面白いなと思ったのは、割と白人社会では被差別されている集落なんですよね、よい仕事のチャンスもなかなかないし、みんな寄り集まって暮らしているんだけどね、いつもみんな踊ってる。で、教会が必ずあるのね。みんなクリスチャンだから。その教会が、平日は学校なの。昼間は子供が来て、夜は大人が来るような学校だったりして。それが週末の晩になるとディスコに変わる。街ぢゅうから、ちっちゃい子供も大人もおじいちゃんもおばあちゃんも集まってね、みんなでグリグリ踊るの。それを毎週毎週廻って。安いギャラでね。その当時、一晩やって6、7千円だったかな、日本円にすると。大きいお祭りも時々行くんですよ。車で2,3時間かけて。ラティーノが集まるお祭り。あるときね、ニューハンプシャーだったかな、5万人ぐらい集まる大きいお祭りがあって、食べ物の屋台がいっぱい出てたり、移動遊園地が出てたり、小さい観覧車とかね、そのぐらいの大きいお祭りでステージが組んであって、ザワザワ人がいっぱいいるんですよ。一番向こうが見えないぐらい。それがね、ステージでンッカッカッッッカッッカッッカッ!(※いわゆるツースリークラーベと呼ばれるラテン音楽独特のアクセント)って始まったとたんに、ザーッ!と動き始めるの。秋に稲穂が垂れた時、風が吹くとザーッと揺れるでしょう、一斉に、こうやって波のように。あの状態なの。ザーッ!て人が、5万人が動くの。あれはね、すばらしい景色ですよ。あれは、あの国に行ってね、一番僕は感動したかな。マグロと同じでね、こいつらは踊るのを辞めると本当に死んじゃうんだな、って実感できた。

T:帰ってきて。

武田:帰ってきて、仕事ないんですよ、何にも。とりあえず大学には半年たってから、また2年やらなきゃって戻るんだけど、結局卒業するのにあと4年かかった。インチキ教官のおかげで、一つとれない科目があって。

T:6年ぐらいですか?


武田:都合6年ですね、ちゃんと出ましたよ日本の学校。でも、帰ってきてすぐ、せっかく勉強して帰ってきたから何か仕事したいなと思って近所の楽器屋行ったら、ヤマハが先生のオーディションやってるからって。それで、早速ヤマハの講師になって。でね、そうこうしているうちに、当たり前に演奏の仕事もくるわけですよ。

T:それが何年ぐらい?

武田:帰ってきたのが、'91年の9月。ヤマハの講師始めたのが12月かな。なんだけど、帰ってきて割とすぐね、昔つきあいのあった歌い手の旦那から電話があって、横浜、きょう来てくれないって言われて、行った先が横浜西口鶴屋橋脇のキャバレーパリーっていうところで、もう戦後まもなくからずっとやってるようなキャバレーで、いわゆるビックバンド。そこからキャバレーによく演奏に行くのが始まったのかな。でも、ギャラが余りにも安いから。うん。そのときからね、今も変わらないんだけど、トラ、誰かレギュラーの人の代理で演奏することだけど、一晩8千円だったんだよね。そう、それがレギュラーになっちゃうと、今でもそうだけど、一晩5、6千円になっちゃったりするのね。ひどい世界でしょ。数十分のステージを4回とかやるんですよ。ダンスホールとかだと6回とかやったりしますからね。日曜だと10回とか、それでも1万円とかなの、ああいうところって。だから絶対にレギュラーにはならなかった。その後、ヤマハの講師の仕事も始まって、3月ごろからかな。三鷹楽器、幼少時にギターを買った三鷹楽器で始めて。で、それからどんな暮らしがあったんですかね、僕。そうすると、、

T:90年代後半は?

