YANCY (PART1)

KOTEZ&YANCYでは、数多くの感動的なライブパフォーマンスを展開。ソロとしても、クレイジーフィンガーズとしても、CD&DVDをリリースしたばかりのピアノマンでシンガーソングライターのYANCYさん、ロングインタビューです。そのPART1。

(2006年8月11日/momentにて/インタビュアー:TERA@moment



 YANCY・ロングインタビュー

旅をつづけるシンガーソングライター、ピアニスト。沖縄生まれ、東京、岐阜、兵庫と転々として育つ。11/12生まれ。O型。
シンガーソングライターとしての活動と並行して様々なアーティストのレコーディングやライブサポートに参加。またアレンジャーやサウンドプロデューサーとしても評価されておりレコーディング作品も多数。
ルーツミュージックのフィールドでは、DrJohnやオル・ダラのフロントアクトを務め、Otis RushやBuddy Guyとも共演。
近年はハーモニカ・ボーカルのKotezとのユニット『kotez&yancy』やj-popシーンを代表する5人のピアニストによる、
ロックピアノプロジェクト『CRAZY FINGERS』で活躍する一方、自らの音楽的ルーツである70年代のS・S・W
(シンガーソングライター)を強く感じさせる作風でビンテージ楽器と録音機器を揃えた自宅スタジオ『SUNNY PLACE』にて、
自らの作品や様々なアーティストの録音も手掛けている。

好きなミュージシャン → エリック・カズ、ニッキー・ホプキンス、ランディー・ニューマン、ニーナ・シモン、はっぴいえんど、細野晴臣、ドクタージョン


100回って毎週ですからね。月4回か5回じゃないですか?1年に50回ぐらいですから毎週やって。最初お客さん、2人とか3人だったんですよ。お客さんいないとこでもハイテンションにライヴやってたんですけど、だんだん人が増えてきて、レコード会社の人も見に来るようになって、どんどん盛り上がってお店も人が入り切らないほどになって。CDデビューの話もきて、CD出して。


TERA(以下:T)::まず、生まれた場所を教えていただけますか?

ヤンシー:生まれた場所は那覇です。

T:ご兄弟は。

ヤンシー:3人ですね。兄と妹で、僕は真ん中ですね。いわゆる真ん中です。自由気ままに。兄は、わりとしっかりやってて、真ん中はもう好き勝手に。

T:一番幼い時の記憶って、何がありますか?

ヤンシー:親父が公務員だったんで、いろんなところに転勤したんですよ。だから田舎に暮らしたことも多くて、そういう田舎暮らしというか、自然の中で遊んだ記憶が強いですね。

T:幼稚園の頃は、どんな感じのお子さんだったんですか?

ヤンシー:幼稚園の時。まあ、いつも笑ってましたね(笑)。ノーテンキでしたね。楽しくて。

T:(笑)。小学校入ると、よく遊んだことは?

ヤンシー:小学校はちょうどテレコが流行ってですね、エア・チェックならぬ、テレビ・チェックみたいな。テレビで歌番組やってると、接続するコードとかないですから、テレコについてるマイクで録音。そういうのやってましたね。家の人に「静かにしてくれ」っていって、テレビの前で、その曲が始まる時に、ボタンを押して録るっていう、それが小学校時代ですね。兄貴とは六つ離れてるので、兄貴がすごい音楽好きで、小学校の頃はもう家にいろいろレコードがあったんですよ。ビージーズだったり、カーペンダーズとかビリー・ジョエルとか、アース・ウィンド&ファイヤーとかその辺、いろんなレコードがあって、小学生にしては、けっこうマセた音楽聴いてましたね。

T:その録るテレビ番組って、どんな?