武田:そう、「カルナバンダ」っていうバンドをやってて、当時、ニューヨークで流行ってた、メレンゲというスタイルの、もともとドミニカの音楽なんだけど、日本で唯一やるっていうユニットが起ち上がって、それに参加して。で、それが終わったのが、'97年の正月だったかな。そのバンドでは'96年に全米ツアーしたりとか、楽しかったな、あのバンドは。でもね、'97年の正月に終わっちゃって、それ以来ね、めっきりラテンと離れちゃったんだけど、でもね、'90年代、並行していろんなバンド行ったな。元デラルスのノラさんのバンドとか裏ビンゴボンゴとか。唄ってましたよちゃんと、ユースケサンタマリアさん。ロックバンドも、ソウルバンドも色んなところ行って、遊びのもあれば仕事のもあるし。Cokesっていうバンドを長くやってて色んなとこ行ったな。Cokes終わってからそこのブラス隊長の永松賀津彦がビックバンド立ち上げて、それが「T.P.O.」。普通ビックバンドっていうと、いわゆる古いジャズを想像するじゃないですか。でもねオリジナルのソウル、ファンクしかやらないバンドで。で、毎月1回ずつずっとライブを重ねてて。それが始まったのが'98年になるのかな。アルバム2枚出してるんだけど、やたらとね朝のワイドショーとかでBGMでかかるんですよ。あの使用料ってどうなってるんだろ?。毎回おもしろい唄い手がゲストに来てね、杉浦テツさんとか、チャカさんとか。楽しいですよ、ライブ。でもメンバー21人いますからね、大変なんですよ、予算が。なかなか旅に出られないのが残念。あと、今ずっと僕が趣味でやってるバンドで、サックス4本だけのバンド「QUADRA (クアドラ)」。バリトン、テナー、アルト、ソプラノだけで。無いんですよ他に。'95年に始めて。今でも続けてるんだけど、そう、あしたから関西、中部、九州ツアーですわ。何がそのバンド楽しいって、やってる音楽も十分面白いんだけど、旅がすごい。車1台で全国行きますからね。必ず毎日飲むじゃないですか。朝になるとね、顔色一番いい奴を選んで運転席に座らせる。そんな毎日。命懸けですわ。面白いですよクアドラ。サックスだけで何ができるのって、できるんです、いろいろ。

T:それは形にはしてないんですか?

武田:もう、アルバム2枚出してて。そこそこ売っていただいて、ありがたいことなんですが、1枚目出して1,000枚ぐらい売れたんだけど、もちろん自分たちで旅先で売るのも多かったんだけど、なにしろ随分とアヴァンギャルドだったので…。2枚目を作ったときには、タイトルを「お茶の間的にはどうよ」って(笑)。アニメソングのカバーとかも入れたりしつつ、お茶の間にも訴えてみたんですが、それが色んなジャズ誌にね、結構内容は褒めてくれるんだけど「いかんせん、あのタイトルは如何なものか…」って必ず書かれるんですよ(笑)。おいおい、そのタイトルが肝心なんだけど!

T:それ出たのが?

武田:去年の11月ですね。いまだに「レコ発記念ツアー」ってやってるんですけどね。そろそろ3枚目また出さなきゃなと思って頑張ってます。アメリカ進出向けにクリスマスソング集を完成させよーか、ヨーロッパ向けにもっとアヴァンギャルドにしよーか…。面白いですよ、とにかく。

T:じゃあ、ドデカのお話を。

武田:でね、ひたすらに人のために演奏したり、アレンジをしたり。最近だと、m-floとかJazztronikとか、その周辺の諸々。ブラスアレンジを書いて演奏したり、ソロ入れたり、いっぱいやり続けてきたんだけど、自分が「こういうレコードあったら聴きたいよね、わざわざ買ってでも聴くよ」って思えるものにね、案外実は出会いにくいのよね。で、本当に聴きたいし、聴いてもらいたいと思えるモノを造ってみようと。人のために書いてるといつのまにか自分は演奏しなくなってたりするの。せっかく僕、楽器やっててこんな佳い音出すんだから聞いてヨって思うわけだし、それに案外と自分が聴きたいなって思う音楽に出会うのって難しい。どっちもなんとかしてみたらきっと楽しいし、それを楽しいって言ってくれる人もいるだろうなと思って始めたのが「ドデカコルドン」ってバンドなのね。でね、ギターとベースとトロンボーンサックスの4人だけ。打楽器なし。ベースのやつはサルサやってる時代に知り合った奴なんだけど、あとのギターとトロンボーンはバークリー行くころには既に知り合ってたのかな。でも、ずっと仕事を一緒にすることはなくて、呑みだけ一緒で。で、出会ってから十二、三年目かな、ようやくドデカコルドンっていう形にして。昔は出来なかったことが出来るようになってて嬉しかったな。ドラムやらパーカッションがいなくても踊れる音楽ってできるんだよね。体が動く音楽。で、嬉しい、悲しい、すっぱい、しょっぱいっていろんなことができる。でね、ドデカコルドンっていう言葉はね、もともとギリシャ時代の古い音楽理論書の名前なんですよ。たまたまこう、何てバンド名にしようかって見つけた言葉ではあるんだけど、12本の糸っていう意味なのね。ドデカ=12、のコルドン、コード、糸。その当時の竪琴の弦のことらしいんだけと、12種類の高さの音(※1オクターブってこと)があれば何でもできるって。気付いてみると、ギターは六本、ベースは4本、管楽器が2本、、足したら12じゃないか!みたいな。この4人がいれば何でもできるよね、ってキャッチフレーズにつながったりしてちょっと嬉しかったりとかね。

T:形には?