ヤンシー:録るテレビ番組は、あんまり覚えてないですけど、ピンク・レディーとか、録ってましたね。当時三軒茶屋のレコード屋に行ってですね、何を買いに行ったのかな。え〜と、沢田研二のEP盤、買いに行ったんですよ。小学1年生か2年生ぐらいで。で、お小遣いためて、小銭持って、買いに行ったら、ちょうどそれが売り切れだって、レコード屋の親父にいわれて、その親父さんがこれがいいぞって薦めてきたヤツがあったんですけど、それが『あのねのね』だったんです(笑)。で、あのねのねのEP盤を買って、持って帰って、家に帰って針を落とした瞬間に、人生で初めて、だまされたなという(笑)。一生懸命ためたお金をどうしてくれるんだっていう、その世の中は厳しいなっていう、それが多分最初の挫折みたい(笑)。

T:あのねのねの、どういう?

ヤンシー:曲は覚えてないんですけど、お笑いでした。途中も、曲になってはいるんですけど、確かね、だじゃれをいったりとか、そういうEPだった記憶があります。

T:その後、自分で買ったレコードって、どういうジャンルだったんですか?

ヤンシー:洋楽とかは聴いてましたね。TOTOとか。ジャーニーとか聴き始めましたね。小学校高学年になってくると。ビリー・ジョエルがすごい好きで、そこからピアニストを意識しはじめて。まあ、当時はなろうと思ってないですけど、クラシックのピアノ、習ってて、それで小学校5年生くらいからは、見よう見まねでビリー・ジョエルのまねとか始めて、それで弾き語りやってみたりとかしてて、中学校ぐらいからはもうバンドのまねごとで音楽室こもってやってましたね。


T:MTVの時期っていうのは?

ヤンシー:中学から高校とかじゃないですかね、全盛は。

T:中学はピアノは?

ヤンシー:そうですね、弾いてました。

T:他に何か活動的なものっていうのは?

ヤンシー:他はいろいろ……卓球部やってましたね。卓球部ですよ。体育館で素振り。テニスもやってたんですけど卓球もやってましたね。なんで卓球部に入ったんだか、いまだに自分でもよくわからないんですけどね。、今は結構、卓球もいいですけど、その頃の卓球ってのはイメージが暗いんですよ、すごく。ユニフォームもはっきり言って変で(笑)。でも意外にはまってしまって、やってましたね。
T:大会とか?

ヤンシー:大会とかは出ませんでしたね。弱かったですね、全然(笑)。テニスとかもやってたのに、何故か卓球も好きっていう、そんな感じですね。で、音楽もやって。でもなんだろう、おとなしかったですね、中学校の頃は。みんなにちょろっと聴いてもらったりもしてたけど、ミュージシャンになろうという意識なんか全然なかったし。ただ好きで、弾いてみたいとか、演奏してみたいという気持ちはありましたけど。

T:じゃあまだオリジナルとかそういうことは。

ヤンシー:全然作ってないですね。カヴァーばっかり。自分が憧れたアーティストのまねをしてました。

T:で、高校に入ると、流れは変わってきました?

ヤンシー:そうですね、高校に入って、兵庫の中学を卒業して、また三宿に戻ったんですよ。

T:激しいですね。

ヤンシー:ええ。激しく戻ったんですけど、その頃は兵庫の中学校とかってすごい厳しくて、丸刈りなんですよ、全員。で、髪の毛が指から出てはいけないみたいな。靴下ワンポイント禁止みたいな、そんな頃で、ほとんど今から思えば虐待みたいなものですよ(笑)。そんなところから東京の高校に入るわけですよ。そしたら全然違ってて、東京はもうみんな自由だったし、みんな大人びてる。服装も。一応制服はあったんですけど、私服も全然OKで、私服の感覚も、兵庫の中学生から見たら、おしゃれで、そんな中にまたいきなり引き戻されて、丸刈りのまま音楽やって。まず軽音楽部に入って、バンド作ったりとかして、いわゆる学園祭で弾いたりとかしてました。高校の途中でブルース・ブラザースの映画を見るんです。テレビでやってて。多分それはリアル・タイムじゃないと思うんですけど、再放送かもしれないんですけど、それでブルース・ピアノっていうのと出会ったんですよね。


T:なるほど。

ヤンシー:ええ。そこからブルース・ピアノを聴いて、愕然としちゃって、かっこいいなこれはと思って。それでタワーレコードに買いに行って、当時レコードとCDと同時に売られている時代だったんです。で、CDはまだブルースはそんなになくて、レコードのコーナーに行ったら、アトランティックのブルース・ピアノっていう、すごい名盤なんですけどそれが置いてあって、買って帰って聴いたんですけど、どれもけっこう難しくて、すぐにはまねできないんですよ。でもその中でジミー・ヤンシーっていう人の曲があって、確か2曲ぐらい入ってたんですけど、それがすごくシンプルで、わりとすぐにマネができたんですね。それを一生懸命マネして、弾いたりしてたんです。で、そのまま大学受験して、大学に行くんですけど、本当は音大に行きたかったんです。親父が絶対ダメだって言ったんで、普通の大学に入って、音楽サークルに入りました。そこで例のジミー・ヤンシーとか弾いたんですね。ジミー・ヤンシーって言ってみればマニアックなんですよ。そしたらそういうのに反応する人がいて(笑)、他の大学とかからも、ジミー・ヤンシーみたいなヤツがいるぞみたいに。で、うちのバンドに入ってくれみたいなそんな誘いが来たりとか、その大学のサークルの中でも、おまえは変わってるみたいな感じでかわいがってもらって。

T:そこから名前が来てるんですね。

ヤンシー:そして、その大学に黒人音楽に詳しい人がいっぱいいて、ものすごく大人びていたんですよね。すごい情報を持ってたし、聞く耳も持ってたし、レコードもすごいいろんなところから集めてきて、アメリカまで買い付けにいってる人もいたし、なんかそういう人達に囲まれて、そういうブラック・ミュージックにどんどんはまって、それでやってくうちにどんどんブルースから古いスイング・ジャズとか、あとストライド・ピアノっていう、古いラグ・タイムのピアノとかルーツ音楽ですね、そういうのにどっぷりはまってしまって。だから大学入った頃の4〜5年間は、一切ロックやポップスから遠ざかってるんですよ。その間僕の中ではけっこう空白の時期で、ただその4、5年間にものすごい量のブラック・ミュージックとかジャズを聴いたし研究したしすごくいい時期だったと思いますけどね。

T:もう東京に?


ヤンシー:そうですね。高校からはずっと東京です。

T:オリジナルみたいなものっていうのは。

ヤンシー:それはけっこう後なんですよね。その後、その頃どうしてもピアニストになりたくて、いろんなジャズのピアニストの人とか、高円寺に次郎吉というライヴハウスがあるんですけど、次郎吉に出てるミュージシャンとか、そういう人のライヴをよく見に行ってたし、相談したりしたんですよ。どうしてもピアニストになりたいっていう話をしたら、やり続ければなれるよって言ってくれる人がいて、やまもとつよしさんていうジャズのピアニストも相談した一人なんですけど、彼なんかは「30才過ぎたらいい音が出るから」って。今はきっとやってもやっても満足しないだろうけどって言われました、本当にピアニストになりたくて、でも普通の大学にいたので、どうしようかなと思って。とりあえず1年間休学したんですよ。休学して、アメリカに行こうと思って。で、アメリカに行ったんですけど、何故か何も調べずに行く日になって、あ、今日行く日だって。で、アメリカにオープン・チケットで行っちゃったんですよ。それで着いたら、サンフランシスコに着いちゃって(笑)、何故か西海岸に。

T:(笑)

ヤンシー:多分今だったらよくわかりますけどね、ジャズとかブルースやるんだったらシカゴかニューオリンズとかに行けばよかったんでしょうけど、何故かサンフランシスコに行っちゃって。で、全然ブルースのクラブとかもなくて、最初は一ヶ月間くらいずっとそういう音楽やってるとこ探しまわってたんですけど、ある時タクシーに乗ったんですよ。サンフランシスコを歩いてて。で、タクシーに乗って、タクシーの運転手が、おまえ何やってんのとかいわれて、ジャズの古いピアノが弾きたいって言ったら、俺は知ってるぞって連れてってくれたんですよ。。そしたらそこにマイク・リプスキンていう白人のピアニストが、僕がずっと探し求めてた、ジャズの古いストライド・ピアノっていうのを、ガンガン弾いてたんですよ。普通のレストランみたいなとこでしたね。彼はそこで、週何回か弾いていて、『教えてくれって』頼んだんですけど、こういうのは教える音楽じゃないって言われて。でもおまえはいつでもここに来ていいよって言ってくれたんです。それからいつもそこに行って、横でずっと彼が弾くのを見せてもらったりとかしてました。

T:アメリカは結局どのくらい?