武田:バンド始めてもう四年だけど。3年間は、年に2回ぐらいしかライブやらなかったのね。今年に入ってちゃんとやろうよって、ライブをまめにするようになって、やっと、アルバムっていうのを録ったんですよ。2日がかりで。たった2日で21曲(笑)。全て一発でバーン!って録ったんだけど。今回は素晴らしい出会いがあったんですよ。最初友人のスタジオで録ってもらうべく相談に行ったら、佳いエンジニアを知ってるからって言われて、それがたまたまずっと憧れてた人だったの。10年余り前に亡くなった人で篠田さんっていうSaxの人が居てね、僕大好きなんだけど、ジャガタラとかコンポステラとか東京チンドンとか、面白い音楽をいっぱい創ってた人で。で、その人のアルバムをプロデュースしてた人なの。藤井暁さん。録ってもらったんですよ、その人に。有り難くも面白かったのが、僕ちゃんとお礼、お金払わなきゃと思ってたんだけど「どうしてお金払おうとするの?」って。「暮らしていけるだけ稼げば後の時間は自分の為に使うの。数日働けば充分だからあとは全部自分の為の時間。ここに居るのも自分の楽しみだから。だってどうせお金持ってないでしょ?」って。でもってね、「演劇の連中なんかすごいよ。参加させてあげるから○○万負担願います、とか言うんだよ」とか言うわけ。でも僕は小心者だから払いましたけどね、できるだけは。それでね、インストのバンドなんだけど歌モノも入れてみようかって、鈴木雄大さんに歌ってもらって。もう一曲いかにも女の子に歌って欲しいよねっていう曲ができたから。りあんさんっていう子に歌ってもらってるんだけど、これがまたノドカでよくってね。

T:今後の予定は?

武田:11/2がね、六本木のスリーパーズカフェ、11/10は立川のジェシージェームズ、そして11/28は、これはワンマンで中目黒の楽屋さん。ここはとっても料理がおいしくてね、居心地もいい、響きもいいお店。カレーがうまいんですよ。そこでね、今、み月に一回ぐらいワンマン続けてるんですけど、ぜひ皆さんに来ていただかないと困る。本当に困る!! あとは野となれ山となれって、CDが出たら自分の車4人乗りで全国に旅に出なきゃと思ったり。そうこうしているうちに、ライブだけじゃなくて、音だけでも一人歩きして、ソコカシコで聞けるようなことになると嬉しいなと思ったり。でね、アルバムも音だけじゃなくて、こんな絵どうよっとかね、ジャケットあるいはそれだけじゃなくて、中に動く絵をつけたいって言ってくれる人、きっといると思うのね。それで一緒に面白がれてね。で、受け止める人もそれを面白がってくれるようなことに繋がっていくと嬉しいなと思って。そう、ドデカコルドンってね、音を聴いてくれると、みんな基本的にノドカな気持ちになってくれると思うんです。メンバーみんなで書いてる。それぞれに色んな曲書いてくるんだけど、うん、どうなんだろう、色んなテーマで書いてくるんだけど、結局ね、みんな家族のために書いてるんだよね。バンドマン暮らししててさ、なかなかね、家庭を普通に、サラリーマンのように構えない。あ、それって間違い。普通に家に夕方に帰れる人のようには構えないんだよね。帰れないサラリーマンも沢山居るもんね。で、カミさんも子供もね、ゆっくりかまってやりたいんだけど、毎日、なかなかそうはできないんだな。なんだけどね、聴いて欲しいなって思って書いてたりするのね。だから、う〜む、究極はね、うちの家族が街角で聞いてホッとしてくれるようなものになるといいよなって。とっても個人的なところに、このバンドの動機って帰ってきちゃうんだな。でもね、そうするとね、街角で聞いてくれる人も、ちょっとそういう気持ちになってくれるかなって思うんです。
(後日談:なんだか幼少時の話ばかりで、一番美味しいプロになってからの話が非常に薄いなぁ。是非ライブに来て直接僕にインタビューしてやってください >読んでくれた皆さんへ。)

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