ヤンシー:3ヶ月ですよ、ビザなしですから。だから戻って来ても、結局休学しちゃってますから、暇な訳ですよ。その頃からちょこちょこっとジャズクラブみたいなとこで出させてもらえるようになって弾いたりとかし始めて。

T:それは仕事にはまだなってない?

ヤンシー:全然ならないですね、まだまだね。数が少なかったですし、なかなかそこまで、みんなに聴いてもらえるほどは弾けなかったでしょうし。その後大学も卒業して、就職しないでそのままピアニストになろうと本気で思って、バイトしながら過ごしてくんですけど、その頃からロック関係とかポップス関係の人からも声かけられるようになって。最初はピアノばっかり弾いてたんですけど、中高生の頃やってたことを思い出したら、エレクトリック・ピアノとかオルガンも弾き始めて、やり始めたらものすごく面白くなっちゃって、それと同時にいろんな人から声かけられてちょうどタイミングが合って。いろんなとこでオルガン弾いたり、エレクトリック・ピアノ弾いたりとか、いわゆるロックとかポップスのフィールドの仕事っていうのが、少しずつ増えて来たんですよね。

T:卒業してからどのくらい?

ヤンシー:卒業してからね、そうですね、2年ぐらい経ってたかな。26とか、それぐらいでしたね。その頃まだバイトしてましたね。バイトしながらやって、その頃はまだ自分の曲は書いてないんですよ。ロックやポップスものはやってましたけど。ブルースやニューオリンズのピアノも弾いてて。それからある時ギタリストの山岸潤二さん(今はニュー・オリンズに行って、活躍されてるんですけど)が、自由が丘のマルディグラに遊びに来てくれて、ニューオリンズのミュージシャン、みんな連れて来てくれたんですよ。ツアー中だったみたいで。

T:へえ〜。

ヤンシー:そこでセッション大会になって、すごく盛り上がって、僕の中でもその時の印象がすごくて、今までニューオリンズのピアノとかもすごい大好きで、研究してきたつもりだったんですけど、やっぱり本物を見たら全然違ってて、何が違うかっていうと、音楽のスケール感みたいなもの、あと、迫力ですよね。グルーヴも全然違ったし。だからロックやポップスの仕事も始めてたんですけど、もう一回ルーツ・ミュージックに引き戻されて。どうしても本場に行きたい気持ちが大きくなって、それで牛乳配達やったんですよ(笑)。牛乳配達やって渡航費ためて、それでニューオリンズ行ったんですね。で、ニューオリンズに、3ヶ月を2回行ったんです。向こうで本場の音楽見て、ニューオリンズ音楽の大きさとか、そういうものをすごく体感して、で、自分も弾ける時は弾かせてもらって。

T:3ヶ月を2回というのは、わりと連続して?

ヤンシー:いや、2年間ですね、2年間に分けて行きましたね。だから1回行って戻って来たんですけど、まだ足りなくて(笑)。で、2回目行って満足して。戻ってから、ルーツ・ミュージックをやりながら、ロックやポップスの人から呼ばれれば、そっちの方面でも弾いたりしてました。だから28くらいまではバイトと音楽、両方やってて音楽だけでは生活できなかったですね。

T:それが変わる転機みたいなものっていうのは?

ヤンシー:そうですね。ひとり暮らしをちゃんとしようと思って、横浜の古い農家のところの一軒家を借りて、そこに住み始めたんですけど、そっちに移ってから仕事が増えた感じがしますね。いろんな人から呼ばれるようになったというか。なんかのんびりしたすごくスロー・ライフなとこなんですけど、そっちに移ってからの方が、多分僕の音楽と環境が合ったんでしょうね、だから三宿も池尻もいいとこでしたけど、ごみごみしてたし、人がイライラしてるのも嫌だったし、そういう場所だととんがった音楽ばっかり作ろうとしちゃうんですよね。だからブルースとかやってても、みんなをアッと言わせたいとか、ブルースを新しく解釈したいとかそういうことばっか、考えてたんです。でも横浜に移ってからはそうではなく、もっとゆっくりした時間の流れの中で、もともと好きだった音楽が見えてきたんですね。自然体に戻れたから誘われる機会がすごく増えたんです。レコーディングで弾いてほしいとか、ライヴ・ツアーに行くけど一緒に行かない?とか。

T:何年ぐらい前ですか。

ヤンシー:それがだから、8年ぐらいですね。90年代後半ですね。

T:90年代後半は、どんなアーティストと?

ヤンシー:90年代後半は、そうですね、最初に一緒にツアー回ったのは、ホフ・ディランのワタナベイビー。彼のツアーで弾きました。同じ頃バンバンバザールも一緒にやってて。でも常にブラック・ミュージックも並行してやってて、コテツ&ヤンシーもその頃なんですよね。できたのが。

T:できるきっかけは?

ヤンシー:コテツ&ヤンシーは、ずばり経費削減(笑)。で、90年代終わりとかって、経済が破綻した頃ですよ。どんどん景気も悪くなるし、5人、6人でライヴやっても、お金にならないわけですよ。その頃、荻窪にルースターっていうライヴハウスがオープンして、オーナーがブルースとか、ルーツ・ミュージックをお店のカラーにしたいということだったんで、コテツくんが呼ばれて、毎週やらないかって話になって。コテツくんが僕を呼んで、「じゃあもう二人でやろう」って始めたのが、コテツ&ヤンシーですね。今までバンドでやってたことを二人でやろうとすると、いろんなこと考えて、いろんな実験させてもらって。毎週ですから、ものにすごい数のライヴをやりました。

T:ですね。

ヤンシー:結局ルースターでは100回までライヴやって、一番盛り上がってる時に、辞めようって言って。そこは100回でひと区切りにしたかったので。でも二人でやることによっていろんな発見になりましたね。最初はリズムを、ドラムみたいに出そうとか、ベース・ラインを必ず左手で弾いてとか、やってたんですが、いろいろやってくうちに、あることに気づいて。それはリズムとかはこっちがいいリズムを出せば、お客さんが頭の中で、自然に数え始めるんですよ。だからベース・ラインも常に弾いている必要はなくて。で、そのお客さんが数えてるリズムと、こっちが弾いてるリズムがピタッとリンクするんです。そうすると、ドラムもベースもいなくても、リズムがはっきりと見えるんですよね。で、僕がリズムが見えてる時っていうのは、お客さんにも見えてるんですよ。それに気づいてからは、コテツ&ヤンシーはすごくタフになった感じがします。それまではすごい試行錯誤して、いろんなこと試したり、自分でリズムを出さなきゃ、出さなきゃという気持ちで、空中分解しちゃったりそういうことがあったんですけどね。

T:100回までって、どのくらいかかるもんなんですか。


ヤンシー:100回って毎週ですからね。月4回か5回じゃないですか?、1年に50回ぐらいですから、4年ぐらいですか?、毎週やって。最初お客さん、2人とか3人だったんですよ。全然お客さんいないとこでもすごくハイテンションにライヴやってたんですけど、それがだんだん人が増えてきて、レコード会社の人も見に来るようになって、どんどん盛り上がってきてお店も人が入り切らないほど入るようになって。CDデビューの話もきて、CD出して、日比谷の野音で、ジャパン・ブルース・カーニバルに2年連続で出たんですけど、そんなこともあって、さらに盛り上がって。


T:なるほど。この辺りでPART1の終わりです。次回PART2も宜しくお願いいたします。


ヤンシー:宜しくお願いします。


PART2へ続く>>>>>



YANCY さんの詳しいインフォメーションに関しましては、
YANCY オフィシャルHP(http://yancy.main.jp/source/frame.htm)まで。